時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

範頼の兄弟について その5(希義)

2007-05-31 05:10:17 | 蒲殿春秋解説
源希義
仁平二年(1152年)生まれ
父 源義朝、母 熱田大宮司藤原季範娘※1 (「尊卑分脈」他)
兄弟順 5男?
同母兄弟 頼朝、一条能保室 (「尊卑分脈」他)
経歴
1159年 平治の乱
1160年 土佐に流刑(「清獬眼抄」他)
1180年 蓮池権守家綱、平田太郎俊遠らに討ち取られる※2

※1希義の生母については次のような異説があります。
母は工藤朝忠の娘
ただしこの異説は信憑性は非常に薄いと思います。

まず、工藤朝忠という人物には希義の「舅」説があるそうです。
九歳の希義はすでに結婚していて平治の乱の時舅の手で都に突き出されたとの伝承があるようです。(奥富敬之「清和源氏の全家系四 源平合戦と鎌倉三代」新人物往来社 に「伝承」として記載)

また、学習院本「平治物語」(岩波書店「新日本古典大系」に所収)では
平治の乱の後その身柄を「おじ」の朝忠によって朝廷に突き出されたと書かれています。
この「新日本古典大系」の解説には
朝忠=熱田大宮司範忠(頼朝・希義母の兄)と書かれいます。
おそらく一時期「朝忠」と名乗っていたであろう母方の伯父のことでしょう。

つまり朝忠は「舅」か「伯父」の可能性があり
希義の母方の祖父とは言い切れない部分があります。
何かの関係で朝忠が母方の祖父と混同されたのかもしれません。

このようなことを考えますと
やはり「尊卑分脈」や「平治物語」に載っている通り
母は頼朝と同じ「熱田大宮司藤原季範娘」と見るべきだと思います。


※2希義の没年について

「吾妻鏡」に記載されている
寿永元年九月二十五日没が一般的に支持されているようです。
ところが
「延慶本平家物語」によると治承四年十二月一日に死亡となっています。(延慶本の内容)
また「尊卑分脈」「平治物語」では治承四年没となっています。

頼朝の挙兵の後に約二年の間もなんの動きも無く
流刑地で平穏無事に生きていたとは考えがたい、
との意見もあり
私もその意見に同意いたしましたので
「延慶本平家物語」の没年月日に従うことにいたしました。

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蒲殿春秋(百三十四)

2007-05-30 05:11:36 | 蒲殿春秋
義資が鎌倉へ旅立って程なく叔父の新宮十郎行家が範頼に新たなる情報をもたらした。
「熊野新宮は四国の土佐や阿波のものとも協力する手筈じゃ」
「土佐?」
腑に落ちない顔をして範頼は行家を見返す。
「土佐にはそなたの兄介良冠者がおるじゃろ。
土佐の国人が介良冠者を担ぎ上げて反平家の狼煙を上げるのじゃ」
介良冠者源希義は範頼の同年生まれの異母兄である。
平治の乱に於いて捕らえられ、希義と母を同じくする兄頼朝とは正反対の西国土佐に流刑となっていた。
流刑になってから約二十年世の中から全く忘れられていた存在となっていた。
しかし、兄頼朝が以仁王の令旨を得て挙兵し坂東の一角に勢力を蓄えるようになった。
それゆえに、平家の知行国支配に不満を持つ土佐の国人にとって希義は「反平家勢力の旗頭源頼朝の弟」としての存在価値が出てきてしまった。
その希義を担ぎ上げようとしている土佐の勢力は熊野反平家勢力と協力の道を探っている。
実現すれば、海上交通を駆使した南海反平家勢力連合の成立が見られる。

個々に挙兵した反平家勢力は夫々に同盟を結ぼうとしている。
安田義定の新宮十郎行家支援と頼朝への協力依頼は
一連の同盟締結運動のひとつであり、南海のこの動きも一連の動きに含まれるであろう。

━━五郎兄上
同年生まれの兄。範頼よりほんの数ケ月だけ前に生まれていた。
範頼が都に上った際、たまに互いに顔をあわせていた。
同年生まれだけあって、希義に対しては共感と競争意識をより強く持っており
勝負事をした時はどちらも一歩も引かず最後にはよく喧嘩になってしまったことを思い出す。
その頃の幼き異母兄の顔を範頼を思い出した。
最後に会ったのはお互いに八つの時、それ以来会ってはいない。

この土佐の挙兵が成功するならば、反平家勢力同盟の勢いは否が応でも増すであろう。

だが、数日後ここ遠江に悲報がもたらされる。
挙兵の動きを察知した平家方勢力の蓮池権守らに希義は討ち取られてしまうのである。
彼を担ぎ上げようとした夜須一族の元に希義が向かう途中のことであった。
時に治承四年(1180年)十二月一日。
夜須一族は計画の頓挫を知り海上に逃れいづこともなく去っていった。
希義━━九歳の時には両親は既に亡く、その年に兄弟たち全てと引き離されて流刑に処され、
それ以降同胞の誰とも会うことも無く流刑地にて短い生涯を終える。享年二十九。
この一連の動きの結果、土佐熊野南海同盟構想は崩れ去ることになる。

今、夢見がちに熱っぽく甥に語っている新宮十郎行家とそれを聞いている範頼はまだこの未来を知らない。

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蒲殿春秋(百三十三)

2007-05-28 05:46:24 | 蒲殿春秋
なるほど、東海道の海を制するには全国に水運活動を展開する熊野水軍の活躍は大きな力となろう。
ここのところ美濃源氏、近江源氏は安田義定の兄武田信義に接触を図ってきている。
個別に挙兵した畿内やその近辺で挙兵した反平家勢力は
東国における反平家勢力の中で最も有力と見られる甲斐源氏の協力を望んでいる。
むろん甲斐源氏もそれに応える。
甲斐源氏ー美濃源氏ー近江源氏の同盟が成立しつつあった。
この時期の反平家同盟の中心は甲斐源氏にあるような感がある。
一方で南関東に勢力を張る源頼朝は一連の同盟締結の波からは取り残されている感がある。

東海道に進出した甲斐源氏が各地反平家勢力との連絡をとる海上勢力の協力は欠かせない。
よって熊野水軍の協力を得るためには、三河国が欲しいという熊野の縁者新宮十郎行家の要請には応えておいたほうがよい。

それに、実を言えば行家自体たいした兵力を有していない。
陸上から三河に攻め入るためには現実に多くの兵を従えている安田義定が
共に出兵しない限り三河を制圧し、治め続けることことは不可能である。
つまり、新宮十郎行家の名で三河を制圧してもその実質は安田義定が握ることになるのである。
これは行家の名を借りた安田義定の勢力拡大の活動に他ならない。

一通り話を終えた後、安田義定は範頼に一つの提案を行なう。
兄である鎌倉殿源頼朝に消息を知らす文を送るのはいかがかと。
範頼の元に藤七が頼朝の挙兵の知らせを持って現れてから範頼は頼朝に自らの消息を一切伝えていない。
遠江に落ち着いた現在、自分を呼びに藤七をよこしてくれた頼朝には消息を知らせのが筋であろう。
頼朝に文を書くこと自体は意義もないし、むしろ望むところである。

だが、安田義定が他意も無く頼朝に文を出せと言うはずはない。
義定には狙いがあるはずだった。
案の定安田義定は自分も添え文をしたためそれと範頼の文を嫡子義資に届けさせると言ってきた。

義定の狙いは
三河の諸豪族が義定に従うように頼朝からも働きかけて欲しいと鎌倉に依頼することにあった。
頼朝の配下にいる諸豪族には遠江以西の東海道諸国になんらかの関わりを持つのも多い。
頼朝自身も三河に多少の縁がある。
彼の外祖父熱田大宮司季範は若い頃額田冠者と呼ばれ、三河に少なからず所領を有していた。(額田は三河にある)
そして現在も頼朝外戚熱田大宮司家は三河に多少の影響力を持つ。
その熱田の協力が義定に得られれば三河諸豪族への呼びかけの助けになる。
熱田大宮司家に連なる頼朝、そして三河に縁の在る鎌倉に従う者の協力が是非とも欲しい。

諸国の反平家同盟締結の流れに取り残されていた南関東に孤立していた感のある頼朝もここにきて三河攻略という局面で、その配下の人脈と頼朝自身の血脈ゆえに
甲斐源氏安田義定にとっての必要性が急遽沸いてきたのである。

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蒲殿春秋(百三十二)

2007-05-27 05:55:08 | 蒲殿春秋
その人物は新宮十郎行家である。
義定の引き合わせにより範頼はこの叔父と初めて対面した。
熊野新宮出身のこの叔父は、以仁王の令旨を各地に配布した後
常陸にいる兄志田先生義広の元に身を寄せていた。
しかし、ある野望を抱いて今、行家は安田義定の前に現れた。
背が低く、対峙する相手を覗き込む視線の奥には何か得体の知れないものを感じさせられる。
父にも、数年前会った叔父志田先生義広にも似ていない、
独特の雰囲気をかもし出す叔父。
初めて出会った叔父に戸惑っている範頼を見ながら安田義定は語る。
「これから、わしらはこの新宮十郎殿と共に三河を貰いに行く。」
範頼は安田義定の顔を凝視した後、行家の顔を見やった。

━━ わしは、西を狙う
確かに安田義定はそう言っていた。
とはいえ、ついこの前の状況を考えるとそれはかなり時間がかかるものだと思っていた。

だが、尾張、美濃、さらには近江まで反平家の蜂起があった。
この状況にて遠江のすぐ西に隣に位置する三河を手にすることにはかなり現実味がある。

安田義定は遠江の実権の把握につとめながら隣国三河にも調略の手を伸ばしていたのは知っていた。
けれどもまだそれは手をつけはじめたばかり。義定の呼びかけに応じるものもさほど多くは無い。
それになぜ新宮十郎行家の協力なのか。

行家がその場を去った後安田義定は範頼に次なる計画を話していた。
「三河も長いこと平家の知行国じゃ。平家に心を寄せるものも多い。
じゃが、様子見のものや国衙に反抗的なものもいる。
ここにきて、三河のものどもは、遠江にわし、尾張に美濃源氏の反平家の勢力に挟まれて動揺しておる。そこへ運良く新宮十郎殿が来られた。新宮十郎殿は三河を欲しておられる。
吾らも新宮十郎殿と手を携える。
いまが三河を手にする時瞬じゃ」
「しかし、なにゆえ新宮十郎殿なのですか?」
範頼は率直な疑問をぶつける。
「熊野水軍じゃ」
「?」
「新宮十郎殿は熊野新宮の出じゃ。熊野の反平家のものたちが新宮十郎殿の背後におる。
その水軍の協力が得られれば、わしらはもっと動きやすくなる。」

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蒲殿春秋(百三十一)

2007-05-20 11:00:24 | 蒲殿春秋
今自分が兄頼朝の下に行けばさぞ兄は喜ぶであろう。
けれどもそれが本当に兄頼朝の為になるのかと言えばそうであるとは思えない。
頼朝の回りには未だに敵が多い。
範頼がこの蒲御厨にいる時点では頼朝の佐竹との合戦の勝敗は決していなかった。
上野は未だに平家方のものの力も強い。
一旦頼朝に従ったかのような相模武蔵の豪族達も趨勢によってはどう転ぶかわからない。
最大の懸念は一回は撤退したとはいえ平家は体制を立て直し戦力を強化して
東国に向かってくるのが予想さることである。
その時、反平家同盟は追討軍を再び追い返すことができるのか。

この時、遠江は頼朝と甲斐源氏による反平家連合の最前線に位置していた。
ここで安田義定と協力して平家の侵攻に対する盾となることの方が
無位無官でかつ領地も所持していない自分が側にいるよりも兄頼朝の役に立てるとその時の範頼には思えた。

もう一つ範頼には遠江から離れたくない理由がある。
安田義定は遠江来る前に範頼に言っていた約束をまだ行っていなかった。
池田宿の長者にいつか合わせてやる、という一事を。
範頼の母を知っているという池田宿の長者
範頼はぜひその人物に会っておきたかった。
その長者とは未だに面会を果たしていない。
けれども、その想いはここにいる藤七や当麻太郎には言えることではなかった。

二日ほど蒲御厨に逗留した後、遠江国府に範頼らは戻った。
安田義定は遠江の国人を取りまとめる一方で、次の方策を練り始める。

富士川の戦いで源頼朝・甲斐源氏連合が追討使を撃退したとの報は都の人々を震撼せしめた。
そして、その知らせは全国各地でくすぶっている在地勢力間の諍いという油に火を注ぐことになる。
既に熊野にて反平家運動は活発化し、九州筑紫でも反平家勢力の蜂起があった。
追討軍撤退の知らせは、そのほかの在地の親平家勢力と抗争関係にあったものたちの
蜂起を誘発することになった。

十一月十七日美濃源氏が反平家を掲げて蜂起し、瞬く間に美濃と尾張を占拠したとの報が都に入った。
平家方在地勢力の圧力を受けていた尾張美濃の諸豪族は「以仁王の令旨」を戴いた
美濃源氏を旗頭として担ぎ上げ彼らを挙兵に踏み切らせたのである。
富士川の戦いの結末から勝機ありと彼らに判断されたのが大きい。

さらに、十一月二十一日、旧都に程近い近江でも近江源氏が蜂起した。

富士川合戦の追討軍の敗北は畿内とその近くにおける反平家の蜂起をもたらしたのである。

その一連の動きの中、安田義定はある人物を遠江に呼び寄せる。
義定に考えがあってのことである。

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蒲殿春秋(百三十)

2007-05-12 00:08:08 | 蒲殿春秋
「蒲殿いかがなされましたか?」
蒲御厨の中のかつての住まいに佇む範頼に
ここまでずっと付いてきた藤七が声をかける。
「いや、な」
範頼はあいまいな返事をした。
「ところで藤七、そなたは佐々木殿の元に戻らぬのか?」
「いえ、私の役目は蒲殿を鎌倉殿の元へお連れすることにございます。
それを果たすまでは私は蒲殿のお側を離れるわけには参りませぬ。」
範頼の問いに藤七はきっぱりと答える。
思えば、藤七がここに兄頼朝の挙兵を知らせに来たのが事の始まりだった。
それから二月ほど立つ。
範頼の身の回りも世の中の情勢も何もかもが大きく変わってしまった二月であった。
兄頼朝に対する世間の呼び方も「佐殿」から「鎌倉殿」に変わっていた。
自分の立場もまたあの頃とは違う。
「殿、それにしても安田殿は殿を兄君の元におやりになるつもりはないのでしょうか?」
と当麻太郎。
「どうであろうかの。ただ言えることは安田殿にとって私は多少は役に立っているようだ。
そして今、私が安田殿の側を離れるのは安田殿にとってはあまり好ましいことではないようだ。」
「殿、そこまで安田殿に気兼ねなさらずとも・・・」
「いや、安田殿そして甲斐の方々には恩義がある。やはりその恩義は返さねばなるまい。
それに、最近思うのだ。兄上の側にいても私には領地も官位もなにもない。
ここにいて兄上の同盟たる安田殿に協力することの方が兄上の役に立つことになるのではないかと。」
「殿」
当麻太郎には次の言葉が出てこない。代わりに藤七が返した。
「されど、鎌倉殿はご兄弟をお側にお寄せになりたいと願っておられます。
現に都から醍醐禅師殿(全成)、奥州から九郎殿(義経)がお越しになられた時は涙を流して喜ばれたとの事です。
蒲殿がご到着なさればお喜びになること間違いございませぬ」
そのことは範頼も既に聞いていた。
頼朝の喜悦も。
これから暫く後、全成と頼朝の妻北条政子の妹との婚姻が成立する。
義経も近々頼朝と父子の契りを結ぶことになる。
兄にとって異腹の弟にあたる彼らは鎌倉において厚遇されているようだ。
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平安時代の見せる下着?

2007-05-09 05:59:48 | 源平時代に関するたわごと
以前兎紫さんのブログ(蓼食う兎の一日)にて取り上げられていた
近藤好一「装束の日本史-平安貴族は何を着ていたのか」(平凡社新書)
に書かれていた内容です。

平安貴族男性が素肌の上に直接身に着けるのは(近藤氏は「肌着」としている)
上半身 単
下半身 大口
(但し平安末期にはこれらの下に「肌小袖」を着用するようになる)

大口については現在で言う「トランクス」に相当するとのことです。
(この本を読む限りでは当時「ふんどし」は存在していないようです)
ただし、形状はトランクスよりはるかに長く現在で言うと
「十分丈」くらいの「トランクス」になるようです。

で、そのトランクス、もとい「大口」ですが
表袴(現在でいうところのズボン)の裾から
大口がはみ出して見えるように貴族達は着ていたようなのです。
(しかも公用服=束帯では大口は「赤」限定)

つまり、現在の感覚で見ると大口は
「見せる肌着なのです」
(当時はそういう感覚はなかったでしょうが・・・)

現在でも一時期ズボンをわざとしたに落としてトランクスの上部を見せるのが
一部若年男性の間ではやっていましたが
平安時代にも「みせる肌着」があったようです。

また、平安時代の私服(準公用服)である
直衣の着方の中に
重ね着した着物をわざと一番上の直衣の裾から覗かせるという「風流」(=オシャレ)
も流行していたようです。
これも一時期年配者のまゆをひそめさせていた
「トレーナーの下からシャツをわざとはみ出させる」
という現代の若者のファションに通じるものがあるように私は思われます。

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