時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

見る時代によって見え方が違う

2011-10-30 07:22:31 | 源平時代に関するたわごと
おはようございます。
久々に「たわごと」書きです。

さて、こちらのブログでは治承寿永の乱(源平合戦)の頃を書いていますが、
もう一つのブログでは(当初はそんなつもりでは無かったのですが)
保元平治の頃を中心に書いています。

この両方の時期を平行して書いていると自分の中で混乱がおきます。

治承寿永の頃と保元平治の頃では世の中の仕組みや社会情勢や、人々の意識が違いますし、戦乱の規模も全く違います。

近いけど違う時代を書いている気分になります。

ですから、近い日付で両方のブログを書いているときは頭の切り替えが必要になってきます。

また、治承寿永の頃と保元平治の頃に共通して出てくる人物がいます。

源頼朝です。

治承寿永の頃は、「鎌倉殿」として、御家人達の上に立つ存在であり、
夫であり、父であり、弟達の兄であり、政治的重要人物でもあります。

しかし、保元平治の頃は元服したての坊やで、父親にくっついている息子で、兄達もいて、政治的にもそんなに意味のある立場にはいません。

一人人物を書くとしても登場する時代によって書き方が違ってくるものだと現在実感しております。

余談ですが、
もしこの先承久の頃を書く機会があったとしたら、
源頼朝は半ば神格化された人物として書かれるでしょうし、
このブログで登場する他の人物でも
青年江間(北条)義時は老獪な政治家、少年小山(結城)朝光は治承寿永期を生き抜いた長老扱い
土肥実平、梶原景時は故人として書かれることになるでしょう。

一人の人物をどの時代の目線で見ると描き方にどのような変化がおきるのかというのも
、一種の興味がわいています。書いている本人がいうのもなんですが。

さて、
来年の大河「平清盛」は清盛に若い時代を中心として描くらしい
ということで私は非常に興味をもっております。

小説やドラマに登場する清盛は
中年以降が描かれている場合が多いので
「貫禄ある大物」というイメージが張り付いていて
「若い清盛」というイメージはわきにくいものが世の中にはあると思います。

来年「若い清盛」はどのように描かれるでしょうか?

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蒲殿春秋(五百八十五)

2011-10-25 06:00:22 | 蒲殿春秋
興福寺、東大寺などの南都寺社勢力である。この南都寺社勢力とも有綱はつながりを持っている。
祖父頼政が以仁王を奉じて最後の望みをつなごうとしたところが南都興福寺。
挙兵以前から頼政一族は興福寺との接触はあった。

朝廷から任命される国守はいても実質は寺社勢力の国といってもいいのが大和国である。
多くの荘園を抱え、僧兵などの豊富な武力を抱えている。

そしてその寺社勢力は先年平重衡率いる兵に南都焼き討ちの憂き目に遭い平家に対して宿意を抱いている。
その平家家人であった反乱勢力の平田家継等に対しては南都の寺社勢力はあまりいい感情を抱いていないはずである。
この南都寺社勢力を味方につけれないだろうか?寺社勢力が山城国境まで押し寄せてくれれば反乱勢力は伊賀から山城へは容易には出ることができない。
もしそれでも都を目指そうとするならば、反乱勢力は近江に出ざるを得なくなる。

義経は早々に使者を発し源有綱邸への訪問を告げる。

有綱は義経を快く迎え入れ、一連の話を聞くと
大和国の豪族、そして寺社勢力への協力要請を働きかけることを約束した。

その後有綱は義経に問うた。
「もし、大和国からの締め付けが上手く行って、敵が近江に進出したらいかがなさる。」
と。
その有綱からの問いの答えはその時義経の頭の中では既に出来上がっていた。

武蔵坊弁慶、という巨体で怪力な僧侶が常に義経の側に影の如く付き従っている。
この弁慶は比叡山延暦寺出身の僧侶である。
この弁慶を通じて、義経は比叡山に官軍への協力を要請する。
さらに、義経は幼時修行していた鞍馬寺の師や知己に文を書いた。
鞍馬寺を通して比叡山に味方するように要請をするのである。
鞍馬寺は延暦寺の末寺であり、比叡山とは深い係わり合いを持つ。

比叡山延暦寺も興福寺に負けず劣らず経済力と兵を抱えている。しかも都のすぐ側に存在する。
義仲も比叡山を抱え込むまで入京できなかった。
それほどの勢力をもつ比叡山を味方につけないという手はないであろう。
しかも義経は比叡山に通じる伝をも持っているのである。

もし反乱軍が近江に進出しても、義経率いる官軍が延暦寺を味方につけていればおいそれとは都には近づけないはずである。
比叡山と近江佐々木氏が協力すれば反乱軍を近江国で撃破するのも不可能ではない。

この夜から義経は都の治安維持と、畿内の反乱勢力への備えでより一層多忙な日々をおくることないなる。
その義経の元にある日意外な人物が現れ、意外なことを告げた。

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蒲殿春秋(五百八十四)

2011-10-24 22:59:11 | 蒲殿春秋
伊賀国、伊勢国はまず反乱勢力の手の中に落ちたといっていいだろう。

その反乱勢力は次は何を企んでいるのだろうか?
そのあたりについて義経は見当をつけることができない。

ただ、義経がとらねばならぬ対応策は決している。
どうしてもせねばならぬこと。
それは都に反乱勢力を入れないことである。

もし、反乱勢力が都を制圧した場合、現在官軍の立場にある鎌倉勢が賊軍に転落することを意味する。
現在の義経の実力では平家のように帝を奉じて都落ちということを実行するのは不可能だからである。
また、賊軍に都を追い落とされるということが起きた場合、日和見の多い武士達の鎌倉からの離反を招きかねない。

とにかく都は死守しなければならない。
今回反乱の火の手を上げた平田家継や平信兼は伊賀伊勢と都の間を頻繁に往来している武士であり
このあたりの地勢に明るい。
義仲との戦いに際しては、義経は彼等と手を組み、彼等の地勢の明るさを生かして勝利を掴んだ。

それだけに、平田家継らの上洛の可能性は義経にとっては大いなる脅威となっている。

もし、反乱勢力が都に向かうとするならばどの路を通るだろうか?
一番の近道は大和国境に近い笠置、木津を通って宇治から都へ向かう路である。
この進路をとられるのが一番恐い。

この進軍だけはどうしてもさせたくない。
この路を封じ込めれば、反乱軍は近江に出て琵琶湖沿いに進軍せざるを得なくなるだろう。



まず、笠置方面に進出させてはならない。
そのためにはどうすればいいのであろうか?

笠置は山城国にあるが大和国にも近い。
大和国の者達で義経らに味方してくれるものはいないだろうか?

大和その地のを思い起こした時、義経はふとある男の顔を思い出した。
その男は現在都にいる。そしてかつて奥州に何度か足を運んだことのあるとの男は義経と面識があった。
また、義仲との戦いにおいても共に戦った戦友でもあった。
その男とは源頼政の孫源有綱である。頼政は以仁王との決起に先立って大和国の豪族たちに協力を呼びかけつながりがある。
それよりも何よりも味方につけるとこれ以上頼もしいという存在が大和国には存在している。その存在とも有綱は深い関係を有している。

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蒲殿春秋(五百八十三)

2011-10-22 22:03:16 | 蒲殿春秋
━━ 不思議なお方だ・・・・

院御所から退出した義経は馬上そう思った。
後白河法皇に関してである。
治天の君としては極めて異例の方である、という評判は前々から聞いていた。
高貴なお方は臣下の前にはめったに姿を現すということはなされない。
直接声を発するということもなされない。

その臣下が公卿であっても、である。

けれども先ほどの後白河法皇は無位無官の地下である義経の前に直々にお出ましになられ声までおかけになられた。

確かに異例の高貴なお方である。

けれどもその異例の行動によってそれまで院御所を支配していた恐怖が一掃された。

義経は馬にのって邸に戻ろうとしている。その義経の目の前には逃げ惑う人々が多数いた。
義経は想いの先を転じた。

━━ 本当に大丈夫なのだろうか?
義経は懸念する。
義経の邸に現れた大内惟義の使者はかなり深い手傷を負っていた。
手負いの使者がやってきたということは大内勢は相当の痛手を蒙っているはずである。

邸に戻った義経の元にさらなる知らせが入る。

七月七日に大内惟義を襲ったのは平家家人平田家継で間違えがないようである。
そして、平田らの勢力は伊賀国をほぼ制圧したようである。
また、平信兼が鈴鹿峠を押さえてしまったようである。
この反乱の火の手は簡単に止みそうもないことが予想できた。

この反乱は抑えなければならない。
しかし木曽勢や福原の平家と戦った時の東国の兵は殆ど本国に帰還してしまっている。
他には西国の制圧に向けて土肥実平や梶原景時が率いる兵が播磨、備中などの山陽道にいるが
彼等も逆に平家や平家寄りの豪族の逆襲を受けて苦戦している状況である。
彼等を助けよと義経が頼朝から指示を受けているくらいなのである。

都近くにいる武士達で頼りになりそうなのは近江国の佐々木秀義くらいである。
他の武士達はどのような動向をとるか図りかねる。
今の義経が確実に動かすことが出来る軍勢は実は微々たるものである。
はっきりいってこれ以上伊賀国の反乱が拡大すれば都を守りきれる自信はない。



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蒲殿春秋(五百八十二)

2011-10-20 05:12:57 | 蒲殿春秋
院御所に向かう道中義経はまた目撃した。
多くの人々が荷物を抱えて右往左往するのを、人相の悪い男達が女性から物を強奪するのを。
都の治安回復はままならない。
そのような折伊賀の事件が起きた。都の庶民の耳にも伊賀の事件は届いたようである。都のこのような人々も安心させなければ治安は益々悪くなるだろう。

院御所に参上した義経は殿上に居並ぶ人々から矢継ぎ早に質問の嵐を浴びた。

「して、此度の伊賀の事件の首謀者は?」
「伊賀守護はいかがしておる?」
「都は無事であろうな?」

殿上の方々は恐怖に顔を引きつらせている。

この方々は慄きながら自らの思うところを語るのみである。殿上は明らかに恐怖と動揺に支配されている。

その時院近臣高階泰経の大声が響き渡る。
「方々おしずまりくださいませ。お上の御下問がございまする。」
その瞬間一同は静まった。

院の御下問が高階泰経の口を通して義経に告げられる。

「此度の首謀者は?」
義経は答える。
「平田家継にございまする。それと和泉守信兼が加担しているとも・・・」
殿上の人々はその名を聞きさらに恐怖した。
「伊賀の状況は?」
「伊賀守大内惟義が襲われました。賊軍がかなり力を得ていると聞いております。
しかしながら。大内惟義は無事でございます。」
「今後どうなる?」
「伊賀国を直ぐに押さえることは出来かねますが、この動きを広げさせぬよう図っております。」
「本当に大丈夫なのだな?」
「大丈夫でございます。
大軍の福原の平家を打ち破った吾等でございます。此度も必ず勝利いたしまする。」
義経は真っ直ぐな瞳で殿上を見上げた。

その時殿上の奥から意外な声が響き渡った。
「そういえば、そなたは少数の兵で崖を駆け下りて平家の陣を壊滅させた男よのう!」
その声に一同平伏した。

その声の主は、立ち上がると御簾の奥から人々の間にお出ましになられた。
「院!」
高階泰経はたしなめたがすぐに諦めた。
御簾からお出ましになった後白河法皇はつかつかと縁側まで歩まれた。

「九郎その面を上げよ。」と後白河法皇は命じられる。
義経は恐れ多さに顔を上げることはできなかったが重ねて
「面を上げよ。」
との仰せに静かに顔を上げた。

「おお見目麗しき顔(かんばせ)。このような男が鬼神のような働きを見せるとはのう!」
義経はその場に固まっている。
「されど、その瞳は強きものの瞳そなたの強さは信ずるに値する強さよのう・・・」
それだけ言うと後白河法皇は御簾の奥へと戻られた。

その時、院御所を支配していた恐怖は一気に払拭された。

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蒲殿春秋(五百八十一)

2011-10-13 06:17:32 | 蒲殿春秋
三河国守任ぜられた源範頼が妻と郎党達を引き連れて任国へ向かったのは七月に入ってからである。
無駄な出費を防ぐため、荷駄等は必要最小限のものに止めた。

それでも、国守殿の国入りであるゆえに行列の流れは時間がかかる。

ゆるゆると流れる三河守の行列と早馬にのった武士が行き違ったのは東海道の途中であった。
血相を変えて馬を走らせる武士は傷ついていた。
その人馬は風を切って東へと去っていった。

早馬は真っ直ぐに鎌倉に入る。鎌倉で早馬に乗った使者を乗せた鎌倉殿源頼朝は衝撃を受けた。

都にも早馬がもたらされた。
この知らせを聞いた都の人々は震え上がった。
遠く鎌倉にいる源頼朝とは比べものにならぬくらい彼等は恐怖した。

一方、源義経はこの知らせを冷静に受け止めた。
ここのところの畿内の不穏な動きを熟知していた義経はこのようなことが起きてもおかしくないと常々思っていた。

その義経の手中には兄頼朝からの書状があった。
ーーー兄上からこのような指示があるときに・・・
義経の心の中にその想いが浮かび上がった。

都の人を震撼させた事件とは次のようなものであった。
元暦元年(1184年)七月七日、伊賀国にあって守護としてかの国の治安維持に努めていた鎌倉御家人大内惟義の邸が突然襲われた。
不意を襲われた惟義らだったが、必死に防戦に努めた。
だがしかし、敵の勢いは凄まじく多くの郎党達が討ち取られてしまった。
やむなく大内惟義は邸を捨て逃亡した。

これがこの日に都に届いた報である。同時に早馬が出され鎌倉にも使者が発せられる。

この伊賀国の騒動を聞いた義経は嘆息した。だが、この時点の義経はこの事件の事の大きさを未だに予測していなかった。それよりも義経は手元にある兄の書状による指示が実行できないことを不快に思っていた。
兄の書状には、「西国に出陣して、土肥実平や梶原景時らと共に平家を追討せよ。」と書かれていた。近く院に正式にその願いが奏上されるはずだった。

その義経の邸に院御所への参上を命じる院の使者が訪れた。

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蒲殿春秋(五百八十)

2011-10-01 23:07:10 | 蒲殿春秋
盟友遠江守安田義定のおかげで範頼夫妻は財政危機を一時乗り越えることができた。

さらに、範頼に幸運が訪れる。
突然一人の男が鎌倉の範頼の邸に現れた。
その男は都で範頼と何度か顔をあわせたことのある男である。

中原重能という。

養父藤原範季の実子範資が以前引き合わせてくれた。
重能の兄には中原康貞という院近臣もおり文に優れた才能を有する。
この中原重能は範資そして範季の文を携えて現れた。

「この者、文の才覚に長たるものなり。右筆として使ってもらえないだろうか。」
という意の言が文に記されていた。

範頼は喜んで中原重能を召抱えることにした。

国守となればその任務をまっとうするために文の才能や行政能力に優れた人材を確保しなければならない。

新任国守の範頼としては文の才のある人物は何人も欲しいところである。


一方その夜、源頼朝は複雑な顔を浮かべていた。
範頼に関することが理由である。

一つは安田義定が範頼の経済支援をしたこと、もう一つは範頼の養父がらみで右筆が採用されたことを知ったことである。
むろん、弟に支援の手が行き届くことは有難いことである。
しかしながらこの二つの事実は弟が完全に自分の手中にあるわけではないことを物語っている。

頼朝が挙兵した直後の範頼は甲斐源氏なかんずく安田義定と行動を供にしていたし、
頼朝が流人でいた間範頼は都の藤原範季に養育されていた。

範頼には範頼の立場と人脈があり頼朝の弟という立場だけが範頼の全てではないのである。

しばし頼朝は思案した。

翌朝頼朝から三河へ使者が発せられた。
三河国額田郡は頼朝の外祖父藤原季範の本貫の地であった。季範以前から額田郡は関係が深く、現在も頼朝の母の実家である熱田大宮司家の影響が強い。

さらに、頼朝は範頼に出立の見舞いを送ることをきめ、その目録を早急に弟のもとへ送った。
厳しい財政でもこれはやらないわけにはいかないだろう。

━━ 六郎、そなたにはそなたの立場があろう。だがそなたはわしの弟であり、わしの推挙によって三河守になった。その事実は決して忘れるではない。

頼朝は祈るような想いを心の中でつぶやいた。

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