時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(百四十)

2007-06-30 05:48:12 | 蒲殿春秋
治承五年(1181年)一月一日
鎌倉の正月は卯の刻(午前六時)の源頼朝の鶴岡参拝から始まった。
頼朝は毎年元旦に鶴岡に詣でることを誓い
その誓いは彼が亡くなるまで破られることは無かった。

一方朝廷では厳重な警戒の中新年の儀式が執り行われた。
近江や畿内寺社勢力の反乱を抑えたといっても
美濃以降の東国、九州、四国に反乱勢力が割拠しており
畿内には反乱勢力の残党が潜んでいる。
新年行事の多くは省略され、
平治の乱以来というものものしい警護の中新年の祝賀が張られた。

この時期各反乱勢力の中でもっとも活発な動きを見せていたのが
熊野水軍である。
彼らは伊勢の諸勢力と以前から海上の利権を巡って対立関係にあった。
この確執の中熊野水軍は近隣の諸族を誘い
一月四日伊勢に討ち入った。
伊勢の在庁のものたちはこの熊野の侵略に対して必死の抵抗を試みている。

この熊野の動きを一番喜んでいるのは
熊野と安田義定の支援を得て三河を掌中に収めた源行家である。
伊勢の勢力が伊勢湾から駆逐されることにより
熊野から三河への支援をより一層受けやすくなる。
それに既に美濃源氏が制圧している美濃、尾張の反乱勢力の基盤はゆるぎないものになる。
さらに、熊野水軍の力を背景に、美濃尾張にも自らの発言権を拡大させることができる。
三河一ノ宮に参拝した後行家は盛大な新年の祝宴をもよおし
その間終始上機嫌であったという。

一方この熊野水軍の一連の動きを耳にした安田義定と源範頼は
新年早々複雑な表情を浮かべていた。
熊野の勢力拡大は喜ばしいことである一方で
この一連の熊野の行動は遠江を制圧した義定らにとっては不都合な面もあるのである。

東海道諸国には伊勢神宮の所領が多い。
そこを管理する豪族は伊勢神宮と密接な係わり合いを持つ。
いわば「親伊勢神宮」勢力なのである。
従来の国衙勢力には反感をもってはいたが伊勢に対しては敬愛の気持ちを持つ。
義定が掌握した遠江もそのような状況であるし
彼に協力している範頼も元々は伊勢神宮領蒲御厨の管理をしていた。
在地勢力掌握の為には「伊勢神宮」を重んじる態度は欠かせない。

つまり、義定らは「伊勢神宮」を敵に回したくないのである。

その様な中、義定が支援した行家のもう一つの支援勢力熊野水軍が
伊勢に侵略を始めた。
侵略させた伊勢勢力は伊勢神宮の支配下にあるものもの多い。
この熊野水軍の行動は「伊勢神宮」との協調を願う義定らを困惑させた。
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この義経さんは別人です

2007-06-29 05:09:06 | 蒲殿春秋解説
今回やたら長く続いている解説シリーズで度々登場いただいている
「山下義経」さんは
あの有名な悲劇のヒーロー義経さんとは別人です。

氏で語れば両方とも「源義経」になるのですが
まったく別人です。

有名な方の義経さんは
八幡太郎義家の子孫

山下義経さんは
義家の弟義光の子孫で、近江に地盤を持っていたようです。

一時期はこの二人の義経同一人物説もありましたが
やはり別人のようです。

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吾妻鏡と玉葉の日程

2007-06-28 05:30:41 | 蒲殿春秋解説
さて、年表は「玉葉」などを中心にして作成しました。

すると、面白いことに「吾妻鏡」の日程と異なる部分が出てきました。

例えば近江源氏の一人、山下義経の行動については次のようになります。

日付 吾妻鏡 玉葉
11月21日   近江反乱軍挙兵
12月1日 山下義経ら平知盛に打ち破られる  
12月2日     追討使平知盛ら近江へ出撃
12月3日   暁近江反乱軍逐電、美濃へ、美濃源氏近江へ出撃
12月6日   近江反乱軍、追討軍に打ち破れらたの報。
12月10日 山下義経鎌倉に下向し頼朝に面会  
12月12日   官兵三井寺と合戦、寺近辺を焼き払う
12月15日   近江 追討軍、甲賀入道、山下義経を打ち破る
12月16日   官軍山下義経を引き続き攻撃



吾妻鏡との比較では決戦の日がずれている他
「玉葉」によると近江で抵抗を続けているはずの山下義経が
「吾妻鏡」では同時期に鎌倉に行っています。

官軍である平家に抵抗を続けている山下義経が鎌倉に行っているというのは
日程的には可能であっても、状況的にあまりにも不自然です。

「玉葉」と「吾妻鏡」との記載の間には相違がありすぎます。

どちらを信用するべきでしょうか?

これはいうまでもなく「玉葉」を信用すべきだと思います。
「玉葉」はリアルタイムの情報ですし
都に程近い近江で起こり、畿内の反乱に関しては著者九条兼実も相当の関心を寄せていたはずだと思えるからです。
一方「吾妻鏡」は「後世の編纂物」ですし
鎌倉から近江までの距離もあります。
それに、「山下義経が鎌倉に来た」という記載が
既に頼朝の指揮下に山下義経が入っていたと思わせるような作為を感じさせます。
(小説もどきのネタバレになるのでここには書けませんが、後々の山下義経の行動をみるとこの時期に頼朝の指揮下に入っていたとは思えないのです。書けたら山下義経の後の行動は後日書かせて頂きます)

また、吾妻鏡には次のような記載の不自然さがあることも併記しておきます。

治承五年二月二十九日条
 鎮西にありて兵革あり。(吾妻鏡)

↑玉葉によると鎮西の謀叛は前年九月から

閏二月十二日
 河野通清伊予で挙兵(吾妻鏡)

↑既に前年には挙兵していることが「延慶本平家物語」には記されている。

私が作成する年表は「吾妻鏡」と「玉葉」の日程に錯誤が生じた場合は
「玉葉」の日程を優先して記載させていただきます。

参考資料
金澤正大「治承五年閏二月源頼朝追討後白河院庁下文と「甲斐殿」源信義」
 ―『吾妻鏡』養和元年三月七日条の検討―
(『政治経済史学』165(1980.2),227(1985.6))

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畿内蜂起勢力

2007-06-27 05:20:15 | 蒲殿春秋解説
富士川以降の年表を書かせていただきましたが
この時期に目立つ動きをしているのは
近江・美濃源氏と、興福寺などの寺社勢力です。
そして、西国でも反平家の動きを見せるものたちも出てきています。
まさに「もぐら叩きゲーム」の如く
全国各地のあちらこちらで反乱の火の手が上がったという状態です。

後々に活躍する為治承寿永の頃の勢力として
頼朝や義仲の動きにのみ目が行きがちですが
内乱初期の動きとして畿内近辺の動きというものを決して見過ごしてはならないと思います。

畿内蜂起勢力は東国蜂起勢力と連絡を取り
特に甲斐源氏とは協力する動きを見せていましたが(「玉葉」)
けっして東国蜂起勢力の誰かの意志に従って挙兵したわけではなく
畿内各蜂起勢力諸氏の意志やそれをとりまく状況、そして彼らに従った者の意志によって挙兵したのです。

つまり、頼朝や義仲、甲斐源氏の挙兵の成功を見て蜂起をした部分はあるものの
そのいずれかの命令に従って畿内勢力が挙兵したわけではないのです。

畿内各蜂起勢力はその地理的関係からみても東国や西国の反乱以上に
朝廷や平家にとっては大きな脅威でであったと思います。
東国の反乱の鎮圧より畿内勢力を叩き潰すのを朝廷や平家が優先するのは当然でしょう。

畿内蜂起勢力は一月ほどで鎮圧されますが
その鎮定に多少の手間がかかったことが
この時期の頼朝やその他東国蜂起勢力、及び西国蜂起勢力に
時間の余裕を与えていたのではないのかと思われます。

治承寿永の戦いは決して河内源氏為義流とその配下についた東国武士
の為のものだけではなかったのです。

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富士川の戦いから南都炎上までの流れ

2007-06-25 04:48:52 | 年表
今回も各勢力別に並べてみました。なお、()内は出典元です。 (吾)-吾妻鏡 (玉)- 玉葉 (山)-山槐記
日付 頼朝 甲斐源氏 信濃 畿内近辺
10月23日 頼朝相模国府に入り論功行賞を行なう(吾)        
10月25日 頼朝松田に入る(吾)        
10月26日 大庭景親を処刑(吾)         
10月27日 常陸へ出発(吾)         
11月4日 頼朝常陸国府到着、常陸攻め開始(吾)          
11月5日 佐竹金砂城落城(吾)        宗盛還都を清盛に進言。追討使都に戻る(玉)
11月6日 丑の刻広常金砂城を焼き払う(吾)          
11月7日 頼朝に戦勝報告、志田義広、行家頼朝の元に来着(吾)           
11月8日 佐竹攻め論功行賞、鎌倉へ帰路に着く。八田に泊まる(吾) 遠江以東
15か国
草木もなびくなし(玉)
               
11月10日 葛西清重邸に逗留(吾)              
11月17日 鎌倉到着、和田義盛侍所別当(吾)          美濃源氏美濃尾張を占拠(玉)    
11月19日 全成を武蔵長尾寺別当に(吾)           
11月21日          近江反乱軍挙兵(玉)  
11月23日       手嶋蔵人福原人家を放火して逐電(玉)、反乱軍近江運上物横領、頼朝尾張に来たとの風聞(玉)   
11月26日 頼朝乳母が実子山内経俊助命を乞う(吾)          平安京に還都(玉)
11月27日             高倉上皇園城寺僧侶に諮問、寺内部に源氏に与力するものあり(玉)
11月28日           若狭の在庁近江源氏に与力(玉) 12/2に追討使を近江に派遣決定(玉)
11月29日       近江国武士夜数千騎三井寺に入る(玉)  
11月30日       武士は船の点検に来ただけ、甲賀入道武田信義と連絡を取る(玉)  
12月1日  頼朝同母弟希義土佐にて討たれる(延慶本)      平田家継、手嶋冠者を討ち、甲賀入道の城を落とす(玉)  
12月2日           追討使平知盛ら近江へ出撃(玉)  
12月3日 上野、常陸で頼朝に背く者出るとの噂(玉)     城資永反乱鎮圧を買って出る(玉)    
12月4日 藤原秀衡が頼朝を打つ請文を出したという噂(玉)       近江の武士三分の二は官軍(平家方)に属す(玉)  
12月6日        近江反乱軍、追討軍に打ち破れらたとの報(玉) 中原親能逃亡(玉)
12月9日        延暦寺の一部僧侶蜂起、官軍それを囲む、興福寺蜂起の報(玉)  
12月10日        興福寺の蜂起拡大だが和平(玉)  
12月11日        山僧官兵と合戦、興福寺の和平僧兵により破棄の動き(玉)  
12月12日 頼朝大蔵御所に入る(吾) 武田党遠江に来住、三河を獲得したとの知らせ(玉) 城資永信濃を越えたとの噂(誤謬とも)(玉) 官兵三井寺(園城寺)と合戦、寺近辺を焼き払う(玉)  
12月13日        南都勢入洛の噂(玉) 平親宗、頼朝と通じていると疑われる(玉)
12月14日        南都勢六波羅襲撃の噂(玉)  
12月15日         近江 追討軍、甲賀入道、山下義経を打ち破る(玉)  
12月16日            南都入洛はなし、山下義経を引き続き攻撃(玉)  
12月22日 新田義重
鎌倉に参上(吾)
       維盛越前不穏の動きに備えて下向(山)  
12月23日       維盛近江へ副将軍として下向(玉)  
12月24日     木曽義仲上野撤退、信濃へ戻る(吾)   武田有義妻子殺害される(山)
12月25日        重衡南都へ出撃(玉)   
12月27日        夜重衡南都攻め、南都炎上(玉)   
12月29日        重衡帰洛(玉)    

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山槐記 その四 余談その日は雨でした

2007-06-24 05:22:03 | 日記・軍記物
今回は本当にどうでもいい(というと失礼かも知れませんが)余談です。

保元四年(1159年)三月一日
この日は源頼朝(当時13歳)とその同腹姉弟
にとって生涯忘れることのできない日になったことでしょう。
頼朝の母がこの日亡くなったのです。(「公卿補任」「吾妻鏡」)

で、この日の天気ですが「山槐記」によると
「午後から雨」だったようです。

頼朝を小説に書こうと思った場合に「できすぎだなあ」
と思えるような天候です。

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山槐記 その三 気になる人々

2007-06-23 05:39:13 | 日記・軍記物
すこし「山槐記」二月十九日条の話を続けされていただきます。
同日に女院の付きの役人になった人、女院の昇殿を許された人々のリストが掲載されています。
その中には、後々のことを考えると興味が引かれる人物がたくさん出てきています。

目に付くところを取り出してみると

別当(女院庁のトップクラス)
 藤原信頼

殿上人
 藤原成親、藤原信説(信頼弟)
 藤原成憲(範)、藤原貞憲、藤原脩憲(この段の三人は信西の子)
 平清盛、平時忠、平親宗

蔵人
 源頼朝

このように平治の乱に思いっきり関わった人々が上西門院のまわりに集まっていました。
なお、この日信頼は別当であるにもかかわらず殿上始を欠席しています。
また、信頼弟信説と信西子の成憲と脩憲も欠席しています。
このころ諸行事が重なっていたとはいえ、彼らが上西門院の殿上始に欠席したというのはどのような意味を持つのか非常に気になります。

さて、最も気になったのが
殿上人の平清盛、平時忠、平親宗の三名です。
ちなみに時忠・親宗は清盛の妻時子の弟です。

後に時忠らの姉妹の滋子が後白河院の寵愛を受けて高倉天皇を産みますが
その滋子は元々は上西門院の女房でした。
滋子がいつから上西門院に仕えていたのか判らないのですが
後の平家の躍進に滋子が果たした役割は決して小さくないものでした。
そして、滋子が後白河院の目にとまるようになった場所が
上西門院の側であったことは容易に推測できます。

そのように考えますと
時子滋子姉妹に関係の深い男性が三人も揃って上西門院の殿上人に任じられ
殿上始に顔を出していたということは非常に興味を惹かれるものがあります。

ちなみに、平親宗ですが
彼は上西門院が皇后(後白河准母)であったときに皇后宮大進の地位にあったようです。
同時期源頼朝は皇后宮少進でした。
大進は小進より格が上でしたが仕事の内容は同じようなものであり
皇后(後の上西門院)を支える職場の同僚という関係だったのではないかと思われます。
つまり、上西門院が皇后であった時期
源頼朝と清盛義弟親宗は「職場の仲間」であった可能性があります。

後に源頼朝が坂東で挙兵して平家と戦うようになります。
その挙兵した年の十二月に清盛義弟の平親宗は頼朝と何らかの連絡を取っているのではないか
との嫌疑をかけれます(「玉葉」)
この嫌疑の発生した理由の一つとして上西門院の側に「職場の同僚」としていたことが
あったのではないのか、などと考えております。
もしかしたら嫌疑がかけられる程、皇后宮の役人時代親しかったのではないのかなどとも妄想してみたりします。

ちなみに、親宗は時子の弟ではありますが
後の平家の都落ちには同行せずその後紆余曲折はあったものの宮廷貴族としての人生を全うしました。
壇ノ浦まで平家に同行し流刑地で生涯を終えることになった兄時忠とは対照的です。


参考 女院庁の役職の説明

別当 
 女院に関わる仕事を統括する。5-10人くらい。
 一番えらい

判官代
 別当を助けて実務を担当する。

蔵人
 女院の身の回りのお世話をする。

殿上人
 女院の御所の特別な建物に入ることが許された人

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山槐記 その二 清盛と頼朝

2007-06-21 04:45:02 | 日記・軍記物
その事実があったことを知ったのは永井路子さんの著作「新・歴史をさわがせた女たち」を読んだときでした。

しばらくしてその事実が記されていた出典元が「山槐記」であることを知りました。
けれども中々「山槐記」を読む機会がありませんでした。

しかし、ついに「山槐記」のその部分を読むことができました。
なので、その内容とそれに付随して発生した個人的考えをここに書かせて頂きます。

その事実があった日は保元四年(1159年)二月十九日。(四月に改元があり平治元年となる)
場所は都三条室町上西門院御所。

そして、その事実とは
源頼朝(13歳)が平清盛(42歳)にお酌をした
ということです。

では、「山槐記」二月十九日条の要約(正確に原文の意味が読み取れたか自信はありません)を書いてみます。

晴れ、今日上西門院の殿上始(*1)がありました。
未の刻(午後二時頃)に参上しましたが、まだ誰も来ていませんでした。
申の刻(午後四時頃)になって人々が集まりました。
(略)
私は方違(*2)のお供の為先に退出しました。
以下は聞いた話です。

実定卿、清盛以下四位の人々七人程と五位成頼が(上西門院の)殿上に着座しました。
酒盃が振舞われました。
最初の酌は 源頼朝(元六位 少進)
二番目の酌は 藤原(吉田)経房(元 大進)
三番目の酌は 藤原(坊門)信隆(元職事別当)
が担当しました。
(以下略)

この記載によると
清盛を含む上西門院の殿上人各人に一回目のお酌をしたのが源頼朝です。
つまり、頼朝が清盛にお酌をしたという事実があったことを「山槐記」は記しているのです。

さて、この後は個人的考え(というより妄想)を発展させていただきますが、よろしければお付き合いください。
「山槐記」には清盛が上西門院の殿上人になったと記しています。
殿上人になるということは「殿上始」だけ出席すればよいということではなく
その後も長く上西門院に清盛が仕え続けるという前提で清盛が上西門院殿上人になったと、考えるべきなのではないのかと思います。
ということは、清盛はその後も幾たびか上西門院の御所に参上したということが考えられます。

一方頼朝ですが
上西門院蔵人に任命されています。
頼朝は朝官(*3)にも任じられていますが、上西門院蔵人(秘書、雑用係)という任務を果たすため上西門院の側に伺候する機会も多かったのではないのかと推察できます。

ということは、清盛、頼朝双方上西門院の側に参上する機会があり
日程が合えば上西門院の側でお互いに何度か顔を合わせたのではないのかとも考えられます。

つまり、清盛と頼朝は平治の乱以前にお互いに顔見知りであった可能性があります。

小説やドラマでは平治の乱の後、勝者平清盛が敗れて捕らえられた源頼朝と対面するシーンがあったりします。
そのほとんどは清盛と頼朝がその時初対面であるかのような描かれ方をしています。
しかし、「山槐記」の記載とそこから広がった私の妄想の中では
二人の対面(が実際にあったと仮定すると)は次のような感じになります。

清盛「佐殿(頼朝)、久しぶりだな」
頼朝「大弐殿(清盛)、ご無沙汰しておりました」
清盛「お前よく生きていたな。それにしてもお前とわしが敵味方になって戦って
お前が謀反人としてわしの前にやってくるとは。
  どうしてこうなってしまったのだろうか?」
頼朝「私にもわかりません」

現代ドラマのノリになってしまいました。
ちなみに、清盛「どうしてこうなったしまったのか?」と頼朝「私にもわかりません」
という会話は「源平盛衰記」に載っています(清盛の回想の中)

*1 上西門院殿上始
 上西門院とは後白河上皇の姉宮統子内親王。
 後白河上皇が天皇でいた頃にその准母として皇后の地位にあったが
 保元四年二月に、二条天皇女御姝子内親王が中宮に立后するに先立ち
 統子内親王は「女院号」を与えられ「上西門院」となった。
 その「女院」として女院の殿上人、女院付の役職者を集めた初の顔合わせ会が
 殿上始である。
 ちなみに女院の殿上人とは「女院御所」のメインルームの殿上に入ることを
 許可された人のことで
 一般で言う「殿上人」(内裏の清涼殿に入ることを許された人)とは違う。

*2 方違
 当時貴族社会では「方角」というものを非常に気にしていた。
 そのため「凶方」というものを避けるため
 一時的に場所を移動することがあった。
 それが方違
 皇族や上流貴族の方違には多くの供がついた。

*3 朝官
 太政官制度で定められている役職。
 八省や衛府などの役。
 現在で言うと○○省、○○庁の役人。
 院や女院の役職は現在の「外郭団体」の役職に相当すると思われる。
 (当時は、本職と院や女院の役職を兼任するのは当たり前の状態)

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