時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(三百四十七)

2009-01-31 10:47:45 | 蒲殿春秋
だが、豪族当主たちの帰還が頼朝に大きな恩恵をもたらしているのも事実である。
その一つに奥州との関係の変化がある。
挙兵以来頼朝はいつも常陸国と奥州の脅威のさらされ続けていた。

常陸国においては、富士川の戦い直後から佐竹氏が数年にもわたり何度も蜂起と撤退を繰り返していた。
ついこの前の志田義広の蜂起においても常陸国の豪族常陸大掾一族が義広に同意し頼朝に脅威を与えた。
佐竹、常陸大掾などの常陸豪族の背後には常に奥州勢力の存在が見え隠れしていた。
また、武蔵や下総の豪族にも奥州との関係を有するものも少なくはない。
一時奥州藤原氏が彼等坂東武士団を支配下に収めようと画策していた時期もあった。

このように奥州藤原氏並びに南奥州の豪族達は頼朝にとって常に脅威でありつづけたのである。

それが、大番役で都にいた大豪族の当主たち、なかんずく下野国の小山・宇都宮両氏の帰還によって北方の情勢に変化が起こりつつある。
先の野木宮合戦で下野国における小山氏の最大の対抗者藤姓足利氏の足利忠綱が下野国から去った。
その数ヶ月後に小山政光の帰還。当主の帰還によって小山氏の重みはいよいよ増す。ここに及んで小山政光が下野国最大の実力者となったのである。
また、野木宮合戦の勝利の後常陸国にあった志田義広も彼の地を去り、もう一つの勢力常陸大掾氏も多くの者が奥州に逃亡していた。
彼等が去った常陸国に進出したのが、宇都宮朝綱の弟八田知家。
知家は兄宇都宮朝綱や、姉八田局の夫である小山政光の支援を受け常陸国に勢力を延ばす。(勢力図

常陸国も下野国もそのすぐ北は奥州である。
その常陸国下野国に程近くに領地を構える南奥州の豪族達は、地理や交通の関係で以前から小山氏や宇都宮氏との交流を持っていた。

その小山と宇都宮が北坂東において大きな力を有してきたのである。
南奥州の豪族達は小山政光、宇都宮朝綱、そして八田知家に接触を図ってくるようになってくる。
その中には、密かに頼朝との交渉を持たんと望んでいるものもいる。
小山、宇都宮、八田全ての者が源頼朝と深いつながりを有している。
頼朝の乳母の一人八田局が小山政光の妻でなおかつ宇都宮朝綱の妹で八田知家の姉なのである。



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蒲殿春秋(三百四十六)

2009-01-26 23:06:15 | 蒲殿春秋
畠山重忠が武蔵国においてその父に怒られていたその頃、鎌倉の源頼朝は様々なことに苦慮していた。
頼朝を一番悩ませているのが坂東の豪族の間の勢力の変化が起こりつつあることであった。

ここまで頼朝を支えていた主な勢力は誰かと言えば、まず第一は上総介広常である。
広常は上総一国をほぼ従え、その勢威は下総にまで及んでいる房総きっての大豪族である。
次いで足立、河越といった武蔵の諸豪族、そして規模では彼等に劣るものの鎌倉に程近い所に勢力を張る相模の豪族たちである。

だが、寿永三年(1183年)夏、平家都落ちの際にそれまで大番役として在京していた武蔵下野の大豪族の当主たちが続々と坂東に戻ると、彼等とそれまで頼朝を支えていた勢力との間に微妙な力関係の変化が起きる。
戻ってきたのは、小山政光、宇都宮朝綱ら下野の豪族、そして武蔵の畠山重能、小山田有重などである。

その当主らが主だった郎党を殆ど引き連れて在京していた間、彼等の嫡子らは既に頼朝に仕えていた。が、その間嫡子たちは残された少ない郎党たちのみを従えて鎌倉殿に仕えていた。
従って上総介などに比べると若年でなおかつ軍事動員力の低い嫡子たちの鎌倉における発言力はさほど高いものではなかった。
しかし当主たちが坂東に戻ると様子が違ってくる。
その若年の嫡子らと壮年の当主では在地における重みが違う。
当主達の帰還に伴って従って多くの郎党達も在地に戻る。そのことにより在地における小山、畠山らの軍事動員力が圧倒的に強まった。

今までさほど強力と思えなかった当主不在だった豪族達。しかし、その当主帰還によりにわかに鎌倉においてその力が無視できないものとなってきた。
彼等の意向は今後坂東における大きな圧力となろう。

ことに頼朝の頭を悩ませているのが畠山の扱いである。
これまで頼朝が武蔵国において最も頼りとしていたのが乳母子を妻に持つ河越重頼。
が、畠山と河越の間には数十年に亘る確執が存在する。
その畠山が当主重能帰還により武蔵国における重みを増してきた。
しかも畠山重能の嫡子重忠の妻はこれも武蔵の大豪族足立遠元の娘。
一方河越もまた武蔵国総検校職の座にある武蔵国の実力者。
この強大な両者ー畠山と河越の確執に再び火がつけば武蔵国に大混乱が立ち上る。武蔵国は坂東支配の要の国である。
そこに混乱や争いが起きれば取り返しの付かぬ事態となってしまう。
その期に乗じて、奥州藤原氏や義仲勢力が何を仕掛けてくるか判らない。
河越と畠山の扱いは留意に留意を重ねなければならない。

そしてもう一つは上総介広常の扱い。
今までは最大級の豪族として常に周囲からも頼朝自身からも気を遣われていた広常。
彼の発言を止めるもの存在は今まで何一つ無かった。
が、ここにきて広常と拮抗するとまでは行かないが、それなりに発言力を有する豪族が現れてくる。
それを広常はどのように受け止めるだろうか。
これからは広常の思い通りに行かない場面も出てくるかもしれない。が、この先広常の意見のみを重んじるわけにはいなかい時もでてくるであろう。

今まで都にあって平家方についていた諸豪族の当主たちの帰還は有りがたいことではある。
だがこのことは、豪族間や同族間の紛争の火種を常に抱えている坂東の危うい均衡の中に辛うじて君臨している鎌倉殿源頼朝に新たなる困難な課題を突きつけてきたのである。

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蒲殿春秋(三百四十五)

2009-01-25 07:26:44 | 蒲殿春秋
都が混迷を迎えているその頃、
東国の武蔵国の男衾郡の館において一人の若者が父親に怒られていた。

「お前は今まで何をしておった。」
父に怒られて若者ー畠山重忠は首をうなだれている。
「そなたが、自分は鎌倉殿に仕えているから安心して武蔵に戻ってくださいというから都からここに戻ってみれば、なんじゃ、このていらくは」
父重能の言葉を重忠はもう言い返すことなく聞くだけである。

「戻ってみれば、鎌倉は上総介に牛耳られているは、武蔵の国衙は河越と足立に牛耳られているではないか。
お前はまったく・・・」

重能の怒りの背景には次のような事実があった。
重能らが属する秩父一族は武蔵きっての大豪族である。が、その内部には同族同士の諍いを常に抱えている。
即ち重能らが属する畠山氏と重頼を代表とする河越氏である。
この両者は武蔵国において大きな権限を有する武蔵国総検校職などを巡っていつも争っていた。
これより二十年以上前にその諍いなどが原因で、武蔵国大蔵館に住んでいた河越重隆(重頼の祖父)をその婿源義賢共々重能らが討ち取ったという事件もあった。
同族ながらなにかのきっかけがあれば直ぐに血の闘争に繋がるという諍いを常に含んでいるのが河越と畠山の関係である。

その河越の方が現在鎌倉においても武蔵国においても畠山よりはるかに大きな権限を持っている。
重能はそのことが気に入らない。

が、そうなったにはそうなったなりの理由がある。
それは河越重頼が頼朝の挙兵の頃に武蔵国総検校職の座にあって一族や武蔵国に強い影響力をもっていたと言う事実
そして、重頼の妻が頼朝の乳母子であったといういかんともしがたい事実もある。
上総介広常は頼朝が安房に上陸したときから頼朝への与力を表明し、そのことが周囲の豪族たちの動向に強い影響を与えたこと、何よりも小山氏や畠山氏といった有力豪族たちがその頃大番役で兵の殆どを引き連れて不在だったことにより当時坂東において、直ぐに軍事力を動員できる頼朝方唯一の大豪族であったという事実も大きい。

その一方で、畠山はと言えば
当主重能が兵の多くを引き連れて都に上ってしまい、武蔵に残された息子重忠が動員できる兵は半減していた。
そして間の悪いことに石橋山の戦いの直後に重忠が頼朝方についた三浦一族の本拠地衣笠城を攻め
一族を敗走させ、重忠の外祖父でもある三浦義明を死に追いやった。
このことは現在は不問に付されているが、一時頼朝の不快の念を買ったのも事実である。

そのようなわけで現在秩父一族の内部においては河越重頼が主導権を握り
畠山が完全に圧されているという状態になっている。
しかも、その河越の有利は未来にも続きかねない状況なのである。
というのは、頼朝の現在の嫡男万寿の乳母には河越重頼の妻が召され
頼朝の異母弟であり義理の子でもある義経の正室に重頼の娘がその座に収まるという話が現在進んでいる。
つまり、頼朝の有力な後継者候補二人が河越氏の手中にあるようなものなのである。

長年にわたって河越一族と家督を巡って争っている重能にとっては決して面白い状況ではない。
かつて大番役を家運復活の好機とみて平家に近づいた重能であったが、その平家が頼りにならず遂に都落ち
そうなったら息子が鎌倉殿に仕えているのにすがるしか所領の保全が望めない状況にあるのだから
今のところは黙ってこの状況を受け入れるしかない。

「このまま、この河越の優位が永久に続くわけではない。
何かがあればで河越をつまづかせることが出来るかも知れぬ・・・」
畠山重能は不敵な面を息子に見せた。清廉潔白で知られる息子は父のその表情に寒気を覚えた。



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蒲殿春秋(三百四十四)

2009-01-24 21:10:10 | 蒲殿春秋
大軍が常駐することによる略奪行為をやめさせるには大軍が都からいなくなるのが最も簡単な解決方法である。
だが、大軍がいなくなれば今度は平家が再び都にやってくる。
しかも警戒すべきは西国に行った本軍だけではない。平家郎党達も畿内に多く残っている。その動きも予断を許さない。

平家の脅威が無くなるまで大軍は都にいなければならない。たとえいくら乱暴狼藉されようとも。

その平家に対する対応策も公卿たちの意見が分かれて強攻策か和平か定まらない。
三種の神器の安全を優先する公卿たちは和平を推し、平家を敵視する後白河法皇の意を汲むものは強攻策を主張する。

このような混迷の中後白河法皇は使者を東国に下す。
北陸宮が皇位につくことを強硬に推してきた義仲に対して後白河法皇はお心を許しておられない。
治天の君の権限を侵した義仲に対して警戒されはじめている。
自らが主張する平家強攻策も公卿たちに受け入れられきれていない。
その後白河法皇の心の中に一人の男が浮かび上がる。
未だ坂東から上洛する気配のない源頼朝である。
頼朝は挙兵以来法皇の近臣に連絡をとりつづけ、法皇への忠誠の姿勢を見せている。

そしてもう一つ、都に差し迫った問題━━ 未だに東国から入ってこない年貢問題の解決も必要である。
この頃から後白河法皇にとって源頼朝の存在は大きなものとなってきている。

法皇の使者が密かに東国に下るのとほぼ同時期にまた一人の男が一族郎党を引き連れて都を去った。
都を去った男は安田義定。
元々遠江に勢力を延ばしていた義定は念願どおり遠江守の官位を獲得した。
この官位を得られれば、彼の影響力が弱まり始めた遠江への支配力は再び復活する。
食糧の不足した都にはもはや用は無い。義定の今回の上洛の最大の狙いは平家の脅威を遠江から遠ざけ自らの遠江支配の正統性を確保することだけだった。
任国に赴くという義定の願いに対して朝廷の人々は反対する理由は何も無い。

寿永三年(1183年)九月、安田義定は早々に都を後にした。
 
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蒲殿春秋(三百四十三)

2009-01-21 20:40:31 | 蒲殿春秋
それと共に都において大軍が常駐することの弊害が露となる。

保元の乱まで数百年間戦乱に巻き込まれることの無かった都。
その保元の乱そしてその三年後に起きた平治の乱においても動員された軍勢は数百騎程度のもので乱そのものも丸一日もしくは一月も掛からぬうちに終息した。
その後平家が必要に応じて軍を徴収することがあったが畿内からの武士が主力なので必要なときに呼び出せばよく、都に長期間大軍を常駐させることはなかった。

このように都に数千騎に及ぶ武者とその従者と馬が一月以上も滞在するというのは、都に住まう人々にとっても上洛してきた者たちにとっても未曾有の出来事である。
全ての人々が大軍の常駐が都に何をもたらすのかを全く予期していなかった。

その未曾有が都に混乱と悲惨をもたらす。

多くの軍勢と馬が都にあるということはそれらを養う食糧や物資そして馬のえさが必要となってくる。
当時の軍隊は遠征先で必要物資や食糧を調達するの常である。
従って、その大軍の食糧等は都において調達されなければならない。

だが、その都は疲弊の真っ最中にある。
昨年まで飢饉に悩まされ、東国を反乱軍に抑えられて物流の流れが途絶えていた都。
飢饉が回復した矢先に平家の北陸出兵と都落ちによって兵糧や物資を散々挑発された都や畿内は未だに食糧や物資の不足に悩まされている。
さらに、西国からの運上物が今度は平家に差し押さえ始められ再び物資の流れが止まりつつある。
そこに物資と食糧を大消費する大軍が一月以上も滞在しているのだからたまったものではない。

兵たちは当然の権利として畿内や都で食糧等の調達を要求する。
だが、畿内に食料は無い。
要求された側は当然拠出を拒否する。
飢えているのは、都の住人も兵も同様である。
こうなると弱肉強食の世界が始まる。
武力を持つ武士達が、数少ない食糧を求め、ついには収穫の時期になった農地に自ら鎌をもって無理やり収穫物を刈り取って強奪する。さらに地方から入ってくる年貢は兵によって差し押さえられた。

平家の反撃から都を守ってくれるはずの兵たちは現在の都においては必要不可欠な存在である。
だが、その兵を養うには必要な食糧や物資が都に於いては大幅に不足している。その少ない物資を得る為に兵たちは強奪や略奪を繰り返すようになってくる。
兵のほうも生きる為に必死なのである。
しかし、奪われる一方の弱者たちはたまったものではない。
都を捨てて逃げるものが多発し、都には再び飢えと貧困が押し寄せた。
この頃には都には源氏諸将、なかんずく義仲に対する怨嗟の声が満ち溢れるようになって来る。

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蒲殿春秋(三百四十二)

2009-01-20 19:03:44 | 蒲殿春秋
一方平家都落ちの原動力となった源氏諸将らの間にも不協和音が鳴り響き始めていた。

八月の間に何度かに分けて、今回上洛した各武将達に官位が与えられた。
真っ先に賞されたのが義仲と行家の二名であった。
その官位は

左馬頭兼越後守 源(木曽)義仲
備後守 源行家
というものである。

が、この除目に対して行家から不満の声が上がる。
行家は家の門を閉ざして怒りの態度を露にした。義仲に比して自らの官位が低すぎるというのである。

数日後の除目においては任国の変更が行なわれた。
行家の任国は備後から備前に変更となる。だが同時に義仲も任国が越後から伊予へと変更となった。

また今回上洛に際して最も功があると見られている他の四人にも国司の地位が与えられた。

遠江守 源(安田)義定
伯耆守 源(土岐)光長
佐渡守 源(葦敷)重隆
伊賀守 源(山本)義経

また、他にも六位相当の任官を受けたものも少なくない。
が、この武将達も自分たちの功績を認められたことを喜びつつも義仲に対する厚遇を内心苦々しく思っている。

義仲は都の官位である左馬頭を兼ねている。この官位は河内源氏としては源義朝以来の任官で父祖代々の京官としては最高位にあたる。これだけでも他の武将に比して義仲はかなり優遇されている。
されに伊予守は受領としては播磨守に次ぐ最高位の任国である。また河内源氏としてはかの源頼義が任ぜられた栄光の役職である。源頼義は今回受領もしくは衛門尉などになった武士たちの多くの共通の祖である。
つまり、伊予守と左馬頭を兼ねることによって義仲は源氏諸将の中で最高位に位置されることとなったのである。

この義仲の官位の優遇は北陸宮擁立をあきらめさせる見返りという面もあったかもしれない。
義仲は北陸宮擁立に失敗したものの諸将の上位の官位を得ることで義仲の面目は保たれた。
だが、この義仲優遇は義仲に対する武将たちの反発を醸し出した。
都に仕える武者としての側面を長く持ち、この以前から都の官位を有していた土岐光長や葦敷重隆などにはその感が深い。
義仲の入京は自分たちの協力あってのものという思いを彼等は抱いている。
今まで無位無官で都では全くの無名だった男が彼等の祖頼義が任ぜられた河内源氏最高位の官位に居座ることにも不快の念を覚える。

かれらは表面上は義仲には穏やかに接しつつ、少しずつ義仲と距離をとり始めている。
そして、彼等は法皇の御所に出入りする回数を増やしつつあった。

都にある武者達の間には隙間風が吹き始めていた。

清和源氏諸流略系図

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蒲殿春秋(三百四十一)

2009-01-17 20:34:49 | 蒲殿春秋
後鳥羽天皇が位についてもその摂政には以前どおり近衛基通が就任した。
このことに対して摂関家内部では不満の声が上がっている。

今まで平家べったりだった基通の立場を考えると基通は平家都落ちの時点で辞任すべきだと思う人々も宮廷社会には多かったのである。
だが、基通は辞任しなかった。
そうならなかった訳がある。このとき基通には平家に代わる有力な後ろ盾ができていたのである。

その後ろ盾とは後白河法皇。

基通は平家都落ちの情報をいち早く後白河法皇に知らせて法皇が都落ち直前に姿をお隠しになるのに一役買っていた。その功で法皇は基通に絶大なる信頼をよせておられるという。
だがもう一つの秘めた理由がある。
それは、平家が北陸戦線で敗北を続けているころから密かに法皇が基通を召されて寵愛を始めたという密やかな関係。
つまりその頃から法皇と基通は男色関係にあるというのが秘められたもう一つの理由。

無論このような情愛だけで法皇が基通の後ろ盾になられたわけではなく、摂関家との良好な関係を結ぶには基通と結ぶのが最良とご判断された結果であろう。

しかし、基通が摂政の座にある限り、その座に取って代わることの出来ない他の摂関家の男達は憤懣やるかたない思いを抱え現状を見据えている。基通の叔父右大臣九条兼実などは男色関係を密かに非難している。
兼実以上に大きな不満を抱いているのが前関白松殿基房。

平家都落ちに伴って基通は早々に失脚すると思っていた。
だが、基通は都に留まりあまつさえ法皇の後ろ盾を得て現在も摂政の座にある。

平家追い落としによって自らの復権を目指していた基房にとってはこれは想定外の話である。
だが、基房は復権をあきらめていない。
もう一人の対抗者である弟兼実の勢力伸張を警戒しつつ、自らは出家を遂げていて官位復帰が叶わない基房は十二歳の嫡子師家の地位上昇を図り甥である現摂政基通に取って代わる機を窺っている。

摂関家内部のひそやかな争いに見られるように、その時の宮廷社会には分裂と策動そして混乱の芽があった。

摂関家略系図

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都道府県の歴史人物シート

2009-01-15 21:54:52 | 源平時代に関するたわごと
ある小学生に「都道府県の歴史人物シート」(学習教材)なるものを見せてもらいました。
歴史上の人物が各都道府県から一人だけ書かれています。
(都道府県代表枠は一人です)

各県から色々な歴史上人物がそれぞれ書かれていました。
この教材に登場する人物は、近代以降の人物や歌人・作家・詩人・学者など文科系人物が多いようです。

その中で平安末期から鎌倉にかけての人物が二人登場です。

その二人とは

神奈川県代表 源頼朝 (肩書きは「将軍」)
静岡県代表 北条政子(肩書きは「源頼朝の妻」)

です。

ちなみに夫婦で登場しているのはこの一組さまだけです。
(肩書きが「○○の妻」というのは北条政子だけです)

それにしても、この歴史人物シート 平安から室町(戦国期を除く)の人物が少ないのが淋しく感じられます。
平安時代からは紫式部、鎌倉からは↑のご夫婦、南北朝以降は新田義貞と雪舟だけ・・・

室町初代将軍足利尊氏は見事にスルーです。
(尊氏が登場しそうな栃木県代表は田中正造でした。)

なお、多くの歴史有名人物が登場して激戦区になりそうな次の地域はこのような方々になっていました。

東京都 勝海舟
京都府 紫式部
愛知県 徳川家康
奈良県 聖徳太子

愛知県はあの三人のうち誰を出すかで大変だったとは思いますが
東京を家康にして大阪を秀吉にして(ちなみに大阪府は与謝野晶子になっていました)愛知を信長にするってことはできなかったのでしょうか・・・

鎌倉初代将軍と江戸初代将軍が登場して室町初代将軍がスルーというのもどこか納得がいかないような気が・・・

以上都道府県の歴史人物シートをみた感想でした。

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