彼女は戸口に出たところで目を足もとに投げた。足下はほとんど見ることができないほどの急斜面になっていた。野中観測所の下は大沢くずれの絶壁だから、寝ぼけて一歩踏み外したらそのままだ、などと到が冗談を言っていたがその通りだった。やがて、雪と氷で隙間がないほどに覆われたら、この戸口を出ることさえ、困難だろうと思われた。
麓にやった眼を上げると雪を頂いた山々が見えた。
聖岳を中心にして城壁のように蜿蜒と連なっているそれらの山々の名を彼女は知らなかった。甲府盆地の向こうに八ヶ岳の麓姿が見え、さらにずっと遠くに、穂高連峰が見えていたが、彼女の眼には、ただの山としか映らなかった。山ばっかりで、里はどこにも見えなかった。
彼女は野中観測所の南側を廻って剣ヶ峰の頂上に出た。そこで見た景色の一部は、きのう彼女が登ってきたときに見たものだったが、絶頂で眺める気持ちは別だった。
点々と散在する伊豆七島をかこむ海が、かぎりない拡がりを見せていた。
(新田次郎著『芙蓉の人』より)
厳冬の富士山頂。
寒気がひしひしと2人を攻めつけた。最低気温が零下20度を越える日が続く。
風向、風速、気温そして気圧。
2時間ごとに、1日12回も気象観測を続けた。
想像を絶する過酷な環境下で、重い高山病、睡眠不足、栄養失調などが二人を次々と襲う...