Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

太平洋沿岸を飛ぶ (6) - 富士山

2010-01-11 | Fuji


昭和33年9月26日、伊豆半島の狩野川流域は22号台風で壊滅的な打撃をうけた。
のちに「狩野川台風」と呼ばれるもので、天城山系に降った未曾有の豪雨は鉄砲水となって両岸を削り 土石流となり、それによる死者行方不明者は1000人を超えた。
そして奇しくも一年後の同日、「伊勢湾台風」は和歌山県の潮岬に上陸し中部地方を縦断して、死者・行方不明5041人、未曾有の大災害を起こした。


当時、気象レーダーは種子島や奄美大島にも設置されていたが、地球湾曲の影響で、その探知距離は300キロ。台風の速度は50~100キロなので日本に接近する台風を探知してから 3~6時間で上陸してしまう。
昭和35年、気象庁に研究班ができ、標高 3,776mの富士山頂にレーダーを据え付ければ探知距離は一気に800キロにまで伸び、はるか南海の鳥島あたりで台風を捕捉できると発表。そうすれば上陸まで半日以上の時間があり防災上の意義は計り知れないものがあると…。

かくして「富士山に台風への砦」を造るという一大プロジェクトは始まった。

太平洋沿岸を飛ぶ (5) - 富士山

2010-01-07 | Fuji
新田次郎著『芙蓉の人』 は、明治の半ば、高層気象観測の実現のため、富士山頂で越冬観測を試みた野中到、千代子夫妻の情熱と苦闘を描いた名作である。
南極にも匹敵する厳しい寒さと栄養不足で、結局3か月足らずで断念せざるをえなかったが、二人の挑戦は日本の気象観測の発展に多大な影響を与えた。

そして昭和。1964年、“台風の砦”として期待された富士山レーダーが、野中夫妻が冬季観測を行った場所、剣ヶ峰に完成する。

建設の責任者は当時、気象庁の測器課長だった藤原寛人。
そう、『芙蓉の人』の著者、新田次郎その人である。

"芙蓉峰" とは、富士山の雅称である。また、芙蓉は中国では愛情のシンボルだという。つまり、この小説の題名の "芙蓉" とは、富士山であると同時に、献身的に身を挺して夫を支えた妻千代子さんのことでもあるのだ。

2001年秋、レーダードームが撤去された。測候所は無人化され、高層気象観測の拠点としての富士山測候所は、その歴史に幕を閉じた。


冬晴れの富士。
その上空を飛ぶたびに、明治に生きた二人の男女の壮絶なドラマが蘇えってくる。


太平洋沿岸を飛ぶ (4) - 富士山

2010-01-06 | Fuji


彼女は戸口に出たところで目を足もとに投げた。足下はほとんど見ることができないほどの急斜面になっていた。野中観測所の下は大沢くずれの絶壁だから、寝ぼけて一歩踏み外したらそのままだ、などと到が冗談を言っていたがその通りだった。やがて、雪と氷で隙間がないほどに覆われたら、この戸口を出ることさえ、困難だろうと思われた。
麓にやった眼を上げると雪を頂いた山々が見えた。
聖岳を中心にして城壁のように蜿蜒と連なっているそれらの山々の名を彼女は知らなかった。甲府盆地の向こうに八ヶ岳の麓姿が見え、さらにずっと遠くに、穂高連峰が見えていたが、彼女の眼には、ただの山としか映らなかった。山ばっかりで、里はどこにも見えなかった。
彼女は野中観測所の南側を廻って剣ヶ峰の頂上に出た。そこで見た景色の一部は、きのう彼女が登ってきたときに見たものだったが、絶頂で眺める気持ちは別だった。
点々と散在する伊豆七島をかこむ海が、かぎりない拡がりを見せていた。
(新田次郎著『芙蓉の人』より)



厳冬の富士山頂。

寒気がひしひしと2人を攻めつけた。最低気温が零下20度を越える日が続く。
風向、風速、気温そして気圧。
2時間ごとに、1日12回も気象観測を続けた。

想像を絶する過酷な環境下で、重い高山病、睡眠不足、栄養失調などが二人を次々と襲う...


太平洋沿岸を飛ぶ (3) - 富士山

2010-01-05 | Fuji

時代は明治28年。日本は日清戦争などで殖産興業の国策を推し進めていた。
そんな時代に、気象予測の精度を飛躍的にあげるために富士山頂に気象観測所を設置しようとした人物がいた。その名は、
野中到(いたる)と、その妻、千代子。

当時はまだ富士山は雲の上の聖地。特に冬の富士山に登った者は誰もいなかった時に、一気に冬の富士山に登り、冬期を通じて滞在しようとした到の行動は一般の国民には無謀にも思える壮大な計画であった。

私財を投じ、なんとか観測所を完成させた到は、その秋から一人で観測を始める。

一方、千代子は夫を助けたい一心で自分も後を追って登ることを決意する。言えば絶対に反対されるであろう到に内緒で。しかも、幼子園子を実家に預けて・・・。
まるで戦地へ赴く兵士のように、千代子は、水杯の儀式で別れを告げるのだ。

太平洋沿岸を飛ぶ (2) - 富士山

2010-01-04 | Fuji



「天気予報が当らないのは、高層気象観測所がないからなのだ。天気は高い空から変ってくるだろう。その高い空の気象がわからないで天気予報が出せるわけがない。富士山は三七七六メートルある。その頂に気象観測所を設置して、そこで一年中、気象観測を続ければ、天気予報は必ず当るようになる」
(新田次郎著『芙蓉の人』より)




日本で天気予報が初めて発表されたのは、明治17年6月1日。
そのころの天気予報は一日一回だけ、全国を対象にした、簡単な内容であった。

天気は上空から変わる。天気を予報するには、上空の気象データはきわめて重要な資料となる。今日でこそ、気象衛星や気象レーダーなどから地球規模で上空の気象データが得られるが、日本で天気予報が始まったばかりの明治の頃は、高い空の状況を知る術はなかった。


太平洋沿岸を飛ぶ (1) - 富士山

2010-01-01 | Fuji

右手に大島を見て、相模湾に入った。そのころから霞がうすらぎ、左手に伊豆半島の連山が望まれた。
十艘近い漁船らしい小舟が陸岸方向に見えたが、艦隊の姿に驚いたのか、急いで岸の方に引き返してゆくのが見えた。
霞が消えて視界が遠くまひらけた時、艦上の所々で甲高い驚きの声が上がった。北西方向に円錐型をした高々とそびえ立つ山が青空を背景にうかびあがっていた。それは、日本の見聞録に必ず記されている富士山で、頂が白いのは雲か雪かわからなかったが、美しい山容には威厳があった。
(吉村昭著『海の祭礼』より)


1853年7月8日、アメリカの使節ペリーが黒船4隻を率いて江戸湾の入り口浦賀沖に現れた。
4隻の艦隊は、蒸気船の旗艦サスケハナ号(2450トン)、ミシシッピー号(1692トン)と帆船のサラトガ号(882トン)、プリマス号(989トン)。

米国東海岸のチェサピーク湾ノフォークを出航したのは1852年11月24日。大西洋のマディラ島、セントヘレナ島からアフリカ南端のケープタウンを回り、セイロン、シンガポール、香港、上海、琉球、小笠原諸島に寄港し、226日という長い船旅の末、相模湾浦賀沖に碇泊したのは1853年7月8日午後5時頃だった。

太平洋横断航路の開発のために、石炭補給地を見つけ、貯炭所を確保するのがペリーの主任務のひとつであった。
ペリーは黒船に護衛させた測量艇を江戸湾深く侵入させて江戸城の老中たちを威嚇。久里浜において、浦賀奉行に修好通商を求めるフィルモア大統領親書を受け取らせ、再来を約して12日に退去した。

ペリーの来航は、日本を大きく揺さぶり、開国の引き金となった。約200年以上続いた鎖国体制が崩れ、日本に開港を要求する、イギリス、フランス、ロシアなど、西洋列強の圧力も一段と強まった。