時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(五百三十一)

2010-10-29 05:50:36 | 蒲殿春秋
その範頼の陣中には停滞感が漂っていた。
敵は確かに存在する。存在するが今すぐ戦いがあるとは限らない。
だが、戦いがないとは言い切れない。
西国に行った土肥実平や都に留まる義経のように戦う以外の仕事が多数存在するわけではない。

このような中途半端な状況で滞陣しながらも、その陣を引き払うわけには行かない。
その状況に皆が倦んでいた。

そうなると当然のように出入りしてくるものがある。
それは遊女達である。

陣中には最近は今様の歌声や白拍子それらにつけられた器楽の音そして奇妙な嬌声が絶えない。

遊女達は群れを成してやってくる。
その一団の中にも格差があって、芸達者なものたちや遊女達を束ねる立場の者達は上位に位置する。
大将軍範頼の元には当然その上位の者達がやってくる。
範頼はその者達を受け入れ陣中において芸を披露させて皆を楽しませはしたが、決して側に招きよせようとしなかった。

またそのようなものたちはそれはそれでそういうものだと割り切っていた。
彼女達の仕事は「人を楽しませること」である。
そして芸あるものは芸で人を楽しませることに誇りと生きがいを感じている。
それとは別に女の体で男を楽しませるものも存在する。
遊女の中にも色々なものが存在する。

芸で人を楽しませる者も芸の後男に体を求められることがある。
それを断らない者もあれば、断る者もある。
上位に存する遊女たちにはそれを選ぶ権利がある。

度々出入りする遊女たちを認めその芸を楽しむ範頼も上位の遊女たちにそれ以上のものは求めなかった。

今様、舞、日々の鍛錬によって積み重ねられ芸をを披露する時の彼女達には一種の神々しさがあった。
それを汚したくない。

範頼は舞の名手を好んだ。そして、必ず問う「笛は吹けるか?」と。

笛を吹けるものには笛を吹かせた。そして目を閉じて笛の音を楽しむ。
範頼は黙ってそれを聞く。

周りのものはそれを訝しがる。

だが当麻太郎だけはその理由を知っている。
範頼の母がかつて舞いの名手であり、笛をたしなんでいたらしいということをかつて主から聞いていたからである。

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蒲殿春秋(五百三十)

2010-10-24 16:32:26 | 蒲殿春秋
福原に留まる範頼のもとには様々な知らせが入ってきていた。
まず、西国に向かった土肥実平がまたまた甲斐源氏に悩まされているという知らせがった。

土肥実平が西国に向かったのは寿永三年(1184年)三月初頭。
その実平に甲斐源氏の板垣兼信がついていった。
平家が福原の戦いに敗れたといっても平家の力が西国から駆逐されたわけではないので連れて行く兵は多いほうがいい。
そういった意味で板垣兼信の従軍はありがたいものだった。

しかし、板垣兼信の思惑は実平から離れたところにあった。
兼信は自身の力を西国に及ぼそうと考えていたのである。
しかも兼信は「源氏一門」という自負心がある上に、今回の西国行きも木曽義仲討伐や福原の戦い同様鎌倉殿に「与力」したものと考えている。
つまり、未だに自分は鎌倉方への同盟者と考えている。

その兼信の立場からしてみれば、鎌倉殿の御家人に過ぎない土肥実平など取るに足りない存在だと思っている。
木曽義仲の戦いにおいても福原の戦いにおいても、一条忠頼、安田義定といった甲斐源氏の人々は義経、範頼と同格の存在だった。
その軍目付に過ぎない土肥実平は義経範頼などの源氏一門が同道していない以上源氏一門たる兼信に従うべき存在と信じて疑っていない。

だが、土肥実平の考えは違う。
彼が仕えるべき主は鎌倉殿源頼朝のみである。
現在畿内武士の統括と西国攻めを任されている義経はその代官に過ぎない。
義経が陣中にいない以上、実平は全て鎌倉の頼朝に判断を仰ぐべきと思い板垣兼信は単なる同行者としか見ていない。

土肥実平は自分の判断で、西国の国人を集め、国衙に入り、様々な検断を行なった。
そこに板垣兼信の口を一切挟ませなかった。
その事を板垣兼信は不快に思った。

そして兼信は鎌倉に文を送った。
「土肥実平は源氏一門である私になんの断りもなく事を進める。
今後は何でも私の指示に従うように実平に命令してください。」
と。

しかし、鎌倉から戻った使者の返事は次の通りだった。
「私(源頼朝)は実平を信頼して全てを任せている。あなたは武勇に励んでいればそれでいいのです。
すべてを実平にお任せ願いたい。」と。

兼信はこの返事に絶句した。
だが、西国に自分の力を及ぼしたい兼信はこの返事を聞いても納得せず土肥実平の近くに留まり、自分の血筋を時折協調しながら実平のすることに口出しするのを止めないという。

この話を聞いた範頼は苦笑いした。
土肥実平は、木曽攻めでは一条忠頼に振り回され続けていた。そして今度は板垣兼信に悩まされている。
つくづく実平は甲斐源氏とは相性が悪いものよ。とおもった。

その時範頼はこの一月先に起こる東国における甲斐源氏との戦いの事を予期すらしていなかった。

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蒲殿春秋(五百二十九)

2010-10-23 15:59:11 | 蒲殿春秋
源頼朝は東国においては甲斐源氏を分解屈服させ、都に対しては福原の戦いにおける恩賞の申請を行なった。
それと同時に鎌倉殿はもう一つ重要なことを行なわなければならなかった。
それは、都の治安回復を図ること。そして四国讃岐国に籠もる平家に対する軍事対応を行なうことであった。
その方策は福原の戦い(一の谷の戦い)が終結すると同時に行なわれた。
まずは異母弟義経を都に止め、都の警備と畿内の武士達の統括に当たらせることとした。
ついで大内惟義や大井実春を伊賀、伊勢に派遣しその国々に頼朝の勢力を浸透させんとした。
伊賀伊勢は東海道に属し、東海道の国衙荘園の沙汰を任された頼朝の権限に基づくという根拠があった。さらに、平治の乱以前に近江国に所領を有していた佐々木秀義が彼の地に戻った。



そして頼朝の手はさらに西へと伸びていく。
頼朝は朝廷に四か条の奏上を行なった。そのうちの一つが畿内の武士達を義経の指揮下に置き平家追討に当たらせるというものである。
その方針に基づいて、西国にも鎌倉御家人を派遣することとした。
現在平家は四国讃岐国屋島にある。

この屋島を衝く前に四国から見た瀬戸内海の向こうにあたる山陽道を鎌倉の支配下に収めて、瀬戸内海の制海権をも握り平家に圧力を加えようというのである。
その山陽道を押さえるのに抜擢されたのが、範頼、義経に軍目付として付けられていた土肥実平と梶原景時なのである。
一条忠頼を謀殺した直後頼朝は使者を発した。
既に西国に向けて出発している土肥実平にはさらに西を目指すように伝え、平重衡を連れて一旦鎌倉に戻っていた梶原景時は上洛した後西国へと向かうこととなった。

その頃の畿内から西は、
伊勢に大井実春、伊賀に大内惟義、近江に佐々木秀義、西国進出の先鋒が土肥実平という形となっている。
その彼等を統括しているのが都にいる源義経。
そしてもう一人西国にいる男がいる。
それは摂津福原にいる源範頼である。
範頼は福原の戦い(一の谷の戦い)の後東国の御家人たちの多くが東国に帰還した後も、残った手勢を率い平家の反撃に備えて福原に残っていた。



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工藤祐経の経歴 ー伊豆国武士の主は誰?ー 下

2010-10-17 06:01:56 | 蒲殿春秋解説
さて、源頼朝は挙兵以降一貫した方針を有しています。
それは「自分と同格の武家棟梁の存在を許さない」です。
その方針に基づき新田義重を臣従させたりしていまし、義仲との対立としたのもその方針が大きな要因になっていたのではないかと思われるのです。

当時の武士達は何人もの主を持つのが普通でした。(それは武士には限らない)
しかし、軍事的意味を考えると、その場にくるまでどちらの主に従うかわからないというのは主側にしてみれば困る話ですし、土地の訴訟問題などが絡むと
片方の主が下した裁定ともう一つの主が下した裁定が異なるということでは余計な混乱を招きそれらが積み重なると主同士の深刻な争いをもたらすということになるでしょう。
(例えて言えば、現在のA地裁とB地裁同時に同事件の訴訟が持ち込まれA地裁とB地裁が正反対の判決を出して、高裁以上が存在しないという状況)

そのようなことを考えて頼朝はそのような方針を堅持していたのではないかと私は考えています。

頼朝と同格だった新田義重は屈服し、敵対した志田義広は東国を去り、義仲は滅びました。
そうなると東国に残る同格の棟梁は甲斐源氏の面々ということになります。

甲斐源氏の人々のうち、加賀美遠光・長清親子ははやいうちに頼朝に接近して長清などは頼朝のお側衆となっています。信光も頼朝に早いうちに臣従したものと思われます。
安田義定は一旦は義仲と共に上洛し平家を都落ちに追い込んでその功績で遠江守になりますが、それ以前から頼朝と提携していた様子が窺えますし、その後も頼朝とは良い関係にあったようです。
一方武田信義、一条忠頼の場合はどうでしょうか?
一条忠頼は殺害され、その後甲斐侵攻があります。そのことを考えるとその時期までは彼等は頼朝と同格の地位を保ち続け頼朝に臣従する見込みはなかったものと考えるべきだと思われます。

その忠頼殺害、そして甲斐侵攻の直前に当たる3月中旬から4月初頭にかけて頼朝は伊豆国に滞在してます。
朝廷との折衝や畿内西国への軍進駐問題等を難事を抱えている最中にです。

その理由は何でしょうか?
それは一条忠頼と源頼朝両方を主としている伊豆国住人たちに、「頼朝だけを主にせよ」という下工作、すくなくとも一条忠頼側につくなという圧力をかけるためだったのではないかと思われるのです。

そのように考えますと、治承3年以降「吾妻鏡」に登場しない天野遠景の復活や、工藤祐経が「吾妻鏡」に登場するのは何故なのかという理由がはっきりする気がします。

伊豆国における一条忠頼勢力の排除と頼朝のみへの忠誠を誓わせる、その結果がその「吾妻鏡」の記載に現れているのではないかと思われるのです。

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(このシリーズ完結)

工藤祐経の経歴 -伊豆国武士の主は誰?-中

2010-10-14 05:34:38 | 蒲殿春秋解説
では、治承寿永以前の伊豆国の武士達に強い影響力を与えていた人物は誰でしょうか?
最低でも二人いると思います。
一人は伊豆国の知行国主を長年務めていた源頼政。そして、もう一人は伊東祐親の荘園の領主だった平重盛などの平家一門。
しかし、治承寿永の乱が勃発すると頼政は敗北して死去します。
そして次に来た知行国主は平清盛の義弟平時忠。目代は時忠の検非違使庁における部下だった山木兼隆。
そうなると頼政との関係が深かった伊豆国住人達は平家に近い立場だった住人達の圧迫を受けることになります。

そのような中で伊豆国の住人たちは新しい主を探そうと模索したと思われます。その中で見つけたのが以仁王の令旨を貰っていた源頼朝です。かれらは事態を打開すべく頼朝を担いで挙兵し目代を討ち取り伊豆国を占拠します。
しかし、彼等が最初に担ぎあげた源頼朝は石橋山で敗北します。
その時点で頼朝に従って敗北者となった伊豆国住人たちが新たなる保護者を求めるのは当然の成り行きであると思われます。

中山忠親が記した「山槐記」によると頼朝が伊豆国を占拠したのと同じ頃武田信義が甲斐国を支配下に収めたように記されています。
つまり同時期に武田信義率いる甲斐源氏が反平家の立場で甲斐一国を占拠したであろうことが見て取れます。
そうだとしたら伊豆国住人達が甲斐に逃げ込んだ理由が見て取れます。
彼等は自分達の安全を図り伊豆国での復権を賭けて今度は甲斐源氏の元に従うのです。少なくとも反平家という立場は同じですから。
その後北条時政や加藤景簾は甲斐源氏と行動を共にして鉢田の戦いに参戦します。

さて、その後源頼朝が勢力を回復し相模国に進出します。さらに鉢田の戦いで甲斐源氏は駿河国に進出します。
そして富士川の戦いで源頼朝、甲斐源氏連合軍は平家を追い返します。(この戦いは甲斐源氏が主導的立場にあったという見解が最近では強まっているようです。)

そうなると伊豆国の西側駿河国は甲斐源氏それも一条忠頼の制圧下にあり、東側相模は源頼朝の制圧下にあるということになります。伊豆国はその地理的条件から水運が非常に重要な地域だったとみられ、相模湾駿河湾とも重要な地域だったと思われます。

その状況が伊豆国住人達の「頼朝、忠頼への二股」という事態を引き起こした要因の一つであると思われます。


この地図は日本の白地図
をダウンロードしたものを加工して作成いたしました。

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工藤祐経の経歴 -伊豆国武士の主は誰?ー 上

2010-10-11 06:01:00 | 蒲殿春秋解説
さて、小説もどきに登場した工藤祐経さん。彼について面白いことがわかりました。
工藤祐経さんといえば「曽我物語」の重要人物(曽我兄弟の敵役)です。
そしてその「曽我物語」等の影響で祐経さんは源頼朝のお気に入りの人物というイメージが強いようです。

しかしながら「吾妻鏡」を読んでみると意外なことがわかります。

なんと工藤祐経は「吾妻鏡」元暦元年(1184年)6月16日条の一条忠頼殺害事件まで名前が一切出てきません。(実際に殺害が行なわれたのは4月26日の可能性が高いそれにつきましてはこちら)
それから後、工藤祐経はちょくちょく「吾妻鏡」に登場することになります。

とうことは何を意味しているのでしょうか。
可能性の一つとしてその一条忠頼殺害事件まで工藤祐経は頼朝には仕えていなかったというように見ることもできるでしょう。

では、それまでの間工藤祐経は何をしていたのでしょうか?
それも推測ですが、そのころ駿河に進出していた甲斐源氏一条忠頼に仕えていた可能性があります。

彦由一太「十二世紀末葉武家棟梁による河海港津枢要地掌握と動乱期の軍事行動(中)」(『政治経済史学』100号、1974.4)によると伊豆国住人は頼朝が石橋山の戦いに敗れると、甲斐源氏に接近した。そして頼朝が房総で勢力を回復して鎌倉に入った後は頼朝と甲斐源氏双方に「二股をかけて」仕えたのではないか、と書かれています。

その傍証として例の一条忠頼殺害事件の際に同じく登場する天野遠景を挙げておられます。「吾妻鏡」治承四年10月に記載されて以降元暦元年6月16日まで一切登場しません。
その一方で伊豆と駿河の経済的な結びつきを根拠にその間一条忠頼に仕えていた可能性を示唆されています。

この彦由氏の論文を読んだ後「吾妻鏡」を読んでみると、治承四年8月の石橋山の戦い以降「吾妻鏡」からしばらく姿を消した伊豆国に武士がもう一人いました。
堀藤次親家です。彼もまた義高殺害事件まで「吾妻鏡」に登場しません。

さらに以前書かせていただきましたが、石橋山の戦いで頼朝軍に加わっていた後「甲斐」に逃げ込んだ人物が多数存在しました。
例えば加藤景簾。かれは「吾妻鏡」によると「富士山麓」に隠れたとのみあります。
(ちなみに富士山麓は駿河甲斐両方にまたがっています)しかしながら「延慶本平家物語」によると景簾は甲斐国に入ったとあります。
また、「吾妻鏡」寿永四年(1180年)10月18日条によると加藤景簾は「鉢田の戦い」(甲斐源氏と駿河目代橘遠茂と戦った戦い)に甲斐源氏方として参戦したというように書かれています。(そのことに関してはこちら

また頼朝の舅である北条時政さえも石橋山直後安房に向かわず甲斐に逃げ込んだ可能性があります。(それに関してはこちら

このような事を考えると伊豆国豪族は甲斐源氏、なかんずく駿河に進出して一条忠頼と関係をもっていたと考えるほうが自然であると思われます。

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木曽義高殺害の日時に関する疑問 下

2010-10-09 22:38:54 | 源平時代に関するたわごと
では、なぜそのような時間の不自然が発生したのでしょうか?
以下素人なりに理由を考えたところ、次のような可能性が浮かび上がりました。

(1)『吾妻鏡』の誤謬
最近つとに指摘の増えている『吾妻鏡』の編纂時における誤謬。
もしかしたら、義高の逃亡あるいは殺害の日程は全く違う日時だったかもしれません。
ただ、もし誤謬だったとしたら単なるミスなのか、意図的な誤謬なのかも考えなければならないでしょう。

(2)木曽残党への懸念
義仲が死亡したとはいえ、信濃、西上野を地盤とし、坂東の御家人でも義仲に従ったものもあるという状況で義高を殺害するのはためらわれたという状況があったかもしれません。
そのため、一の谷の戦いが終わって御家人たちの帰還を待って旧義仲勢力を武力的に圧倒できるようになるまで義高の殺害を待たざるを得なかった、という考えもありかも知れません。
ただ頼朝の方に上記の理由があったとしても、義高側からしてみれば、そのような状況だったら鎌倉に留まる必要な何も無いと思います。逆に、御家人が少ないうちに木曽に戻るほうが義高にしてみれば安全だったような気がします。
また、義仲が敗北する頃には、義仲から多くの武士達が離反しています。このような状況ならば木曽残党勢力というはどの程度のものだったのか、という疑問も沸いてきます。

(3)義高を巡る情勢の変化
頼朝には義高を殺害する積極的な理由は無かった。義高もさほど身の危険を感じてはいなかった。だが、ある状況の理由が義高殺害に結びついた。

上記の通りの可能性が浮かびましたが、私は素人考えで(3)の可能性が高いものと思えました。(もちろん(1)(2)も捨てがたいのですが)義高を巡る状況の変化というものを考えて見たいと思います。

さて 木曽義高殺害の日時に関する疑問1 で書いた日程に他の出来事を書き加えると一つの可能性が浮かび上がってきます。

1月20日 鎌倉勢が義仲を討ち取る。
1月29日 義仲討伐の知らせが鎌倉に到着する。
4月20日 義高逃亡
4月26日 夕方、一条忠頼殺害 夜、義高殺害の知らせが鎌倉に届く
5月1日 頼朝、義高残党を征伐すると称して甲斐信濃へ出兵命令を出す。
    (実際にはこれは甲斐の武田信義討伐である。)

義高殺害の前後には一条忠頼殺害と甲斐出兵があります。
そのように考えると、義高殺害ついては頼朝と武田信義・一条忠頼父子との対立に何らかの関連があるのではないかとも思えてくるのです。(なお、一条忠頼殺害の日付についてはこちら)

この考えはあくまでも推測でしかありません。また、関連があったとしてもどのような関連だったのかの詳細は想像するしか方法がないというのが実情です。

そのような状況ではありますが、小説もどきという気楽さで勝手に想像してこの一条忠頼と義高殺害の関連の可能性があるかもしれないと思い、小説もどきではあのような内容で書かせていただくことになりました。

ただ、義仲敗北→死去に至るまでの三ヶ月の空白は、後々義高もしくはそれを担ぎ上げる勢力による反乱があるかもしれない懸念によって、義仲をうちとった頼朝が殺害を命令してそれを察知した義高が逃亡し、それを頼朝が追討させたという通説に対する疑問を発する余地のあるものと私は考えます。

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源平時代のたわごと一覧

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木曽義高殺害の日時に関する疑問  上

2010-10-08 06:08:14 | 源平時代に関するたわごと
さて、前回に引き続きまたまた物騒なタイトルで失礼します。
この時代に詳しい人ならばよくしっている木曽義仲の嫡子義高と源頼朝の娘大姫の悲恋。その逸話の中で語られる義高殺害について語りたいと思います。

『吾妻鏡』等をベースにしたこの逸話は次のようになっています。
頼朝が都に軍勢を送って木曽義仲を討ち取った後、その嫡子の義高は人質(名目上は大姫の婿)となっていたが、その父の死去に伴い頼朝が義高の殺害を決意する。しかし、それを知った大姫が義高を逃がす。しかし、頼朝が放った追っ手に追いつかれて義高は殺害されてしまう。その事を知った大姫は心身ともに衰弱し、大きくなっても自身の縁談を悉く拒否し、遂に二十歳の若さでこの世を去ってしまう。

さて、『吾妻鏡』を読む限りにおいてはこの事件が大姫の心と体を蝕んだであろうということを推測するのには無理がありません。
そして、私はこの悲恋に憐憫を寄せる一人でもあります。

しかし、義高の殺害に致るまでの経緯がどうも不自然な匂いがしてならないのです。

その不自然さの最大のものは、義高殺害に至るまでの日程にあります。
『吾妻鏡』の記載に従うと、関係する事件の日程は次のようになります。

以下は全て1184年(寿永三年/元暦元年)の出来事です。

1月20日 鎌倉勢が義仲を討ち取る。
1月29日 義仲討伐の知らせが鎌倉に到着する。
4月20日 義高逃亡
4月26日 義高殺害の知らせが鎌倉に届く

まず、不自然に感じたことは1月の末に義仲が殺害されたとの知らせが届いたにも関わらず、義高が逃亡したのが4月の下旬。その間約3ヶ月もの間、義高は頼朝からの何の処分も無く放置されていたことになります。
また、義高も父親を殺し自分を危険にさらすかもしれない相手の手の中にありながら、その間鎌倉に居続けたままです。
逃亡を企てるのが三ヶ月も先というのはなんとものどかなお話です。

確かに義仲が討ち取られた後、一の谷の戦いがあったり、朝廷との折衝があったりして頼朝が多忙だったというのは事実でしょう。

しかしながら、義高は鎌倉にいます。つまり時間をかけてわざわざ探し出すのが必要な場所にいるわけでもなく、頼朝が義高殺害の命令を下せばそれをすぐ実行できる御家人が鎌倉に滞在しているはず(御家人全てが上洛したわけではなく坂東残留組も多い)ですから義高を殺そうと思えば頼朝はすぐ殺すことができたのではないか、と私には思えるのです。

実際に義高が殺害されたのは時間がかなり経過してからです。

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一条忠頼殺害の日付について

2010-10-07 05:34:59 | 蒲殿春秋解説
またまた物騒なタイトルで失礼します。
さて、『吾妻鏡』によると甲斐源氏一条忠頼が源頼朝によって鎌倉で殺害された日付は元暦元年(1184年)6月16日のこととさてています。

しかし、この日付に対する疑問を提示する論文がありますのでご紹介させていただきます。金澤正大『甲斐源氏棟梁一条忠頼鎌倉営中謀殺の史的意義 』Ⅰ、Ⅱ(Ⅰ「政治経済史学」272,1989. Ⅱ「政治経済史学」446 2003.10)です。

まず、一条忠頼が殺害された日程が記されている文献として『吾妻鏡』の外に『延慶本平家物語』があり、それによると忠頼殺害は元暦元年(1184年)4月26日のこととされています。

そして、当時に起きた出来事を並べて見ます。
まず一条忠頼の任官です。
以前の記事にも書かせていただきましたが、金澤氏は一条忠頼が「武蔵守」に任官した可能性が高いとされています。
そしてその任官の日付は、頼朝が従四位下に除せられた3月27日ではないかとされています。

次に鎌倉勢による甲斐侵攻があります。
『吾妻鏡』5月1日条によると義高の残党狩り称して頼朝は甲斐信濃へと大掛かりな出兵を行なっています。
しかし、その実態は義高残党狩りではなく、甲斐制圧にあったと見るべきなのです。
そして『吾妻鏡』養和元年(1181年)3月7日条における武田信義が頼朝に屈服したというこの記事は実は一条忠頼の死とこの甲斐侵攻の後のことであろうと推測されています。

そして、6月5日に頼朝が申請したとおり、武蔵守平賀義信、駿河守源広綱、三河守源範頼が任官され、関東御分国が成立します(『吾妻鏡』6月20日条) *。

そのように考えると、
3月27日 忠頼武蔵守任官→6月5日 関東御分国成立 → 6月16日 一条忠頼殺害(『吾妻鏡』)
よりも
3月27日 忠頼武蔵守任官→ 4月26日一条忠頼殺害(『延慶本平家物語』) → 6月5日 関東御分国成立 
の方が自然なものとなります。

(ちなみに5月に甲斐侵攻もあります)
このように考えたならば、一条忠頼殺害は『延慶本平家物語』の示す4月26日の方が正しいと考えるべきなのではないか、ということになります。

*なお、範頼の三河国については、関東御分国ではなく(頼朝が知行国主ではない)と金澤氏は論じておられます(『蒲殿源範頼三河守補任と関東御分国』「政治経済史学」370 1997.4)。

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