時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(百二)

2007-01-31 22:16:54 | 蒲殿春秋
「おぬし何者じゃ?」
と、この一団の首魁らしきものに問われた。
どのように答えればいいものか、と思案しているうちに
馬の轡をとられ一団に周囲を固められて
いつの間にか彼らの進む方角へ一緒に移動させられている。

こうなっては状況に従うしかないと腹を決め
様子を冷静に観察することにした。

大鎧を着ているものはいない。
従者も弓を携えているが、腹巻をしておらず
戦や凶徒の追捕というものではなさそうだ。

一刻ほど進むとまた別の一団と合流した。
その一団は樵と見られる何人かの男達を連れてきていた。
さらに進むと同じような一団とまた出会う。
彼らは同じ方角に歩んでいく。

やがて日が沈みそうになるころ
山の頂にある小屋に前に一同は集まる。
そして、農夫や樵たちはある一角に集められて武者らしき男に何事かを指示されている。

範頼らは小さな納屋に入るように言われた。
三人が入り終わると出入り口がふさがれる音がした。

「どうやら、戦があるらしい」
当麻太郎は冷静に語った。

どうやら範頼らをここに連れてきた一団は
戦の物資の輸送や逆茂木(*)の設置や撤去、溝堀などに必要な人手をかき集めていたようだ。
その人手をこの在地に求めて、先程の行動に出ていたのだろう。

「では、昼間のことは」
と範頼が聞くと当麻太郎はこっくりと頷いた。
集落の人々は軍勢に連れて行かれないようにいづこかへ逃げたのだろう。
出遭った農民らしい一家もおそらく逃げる途中だったのだろう。
戦に連れて行かれるといつ在所に帰れるかわからないし、
下手をすると命を落とす。
直接の戦闘員にならないもののそんなところに連れて行かれるのは御免である。
噂を聞いた集落の人々は連行されぬよう身を潜めていたに違いなかった。
ここに集められたのは運悪く人手集めの手勢に見つかってしもった者達。
夜が空けるとおそらく彼らは戦地に連れて行かれるのであろう。

それにしてもどこの手のものが男達をかき集めたのであろうか?
そして、何故自分たちまでここに連れてきてこられたのか?
誰の手のに自分達がいるのかがわからなければ今後の自分達の対処のしようも決められない。
だが、範頼たちは納屋に放り込まれたままその外の者とは接触できずに一晩を過ごすことになる。

*逆茂木-馬の通行を妨げる一種のバリケード

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蒲殿春秋(百一)

2007-01-30 21:24:54 | 蒲殿春秋
途中当麻太郎は何度も人家を襲って食料を得ようとしていた。、
その都度範頼と藤七に止められた。
うかつに土地の人の恨みを買うことを怖れたのと、
この人数では逆に相手にやられる可能性があったからである。

空腹の一行は信濃の諏訪を越えてまさに甲斐へ入ろうとしていた。
そこへ、大荷物を持った普段は畑仕事をしているらしい風体の家族が
大急ぎで向こうからやってきた。
一家を見かけた当麻太郎は馬を駆けて彼らに近づいた。
武勇に優れたつわものが空腹で飢えてまるで獲物を狙う野獣のような顔で
一家を睨みつけたから、睨まれたほうはたまらない。

大きな荷物を路上に放り投げると一家はすぐに姿をくらました。

「?」

唖然としている範頼をよそに、当麻太郎は悠然と荷物を拾いあげる。

道端に馬をつなぎ荷物を確認する。
衣類、米、農機具などの財産や生活用品が無理やり詰め込まれていた。
どうやら急いで詰め込んできたらしい。

その中ですぐに食せそうな干し芋を三人はかじると使えそうな荷物を積んで
街道を先に急いだ。

街道の脇に集落があった。
その集落をしばらく三人はながめながら馬をすすめたが
「蒲殿、おかしいと思いませぬか?」と
藤七が声をかけてきた。
「なにがだ」
「この集落には人の気配が全くかんじられませぬ」
「?」

また暫く馬を進めると向こうから数十匹の馬のひづめの音が聞こえる。
その音はすぐに近づいて
たちまち範頼たちの側までやってきた。

何が起こったのかわからなかった。
だが、範頼ら一行はいつの間にか武装した一団に取り囲まれてしまっていた。

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百回

2007-01-27 22:46:04 | Weblog
おかげさまをもちまして、
「蒲殿春秋」も百回目を迎えました。

途中、忙しくなって書けなくなったり
どうしても話が書けなかったり
調べることに夢中になって書くほうがおざなりになったり
upしたものの何度も書き直したり
数ヵ月後に誤字脱字に気がついて訂正したり
と、紆余曲折の連続でした。

蒲殿範頼の本当の活躍はこれから先になります。
完結までに何回かかるかわかりませんが
コツコツと(の気持ちで)
ランダムに(なる可能性が高いです)
書いていきたいと存じますので
今後ともよろしくお願い申し上げます。


蒲殿春秋(百)

2007-01-27 22:45:43 | 蒲殿春秋
駿河から遠江そして信濃に入った範頼ら一行。
しかし、すぐに思わぬ難題が彼らを襲った。

食料がなくなったのである。
蒲御厨の下司から急き立てられ彼の地を立った一行は
ごく少数の身の回りのものしか持ち出すことができなかった。
食料も三日ほどの分しか持ち合わせていなかった。

すぐにどこかに落ち着こうと思っていた。
だから出発の時は食料の乏しいことに不安は感じていなかった。

だが、このように遠回りをして甲斐へいく羽目になると
食料の不足が深刻に圧し掛かってくる。
途中他の持ち物を食料に交換してもらっていたりしたのだが
それもすぐに底を尽いて信濃に入る頃には、空腹が慢性化していた。

このようなとき頼りになったのが藤七である。
佐々木一族に仕える藤七は、定綱や盛綱に付いて頼朝の配所に何度か伺候したことがある。
そして、比企尼などからの仕送りが遅れた時のひもじさや対処の仕方にも慣れていた。

山に入ると食べれそうな草をとってくる。
河を見つけると魚を素手で捕まえる。
今の範頼らにとっては本当に頼もしい。

それでも、大食漢で日頃飢えというものを知らぬ範頼にはこの道中は厳しかった。
食べなれぬ野草で腹を下し
魚を食しても穀類が恋しかった。
いかに今まで恵まれていた生活をしていたのかと、己の今までの日々を内省した。

腹が満たされぬと、心もおかしくなる。
希望を見つけて甲斐に向かうはずなのに範頼の心に不安が広がっていく。
甲斐に行っても大丈夫なのだろうか?
自分達の居場所はあるのだろうか?
それ以前に、甲斐にたどり着けるのか?
果たしてこの道は本当に甲斐に向かっているのかということさえも不安になる。

さらに、長旅のつかれで馬に揺られていても
今自分が起きているのか、眠っているのか
夢なのか現なのかの区別もつかなくなってくる。

範頼の顔つきは幽霊のようになってきた。

一方駒を並べる当麻太郎の方は殺気立っている。
文字通り何かに飢えた顔である。
このまま、目の前を食料をもったものがいたら襲って奪い取りそうな雰囲気である。

二人の様子をみていて藤七は危ないと思った。

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蒲殿春秋(九十九)

2007-01-25 23:22:12 | 蒲殿春秋
甲斐へ行こう、
そう決心するまで時間はかからなかった。

範頼が行き先を決めかねていた間、
藤七は自分の主佐々木秀義の舅渋谷重国の元へ
赴いたらどうかと何度も誘った。
だが、相模の渋谷へ行くには
戦いのあった場所、残党狩りが盛んな所を通らなければならない。
そのようなところを通って無事に渋谷にたどり着くかわからない。
そこへ行くのはためらわれた。

かといって他にいく当てもなかった。
そこに、「甲斐」という場所が心の中に差し込んできた。
在地有力者の安田義定が残党狩りの兵を甲斐に入れるのを拒否したほどである。
うまく甲斐に入り込めば自分の身分が明かされても生きていけると思った。
そして、その地で兄の再起を待つ。

不思議と範頼は兄が死んだとは思えなかった。

兄は運が強い。
肉親と譜代の臣の多くを失った平治の合戦でも兄は死ななかった。
やがて捕らえられ、誰の目から見ても処刑されるのが当然の中流罪になだめられた。
その後の過酷な流人生活を二十年も生き抜いた。
流人の多くは都を追われてから短期のうちに都に召還されないかぎり
心身共に疲れ果て、わずか数年足らずで都を恋い慕いながら最果ての地で寂しく命を落とす。
だが兄は二十年も生きていた。

兄は死なない。だから自分も死なない。
自分は今まで生きていた中で最悪な状況に追い込まれている。
だが、もっと大変なはず兄の運の強さを信じることで
自分もきっとここを乗り切ることができると思った。

甲斐へ行く、そして生き延びる。
生きて再び兄に会う。
範頼は心に強く誓った。

主の決心を聞いて当麻太郎は甲斐への道筋を考えた。
今の状態では、甲斐と駿河の間そして伊豆には兵が満ちているだろう。
それならば、いったん遠江へ引き返し信濃を経て甲斐へ入るという道筋が無難だと
当麻太郎は範頼に進言した。

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蒲殿春秋(九十八)

2007-01-24 22:41:26 | 蒲殿春秋
寺を抜け出したものの行く当てはない範頼たち。
とりあえず、先ほどまで来た道を元に戻っていく。

夜は一目をさけて灯りもつけずに野宿した。

翌日もあてもなく野をさまよった。
夕刻、いつの間にか街道の近くにまで出てきてしまった。

すると、傷ついた騎馬武者やその従者たちが街道を西へと向かっているのが見えた。
何があったのだろうか?

さらに近づいてみる。
街道に、疲れきった表情で馬にゆられている一団が通り
それから時間をおいて通った者の中には板に寝かされて生死をさまよっているものまでいる。

範頼はさらにその夜も野に宿を求めた。

朝になり当麻太郎がまた様子を探りに人々の集まる所へ向かった。
今回はすぐに戻った。

駿河の兵を傷つけたのは甲斐の者だという。
頼朝ら八月二十三日の合戦で散々に敗れたものの
一部のものを除いて死亡が確認されていない。
頼朝に属したものの多くは夜闇にまぎれて山中に隠れた。

頼朝自身の行方や生死は相変わらずわからないものの、頼朝方の武将の一部は甲斐に逃れたらしい
との噂があった。

そこで、今回の合戦の総大将大庭景親の弟俣野景久が駿河目代橘遠茂と共に
残党を探しに甲斐に入ろうとした。

だが、甲斐への入り口には武装した一団が待ち構えていた。
森羅三郎義光の地を引く甲斐源氏の一人安田義定と工藤景光が率いる兵だった。

俣野らは、残党狩りをしたいので兵を入れさせて欲しいと口上を述べた。
だが、安田は甲斐にその大軍を率いてやってくるのは何事か
甲斐のことは甲斐のものに任せて欲しいと答えた。

俣野は兵を甲斐に入れることをさらに要求したが
安田はことごとく断った。

すったもんだの挙句小競り合いが始まり
それがいつの間にか大規模な合戦に及んでしまった。
地理を知り尽くした甲斐の兵に俣野と橘は太刀打ちできず
散々に打ち負かされてしまった。

「そういえば」
当麻太郎の知らせを聞いた藤七は思い出したかのように言った。

「北条殿は今回の戦に負けた時、甲斐に逃げるかもしれない
と、おっしゃられておられました」
「甲斐?」
「そうです、甲斐の武田一族の趨勢はわかりませぬが
伊豆の人々は甲斐と以前から親交もあります。その縁を頼って幾人の人は甲斐にいったやもしれませぬ」
「甲斐か?」
うつろだった範頼の瞳にわずかに光が灯ってきた。

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蒲殿春秋(九十七)

2007-01-23 21:48:32 | 蒲殿春秋
雄大にそびえる富士を眺めながら範頼一行は東へ向かう。
八月二十三日範頼らは駿河を東へ向かっていた。
一晩眠って範頼の考えは定まった。
兄の下へ行くしかない、と。
もはや、養父範季には頼ることはできない。
都から見れば謀反人としか見られない頼朝の弟である自分を範季はもはや庇いきれないだろう。
庇おうにも範季の舅となった平教盛が自分を許すはずもあるまい。
遠江にも居られない。
今は兄に賭けるしかないのだ。

駿河を東へ向かうにつれてなにか妙な空気を感じた。
どこか、殺伐としたあわただしさに包まれているのだ。
伊豆にかなり近づいた頃、多くの騎馬武者が次々と範頼らを追い越していった。
「何かがある」
そう思った範頼ら一行はその夜ある寺の一角を宿を請い様子を見ることにした。

案内してくれた僧が去った後、範頼は藤七に尋ねた。
「先ほどの兵は?」
「どの手のものかわかりかねますかが、伊豆の方へ向かっております」
「兄上となにか関係があるのか?」
「敵か味方かは存じませぬが、おそらく」

━━ 兄上 ━━

翌八月二十四日の朝、出発しようとした範頼たちを僧が呼び止めた。
「もし、東へ行こうとなさるならばおやめなされ」
「何か?」
「昨夜、伊豆と相模の国境で合戦があったそうじゃ。
まだ、戦の余燼は冷めやらぬ。なにかに巻き込まれるといかんでの、
これより東に行くことだけはおやめなされ」

もう一晩だけ止まって良いという僧侶の言葉に甘えて
範頼らは寺に留まった。
今はとにかく伊豆で何が起こったのかを知るのが先決である。

当麻太郎が少し街道を東に進んで人々の話を聞きに行った。
様々な話が飛び交っていて中々本当のことがわからない。
空に日が高く上りさらに少し西に傾きかけた頃当麻太郎は寺に戻ってきた。

はっきり判ったことは、相模国早川で八月二十三日の夜合戦があり
大庭率いる大軍が頼朝率いる三百騎の兵をあっさりと打ち破ったとのことである。

頼朝らの生死はわからない。

「いつまでもここに留まるわけには行かない」
範頼は視線を泳がせながら辛うじてこの言葉だけは言った。
兄たちが敗れた以上残党狩りが恥じまる。
伊豆に程近いここにも残党狩りの手が及ぶだろう。
自分は戦には関わっていない。
けれどもなにかの拍子に頼朝の弟とわかれば命が危うい。

とにかく、ここを離れなくてはならない。

範頼らは日の暮れる前に寺を密かに抜け出した。

範頼は完全に自らの行くべき場所を失ってしまっていた。

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大庭御厨事件

2007-01-23 00:00:36 | 蒲殿春秋解説
さて、小説の中でちらっと書いた「大庭御厨事件」
これはなあに?
と思う方もいらっしゃるかと思います。

天養元年(1144年)
相模国の伊勢神宮領大庭御厨に相模国田畑目代と源義朝(頼朝らの父)の派遣した郎党が
乱入して、領地を散々に荒らして帰っていきました。
狼藉は数回に及びました。
大庭御厨を管理していた大庭氏は都に訴えますが
なしのつぶて。

それもそのはず、この乱入事件は「田畑目代」も同行しているのをみても判るように
相模国司の黙認のもと行われた事件だったのです。

そして、その相模国司を任命していのが
時の最高権力者鳥羽法皇。
相模は法皇自らの知行国だったようなのです。

義朝の背後に国司がいれば、その国司の後ろには鳥羽法皇がいる。

このような図式の下ではいくら伊勢神宮の領地を預かっているからといっても
大庭氏は泣き寝入りするしかありません。

さて、それからしばらくして「保元の乱」が発生しますが
そのとき大庭景親は源義朝の配下として姿を見せます。

これを大庭御厨事件で大庭氏を義朝が家人化させた結果
という見方もあるようですが
大庭氏を保元の乱に動員上洛させるには
「相模国衙」の指示があったのではないのかという指摘もあります。
(国衙の指示説=元木泰雄「武士の成立」他)

つまり、景親は内心非常に不愉快な思いをしながらも
「国衙」の命令には逆らえず、仕方なしに義朝の配下に入った可能性もあります。

ちなみに、保元の乱から三年後の平治の乱には景親は姿を見せてはいないようです。
(「新日本古典大系「保元物語・平治物語・承久記」)

そのように考えると
確かに景親は義朝に対しては後世(江戸時代)のような絶対的な主従関係があったとは
思えず
むしろ、「あのときは飛んだ目に合わされた」と思っていたのではないのかと
私は思うのです。


*平治の乱に義朝配下として参戦した武士は保元の乱よりも少ないように思えます。

義朝と個人的な関係の深い南坂東武士(三浦、上総介、山内首藤)
首謀者信頼の弟信説が国司だった武蔵の武士(足立、平山)
左馬頭(義朝の官職)として関係の深い馬を扱う「牧」を預かる武士(平賀、片桐)
という面々が参加している傾向にあったようです。
(上記「新日本古典大系」より)

ちなみに、「保元物語」に名前があって「平治物語」(新日本古典大系)に
名前がない氏族は主な所で

千葉、河越、大庭、波多野など

これらの氏族はけっこう大物です。


☆前の記事で軍記物を「事実をもとにしたフィクション」と書いていましたが
軍勢の内容を知る同時代の史料が他に無い為
だれが参戦したかを知るには
「保元物語」と「平治物語」から情報しかないう事情があるのです。
ですから、「信憑性は薄いものの、これしかない」という状態であることを前提にお読みいただければ幸いです。

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平家物語・保元物語・平治物語

2007-01-22 23:11:23 | 日記・軍記物
さて、カテゴリーの中に「日記・軍記物」があり
「平家物語」だの「保元物語」だの「平治物語」と平気で書いてしまっていますが
「聞いたことはあるけどそれはなあに?」という方も多くいらっしゃるかも知れません。
中学校の歴史や古典の授業で
「軍記物」という言葉は聞いたことがあると思います。
「軍記物とは何か」と言われれば
私流に答えると
「合戦の事を書いたお話」ということになります。

その中で一番有名なのが「平家物語」でしょう。
「平家物語」は平清盛の父忠盛の話から、清盛をはじめとする平家一門の
栄華と没落、その間にあった事件や合戦などをイロイロと書いたお話です。
話は長期間にわたっての話で個性的な登場人物が多数出てきます。
合戦も一度や二度ではありません。
全部に内容を考えると12世紀丸々引っかかるいう長期間のお話です。

一方「保元物語」「平治物語」はそれぞれ平安末期に発生した
「保元の乱」(1156年)「平治の乱」(1159年)という
それぞれの戦いに関してのみかかれた「物語」です。
期間としても「保元物語」は1156年夏とその前ふり、
「平治物語」は1159年12月から3月とその前ふりと後日談
という限定された期間のお話となっています。

これらの軍記物は「物語」ですからフィクションも多分に含まれています。
「この物語は実際に起きた事件を元に書かれたフィクションです」
という世界です。
(でも面白いです)
史料として扱われることもありますが「事実を元に書かれたフィクション」ですから取り扱いは注意が必要です。
あえて言えば、司馬遼太郎の作品を今から500年後の人が「史料」として使うようなものです。

なにはともあれ、「平家物語」「保元物語」「平治物語」も
それぞれにいい味がありますので
機会あれば是非目を通していただければなあ
と私は願っております。

それぞれの物語への個人的意見はこの「日記・軍記物」のカテゴリーに書かせていただいているので
よろしかったらご参考になされて下さい。

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略年表その2

2007-01-21 10:39:11 | 年表
1165年
 6月 二条天皇病により六条天皇に譲位
 7月 二条上皇崩御

1166年
 10月 憲仁親王(母平滋子)立太子

1168年
 2月 平清盛病により出家
 3月 六条天皇譲位、高倉天皇(憲仁親王)即位

1171年
 12月 平清盛娘徳子が高倉天皇の下に入内

1172年
 2月 平徳子立后

1173年 範頼帰京

1176年
 7月 高倉天皇生母建春門院薨去
 7月 六条上皇崩御
 この年 藤原範季陸奥守に就任、現地へ赴任、藤原範光下野守に就任
     範頼範季に同行、その後下野→遠江蒲御厨

1177年
 6月 鹿ケ谷事件
 この年 源頼朝北条政子と結婚

1178年
 11月 言仁親王誕生(母平徳子)

1179年
 6月 清盛娘で関白基実室の盛子没
 7月 平重盛没
 11月 平清盛政変を起こす。
    後白河院政停止、関白を基房を罷免、他39人の官位停止(藤原範季を含む)

1180年
この年 藤原範季、平教盛娘と結婚
 2月 安徳天皇(言仁親王)即位
 4月 以仁王の令旨発行
 5月 宇治川の戦い
    以仁王討ち取られ、源頼政一族宇治平等院にて合戦の後自害
 8月17日 源頼朝挙兵、伊豆目代山木兼隆を討ち取る。

水色の出来事は本作品の中のみの創作
緑色の出来事はは史実ではあるが時期を特定できなもの。(小説上で時期を設定)
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