時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

玉葉 強運の左大臣

2013-08-26 21:56:13 | 日記・軍記物
久々の更新となります。
久しぶりに「玉葉」を読んでいたら面白い記事にあたりました。

元暦二年(1185年)二月十一日条
「(前略)伝え(聞く)去日左大臣家より追い入るの事あり。犯人二人かの家中の於いて自殺そ了んぬ。左大臣逃げ去るの間、件の犯人その首を切らんと欲す。而り脇戸をこらしその身に及ばずと云々。希有中の希有の事なり。」

ここで出てくる左大臣は藤原(大炊御門)経宗。
左大臣は現在でいういところの総理大臣兼衆議院議長といったお偉いさんです。*

そんなお偉いさんの左大臣の邸宅に賊が入り込んでその邸宅の主左大臣を殺そうとして
犯人がそのお屋敷の中で自殺する、という物騒なことが起きたんですね。
殺されそうな左大臣は必死に逃げた、と。


*左大臣より上位の摂関は天皇の政務代行or相談役で議定に参加できず
太政大臣もお飾り的なもんだたようです。
つまり左大臣が政策決定機関たる議定の参加者のナンバーワンです。

この事件の被害者の左大臣経宗さんは恐ろしい殺害犯から無事逃げおおせたという点では非常に強運です。
(それにしてもお偉いさんが自邸に賊に侵入され、殺されそうになるんですから恐ろしい世の中だったったようです)

こんな経宗さん別の意味でも強運です。

最近書き終えた短編小説(こちら)にもご登場いただいたんですがこの人の人生自体強運です。

経宗は二条天皇の母方の叔父です。
まったく即位の芽がなかった二条天皇でしたが、近衛天皇が皇子を設けずに崩御されたので
次期天皇となることが急遽決まります。
一旦その父君の後白河天皇が即位した後の即位が約束されてました。
経宗さんは突如帝の外戚となることが約束されます。これもまた強運。

その頃保元の乱が勃発。
保元の乱の後も政局が落ち着かず平治の乱が勃発。

その経宗さんは平治の乱をさんざん引っ掻き回します。
まず、権勢をふるっていた信西さんを信頼が討つことに同意。
その後、信頼を追い落とすべく、平清盛を味方に引き込んで今度は信頼を追討。
そして二条天皇の外戚として自分が権力をにぎることを目指し、二条親政を掲げて後白河上皇を圧迫。
しかし反撃に転じた後白河上皇の命令でいきなり逮捕されてと流刑になります。

二条天皇の側近だった為に後白河上皇の反撃を食らったという見方もありますが
平治の乱勃発の当事者の一人として流刑になったという見る向きもあります。

通常ですと、「これで終わった」となるんですが
経宗さんはこんなことで終わる人ではありません。

乱の二年後経宗は帰京を許されます。
そしてすぐに右大臣就任(流刑前は権大納言)。
この背景には後白河上皇を押しのけて親政を進めようとした二条天皇派の力が働いていたと思われます。
このままいけば二条天皇派の有力者としてやっていけると思った矢先いきなり二条天皇が崩御。

しかし、なんとその翌年に左大臣に昇進。

二条天皇派はその後壊滅をしますが、その後も経宗は左大臣に居座り続けます。

この背景には後白河上皇の引き立てもあったと言われています。
後白河上皇はかつて敵対したものでも自分に対して恭順で有能であるならば引き立る
という懐の深い一面をお持ちだったようです。
経宗はそれに乗って後白河派に転向。

また、経宗は当時勢力を伸ばしつつあった平家一門とも接近していきます。

なんやかんやいってこの人世渡り上手です。

ですが、くるくる変わるのが政界というもの。

後白河法皇と清盛が対決するようになりますが、経宗はそこをうまく乗り切り地位を確保。

やがて平家が都落ちすると、今度は後白河法皇の意に乗って平家一門を見捨てる行動と次々実行!

平家が滅ぶと養子にしていた平重盛の子を家から追放(一応殺されないような配慮はしたようですが)

うまく時流にのってますが、
平治の乱で信頼にくっついて信西殺害の片棒をかつぎ
あっさりと信頼(のぶより)を裏切って二条天皇を六波羅にお遷しして信頼追討の片棒をかつぎ
二条派壊滅のあとはしゃあしゃあと敵だった後白河上皇にすり寄り
平家が力を持つとちゃっかりと接近し
滅ぶとその遺児をあっさり追放。

ある意味冷淡です。

これじゃあ敵を作っても仕方ないです。何者かによって邸宅に殺し屋を送り込まれても仕方ないかもしれません。

でも、このくらいドライで冷淡でなければ政局を渡りきれなかったも事実。

そしてうまく乗り切るには運も必要。
(後白河法皇も源頼朝も相当の強運の持ち主です)

そういった面ではこの時代の乗り切り方を象徴するような人生を送った人といえるかもしれません。


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