時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(五百七十六)

2011-08-28 22:47:01 | 蒲殿春秋
財産が空になった原因は大きく二つあった。
一つは範頼の長期にわたる出陣であった。

短期の出陣でさえ戦支度には出費がかさむ。今回の出陣は半年にわたる大規模のものであった。
その間の兵糧やその他必要物資を支度し、必要に応じて戦地に追加送付しなければならない。
しかも範頼は大将軍なのである。それなりの威容をととのえてやらなければならない。
勿論、鎌倉殿の代官であるのだから鎌倉殿からの支給はある。
だが自前で支度しなければならない部分が出てくる。その支度をするのが妻の瑠璃の仕事である。
ではどうやって自前で支度するのか?
範頼自身に権利のある荘園はない。公的身分も無かったからそちらからの収入もない。
辛うじて瑠璃には祖母から貰った所領がある。だが、そこから得られる収入はたかが知れている。

そのような状況で瑠璃はなんとか夫の戦地への仕送りをまかなっていた。

夫が帰ってやっとその財政の苦境から逃れられると思った矢先今度は夫が任官した。

任官自体は喜ばしいことである。

だが、その任官に掛かる費用に瑠璃は苦しんだ。
高価な装束は実家がなんとかしてくれた。
だが、その後の鶴岡参拝の奉納品、任官を図ってくれた頼朝へのお礼の品、
さらには、次々とやってくる御家人達のもてなしの品々などを支度するともう蔵の中は空になり
それでも足りないので嫁入りの時にもってきた品々を市に持っていく羽目になった。
そこまでしてもまだ足りない。
最近は実家に無心に行くが、実家の方も装束の支度だけで青息吐息であまり期待できないという。

妻から状況を聞いた範頼は嘆息した。
出征に費用がかかることは承知していたがここまでしなければならないことに対しての認識が無かった。
そして任官の現実を知った。
任官には成功*に多額の費用がかかるとは聞いていた。
今回は兄頼朝の斡旋によるものだから成功の費用はかかっていない。

けれども、任官に関わる様々な出費までは当事者になるまではわからなかった。

官位を得るためには、自分もしくは妻が裕福でなければならないとよく言われているが、任官して初めてその意味を知った。

とにかくも、自分と妻の財産が危機的な状況にあることだけはわかった。そしてその事実に衝撃を受けた。

*成功ーー朝廷に財力奉仕をしてその見返りに官位を得ること。平安末期によくみられた任官活動の一つ。

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蒲殿春秋(五百七十五)

2011-08-20 22:01:51 | 蒲殿春秋
異変に最初に気が付いたのは吉見次郎である。
「殿、今日もご内室さまは昨日と同じ打着をお召しになっておられますな。」
とふと言った。
「ん?」
範頼はそのことに気が付いていなかった。
「そうなのか?」と範頼は聞く。
自分の着るものに無頓着な範頼は妻の着ているものにも全く気が回らなかった。
「はい、ご内室さまはここ何日も同じものをお召しになっておられまする。」
吉見次郎はそう答える。

次に異変に気が付いたのは新太郎だった。
「蒲殿、ご内室さまの几帳が減りましたね。」という。
新太郎は時折瑠璃の居間にもぐりこんでその部屋の調度品に隠れたりしている。
隠れ場所が減った新太郎の言である。

次の異変は下人の会話から聞き取った。
「昨日の市はどうだったか?」
「いやあ、けっこう厳しくてご内室さまのご希望のものと交換できなかった・・・」
「それにしてもいつまでもつのかな・・・・」
「いやあ、もう限界だろう。もう市にもっていけそうなものなどこの邸には残っていないさ。」

ー市?-
この言葉に範頼は不審に思う。

当時はまだ貨幣経済が浸透していない。
欲しいものがあったならば、自分が持つ米、布などの物品を持って市で欲しいものと交換してこなければならない。
そしてその交換をするのを差配するのがその家の主婦ー主の正室なのであるー

だが、下人たちの言葉は不穏である。
ーもう市にもっていけるものは何もないー

その日の客人たちが帰った後、範頼は妻の瑠璃に言って蔵の鍵を開けさせた。

薄暗い蔵の中には殆ど何も入っていなかった・・・
次にいやがる妻に頼み込んで妻の居間のつづらの中身を見せてもらう。
つづらの中には小袖などの肌着がいくつかある他は一切衣類はなかった。
表着は現在妻が着している一着しかなかった・・・・

「新三河守殿」の財産はこのとき殆どないに等しい状況になっていた。

蔵とつづらが空になったのを知った三河守家の主は妻に状況説明を願った。

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蒲殿春秋(五百七十四)

2011-08-14 05:28:16 | 蒲殿春秋
一方、紀伊国の某所である兄弟がほくそえんでいた。
平維盛と平忠房の兄弟である。
平家一門小松家のこの兄弟は一の谷の戦いの前後に平家本軍から離脱していた。
その後維盛はそのまま紀州に入り、弟忠房は一旦甲斐源氏一条忠頼とともに東国に下っていた。
一条忠頼が源頼朝の謀殺された後、いったん鎌倉に連れて行かれたが、
頼朝は忠房と一旦面談した後に一切何も問わず、西国に戻るという忠房を一切引き止めなかった。

この二人はその後紀州で再会した。

頼盛襲撃に失敗した平家郎党がこの兄弟のもとを訪れた。二人は一旦落胆した。
だが、すぐに気を取り直して累代の郎党からの書状に目をやった。
その書状を目にした兄弟はほくそえんでいる。
一方湯浅の家人から瀬戸内の平家本軍の状況も兄弟にもたらされる。

兄弟は顔を見合わせた。
「やるか。」
「そうですね。」
この兄弟のこのやりとりが、また治承寿永の乱の戦局を大きく動かすことになる。
同日この地から畿内各地に向けて使者が数名発された。

一方、任官の儀式を終えた源範頼は着慣れない装束から開放され、自邸でくつろいでいた。
「従五位下三河守」という身分を得た男は自らが得た地位について未だに実感を沸かすことができないでいる。

しかしその翌日から、「三河守殿」は身分上昇の激動に見舞われることとなる。

任官披露の翌日、再び範頼は着慣れない束帯を身に着けることとなる。
今度の行き先は鶴岡である。
氏神である八幡神へ慶び申しを行なうのが鎌倉において任官したものの例となっていた。
一条能保、平賀義信、源広綱と共に鶴岡に詣でる。

帰宅すると今度は歴戦を共に戦い抜いた御家人たちが次々と祝賀に訪れる。
温和で生真面目、そして自分の戦功は後回しにして共に出陣した御家人達の戦功を良く伝えていた範頼は御家人たちから密かに慕われていた。
御家人達は範頼の任官を口々に喜んだ。
中には我が事のように喜びを身に現すものもいた。

御家人たちが範頼の任官を歓迎したのにはもう一つの理由があった。
それは、今回の出陣の軍団構成からきてきた。木曽攻めも福原攻めも鎌倉御家人たちだけで敵を攻めていたのではないのである。
木曽攻めは鎌倉勢と甲斐源氏と旧平家軍の混成軍団、
福原攻めは、鎌倉勢と甲斐源氏、そして鎌倉とは全く関係の無い西国武士団との混成軍団だった。

その中で鎌倉勢を中心とした軍勢を率いていたのは範頼であった。義経も鎌倉勢を率いていたが、大多数は範頼に従っていた。
範頼が任官したということは、鎌倉勢の働きを鎌倉殿、そして院が認めたということに繋がるからである。
そのことを鎌倉御家人たちはよく理解した。

そのようなわけで任官の翌日から範頼の邸には多くの御家人たちが押しかけてきた。

範頼はその都度生真面目に御家人たちに応対した。
だが、その範頼の傍らに控える妻の瑠璃の笑顔が少しずつ引きつっていったのに範頼はなかなか気が付かなかった。

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蒲殿春秋(五百七十三)

2011-08-11 05:42:30 | 蒲殿春秋
一連の任官劇に鎌倉が目を奪われている頃、西国では戦局が変化しつつあった。
一の谷の戦いで破れた平家は、四国讃岐国屋島に本拠地を移していた。
その平家は新しく長門国彦島にも軍事拠点を築き始めた。

彦島は瀬戸内海の出入り口に位置し、瀬戸内の交通の要衝というべき場所にある。
彦島の軍事拠点を指揮するのが平知盛。
知盛は一の谷の戦いで我が子を失っていた。
その我が子は我が身を逃すために命を失った。
その子の為にも平家は復活する。その強い意志で知盛は戦っている。

屋島と彦島を抑えた平家は瀬戸内の豪族達にも働きかけ、瀬戸内とそれに面する
四国山陽において力を復活させつつあった。

その平家が六月に入ると、強い反攻を開始した。
まず、備中に入っていた鎌倉方の土肥実平やその配下に収まった在地豪族達に攻撃を加えた
平家の攻撃はすさまじく、備中国の国府が平家に襲撃され土肥実平らは必死の防戦を余儀なくされた。

一方それとほぼ時を同じくして、播磨国にあった梶原景時にも平家は攻撃の手を加えていた。

この状況の報はすぐさま都にもたらされた。


ーこの地図は日本の白地図 をダウンロードしたものを加工して作成しました。ー

都にあって西国の鎌倉勢を統括する源義経はこの事態を憂慮した。
自らも西国に出陣したかった。
だが、出陣できない。
まず兵が足りない。
そして、都から離れられない事情があった。
都は未だに治安が悪い。この治安状況を放り出して自らが都を離れることはできない。

そして義経の神経を尖らせる事件も近江であった。
鎌倉を離れて都に向かっていた権大納言平頼盛が、平家残党と思しき者達に近江で襲撃されかかったという事態が起こっていたのである。

そのほかにも畿内では不穏な動きがある。

一連の状況を義経は鎌倉に報告した。頼朝はこの知らせに渋い顔をした。
だが、頼朝はこのときの状況の深刻さを義経ほどは深く認識していなかった。

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