時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

子孫繁栄という強み

2008-10-30 22:03:15 | 源平時代に関するたわごと
数ヶ月前我が家に植えた花の苗が物凄い勢いで成長しました。
ほんの小さな苗だったのにプランターをはみ出さんばかりの勢いに成長しています。また、知り合いの家では、少しばかり植えた松葉ぼたんが物凄い勢いで増えていき庭のかなりの部分を松葉ぼたんに占領されそうだそうです。

また、先日は(といってもかなり前ですが)夏に植えていたゴーヤと朝顔を抜いたのですが、巻きついていけるところはどこまでも巻きついていて、抜いたときにその植物の持つ成長力の凄さに感嘆いたしました。

これらの植物を見て
「成長力、繁殖力のあるものは強い」という感を強くいたしました。

このことからふと歴史のことを考えてしまいました。
鎌足から始まった藤原一族の子孫の増え方、そして姻戚関係の広がりの多さ
また、時政一人から始まった鎌倉時代の北条氏の子孫の増え方と繁栄。
系図では男系でまとめられていて女系の広がりはわかりにくいのですが
女系も加えるとこのように子孫が広がっていた一族の広がりはさらに凄いものがあるように思えます。

色々なパターンもあり、実力や時流の問題もありますが
「子孫を多く残せる一族」の歴史上での強さというものを感じてしまいました。


蒲殿春秋(三百十二)

2008-10-27 21:54:32 | 蒲殿春秋
養父範季からの書状には次のようなことが記されていた。
間もなく平家が北陸方面へ大々的な出兵をするという。
現に近頃では畿内の武士達、杣工たちの徴収が盛んに行なわれ、各寺院では謀叛人調伏の祈祷がひっきりなしに営まれているという。杣工は武士達が戦うのに伴って必要とされる逆茂木や堀の構築や破壊を行なうため必要不可欠な人材である。
治承五年(1181年)の侵攻では何の成果も得られなかった平家が今度は全精力を傾けて北陸に侵攻するという。

平家一門の有力者平教盛の娘婿でもある範季の書状は大いに信憑性の持てるものである。
その平家の婿となっている養父範季はここの所範頼との接触を増やすべくしきりに使者をよこしている。
範頼が鎌倉を留守にしている間にも何人かの使者が来たと瑠璃が言っていた。

ともあれ、平家の北陸侵攻がいよいよ始まるというのは事実であろう。
そうなると、東海道もその動きとは無縁ではいられない。
東海道は現在三河までは反乱勢力が制圧している。
範頼はその三河しかも尾張に程近い西三河に勢力を扶持しつつある。
一方尾張は反乱勢力と親平家勢力が拮抗している状態である。
平家の北陸侵攻の動きを掴んだ尾張の親平家勢力がどのような動きを見せるかわからない。
何か動きがあれば尾張と境を接する三河も無縁ではいられない。

その三河を範頼は数ヶ月離れている。
二月末までは、和田義盛が安田義定と協力して三河に滞在していたが
野木宮合戦の後の信濃侵攻に向かいその後鎌倉に戻ってきてしまった。
現在の三河は手薄である。自分が三河にいれば、もし尾張に何かあっても動揺を最小限に抑えて直ぐになんらかの対策を講じることが出来る。
範頼は今三河に戻る必要性を強く感じている。

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蒲殿春秋(三百十一)

2008-10-24 23:14:26 | 蒲殿春秋
瑠璃はしばらくの間忙しかった。
侍女頭の志津がつわりで動けないということもあったが、実家の安達家に起きた慶事がさらに瑠璃を忙しくした。
なんと、瑠璃の母小百合まで身篭っていたのである。
小百合はもう四十を過ぎている。当時としては老齢の部類に入る。
本人も周囲ももはやそのようなことがないと思っていた。
一番驚いているのは夫の安達藤九郎盛長である。
━━よもやよもや
初めての子ではないのに盛長は妙にうろたえている。

小百合の方は極めて冷静に事態を受け止めている。
年齢がいってからの妊娠であるにも関わらず平時と変わらぬ動きを見せている。

そうはいっても、身篭った女性に対して周囲が気を遣う。
ましてや年齢が年齢である。
大丈夫といっているものの無理はさせたくはない。
このような時頼りになるのは身内の女性。
しかし、小百合の母比企尼は高齢。結局頼りになるのは娘の瑠璃ということになり
瑠璃はしばしば実家の安達館に赴くことになる。

瑠璃をみて小百合は少し申し訳なさそうな顔をする。
「本当は瑠璃の面倒を見なければならないのにね。」
そういう母に
「いいえ、いずれ私も子を宿す日が来るでしょう。その時このことがきっと役に立つとおもいます。」
娘は前向きに答えた。

慣れない新婚家庭を切り回さなければならない忙しさに加えて、頼りになる侍女頭と実母の妊娠。
瑠璃にかかる負担は大きい。
そのような瑠璃を見ている範頼はある事を瑠璃に切り出そうとしているのだが切り出せずにいた。

範頼が妻瑠璃に言いたいこと。
それは、一度三河に戻りたいということだった。
三河を出たのは前年の暮の事だった。それから今年の春になるまで一度も三河へは戻っていない。三河は範頼が勢力を築きつつある地であった。
三河に帰るその決心をつけさせたのは都にいる養父藤原範季からの書状だった。

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蒲殿春秋(三百十)

2008-10-20 23:42:34 | 蒲殿春秋
山々の間を切り開いた崖に挟まれた道を通り過ぎるとそこは鎌倉。
範頼にとっておよそ二ヶ月ぶりの鎌倉だった。
先日ここを経ったときにはまだ寒く感じられた浜風が今は春の潮の香を運んでいる。

そしていままで鎌倉に入ったときと違う気持ちが範頼の心の中に芽生えている。
それは、「なつかしさ」だった。
会いたい人がそこに待つなつかしさ。
そう、妻の瑠璃が我が家で待っているのである。

婚儀から数日だけしか共に過ごしていない妻。
それでも、かけがえの無いひと。
鎌倉に入っても妻が待つ我が家への道のりがひときわ程遠く感じられた。

大蔵御所で一通りの儀礼と手続きを済ますと、範頼は急いで我が家へと戻った。

瑠璃は、門の前で待ち構えていた。
夫の無事な姿を見つけると顔がぱっと明るくなった。
範頼も馬を急がせる。
瑠璃だけではない。館に仕える者達が暖かく迎え入れる。
その一行の中に何故か藤七が新太郎の手を引いて待ち構えている。

瑠璃は、自ら夫の足を洗い体を拭き清め着替させた。
その日は、範頼、当麻太郎、吉見次郎などの無事の帰還を祝って宴が張られた。
当麻太郎と吉見次郎は大酒を飲み、大いに歌い踊った。
雑色たちも別の部屋で盛り上がっている。
だが、宴で真っ先に酔って潰れるはずの範頼はこの日は例によって食事を大量に平らげたが、酒は一口あてただけでであまり飲まない。
近くで瑠璃の目が光っていた。

その瑠璃に範頼は意味ありげな視線を送る。瑠璃は恥ずかしそうに見つめ返す。

範頼を除く皆が酔っ払って夫々の部屋に戻った後で、瑠璃は自ら女達の指揮をとって片づけを始めた。
そういえば郎党達の部屋の支度も全て瑠璃が差配していた。

その夜瑠璃は忙しかった。
結果範頼一人で少し待たされることになる。

「殿、お待たせいたしました。」
そういって瑠璃が寝所にはいってきたのはかなり夜が更けてから・・・
ようやく二人きりになれた。
「待ったぞ。」
と範頼は少し不機嫌に答えた。

夜は更けていった。
明け方近くなって瑠璃は範頼に忙しく働いていた訳を語る。
「志津がまた妊りました。」
「は?」
「こたびはつわりが酷いので、無理はさせれません。今は少し休ませています。」
侍女頭の志津が動けないため、館のことは瑠璃一人が取り仕切らなければならなかったのである。
「そうだったのか・・・」
藤七が新太郎を連れて館にいた理由がやっとわかった。
━━ それにしても藤七のやついつの間に・・・

「瑠璃」
「殿、もう夜が空けまするが・・・」
「かまわぬ、私達も藤七や志津に負けてはおられぬ。」
「朝餉の支度が・・・」
「今日は遅れても構わぬ。」

翌朝、二日酔いさめやらぬ郎党や従者たちは日がかなり高くなるまで腹を空かせることになった。

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1183年頼朝の幸運

2008-10-15 05:56:40 | 源平時代に関するたわごと
さて、延々と「大蔵合戦」のことを書かせていただきましたが、書いていて思ったことがあります。
それは、1183年の義仲の対立時に頼朝にとって比企氏、河越氏が味方であった、それも乳母関係で結ばれた強い関係であったことが彼を助けていたのではないかということです。

大蔵合戦の頃は河越重頼の祖父重隆は義仲の父義賢の舅で後ろ盾でした。
そして義賢は「比企郡」に住んでいました。(異説もあり)
つまり大蔵合戦の時点では、比企氏の勢力下にあった地域と河越氏は義仲の父の味方だったのです。

義仲は、挙兵するとまず父が最初の拠点とした上野国多胡郡に進出しました。頼朝が父義朝の縁故を辿ったのと同様に義賢もまたその父の縁故を尋ねていったのです。そうなると次に目指すのは武蔵国の河越氏の支配圏そして父が住んでいた武蔵国比企郡ということになるでしょう。
そしてもしその地域の者が義仲に与同したならば義仲は北武蔵まで進出して、現実に動いた歴史以上に頼朝を相当脅かす存在になっていたはずです。

しかしそうはならなかった。

武蔵国に進出する以前に、上野国に新田氏、藤姓足利氏が立ちはだかっていたこともありますが、河越重頼と比企氏が既に頼朝についてしまっていたという部分も大きかったのではないのかと思えます。
しかも、ただの臣従ではなく比企氏は乳母の家、河越重頼は乳母子の夫なおかつ頼朝の長男の乳母夫という強い関係だった。
そのような状況では、河越比企両氏は義仲につくことは考えられなかったのではないかと思えます。

乳母の縁が義仲の武蔵進出を阻んでいたのではないかとも思えるのです。
そして、義仲が父の故地であった北武蔵に進出できなかったことが、1183年の頼朝と義仲の対立に少なくない影響を与えたのではないかとも思えるのです。

頼朝はその生涯の間何度も命を落としてもおかしくない場面で助かるなどの「強運」の持ち主でもあります。その「強運」は生物的な生命危機だけでなくこのような、政治生命軍事生命における「勝負」の場面でも彼は有しているのではないかとも思えます。
もちろんその「運」を活かしきるだけの器量と努力があったと思いますが。

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大蔵合戦について その7

2008-10-13 23:11:17 | 蒲殿春秋解説
そして、問題の久寿二年(1155年)8月16日事件は起こります。

武蔵国比企郡(場所については異説あり)の大蔵館にいた源義賢とその舅秩父重隆は源義平率いる軍勢に襲われ殺害されます。
そして、その子駒王丸(後の義仲)は命を狙われますが信濃へ落ち延びます。

軍勢の構成はよくわかっていないのですが、秩父重隆と敵対関係にあった畠山重能は従軍していたようです。

さて、武蔵国留守所検校職という在地の要職者を殺害したにもかかわらず義平らにはなんのお咎めもありませんでした。
その理由にある人物の存在があります。

この頃の武蔵守は藤原信説という人物でしたが、この人の兄に藤原信頼がいます。
信頼は前任の武蔵守ですし弟が現職の武蔵守ですから武蔵国衙に多大なる影響を与えているはずです。
信頼といえばこの大蔵合戦の四年後に起きる平治の乱の首謀者です。
そしてその乱において義朝や義平は信頼と行動を共にすることになります。

つまり、この大蔵事件は武蔵守藤原信説の黙認の元行なわれた可能性が大きいと見るべきだと思います。
武蔵国の豪族を従えるために、武蔵守の権威を義朝は利用したでしょうし、信頼信説側にしても国の支配の為に坂東に勢力を延ばしつつあった義朝を利用した面もあったでしょう。
この信頼と義朝の接近は平治の乱直前ではなくこの事件の頃からあったと見るべきでしょう。



この大蔵事件の後、殺害された義賢の弟頼賢が兄であり義理の父でもあった(義賢と頼賢は父子の契りを結んでいた)義賢の仇を討つ為に東国へ下ろうとしますが、その途上で院領を侵したとして、鳥羽法皇から義朝に頼賢討伐の命が下されます。
実際には頼賢が討たれることはありませんでしたが、この一件は都において院勢力の傘下に入り込んだ義朝の優位がこの事件に影響を与えているということを示しているのではないでしょうか?

さて、このようにして義朝ー義平ー畠山重隆方が勝利しますが、この勝利も長くは続きません。
その四年後の平治の乱において義朝と義平は没落し命を落とします。
その後は東国にも勢力を延ばしてきた平家が武蔵国の知行国主におさまります。
そうなると武蔵国の豪族たちはこぞって平家への接近を試みます。

そのような状況下において秩父一族の主導権は、重隆の系統にうつり治承の頃には重隆の孫の河越重頼が握っていたようです。
義朝ー義平と組んでいたことが重能にとっては不利になっていたのかもしれません。
しかし、東国の豪族は中々したたかです。治承寿永の乱が始まった頃は畠山重能は平家に従って都で大番役をつとめています。恐らくそれ以前から平家への接近を図っていたのではないでしょうか?転んでもあきらめず次なる手段を考えていたのではないかとも推察されます。

一方、義朝の没落に伴って失地回復したかに見える重隆子孫の河越重頼も、義朝の子頼朝の乳母である比企尼の娘を妻に迎えています。



このあたりの状況は複雑で私も掴みきれないのですが、一筋縄ではいかない武蔵国の豪族達の奥深さが垣間見える気がして非常に興味をそそられています。(終)

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大蔵合戦について その6

2008-10-11 06:09:33 | 蒲殿春秋解説
このように、為義が接近した摂関家の忠実ー頼長親子と、義朝が接近した美福門院を頂点とする院近臣勢力の対立は、為義と義朝の政治路線の対立となって父子の相克へと発展していきます。

そして、両者の対立が深まっている1153年時点で義朝は下野守となり、それと同じ頃義賢は上野国に下向します。これには、自らの意に従わなくなって息子義朝に対する為義の対抗策とみることができます。義賢は元々為義の嫡子でしたし、政治路線も父と同じくしていたようです。(しかも、義賢は頼長と男色関係にありました)

そして、義賢は武蔵国の秩父一族の有力者重隆の婿へとおさまります。
先述の通り、重隆は一族内の地位争いや近隣の豪族たちとの紛争を抱えている中での婿取りでした。
一方、重隆の反対勢力は義朝もしくはその息子の義平に接近していました。

坂東の有力豪族の間は一触即発、そしてそれぞれが担ぎ上げる「貴種」とされた軍事貴族たちは、都の勢力争いをしている夫々の陣営に食い込んでいた、
という状況になっていったのです。

このように、都と東国それぞれに火種を抱えた状況がつづきますが、1155年になって都において美福門院側が忠実ー頼長親子を追い詰めるという状況が発生しました。

それは近衛天皇の崩御です。
近衛天皇は皇子を儲けていませんでした。
その結果次の天皇を誰にするかで揉めることになりました。

すったもんだの末、美福門院が猶子としていた皇子守仁王を近い将来皇位につけるという条件で、その父雅仁親王(鳥羽法皇第四皇子)が即位します。後白河天皇です。
これによって、東宮守仁親王の周りに新たな側近団が形勢されます。
その側近集団の中に頼長の姿はありませんでした。
頼長は次期皇位継承者の側に入り込むことができませんでした。
それ以前に政界では孤立しており、治天の君鳥羽法皇からの信任も失われていました。また、東宮の「母」美福門院や院近臣がそれを阻んだということもあったようです。
次期天皇(正確に言うと次々期天皇)が美福門院の思惑が反映された人物となり、その一方で頼長は東宮接近に失敗。
皇位決定戦、そして東宮側近集団形勢は美福門院側の勝利に終わっています。
為義ー義賢を支えていた摂関家を主導する忠実ー頼長親子は近衛天皇が崩御した1155年7月にはかなりの危機的状況に陥っていました。

一方、後白河天皇の即位は義朝にとっては追い風になりました。
義朝の正室の実家熱田大宮司家は以前から後白河天皇やその同母の姉宮前斎院宮(後の上西門院)に仕えていました。その縁で義朝は後白河天皇への接近にも成功します。また、元々皇位とはかけはなれた生活をしていたため自らの私的な近臣や直属的武力をもたなかった後白河天皇のほうも義朝の接近を喜びました。

そして、その頃義朝はもう一人の問題の人物と接近していました。
そのことが、大蔵合戦に活きてきたようですし、義朝、義平にとっては合戦へのゴーサインを出す後押しになったかもしれません。

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大蔵合戦について その5

2008-10-09 05:17:18 | 蒲殿春秋解説
美福門院に義朝が接近したからといって以前の政治状況でしたら、為義と義朝がそのことによって反目することはなかったはずです。

しかし、当時近衛天皇の後宮や皇位を巡って、忠実ー頼長親子と忠実嫡男摂政忠通ー美福門院が対立するようになってきたのです。
それも1140年代に徐々にその対立を深めていったようです。

元々美福門院と忠実ー頼長の摂関家父子とは関係は良好でした。
しかし、当時の摂関家内部で起こり始めた当時の摂政忠通(頼長の兄)と頼長の対立(*1)
そして1148年の近衛天皇への入内競争の際、忠通側に美福門院が肩入れしたことなどにより、美福門院と忠実ー頼長の摂関家主流の対立が深まっていきます。(*2)

それでもこの時点では、時の権力者鳥羽法皇は美福門院、頼長どちらにも肩入れせず両者の暴走を抑えていたようです。

しかし、1151年頼長が院近臣藤原家成の家を破壊するという行動をもつに及んで、鳥羽院は頼長を見放します。
この時点で美福門院の側に集まる院近臣と忠実ー頼長の摂関家との対立はかなり鋭くなったものと思われます。

そのような状況の時に南坂東は院近臣グループに接近し、義朝自身も院に接近するのです。
いつごろから義朝が院に接近したのかははっきりしていませんが、
私は大庭御厨事件の起きた1144年頃にはすでに院に接近を開始したものと見たいと思います。
というのは、その記事にも書かせていただきましたが、この事件の時、義朝の郎党は田畑目代と共に大庭御厨に乱入しています。
目代と結託したということは、国守の黙認があったと見るべきでその国守は院近臣だったようです。

*1 長年男子に恵まれなかった摂政忠通の後継者はその弟頼長と目されていたが、遅くになってから忠通に男子(後の摂政基実)が誕生したことから、頼長を摂関にしたい忠実と実子を後継者にしたい忠通との間に対立が起こってきた。

*2 忠実の肝いりで近衛天皇の元に皇后として入内したのが頼長の正室の姪多子。しかし、その直後今度は忠通の妻の姪の呈子が忠通の養女となり中宮として入内。
このことを怒った忠実は忠通を義絶。
しかし、忠通ー呈子の背後には美福門院の支援があった。この一件で忠実と美福門院の関係は悪くなった、と先述の元木氏は主張されておられます。

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大蔵合戦について その4

2008-10-08 05:43:40 | 蒲殿春秋解説
義朝は嫡子でなかったとはいえ、坂東で自らの勢力を拡大させる為に、当初は父の背後にいる摂関家の力を借りていたようです。
また、義朝が東国に下った時点では、上総相模などの国に対しての摂関家の影響力が強かったようです。

しかししばらくすると東国にも鳥羽院そして当時の帝近衛天皇生母の美福門院の影響が強まります。南坂東の国守も院近臣の顔が並んでくるようになります。

そうなると坂東の豪族達は「鳥羽院・美福門院接近」という路線にシフトしてきました。院政の力が坂東にも強く及ぶようになったようです。

元木氏は次のような事例をあげておられます。
1150年代に入ると相模国に後の八条院領となる荘園が続々と立荘されます。
八条院領は鳥羽法皇や美福門院の荘園を引きついて成立します。つまり相模国に院領美福門院領の立荘ラッシュが起こるのです。

また、このころ相模守は美福門院の乳母子が就任していました。
相模は義朝の根拠地といってもいい国です。
こうなると義朝も坂東における自分の立場を守るためには鳥羽院ー美福門院に接近するしかありませんでした。

色々な活動が功を奏したのかこの頃義朝は美福門院ー鳥羽院への接近に成功します。そしてそれは1153年義朝の下野守就任という形で実を結ぶのです。
下国とはいえ為義が長いこと手にすることのできなかった国守への就任です。
当時の下野国は院の知行国とみられています。下野守は義朝の院接近の証とも言えます。
しかし、このことが摂関家に近侍する父為義と義朝の間の政治路線の違いとなって大きな溝を生むことになってしまったのです。

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大蔵合戦について その3

2008-10-06 21:18:25 | 蒲殿春秋解説
重隆に対抗する勢力が結んでいた貴種とは源義朝・義平親子でした。

義朝は当時左馬頭兼下野守でした。下野守として当然その国に住む藤姓足利氏に強い影響力をもっていました。事実翌年に勃発して保元の乱には藤姓足利氏を配下に加えています。
また、上野の新田義平は娘と当時鎌倉に住んでいた義朝の子義平に嫁がせており義重と義平は婿舅の間柄となっていました。

また、重隆と同族争いをしていた重能は数年後相模の豪族三浦義明の娘を妻に迎えその間に重忠を儲けます。いつから重能と関係を結んだかは定かではありませんが重能には三浦一族の影が見え隠れします。
その三浦一族は義朝とはかなり親しく保元・平治の両乱には義朝に従っています。また、義平の母は三浦義明の娘だったとも言われています。

このように、反重隆勢力は義朝義平父子とかなり接近していたのです。



この坂東の対立の他に義朝とその父為義との関係も良好ではなかったというのが両陣営の対立に拍車をかけました。

現在多くの人が義朝が為義の後継者であるという見方をしていますが、この見解に対して元木泰雄氏らは疑問を投げかけています。
というのは、1139年時点で義賢が東宮(後の近衛天皇)の帯刀先生に任じられますがその兄の義朝は坂東に在住していて無位無官だったのです。
(義朝の子で、長男義平が坂東にいて無位無官であったのに対して、三男頼朝が官位を重ねて都における義朝の嫡男という待遇を受けていたのと同様の状況)

そのことから考察すると、為義の後継者は義朝ではなく義賢であったとみるべきだと元木氏らは主張されています。
(ちなみに義賢はトラブルを起こしまくって廃嫡され、その後頼賢が嫡子に座に納まったということです。)

嫡子問題を脇においておいても都における政界の激震と為義と義朝の政治路線の違いがこの親子の間に深い溝を投げかけることになります。(つづく)

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