今日は小ネタ。
2週間ぶりにようやく休みが貰えたんです。半日だけど。
だので蜆塚遺跡の中にある浜松市博物館に行ってきました。
そこでは現在「全国城グッズコレクション」と称する市民コレクター展をやっているというのです。浜松在住のおふたりの歴年の収集痕を披露しているらしい。でも行ってみたら、「え、これだけ?」とつぶやきたくなる量でした。(量のことですよ。内容は素晴らしいんでしょうけどもね)。ここはきっと単なるアピール棚で、「どこかに特別展示室があるに違いない」と思うくらいでした。実際コレクターと称する人間っていうのはほんと凄いんですから、案外本当に特別展示室があるんだと思う。私が見落としただけで。
ただひとつっ。
そのおふたりの収蔵物のひとつとして、私には垂涎のものがささやかにさりげなく展示されておりました。
昭和20年代の浜松城のハリボテ天守閣!
以前に一度触れたことがありましたが、昭和33年に現在の浜松城の復興天守が建てられる直前、ここに別の建物が建っていたというのです。その貴重な写真。
本来の天守台の上にもう一段、ハリボテ石垣が造られているのが分かりますね(笑) 人が10人ぐらい乗っていますが、一体どういう構造だったのか。下の石垣の表面に草?が生い茂っているのも。さすが野面積み。石の上の草原。
・・・ってあれ?、この写真なんかの本で一度観た気もする。ちょっと見たこの意外にしっかりとした作り込みの印象に、だから私はこのプレ存在に気を惹かれるようなことになったのかもしれないなあ。
そもそも浜松城には、「17年間ここに在城した徳川家康は天守閣を造ったのかどうか?」という重大なナゾが控えているのでございます。通説では、「現在の浜松城の縄張りを完成させたのは家康が関東に左遷された後に入った豊臣武将の堀尾吉晴」だ、「堀尾はそのとき天守閣も造った。それが浜松城天守閣の最初だ」とされているのですが、一方で模範的な美しい野面積み(参考サイトさん)として有名な浜松城の天守閣の石垣は、家康時代からあったと言われてもいるのです。これが江戸城ならともかく、戦国後期に建物を作る計画も無しに天守台を作る事なんてあろうか、ということで、「実は家康時代にも浜松城にも天守閣はあった、信長の影響を受けて」、とする説も根強い。
そして江戸時代、さまざまな絵図から見るに浜松城の天守台の上になんらかの天守閣があったことはほぼ確かであるみたいなのですが、その実態は全く不明。「江戸後期にはすでに天守閣は無かった」とも言われます。で、明治初年には廃城令によって浜松城全体が破却されるのです。
第二次大戦後、昭和30年代にお城ブームが起こりまして、各地に復興天守が数多く作られます。現在の浜松城天守閣も昭和33年に市民の浄財を集めて華々しくコンクリで作り直したもの。しかしそれ以前に、現在の浜松城の位置に、ブームに乗ってこぢんまりとした天守閣まがいとそこに至るケーブルカーがつくられていたというのです。ケーブルカーですよケーブルカー。ロープウェイじゃなくてケーブルカー。
写真には「昭和20年代」と書かれていますが、30年代の天守閣ブームの嚆矢はウィキペディアには昭和29年の岸和田城だとされていますから、その前後にブームに乗じて浜松にこのハリボテが建てられたと仮定しても、たかだか5年弱しかこれは存在していなかった。幻の存在物。
実のところを言いますと、私は自分がお城好きだとは思うのですが、天守閣なんてどうでもいいと思っている輩です。城郭の中で高層建築物なんて飾りです。「信長の野望」ファンなので、お城の中で一番重要な箇所は城門付近だと信じ込んでいるのですが、とにかく「縄張り」や「防衛構想」が大好きで、学研の歴史群像の「戦国の城」シリーズを眺めながらニヤニヤしている時が一番楽しい。戦いで二の丸まで敵に侵入されたらもうそれは全てが終わりだよね。かといって、天守台に意味が無いというとそうでもない。どんな計画図でも中心点は必要ですからね。その中心点が高所にあって一番各所の状況を把握できるような設計であれば言うことは無しです。っていうか、そうでなくてはならないものではあります。だがそこに高い建物があらねばならぬのかというと、そうかもしれないしべつにそうでないのかもしれない。そもそも城は小高い山に作る物だからなぁ。
敷いて言えば、天守は燃えてナンボです。
城とは地域の要衝に建てられる物であり、要所とは必ず紛争の的になるはずの場所です。堅城であろうが美しい城であろうが、戦いの歴史のない城は存在意義のない城だし、城は作って破られ、燃えてなおかつ鮮やかに蘇るものなのです。その都度の容姿の変遷には興味がある。(大阪城とか江戸城とか、再建されるたびに容姿がだいぶ変わってしまってるんですよ。三代目江戸城なんか、大坂城バリに真っ黒です。)
では我らが浜松城はどうなのか。
実は私は“(熱海秘宝城と下田竜宮城を除いて)天守閣のあるお城が唯のひとつも存在しない伊豆”に長く住んでいて、でもお城巡りをしていて「楽しいなぁ~」と思うことが多かったですから上記のような思想を抱くに至ったのですが、初めて天守を持つ町・浜松に移り住み、いろいろと物想うことになったのです。
浜松城ほどのこぢんまりとした天守閣でも、地方ではなんか別格だぞ。
こんなチンケなものなのに、ちゃんと町のシンボルに成り得ているぞ。
だが果たしてこの浜松城はそれに見合うだけの歴史的な重みを持ち得ているだろうか。
結局天守閣て何なのか。
お城の側は変に天守なんて持たない方が幸せだと思っているんじゃないだろうか。だって本来は不必要な天守閣的建築物なんてものに、存在性を全て預けられているような形になっているんですもの現代は。一般的に。世間的に。
ハリボテ天守の話に戻りますが、浜松城のこのハリボテは現在は幻となってしまいましたが、実を言うと全国にはほぼ同時期の似たような存在はたくさん現存しています。「あやしい城」というサイトさんを見れば、おおまかの全貌のちょっとした片鱗はおわかりになるかと。もちろん星の数ほどあったであろうハリボテの大部分は、風に吹かれて消えて無くなってしまっているものが多いのでありましょうけど。
続けて書くつもりだった内容を、j.kさんに見透かされて全部前もって言われてしまった~(笑)
そうです、おおむねその通りです。
天守台の役割については、「別に、高くて周囲を見晴らかせるくらいであれば、建物はあってもなくても構わない」ぐらいにしとくつもりだったですが。
夢の中で読んだことにして、頑張って記事を完成させまっす。
ハリボテつまりイミテーション、真実ではない、という点でもディック的、というわけですね?上手い!
日本の城が城塞だった時代も、天守はあまり役に立たなかったようですね。
塔も西洋では牢獄としても利用されたようですが、日本のものは物置になっていたそうで。
というか、城塞そのものが刑務所として転用されるケースも多かったそうで。
(バスティーユ監獄は政治犯を収監してたそうですね)
天守。城が公園や観光資源として活用されるようになってからの方がむしろ重要視されるようになったのは面白い現象だと思います。