数日後、範頼は船の中にいた。
前よりはしのぎやすくなったとは言え船酔いはやはり辛い。
船酔いに苦しんだときは遠慮せずに船底に寝転び酔いが通り過ぎるのを待つ。
けれど、辛くないときは船の外を眺める余裕も出てきた。
おだやかな相模湾の洋上からは富士と呼ばれる雄大な山を望むことが出来る。
二つとない山だから「不二」とも称される。
二つとないという言葉で
範頼はかつて心の中につぶやいた言葉思い出した。
━━ 私は決して三郎兄上の代わりにはなれない。
あの時は自分を頼朝と見間違えた姉の言葉に対する反発の心があった。
今回も自分は三郎兄にはなれないと思った。あの時とは違う意味で。
範頼にとっては頼朝はまぶしすぎる存在だった。
幼き日度々上った都の父の屋敷。そこでみた三郎兄は範頼にとってあこがれだった。
弓の腕はすばらしく、的を外したのを見たことが無い。
軽々と馬を乗りこなし、時にはとても通れないような所まで踏み入る。
それでいて普段の挙措動作は見とれてしまうくらい美しい。
早くから官位を得て朝廷や女院の元に出仕し、その職務をそつなくこなしていたとも言う。
やがて都において官位を授かるべく育てられ、多くの郎党たちを常に従えていた。
そして、他の兄弟のだれよりも多く色々なことを学ばされ、都の武士の家たる者の後継者としての矜持を常に教え込まれていた。
それらのことは若い身には負担が大きいはずなのにそれを悠然と受け止める度量があった。
そしてまた、流人という立場に立たされていても
優雅さを失わず、現在の立場を粛々と受け止めているが決して卑屈さは感じられない。
自分がその立場だったらどうであろうか。
やはり自分は兄のようにはなれない。そう思い知った。
自分は自分、兄は兄である。
船は進む。
相模湾を抜けて安房国をまわり、外海へ。
そして、下総と常陸の間を流れる川を上る。
この河は常陸にいくつかある大きな湖に繋がっている。(注)
その湖の先に常陸の国府がある。
湖の中ほどで、岸の先の或る方向を指して渡辺某が得意げに話す。
「御曹司、あれが志田庄さ。
あそこも八条院さまの御料なのさ」
その志田庄を管理しているのは範頼の叔父志田義広とのことだった。
やがて、船は国府に近い岸に到着した。
(注)現在の利根川河口から霞ヶ浦に入ると考えて下さい。
ただし当時の利根川は東京湾に流れ込んでいて現在の河口とは
違うところにあります。
手持ちの資料で当時(現在の)利根川河口付近から
霞ヶ浦には繋がっていることが確認できました。
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前よりはしのぎやすくなったとは言え船酔いはやはり辛い。
船酔いに苦しんだときは遠慮せずに船底に寝転び酔いが通り過ぎるのを待つ。
けれど、辛くないときは船の外を眺める余裕も出てきた。
おだやかな相模湾の洋上からは富士と呼ばれる雄大な山を望むことが出来る。
二つとない山だから「不二」とも称される。
二つとないという言葉で
範頼はかつて心の中につぶやいた言葉思い出した。
━━ 私は決して三郎兄上の代わりにはなれない。
あの時は自分を頼朝と見間違えた姉の言葉に対する反発の心があった。
今回も自分は三郎兄にはなれないと思った。あの時とは違う意味で。
範頼にとっては頼朝はまぶしすぎる存在だった。
幼き日度々上った都の父の屋敷。そこでみた三郎兄は範頼にとってあこがれだった。
弓の腕はすばらしく、的を外したのを見たことが無い。
軽々と馬を乗りこなし、時にはとても通れないような所まで踏み入る。
それでいて普段の挙措動作は見とれてしまうくらい美しい。
早くから官位を得て朝廷や女院の元に出仕し、その職務をそつなくこなしていたとも言う。
やがて都において官位を授かるべく育てられ、多くの郎党たちを常に従えていた。
そして、他の兄弟のだれよりも多く色々なことを学ばされ、都の武士の家たる者の後継者としての矜持を常に教え込まれていた。
それらのことは若い身には負担が大きいはずなのにそれを悠然と受け止める度量があった。
そしてまた、流人という立場に立たされていても
優雅さを失わず、現在の立場を粛々と受け止めているが決して卑屈さは感じられない。
自分がその立場だったらどうであろうか。
やはり自分は兄のようにはなれない。そう思い知った。
自分は自分、兄は兄である。
船は進む。
相模湾を抜けて安房国をまわり、外海へ。
そして、下総と常陸の間を流れる川を上る。
この河は常陸にいくつかある大きな湖に繋がっている。(注)
その湖の先に常陸の国府がある。
湖の中ほどで、岸の先の或る方向を指して渡辺某が得意げに話す。
「御曹司、あれが志田庄さ。
あそこも八条院さまの御料なのさ」
その志田庄を管理しているのは範頼の叔父志田義広とのことだった。
やがて、船は国府に近い岸に到着した。
(注)現在の利根川河口から霞ヶ浦に入ると考えて下さい。
ただし当時の利根川は東京湾に流れ込んでいて現在の河口とは
違うところにあります。
手持ちの資料で当時(現在の)利根川河口付近から
霞ヶ浦には繋がっていることが確認できました。
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