時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

朝の由来は?

2011-01-27 05:53:18 | 源平時代に関するたわごと
昨日「中宮右近朝岳」さんは何者?と書かせていただきましたが、
それに伴って前々から疑問に思っていたことを書かせて頂きます。

歴史上有名な人物の一人に挙げられる源頼朝ですが、彼の名前の由来は恐らく次のようなものであると思われます。(定説はないですが時々見かける内容です。)

頼ーーー烏帽子親と推定される藤原信頼から、もしくは清和源氏の通字
朝ーーー父親の義朝から

以前にも書かせていただいた通り
当時の男性の名前は、先祖代々字または父から一文字+烏帽子親から一文字
というパターンが多かったようです。

さて、そうだとすると頼朝が父親からもらった「朝」の字をその父親が誰から貰ったのだろうか?という疑問が沸いてくるのです。

義ーーー頼義・義家以来の先祖からの通字
朝ーーー???

「朝〇」または「〇朝」という人物と義朝となんらかのつながりがあると思うのですが
いったそれが誰なのか見当がつきません。

ただ、それが誰かわかれば義朝の持つ人脈の一つがわかりそうな気がします。

例えば平忠盛ですが、彼の忠の字は河内源氏源義忠(義家の嫡子)かららしいということが分かっているようです。これとかれの姉妹が義忠と婚姻関係にあることによって一時期河内源氏と伊勢平氏が親密な関係にあったらしいことがわかっています。

とうわけで「朝」の字の由来はなんなのかずっと気になっているのです。

名前の由来で気になるといえばもうひとりきになる人物がいます。
義朝の父為義です。

為の字は誰からなのか?
そしてもう一つ
なぜ「義」の字が下に来るのか?ということです。
この時期の源氏の人々は「義〇」というように義の字が上にくるのに
為義は何故か義の字が下に来ているのです。

このようなことを考えると為義は河内源氏の中で名前の面からも異彩を放っているような気がします。(「為義は実は義家流の嫡流ではなかった説」などがありますし)

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Who is he?━ 平治2年の彼

2011-01-26 06:15:42 | 日記・軍記物
昨日「大乗院日記目録」という史料を見ることができました。
(「続々類書群従 第三」 所収)
これは平安後期からの出来事がほんの少しだけ
「こんなことがあった」程度のことが記されています。
(年に出来事一つくらいのみ記載・・・)

昔のツイッターみたいなものだと思いながら読んでいますと
謎の記事を見つけました。

「永暦元 正月二日、中宮右近朝岳誅也、(以下略)」

永暦元年とは1160年で平治の乱勃発の翌年にあたります。
正月二日とは1月2日のこと。
(なおこの時点では改元されておらず、この時期は「平治二年」です。)

平治の乱は前年末に戦闘は終了していますが、平治2年(永暦元年)1月は乱にともなう政争はいまだ終結していない時期です。
九条兼実は「玉葉」に平治の乱の翌年の正月行事には物々しい警護が固められていたとしるしています。

このような時期に「中宮右近朝岳」さんなる人が殺されたらしいのです。
誅されるということは、処刑にちかい意味を持つものと思われます。

朝岳さんという名は初めて目にします。

一体誰でしょうか?

一瞬義朝(頼朝父)次男の朝長(頼朝異母兄)に名前と官職が似ていると思いました。
しかしながら中宮大夫進という官位は似てはいるものの朝長「右近」(右近衛府の役職)という官職は得ていませんし、やはり名前が違います。
従ってこの人物は朝長とは別人の可能性が高いと私は考えています。

とすればこの中宮右近朝岳さんとはいったい何者なのでしょうか?

そしてこの平治の乱のさなか誅された理由は何だったのでしょうか?

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蒲殿春秋(四百四十五)

2011-01-17 06:00:01 | 蒲殿春秋
この先どうするのかとの養父の問いに対して範頼はその場では明確には返答しなかった。

後世の人々は鎌倉殿源頼朝の弟としての立場に立つ範頼のみを見て、兄頼朝に従属するのが当然のことと思っている。
しかし、範頼の置かれた立場はそのように単純なものではなかった。

実父を喪った範頼を引き取って世話をしたのは院近臣で右大臣九条兼実の家司でもある藤原範季である。そして範季は安徳天皇に代わって即位した後鳥羽天皇の乳母の叔父であり後見人でもある。この先も都における勢力の拡大は見込める。

そして、範頼は三河に一定の地歩を築いているが、その地歩を築いていく際に兄ある盟友が存在した。甲斐源氏安田義定である。安田義定は範頼の縁の深い遠江を支配下においており、また遠江は三河の隣国で地域的な面での義定との提携は不可欠である。
勿論三河に進出できたのは義定との提携だけではなく、頼朝の母の実家熱田大宮司家が三河に影響力を有していてこの熱田大宮司家の範頼支持も無視しがたいものもあった。その面では三河における異母兄頼朝の影響力も抜きがたいものもあるが。

とにかく範頼は頼朝の弟という立場だけを有している存在ではなかった。

都の有力貴族になりつつある藤原範季の猶子であり、甲斐源氏安田義定の盟友でもある。
このように様々にもつ縁のどれを重要視するかどうかは範頼の胸三寸にあるといっても良い。

つまり、範頼はこの時点で養父範季を頼って官位を得ることも可能であるし、安田義定と提携して三河における支配力の強化を図るという選択肢も有していたのである。

そのことを知る養父範季は養い子範頼に今後のことを尋ねたのである。

そしてその養父の問いの奥に何かが秘められていることを感じた範頼も養父の問いには何も答えなかった。

恩義ある養父はもはや率直な気持ちをぶつけることのできない存在になってしまった・・・・範頼は心の奥にそのような想いを抱き始めていた。

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蒲殿春秋(五百四十四)

2011-01-16 22:31:32 | 蒲殿春秋
範頼の答えを聞いて範季の表情が緩んだ。

その表情を見て範頼は安堵した。
先年亡くなられた参議殿とは院近臣藤原光能のことである。

範頼は思った。養父範季の思惑を。
範季は範頼の婚儀を一応は祝した。だが、手放しで喜んでいたわけではなかった。
その理由は妻瑠璃の実家の家格の低さである。
瑠璃の父安達藤九郎盛長はその祖が誰であるかも定かではない家系に生を受けた。
鎌倉殿の側近、そして鎌倉殿の乳母子の夫━━それだけが盛長のよるべき基盤である。

一方の範頼は左馬頭義朝の子。
そして範頼の兄頼朝は此度従四位に叙された。

つまり範頼と瑠璃の実家は家格の釣合いが取れていないのである。

そのことを恐らく養父範季は気にしているのである。
範季は瑠璃を範頼の家の「主婦」として認めていないかもしれない。

だが、今の表情でその危惧が薄らいだ。

盛長の甥足立遠元の娘の一人が都で院近臣の妻の一人になっている。勿論正室ではないが。
それが盛長の家の格を少しは上昇させている。

そのことで範季は範頼の現在の婚姻を少しだけでも認めようとしているのではないだろうか。

養いの父と子の宴は暫く続く。
そのような中範季はふと範頼に尋ねた。
「そなた、これからいかがする?」
「は?」
範頼は養父の不意の問いに戸惑った。

「この後鎌倉に戻るのか、それとも三河に腰を据えるのか、
それともこのまま都に留まり官位を望むのか?」

範季はのどかな物言いながらも得体のしれぬ威圧感をにじませながら範頼に問うた。

その問いに対して範頼は無言を貫いた。

しばしの沈黙がその場を支配した。

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干支調べ

2011-01-07 23:28:59 | 源平時代に関するたわごと
前の記事で頼朝と義経が卯年ということを書かせていただいてから
少しこの時代の人々の干支が気になり調べてみました。

その結果が↓です。とりあえず気になる人々を集めてみました。

子年 後鳥羽天皇(1180)
丑年 北条政子(1157)
寅年 源頼家(1182)
卯年 源義朝(1123)、安達盛長(1135)、
   源頼朝/平宗盛/一条能保/和田義盛(1147)
   源義経(1159)
辰年 大江広元(1148)、佐々木高綱(1160)
巳年 八条院(1137)、九条兼実/源通親(1149)、高倉天皇(1161)
午年 平重盛/北条時政(1138)、藤原定家(1162)
未年 後白河天皇/三浦義澄(1127)、以仁王(1151)、北条義時(1163)
申年 平知盛(1152)
酉年 源義平(1141)、阿野全成(1153)
戌年 平清盛(1118)、藤原範季(1130)、木曽義仲(1154)、安徳天皇(1178)
亥年 建礼門院(1155)

調べ方が偏ってしまったのか、何故か今年の干支の卯年の人が多く出てしまいました。
あと、後白河院、北条義時が未年というのも意外というか何と言うか・・・
この時代一番の荘園所有者八条院が巳年というのはなんとなく分かる気が・・・

ついでに頼朝の家族の干支も調べてみました。

父 源義朝 卯年
母 由良御前 不明

兄弟
 義平 酉年
 朝長 子年
 希義 申年
 範頼 不明
 全成 酉年
 義円 亥年
 義経 卯年
 坊門姫 丑年または戌年

妻 政子 丑年


 大姫 戌年
 頼家 寅年
 三幡 午年
 貞暁 午年
 実朝 子年

小説もどきは進んでいなくて申し訳ないのですが新春企画(?)で干支記事を書かせていただきました。

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謹賀新年

2011-01-01 23:15:07 | Weblog
あけましておめでとうございます。
おかげさまで無事に新年を迎えることができました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今更ですが去年の記事を読んでこのブログの一年を振り返ってみました。
去年の今頃このブログでは何を書いていたかと見ていましたらなんと「一の谷」の真っ最中でした。
それから一年間の更新は「一の谷」から数ヶ月だけを書いていたという状況だったことに今になって驚いています。

こうなってしまったのは更新を怠っていたというのが最大の原因ですが
この時期のこの国が混乱の最中にあって、それを描いていくと先に進まなかったというのも要因の一つになるのでは?とも思っています。

現在のわが国も混迷の最中にありますが、後の世の人々がこの時代のことをどう書いてくれるでしょうか?

この国の子孫たちが先祖を誇りに想い、この時代からを知ることによって何かを得られる
そんな時代にしていくようにこの時代に生きる我々が努力しなければならないのではないか、そんな風に思わせていただきました。

今年は卯年ですね。
頼朝も義経も卯年生まれです。
歴史を大きく動かした彼等の人生を思い描きつつ
今年は兎のごとく元気に飛び跳ねられるように頑張って生きたいと存じます。

平成23年 元日 さがみ