時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(三百二十)

2008-11-26 20:37:45 | 蒲殿春秋
篠原の戦いでまたもや敗れた平家軍は、寿永三年(1183年)六月六日都へと戻った。出発した時に比して兵の数は極端に減少させての帰洛だった。
その後を追うように義仲は西上し、六月十三日には近江国へ入った。

が、しかしここ近江で義仲は軍を突然停止する。
歩を留めた最大の理由は都に程近い場所にある比叡山の存在である。
比叡山は莫大な軍事力と経済力そして宗教的権威を持つ。その動向が不明ならば義仲はうかつに都に向かって歩を進めることはできない。
加えて義仲が都に入るには従えている兵の数に不安がある。
北陸遠征に敗れたとはいえ、平家の底力は侮りがたいものがある。
畿内の武士たちが平家に味方すれば義仲は再び北陸に追い返される。
北陸から少なからず兵が加わってはいるが、それを数に入れても義仲の持つ兵力は実は大したことはない。畿内の武士たちを無視して都に入れるほどの兵力は無いのである。
比叡山の動向が不明なところに、鎮西を平定した平貞能が数万の兵を連れて都に入るとの噂もあった。

そのような状況下義仲は近江に入り畿内各勢力へ自軍への与同を呼びかける。
しかし、彼らは容易には動かない。
平家と義仲どちらに歩があるか慎重に見極めようとしている。

義仲に対して比叡山からも色よい返事は来ない。
比叡山の内部も反平家の立場を取るもの、親平家の立場をとるものがあり
なかなか意見がまとまらないのである。

一方平家も都から迎撃はしてこない。
義仲によって軍事的に多大なる打撃を与えられ、さらにまた、平貞能が鎮西から率いてきた兵も数千騎に過ぎないもだった。今すぐ義仲を迎え撃つ状態ではない。
平家、義仲双方とも都、近江にあって軍を動かすことはできない。

そのような中、東海道にある一人の男が上洛の為の出兵の意を固める。
その男の決心、そして西上が膠着している戦線を動かすことになる。

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蒲殿春秋(三百十九)

2008-11-23 21:59:56 | 蒲殿春秋
背後の脅威が無くなった義仲は西を目指す。
一方砺波山で大敗を決した平家は残りの軍勢をかき集め加賀国篠原で再度西へ進軍してくる義仲を迎え撃った。
この戦いにおいて、東国武士達の一団が勇敢に義仲に立ち向かった。

その東国武士達は頼朝に従った東国武士たちと長年敵対関係にあったもので
頼朝についた者達に領地を奪われていた。
そして、その圧迫を受けて都に逃れていたのである。
俣野景久、伊東祐清などがそうである。
父祖代々の土地を敵対するものに奪われていた彼らは今回の出陣に賭けていた。

頼朝や甲斐源氏そしてそれを担ぎ上げる武士団を倒さない限り
かれらは故郷に戻れない。所領も彼らの手には返って来ない。
北陸を奪回しそこから東国に攻め込む平家に従い、敵対している武士団から所領を力ずくで奪い返すしかなかない。
そのように意気込んでいる東国武士達が陣中に少なからず存在していた。

しかしその一方で全く意気の上がらぬ東国武士たちもいた。
大番役で都に上っていたところを半ば強制的に従軍させられていたものたちである。
畠山重能、小山政光、宇都宮朝綱などがそうである。
坂東に残る彼らの息子や縁者たちがすでに頼朝に仕え信任を得ている。
彼らは今回平家が敗れようと東国に戻ればそれなりに生きていけるし所領も頼朝の手によって保証されるであろう。

様々な思惑を抱えて義仲軍に立ち向かう東国武士達。
必死に戦うものたちがいる一方で、適当にやり過ごすものもいる。
一方、砺波山の戦いに勝利した義仲軍の勢いは盛んである。

足並みの揃わぬ平家軍は敗れ去った。
その際、もはや故郷に戻れぬ東国武士達はここを死に場所と定め
必死に戦いそして次々と討たれていった。
その中には、頼朝の乳母子で比企尼の娘楓の夫伊東祐清や石橋山の戦いで頼朝と敵対した俣野景久、
そして、今回の戦いの敵将木曽義仲のかつての命の恩人斉藤実盛などがいた。

実盛は老齢であることを隠すため髪を黒く染めていた。
討ち取られた首の髪を洗うとたちまち白髪に変わっていく。
義仲は命の恩人が討ち取られた事を知りその首の前で涙した。

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蒲殿春秋(三百十八)

2008-11-19 05:35:54 | 蒲殿春秋
倶利伽羅峠の戦いにおいて大勝利を収めた義仲の元へ
奥州の王者藤原秀衡から駿馬が届けられた。
この馬は義仲が戦勝祈願した八幡宮へ奉納された。

奥州からの戦勝祝いが届いた。
つまり奥州は義仲の勝利に祝意を示し、義仲と良好な関係でありたいという意思を示したことになる。
ということは義仲の背後の脅威は減少したということになる。
義仲の周囲には、彼が越後から排斥した城氏の残存勢力そして奥州藤原氏、さらには南坂東を押さえている源頼朝、信濃に接する甲斐源氏の諸勢力が存在する。
そのうち最も恐ろしい相手は奥州藤原氏。
奥州藤原氏が支配下に収めている地域と越後は直に接している。

この奥州藤原氏との提携なくして義仲は越後を離れることはできない。
奥州藤原氏は横田河原の戦いの後、城氏が支配下においていた会津や出羽を攻め城氏没落に手を貸した。
藤原秀衡もしくは彼と緩やかな主従関係を結んでいる奥州の豪族たちに近隣への支配拡大の欲望が全くないわけではない。
従って義仲の不在中に越後が奥州藤原氏の侵攻を受けない可能性は皆無ではないのである。
けれども、現在秀衡は義仲に和平の意を示している。これで義仲の留守中に越後が侵される心配は無くなった。

奥州藤原氏が義仲と同盟を結ぶとなれば義仲の留守の間に、城氏の残党や
坂東の頼朝が越後を脅かすことはできない。
彼らが下手に動けば、両者に対して敵対的な奥州藤原氏が必ず動く。

奥州藤原氏の実力に一目おいている義仲は
越後を勢力下に置くころから奥州との接触を図ってきた。
その成果はこの倶利伽羅峠の直後に現れたのである。

義仲は西へ進む支度を整え始める。
平家を北陸から追い落とし、更には都を目指すのである。

その一方で義仲は南の脅威甲斐源氏にも調略の手を伸ばす。
甲斐源氏の中の有力者の一人に協力を呼びかけるのである。
その協力者の名は安田義定。
甲斐源氏の中で最も西の遠江を支配下に収めている人物である。

義仲の書状は密かに義定の手に渡された。
そのことを義定の盟友源範頼は未だに知らない。

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蒲殿春秋(三百十七)

2008-11-17 05:38:37 | 蒲殿春秋
平家の北陸への侵攻は進んだ。
加賀を攻め落とした平家軍は越中へと進んだ。

平家はやすやすと北陸を平定するかとも思われた。

しかし、平家に対抗する国人たちは越後にある人物に救援を依頼する。
その人物とは木曽義仲である。
事態を重く見た義仲はその片腕とも頼む乳母子今井兼平に兵をつけて越中に援軍を送った。

越後より援軍来たる。
その報を受けた平家は越中守平盛俊を大将として、義仲の援軍と越中国人との連合軍と戦うことになる。

両者は越中国般若野で激突した。

朝から始まった激闘は夕刻まで続いた。
両者互角に戦ったこの戦いは今井兼平軍の勝利に終わる。
平家軍は加賀まで退却を余儀なくされた。

一方勝利した今井軍の背後には越後・信濃・上野から兵を集めた義仲本軍が満を持して進軍してくる。
その義仲軍に、先の戦で破れて落ち延びてきた加賀・能登の国人、そして平家を撃退した越中国の国人達が加わり、兵の数が膨らんだ。
それでも、大軍を率いた平家軍に対しては軍勢の数は圧倒的に足りない。
その義仲軍は西へ西へと進んでいく。

その大軍の平家は、義仲軍を打つべく再び東へを軍を進めた。

両者は砺波山で再び激突することになる。

「倶利伽羅峠の戦い」とも称されるこの砺波山の戦いにおいては、
その率いる兵の数が圧倒的に少ない木曽義仲の軍事的才能が遺憾なく発揮された。

地形を知り尽くした在地の者の話をよく尋ねた義仲は、兵を分け平家軍をひそかに三方から包囲した。
昼間にはのどかとも言っていい戦いを繰り広げた両陣営。
しかし夜になると義仲の軍が牙を剥く。
突如、ほら貝の音と大音声が山中にこだました。
暗闇の中休息をとっていた平家軍は動揺した。
実際の数の上では平家軍に劣る義仲軍の大音声も山々にこだまに助けられ何十倍の大きさとなって平家軍の上に響き渡る。

そこへ三方から軍勢が同時に平家軍に襲い掛かる。
平家軍は何者かに取り付かれたかのように、唯一敵のいない方角を目指した。
しかし、そこは「地獄谷」と呼ばれる断崖が待ち受けるのみ。
谷底に多くの兵の命が飲み込まれていく。

夜が明ける頃には平家軍の兵の大半は失われていた。

かくして、「砺波山の戦い」は終わりを告げた。

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蒲殿春秋(三百十六)

2008-11-13 05:06:40 | 蒲殿春秋
寿永二年(1183年)4月平家は北陸を奪回すべく大々的な出兵を行なった。
畿内・西国から集められるだけの武士を集め、大番役として都にある東国武士までも動員しまさに総力を挙げての出兵を行なった。
その効果だろうか出兵してすぐに行なわれた越前の火打城の戦いにおいては蜂起した在地の住人の内応を誘い平家軍は勝利した。
続いて加賀に攻め込んだ平家はそこの在地の反乱勢力をあっという間に制圧した。
平家はどんどん北陸の奥へ奥へと侵攻していく。

そのような折に尾張、三河などの東海方面において怖れられていた平家方への呼応は今のところ起きていない。
三河に下った範頼と盛長の存在が、平家方への転身を抑止している。
そしてもう一人、三河に下った範頼にここのところ接触を増やしている男の存在も・・・
三河の隣国遠江を支配している安田義定の存在である。

義定は盛んに使者を寄こし、また自身も何度か三河を訪ねてきた。
三河の住人たちも義定と数回面会した。
三河住人の中には義定と主従関係を結んでいるものも少なくない。

義定と盛長も何度か顔を合わせている。
その間お互いに穏やかな表情で向かい合っているもののその間には微妙な空気が流れている。
義定と盛長は協力しあいながらも相手に対して決して心を許してはいない。

範頼は気がついた。
義定やその使者が来るたびに盛長が連れてきた雑色の顔ぶれが変わっていることに・・・
雑色自体の数がそんなに変わっていないが、少しづつ面子が変わってきている。
そして、雑色の顔ぶれが変わる都度範頼が感じている見張られている視線が微妙に変わってきていることに気が付いた。

私を見張っているのは雑色たちか・・・

そのように感じている。
その雑色たちはどこからきてどこへ行っているのか・・・

少なくとも雑色たちが範頼を見張っているということは間違いが無いことのようだった。
そして、雑色たちが安田義定を警戒していることも・・・

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蒲殿春秋(三百十五)

2008-11-10 21:15:34 | 蒲殿春秋
数日後範頼は舅安達盛長と共に三河へと向かった。
その一行には当麻太郎他範頼の家人数名と盛長の家人
そして盛長に付き従っている雑色数名があった。

いずれにしても範頼が三河から鎌倉へと入ったときに比べると倍以上に人数が増えた。

三河への道中範頼はまたしても、何者かに見張られている気配を感じた。

三河へ到着した。
かの地に人々は範頼らを暖かく出迎えた。
そして、範頼と盛長に今回の婚儀の祝いの言葉を次々に伝えに着た。
範頼は、礼を受けながら相手の態度を注意深く見守った。
ここで祝儀の言葉を述べながらも、こちらの出方を窺っている可能性がある。

何しろ三河国は平家の知行国であった地である。
表面は範頼に笑顔で近づきながら、裏では平家とひそやかに交渉している可能性は捨てきれない。
範頼は、表面上はおだやかに内心では警戒の念を持って相手に接している。
その隣に座っている盛長も同様に相手の内意を推し量っている。
人懐っこい顔を見せ、丁寧に応対し、時には相手を笑わせながらその腹の中を探っている。

盛長の場合は平家との繋がり以上に、今面前にいる者と三河の東隣国にいるあの人物とのつながりに対する警戒もあるのだが。

数日の三河に滞在するうちに、三河そして尾張の情勢が明らかになってきた。

尾張においては相変わらず平家に味方する勢力も根強い。
一方、その平家方に対抗の為、三河及び遠江へ人を盛んによこす尾張の人々もいる。
尾張は、平家・反平家入り混じった複雑な状況下にある。
その尾張の人々の中には盛長の三河入りを聞くや使者を三河に送るものも増えてきている。

尾張には平家家人が多い一方で坂東の武士と縁戚のものも少なくない。
坂東と尾張は海で繋がっている。
尾張に住民の一部たちはその坂東で着実に地歩を固めつつある頼朝への接近を狙っている。
頼朝にその流人時代から仕え、頼朝の乳母子を妻にしている盛長への接近は頼朝に近づく有力な経路である。
その一方で、平家にも誼をつないでいる可能性は捨てきれないのであるが・・・

かたや三河国。
こちらの方は、今のところは平家方であるという旗色を示しているものはいない。
とりあえず、範頼または遠江にある安田義定に与力する意向のものが多いようである。
情勢次第でどのように動くかは計り知れないが、今のところは即座に平家に付く可能性は低い。

とにもかくにも、平家が北陸に侵攻しようとしているこのとき
範頼と盛長が三河に来たということは、尾張三河が一気に平家方に旗色を変えるというのを抑える役割を果たすという面では効果が出てきているようである。

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蒲殿春秋(三百十四)

2008-11-06 23:26:39 | 蒲殿春秋
しばらく思案した後範頼は瑠璃に三河へ戻ることを告げた。
瑠璃は黙っていた。
けれどもしばらくするとおだやかに
「お気をつけて行ってらっしゃいませ。」
といってくれた。

その言葉と表情が愛しい。

翌日から瑠璃は範頼が三河へ行くのに必要な支度を整え始めた。
驚くべきことに瑠璃は自分の旅の支度も始めている。
不審な顔をして見つめる範頼に対して
「あなたが平家を追い返したら直ぐ私を呼んでください。」
と瑠璃は言ってのけた。

同日範頼は大蔵御所の頼朝に面会を求めた。
半日待たされた後に許された面会において範頼は三河へ行くことを願い出た。
委細を聞いた頼朝はそのことを即座に了承した。
しかし、
「藤九郎を連れて行け」という言葉が了承の意の後に添えられた。
妻瑠璃の父安達藤九郎盛長も同行させよというのである。

盛長は西三河に重大な影響力を持つ熱田大宮司家との関係が深い。
また、度々三河に赴いている盛長の人望は彼の地では高い。
盛長を連れて行くのは範頼としても願ったり叶ったりである。
三河の動揺を防ぎに行く範頼にとってはこの上もなく頼もしい同行者となる。

が、盛長の妻は現在懐妊している。
しかも、当時としては高齢での懐妊である。
その妻を置いて三河へ行けというのは酷な話であるように思えた。

「藤九郎殿はご承知くださいますでしょうか。」
範頼は率直な疑問を兄にぶつけた。
「藤九郎ならばわしの命にはそむくまい。」
頼朝はあっさりと答える。
「しかし、ご内室が懐妊している今そのような命を下されるというのは・・・」

「案ずるな。あの内室はしっかりものだ。
それに、此度内室の今一人の妹を呼び寄せた。妹がおれば内室も安心しよう。」
今一人の妹とは現在頼朝の嫡子の乳母をしている河越重頼の妻ではなく、その下の伊東祐清の妻楓のことである。
「しかし!」
「妻の両親を案ずるそなたの気持ちはわかる。
しかし、今の鎌倉のことを考えてみよ。
木曽とは和議を結んだとはいえ、奥州がどのように動くかがまだ見えぬ。平家に呼応して佐竹がまたどのような策動をするか判らぬ。その上三河から平家に付くものが現れて西から攻め寄せられれば鎌倉は危ういものとなる。
もし鎌倉が攻め滅ぼされれば、藤九郎も、内室も、生まれ出でるはずの子も無事ではおられまい。そしてそなたの内室も。
そなたが真に妻やその家族の事を案ずるのならば、三河を押さえる為には何が必要か考えてみるがよい。」

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蒲殿春秋(三百十三)

2008-11-02 08:41:31 | 蒲殿春秋
三河へ赴きたい。
けれども、それを瑠璃に言いがたい状況にある。
婚儀から直ぐに戦陣に赴きようやく帰還したばかりである。ましてや、頼りになる侍女と実母が懐妊している。
このような時に鎌倉にさほどとどまらずに三河へ戻るとはとても言えない。

散々思い悩んでいるところに、新太郎を連れた藤七がひょっこり現れた。
「藤七」
「蒲殿、何をしけた顔をしておられます。」
新太郎の顔をみて範頼はしばし思案した。
範頼に見つめられて新太郎は不思議そうな顔をしている。

「藤七。そなたが遠江へ私を迎えに来たときのことを聞きたい。」
「はい。」
「あの折、そなたはまだ志津とは夫婦ではなかったが子を宿すほどの深い仲であったと聞く。」
「はい、そうですが。」
「そなたが遠江へ行くということは志津には申したのか。」
「はい、密かに申しました。」
「志津は何と。」
「お気をつけて、とただそれだけにございました。」

範頼は続けて問う。
「あの折は、鎌倉殿が旗揚げをされてばかりで伊豆が不穏なおりであった。
そなた、志津のことを案じてはおらなかったか?」
「まあ、心配はしないでもありませぬが、藤九郎殿のご内室がおいででしたし
さほどの不安はございませんでした。ましてや妊っていたことも知りませんでしたし。」
藤七は続けた。
「私は鎌倉殿が坂東に確固たる基盤を作ること。それが藤九郎殿とご内室ひいては志津を守ることになると信じておりました。それゆえ主の命にて蒲殿をお迎えに上がることが鎌倉殿の力を強くする。そのことがやがては志津を守ることになる。そのように信じて遠江に赴きました。」

範頼は静かに藤七を見つめた。

「蒲殿、もしやまたご出陣でもあるのですか?」
「?」
「もし蒲殿のご出陣があるのならばお早めにご内室さまにご自分の口から
お伝えになられるべきではないかと存じます。
他の者から言われるよりも先にまず。少なくとも私は志津にはそのようにする覚悟でおりまする。」

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