さて
吾妻鏡の不自然な点にて挙げた
②大庭景親の逃走の件が不自然 について書いていきたいと存じます。
さて、「吾妻鏡」の治承四年十月十八日条に次のような一文があります。
「大庭三郎景親、平家の陣に加わらんがために、一千騎を伴ひて発向せんと欲するのところ、
前武衛、二十萬騎の精兵を引率して、足柄を越えたもふの間、景親前途を失ひて、河村山に逃亡す
と云々(以下略)」
(新人物往来社 「全譯 吾妻鏡(一)」より引用)
現代文に意訳しますと
「大庭三郎景親は、(駿河にいる)平家の陣に加わるために、一千騎を率いて駿河に
向かおうとしましたが、その時には
頼朝が二万騎の軍勢を引き連れて、足柄山を越えようとしています。
そのため景親は前に(駿河方面に)向かうことができなくなり
河村山(現在の神奈川県北西部)に逃亡しました」
となります。
さて、ここに出てくる地名の場所を地図に書いてみましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/64/180a84c3ed2535672d754c3a21647ef1.png)
地図をみるとこの「吾妻鏡」の記載は明らかにおかしいことがわかります。
特に吾妻鏡の頼朝の行動を追ってみるとさらに矛盾点が浮き出てきます。
10/16 頼朝鎌倉を出て相模国府付近に入る
10/18 頼朝が足柄山に入っているので大庭景親は河村山に引き返す
大庭は鎌倉のすぐ西といってもいい地域ですし
頼朝が鎌倉から国府へ向かう場合、
大庭氏の所領の位置はどうみても頼朝の進路かその近くに存在していたことになります。
10/16に頼朝は
大庭を素通りして相模国府に入り
その後10/18までには足柄山を通り
10/18駿河に行こうとした景親が頼朝に前途を阻まれて引き返す。
ということになります。
頼朝は大軍を率いているのですから
一部を割いて石橋山で敵対した(しかも大将)大庭討伐をするのが普通だと思いますし、
(10/17には波多野を征伐しています)
大庭の方も目と鼻の先にいる頼朝が大軍で兵数的にかなわないとわかった時点で
その大軍に行く手を阻まれる前に、駿河に向かうのが軍事的にもっとも正しい判断だと思います。
(鎌倉と大庭の距離を考えると情報が入らないほうがおかしいと思います。)
あきらかに
上記のような「吾妻鏡」の記載は矛盾しています。
さて、その「吾妻鏡」の記載の矛盾を解く鍵が「延慶本平家物語」第二末『畠山兵衛佐殿ヘ参ル事』にあります。
その中に
「大庭三郎此次第ヲ聞テ、叶ワジト思テ、平家ノ迎ニ上リレルガ、
足柄ヲ越テ、藍沢宿ニ付キタリケルガ、前ニハ甲斐源氏二万余騎ニテ、駿河国ヘ越ニケリ。
兵衛佐ノ勢、雲霞ニテ責集ト聞ヘレバ、中ニ取籠ラレテハ叶ワジトテ、鎧ノ一ノ板切落シテ、
二所権現ニ献リテ、相模国ヘ引帰テ、ヲクノ山ヘ逃籠リタリ」
(「延慶本平家物語」本文編上 勉誠社より引用)
訳しますと
「(武蔵相模の兵がことごとく頼朝に付いたことがその前の文章にかかれています)
大庭三郎(景親)はこの事を聞いて、とても叶わないと思って
平家の軍を迎えに東海道を西に上ろうとしますが
足柄を越えて藍沢宿に付いたところ、前途には甲斐源氏が二万余騎で駿河の国に既に入ってきていました。
一方兵衛佐(源頼朝)の軍勢は雲霞の如く集まっているということで
甲斐源氏と頼朝の軍勢の中に取り囲まれてしまったのでこれは叶わないと思って
鎧の一の板を引きちぎって二所権現にそれを奉納して、相模国に戻って奥の山に逃げ込みました」
となります。
つまり、「延慶本平家物語」によると
駿河に行こうとした大庭景親は、前には駿河を占拠した甲斐源氏に行く手を阻まれ
後ろからは頼朝が勢力を張っている。
このような状態ではどうにもならないから相模の山奥にへ逃げ込んだ。
ということになります。
「吾妻鏡」の頼朝が大庭を素通り→足柄山で通せんぼしたため
大庭が山奥(河村)へ逃げ込んだという記載よりははるかに整合性があります。
状況を考えてみても、
10月中旬に
甲斐源氏一党によって駿河目代が撃退されるまでは
相模中部に勢力を張る大庭氏にとって東海道を西に行くのに邪魔になる勢力
というものはありませんでした。
頼朝を担いでいた西相、伊豆勢力はこの時点ではまだ壊滅状態です。
それより西の駿河目代勢力は明らかに親平家勢力です。
そして追討使が坂東に来るのも時間の問題という状況でした。
つまり、甲斐源氏によって駿河国衙勢力が壊滅させられ
駿河を甲斐源氏に占拠されるという状況が起きなければ大庭景親は
追討使を相模で待っていることができたのです。
甲斐源氏が駿河目代を討ち取り、駿河を占拠するということは
それこそ大庭景親にとっては「想定外」の出来事だったでしょう。
それゆえに、駿河目代勢力の健在を信じていた大庭景親は
相模国で頼朝勢力と甲斐源氏に挟撃されるという
「予想外の展開」に追い込まれたのではないでしょうか?
さてここで、史料の信頼性が問題になると思います。
確かに「延慶本平家物語」は「軍記物」でフィクションの多い史料ではありますが
実は「吾妻鏡」の一部も「平家物語」の「原本」(これにも多少のフィクションが含まれているそうです)
を編纂時の素材として使用しているそうですので
こと「合戦部分」に関しましては「吾妻鏡」も「平家物語」も
信頼性はどっこいどっこいであるとのことなのです。
そして、「吾妻鏡」は鎌倉政権にとって都合よく書き換えられていることもままある
という可能性を考えますと
この大庭景親逃亡のいきさつに関しましては「吾妻鏡」よりも「延慶本平家物語」の方に信頼性があると断ぜざるを得ないでしょう。
つまり、
大庭景親は甲斐源氏と頼朝勢力に挟まれたため相模の山奥に逃亡せざるを得なくなったと考えるべきです。
さて、なぜ「吾妻鏡」は頼朝の行動に不自然なものを残してまで
大庭景親の逃亡を頼朝軍の功績にしたのでしょうか。
それは、前回でも書いたとおり「吾妻鏡」の
富士川前後における「甲斐源氏」の功績の過小化に尽きると思います。
頼朝が駿河に入る前に、甲斐源氏が駿河を占拠し
それが石橋山の敵将大庭景親を追い詰める一因となり
さらには、富士川での追討軍撤退の要因の一つに
甲斐源氏が先に駿河を占拠していたことがあるという事実は
(ひいては、富士川の合戦の源氏側の主力は甲斐源氏であったという可能性)
「頼朝の正当性」という観点からは
「吾妻鏡」にとって極めて都合の悪いものであったと思われます。
それがゆえに敵将目前通過という頼朝の不自然な行動が「吾妻鏡」の中に記載されるに至ったと思われます。
地図は
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