佐渡市泉地区にあるこの寺は、能楽師の「世阿弥」が万福寺から移り住んだ寺として有名である。ところで、何故世阿弥は佐渡へ流されたのか?この問いに即座にそして的確に答えられる佐渡島民はどのくらいいるだろうか?順徳院や日蓮は、幕府転覆を企てる危険人物との烙印を押されて島流しの刑に処せられた。ところが世阿弥にはそのような野望はなかった。有体に言えば、講座教授や社長の代替わりに伴い、前任者の寵愛を受けたスタッフ達が新教授や新社長に疎まれるのと同じで、足利幕府の将軍の代替わりにより、世阿弥の能のスタイルが新将軍の好みに合わないという理由だけで彼は佐渡へ飛ばされたというのだから、誠にもって可愛そうと言うしかない。
世阿弥の能は猿楽能で幽玄の美を追求する能であり、足利義満の寵愛を一身に受けた。義満が死去し、4代将軍義持の治世になると、義持は猿楽能よりも田楽能(豊穣を祈り笛鼓を鳴らす賑やかな歌舞)を好み、その名手「増阿弥」を寵遇した。しかし柔軟性のある世阿弥はこのライバルを妬むことなく、「花」を生み出す幽玄美が高められたところにあるものが「冷えたる美」と悟り、増阿弥から「冷え」を学んだ。このように世阿弥の芸は生涯にわたって昇華し続けた。と、ここまでは良かったのだが、義持が他界し、6代将軍義教が就任した頃から、雲行きが怪しくなってくる。義教は世阿弥を引き立てようとする兄の義嗣と仲が悪かった事もあり、能楽師の「音阿見」を寵愛し、世阿弥一家から猿楽主催権を奪いそれを「音阿見」に与えた。こうして将軍義教の世阿弥に対する毛嫌いは日増しに強くなり、「音阿弥」に観世4世家元(世阿弥の家元)を継がせることを世阿弥に強要した。そして世阿弥がこれに強く抵抗したため、それを謀反とみなした義教により、世阿弥の佐渡への配流が決まった。以上が世阿弥左遷の一連の経緯を分かりやすく纏めたものである。
山門を入ってすぐの所の右手に大仰な柵で囲まれた石がある。世阿弥がこの石に腰をかけて小佐渡山脈を見やりながら遥か彼方の京の都を偲んだとされている。とにかく佐渡では配流された高貴なお方や能楽師などが腰をかけた石が珍重されるようで、この種の石がそこかしこにある。
寺の本堂前に二つの句碑がある。一つは作家の松本清張が、亡くなる10ヶ月前に来島したおりにしたためた句の碑であり、いま一つは沢根出身の文芸評論家「青野季吉」の句碑であり、「夏草や世阿弥の跡の石ひとつ」と刻まれている。左翼の文芸評論家として弾圧を受けた青野は、しばらく暮らした故郷の温かさにふれ、その心を句の中に詠み込んだとされている。
更にこの寺では雨乞いの面「神事面べしみ」というものを所蔵しているそうだ。本来は泉城主の持ち物だったが、世阿弥がこの面をかぶり能を舞ったのかもしれない。
ここに能面が保存されているらしい
世阿弥の腰掛け石
境内の地蔵
山門
http://www.digibook.net/d/6744a533919f2034ec85bda4bc39f71c/?viewerMode=fullWindow