時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(五百三十九)

2010-11-27 06:57:15 | 蒲殿春秋
範頼は二日ほど義経の邸に滞在した後、姉の住む一条の邸へと移った。
何年かぶりに見る弟を姉は懐かしそうに見つめる。
その姉の髪には白いものが目立ち始めている。前に会ったときよりも少し姉が小さく見えた。

姉の家も忙しそうに日々が回っている。
だが、それは弟の邸とは違う忙しさである。
現在姉は四人の子の母。そしてこの邸の主である夫の一条能保は鎌倉にいて不在。
一家の主婦として広い邸を切り盛りし、乳母達を指図して子供達の養育を行ない、
不在の夫に代わってその正室として行なう行動も忙しい。
鎌倉殿縁者ということで能保の元へ顔を出すものも増えてきている。
姉は妻そして母として忙しいのである。

範頼はここでもしばらく放置される。
昔うるさいほど範頼の周りにまとわり付いていたここの娘達も今はもうすっかり大きくなって
範頼の前には姿を現さない。御簾ごしに一時挨拶をしただけである。その御簾越しに見る娘達の影の大きさに範頼は驚く。
末息子がものめずらしげに体の大きい叔父を時折見に来るが、書や学問の修行に急がしそうである。
姉は忙しくしている。

だが義経の邸とは違い姉の家は夜には静寂が訪れる。

一番下の息子がいつまでも母親の側にまとわり付くが、上の三人の娘達はそれなりの年でありある程度母親とは距離を置くようになっている。
主不在の家には夜は来訪者がいない。

日が暮れると姉は乳母夫の後藤実基に目配らせをする。
実基は物々しい姿の郎党を邸内に散らばらせた。

「姉上、これは。」
「今、都は物騒です。どこに物盗りや押し込みが入るか分かったものではありません。
この邸を守るために後藤に邸の警護をお願いしています。」
「・・・・・」
「この前も三条に押し込みがあって、何人もの女たちが衣装を剥ぎ取ら雑色が何人か命を落としたと聞きました。
前々から都は物騒でしたが、このところはより一層都の乱れは酷いものになりました・・・」
「・・・・・」

それから暫くしてから姉は範頼をじっと見つめた。そしてゆっくりと手を握る。
「六郎よく戻って来てくれました。よく無事で。」
姉は体を震わせながら静かに涙をこぼしてた。

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蒲殿春秋(五百三十八)

2010-11-26 06:01:40 | 蒲殿春秋
義経が忙しいのはよくわかる。

鎌倉殿代官としての義経には過大すぎるほどの期待が込められていた。
まずは乱れきった都の治安の回復が望まれた。
平家が都落ちをしていらい都の治安は完全に乱れきっている。
まずそれを何とかして欲しい、それが都に住する人々の切実なる願いであった。
だが、先に見た都の状況をみるとそれがいかに困難なことであるかを範頼は容易にさっすることができた。

そして畿内西国で起きている荘園内における鎌倉方武士の狼藉の停止の懇願。
飢饉からやっと開放されつつある畿内。だが、ここの所の戦乱とそれにともなう軍事行動によってやっと得た食糧を兵糧として差し出す差し出さないの問題が起きている。
畿内の人々は食糧を奪われたくない。
しかし、出征した兵達も食糧が必要なのである。

かくしてさほど多くない食糧を巡って国衙や荘園に住する人々と鎌倉方武士との間に紛争が生じることとなる。
武士達は力ずくで荘園に押し入り食糧を得ようとし、住人達も奪われまいと必死で抵抗する。
抵抗叶わず食糧を奪われた者達は国衙の役人や荘園領主に訴え、その訴えられた人々は都に押し寄せる。
その押し寄せ先が鎌倉殿代官義経なのである。

この治安回復と畿内西国の紛争解決だけでも義経が食事をとれない事態を巻き起こしている。
そしてさらに院と鎌倉からはさらなる期待を義経に向ける。

それは西国にある平家を攻めて三種の神器を取り戻せ、ということ。

平家が奉じる安徳天皇とは別に都では後鳥羽天皇を立てた。
そしてこの夏にも後鳥羽天皇の即位の式が行なわれなければならない。
だが、その即位の式に必要な三種の神器が現在都に無いのである。
なにがなんでも早急に三種の神器を平家から取り戻さなくてはならない。

鎌倉からは何人かの御家人たちが西国や畿内に派遣されている。
そして事実土肥実平は西へ向かっている。
だがその御家人たちを統括するのはあくまでも義経である。
義経が西国の平家討伐の責任者なのである。
よって三種の神器奪回、そのための平家追討の責任まで義経が負っていることになる。

義経の多忙の日々はこの先も長く続きそうである。

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蒲殿春秋(五百三十七)

2010-11-21 05:34:31 | 蒲殿春秋
邸内に入った範頼ら一行はそれなりの部屋に通されたが、しばらくの間放ったらかされていた。
この邸にいる全ての人々が忙しそうに動き回っている。

やがて日が暮れ夜が訪れた。それでも範頼たちは放置されている。
あちらこちらで腹の虫が鳴き始める。

夜がかなり更けた頃、範頼らの前に甲冑をつけたままの姿で義経が現れた。
「兄上、ようこそお越しくださいました。遅くなりましたが今から夕餉の支度をさせます。」
それだけ言うと義経はその場を去った。

やがては範頼らの前に夕餉が運ばれた。
長年陣中生活を送っていた身であったゆえ通常に邸の中で座って食事をできるのがありがたい。
大食漢の範頼の前には弟の心づくしで多めに食事が用意されていた。
陣中食以外の食事を久々に堪能した。

その食事の間も義経は姿を現さない。

かすかに見える義経の居間には明りが灯っていて、文書を抱えた者達がしきりに義経の居間に出入りするのが見て取れた。

やがて夜具が運び込まれてきた。
範頼ら一行は早々に眠りの中に入っていく。
それからしばらくたっても義経の居間には明りが灯り続けていた。

翌朝、星がまだ瞬きを残している頃に範頼が目をさますと邸内は既に人々が忙しく動き回っている。
しばらくすると、既に身支度を整えた義経が範頼の居間へ現れた。

義経は兄を上座に座らせてみずからはその下座に下がると丁寧に挨拶した。
「兄上、なんのお構いも出来ず申し訳ありませぬ。ここのところ多忙に紛れ分けても昨日は群盗の追捕に私自ら出ていたものですから。」
そういって義経は詫びた。

「そうか、忙しいときにすまなかったな。」
と範頼も詫びた。
「ところで、そなた昨夜は夕餉をとったか?」
と問う。
「・・・・・」
義経は何も答えない。

「忙しいのは分かる。だが、忙しいからこそわが身を厭え。体をこわしては何もならないぞ。」
そういって範頼は義経を見つめる。
「九郎、私からの願いじゃ。本日の朝餉と夕餉はこの兄と一緒にとってくれ。そなたがくるまで私は何も口にせぬぞ。」

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蒲殿春秋(五百三十六)

2010-11-19 06:03:50 | 蒲殿春秋
京の都に入った範頼はまず鎌倉殿代官としてかの地に滞在する異母弟源義経の邸へと向かった。
義経の邸は六条堀河にある。
そこに向かう途中に範頼は何度も廃墟を目にした。

平家が都落ちをした際、平家は自らの邸宅群を焼き払って都を退去した。
洛外の六波羅、そして都南部の西八条。
平家の焼き払った炎は彼等の邸宅のみに留まらず多くの類焼を引き起こした。

故に都には多くの焼亡の爪あとが残され、その後の混乱で再建すらなされていない。

道端には飢えた表情の人々がたむろし、数少ない食糧を取り合って争う姿も見られた。
そして、白昼同道行なわれる物盗りや殺人。
このような凶悪なことが目の前で行なわれても周りの人々は一切関与しない。

自力救済ー自分の身に降りかかったことは自分自身のみの力で処理をする。周囲は誰も助けてくれない。
これが中世においてはごく普通のことである。
そして訴訟主義。検非違使の目の前で凶悪事件が起きても、被害にあった当の本人が申告しなければ捜査も逮捕も行なわれない。

この時都はまだ無法状態であった。

このような中、地味ないでたちの範頼が大路を通ってもそれを気に留めるものなどだれもいない。
大軍の平家を西海においやった大将軍の一人であると気づかれないまま範頼は異母弟義経の邸向かう。

義経の邸の周りには多くの人々がたむろしていた。
貴賎老若男女問わず義経に用があって取り次いで欲しいという人々が絶えないのである。

そのような状況下範頼は多くの人々に混じって邸の中に入るのをしばし待たされることになった。
地味にしている範頼を誰もが義経の異母兄だとは気づかない。

やがて範頼が門番に呼ばれた。
用向きを尋ねられ、範頼がその身分を明かしそれが事実だとわかると門内から大急ぎで出迎えが出されて範頼一行は丁重に邸内に引き入れられた。

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蒲殿春秋(五百三十五)

2010-11-16 05:51:48 | 蒲殿春秋
その範頼の元に梶原景時が現れた。
景時は範頼をねぎらった。そして一言言う。
「蒲殿には姉上のお見舞いに行っていただきたい、そのように鎌倉殿がおおせです。」
と。

姉は今都に戻っているはずである。
そして、景時は付け加える。
「鎌倉殿はこうもおっしゃられました。今まで姉上は散々ご苦労をなされた。姉上が可愛がっておられた蒲殿がおられれば姉上のお心も癒されるであろうと。
しばし姉上の側にいていただきたいとも。」

しばらく姉の側にいてほしいということは長く都に滞在せよ、ということである。
つまり、都に行って暫く東国に戻ってくるな、ということである。

姉に会えるのは嬉しいことではある。
しかしその言葉にある兄鎌倉殿の思惑が気になる。

範頼は思った。
甲斐源氏と親しい自分が今東国に下ることは今の兄にとって望ましくないことなのであろう、と。

範頼は兄の心のうちを考えるのが怖かったが現在は都に留まるのが得策だろう。
何よりも数年ぶりに姉に会えるのが嬉しい。
頼朝の挙兵によってここ数年間確かに姉は心労の絶えない日々を送っていたはずである。
しかも、夫の一条能保も姉の側にはいない。
その姉の力にもなりたかった。

範頼は景時に承諾の意を伝えた。

やがて範頼の元に留まっていた兵達は梶原景時の指揮の元本国へ戻されることになった。
範頼と共に都に向かったのは当麻太郎とごく少数の郎党たち。
大勢の兵達をつれて都に入るわけにはいかなかったし、多くの兵達が本国に帰りたがっていたのは充分に承知していた。

大軍を指揮して平家とたたかった大将軍の入京にしては少ない供回りではあった。
だが、あてどない滞陣から開放され都に向かう各人の顔は喜びに満ちていた。

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蒲殿春秋(五百三十四)

2010-11-15 05:50:43 | 蒲殿春秋
長いこと一の谷に留まらざるを得なかった範頼が其の地を離れる日がついに訪れた。
一旦鎌倉に戻っていた梶原景時が摂津・播磨守護となり自軍を引き連れて滞在することになったからである。
よって範頼は一の谷警備の任を解かれることになったのである。

この報を聞いたとき範頼の陣中には喜びの声がこだました。
長期にわたる滞在は兵達に多大なる負担をもたらしていた。
人馬の食糧だけの負担も大きかった。
これまで官軍が進むときは、滞在先で必要な食糧その他を進軍先で調達するのが常であった。
しかしここ数年西国は飢饉で苦しまされた上に、木曽義仲や平家によって物資の徴発がしきりに行なわれて物資が不足していた。
そこに鎌倉勢が乗り込んでいたのである。
底をつきかけている残り少ない物資を守ろうとして住人達は抵抗した。

その為一の谷に残された範頼たちはさらに遠くの地に食糧物資を求め、なおかつ足りない分は本国からの送付を待たなければならなかった。

さらに滞陣そのものの苦痛となりつつあった。

敵が攻めてくるかもしれない、けれども実際に戦闘が行なわれるわけでもない。
そのような中途半端な状態を二ヶ月近くも続けていた。

このような状態からやっと開放されるのである。

だが、逐次東国からもたらされる情報は範頼を手放しで喜ばせるものだけではなかった。
範頼は知る。
頼朝の婿の木曽義高の死。
そして、甲斐源氏一条忠頼の謀殺。
さらには鎌倉勢の甲斐信濃侵攻。

範頼が一の谷に釘付けになっている間に東国は激動に見舞われていたのである。

この一連の激動に範頼は無関係ではいられない。
東国における激動の軸は頼朝による甲斐源氏弾圧にある。
その甲斐源氏と範頼の関係は深いものがある。
頼朝が石橋山で敗れた際、範頼は甲斐源氏の元に逃げ込んでいた。
それから暫くの間甲斐源氏と行動を共にしていた。

さらに言えば範頼は現在においても甲斐源氏安田義定とは盟友の間柄なのである。

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蒲殿春秋(五百三十三)

2010-11-11 23:24:10 | 蒲殿春秋
この国最大の軍事集団となった鎌倉の力は兼実も承知している。
そして後白河法皇が頼朝の意向を無視しがたいという事実も知っている。

鎌倉の力を意識し始めた摂関家の男達は頼朝に露骨に接近を図った。
現摂政の近衛基通は正式に清盛の娘と離縁した。そして今度は頼朝の婿におさまるらしいという噂が起きている。
前関白の松殿基房も頼朝に接近しようと色々と工作しているらしい。
その中においてあえて自分からは鎌倉に接近しなかった九条兼実を頼朝は推している。

その事実を兼実は不審に思う一方で期待が膨らむのを抑え切れなかった。

だが、その兼実の側に伺候する藤原範季はその理由が判る気がした。
基通は元々平家寄りだった。基房は義仲と組んだ過去がある。
そして基通は後白河法皇に近すぎ、基房は義仲と組んだ過去から後白河法皇に疎まれている。

一方兼実は今までどの勢力からも距離を置いていた。そして後白河法皇とも有る程度の距離がある。
一歩間違えれば「孤立」となるのだが、その距離感が頼朝にとっては都合がいいのだろう。
そして兼実には摂政になれる資格が十分に有る。
頼朝からみれば兼実は最も都合の良い摂関家の男なのである。

そして範季は今度は自分の価値を考える。
主兼実に接近を図っている頼朝の弟範頼を自分は養育してきた。
その一方で現在の正妻は屋島で安徳天皇を奉じている平家一門の娘である。
かと思えば、都にいる天皇後鳥羽天皇を乳母として養育しているのは自分の姪で養女でもある範子である。
そして相婿であり有能な廷臣でもある土御門通親がここのところ頻繁に自分のところを訪れる。

源頼朝弟源範頼、平家と安徳天皇、後鳥羽天皇、九条兼実、土御門通親、そして後白河法皇
これらの人々と範季は全て繋がりを持っている。

今後政局がどのように転ぶかわからない。
その様な中で自分の周りに張り巡らしている縁をどのように活かしていくのか良く考えて行動しなければならない。

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蒲殿春秋(五百三十二)

2010-11-03 06:20:12 | 蒲殿春秋
範頼が福原においてその軍勢を飽きさせないように苦慮していたその頃、範頼の養父藤原範季は都に於いて多忙な日々を過ごしていた。
範季が多忙となっていたその理由は崇徳院をお祀りする祠の造営に追われていたためである。
この時期この国は、旱魃、飢饉、火災、自然災害、そして全国規模の戦乱と多難に見舞われ続けている。
当時この原因は、保元の乱で破れ配所で寂しく崩御された崇徳院のお怒りによるものと思われていた。
それがゆえに崇徳院のお怒りを静めようと崇徳院をお祭する祠を造営していたのである。
祟りや加護を当たり前のように信じていたこの時代においてはこれが正しい政治判断であり、寺社造営は国政の柱の一つでもあった。

つまり、範季は国運を左右するかもしれない大事業の責任者となっていたのである。

この時期範季はそのような大事を動かす要人となりおおせていたのには理由がある。
範季の養女で実姪の範子が後鳥羽天皇の乳母であり、その範子の後見人が範季だったからである。
さらに言えば、範季は後白河法皇の院近臣でもある。
範季は、院と帝の安泰の為にもひいてはこの国に住する全てのものたちの安寧の為にもこの事業を成功させなければならない。

その範季は多忙な日々の中、もう一人の主の動向にも気をかけなければならない。
彼のもう一人の主とは右大臣九条兼実である。
兼実は故摂政忠通の子であるが、上に兄が二人いたため摂関の座に立つことはないと思われていた人物である。
その兼実に関して意外な申し出が院になされて兼実は当惑したものの喜びを隠せないという表情をここのところ浮かべている。

この時期鎌倉の源頼朝から九条兼実を藤原氏氏長者にされてはいかがかと後白河法皇に申入れをしてきたというのである。
本来氏長者とはその氏内部で決せられるべきものである。
しかし、保元の乱以降その地位は治天の君たる院によって定められるようになってきた。
藤原氏の長者ーそれは北家南家式家に分かれた藤原一族全ての頂点に君臨すると同時に、摂関家の所有する莫大な財産を得、
そして興福寺春日社などの氏寺氏社に影響力を及ぼすことのできる存在である。
そしてその氏長者になるということは、政界の頂点たる摂政関白の座に近づくということである。

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