時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(三百二)

2008-08-31 06:05:49 | 蒲殿春秋
政略的にはそのように納得している義仲も一つだけどうしてもぬぐえないわだかまりを心に抱えていた。
それは縁談の相手の娘の母が新田義重の子であるということである。
新田義重はかつてその婿悪源太義平が父源義賢を滅ぼすのに手を貸した人物である。
つまり、義仲の父の仇の一党の孫娘が今回の縁談の相手なのである。

自然この縁談に関しては義仲は冷たくなる。
「側室ならば迎えても良い」という返答に冷淡な言葉が添えられた。

義仲のこの返答に石和信光は激怒した。

信光は義仲と自分は同格のものと思っている。
同じ河内源氏で義仲の祖先八幡太郎義家と信光の祖先新羅三郎義光は兄弟同士であり血統上尊卑の差は無い。
後世の人々が当たり前のように思っている義家の子孫が源氏嫡流であるという考えなどこの当時には全く無い。
信光は現在無位無官であるが、義仲とて無位無官である。

その義仲の息子と自分の娘の縁談は釣り合いのとれたものと思っている。
その釣り合いの取れているはずの縁談の話で側室ならば娘を迎えてもよいという言葉に腹が立った。
しかも、その返答には信光にとってはかなり屈辱的な言葉が含まれていた。

信光は木曽義仲との提携を解消することを決心した。

信光は次の提携相手を模索した。

といっても他に提携できる相手は鎌倉の源頼朝しか残っていない。
が、頼朝とは提携はできない。
頼朝は他の武家棟梁たちには「提携」ではなく「臣従」を求めている。

つまり、頼朝につきその力を借りるということは鎌倉の御家人になることを意味している。
頼朝と並び立つ武家棟梁としての地位と誇りを捨てなければならない。

信光は逡巡した。
しかし最終的には頼朝の御家人になる道を選んだ。
木曽義仲と提携しないということは義仲と敵対することを意味する。
今自分以外の甲斐源氏と木曽義仲との関係は良好ではない。
唯一義仲と交渉を持っていた信光と義仲の提携解消は甲斐源氏と義仲の最終決裂を意味する。
だが、ここまで分裂の進んだ甲斐源氏だけでは義仲とは戦えない。
有力な支援者が欲しい。
その支援者となるものは源頼朝しかいない。

叔父の加賀美遠光とその子の長清は早くから鎌倉に伺候し、御家人としての立場を受け入れている。
その遠光の話を聞くと、遠光や平賀義信らは
他の御家人たちとは違い「御門葉」として格式の高い者としての扱いを受けているという。
頼朝と同等という思いさえ捨て去れば、他の御家人たちに対しては優位を保て
それなりの誇りを持ち続けることができる。

無位無官の義仲の侮辱されつづけて提携を続けるよりは
かつて十三歳で「右兵衛佐」の官位を得ていた頼朝の下につくほうが自分の誇りがまだ保てそうな気がした。

信光は舅新田義重に頼朝への仲介を依頼した。
頼朝の御家人となる為に。

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蒲殿春秋(三百一)

2008-08-30 05:59:48 | 蒲殿春秋
甲斐源氏はこの頃すでには一枚岩ではなくなっていた。

当主武田信義の後継者の地位を巡ってその子たちの暗闘が繰り広げられるようになっていた。
今のところ反平家の挙兵を強く推した一条次郎忠頼がその後継者の地位に一番近い。
しかし、他の子たちはそれを快しとはしていなかった。

石和信光も信義の後継者の地位を狙っている。
彼は他の武家棟梁との提携を目指しその後押しで甲斐源氏棟梁の地位を得ようとした。
信光が最初に提携した相手は妻の父の新田義重であった。
しかし、義重は北坂東に進出してきた義仲に圧され、
南坂東にも影響力を伸ばそうとしたところそれを頼朝に阻まれるなどどうにも当てにはならない。

次に信光が接近したのは上昇著しい木曽義仲だった。
義仲は当初は快く信光を受け入れた。
だが、ある提案が二人の間に亀裂を入れた。
それは信光が義仲に持ち込んだ縁談であった。

信光の娘を義仲の嫡子清水義高に嫁がせようという縁談であった。

義仲の返事は
「側室としてなら迎えるつもりである。」
であった。
その返答の仕方は信光とその娘を軽んじた物言いでもあった。

この時義仲の心の中には野望とわだかまりがあった。

北陸を制圧した後は、以仁王の遺児北陸宮を奉じて都に攻め上るつもりである。
そして、都でしかるべき地位につく。
彼は先祖がそうであったように、都における軍事貴族としての立身出世を目指していた。
軍事貴族の先例としては平清盛がある。
清盛は、膨大な軍事力と経済力を背景にのし上がった。
彼をのし上げたもう一つの要因は祖父正盛の代から築き上げた人脈の存在もあった。
義仲とその子たちは都における人脈を広げなければならない。

特に嫡子清水義高は義仲の後継者であるゆえ、しかるべき家から正室をむかえなければならない。
そのしかるべき家とは、少なくとも四位五位以上の諸大夫の家の娘でなければならない。
公卿の娘であればもっと良い。

今回縁談を持ち込んだ甲斐源氏石和信光は無位無官である。
しかも、甲斐源氏武田信義の後継者としての望みは薄いように見える。
そのようなものの娘は義仲の嫡子の正室にはふさわしくない。
ただ、信光との提携も必要であるから側室として縁を結ぶのは悪くはないとは思っている。

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蒲殿春秋(三百)

2008-08-29 06:09:09 | 蒲殿春秋
頼朝は相模から行家がいなくなるのを見届けると、相模に入った兵、鎌倉に武装させて滞在させている御家人達そして本領にいる者達へ出兵を命じた。
頼朝は越後への出兵を宣言した。
頼朝に反旗を翻した志田義広、新宮十郎行家そしてそれを匿っている
越後の木曽義仲と戦う為に出陣する頼朝に従うようにとの命令である。

同時に書状が信濃、上野、甲斐へと発された。
そのうちの二通は信濃佐久に住まう平賀義信、上野に住まう新田義重へそれぞれもたらされた。
治承四年以降の各反平家勢力運動の中で頼朝には影響されない一つの独立した武家棟梁として存在していた彼らも、木曽義仲の勢力伸張いう事態の前に独立した武家棟梁の地位を捨て頼朝の御家人になるという選択をせざるを得なくなっていた。

新田義重は頼朝の兄義平とともに義仲の父を滅ぼしたという前歴のため義仲と同調はできず義仲から敵視されていた。
平賀義信は自分の本拠地である信濃佐久郡の豪族達が自分の命令より義仲の命令を重んじるようになってきていることに脅威を感じていた。
このままでは父祖代々培ってきた佐久郡への支配力が失われる。

両者とも木曽義仲を受け入れられない立場に立たされていた。
彼らは義仲以外の武家棟梁を頼らざるを得ない。

彼らが選択したの武家の棟梁は鎌倉の源頼朝だった。
新田義重から見ると頼朝はかつての娘婿の弟。
平賀義信は平治以前頼朝の父の義朝に接近していた。
信濃佐久郡は名馬の産地。彼の地を掌握する義信は馬を朝廷に献上する。
朝廷に献上される馬を統括管理する左馬頭の地位にあった義朝に近づくのは自然なことであった。
義信は平治の乱においては、義朝に従って出陣した。
その戦に敗れて敗走する義朝に最後まで付き従った。
雪の中敗走する面々の中に初陣でまだ十三歳の頼朝がいた。

とにかくも、この二人のかつての武家棟梁は独立した地位を捨て頼朝の御家人になることを選択した。

この二者も頼朝の命に従い木曽義仲に向けて出兵する頼朝の出陣に従うことになったのである。

そして、甲斐源氏諸氏にも頼朝からの書状がもたらされる。
彼らも当初進出した南信濃の権限を木曽義仲に奪われつつあって義仲に対してよい感情を抱いていない。
彼らはまだ独立した武家棟梁としての立場は捨ててはいない。
あくまでも頼朝とは同格のものとして存するつもりでいるようである。
だが、この状況下においては頼朝に同調することは目に見えている。

そして、甲斐源氏の中にも頼朝に接近しているものはいる。
加賀美遠光ー長清親子。
そして、新田義重の娘婿でもある石和信光。
甲斐源氏の当主武田信義の子である信光は今木曽義仲を敵視し頼朝に対して急接近を試みている。

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蒲殿春秋(二百九十九)

2008-08-28 06:11:44 | 蒲殿春秋
範頼からの書状を読んだ頼朝は大いに頷いた。

範頼の記す内容は頼朝が密かに諸将の元に遣わした雑色からの報告とは大差が無い。
他の諸将は自軍の手柄を強調するあまり他の将の功績については殆ど報告することは無い。
その点、自軍の功績を述べると共に、小山などの戦いぶりも客観的に記した範頼の書状には目を見張らされる。

「あれは、使えるな。」
頼朝はまずそう思った。
自分を強く主張せず、周囲に対する観察を怠らない。
それでいて自らの下に付いた者の功績はきちんと主張する。
自軍だけでなく、友軍の働きも認めている。
そのような男ならば今後も将として任せられる。

次に頼朝は大きく頭を使う。
今回の戦で働いた者達の恩賞の分配である。
志田や常陸大掾などから奪い取った所領をどのように分配するか。
恩賞に新たなる土地を強く希望するものは多く、恩賞の対象となる地は限られている。
これを不満なく分配することは難しい。

しかし、そこが頼朝の真骨頂である。

数日後頼朝から発表された恩賞に対する不満の声は殆ど出なかった。

範頼の下についた者に対しても功績あるものにはきちんと恩賞が与えられた。
目だった功績を挙げることができなかったものに対しても年貢の軽減などの措置が与えられた。
出兵の際の経済負担に対する配慮であった。

恩賞の発表から時をおかず頼朝は次なる行動を命じた。
まず、遠江駿河に派遣していた相模の兵を次々と東へ戻した。
足柄山を越えた兵たちは相模国松田を目指す。
その動きを見てそそくさと松田から兵を率いて逃げ出した男がいた。
源行家━━頼朝の叔父である。

頼朝はその報告をみて思った。
━━ やはりな。

熊野新宮や伊勢神宮と提携して三河に影響力を伸ばした頼朝。
その煽りを食らって自らが勢力を扶持していた三河を追い出された行家は甥の頼朝を深く恨んでいる。
今回挙兵した兄の志田義広と提携して一気に鎌倉を攻め落とさんと行家は相模に入り込んでいたようである。

が、義広らは倒された。逆に頼朝の軍が松田を目指して進んでくる。
行家は北陸目指して逃走した。
北陸越後には行家を受け入れてくれるはずの甥がいるはずである。

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蒲殿春秋(二百九十八)

2008-08-25 08:55:22 | 蒲殿春秋
「ですが、それではわれらが手柄は目立ちませぬ。
小山殿や下河辺殿のお働きは鎌倉では評判となり、自らも鎌倉殿に手柄を伝えに参上しております。
ですが、我らが功績は殿がお伝えくださらねば正しく伝わりませぬ。
その書状には我らが功績こそ記されるべきでいまさら他のものの功績は書かずともよいのでは?」

吉見次郎のその抗議に範頼は静かに答えた。
「吉見次郎。私は鎌倉殿を信じている。」
範頼は強い瞳で吉見次郎を静かに見据えた。

「鎌倉殿は勝つ為に何をせねばならぬかを知っておられる方じゃ。
戦には小山殿のような勇猛果敢、そして見事な策をもって敵を倒す者は必要である。
その様なものは褒め称えられねばならぬ。
だが、その一方で人目には触れず、それでいて大切な役割を果たさねばならぬものもある。
それが今回の我が軍の出陣じゃ。
大軍を動かすことで敵の心胆を冷やた。
太田殿を背後から襲おうとした武蔵勢を打ち破り太田殿が武勲を挙げるのを助けた。
我が軍はこの戦では目立たぬながらも、大手柄を立てた。
そのことはきちんと鎌倉殿にお知らせする。そなた達がよく働いた事はよくよく申し上げる。そして」

範頼は言葉を区切った。
「鎌倉殿はわかって下さる。我らが軍の功を。
他の誰かがどう言おうとも、世の中の評判がいかようにあろうとも。」

吉見次郎はまだ納得しない。
「私も鎌倉殿を信じています。信じているからこそ御家人としてお仕えしている。
しかし、私は悔しいのです。われらが大切な働きをしたのに世の人々に知られぬことが。」

その吉見次郎に範頼は静かに語る。
「世の人がどのように我々を見ようとよいではないか。
鎌倉殿に認めていただければそれでよい。
そして我々自身がそれを誇りに思えば。
どのような働きをしたかを知るのは神仏、恩賞を下さる主、そして自らが知っておればそれで良い。」

吉見次郎はまだ不満そうな顔をしている。
範頼は言葉を続けた。
「吉見次郎よ。
戦に於いては何が一番の大事か判っておろう。何よりも勝たねばならぬ。
勝たねば恩賞を貰うどこではない。領地も命も親兄弟も子も全て何もかもが奪われる。
まずは勝つことが大切である。
勝つためには我らのような目立たぬ功績を挙げるものも必要じゃ。」

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蒲殿春秋(二百九十七)

2008-08-24 05:22:58 | 蒲殿春秋
「全く鎌倉に行ったた者共は口々に自分の手柄ばかり並べ立ておって他のものを誉めることはしようとはせぬ。」
今度は地面を蹴った。
吉見次郎は憤りのあまりそんな言葉を口にしたが、この当時自分の手柄を大げさに喧伝するのは当然のことである。
勲功は恩賞に通じる。
自分の勲功を認めてもらわなくては、恩賞は少なくなる。
それゆえに自分の手柄を主に報告し、世の中にも噂を広げておかなければならない。
他の人の勲功を宣伝する余裕など当時の武士たちにはあるはずがない。

「誰もわれらが勲功を言うて下さるのならばわしが使者になる。そしてわしが鎌倉殿に殿のお手柄を披露する。
そうじゃ、それが良い。今から殿にわしを使者に立てるように申し上げてくる。」
愚痴をこぼしているうちに興奮してきた吉見次郎はいきなり主のもとへと走り出した。
当麻太郎はあわててその後を追った。

吉見次郎が主の元に飛び込むと、主ー源範頼は静かに文をしたためている最中であった。

「殿!」
吉見次郎が主に声を掛けると、範頼は手を止めて吉見次郎の方に向き直った。
「申し上げたいことがございます。」
吉見次郎は先ほど当麻太郎にぶつけた不満を洗いざらい範頼に申し述べた。
範頼は一言も発することなく黙って吉見次郎の言葉を聞き続けた。

半ば興奮しながら話すその言葉を聞き終わると範頼は静かに答えた。
「今そなた達の働きの見事さを鎌倉殿への書状に書き記しておる。」
「それでは!」
「同じ文に小山殿や下河辺殿、太田殿などのご活躍も記しておるが。」
その言葉を聞いて吉見次郎は絶句した。

「殿、小山殿らのお働きに関してはいまさらご報告は無用と存じ上げますが・・・
鎌倉において、彼らの働きは存分に広まっておりまするゆえ。」
「私は鎌倉殿より、合戦の状況を事細かに公正に伝えるように言われておる。」
「しかしそれでは。」
「鎌倉殿は、それぞれに恩賞をあたえねばならぬお方。
恩賞は公正に与えられねば不満が生じよう。
その為にも、戦の詳細は正しく伝えられねばならぬ。」

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蒲殿春秋(二百九十六)

2008-08-23 04:53:22 | 蒲殿春秋
志田義広らに勝利した。
その報はすぐさま鎌倉にもたらされた。
やがて、勝利者達は意気揚々と鎌倉へ報告に訪れた。
誰もがこの戦勝を祝い、特に大奮闘した小山朝政、長沼宗政兄弟は人々に大いにもてはやされた。
また、下河辺行平、八田知家など志田・常陸大掾と戦った他のものも頼朝から勲功に関して賞賛の言葉を貰った。

だが、その戦勝の喜びの渦中の中にある鎌倉に存在しない人物が戦勝軍のなかに二人いた。
一人は怪我の為遠出ができない小山朝政ー今回の大勝利の立役者である。
もう一人は、源範頼である。

範頼は戦に勝利しても下野に留まるようにという兄頼朝の命を受け、引き連れた大軍と共に未だに小山に留まっている。

将たちが鎌倉に行って暫くするとここ下野にも、鎌倉における戦の評判が流れ飛んでくる。
とにかく鎌倉では小山兄弟の活躍がもっぱらの噂らしい。
また、下河辺兄弟らの残党狩りの巧みさも評判となった。

だが、源範頼に関してはなんの話題も出てこない。
範頼が援軍に行ったことすら知らないものさえいるようだ。

この事を苦々しく思っている人物がいる。
範頼の郎党吉見次郎頼綱である。
吉見次郎は小山の猶子であるから小山兄弟の活躍が褒め称えられることに関しては誇りに思う。
だがその一方で自分が従軍した範頼軍が何の評価もされないことに無念さを感じている。
ある日たまりかねて範頼に古くから仕えている当麻太郎に愚痴をこぼした。

「なあ、当麻太郎よ。わしらの出陣はなんであったのであろうか。」
「何故そのようなことを言う。」
と、当麻太郎。

「殿のご出陣は、無駄足ではなかったはずよのう。殿の援軍なくばこのようにやすやすと志田先生を滅ぼすことはできなかったはずよのう。」
吉見次郎は不満顔で言う。

「それはそうだ。殿が武蔵の者達を率いた。殿がその武蔵の大軍を率いているという安心感あればこそ小山殿も下河辺殿も思う存分働けた。」
当麻太郎もその不満には同意見である。

「しかもわしらは、太田殿の後ろを衝こうとした武蔵勢を背後から打ち破った。
あれがなければ、佐野や太田殿は危うかったはずじゃ。さすれば常陸大掾をやすやすと退散させることはできなんだ。」
吉見次郎は持っていた木の枝を思いっきり折り曲げた。

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蒲殿春秋(二百九十五)

2008-08-20 05:06:48 | 蒲殿春秋
西からの大軍を見て志田勢はさらに西へと逃げた。
常陸からの兵が当てにならぬ以上頼れるのは下野と上野にまたがって勢力を所持する足利忠綱しかいない。

足利忠綱はとりあえず志田義広を受け入れた。
が、その忠綱自身が窮地にたたされていた。
藤姓足利氏内部の主導権争いの過程の中で、下野の郎党の多くが忠綱ではなく、忠綱とは袂を別った佐野一族のほうへと付いていった。
一方上野では、新田義重が忠綱を討つべく出陣の準備をしているとの噂が流れ飛び、上野の忠綱の郎党達は義重を怖れてなりを潜め忠綱の呼びかけには応えない。
そして肝心の本拠地足利荘の郎党達も忠綱の命令を聞かない。
彼らは、志田義広の敗北を知り、忠綱に従うことの不利を考え、理由をつけて参陣を拒んでいる。
それどころか足利荘に住まう多くの者達が密かに足利荘を抜け出して鎌倉に馳せつけているという。
鎌倉には、かつて藤姓足利氏より上位の足利荘支配者であった━━ 都にあって藤姓足利氏と八条院の仲介役を務めていた━━
源姓足利氏の足利義兼がいる。義兼はその母が源頼朝の母の姪であり、妻が頼朝の妻政子の妹である。
二重の縁で頼朝に非常に近い存在である。
足利荘の者達は忠綱を拒み、源姓足利氏に仕えようとしている。

進退窮まった忠綱はついに僅かな手勢を連れて上野の山中に逃げ込んだ。

忠綱に見捨てられた義広は、山伝いに越後に逃れた。
そこには、義広の同腹の兄を父とする甥がいる。
以仁王の遺した皇子を擁し、以仁王の遺志を受けて立つ者を自称し、
以仁王を支援した八条院の勢力の統括者たらんことを目指すその甥は
八条院領を預かり、以仁王の令旨に従った義広を見捨てることは無いはずである。

必死の思いで越後の木曽義仲の元へと逃げ込む志田義広。
だがこのことが、東国に新たな火種を呼び込むことになったのである。

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蒲殿春秋(二百九十四)

2008-08-18 05:03:10 | 蒲殿春秋
小山勢の西に陣を張った志田義広は小山勢の東から押し寄せるであろう常陸大掾一族の援軍を待った。
小山勢を挟み撃ちにしようとしている。

小山、志田双方ともまだ常陸大掾が下河辺で撃退されたことを知らない。

小山軍中では朝政、宗政を中心に策が練られていた。
この頃野木宮では風が吹き渡っていた。
その時、老いた郎党がふと言った。
「若殿、この風は直ぐに向きが変わりまする。」
「ほう、どのように。」
と問い直す朝政。
「今は北から南へと吹いていますが、間もなく東から西へ吹く風に変わりまする。
それも、猛烈な突風になって。」
「では。」
「さようでございます。我が陣から志田の陣に向かって強い風が吹くことになりまする。」

「五郎、打つべき策が決まったな。」
朝政は弟を促した。
風が吹くならば戦の常道を行使するのに使わない手はない。

「者供!火矢の支度を致せ!」
宗政は大声で指示を飛ばした。

小山勢は風向きの変わるのを待った。
やがて、老郎党の言うとおり東から西へ吹くように風向きが変わった。

「放て!」
長沼五郎宗政の号令に合わせて一斉に火矢は放たれた。

閏二月の下野の空気は乾ききっている。
木々も草草も水気を失っている。
放たれた火は大いに燃え上がり、風に煽られ火は西へ西へと怒涛の如く突き進んでいく。

火の攻撃を受けた志田勢は大混乱に陥った。
煙で周りが見えない。
火に追い立てられる。

大将の志田義広はなんとか西へと逃れたものの、多くの郎党達は炎と煙の中
散り散りになって逃げまとうばかりであった。

炎の攻撃が去った後に志田勢を待っていたのは
小山勢による殺戮であった。
この頃には、小山へ次々と援軍が現れた。
逃げる志田の兵の多くは次々に討ち取られてしまった。

多くの仲間を討ち取られながらも、生き残った志田勢は常陸大掾の援軍を待っていた。
だが、頼みの援軍ー平氏である常陸大掾の赤旗の部隊は来ない。
やがて来るべき赤旗の代わりに多くの白旗を抱えた部隊が現れた。
源氏の白旗をはためかせているのは源範頼率いる武蔵勢の大軍であった。

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蒲殿春秋(二百九十三)

2008-08-14 06:05:54 | 蒲殿春秋
座り込んだ宗政は「信じられない」というような顔をして兄小山四郎朝政を見つめている。

「兄者。ここはうつしよ(現世)か?」
「ああ。」
「吾は生きているのか?」
「ああ。」
「兄者、無事だったのか!」

宗政の顔はもう涙でぐちゃぐちゃである。
「五郎、私が死んだと思ったか?」
その問いに宗政は答えられない。
感極まって号泣しているからである。
朝政は呆れた顔をして弟を見つめている。

「登々呂沢で兄者の鹿毛を見たときにはもう駄目だと思った。」
落ち着きを取り戻した宗政はそう語りだした。
「あの鹿毛は兄者が他の誰も乗る事を許さぬ兄者の宝の馬。
その鹿毛が誰も乗せずに佇んでいるということは、兄者に何かあった、いや
兄者がもう討ち取られたものtと思ってしまった。
それからは、兄者の仇を討つことだけを考えてここまで来てしまった・・・
さっきどのように戦っていたのかさえ覚えておらぬ。」

その話を聞いて朝政は暫く固まっていたが、やがてその表情に微笑みが現れてきた。

「まったく、お前は思い込んだら何も考えずに直ぐ動く。昔からそれは変わらん。
鹿毛には逃げられたが私はこの通りまだ生きている。勝手に私を死なせるな。
だが、その直情怪行のおかげで志田が引いたのだから、そなたのその気性も役にたつこともある。
とにかくお前のおかげで助かった。礼を言う。」
兄に頭を下げられた宗政は少し決まりの悪そうな顔をしている。

「五郎、頼みがある。私はこの通り怪我をしている。
私と一緒に志田を戦う軍の差配をして欲しい。」
「心得た。」
「ところで、関次郎は?」
「鎌倉を共に出立したが途中で我が勢と離れて志田方へ走った。」
「やはりな。」
「兄者。去ったものを追っても仕方あるまい。今は志田先生を叩くことに全力を尽くそうぞ。」

将小山四郎朝政の負傷で一時は劣勢に経たされた小山勢も長沼五郎宗政という頼もしい男の登場で勢いを取り戻し、戦の新たなる局面を迎えようとしていた。

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