Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

太平洋沿岸を飛ぶ (14) - 牧ノ原台地

2010-01-20 | 中部
静岡県の中西部に分布する牧ノ原台地は、標高およそ、40m~200mの平坦面が北から南へかけて緩く傾斜している。この平坦面は、昔の扇状地面であったと考えられている。現在、大井川は、金谷でその流下方向を東へ向きを変え、駿河湾に注いでいるが、今から、およそ12万年前には金谷付近からそのまま南下し、太平洋に注いでいたことが知られている。

牧之原の茶畑作りは、徳川最後の将軍慶喜が1867年、大政奉還したところから始まる。

慶喜は大政奉還により駿府(今の静岡市)に隠居する。
その際、慶喜の身辺警護を勤める「精鋭隊」(のちの「新番組」)に属する武士たちも同行し、ともに駿府に移り住んだ。
ところが、明治2年(1869)の版籍奉還により、「新番組」は突如その任務を解かれ職を失ってしまうのだ。
鎖国政策から一転開国をした新政府は、外貨獲得の輸出品として、生糸と茶に注目。山岡鉄舟や勝海舟の提言もあって、明治2年(1869)中條景昭(ちゅうじょうかげあき)を隊長とした「新番組」の面々は剣を捨て、牧之原台地における茶畑の開墾を決断した。
それは「武士から農民になる」という一大決心であった。

しかしながら、当時の牧之原台地は地元の農民さえ見向きもしない荒廃地。
何よりも台地における水不足は深刻で、育苗・改植用の水はもとより生活に必要な水にも事欠く状態であった。
しかも、その開墾をおこなうのが農業の素人集団であったため、当初は苦労と失敗の連続であったといいう。

このような厳しい状況の中で、中條たちは粘り強く着々と開拓を進めた。
とりわけ、身分の高い武士から能楽師まで、多種多様な人々を、昨日までの地位身分に関係なく、農耕開拓団として統率していった中条の指導力は特筆すべきものであった。
その後、同じく仕事のなくなった大井川の「川越人足」や地元の農民たちも、広大な牧之原の残された部分に進出して開墾をはじめ、茶園は急速に拡大した。
そして、開墾開始から4年後の明治6年(1873)、ようやく牧之原で初めての茶摘みが行われた。

その後も中條は茶畑の開墾に全精力を注ぎ込む。
途中神奈川県令(知事)にとの誘いがあったものの、「いったん山へ上ったからは、どんなことがあっても山は下りぬ。お茶の木のこやしになるのだ」とまったくとりあわなかったという。
そして明治29年(1896)、後進に後を託し、中條は70歳にしてこの世を去った。

現在、静岡県は全国の緑茶の生産量の約50%を生産する。そしてその中で最も広大な茶畑が広がっているのが牧ノ原の台地である。茶園面積は約五千ヘクタール、日本一の大茶園となった。