Tenkuu Cafe - a view from above

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太平洋沿岸を飛ぶ (10) - 伊豆大島

2010-01-15 | 関東
昭和二七年四月九日午前七時三十四分、大阪経由福岡行き羽田空港発のマーチン二〇二型双発「もく星」は乗客三十三名、乗員四名のほか郵便物二一四㌔、燃料一千㌔を積んで出発したが、約二十分後、消息を絶った。日航の羽田発下り便は約三千フィートで千葉県館山上空を旋回、大島ラジオ・ビーコンに乗って高度六千フィートで大島を通過することになっている。げんに「もく星」の機長は館山からは羽田に通信しているが、大島からは通信がなく、以後ビーコンのコースに当たる静岡県浜松上空のチェク・ポイントでも同様である。当日は朝からの風雨で「もく星」はおそらく地上ビーコンの誘導にたよって計器飛行をしていたと思われるが、レーダーの設備はなかった。




1952(昭和27)年4月9日、羽田空港を離陸した大阪経由・福岡行きの日本航空「もく星号」マーチン202型(プロペラ双発機)が館山上空を通過直後に消息を絶った。同機には米国人のスチュアート機長ら乗員・乗客37人が搭乗しており、八幡製鉄社長や漫談家の大辻司郎ら著名人も含まれていた。

海上保安庁、米軍、日航が合同で捜索した結果、翌日の10日朝、米軍機が大島の三原山御神火茶屋付近で飛び散った「もく星号」の残骸を発見した。連絡を受けた救援隊が現場に駆けつけたが、37人全員の死亡を確認する最悪の結果となった。墜落現場は、遺体やハンドバック、靴などが散乱し地獄絵図のようだった。


「もく星」号は戦後初めての民間航空機で半年前の1951年10月、運航を開始したばかりだった。