時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(二百三十一)

2008-03-31 20:56:21 | 蒲殿春秋
上野に住む新田義重が南坂東に影響力をもたらすようになった背景には
一人の女性の存在がある。
彼の娘である。
その娘は頼朝の異母兄義平の未亡人であった。

義平は二十年以上前に起きた平治の乱の直後処刑された。
義平室は、夫の死後髪を下ろして父のいる上野に戻り夫の菩提を弔う生活をしていた。
平治の乱の後坂東から河内源氏の影響力はあっさりと消えた。
彼女は静かに夫の追善供養だけをしていれば良かった。

けれども、義平の異母弟頼朝が坂東で挙兵をした後は周囲が彼女を放ってはおかなかった。

義平の生前、その父義朝が官界で築き上げた人脈を背景に坂東の豪族達の上に君臨していた。
豪族達も、自らの勢力拡大に義平を利用した。
もちつもたれつの関係で義平は父の代理人として坂東の武家の棟梁の地位にあった。

それは養和年間の僅か二十年程前のことでしかない。

坂東の豪族達は義平が坂東に君臨していたことを思い出した。
そして、その正室だった女性が新田義重の娘であることも。
当時の正室は夫亡き後その代理人と見なされる。
つまり、河内源氏の一人頼朝が挙兵して坂東に勢力を張るようになった結果
その兄の未亡人も兄の代理人としての重みを有するようになってきてしまった。

武蔵、相模の豪族たちは頼朝の元に伺候すると共に、義重の娘の元に頼朝とほぼ同格の女性として訪れるようになってしまった。

彼女が義平未亡人としてただ単に慕われているだけならば頼朝は彼女の存在を意識する必要はなかった。
けれども、彼女の背後には北関東に一定の勢力を有する新田義重がいる。
義重自身も河内源氏の一員である。頼朝と血統的な優劣はない。
義平未亡人である娘を通じて新田義重が御家人達を従え、頼朝と同格の武家棟梁にのしあがるのは頼朝にとって好ましい事態とはいえない。

この頃には頼朝はある方針を心に秘めていた。
━━ 自分と同格の武家棟梁の存在を許さない
と。

彼がそのように思うようになったのは河内源氏の内紛の歴史と坂東の血なまぐさい争いを見ていたからであった。

坂東武士たちは土地などの紛争の調停者を求め続けていた。
その要求に応えていたのが河内源氏などの武家で、彼らは坂東武士から貴種の扱いを受け争いごとの調停を行なったりしていた。
豪族達も上位と目される者の言葉には従いやすいからである。
しかし、豪族同士の諍いの調停をして影響力を深め坂東の一地域に勢力を伸張させると、同じようにして勢力を伸張させている他の貴種を擁する別の勢力との争いが発生する。
そしてそれが、貴種と貴種そしてそれぞれを担いだ勢力同士の血なまぐさい争いに発展する。
保元の乱以前に起こった義平とその叔父義賢の争いにもその一面も含まれていた。

━━ その連鎖は決して繰り返すまい。
頼朝は心に堅く決意した。

その為単なる貴種を超越した「貴種の中の貴種」という存在を作り出さねばならない。

その貴種の中の貴種、それになるのは自分という決意も固めていた。
そのために流すであろう血の多さも覚悟している。

貴種そのものは何人いても構わない。
その貴種が頼朝を「貴種の中の貴種」と認め絶対の服従を誓うのであればその存在も許すし、貴種として優遇する。
しかし、もし自分と並び立とうとするならばいかなる手段を使っても叩き潰す。

これは、坂東の平和にとっては欠かせない。
もし、頼朝が土地の所有を認めたものに対して他の武家棟梁がそれを認めず他のものの所有とするものにしたならばどうなるか。
それぞれが自分が棟梁と仰ぐものの裁断を振りかざし果てしない争いに発展するであろう。

けれども他の武家棟梁が頼朝を棟梁と仰ぎ、頼朝の裁定に従い自らの裁定を取り下げればば無用の争いは生じない。

坂東の平和の為に貴種同士の激しい争いの歴史に幕を下ろす。
そのためにはいかなることも辞さないという厳しい決断を頼朝は心の中で済ませていた。

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蒲殿春秋(二百三十)

2008-03-29 06:06:07 | 蒲殿春秋
伊勢神宮の神官渡会光倫はしばらくの間鎌倉に滞在した。
頼朝は光倫を歓待した。
光倫はじっと見ていた。鎌倉の様子を、頼朝を。

養和元年が暮れ、養和二年(1182年)を迎えてすぐ、頼朝は伊勢神宮に願文を奉ることにした。
この話を聞いた渡会光倫はその願文を伊勢神宮に届けることを快諾した。
頼朝、そして鎌倉の御家人たちは伊勢神宮権禰宜渡会光倫に認められたのである。

文士らによって作成された長い長い願文は渡会光倫へ託された。
光倫は鎌倉御家人数名と共に伊勢へと向かった。
願文に添えて大神宮に奉納される十匹の名馬もともに西へと向かった。

それから一月後、頼朝が進上した願文と奉納の馬十匹が伊勢神宮に受け入れられたとの報が鎌倉にもたらされた。
ただし、受け入れられ方は非公式なものであったのであるが。

これにより頼朝は非公式ながら伊勢神宮に認められたことになる。
前年の治承五年(1181年)五月に同じく伊勢神宮に願文を奉り、伊勢からその願文の受付を
拒否された叔父の源行家とは対照的である。

伊勢神宮が頼朝の願文を受け入れた効果は養和二年(1182年)になって徐々に現れていくことになる。

年貢が上がらないことに困り果てていた伊勢神宮は頼朝に確実に年貢を伊勢に進上することを依頼するようになる。
その要求は、頼朝が根拠地とする南坂東だけに留まらなくなる。
駿河、遠江、三河といった甲斐源氏が支配する地域まで年貢を進上するように働きかけを依頼される。
頼朝は伊勢神宮の神威を背景に
最初は甲斐源氏の各棟梁を通して、そして次第に各棟梁を通さずにそこの住民に
直接頼朝の名の下に伊勢への年貢貢納を命じるようになっていく。
平家方勢力とじかに接する地域にいる甲斐源氏にとって頼朝との提携は欠かせないもととなっている。
甲斐源氏は伊勢神宮の名の下に行なわれる頼朝の一連の発言に異を唱えることができない。

こうして頼朝は甲斐源氏が支配する領域にまで自らの力を浸透させていくことになるのである。

しかし、頼朝が他武家棟梁が支配する地域に自らの力を浸透させていくのと同様に他武家棟梁も頼朝の根拠地である坂東に棟梁としての影響力を持つようにもなってきたのである。
その一人が新田義重である。

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蒲殿春秋(二百二十九)

2008-03-28 05:31:57 | 蒲殿春秋
甲冑が急いで作られた。完成すると奉幣使たちがその甲冑の供をして都を発った。
が、奉納に向かう道中で奉幣使の一人が急死した。穢れが発生し奉幣は延期された。
人々の間に衝撃が走った。
甲冑が奉納されれば平将門同様、東国の反乱勢力は鎮圧されると多くの人は考えていた。
けれども、その奉幣使が頓死。
神がこの奉幣を望んでおられないのと同じ。東国は平定されはしない。

━━ この甲冑の奉納は伊勢が斎まつる神様の御意思に添わない。
そう思う人々も沢山出てきた。伊勢神宮に仕える神職者の中にも。
同じ頃春日明神から「平家滅亡」の宣託が降りたとの噂も飛び交っていた。

━━ 平家が朝廷、ひいてはこの国を支配することを神々が喜んでおられぬ。
そのような想いが朝廷の公卿や官人に、そして伊勢の神職者たちの間に広まっていった。

思えば治承三年(1179年)平清盛が後白河法皇から院としての全ての実権を奪い去り
平家が朝廷のことを万事とりしきるようになってから世の中がおかしくなった。
戦乱と飢饉その他でこの国に様々な災厄が降りかかってくるようになった。
そのことを思い起こす者も増えてきた。
当時、国の平穏が乱され災いが起こるのは、政権を司るものの徳が足りないからだと言われた。
後世の人から見ると理不尽としか思われないこの考え方であるが
当時はその様な思想が真剣に取りざたされる時代であった。

当時政権の中枢にいたのは平家。
そうなってから国に災いが続き、反乱勢力の鎮圧を願って奉納しようとした甲冑の供をした奉幣使が道中頓死した。
平家がこの国のマツリゴト━政治を取り仕切るのを神々は望んでおられない。
朝廷の東国平定の願いを神々はお受け取りにはならない。
今まで、スメラミコト━天皇の外戚である平家に逆らうことは神意に背くことと考え反乱勢力の首魁たちとの接触を立ってきた伊勢神宮。
けれども、平家を支持することの方が神意に背く、そのように想う神職者が伊勢の中に多く現れた。

ならば、平家の他にスメラミコトとその血筋、そしてこの国、国に住まう全てのものをを護る新たなるマツリゴトの担い手を他に求めなければならない。
そして、東国を征伐するのが神の御意思に合わぬのであれば東国にいるものの中からその新たなるマツリゴトを担うものがいるのではないか。

では、東国にいる者の中で誰が最もふさわしいのか。
神職者たちの間に一人の男の名が自然と湧き出てきた。

源頼朝。
東国諸勢力の中でここまで最も伊勢神宮に対して恭順で、年貢の貢納も真面目に行なってきた人物であった。

その男がどのような人物であるのかを見極めるべく伊勢大神宮権禰宜渡会光倫が鎌倉へと旅発つこととなった。

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蒲殿春秋(二百二十八)

2008-03-27 06:04:40 | 蒲殿春秋
頼朝からの年貢は受け入れつつもその頼朝との接触を避け続けていた伊勢神宮。
その伊勢神宮が養和元年(1181年)十月に鎌倉にやってきた。
それに至るには様々な要因があった。

伊勢神宮は当初は平家による反乱勢力の駆逐を期待していた。
けれども治承五年(養和元年 1181年)三月の墨股の戦い以降平家が東海道の回復に努めることはなかった。
同年の六月にあった横田河原の戦い以降、都への食糧供給地である北陸の反乱鎮圧に重きを置いていたからである。
しかし、そのことは東海道筋に多くの御厨を抱える伊勢神宮にとっては大きな痛手であった。
東海道筋の諸反乱勢力の中には伊勢に対する年貢の貢納を滞らせるものが少なくなったからである。
伊勢神宮は困窮の一途を辿る。

朝廷も伊勢へは積極的に支援をしたくてもできなかった。
治承四年(1180年)末の平家による南都焼き討ちの結果、東大寺・興福寺が灰塵に帰してしまった。
その復興の方に朝廷は手一杯である。
それどころか畿内にある伊勢神宮の神田に反乱軍鎮定に必要な兵糧米が徴収されるようになってしまった。
伊勢神宮は保護されるどころか負担が増える一方である。

伊勢神宮に仕える者の中に朝廷、ひいては朝廷の中枢を握る平家に対する反感が芽生えた。

けれども、天照大神を斎まつる伊勢神宮はその立場ゆえに朝廷や当時の天皇の外戚平家に対しては表立って反対の態度をとることはなかった。
それゆえに各反乱勢力首魁との接触は避けてきたのである。

その伊勢神宮に仕える人々の心を変えさせる事件が養和元年九月に起きた。

朝廷は一年以上続く内乱を憂慮し、反乱勢力が活発な東国平定を祈願して特別に意匠をこらした甲冑を伊勢神宮に奉納することを決定した。
天慶の昔平将門が坂東において反乱を起こした際、甲冑を伊勢神宮に奉納したところたちまち乱が平定されたという故事があった。
今回もその例にならった。源頼朝、武田信義らは平将門に擬せられたのである。

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蒲殿春秋(二百二十七)

2008-03-26 06:24:44 | 蒲殿春秋
その動きは養和元年(1181年)十月に始まっていた。
伊勢神宮権禰宜の度会光倫が鎌倉を訪れたのである。
それまで伊勢神宮は内宮外宮とも各反乱勢力の首魁への積極的な関与は避けていた。
しかし、養和元年の冬になって伊勢神宮は源頼朝へ接近するようになってきたのである。

養和元年の前年にあたる治承四年(1180年)、以仁王の令旨を掲げて各地で反乱軍が蜂起した。
東海道諸国もたちまち反乱軍の勢力下に落ちた。
伊勢の御厨(領地)は東海道に多く点在する。
この東海道が反乱軍の手に落ちたことで一時御厨からの伊勢への年貢の納入が滞った。
伊勢神宮の神事はその領地ともいえる伊勢御厨からの年貢でまかなわれる部分が大きい。
その年貢が来ないということは大神宮の今後の神事に差し障りが出てくることを意味する。

さらに、年が明けた治承五年(1181年 七月に養和元年と改元)正月
熊野勢力が伊勢へと攻め込み、伊勢の別宮の一部を破壊という暴挙に出た。
そこへきて伊勢国にある大神宮の神田からも平家が兵糧米を徴収するようになった。
東海道からの年貢の納入が滞っているのに加えて、近郊の神田からの収入が激減した。

別宮の修復もしなければならない。
今のところ蔵にある備蓄で神事は行なっているが、このままでは神事が滞る。
天照大神を斎きまつる伊勢大神宮の神事が滞ることは許されることではない。
けれども年貢が上がってこない。
伊勢神宮は困窮していた。

そのよう中において反乱勢力の中で一人だけ伊勢に対して格別なる恭順の態度をあらわす者がいた。

源頼朝である。

彼は挙兵して間もない頃から伊勢に所領を寄進を行なっていた。
そして、彼の勢力下にある伊勢神宮御厨の年貢は大神宮に届けるように努めていた。
源行家のように伊勢の御厨の年貢を横領して全く届けないものもいる中で
頼朝の行動は伊勢にとっては奇特なものと目に映っていたが、
彼の勢力下からの年貢の納入は大神宮にとって必要不可欠なものとなっていた。
そこで頼朝が反乱者であることには目をつぶって、治承四年以降も伊勢神宮は黙って年貢を受け取っていたのである。

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蒲殿春秋(二百二十六)

2008-03-23 05:59:36 | 蒲殿春秋
しばらくして、政子の体調不良の原因は懐妊によるものであると判明した。
不安が一転して鎌倉は喜びに包まれた。
一番喜んだのは政子の夫である源頼朝である。

彼はすでに三十五歳。
十代で父親になる男が少なくなかった当時にあって、三十半ばに達していた彼の子供は四歳の娘一人しかいない。
どうか無事で生まれて欲しい。できれば男の子を。
それが彼の偽らざる希望であったであろう。

その生まれてくる子供が将来範頼に少なからず影響を与えることも
この懐妊の前後に鎌倉に沸き起こる騒動もまだ誰も知らない。

人々はひたすら御台所ご懐妊の報を喜ぶのみである。
しかし当の政子の体の調子は思わしくない日が続き暫くの間周囲を心配させる。
その不調は範頼と瑠璃の婚儀をまた遅れさせることになり、二人の周囲をやきもきさせた。当の二人はあまり婚儀の遅れをあまり気にすることはなかったのだが・・・

さて年は明けて養和二年(1182年)を迎えることになる。
その年は大きな戦は起きていない。
前年、前々年の天候の不順による農作物の不作、そして戦乱による農地の荒廃と
物流の混乱がそれに加わって各地に深刻な飢饉をもたらしていた。
特に都の飢饉は深刻であった。
都の辻には餓死者の山が出来上がり、飢えた人々がうつろな目をしてあたりを見回している。
飢えというものに無縁であるはずの高僧の中にも餓死するものが出るという始末であった。

そのような状況では官軍の立場にある平家も出兵することはままならず
各地で反乱を続ける諸勢力も大きな戦を仕掛けることはできなかった。

目だった戦のない養和二年(改元があり寿永元年)。けれどもその年治承寿永の内乱が停滞していたわけではない。
大きな戦はないものの静かなる変化があり、それが翌寿永二年の激流につながっていくのである。

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蒲殿春秋(二百二十五)

2008-03-20 11:09:23 | 蒲殿春秋
そして、範頼の心を躍らせる手紙が数通彼の手の中にある。
鎌倉にいる婚約者瑠璃からの手紙である。
彼女の手紙の内容は他愛の無いものである。
鎌倉に季節外れの野分がやってきましたとか、新太郎が這うようになりました
というようなことが延々と記されている。

けれども戦陣の中にある範頼の心を和ませるのには十分な内容であった。
彼もまた戦乱とは関係の無い日常を文にしたため瑠璃に送る。

こうして二人の文のやり取りは続く。
けれども、養和元年が暮れようとしてもこの二人の婚儀の具体的な話は何一つ進まなかった。

その理由の一つは、平家侵攻の噂だった。
東海道に来るかもしれない平家に備えて範頼も出陣することになる。
陣が解かれたのは養和元年(1181年)の十一月も終わろうとすることであった。
軍陣にある間範頼は婚儀のことを進めたくても進められない。

陣から戻り婚儀が進むかと思われた十二月
今度は意外な事態が婚儀の準備を遅れさせた。

今回の範頼瑠璃の婚儀は「鎌倉殿御舎弟」の婚儀という扱いである。
よってその支度は鎌倉殿の差配により全てが進められる。
公的なことで忙しい鎌倉殿源頼朝がこの婚儀の具体的な指示を出すことはない。
実質的に婚儀の準備を進めているのは頼朝の妻御台所政子である。
範頼が出陣している間にも彼が不在の間にできる支度は政子と瑠璃の母小百合の手によって進められていた。

支度をしながら政子と小百合は昔語りをしていた。
政子と当時流人であった源頼朝との間をとりもったのが頼朝に仕えていた安達盛長とその妻小百合であった。
その安達夫妻の娘が嫁ぐときを迎え、その支度を今度は政子が差配する。
不思議な縁を思い、頼朝と政子が結ばれた頃の話をしみじみと二人は語っていた。
ほのぼのとした空気が流れていたその時突然政子が胸をかきむしった。
「御台さま?」
小百合が政子を覗き込んだその時、政子は意識を失っていた。

その日の大蔵御所は、御台所倒れる、ということで上へ下への大騒ぎとなってしまった。

御台所政子はすぐに意識を取り戻したが、暫くの間体の調子がすぐれない日々が続く。
夫である鎌倉殿源頼朝も妻のことを深く案じている。
政子の体調不良により範頼と瑠璃の婚儀の支度はさらに遅れることとなった。

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蒲殿春秋(二百二十四)

2008-03-19 05:33:10 | 蒲殿春秋
一方範頼はどうしていたのであろうか。
彼は、養和元年十月に平家来襲に備えて出兵した人々の中にその姿を見せていた。
しかし、その連れていた兵数は少ない。
彼の支援勢力の一つである伊勢御厨の住人達が出兵に従わなかったのである。
度重なる戦乱で三河は疲弊していた。
伊勢へ上納する年貢も不足しがちとなり、伊勢神宮からの催促が度重なっている。
そして住人たちも経済的に苦しみ始めている。

出兵には応じかねるという住人が大半だった。
範頼にも強制的に彼らを動員する権限はなかった。

その範頼にとっても平家来襲の噂は大きな懸案であったが、
心を和ませる文が彼の手元に何通か届いていた。
一通は都に住む姉からの文。
もう一通は、同じく都に住する養父藤原範季が密かに雑色の持たせた文。
範季からは範頼の無事を喜ぶ内容の文面が記されていた。
そして末尾にこれから雑色を時々に三河へ行かせるので、その雑色に文を持たせても良いとも書いてあった。

範頼にとってこの二人は心に引っかかる存在であった。
「謀反人源頼朝」の同母姉である姉は女性といえどもその身が都にある現在常にその安否が案じられる。
養父範季は、現在平家一門の一人平教盛の娘婿になっている。
その養父が、頼朝の異母弟であり現在反乱勢力の中に身を置く自分のことをどのように思っているのか気がかりだった。
だが、範季は定期的に雑色を範頼の元によこすと言ってきた。
平家の婿である養父も自分との接触を望んでいる。

文を出して良かった。
鎌倉を発つ際に、兄頼朝から勧められて都に文を書いたのは正しかった。
━━ 兄上ありがとうございます。
範頼は東の鎌倉に在する兄に心の中で礼を述べた。

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蒲殿春秋(二百二十三)

2008-03-17 05:59:24 | 蒲殿春秋
かといって、義定が頼朝を敵視しているのかといえば決してそうではない。
遠江、三河、尾張に勢力を張る義定は東海道における反平家勢力の最前線にいる。
義定のいる場所は、東国の反平家勢力の中では北陸に次いで軍事的緊張の高いところである。
東側や北側にいる同族の武田信義、一条忠頼や坂東の源頼朝がいるからこそ背後を脅かされることなく、平家の勢力圏と直ぐ接する三河尾張を押さえていることができるのである。
しかし、遠江、三河、尾張のこの三国の主導権は義定自身が握りたい。
義定の存在を無視して頼朝が東海道の直接支配を行なうということは避けたいのである。

甲斐源氏の長年の夢であった海路の確保━━その夢がかなおうとしている現在この海に接する東海道の支配者の座は手放したくなかった。

遠江、三河、尾張この三国を自らの支配下に治め、そこの住人達に最も影響力を及ぼす存在でありたい。なおかつ頼朝とは対等な関係の同盟軍でいたい。
それがこの時期の義定の気持ちであった。

しかし、情勢は義定のその気持ちを無視して変化を続けていく。

養和元年十月、北陸征伐に全力をかたむけていた平家がその軍の一部を東海道へ差し向けるとの噂が飛び交った。
東海道軍の将の名も定まりその話の信憑性は増してきた。
事態を重く見た安田義定は自ら軍を率いて尾張へと向かった。
義定の滞陣は一月ほどに及んだ。
同時期、同じく三河に在していた行家も尾張に向かい、頼朝も援軍を出す動きを見せた。
しかし、実際には平家は東海道には来なかった。

義定らは軍を撤収した。
けれども、この後も何度も平家来襲の噂が飛び交いその都度尾張三河に軍事的緊張が走ることになる。
義定は何度も出陣することを余儀なくされる。
実際に戦闘は行なわれなくとも度重なる出陣は、東海各国の豪族達にとってかなりの経済的負担となった。
義定が強い影響力を有する遠江、三河、尾張三国には多くの出陣によってかなりの疲弊がもたらされていく。
そして、そのことが義定の東海道支配に暗い影を落としていくことになるのである。

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現代語訳吾妻鏡 鎌田政家の遺児

2008-03-16 09:07:43 | 日記・軍記物
「現代語訳吾妻鏡」でとてもありがたいことは
注釈が充実しているというところです。

有名な人ばかりではなく、あまり知られていない人や、
その時代特有のことの解説がきちんと載っているので大変勉強になります。

さて、その注釈の中で気になる人物と遭遇しました。
その人物とは「新藤次俊長」さんです。

「新藤次俊長」とは「現代語訳吾妻鏡」の注釈によりますと
「生没年未詳。鎌田政家の男。藤井氏。鎌田新藤二。のち、鎌倉幕府政所案主に就任した。」
とあります。

で、気になる部分というのが「鎌田政家の男(=息子)」というところです。
鎌田政家というのは頼朝の父義朝の乳母子で、平治の乱で義朝らが敗走する際
義朝に最期まで付き従い、しまいには自分の舅長田忠致に主共々討ち取られてしまった人物です。
頼朝もそのような政家のことは後々まで気にかけ、伊豆に流罪になっている間も父の菩提を弔うと共に政家のことをも弔っていたと伝えられています。

その遺児である「俊長」が頼朝に仕えていたのです。
「俊長」が「吾妻鏡」において初見されるのが「石橋山の戦い」の頼朝軍を構成している人々の名前の中です。
つまり、俊長は初期の頃から頼朝に仕えていたことになるのです。

それが事実だとすると、かなり後に出てくる「吾妻鏡」の記事と齟齬をきたすという現象が発生します。
「吾妻鏡」建久五年(1194年)十月二十五日条に次のような記載があります。
「勝長寿院において、如法経十種供養あり。これ鎌田兵衛尉正清が息女修するところなり。
かつは故左典厩の御菩提を訪へたてまつらんがために、かつは亡父の追福を加へんがために、一千日の間、當寺において浄侶を○(くっ)し、如説法華三昧を行はしむと云々。(略)
将軍家ならびに御臺所、御結縁のために参らしめたまふ。(略)上野介憲信・工匠蔵人・安房判官代高重等布施を取る。
かの女性の父左兵衛尉正清は、故大僕卿の功士なり。つひに一所においてその身を終ふ。
よつて今将軍家殊に憐愗せしめたまふの間、遺孤を尋ねらるといへども男子なし。たまたまこの女子参上す。
尾張国志濃畿、丹波国田名部両荘の地頭職をもって、恩補せしめたまひをはんぬと云々。」
(「全訳吾妻鏡」より抜粋)

とあります。意訳しますと
「勝長寿院において供養がありました。鎌田兵衛尉正清(政家の旧名)の娘が行ないました。義朝と自らの父政家を供養するためです。
将軍(頼朝)御台所(政子)も出席しました。上野介憲信・工匠蔵人・安房判官代高重等が布施をとりました。
この女性の父左兵衛尉正清は、故大僕卿(源義朝)の忠実な家人でした。最期には同じ場所で一緒に生涯を終えました。
ですから将軍(頼朝)は正清を殊更気にかけておられ、その遺児を探していましたが
正清の男子の子はいませんでした。そのようなところ、この女性が参上しました。
この女性には尾張志濃畿、丹波国田名部両荘の地頭職をお与えになられたようです。」

上記の文章によると鎌田政家に男子がいなかったために代わりに政家の娘が参上して
父の供養の為の仏事を行なったことになります。

しかし、頼朝には旗揚げ初期のころから「政家の息子」の「新藤次俊長」が仕えていました。
しかも建久二年(1191年)に開設された「政所」の「案主」という要職に俊長は任命されています。
文治元年(1185年)に義朝の供養の為に造営された「勝長寿院」は俊長の生存が確認される建久二年(1191年)現在すでに存在してますし、
義朝の首と共に政家の首も落成と同時期に勝長寿院に埋葬されています。

政家の遺児の男子俊長が古くから頼朝に仕えていて、
勝長寿院の落成の頃にも生存していたその遺児の男子がいたにも関わらず
わざわざ政家の女子がその落成の9年後に「遺孤の男子がいないために参上した女子」として父の供養をしなければならなかったのか
新たなる「謎」が私の中で発生していまいました。

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