時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(三百四十)

2009-01-13 05:32:01 | 蒲殿春秋
その上義仲は申し入れをしてきた時点ではようやく叙爵されてばかりで無位無官を脱してばかりの男である。
公卿でもなければ院近臣でもない。
本来ならば、皇位に対して口出しする権限などは全く無い。
今までの宮廷社会であるならば物狂いの申し条といって放置されるのが落ちである。

しかし、義仲の申し入れを無下にできない事情が宮廷社会にはある。
それは義仲が武力を持っているという事実である。
武力を持つものの暴発の恐ろしさは数年前平清盛によって示されている。
これから約四年前の治承三年(1179年)、後白河法皇との対立を深めた平清盛が
武力をもって後白河院政を停止し、多くの廷臣の官位を剥奪した。

このときの恐怖が後白河法皇と宮廷社会にはまだ残っていた。

武力を持つ義仲に対しては穏やかに説得しなければならない。
その手段として占いと夢想が用いられた。

三の宮、四の宮、そして北陸宮の三人の皇子が皇位に立った場合がどうかという占いがなされた。
すると四の宮吉、三の宮半吉、北陸宮凶との卦がたった。
さらに後白河法皇に仕える女房丹後局の夢想に四宮が皇位に立つべきとあった。

このようなことを義仲に告げた。
義仲は動揺した。
武においては無敵の強さを誇る義仲も、占いや夢想ということには弱い。
占いや夢想は当時の社会においては神意を示すものとされた。
後世のように占いや夢想が迷信や思い込みましてやトリックなどと考えられることは無い。
そして、神意が絶対性を持つ時代であった。

義仲もそのような時代を生きる人である。

だが、北陸宮の即位に情熱を燃やす義仲は納得しない。
義仲の抗議によって占いは再度行なわれた。
その占いの結果もまた、四の宮立つべし、北陸宮は避けるべしであった。

さらなる占いの結果に義仲はたじろぐ。

そのような折に宮廷社会が故高倉院の皇子が皇位に上ることを望んでいると
いう事実が様々な方面から義仲の耳に入ることになる。

このようになると義仲も北陸宮を強く推すことはできない。

義仲は占いのやり方が悪いと抗議して北陸宮擁立をあきらめた。

寿永二年(1183年)八月二十日
都において高倉天皇第四皇子尊成親王が天皇に践祚した。
後鳥羽天皇である。
母は、坊門信隆娘 藤原殖子。
乳母は、藤原範兼娘 藤原範子 すなわち、藤原範季(範頼の養父)の姪である。
この践祚の儀式に範季は乳母の父代わりとしてかいがいしく奉仕した。


皇室系図1


前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ


最新の画像もっと見る

コメントを投稿