時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(四百六十九)

2010-03-28 05:48:45 | 蒲殿春秋
その足で範季は右大臣九条兼実の邸に向かった。
範季は兼実の家司をも勤めている。

兼実も福原陥落の知らせを受けて「信じられぬ。」と声を発した。
兼実はしばし呆然とした後、
「神器はいかがなされた?」
と問うた。
「それは未だに不明でして。」
範季はそのようにしか答えられなかった。

兼実の邸を後にした頃には夜が明けかかっていた。

邸に戻った範季を妻が起きて待ち構えていた。
「殿、どちらにおでかけですか?」
妻はやや強い口調で問いかける。しかしその表情は不安を浮かべている。
「この物騒な時に夜お出かけとは。そこまでして何ゆえにお出かけになったのです。」
妻は続ける。

━━ 困ったな。
と思った。
妻の様子には夫を案じる気持ちと、夫の行動に対する疑惑が含まれていそうだ。
妻は真実を追求せねば気が済まぬといった様子である。

ごまかしは効かぬようである。
出かけた理由を妻に告げなければならない。
しかし、真実を告げることは妻にとっては残酷な事実を知らせることになる。

━━ いずれ知れること。ならばいっそのこと。
範季は覚悟した。

「落ち着いて聞いてくれるか。そなたには辛いことを今から話さねばならぬ。」
その言葉を聞いた妻の目は一瞬鋭くなった。
その妻の視線を範季はそらさずに受け止める。
「わしは、院の御所、そして右大臣様の邸へ行った。」
鋭くなっていた妻の目がきょとんとする。

「福原が落ちた。」
「はい?」
妻は事態が飲み込めていない。
「鎌倉勢が福原に攻め入って平家が敗れた。」
妻はしばらく押し黙った。しばらくして
「うそ!」
とだけ言った。
「わしも信じられぬ。だが、先ほどその知らせが参っての。
とりあえず、その事を院と右大臣さまにお知らせに参上したのじゃ。」

「まさか・・・」
「今真偽を確かめる。もし事実だったらそなたは辛い思いをすることになろう。
だが、忘れるな。そなたの父上や兄上に何があってもそなたはわしの妻じゃ。
なにがあってもそなたはわしが守る。」
範季はそっと妻を抱き締めた。

平家が敗れた。もしこれが事実であったならば、平家一門の平教盛を父に持つ妻はこの先辛い思いをすることになる。

範季の妻にとってこの知らせは忌むべきものである。
しかし、範季の周りの人々は色々な思惑で平家一門の敗北を受け止めるであろう。
それぞれの立場の違いがこの日浮き彫りになってくる。

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蒲殿春秋(四百六十八)

2010-03-27 02:43:13 | 蒲殿春秋
都の藤原範季の元に福原陥落の知らせが届いたのは二月七日の深夜だった。
梶原景時の使者は口上と共に景時の書状を見せた。
景時は範季が猶子として育ててきた源範頼の軍目付として範頼と共に福原へ向かっていた人物である。

━━ まさか。
範季はそのように思った。
都では平氏優勢の噂で持ちきりである。
攻める鎌倉方は多くて三千騎程、一方の平氏は数万の兵を擁しているとの専らの噂である。

使者が現れた時、官軍(鎌倉勢)敗北の知らせかと思った。

範季は寝所の方を振り向いた。
範季が抜け出した夜具の隣には、まだ若い妻が、そしてその隣には三歳の娘が眠っている。
主が寝所を抜け出しているのにはまだ気が付いていないようである。

━━ まだ何も知らぬほうが良い。まだ起さぬほうが良い。

範季はそのように考えて、妻と娘を起さぬように気を使いそっと雑色を呼び付けた。

「これより院の御所に参上致す。支度を致せ。ただし、必要な者だけ起こせ。密かに出立いたす。」
広大な範季の邸から、院に参上の許可を願う使者が出され、さらに必要最小限の人数だけが供をする支度をしている。

範季は、参上の衣に着替えながらも、梶原景時の使者の口上に対して半信半疑の状態を脱していない。

この頃の都の治安はまだ悪い。夜歩きは危険を伴う。
だが、この知らせは早急に院に奏上しなければならない。

群盗の襲来におびえつつも範季は車に乗り込んだ。車は静かに邸を出る。

幸い何事も無く院御所にたどり着いた。
門の前にたつと程なく扉が開けられ、すぐに御所寝殿への参入が許された。
後白河法皇はすでに身支度を整えられ、堂々たるお体に厳粛なる法衣をお召しになっておられる。
御簾の向こうから、「何事ぞ。」と声を発せられた。
範季は梶原景時の使者が知らせた内容を法皇の奏上した。

御簾の向こうは無言である。

だが、一瞬だけ法皇のご意思が見て取れた。
法皇は喜んでおられる。

その後も無言が続いた。

暫くして範季は退出した。

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蒲殿春秋(四百六十七)

2010-03-23 05:47:00 | 蒲殿春秋
全ての訪問者が退出し終わった後の範頼も郎党の当麻太郎と話をしていた。
他の郎党たちは敵の残党の夜襲の備えに怠りがないかの見回りに行っている。

「遠江守様(安田義定)ではないですが、私も殿が総大将であるかのように周囲が振舞っているかのように思いました。」
「そなたも大げさじゃのう。」
「そうでしょうか。敵の首は一旦殿の前に集めさせられました。
九郎様も、遠江守様も全ての首を集めたわけではありません。
全ての首が一旦殿の前に集められました。
つまりこのことは殿が総大将と他の大将軍が認めたということではありませんか?」
「そうかのう・・・・」
範頼はあえて返答を濁した。

ここで当麻太郎の言葉にうかつに明確な返答をするのはまずいような気がしたからである。

範頼は話題を変えて当麻太郎に先日から思っている疑問をぶつけた。
「のう当麻太郎、そなたどう思う。遠江守様のここのところのお振る舞いを。」
「お振る舞いといいますと?」
「遠江守様は鎌倉殿の御家人ではない。ましてや従五位下遠江守の官位をお持ちじゃ。
それなのに鎌倉殿から付けられた軍目付殿の意見に従い、無位無官のわしらの上座には座ろうとはしない。」
「確かに」
「わし等同様無位無官の一条次郎殿が散々軍目付の土肥殿の言葉に逆らい、わし等と対座に座ろうとしたのじゃ。
遠江守様は一条次郎殿よりもご身分が上なのに一条次郎殿のような振る舞いは一切なさらなかった・・・・」

当麻太郎は主を見つめたが暫くの間無言を保った。

しばしの沈黙の後当麻太郎は口を開く。
「遠江守様のご存念はよく判りませぬ。
しかしながら、殿にとっては良き事でございましたなあ。殿は鎌倉殿のご舎弟とはいえ難しいお立場ですから・・・」
今度は範頼が沈黙した。

範頼は確かに鎌倉殿源頼朝の異母弟である。
しかし、その一方で治承四年(1180年)の甲斐源氏の挙兵以来の安田義定の盟友でもある。
現在範頼は三河国に範頼自身の勢力圏を築いているが、それが達成できたのは盟友安田義定の支援があってのことである。
一方安田義定が遠江に勢力を築くことができたのも遠江に縁の深い範頼の応援あっての事だった。
さらに言えば、かつて範頼は着の身着のままで甲斐国へ亡命したという過去がある。

その一方で三河国における範頼の勢力維持には異母兄頼朝の母の実家熱田大宮司家の援助も必要である。熱田大宮司家は頼朝の外祖父季範の代から西三河に強い影響力を有している。

範頼は鎌倉殿源頼朝の弟と甲斐源氏遠江守安田義定の盟友という二つの立場を持っている。
頼朝と義定の両者とも範頼にとっては大切な存在である。この二者の関係が良好であるならば範頼は全く困ることはないのであるが、頼朝と義定の二者の関係が悪いものになったとき範頼は大変苦しい立場に追い込まれる。

さらに範頼の人脈は他にもある。
父の敗死の後しばらく寺に預けられていた範頼を猶子として引き取ったのが都の貴族藤原範季。
その範季も都において現在複雑な立場にある。
そして範頼の妻は安達藤九郎盛長の娘。
盛長は頼朝の流人時代からの側近で、範頼の妻は頼朝の乳母比企尼の外孫にあたる。

そのような人間関係の中この先どう動くかわからない世の中をどう乗り切ればよいのか
範頼はよく考えて行動していかねかればならない。

夜は更けていった。

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蒲殿春秋(四百六十六)

2010-03-22 22:03:23 | 蒲殿春秋
梶原景時は範頼の前を退出すると直ぐに土肥実平の元に向かった。
景時は武者たちの戦いの詳細を調べる任務と平家の逆襲に備えて福原に残る。
一方土肥実平は次の日に義経と共に都に上ることになっている。
「梶原殿、勝ちましたな。」
「ああ、何とかな。しかし、これからが正念場よのう。」
「さよう。」
「梶原殿は、論功行賞の為の各人の働きの精査。わしは、都の方々との折衝が待ち受けておる。
どちらもしくじれば後々面倒になる。」
「そうよのう。」
「しかし、今晩の梶原殿のお働きは見事であったのう。」
土肥実平は手にした酒を一気に飲み干す。
「さようか。」
と梶原景時はそっけなく答える。
「敵の首を一旦蒲殿の前に集めさせる。そしてその首を九郎殿が都に運ぶ。
そのように図ったのは梶原殿じゃ。
これで都の人々は平家を打ち破ったのは鎌倉勢という印象をもたれよう。」
土肥実平は多少顔を紅潮させて語る。

今回の平家攻めは鎌倉御家人、安田義定率いる甲斐源氏、そして畿内の武士達の混成軍によって成し遂げられた。
福原には三方から攻め入ったが、最初に落ちた山手口を率いていたのは安田義定と多田行綱である。
彼等は鎌倉勢に対しては友軍であり、頼朝の支配下にある者達ではない。
この彼等の活躍が大きく取り上げられたならば鎌倉勢の勝利という印象を都の人々に与えることは出来ない。下手をすれば多田行綱の勝利ととられかねない。
一応は頼朝に平家追討の宣旨を下されてはいるものの、都に顔の聞く多田行綱の働きが評判になると鎌倉勢の印象は薄くなる。
今回の勝利はあくまでも鎌倉勢の力によるものと印象付けなければならない。
それが頼朝から付けられた軍目付の二人の思惑である。

そこで、平家追討軍の代表として義経が平家の首と生け捕りにした平重衡の身柄を都に持ち込むことを決め、それを実行させるように多田行綱を説得した。
そして、都に首を運ぶ前に大手軍大将軍範頼の前に平家の首が集められた。
この事実は、範頼がこの追討軍の最高責任者であるという印象を内外に与えることになる。

鎌倉殿源頼朝の二人の異母弟範頼と義経を押し出すことによって人々に「鎌倉殿の派遣した軍の勝利」という印象を与えるのである。

梶原景時はもう一つ手を打っていた。
平家がもう崩れかかったその時点で範頼の養父藤原範季にいち早く福原陥落の使者を出した。
都の人々に範頼軍の健闘を伝えるためである。範頼は最も多数の坂東の鎌倉御家人を率いている。

そして今度も景時は新たなる手を打とうとしている。
景時は実平にそっと耳打ちをした。
実平はその耳打ちに不敵な笑みを浮かべて「それは妙案」と答えた。

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蒲殿春秋(四百六十五)

2010-03-19 05:49:18 | 蒲殿春秋
深夜になって、安田義定は梶原景時そして義経を連れて範頼の前に再び姿を現した。
「いやあ、多田殿を説得するには骨が折れたわ。多田殿は何ゆえに鎌倉の者が全て首を持っていくのかと駄々をこねられの。」
義定はからからと笑いながら語る。
「無理もありません。多田殿は直接院に自らの手柄を披露したがっていた故に。」
と義経。
どうやら、多田行綱は義経が平家の将たちの首を持って早々に都に向かうことに対して難渋したようである。
その多田行綱に対する説得はかなり時間を要した。

━━そうであろうな、
と範頼は思った。

多田行綱は安田義定と共に山手口を攻めた将である。
安田義定の功績と多田行綱の功績は重複する。
安田義定は自分の軍がとった首といってはいるが、実は多田行綱と協力してとった首なのでありその功績の半分は多田行綱にも帰する。

その多田行綱はあくまでも協力者なのである。
平家追討の宣旨を得た頼朝、そしてその代官である範頼・義経に力を貸したに過ぎない。
行綱からしてみれば頼朝の配下になった覚えはないのに、自分の手柄も鎌倉勢の一部として院に奏上されるような気がして面白くないだろう。

「都の人々に一刻も早く平家が敗れたことを知らせなければなりません。そうは言ったのですが中々ご了承いただけず・・・」
と義経。
「そこで最後は梶原殿の出番よ。
多田殿のご功績は多田殿のご功績として九郎殿より院に格別に奏上なさると。
また、都の方々にも多田殿のご功績をお知らせするゆえ、
かように梶原殿が申されたゆえ多田殿は渋々我等の申し出を受け入れられた・・・」
と安田義定は言う。

暫く談笑が続いたが
「九郎殿明日は早い。早々にお休みくだされ。」
という梶原景時の一言でこの場はお開きになった。

義経、梶原景時が退出した後、安田義定のみが範頼の元に残った。
「蒲殿、不思議なものでござるな・・・」
安田義定はふと言葉を漏らす。
「わし等が甲斐国で出会ったのは今から三年以上前になる。」
「はい。」
「その頃われら甲斐源氏は挙兵してばかりだった。
鎌倉殿は戦に破れ生死も分からず、蒲殿は身一つで甲斐国へやってきた。」
「さようですな。」
「その頃のわしらはとにかく海が欲しかった。東国の海に面した国が欲しかった。
ただそれだけで挙兵をした。
それが、今わしらは摂津国にいる。そして平家を再び西海においやった。
わからぬものよの・・・三年前のわれらこのような事を考えておったじゃろうか・・・
そして此度は蒲殿は押しも押されもせぬ大手の大将軍、いや、寄せ手の総大将じゃ。」
「総大将とは大げさな。此度の大将軍は、安田殿、九郎、そして私、それと多田殿の四名じゃ。
私は総大将などではない。」
「いや、蒲殿は総大将と思わぬとも回りはそのように思うようになる。いやそのようにさせられるじゃろ。」

安田義定は妙な言葉を漏らした。
だが、その意味を範頼が実感するのはかなり後になってからである。

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蒲殿春秋(四百六十四)

2010-03-15 05:51:27 | 蒲殿春秋
義経は自軍の兵が討ち取った平家の将たちの首を範頼の前に置いて退出した。
範頼の前に平家の将たちの首が並べられた。
その首をまじまじと眺める。

この戦乱の世、人の首など見慣れている。
だが、この日範頼はある感慨をもって首を眺めていた。
彼等は安徳天皇の親類にあたり、官位も高いものを有している。
この一門の知行国は国の半分に達していた。
範頼の軍勢にいたものが討ち取った平通盛などは公卿の座にあった。

その一門の者達の首が今自分の目の前にある。
数年前まで謀反人源義朝の子として日の当たる場所に出ることができなかった自分の目の前に。

━━ これが世の流れというものか・・・
数年前まで、範頼は彼等を仰ぎ見ることすらできなかった。
実の父の名を公に明かすこともできなかった。養父範季がいなければ人として扱われることが無かった。
範頼を名代として派遣した兄頼朝は罪人として伊豆に押し込められていた。
その自分達が都において権力を握っていた平家一門の多くを討ち取った・・・
平家一門を謀反人として・・・

そして今自分が生きて彼等が遺した首を見ていることも不思議である。
平家優勢が伝えられる中それに打ち勝ったことが奇跡である。
一歩間違えていれば自分達が負けていて、自分の方が首になって
目の前にいる首の人々が生きていて、そしてこの人々が自分の首を眺めていたかもしれない・・・・

その範頼の元にある人物の来訪が告げられた。
訪れたのは安田義定。
数人の従者を引き連れ範頼の前に現れた。
範頼は座を譲ろうとしたが義定はそれを断り範頼の対の座に座った。

「蒲殿、勝ったのう・・・」
義定は笑顔を範頼に向けた。
「はい。」
範頼の傍らに座す梶原景時はその様子を静かに窺う。
「ほほう。」
義定は範頼の前に並んだ首を眺めた。

「蒲殿、そなたの軍勢が討ち取ったのはこの中のいくつか?」
「三つです。」
「九郎殿が討ち取ったのが残りの四つ、というわけか。」
「わしはこの三つじゃ。」
そういって義定は従者の方を見やった。
従者たちは首桶を抱えている。

「で、この首をどうなさるのか・・・
わしは多田殿を説き伏せて蒲殿の検分に入れに来たのであるが・・・」
「明日都に持ってきます。」
そう答えたのが梶原景時。
「そうか、そなたの存念か・・・」
義定は景時をじっと見つめた。

「ならば」といいかけて義定は黙った。
沈黙がしばらく続いた。
「よかろう、この首は蒲殿の置いていく。
しかし、このまま明日都に首を持っていくことは多田殿が承知なされぬじゃろう。
梶原殿、お手数だがわしと共に多田殿の元に来ていただきたい。」
「承知しました。」
そういうと梶原景時はパッと座を立ち安田義定と共に範頼の前を退去した。


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蒲殿春秋(四百六十三)

2010-03-10 21:44:06 | 蒲殿春秋
卯の刻(午前6時頃)に始まった戦は巳の刻(午前10時頃)には終わった。
鎌倉方の圧倒的勝利である。
その後各方面の将たちは勝利の忙しさに追われることになる。

まず勝利の一報を都と鎌倉に送らなくてはならない。

そして大切な任務が待っている。
将たちが最も心して行なわなくてはならないこと。
それは自軍の戦死負傷者、軍律違反の有無、そして各人の功績の確認である。

ここはしくじってはならないことである。
参軍したものは、出陣に関する全てを自分で負担し、自らの命まで賭けて戦に加わるのである。
それはひとえに「恩賞」が欲しい故である。
恩賞は、戦においてどのような功績を立てたかによって決する。
功績の正しい認証が行なわなくては公正な恩賞は与えられない。
ここをしくじると参軍したものの不信を買い、将ひいては彼等を将に認定した鎌倉殿への離反を招くことになる。

源範頼、源義経、安田義定この三人の将の元に兵達が集った。
その多くは兵が多数の首を抱えて表れた。
いずれも兵達が討ち取った敵の首である。

その敵の首の名の確認が行なわれ討ち取った時の状況の検分が行なわれる。
本人の申告する際はその現場の近くにいた味方、そして捕虜となって敵兵が呼ばれその事実が正しいものかの確認が行なわれる。
本人の申告は誇大となったり多少の虚偽が含まれている場合が多々あるからである。
中には一つの首の手柄を同時に主張するものもあり、その裁定に時間を取られるということもあった。

源範頼もその戦勝処理に追われていた。
範頼は鎌倉勢の主力を率いていた。そして敵の主力と戦った。
範頼が担当した生田口において最も規模の大きい交戦が行なわれた。
よって範頼が率いた勢が討ち取った首の数は、名のあるもの無いもの全てを含めると他の二将率いる兵よりもはるかに多い。

範頼とその軍目付梶原景時は夕刻になっても多忙を極めることになる。

日も暮れて、やや遅い夕餉を始めようとした頃、義経が範頼のもとに面会を求めて現れた。
義経は兄の前に現れると即座に口を開いた。
「兄上、私は明日都に向けて出立します。」
「そうか・・・」
「一日も早く都の人々に我が軍の勝利と平家が敗れたことを知らせなくてはなりません。」
「そうだな。」
範頼はその正論に頷く。
義経はそれを見て言葉を続ける。
「ついては、お願いしたいことがありまする。」
義経は声を潜めてさらに言葉を続けた。
「兄上、今宵のうちに平家の主な者達の首を兄上の前に集めてください。
明日私はその首を全て都にもって行きます。それから中将殿(重衡)の御身柄も・・・」

範頼は傍らにいる梶原景時の方をみやった。
景時は満足気にうなずいている。
範頼は義経に了承の意を伝えた。

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一の谷の戦いについて その10 参考文献等

2010-03-09 22:47:25 | 蒲殿春秋解説
「訓読玉葉」(高科書店)
「全訳吾妻鏡」(新人物往来社)
「現代語訳吾妻鏡 2 平氏滅亡」(吉川弘文館)
「延慶本 平家物語 本文編 下」(勉誠出版)

奥富敬之「清和源氏の全家系四 源平合戦と鎌倉三代」(新人物往来社)
川合康「日本の中世3 源平の内乱と公武政権」(吉川弘文館)
近藤好和「源義経」(ミネルバ書房)
菱沼一憲 「源義経の合戦と戦略」(角川選書)
元木泰雄「源義経」(吉川弘文社)
歴史資料ネットワーク編「地域社会からみた「源平合戦」~福原京と生田森・一の谷合戦」(岩田書院ブックレット)
柘植久慶「源平合戦 戦場の教訓」PHP文庫

サイト様 歴史と中国

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一の谷の戦いについて その9 まとめ

2010-03-09 22:23:31 | 蒲殿春秋解説
色々と一の谷の戦いについて書かせていただきましたが、現時点での私の見解は次の通りです。

a)戦いが行なわれたのは福原全域とその近辺、現在の神戸市中央区から神戸市須磨区(一部垂水区含む)までの広い地域にわたる。

b)福原への交通の要衝となる生田口(中央区)、山手口(長田区、兵庫区の山沿い)、一の谷口(須磨区、垂水区)で、福原への進入とそれを防ぐ攻防戦が行なわれた。

c)有名な「逆落とし」は、「一の谷口」の鉄拐山かその近隣の山で行なわれた。実行者は恐らく「一の谷口の将」源義経。この逆落としは一の谷口の勝敗を決するには大きな意味を持ったかもしれないが、この逆落としがすぐに「福原合戦」そのものの戦局を直ちに左右したわけではない。

d)最初に陥落したのは「山手口」。この軍を率いていたのは源範頼でも源義経でもなく、摂津国の武士のリーダー的存在と見られる多田行綱か、頼朝に対してその頃も独立性を保っていた甲斐源氏安田義定。いずれにせよ頼朝に対しては同盟軍的な存在が真っ先に福原に進入した。

e)それぞれの戦闘は、逆茂木や堀などをしつらえるなど敵の侵入を妨げるバリケード構築する等の事も行なわれた。

f)山手口、一の谷口、生田口は半日もたたないうちに陥落した。

g)山道を通らなければならない山手口、山が海岸線に近くまで張り出している一の谷口は大軍を率いて戦うには向いていない。よって、攻め手寄せ手共に主力は生田口に集結したものと思われる。

h)山手口、一の谷口は地形を生かした「不意の攻撃」をかけることは可能であるが、生田口はあくまでも正攻法による戦いをすることになるのも当然のことと言える。

g)そのような状況を考えると従来考えているようにこの戦いの勝利の功績の多くを源義経を担っていたという通説には賛同しがたい。義経が一の谷口を陥落させたことは事実であり義経はやはり勝利には貢献していた。しかし、他の口の将たちも担当の箇所を陥落させていたのだから、彼等もまた勝利に貢献していた。
そのように考えると、源範頼、源義経、安田義定or多田行綱は殆ど同等の戦功を上げているものとみなすべきである。

以上色々と書かせていただきましたが、「一の谷シリーズ」は以上をもちまして終了させていただきたいと存じます。

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一の谷の戦いについて その8 討死者と討手の矛盾2

2010-03-07 06:31:53 | 蒲殿春秋解説
3)知章の場合

「平家物語」諸本の多くは知盛が大手の大将軍となっていますが、
「延慶本平家物語」の記載では生田の大将軍が「重衡」になっていて、知盛がどこにいたのかが記されていません。
したがって知章が父知盛と共にいたと思いますが福原のどこにいたのかが不明です。
さて、「平家物語」諸本によると知盛は敵である武蔵国の児玉党の武士に「他の口が破られた」との報を聞き、背後を振り返ると西側のあちらこちらが炎上していて劣勢に気が付くというように書かれています。「延慶本」では大手が破られたのに気が付くというような書き方になっています。

上記の記載から推測すると、知盛親子は一の谷、山手、生田全ての戦線が破られ後に退却を図った、そしてその戦線離脱のタイミングは平家の諸将の中で最も遅いものだったのではないかと思われます。
そうなるともう知盛親子の近くにはいずれの口からも進入した武士が襲い掛かってくるという状況になっていて、最も遠い場所から進入してきたと思われる「一の谷口」を率いる義経勢に討ち取られた可能性があると思われます。

4)盛俊の場合
盛俊も「引くことが不可能だった」と書かれています。
盛俊の場合ももう多くの敵が侵入してきて引きに引けない状況になる頃まで戦っていたのではないか、と推測されます。その結果「山手口」をまもる盛俊を「一の谷口」から侵入した者達が討ち取るという結果になったのではないかとも思われます。

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