時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

姓と苗字

2006-11-28 23:09:21 | 蒲殿春秋解説
さて、名前のつぎは「氏」(「姓」と表記される場合もあります)についてです。

この時代は
同一の「氏」を持つものが色々な「苗字・名字」を名乗るようになってきたので
非常にわかりにくくなっています。

例えば、
道長の時代ですと
宮廷社会は「藤原」(氏)さん一色ですが
平安末期からは「一条」だの「九条」だの「徳大寺」(苗字)だのでてきて訳がわからなくなります。
東国になると「千葉」「三浦」「北条」(こちらも苗字)などが出てきます。

なぜかといいますと
「氏」は変わらないのですが、なぜかこの頃から「氏」とは別に「苗字」をみな持ち始めます。
(公式記録には氏が載ります。例えば九条兼実は「公卿補任」には「藤兼実」と記載されています。)
つまり「姓」と「名字」を両方もつのです。
この風習は明治初期まで続きます。
(例えば 徳川氏の「氏」()は「源」
    毛利氏の「氏」は「大江」です。)

なぜ「苗字」を持つようになったのかといえば
東国武士の場合は「所領」の関係(領地を名乗る)
都の人の場合は「家格」編成の都合でそれぞれの家が分化し始めたという問題があります。

難しい話をするほど私もよく判っていないので
とりあえずここに出てきた人たちの「氏」と「苗字」を書いておきます。

氏・姓・苗字に関してこちらにてわかりやすく説明されています。

「藤原」氏の「苗字」
 高倉範季(本文では藤原)、一条能保、一条長成、九条兼実、持明院基家
 藤原秀衡、藤原基成
 小山、藤姓足利氏、佐藤、伊東


「源」氏
 武田、安田、一条、加賀美、石和、佐竹、木曽、新田、足利、平賀、
 山本、柏木、葦敷、土岐

「平」氏の「苗字」
 北条時政、梶原景時、上総介広常、千葉、
 城資職、城資永、常陸大潨、平田

今後大量発生の予定なのでまた書きます。
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当時の女性の名前について

2006-11-28 22:54:59 | 蒲殿春秋解説
平安、鎌倉時代の女性はかなり有名な人の妻、母、娘であっても
「本名」が知られていないことが多々あります。
系図には「女子」としか掲載されていない女性が多数います。
けれども、これは決して女性を軽視した結果ということではありません。

平安時代は婿入り婚で両親の屋敷は娘に相続されていましたし
平安末期には領地を沢山所有する女性が散見されます。
また、鎌倉御家人と呼ばれる人々の娘に
親の所領の相続がされていたことが見受けられます。(当時は所領等は分割相続)
夫の死後の財産管理権はその未亡人にありました。
嫡子といえども先代の未亡人の意見は無視できないものでした。

このような権利があるということは女性にも当然なすべき義務があったのは当然で
実家と嫁家との橋渡し役をする
一族を束ねる役割をする
自らが有力者の家に仕えて(乳母、女房など)実家や婚家の優遇策をとってもらう
一族の祭祀を担う
などの役割が当時の女性には期待されていたようです。

このように、女性は男性とは違った分野でけれども決して無視のできない
働きがなされていた時代が平安・鎌倉前期だったと思われます。

けれどもなぜ男性の多くが名前を残し女性は名前を遺さなかったのでしょうか。

大きな理由が二つあると思われます。

一つは
本名を使用するのを禁忌する風習があったため
男性でも、本名で相手をよぶのをはばかり役職名や居住地で人をさしていたくらいです。
女性ではなおさら「本名」を呼ぶのが失礼
いや、「本名」が知られるのは「相手に生命を握られる」のと同じくらい
怖れられるというほど禁忌されるものでした。☆

当時としては女性の「本名」を知ることのできる権利があるのは
親兄弟と夫くらいのものでした。
「本名」を教えるということは「相手に全てをゆだねる」というくらい
重大なことだったのです。

現代で言うと、女性の住居の中身をトイレや台所、物置の奥まで見せて
体重、体格、生年月日、趣味嗜好の全て
銀行の口座番号と暗証番号、クレジットカード情報
その他全ての大切なものを相手に教えるようなものです。

そのくらい本名が知られることは女性にとっては由々しき問題だったのです。

しかし、例外的に位階を与えられるなど公的な理由で名前が明かされる場合は
そのようなことは言っていられません。
必要ならば、名前が明かされるということは仕方が無いということで
公的身分を持つ女性の名前は残るようになりました。

二つ目の理由としては
本名で呼ぶ必要がなかった
先にも述べましたが、男性の場合も本名では呼ばず
役職名、居住地、兄弟順で人を指しました。
たとえば
源義経は
任官前は九郎(九人目の男子の意)
検非違使に任じられてからは「判官殿」と呼ばれました。(判官とは左衛門尉のこと)
(身分の高い人が下の身分の人の本名を日記に書くことはあったようですが)

ただし、男性の場合は女性に比べると「公的役職」につく度合いが圧倒的に
に多く、その除位任官には「本名」が必要だったので
必然的に記録上名前が多く残りました。

女性の場合はどのように呼ばれていたかと言えば
「○○の何番目のお嬢さん」とか
「○○の奥様」というように呼ばれるか
宮仕えして「女房名」(本名ではない)で呼ばれることが多かったようです。
家の中では
「大姫」(長女)
「中姫」(次女)
「乙姫」(末娘)
などと姉妹順で呼ばれていたようです。
現代でも「お姉ちゃん」と呼ばれて育った女性も少なくないと思います。

また、名前自体公的な立場に立つ必要が出てから名づけられる場合も多いようで
例えば
天皇の元に女御として上がることが決まったので名前をつけた
という場合も多々あったようです。


このように、女性の名前が残っていないのは
女性蔑視の結果ではなく
むしろ逆に「女性のプライバシー保護」「呪術的な保護」の意味合いが強かった結果だったのでしょう。
名前が残っていないからといって女性の権利が無視されていたという考え方は
近代的な価値観なのではないでしょうか?

(少し論点がズレるかもしれませんが、
この時代の女性の名前が残っていないから軽く見られていたという考え方は
ネット上に本名が載らないから
HNしかネット上に載らないネット使用者の権利が世の中で保証されていなかった
と言っているのと似ているような気がしますがいかがでしょうか?)


☆これは当時の「呪術的な」考え方で
現代では笑い飛ばしてしまうような話ですが
当時の人たちはそれを真剣に信じていたのです。
呪術や宗教が生活の中にスッポリと入り込んでいる時代です。
外国の人の文化風習が理解しがたい部分があるのと同様
何百年も昔の人の考えも現代の人には理解しがたいものがあるのです。

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範頼の兄弟について その4

2006-11-26 10:45:26 | 蒲殿春秋解説
一条能保室

彼女は女性です。
当時の女性の多くの常として名前が知られていません。(当時の女性の名前についての考察はこちら)
「平治物語」では坊門姫と呼ばれています。
この激動の時代に源義朝の娘として生まれ
それゆえに時代の荒波を直に浴びながらも多くの子供を産み育てた女性です。
一条能保も彼女の夫であるがゆえに激動期の歴史に少なからず関わることになります。
そして、彼女の子孫が後に大きく歴史に関わることになるのです。
彼女もそれなりに激動の人生を送ったものと思われます。

女性であるがゆえに戦場に立つこともなく
女性も政治的に発言することが可能だった時代にも関わらず
その方面には何の痕跡も残さなかった彼女ですが
史料のあちらこちらに彼女が確かに存在した証を遺しています。

頼朝の姉説の場合 久安元年(1145年)生 ※
頼朝の妹説の場合 久寿2年(1155年)生
父 源義朝、母 熱田大宮司藤原季範の娘(「尊卑分脈」他)
夫 一条能保 (「尊卑分脈」「吾妻鏡」他)
同母兄弟 頼朝、希義

※彼女ついては頼朝の姉説と妹説の二つがあります。
そのそれぞれの根拠

姉説 
「吾妻鏡」建久元年(1190年)4月20日条に13日一条能保室が難産の為46歳で死去したとの記事がある。逆算すると1145年生まれで頼朝の2歳姉となる。

妹説
 「吾妻鏡」では頼朝の「妹」と記載されている。 
古態本「平治物語」で彼女の乳母夫後藤実基が1159年現在6歳の彼女を連れていたとの記載がある。(この計算ならば1154年生まれになりますが)

それぞれに対する反論はこうです。
姉説に対する反論
 46歳の難産死は無理があるのではないのか
 吾妻鏡46歳の死没は36歳の誤記ではないのか

妹説に対する反論
 「妹」というのは当時においては「姉妹」をさす言葉なので年上の女兄弟も含まれる。
 (現に北条政子を義時の「妹」と記していた当時の文書もある)
 この場合特に改竄の必要もない部分なので
 「軍記物」の記載よりは「吾妻鏡」の記載を優先するべき。

さて、私は彼女を頼朝の「姉」としました。
このように考えるのには次のような理由があります。

姉説に反論での46歳(満44-45歳)の難産死は無理という部分がありますが
妹説では逆の「無理」があるのです。
彼女の娘と考えられる九条良経室が
正治2年(1200年)7月13日に34歳で死亡したとの記事が「明月記」にあります。
逆算すると九条良経室は1167年生まれです。
1167年に出産したならば
一条能保室1155年生まれの場合満11-12歳で出産です。
出産するにはその約10か月前に妊娠出産可能な体になっていなければなりません。そうすると「妊娠」した時期はまだ満11歳にもなっていない可能性もあり
個人差もありますが、10-12歳では初潮を迎えている可能性は当時の栄養状況から考えて低いのではないのかと考えられます。
また、体の成熟度を考えてもその年齢で妊娠できてもリスクが非常に高く無事出産にたどりつくかどうか・・・
当時も初出産年齢は数え年15歳を越えてからの方が多いようです。


数46歳の難産死も無理があるかもしれませんが
藤原道長の妻倫子は40過ぎてから出産していますし
当時も後白河法皇の寵を受けた丹後局が40歳くらいで出産しています。
また、現在でもそのくらいの年齢の出産はたまに見かけます。

そのように考えると
妊娠出産の可能性は
満44-45歳(数え46歳)の難産死>満11-12歳(数え13歳)の出産
と思われますので私は一条能保室を「姉」と設定しました。

範頼の兄弟について その3

2006-11-26 10:38:51 | 蒲殿春秋解説
源義経

この方は超有名人で、いたるところに伝説が氾濫してます。
けれども「伝説先行型」でどこまでが事実、史実であったのかの線引きが難しいところです。
私のわかる範囲で「事実だったかもしれない」というところを書き出してみたいと思います。()内は記載されている記録

平治元年(1159年)生 (「吾妻鏡」「平治物語」他)
父 源義朝 母 九条院雑仕常盤 (「吾妻鏡」「尊卑分脈」他)
父からみた兄弟順 九男※1
同父同母兄弟 全成、義円(円成) (「尊卑分脈」他)
異父同母兄弟 一条能成(「尊卑分脈」)、女子(「吾妻鏡」)

経歴
父の死後母と一時期共に過ごす。
鞍馬寺に入門していた可能性大
その後奥州に下向※2

※1
義経の兄弟順について
九男と見る説
 各種系図に義朝の四男として「義門」という人物が記載されていますが
この人に関しては「早世」と書かれ詳しいことが書かれていない「謎の人物」です。
つまり、存在したのかどうか判別不能に近い人物です。
この人がいたとしたら義経は九男です。

八男と見る説
 軍記物などで
「自分は八男だが、叔父の鎮西八郎為朝に遠慮して九男にする」
本人が言ったという記載で八男説もありますが
この軍記ものの記載よりも「義門」が存在したのかどうかが問題だと思います。

六男と見る説
 「吾妻鏡」ではなんと義経のことを「六男」と記載していました。
(義経死亡記事 文治五年(1189年)四月三十日記事)
ですが、吾妻鏡では
義平を頼朝の舎兄と記載され(長男) (義平未亡人への艶書事件)
朝長が存在したことも記され(次男) (波多野氏関連の記述)
頼朝は序文で三男と記され(三男)
頼朝と同母の弟希義が土佐で死んだことが記され(四男?) (希義死亡記事)
範頼も義朝の息子で頼朝の御舎弟として記載(五男?) (曽我事件の弁明)
全成も頼朝の弟と明記されています。(六男?) (頼朝との対面記事)
ただし、義円に関しては頼朝との続柄が明記されていません。
義円を抜いたとしても吾妻鏡の記載だけでも上から数えると
義経は7男となります。
(それとも、希義・範頼・全成の誰かが義経の「弟」とカウントされたんでしょうか?)

誤謬というしかないのですが、なんで義経を六男と書いたんでしょうか・・・

兄弟順というのは下に行くほど不明瞭になります。
系図にも、どの記録にも残ってなくて密かにもっと兄弟がいた場合は
ますます、順番が狂います。

とりあえず、「九郎」という通称を元に「九男」と考えるのがやはり無難なところでしょうか?

※2
義経の奥州下向について
角田文衛氏は母常盤の再婚相手一条長成の縁戚関係が奥州にまで伸びていたので
その縁を辿って奥州に下ったとの説を唱えられました。
この説は現在でも有力で、この縁ゆえ奥州でも義経は奥州の支配者藤原秀衡に厚遇されたと見る向きが強いようです。

しかしながら、一条長成がらみでも秀衡との親戚関係はかなり遠いものなので
この縁が有効だったかどうかわからず
奥州でもさほど厚遇されていたわけではないのではないかとの見方もあるようです。
中には少年期奥州には行かなかったのではないのかという説まであるようです。
(※2以降ここまで「源義経ー流浪の勇者」などを参考)

けれども、南奥州出身の佐藤継信、忠信兄弟は最期まで義経にかなり忠実に従っています。
(彼らとは都で知り合った可能性が全く無いわけではないのですが)
このことを考えると藤原秀衡との関係はどのようなものであったのかはわからないのですが、義経はその前半生のうちには一度奥州に下ったものと考えてよいのではないのかと考えられます。


また、この小説のなかでは既に義経を妻子持ちにしていますが、
この時期にすでに娘がいたらしいという説はかなり有力なようです。
妻はだれだかはまだわかりませんが・・・

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範頼の兄弟について その2

2006-11-25 16:46:13 | 蒲殿春秋解説
全成

この人に関してはいわゆる「一級史料」というもっとも信頼の置ける史料には
記載がありません。
ただし、「吾妻鏡」や「尊卑分脈」などの「場合によっては信頼してよい史料」と
「平治物語」の中の状況的に記載内容を特に打ち消して考える必要のなさそうな部分を元に
「たぶんこうであっただろう」と思われる部分を書き出してみます。
ですから、頼朝に比べるとここに書く記載内容は「信頼性に欠ける」ということを
ご了承の上お読みください。

仁平3年(1153年)生?(「平治物語」)
幼名 今若(「平治物語」)
父 源義朝 母 九条院雑仕常盤(「尊卑分脈」他)
兄弟順 父を基準に考えれば七男説濃厚

同父同母兄弟 義円(円成)、義経(「尊卑分脈」他)
異父同母兄弟 一条能成(「尊卑分脈」他)、女子(「吾妻鏡」)
経歴
父の死後、醍醐寺に入って出家(「吾妻鏡」「平治物語」)

なお、異父兄弟の「女子」の父は誰かという問題があります。
一般的には平清盛と常盤の間に「廊の御方」という女子がいたと言われています。
しかし、この女子の出典は「平治物語」「平家物語」などの軍記物と
「尊卑分脈」などの系図によります。
しかしながら、「軍記物」のその部分の信憑性が疑わしいこと
「尊卑分脈」の成立の事情から考えて「廊の御方」の存在そのものを疑問視する向きもあります。

「吾妻鏡」には義経が追われる身となった際
「義経の母と妹の身柄を都で鎌倉方が確保した」という記事がありますので
義経(つまりは全成)に妹がいたことは確かなようですが
「吾妻鏡」ではその父親の名前までは明らかにしていません。
清盛の娘ではない場合彼女の父親はやはり一条長成である、と考えるべきでしょう。

この時代の史料についてはこちら


史料について

2006-11-25 13:25:59 | 蒲殿春秋解説
この時代で「一級史料」として評価されているものは   (信頼性順位 1位)
「公卿補任」(公卿一覧表及び各人経歴)
「玉葉」「山塊記」「兵範記」「吉記」など同時期に書かれ
原文がそのままの形で残っている日記
「平安遺文」として近年編纂された当時の手紙などの記録

ついで信頼性の高いものは
「百錬抄」「清獬眼抄」などの古記録の編纂物      (信頼性順位 2位)
「愚管抄」(当時の天台座主慈円が書いた歴史書)     

その次くらいに「吾妻鏡」(「東鏡」) ※1          (信頼性順位 3位)
 =鎌倉幕府の公式記録

その次くらいか同等に「尊卑分脈」(※2)などの系図類  (信頼性順位 4位)

そのほか補足的史料として
「軍記物」や「説話」「物語」(※3)               (信頼性順位 5位)


※1
吾妻鏡は後年(鎌倉中期に)各種記録を元に編纂されたものであるので
日時的なものなどの編纂時の誤謬
転写ミス
軍記物の内容の混入
頼朝の実力の過大表記、北条一族正当化の為の潤色があるので
大体においては信用してよい記事が多いものの
他史料との付け合わせや「潤色」に関する疑いを持つ
という態度が必要な「取り扱い注意」史料である。

※2
「尊卑分脈」も取り扱い注意史料である。
この本は系図を調べる上で非常に有用な書物であるが
成立が「南北朝」時代なのでそれ以前のものは
誤謬を疑う必要がある。
特に源平記に関しては「軍記物」の中からも記事が採用されている場合が
あるのでより一層注意が必要である。
南北朝時代の人が源平期の人脈を探るということは
時間的に考えると
現在の我々が元になる系図もなしに江戸後期の人々の人脈を探るのと同じくらい困難な作業であることを想起していただきたい。
最近は「各種系図」に関する信頼性に対する研究が進んできたようで
どの系図がより信頼できるものかがキーポイントになってくると思われる。

↑は私の個人的意見です。
尊卑分脈に関してはこちらの方を是非ご覧ください

※3
「軍記物」「説話」「物語」
「フィクション」部分や「大げさ」部分も多分に含まれているので
あくまでも「副次的に」「取り扱いに非常に注意して」
「事実かもしれない」と取り入れることは可能である。
なお、その際その本の「成立年代」に注意し異本が複数有る場合は
付けあわせをしてどの本の記事から採用するかの配慮も必要であろう。
(例 「平家物語」でも「延慶本」と「源平盛衰記」では200年以上の成立年代の隔たりがあるのではないかとも言われている)
ただし、記事によっては他史料より信頼できる部分がある場合もある。

ps.信頼性順位は色々な本を読んだ結果(守備範囲はそんなに広くないです)
私が個人的につけたものです。

範頼の兄弟について その1

2006-11-25 09:16:58 | 蒲殿春秋解説
つぎに、ここまでで登場させた範頼の兄弟について「事実」として判っている部分を書きだしていきたいと思います。(ここまでの話の部分までです)
名前しか出ていない兄弟は割愛させていただきます。()内は記載されている史料です。

源頼朝
久安3年(1147年)生まれ
父 源義朝、母 熱田大宮司藤原季範娘 (「公卿補任」他)
兄弟順 3男
同母兄弟 希義、一条能保室 (「尊卑分脈」他)
ここまでの経歴(「公卿補任」)
1158年 皇后宮権少進(皇后は統子内親王=後の上西門院)
1159年 上西門院蔵人
      近衛将監
      母死去つき一時期解官
      蔵人(二条天皇)
      叙爵(従五位下になる)
      右兵衛権佐
      平治の乱の連座で解官
1160年 伊豆国に流刑(他史料として「清獬眼抄」)

以降1180年までの経歴は軍記物、物語、各種伝説はあるものの
信用性の高い記録には一切彼の名前は出てきません。
この期間の彼の経歴としては
北条政子と結婚したということ以外は判らないというのが実情です。

というわけで、頼朝の場合「事実」と確認できる部分とそうでない部分の
落差が非常に激しいのですが、
他の兄弟に比べると
「公卿補任」に彼の官位等の経歴が記載されているため
平治の乱以前の経歴が明らかなので
この兄弟の中で一番経歴がはっきりしている人物といえるでしょう。


「公卿補任」
  歴代の公卿(大臣、大納言、中納言、参議)の一覧表のようなもの
  公卿になった人の経歴も記されている。
  頼朝も「公卿」になったので記載されている。
  (ちなみに後年織田信長も「平信長」としてこれに記載されている)
  これに記されている内容の信用性は非常に高い。
  100%に近い信頼を置いてもよいと言われている。
  本になって出版されているが高価。
  県立図書館レベルで「館内専用」としてなら閲覧できるが
  個人的にはもっと手の届きやすい図書館にもおいて欲しいと願っている。

「清獬眼抄」
  検非違使の記録をまとめたもの。
  それによると永暦元年(1160年)3月11日
  源頼朝を伊豆国に(護送役 検非違使友忠)
  その弟希義を土佐国に
  流刑に処したとの記録がある。
  ちなみに同日
  平治の乱に関わっていた
  藤原経宗、藤原惟方が流罪になったことが記されている。
 (彼らの担当の護送役人と流刑地も記されている)
 なお、清獬眼抄は「群書類従」に所収されており
国立国会図書館複写サービスで閲覧可能です。

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ここまでの範頼

2006-11-23 15:36:41 | 蒲殿春秋解説
さて、ここまで範頼を(一応)主人公にして書いてきたのですが
これは「小説もどき」ですから当然フィクション部分が多分に含まれています。
ですが、一応は色々な本を読んで「事実だったのではないか」という部分も勿論書かれています。

ドシロウトのかいた小説もどきでこんなことを書くのも気が引けるのですが、ここで、範頼らに関しての史実であっただろうと思われる部分を書き出してみたいと思います。

源範頼(ここまでの部分に関してのみ)

史実であったと思われる部分
父 源義朝、母 遠江国 池田宿遊女(「尊卑文脈」他)
生年未詳 
兄弟順は六男説が有力か
異母兄弟 源頼朝ら数名
藤原範季に養育される(「玉葉」)
遠江で過ごした時期があったと思われる。

はっきりと判っているのはこの部分だけです。

ただし、この時期までに彼に対してもっとも影響のあったと思われる
藤原範季らの官歴や家系図に関しては信頼できる史料で
明らかになっていますので
「史実」と考えて下さって結構です。

この小説もどきで範頼をあちらこちらへと旅行させていますが
これは範季の官歴を元に考え出した私のフィクションです。
実際に頼朝の元に現れるまでの範頼の経歴は多少の伝説はあるものの
(といっても義経に比べればはるかに少ない)
全くもって不明なのです。

この先は色々な史料に彼の名前が出てくるので史実部分が増えてくると思います。

延慶本について その7

2006-11-23 11:08:24 | 日記・軍記物
さて、延慶本について色々と書いてみましたが
二週間の貸し出し期間で日常生活をこなしながらあわただしく読んだので
自分の中で十分に消化し切れたとは思っていません。
特に、肝心の「一の谷」以降を十分に堪能できたとは思っていません。

機会がありましたらまた借りてリピーターの視点でまたこの
「延慶本シリーズ」書いてみたいと思います。
(安くて入手しやすければ購入も検討したいのですが・・・)

さて、小説もどきのほうですが
そろそろ俗に言う「源平合戦」に入っていく予定です。
けれども私は「源平合戦」という視点では書かないので
もしかしたらこれは何だと思う方もいるかもしれません。
(少し詳しい方ならばこの時期の戦乱を「治承寿永の内乱」と学界の方が評価しているのをご存知だと思います。それに近い視点になればいいかなあと思っています)
とにかくがんばって書いてみたいと思います。

その前に、少しだけここまでの中間解説を書いてから
小説に入っていきたいと存じますので
よろしければそちらもお付き合いいただければ幸いです。

延慶本について その6

2006-11-19 21:32:56 | 日記・軍記物
(7)腰越状
実は、私が「延慶本」について非常に興味がわいたきっかけはこれに関する記載が
「よく知られている話」と違うということだったからです。

有名な「腰越状」の話
平家を滅ぼし、平家の総大将平宗盛を連れて鎌倉に向かった義経は
鎌倉の一歩手前で鎌倉入りを拒否される。
鎌倉の手前「腰越」にて兄頼朝との面会を待つ義経。
けれども、中々兄との対面は許されない。
思い余って義経は幼少期の苦難や兄弟の情を切々としたためた「腰越状」を
頼朝の側近大江広元に届ける。
けれども、頼朝は面会はしない。
鎌倉に入れず、兄とは会えぬまま都に帰れと言われ、義経は寂しく都へ向かう。


延慶本の話
平宗盛を連れて鎌倉に戻った義経は
頼朝に面会し
「ご苦労様、ゆっくり休みなさい」
と頼朝から言われ、金沢洗にいるように命じられる。
けれども、その後頼朝との対面は無く
「伊予守にしてあげるから、都に帰りなさい」
といわれて義経は都に帰る。


というようになっています。

結局鎌倉からは厄介払い扱いされるのはどちらも同じなのですが
一度も会わずに、鎌倉にも入れずに追い返すのと
一回は会って、官位まで斡旋してやるから帰れ
というのでは
「冷酷」でもその温度が非常に違います。

「吾妻鏡」に「腰越状」が記載されていますし
鎌倉市腰越の万福寺に「腰越状の下書き」なるものが現存しているので
「腰越状」が「史実」とうけとられる向きがありますが
「吾妻鏡」自体が「判官びいき」の傾向にあると言われ
「腰越状」もひそかなる「頼朝批判」の意味を込めて
事実ではないと知りつつ挿入されたとの可能性も示唆させていますし
万福寺の「腰越状の下書き」も真贋の判定は難しいとも言われています。
つまり、「腰越状」の「史実性」も疑わしい向きもあるということです。

というわけで、この「延慶本」の腰越状とは違う義経の「鎌倉への帰還」
も非常に興味が持てる部分であります。