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太平洋沿岸を飛ぶ (21) - 的矢湾

2010-01-31 | 中部


『二十四の瞳』の作者、壷井 栄(つぼいさかえ)に、『伊勢の的矢の日和山』という作品がある。

「イセのマトヤのヒヨリヤマ」とは、壷井栄が幼い頃から子守歌のように聞いたという祖母の言葉。
船乗りだった夫、勝蔵は船中で急病にかかって亡くなり、その墓が「伊勢の日和山」にある。自分に代わって勝蔵の墓にお参りしてくれと孫たちに頼んだ。後年壺井栄は、的矢の日和山に祖父の勝蔵の墓を探したが見つからず、それからさらに10数年後、再び日和山を訪れ、寺の過去帳を調べたり、船宿の老人に聞いてみたりしたが、ついに墓を探し当てることはできなかった。

家族の強い絆、祖父、祖母への深い愛といつくしみが描かれた作品である。



的矢湾(まとやわん)は三重県志摩半島の東側にある東西10kmほどの細長い湾。

徳川幕府が開かれると、江戸の人口が爆発的に増え、それに伴って米、酒、油、醤油、ミソ、鰹節、木綿等の日用品や金物、瀬戸物、建築資材などを大量に運ぶ必要があった。このため、大阪から江戸への海上輸送が盛んになった。 
大阪から紀伊半島沿岸を廻ってきた船は、志摩半島を出発すると伊豆の下田まで、遠州灘を一気に突っ切る。途中立ち寄る港がないため、リアス式で湾が深く入り込んだ天然の良港である鳥羽湾、的矢湾、英虞湾で食料や飲料水を補給し、天候の回復を待った(日和待ち)。鳥羽、安乗、的矢、浜島は風待港として重要な位置にあり、「志摩の四か津」と言われ港町として栄えた。

こうした回船の船乗りを相手に、身の回りの世話や接待をする遊女が 「ハシリガネ」 と呼ばれてた。ハシリガネは、日和山に登って船の入港を知ると、白粉を化粧して、船乗りが下りてくるのを待った。中には馴染みの船や船乗りがいて、夕方、頭髪を島田マゲに結い、太鼓帯を締めて大風呂敷を抱えて船に出かけたという。