時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(百二十七)

2007-04-29 22:38:33 | 蒲殿春秋
範頼がかつての住まいにて感傷に浸っている間にも、歴史は確実に動いていた。

範頼が甲斐を出る以前━平家が撤退した直後
黄瀬川の陣にて甲斐源氏一団と頼朝は邂逅を果たした。
そして、今後の協力を約し別れた。
甲斐源氏の一団はそれ以前に頼朝の陣に来着していた加賀美遠光の次男加賀美長清を
頼朝の陣に残して西へ去っていった。

甲斐源氏と行動を共にしていた伊豆の諸豪族は甲斐源氏が去った後の黄瀬川の陣において、石橋山以後の甲斐源氏に加わって行なった戦闘について詳しい報告を頼朝に対して行なった。
そして、彼らは頼朝への忠誠を誓い、伊豆の自分の領地へ戻った。
加藤太光員・加藤次景簾兄弟、天野遠景らは
それ以前には甲斐源氏にも忠誠を誓い、甲斐源氏からも戦の手柄を認定され
伊豆における領地の所有その他の権利を武田信義らからの保障を得ていた。
だが、その後改めて頼朝に忠誠を誓ったからといって甲斐源氏との間の主従関係が反故になったわけではない。

伊豆の豪族達の多くは
頼朝と甲斐源氏双方からそれぞれに領地の認定をしてもらうようになる。
裏を返せば、伊豆の豪族達は頼朝と甲斐源氏双方を主として戴いていることになる。
彼らにも言い分はある。
頼朝と甲斐源氏の土地所有の認定が違った場合厄介なことになるのである。
安全を期するためにも双方の安堵状を得ておくのが得策なのである。
伊豆はこの時点では、頼朝と甲斐源氏双方の影響を受けることになる。

一連の戦いで最大の躍進を果たした伊豆の豪族は北条時政である。
甲斐源氏の力を背後にちらつかせて駿河の豪族に甲斐源氏への協力を呼びかけて以来
駿河住人の各氏に甲斐源氏とのつながりをもとに影響力を与えるようになるようになる。
さらに、婿の源頼朝はその後坂東にて勢威を誇ることになる。
時政は甲斐源氏、源頼朝双方に強大な人脈を持つことになるのである。
以前から北条時政と親交があり、時政がかつて大いにその力にすがっていた
駿河国住人大岡宗親も
伊豆在庁官人の端くれの北条氏の傍流に過ぎなかった時政を改めて見直すことになる。
その宗親には年頃の娘がいる。
時政は妻を既に亡くしている。
年若い娘を年の離れた時政に縁づけることを宗親は考えるようになるのだがそれは暫く先の話。
この富士川の戦いの後、四十を過ぎた時政に新しい人生が開けようとしていた。

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私の勘違いー地図はやっぱり重要

2007-04-21 10:20:56 | 源平時代に関するたわごと
ここのところ更新が滞ってしまいました。
前回小説もどきの続きをやっと書きはじめたばかりなのですが
ちょっと休憩して、久々にたわごとを書かせて頂きます。

恥ずかしながら私は
「黄瀬川の宿」は「富士川」の近くにあるものだと
ずっーと思っていました。

その理由の最大のものは「私の勘違い」と「地図を見なかったこと」にありますが
そのように勘違いするにいたった要因は

頼朝が「富士川の合戦」の直後に「黄瀬川の宿にて弟義経」と対面。

という頼朝義経兄弟に関するこの時代の有名なシーンが
富士川の戦いと連続して語られているということにあったように思えます。

小説や大河ドラマでは、よくみると
頼朝は賀島と黄瀬川の間を移動している部分が描かれているのですが
見ているはずの私はそこを見事にスルーしていて
私の脳内では富士川と黄瀬川は連続した存在となっていてしまっていたのです。

今回富士川のことについて色々と調べるために地図を覗いてみると
黄瀬川と富士川の位置関係をはじめとして
地図によって色々な自分の勘違いがわかってきました。

歴史を調べるには
「年表」と「系図」が必要だと永井路子さんはおっしゃっていましたが
私は「地図」も重要であると思います。
(本当は現地へ行くのが一番なのでしょうが・・・)

ただし、八百年前と地形や人口、建造物の違い等
時間の経過によって変化する要因多々ありますので
現在の地図を信じる危険性もあるということも承知する必要があるかも知れない
とも思っています。

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蒲殿春秋(百二十六)

2007-04-15 22:03:25 | 蒲殿春秋
富士川から撤退する追討軍の後を追うような形で安田義定率いる甲斐源氏の一団は
西を目指して進撃した。
彼らは瞬く間に天竜川を越えて遠江に入り
労せずして遠江国衙を手中に収めた。

西へ行く一団の中には急遽甲斐から召集された
蒲冠者源範頼の姿があった。
安田義定から借り受けた甲冑一式を身にまとい
これもまた借り受けた郎党を従えていた。
範頼は甲斐名産の黒毛の名馬にまたがっていた。
傍らには源氏の象徴の白旗がはためいている。
まさにこれが範頼二十九歳の初陣である。

遠江国衙勢力、親平家勢力に警戒してここまで進撃してきた。
しかし、小競り合いや逃げ遅れた追討軍との接触はあったものの
大きな戦闘はなく無人の野を行くがごとき進撃であった。

国衙に入ると、義定は反平家の呼びかけに応じた遠江豪族と面会をした。
事前の文書による諸豪族への呼びかけは大きく効を奏していた。
長いこと平家の知行国であった遠江ではあったが
意外と反平家の勢力も強かった。
国衙に集まった面々を見ると、以前範頼が国衙に逆らって以来
範頼と交流を重ねた人々の顔も見える。
また、幼時共に遊んだものも何人かいる。
彼らの動向にも範頼の存在はやはり影響があったのであろう。
安田義定がしきりに範頼を同行させたがっていた訳も納得できた。

一方国内の親平家勢力は先の甲斐源氏の合戦の為に
駿河に多く者が動員されて
それに敗れ多く者が討ち取られたりしていたため
今のところなりを潜めているらしい。
だが、油断は禁物である。

遠江国の有力者と面会を済ませた安田義定は
「以仁王の令旨を戴いた源義定」として
義定を支持するものへの所領の安堵と敵対するものの所領の没収を開始した。
義定は甲斐から有能な文士を数名引き連れてきていた。

範頼は義定にしばしの暇をもらいかつての自分の住居を訪れた。
蒲御厨の下司職の姿はあたりには見えない。
追討軍撤退と甲斐源氏襲来の噂を聞いていずこかに消えたのか・・・

数ヶ月前、着のみ着のままでここから追い出された。
あの時は、身の危険を感じ、先行きに絶望していた。
しかし、今は遠江を支配することになった安田義定の保護の元にいる。
この数ヶ月の身の変転を思い、
出たときと少しも様子が違っていない
「我が家」でしばしの感慨に浸っていた。

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石橋山後の頼朝軍諸将の動向の各史料の比較

2007-04-14 04:24:19 | 蒲殿春秋解説

吾妻鏡と他の文献に出てくる、石橋山に関わった(後の)鎌倉御家人の動向の比較です。
この記事に関しましては、記載内容の列記のみにさせていただきます。

梶原景時

「吾妻鏡」
大庭景親が頼朝を追跡している最中に、頼朝の居場所を知っていながら
別の場所に景親を誘導

「源平闘諍録」
頼朝挙兵以前に何かの事件で一年ほど都に拘束されていた。
そこから脱出して安房から鎌倉へ向かう頼朝に合流。

「延慶本平家物語」
石橋山には一切登場しない

 

安達盛長

「吾妻鏡」
石橋山敗戦後安房に渡り、その後千葉常胤勧誘の使者となる

「源平闘諍録」
石橋山敗戦後安房へは行けず、伊豆山奥に隠れる。
頼朝が鎌倉に入った後合流。


加藤光員、加藤景簾兄弟

「吾妻鏡」
石橋山の後、この兄弟の父景員を伊豆山に送る。
その後「甲斐へ赴き」伊豆国府祓戸に到着したところ地元の人に襲撃され
兄弟別れ別れになる。
その翌日駿河大岡牧で再会、それから富士山麓へ引きこもる。
甲斐へ逃げていたの記載あり。なお「吾妻鏡」10月18日条には加藤景簾が甲斐源氏による駿河目代橘遠茂との戦いに参戦したことが記されている。

「延慶本 平家物語」
景簾は田代信綱と共に、伊豆三島宝殿に篭り、夜明けにそこを出て
後に、兄光員と再会して甲斐へ逃亡。


土屋宗遠

「吾妻鏡」
九月二十日 北条時政に続く使者として甲斐へ赴く。
九月二十四日 甲斐へ到着

「延慶本 平家物語」
北条時政が石橋山の直後甲斐へ行った事を頼朝は知らない
石橋山の情報を敗戦直後に甲斐源氏に伝えるべく土屋宗遠を甲斐へ派遣。
その道中で養子の義治に行き会う。

土肥遠平

「吾妻鏡」
八月二十八日
 頼朝は遠平の父実平と共に安房へ向かうが
 遠平はこのことを政子に伝える為安房へ向かう船には乗らない。

「延慶本 平家物語」
頼朝ら一行が安房へ向かう船に乗ろうとする際
少し出発を待つようにと遠平が引きとめる。
遠平の妻が伊東祐親の娘であるため
実平や岡崎義実は遠平の伊東への内通を疑い
即座に船を出発させる。
船を出した直後に伊東の軍勢が現れる。



安房へ船出のメンバー

「吾妻鏡」
八月二十七日
 北条時政・義時、岡崎義実、近藤国平ら(土肥岩浦から)
八月二十八日
 源頼朝、土肥実平(土肥真鶴崎から)

「延慶本 平家物語」
源頼朝、土肥実平・遠平(?)、岡崎義実ら計7人
遠平は船出前に伊東への内通を疑われたため船に同乗したかどうか不明。
なお、実平の妻から三浦が攻め込まれ彼らが安房に脱出したとの
連絡が入って、安房逃亡を決意した記載がある。

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吾妻鏡への疑問4ー北条時政は甲斐源氏を勧誘したのか

2007-04-07 23:47:32 | 蒲殿春秋解説
③石橋山以降の北条父子の行動が不自然。
予定ではもっと先に書くつもりでしたが、今日書くことにします。

まず、吾妻鏡での北条父子の行動を追いかけて見ましょう。

八月二十三日条
 石橋山の合戦開始、北条父子は頼朝の側にいる

八月二十四日条
 頼朝逃走する
 北条父子はぐれる、その後時政・義時は箱根湯坂を通って甲斐へ行こうとする
 嫡子北条宗時討ち取られる
 時政箱根山行実を連れて頼朝が隠れていた椙山の陣へ現れる
  
八月二十五日条
 頼朝らは箱根宮を出て真鶴を目指す
 「北条殿」は事の由を源氏の人々に知らせるために甲斐へ向かうが、
 途中で(?)思い直して安房へ行く決心をする

八月二十七日条
 北条時政・義時、岡崎義実、近藤七国平、安房に向けて出発
(頼朝らは翌日安房へ向かう)

九月一日条
 頼朝が上総介広常の元に向かうかどうかを「北条殿」らに相談

九月八日条
 「北条殿」甲斐国へ使節として頼朝の元より派遣させる

九月十五日条
 信濃を平定して甲斐に戻った甲斐源氏の元に「北条殿」到着

十月十三日条
 甲斐源氏とともに駿河へ侵攻

となっています。

この「吾妻鏡」の記載に従うと
北条殿は石橋山の混戦の中一時頼朝と離れる時間もありますが
最終的には一緒に安房に渡り
頼朝の「使者」として甲斐源氏の元に派遣されたことになります。

しかしそれ以前の記事に
石橋山敗戦後の混乱の中北条時政が甲斐へ行こうとしたという記載が
八月二十四日条、二十五日条にあります。(二十七日には安房へ向けで船出)
実際に時政が甲斐へ行ったとしたら
残党狩りの激しい中、二日間で箱根→甲斐→湯河原
というハイスピードで甲斐へ行って戻ってきたかのような不自然な行動ともとれる記載があります。
ただし、この場合は甲斐へ行こうとしたが実際には行けなかったと
解釈することも可能かもしれません。
しかしながら、石橋山敗戦の混乱中の二十四日、二十五日に両方に「甲斐」という単語が
やたら出てくるのは何かひっかかるものがあります。

さて、「吾妻鏡」のほかに石橋山後の北条父子の行動を記したものに
「延慶本平家物語」と「源平闘諍録」があります。

「延慶本平家物語」では
北条父子は石橋山で敗れた後山伝いに甲斐へ逃れます。
どこへも寄らず、頼朝と再会もしません。
そして、そのまま甲斐の人々と面会をします。

「源平闘諍録」においては
下総の千田親正を討つかどうかの詮議をする際に「北条四郎」が
発言している記載があります。

さて、まず北条時政が安房へ行ったのかどうかに関してですが
「源平闘諍記」を信じれば安房に行き、頼朝とともに房総を北上していたことになります。
しかし、「源平闘諍録」には北条時政が甲斐へ行った記載はありません。

「吾妻鏡」以外のの史料を二つ読むと
まず、北条父子が「安房へ本当に渡ったのかどうか」という点と
「甲斐へ行ったのか」という点が食い違います。

さて、この先は「吾妻鏡」と「延慶本平家物語」との差について考えてみたいと思います。
この二点は
北条父子が「甲斐」へ向かったということは共通しています。
異なる点は
北条父子が石橋山から直接甲斐へ向かったのか
一旦安房へ行ってから甲斐へ行ったのかということが問題になると思います。

このあたりに関しては「延慶本以前の平家物語」が「吾妻鏡」と「延慶本平家物語」の
元ネタになっていると考えてもよいのではと思います。

つまり、「吾妻鏡」の編者が
「北条父子は甲斐へ行った」という前提で筆をとっていると思われます。

そのように考えると「吾妻鏡」の編者の意図が見えてくるような気がします。

北条時政・義時は石橋山に敗れた後、頼朝とは会わないで直接甲斐へ向かったのが
「元ネタ」であったのではないのかと思います。
(あくまでも元ネタです。その元ネタが正確なものかどうかの判断は難しいところだと思います。)
しかし、それでは北条父子の立場が悪いものになります。

「吾妻鏡」は義仲も甲斐源氏も頼朝の意志によって挙兵したかのように書く傾向にありますが
その後の彼らの動向を見てみると決してそうではなく
木曽義仲も甲斐源氏も頼朝からは独立した一つの反平家勢力であることがわかります。

そして、「元ネタ」に北条父子は頼朝が一番大変だった時期に
吾妻鏡にとって「幕府設立の一番の功労者」でなければならない
北条時政が「甲斐源氏」の元に身を寄せていたと記載されていたならば
「吾妻鏡」編纂者からみればそれは非常にマズイ事態だったのではないのかと
思います。

そのような事情から、「吾妻鏡」における時政は
石橋山敗戦の苦難の中にある頼朝を助け共に安房に渡り
「頼朝の意向を伝える使者」として
頼朝が多少の勢力を得た後で威儀を正して「甲斐源氏」の元に
赴いたことにしなければならなかったのではないのか
と私は考えます。

さらに、そうすることによって「甲斐源氏」が頼朝の意向を尊重したというような
書き方ができるという効果も狙ったものだと思われます。

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吾妻鏡への疑問3ー大庭景親逃亡す

2007-04-03 16:30:28 | 蒲殿春秋解説
さて吾妻鏡の不自然な点にて挙げた
②大庭景親の逃走の件が不自然 について書いていきたいと存じます。

さて、「吾妻鏡」の治承四年十月十八日条に次のような一文があります。

「大庭三郎景親、平家の陣に加わらんがために、一千騎を伴ひて発向せんと欲するのところ、
前武衛、二十萬騎の精兵を引率して、足柄を越えたもふの間、景親前途を失ひて、河村山に逃亡す
と云々(以下略)」
(新人物往来社 「全譯 吾妻鏡(一)」より引用)

現代文に意訳しますと
「大庭三郎景親は、(駿河にいる)平家の陣に加わるために、一千騎を率いて駿河に
向かおうとしましたが、その時には
頼朝が二万騎の軍勢を引き連れて、足柄山を越えようとしています。
そのため景親は前に(駿河方面に)向かうことができなくなり
河村山(現在の神奈川県北西部)に逃亡しました」
となります。

さて、ここに出てくる地名の場所を地図に書いてみましょう。


地図をみるとこの「吾妻鏡」の記載は明らかにおかしいことがわかります。


特に吾妻鏡の頼朝の行動を追ってみるとさらに矛盾点が浮き出てきます。

10/16 頼朝鎌倉を出て相模国府付近に入る
10/18 頼朝が足柄山に入っているので大庭景親は河村山に引き返す

大庭は鎌倉のすぐ西といってもいい地域ですし
頼朝が鎌倉から国府へ向かう場合、
大庭氏の所領の位置はどうみても頼朝の進路かその近くに存在していたことになります。

10/16に頼朝は大庭を素通りして相模国府に入り
その後10/18までには足柄山を通り
10/18駿河に行こうとした景親が頼朝に前途を阻まれて引き返す。

ということになります。

頼朝は大軍を率いているのですから
一部を割いて石橋山で敵対した(しかも大将)大庭討伐をするのが普通だと思いますし、
(10/17には波多野を征伐しています)
大庭の方も目と鼻の先にいる頼朝が大軍で兵数的にかなわないとわかった時点で
その大軍に行く手を阻まれる前に、駿河に向かうのが軍事的にもっとも正しい判断だと思います。
(鎌倉と大庭の距離を考えると情報が入らないほうがおかしいと思います。)

あきらかに上記のような「吾妻鏡」の記載は矛盾しています

さて、その「吾妻鏡」の記載の矛盾を解く鍵が「延慶本平家物語」第二末『畠山兵衛佐殿ヘ参ル事』にあります。
その中に
「大庭三郎此次第ヲ聞テ、叶ワジト思テ、平家ノ迎ニ上リレルガ、
足柄ヲ越テ、藍沢宿ニ付キタリケルガ、前ニハ甲斐源氏二万余騎ニテ、駿河国ヘ越ニケリ。
兵衛佐ノ勢、雲霞ニテ責集ト聞ヘレバ、中ニ取籠ラレテハ叶ワジトテ、鎧ノ一ノ板切落シテ、
二所権現ニ献リテ、相模国ヘ引帰テ、ヲクノ山ヘ逃籠リタリ」
(「延慶本平家物語」本文編上 勉誠社より引用)

訳しますと
「(武蔵相模の兵がことごとく頼朝に付いたことがその前の文章にかかれています)
大庭三郎(景親)はこの事を聞いて、とても叶わないと思って
平家の軍を迎えに東海道を西に上ろうとしますが
足柄を越えて藍沢宿に付いたところ、前途には甲斐源氏が二万余騎で駿河の国に既に入ってきていました。
一方兵衛佐(源頼朝)の軍勢は雲霞の如く集まっているということで
甲斐源氏と頼朝の軍勢の中に取り囲まれてしまったのでこれは叶わないと思って
鎧の一の板を引きちぎって二所権現にそれを奉納して、相模国に戻って奥の山に逃げ込みました」

となります。

つまり、「延慶本平家物語」によると
駿河に行こうとした大庭景親は、前には駿河を占拠した甲斐源氏に行く手を阻まれ
後ろからは頼朝が勢力を張っている。
このような状態ではどうにもならないから相模の山奥にへ逃げ込んだ。
ということになります。

「吾妻鏡」の頼朝が大庭を素通り→足柄山で通せんぼしたため
大庭が山奥(河村)へ逃げ込んだという記載よりははるかに整合性があります。

状況を考えてみても、
10月中旬に
甲斐源氏一党によって駿河目代が撃退されるまでは
相模中部に勢力を張る大庭氏にとって東海道を西に行くのに邪魔になる勢力
というものはありませんでした。
頼朝を担いでいた西相、伊豆勢力はこの時点ではまだ壊滅状態です。
それより西の駿河目代勢力は明らかに親平家勢力です。
そして追討使が坂東に来るのも時間の問題という状況でした。

つまり、甲斐源氏によって駿河国衙勢力が壊滅させられ
駿河を甲斐源氏に占拠されるという状況が起きなければ大庭景親は
追討使を相模で待っていることができたのです。

甲斐源氏が駿河目代を討ち取り、駿河を占拠するということは
それこそ大庭景親にとっては「想定外」の出来事だったでしょう。
それゆえに、駿河目代勢力の健在を信じていた大庭景親は
相模国で頼朝勢力と甲斐源氏に挟撃されるという
「予想外の展開」に追い込まれたのではないでしょうか?

さてここで、史料の信頼性が問題になると思います。
確かに「延慶本平家物語」は「軍記物」でフィクションの多い史料ではありますが
実は「吾妻鏡」の一部も「平家物語」の「原本」(これにも多少のフィクションが含まれているそうです)
を編纂時の素材として使用しているそうですので
こと「合戦部分」に関しましては「吾妻鏡」も「平家物語」も
信頼性はどっこいどっこいであるとのことなのです。

そして、「吾妻鏡」は鎌倉政権にとって都合よく書き換えられていることもままある
という可能性を考えますと
この大庭景親逃亡のいきさつに関しましては「吾妻鏡」よりも「延慶本平家物語」の方に信頼性があると断ぜざるを得ないでしょう。

つまり、大庭景親は甲斐源氏と頼朝勢力に挟まれたため相模の山奥に逃亡せざるを得なくなったと考えるべきです。

さて、なぜ「吾妻鏡」は頼朝の行動に不自然なものを残してまで
大庭景親の逃亡を頼朝軍の功績にしたのでしょうか。

それは、前回でも書いたとおり「吾妻鏡」の
富士川前後における「甲斐源氏」の功績の過小化に尽きると思います。
頼朝が駿河に入る前に、甲斐源氏が駿河を占拠し
それが石橋山の敵将大庭景親を追い詰める一因となり
さらには、富士川での追討軍撤退の要因の一つに
甲斐源氏が先に駿河を占拠していたことがあるという事実は
(ひいては、富士川の合戦の源氏側の主力は甲斐源氏であったという可能性)
「頼朝の正当性」という観点からは
「吾妻鏡」にとって極めて都合の悪いものであったと思われます。

それがゆえに敵将目前通過という頼朝の不自然な行動が「吾妻鏡」の中に記載されるに至ったと思われます。

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吾妻鏡への疑問2-富士川から平家を撤退させたのは誰?

2007-04-01 10:27:30 | 蒲殿春秋解説
ではなぜ、「吾妻鏡」は日程を操作する必要があったのでしょうか?

その答えは「吾妻鏡」の一部分と「玉葉」にあります。

富士川の戦いに先立って、武田信義率いる甲斐源氏が駿河国衙勢力を壊滅させています。
(「吾妻鏡」十月十三日、十四日条、「玉葉」十一月五日条)
その結果、追討軍が来る(十月十八日)以前に駿河富士川以東は甲斐源氏に占拠されたと考えられます。
また、「玉葉」によると甲斐源氏は10/18には追討軍へ挑発的な手紙を追討軍に送りつけています。

このようなことを考えると
頼朝軍が到着する以前に、甲斐源氏の手によって駿河は占拠されており
さらに、追討軍を撤収させるに至らしめた要因の大きな部分は
「甲斐源氏の働き」によるものが大きいと思われます。
(もちろん大軍を率いていた頼朝の動向も大きな影響があったと思いますが)

さて、その頃の甲斐源氏は独立した一つの「反平家勢力」で頼朝の配下ではありません
(対等な立場の同盟軍と見るべきでしょう)
しかし、後に頼朝の弾圧と懐柔によって彼らは
鎌倉の一御家人並みの扱いに甘んじていくことになります。

そのような立場にある甲斐源氏一派が頼朝の預かり知らぬところで
追討軍を撤収させてしまったということであれば頼朝を頂点していた
鎌倉幕府の立場はなくなります。

また、挙兵当初から頼朝は源氏嫡流
頼朝の勢力は絶大、東国武士はこぞって頼朝の元にはせ参じたという
史観で語っている「吾妻鏡」にとって
同書が傍流扱いしている甲斐源氏の活躍の事実は矮小化されなればならなかったものと思われます。

そのような事情を考えると編纂時の幕府の文官は
「富士川の戦い」の功績をどうしても
鎌倉勢の手におさめるようにしなければならなかったのでは
ないのかと推察します。

その結果、頼朝と平家の行動の日程を多少の無理はあるものの
可能な範囲でずらして
実は「甲斐源氏vs追討軍」であったのを
「頼朝勢vs追討軍」に摩り替えてしまったのではないかと
いう見方もできるのではないかと思います。

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