時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(五十二)

2006-09-23 11:30:28 | 蒲殿春秋
基成に会った継信は
「義経を我が家の婿に迎えたい」と切り出した。

いきなりの申し出に基成は面食らった。

基成はなぜ義経を婿に迎えたいのかを尋ねた。
「妹が九郎殿に恋焦がれまして」
というのが彼らの答えだった。

義経が佐藤家に逗留した折、
当主元治の妻が初恋の君を思い出しそ呼び寄せたもののその息子義経が
初恋の君に全く似ていないことに落胆した。
しかし、その娘は義経にすっかり参ってしまった。
寝ても醒めても義経様となってしまった。

かつて似たような経験をした母は、いずれ熱は醒めるものと
冷静に娘の恋を見つめていた。
けれどもその兄達はそんな妹の姿をみてなんとかその想いを遂げさせたいと思った。

父に言えば反対されるだろう。
娘は家にとって大切な存在である。
兄弟たちを支え、時には束ね、嫁いでも婚家が自分の実家の味方になるよう引き寄せねばならない。
母とならば子供達に大きな発言力をもち、
その子供達が婚家を興隆させ、さらに実家の助けになるように導く。
それゆえに、娘は大切に育てられる。
大切に育てた娘の嫁ぎ先は対等もしくは自分の家より勢力の強い家であることが望ましい。

元治の娘、継信らの妹は大切に育てられた娘である。
その縁付く先は、強大な豪族もしくは、良家でなければならない。

実父は謀反人、義父はぱっとしない都の貴族
本人は所領ももたない根無し草。
そんな義経を婿にしたいと言っても父に反対されるのは目に見えていた。
河内源氏が名門と目されるのは義経の兄頼朝が覇権を得て自分の家格を正当化させた後の
さらには、足利時代、徳川時代によって源氏の正当性が強化された後の
幻影に過ぎない。
その頃の義経の家系は謀反により廃れ果て何の価値も見出せない家系でしかなかった。

家としては望ましくないが
妹の心のためには望ましい婚姻
それが兄達の望んだ婿迎えの実態であった。

父の反対、母の無関心を押し切ってこの婚姻を成立させるには
有力者の後援が必要不可欠であった。
幸い義経は奥州の王者藤原秀衡の舅基成のところで世話になっており
基成に気に入られているという。
基成の同意が得られればこの婚姻も成立するのではないか、
継信、忠信はそのように考えた。

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蒲殿春秋(五十一)

2006-09-23 10:58:54 | 蒲殿春秋
長い旅路の末、義経は平泉に到着した。
すでに、義父一条長成の書状を受け取っていた藤原基成は義経を受け入れ
自分の屋敷に住まわせた。
吉次たち一行は基成に義経を引き合わせると、程なく都へ戻った。

基成はとりあえず、義経を客人として住まわせてみることにした。
なにしろ海のものとも山のものともつかない若者である。
受け入れて害はないが、益がある者かどうかは未知数である。

けれども、鞍馬寺でそれなりに修行した義経である。
まだまだ若い。
育てれば、基成家の家司の一人として使えるかもしれない。

それに、長成に恩をうっておけば、主流派ではないとはいえ
都でそれなりの官位をもつ長成との人脈が築けるという利もあった。
今は弱小でも都の政界地図はすぐに変化する。
都との人脈は多く幅広いほど良い。

まったく期待せずに義経を引き受けた基成ではあったが
近くで召して使い、師をよび学問をさせているうちに
義経のことをすっかり気に入ってしまった。

天性の素直さ、天真爛漫さにすっかり惹かれてしまったのである。
それに、仏法の学問ではない実用的なの学問は
砂が水を吸い込むかの如き飲み込みの速さであった。

ためしに、基成の所領の管理の手伝いをさせてみたところ
実に役に立つ男と預所から賞賛された。

かくして、基成家で義経は大切に扱われることになる。

しばらく、その生活を続けていたある日
佐藤継信、忠信兄弟が基成の邸に現れた。
先般、義経がいる一行が逗留した佐藤元治の息子達である。
彼らは義経に面会させてほしいと望んだ。

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蒲殿春秋(五十)

2006-09-18 11:59:56 | 蒲殿春秋
熱田にて元服を遂げた義経は東国を経て奥州を目指す。
平泉に向かう途中で、佐藤元治という豪族の元に逗留した。

佐藤元治の妻は、義経の話を聞くと即座に姿を見せた。
彼女は、義経をさまざまにもてなす途中で目の端々を泳がせながら
義経をちらちらと見ていたが
やがて、義経の正面に座してまじまじと客人の顔を見つめた。

やがて
「お父上には似ていませんね」
と元治の妻は言った。
その声には一種の落胆があったのであるがそのことに義経が気が付いていたのかどうか・・・

元治の妻は若い頃都にのぼり義経の父義朝に会う機会があった。
若かった元治の妻は自分が思い描く理想の男性の容姿を満たしていた
義朝の姿を一目見てときめいた。
寝ても醒めてものその顔が思い浮かんでくるという熱の入りようだった。
けれど、さほど義朝に会う機会の無いまま奥州に戻る日がやってきて
満たされぬ憧憬の気持ちを抱いたまま彼女は都を去ることになる。

奥州に戻って人の妻になり子を儲け、憧れの君のことは遠い記憶の彼方に去った。
けれどその遺児がこの地を通ることを知った。
若い頃の自分の気持ちが甦る。
いてもたってもいられなくなった。
その遺児がいる一行をここに逗留させることを思いついた。

義経は元治の妻の落胆を後に知ることになる。
「九郎殿はお父上には全く似ていない。お父上はあんなにいい男だったのに・・・」
元治の妻が侍女にそのようにこぼしたということを義経は後に聞くことになる。

しかし、その父に似ていない義経にときめいてしまった女が一人いた。
その元治の妻の産んだ娘である。
母があこがれの君への熱に浮かされていたのと同じくらいの年頃であったその娘は
義経が平泉へと去った後、寝ても醒めても義経さまという風にになってしまった・・・

義経もまた父とは違う美しさをもっていたのである。

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蒲殿春秋(四十九)

2006-09-15 01:33:27 | 蒲殿春秋
保元の乱の後、後白河天皇の皇統が皇位を継ぐことがほぼ確実になり
その姉統子内親王が准母として発言力を強めていくと
彼らに古くから仕えていた熱田大宮司家、およびその婿である義朝の運は上向きになった。

義朝と正室の間に生まれた嫡子頼朝は統子内親王に仕え、そこを拠点にして順調に官位を上げていく。
もっとも、この官位上昇には彼の烏帽子親の藤原信頼の力も働いていたのであるが・・・

統子内親王が女院宣下をうけ、義朝一家もさらなる上昇を得ようとしていた矢先
突然彼らに不幸が襲った。
熱田大宮司藤原季範娘、源義朝室が平治元年の春
夫と三人の子供を遺して突然世を去ってしまった。

しかし、それは彼女にとっては幸せなことであった。
彼女が死んだ年の暮れに平治の乱が勃発し、転変する政局の中夫義朝は謀反人となってしまい、戦闘に破れ雪の中を逃走した挙句、最後は家人の裏切りにあって惨殺されてしまう。
三人の子供のうち息子二人は流刑となってしまった。
彼女の家族は「朝敵」になってしまったのである。
すでに、この世のものでない義朝室はこの悲劇を知る由も無い。

一方熱田大宮司家にとっても彼女の死は幸いであった。
平治の乱以前に「義朝室」は世を去っていたので
熱田大宮司家は一切のかかわりを免れた。
それゆえ、彼らは義朝とその正室の遺した三人の子供、頼朝、希義、一条能保室を
陰ならがら支援できたのである。

そして、その余慶は彼らの異母弟である義経の元服にも及んだのである。

「というわけで、左馬頭殿の北の方もそのお子たちもそなたの母には何の遺恨も感じてはおられぬ」
吉次はそのように語った。
「それはまことですか」
「ああまことじゃ、なにしろ院には熱田大宮司家の者達が未だに北面の者として仕えておってな、馬寮のものとは懇意なのじゃ。わしもあの家の方々と付き合いをしておる。彼らの言うことじゃ、間違いはあるまい。」
吉次はつづけた
「それからな、そなたの姉上は同腹異腹関係なく弟君たちを愛しておられる。
ご同腹の弟君たちと隔てられてからは、よりいっそう腹違いの弟君たちをいとおしんでおられる。
まさに、そなたたち兄弟の大黒柱じゃよ。あの姉上は」

あまり親しみを覚えたことの無い姉。
その姉が自分達のことを思っていてくれた。
元服のことまで手配してくれていた。
そう思うと義経はうれしくなった。

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蒲殿春秋(四十八)

2006-09-15 01:08:06 | 蒲殿春秋
けれども義朝室は長年待賢門院や統子内親王に女房として仕えてきた女性である。
実家に戻って心が落ち着くと宮仕えの経験で研ぎ澄まさせてきた彼女独特の政治感覚が蘇ってきた。

夫が、雑仕女をいくら愛しても彼女が自分にとってかわって正室になることは断じてない。実家の力がなく財力も中宮の女官組織のほかに人脈をもたない常盤という女性。
一方自分の父は従四位を得ていた。夫の父よりはるかに上の位階を得て世を去った。尾張、三河には広大な熱田の社領がある。
兄弟姉妹は院や内親王に仕え、婚姻によって宮中に人脈が張り巡らされている。
自分の一族の持つこの力は主流を離れているとはいえ今後も宮廷社会において夫にとって大切なものである。
東国の諸豪族の多くを傘下におさめようとする夫にとっては宮廷社会とのつながりは必要不可欠なものである。
東国の武士団も朝廷、院、摂関家、有力社寺とのより強い結びつきをそれぞれに欲している。
その仲介者となり彼らを従わせる為にも夫は今後も自分達一族の力を欲するに違いない。
自分が夫を離別することがあっても夫は自分を離別できない。
雑仕女が何人子を産もうと自分の子供達に取って代わることも出来ない。
母方の力の弱い彼らは下級官人か出家者の道を歩むしかないであろう。
それならば、むしろ彼女を利用して夫を呈子の人脈に送り込み、
その得た人脈を息子や実家の兄弟に利用させよう。
もし、呈子の産む子が皇子ならば積極的に常盤をこちら側に取り込もう。
熱田大宮司藤原季範娘である義朝室はしたたかに腹を決めて夫の元に戻った。

このような一組の夫婦の軋轢があったが、事態は意外なほうへ向かっていく。

まず、呈子の懐妊は結局懐妊ではなかった。月が満ちても、数か月過ぎても子は生まれない。最初から懐妊していなかったのである。
そして、近衛天皇は多子、呈子の二人の后に子を産ませることなく世を去った。
次に即位したのは、待賢門院所生の四の宮、後白河天皇であった。
さらに、保元の乱の後その姉統子内親王が天皇の准母として立后する。
一方、呈子は夫君近衛天皇の死後すっかり影の薄い存在となってしまった。

「国母になるかもしれない后」の人脈としての価値のなくなってしまった常盤であるがそれでも義朝は彼女を愛し続けた。常盤を都の北の別邸に住まわせ三人の子を儲けた。

一方義朝室は押しも押されもせぬ正室として六条の義朝の本邸に住まい一族郎党を
夫と共に束ねつつ、統子内親王の元に女房として出仕していた。

他にも義朝には都の内外の多くの女性と契っていた。

彼女達は夫がその日どこに行こうがまったくお構いなしにそれぞれの領分と子供達を守っていた。
義朝はその日の心のおもむくままにそれぞれの妻のもとに比較的平等に通った。

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蒲殿春秋(四十七)

2006-09-15 00:37:44 | 蒲殿春秋
「それは、そなたや世の者どもの思い違いじゃ。
左馬頭殿(義朝)の北の方はそちの母を憎んでいたのではなく、九条院さまに近づこうとされた夫君に対して苛立っておられただけなのじゃ」
吉次はその頃の世の様子と義経の父と母が結ばれた頃の話を始めた。

仁平(1152-1153年)の頃、九条院━━当時の中宮呈子は懐妊していると言われていた。
もし、呈子の産む子が皇子ならば、その皇子即位の暁には呈子は国母として絶大な権力を握ることになる。仁平の頃の近衛天皇生母美福門院のように。
それを見込んで、宮廷社会の人々は呈子に今のうちになんとか近づこうとしてやっきになった。
中宮の地位にあるものにつてを求めるには、中宮に身内の女性を出仕させたり、既に仕えている女性と懇ろになるという方法もあった。
多くの男達が、中宮に仕える女房達のもとに出入りしたり恋文をつけたりするようになった。
そんな人々の中に源義朝も混じっていた。
父の官位も本人の官位も低い義朝は高官の息女である女房達には相手にされない。
辛うじて雑仕女たちは口をきいてくれた。そんな中で義朝は常盤と結ばれたのである。
雑仕女では心もとないが懐妊中の中宮につながる縁のきっかけはできたのである。

一方、義朝正室の実家熱田大宮司家は美福門院と対峙してきた待賢門院に長年仕え女院の没後はその所生の皇女統子内親王(後の上西門院)、皇子四の宮(後の後白河天皇)に仕え続けていた。
もちろん、統子内親王もそれなりに当時の最高権力者鳥羽院に愛されていたし、熱田大宮司家の人々も鳥羽院に直接繋がる縁も持っていた。
けれども、天皇生母であり鳥羽院の絶大な愛情をうけていた美福門院の系統に連なる人々に比べると待賢門院系の人々は今ひとつ元気が無い。
ただし、待賢門院系の人々にも希望があった。
蒲柳の質の近衛天皇に皇子が産まれなければ、他に皇子のいない美福門院には手玉はなく、皇位は再び待賢門院系に戻ってくることになったからである。

そんな折、呈子が懐妊したらしいと宮中にうわさがぱっと広まった。
待賢門院系にとっては歓迎できないことであった。
呈子が皇子を産めば待賢門院系は日の目を見ることは無い・・・

そのような状況は、待賢門院系に仕える熱田大宮司家出身の義朝室にとっても歓迎できないものであった。
それなのに、夫はその呈子に接近しようとして、そこに仕える女を身ごもらせた。
義朝室はすねて子供達を連れて一時実家に帰ってしまった。

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蒲殿春秋(四十六)

2006-09-15 00:04:03 | 蒲殿春秋
呆気にとられている牛若に向かって吉次は続けた。
「そなたの姉上、一条大宮権亮殿(能保)の北の方が是非熱田で元服なさるようにと勧めておられるのじゃ」
「姉上が?」
確かに奥州に旅立つ自分の見送りにきてくれた姉である。けれどもいままで数えるほどしか顔をあわせたことのない縁の薄いと思われた姉である。それに・・・
「ご承知の通り、一条殿の北の方の外祖父はこの熱田の社の前大宮司であられ
ただいまは北の方の伯父上が大宮司をされておられる。その縁で是非に、と」
「でも私は・・・」
答えようとする牛若をさえぎり吉次は続ける。
「姉上はこうもおっしゃられた。八幡殿(義家)以来、河内源氏の男子の多くは神前で元服される例も多い。八幡殿は石清水、その弟君も、加茂、新羅で元服された。
近い例では、右兵衛佐殿(頼朝)も烏帽子親の衛門督殿(藤原信頼)に石清水においでいただいて元服を遂げられた。
父上があのような死に方をなされ、謀反の一族になってしまった現在では力ある方には烏帽子親をお願いできないでしょう。せめて、我が縁の熱田の社で元服なされよ、と。」

その日の暁覚めやらぬうちに、熱田の社神前において牛若は元服の儀を烏帽子親梨で執り行い、名を源九郎義経と改めた。

「吉次殿よろしいでしょうか」
その夜、次にとまった宿で義経は吉次の寝所を訪れた。
「私などが、熱田で元服してよろしかったのでしょうか。
熱田ご出身の父の北の方は我が母をたいそう憎んでいたと聞いておりますが」
義経は元服を聞かされたときから心の底に引っかかっていたことを吉次に尋ねた。

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蒲殿春秋(四十五)

2006-09-14 23:46:15 | 蒲殿春秋
一度言い出したらいくら常盤が止めても牛若は聞かなかった。
彼にとっては、未知なる地は魅力に満ち溢れたものであった。
行く手に待ち受けているであろう危険や、知る人のいない心細さなど問題ではなかった。
いやむしろ先にあるものが困難であればある程、それを迎え撃つことに喜びを見出せる若者であるのかも知れない。
牛若の決心の強さを知った常盤は息子の旅立ちを認めるしかなかった。
洛中からさほど離れていない鞍馬にさえ送り出すのが辛かった。
今度は、行けば死ぬまで二度と会うこともないかもしれないところへの出立である。
辛い心を抑えて常盤を息子を旅立たせた。

牛若は奥州に向かう院の馬寮の御使いの一行に加えてもらった。
院の馬寮の人々は名馬を求めて京と奥州を頻繁に往来する。
その院の御使いの一行を見送る人がいた。
一条長成、常盤、そして牛若の異母姉である一条能保室である。
能保室━━範頼が慕って止まないその姉は、隣に立つ身内らしい男にそっと目配せをした。
そして、その男は院の御使いの男に文を持たせた。


院の御使い一行が尾張について暫くすると
まだ、日は十分に高いのにここから目と鼻の先にある熱田に
今晩の宿を求めるといった。
その翌朝牛若は早くにたたき起こされた。
そして、これに着替えろといわれた。
差し出された衣装は今まで着てきた童用の水干とは明らかに異なった
成人向けのものであった。
「これより熱田の社に向かい、そなたの元服の儀を執り行う。
この後の名をそれまでに決めるように」
と、院御使いのうちの一人吉次と名乗るの者が牛若に告げた。

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蒲殿春秋(四十四)

2006-09-13 00:57:59 | 蒲殿春秋
兄乙若が童とはいえ俗人として宮に仕えた結果苦労したのを見た
一条長成と常盤は、牛若も出家をさせるのが一番だと考えた。
長成は伝手を頼り牛若を鞍馬寺に入れた。
前夫義朝の死後その間にできた三人の息子を必死に守ってきた
常盤にとっては
その最後の息子を洛中に近いとはいえ洛外の山奥の寺に入れるのは
さすがに切ないものがあった。

寺から送られてくる愛息からの手紙を何度も何度も繰り返し読んだ。
宿下がりするときは何をおいても息子をもてなした。

長成も気にかけて何度も寺に牛若の消息を尋ねた。

その消息の伝えるところはつぎのようなものであった。

兄弟のなかでも最もやんちゃだった牛若はけわしい鞍馬の山道を日々軽やかに駆け抜けているという。
時折、僧兵相手に武芸の稽古もつけてもらっているが
体格の大きな僧兵を小柄な牛若が何人も打ち負かしているという。
また、それが楽しくてかなり武芸の稽古にのめりこんでいるという。
それが高じて、夜宿所を抜け出して異形の者と人並みはずれた武芸の稽古をしているとの噂もある。

そのようなことは決して悪いことではないのだが
武芸に熱中する余り肝心の学問や僧になるための修行はおろそかになっている。
素質は悪くは無いのだが、修行に身が入らないため同年輩の子に比べると
はるかに僧の修行は劣っている。

このような知らせを聞くたびに長成そして、常盤は嘆息した。

やがて牛若が長じて十を過ぎ
同年代の者達は得度をうけ正式に出家していく。
けれども牛若は修行が足らずに出家させられないという。

このような話を聞くたびに長成と常盤はつらい思いをするのであるが
牛若は義にあつく、情が深いので一度牛若を気に入った人は
とことん彼についていこうとする。
また、愛想がいいので寺の中では可愛がられている。
という話もあるのでそれを聞いて常盤は少し慰められるのである。

けれども、中々得度させてもらえないのも困る。
僧としての修養が足りないようだとその後の牛若の生活にも差し障る。
良かれと思って寺に入れた牛若の将来にかげりが見えてきた。

思い悩んだ末、長成は牛若と常盤にある提案をした。
「奥州にいかないか」と。
奥州の主藤原秀衡の舅藤原基成は長成と遠縁に当たる。
基成と牛若の実父義朝は以前に面識もあったらしい。
基成を頼って奥州に行けばそこでそれなりの生活と将来がある
と長成はいうのである。

常盤はこの提案に大反対した。
噂に聞くことはあってもはるか彼方にある「みちのく」である。
冬はとても寒いと聞く。
第一長成と基成は縁戚であるが近年は文のやりとりすらろくに行っていない。
縁は無いに等しい
そんなところに牛若はやれないと大反対した。

けれども宿下がりにきた牛若は長成の提案を聞くと
「行くよ。奥州へ。おもしろそうじゃないか」
と簡単に決めてしまった。

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蒲殿春秋(四十三)

2006-09-13 00:54:35 | 蒲殿春秋
「私の娘です」
と、屈託なく義経は言う。
その表情の中に時折少年っぽさがのぞかさせられる。
「どうです、この子私に似ているでしょう」
自分の心の中では赤ん坊だった弟がすでに「自分の娘」を抱いて座っている。

一方自分は二十五にもなって未だに一人身・・・
そう思っても範頼はこの弟に負の感情を抱くことはなかった。
さわやかで、屈託がなく可愛げのある弟。

この弟はある種の輝きをもっている。
かつて、いや今でも憧れ続けている兄頼朝とはちがう輝きをこの弟は持っている。

さて、なにゆえ、この弟義経は子持ちとなって都からはるか離れた奥州で範頼の前に現れたのであろうか。

義経の母常盤は今若と離れた後、一条長成と再婚した。
手元に残った乙若と牛若(後の義経)は長成の子として育てられた。

しばらくして、乙若は後白河上皇の皇子八条宮円恵法親王に殿上童として仕えることになった。
けれども、童とはいえ、実父が「謀反人」義朝であることが知れると色々と不都合が生じてきた。
段々と宮の側にいることが難しくなっていった。
その状況を知った八条宮は乙若に出家を勧めた。
出家をすれば多少は、俗界のしがらみから開放される。
現に保元の乱の後に実力を振るった信西入道も
俗体の頃の彼を苦しめていた出自の低さから
法体になることによって開放され、それが彼の権力掌握の一つの手段となったのである。

乙若も宮の好意うけ、すぐに出家した。
八条宮円恵法親王から「円」の一文字を賜り円成と名乗った。
宮も乙若を気に入っていたのである。

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