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太平洋沿岸を飛ぶ (11) - 伊豆大島・三原山

2010-01-17 | 関東


行方不明の日航機「もく星」号は十日朝、伊豆の大島三原山噴口近くで発見された。機体は散乱し、全員三十七名はすでに死体となっていた。この朝、前日にかわる快晴の空を「もく星」号捜索は、日航、航空局、海上保安庁、米空軍協力のもとに未明から行われ、午前八時三十四分、日航捜索機“てんおう星”号は三原山噴火口東側一キロ、高さ二千フィートの地点に横たわる「もく星」号のバラバラの機体を発見した。一方、ほとんど同時に認め米空軍第三救助中隊捜索機五機のうち一機も同じく「もく星」号の機体を認め、医療隊員二名が惨事の現場にパラシュートで降下し、遭難機がマーチン二〇二であることを確認し、生存者が一人もいないことの報告がただちに極東空軍司令部から発表された。消息を絶って以来二十四時間目に発見された「もく星」号は日本の航空史上最大の痛ましい事故を起こしていたのである。(松本清張著『一九五二年日航機「撃墜」事件』より)



「もく星号」は、第二次世界大戦後の日本初の民間航空機として1951年に就航した日本航空のマーチン202型機(機体記号:N93043 “N”は米国籍)の愛称である。
もく星号は日本航空便として運航されていたものの、第二次世界大戦で日本が敗北すると、日本の占領に当たったアメリカ軍やイギリス軍を中心としたGHQによって、官民を問わず全ての日本国籍の航空機の運航が停止されたことを受け、アメリカのノースウエスト航空(現在はデルタ航空に吸収合併)による委託運航を行っていたものである。パイロットをはじめとする運航乗務員や、運航技術、機体など多くは、ノースウエスト航空からの借り物であった。
さらに、航空管制も米軍基地の管理下であり、ジョンソン基地(現、航空自衛隊・入間基地)のコントロールタワーが管制していた。

墜落原因としては、管制官の指示ミスなのか、機長のミスか、あるいは近くを航行中の米軍の訓練機を避けようとして高度を降下したのか…
運輸省は原因追求のためジョンソン基地の管制塔と「もく星号」との交信テープを要求したがアメリカ側は提出を拒否し続けた。墜落原因は特定されないまま捜査は終了した。

サンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本の空の自主権が回復するのはこの事件の19日後、1952年4月28日のことであった。そして日本人機長の誕生は1954年10月まで待たなければならなかった。