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太平洋沿岸を飛ぶ (1) - 富士山

2010-01-01 | Fuji

右手に大島を見て、相模湾に入った。そのころから霞がうすらぎ、左手に伊豆半島の連山が望まれた。
十艘近い漁船らしい小舟が陸岸方向に見えたが、艦隊の姿に驚いたのか、急いで岸の方に引き返してゆくのが見えた。
霞が消えて視界が遠くまひらけた時、艦上の所々で甲高い驚きの声が上がった。北西方向に円錐型をした高々とそびえ立つ山が青空を背景にうかびあがっていた。それは、日本の見聞録に必ず記されている富士山で、頂が白いのは雲か雪かわからなかったが、美しい山容には威厳があった。
(吉村昭著『海の祭礼』より)


1853年7月8日、アメリカの使節ペリーが黒船4隻を率いて江戸湾の入り口浦賀沖に現れた。
4隻の艦隊は、蒸気船の旗艦サスケハナ号(2450トン)、ミシシッピー号(1692トン)と帆船のサラトガ号(882トン)、プリマス号(989トン)。

米国東海岸のチェサピーク湾ノフォークを出航したのは1852年11月24日。大西洋のマディラ島、セントヘレナ島からアフリカ南端のケープタウンを回り、セイロン、シンガポール、香港、上海、琉球、小笠原諸島に寄港し、226日という長い船旅の末、相模湾浦賀沖に碇泊したのは1853年7月8日午後5時頃だった。

太平洋横断航路の開発のために、石炭補給地を見つけ、貯炭所を確保するのがペリーの主任務のひとつであった。
ペリーは黒船に護衛させた測量艇を江戸湾深く侵入させて江戸城の老中たちを威嚇。久里浜において、浦賀奉行に修好通商を求めるフィルモア大統領親書を受け取らせ、再来を約して12日に退去した。

ペリーの来航は、日本を大きく揺さぶり、開国の引き金となった。約200年以上続いた鎖国体制が崩れ、日本に開港を要求する、イギリス、フランス、ロシアなど、西洋列強の圧力も一段と強まった。