浜名湖は、太平洋を臨む日本のほぼ真ん中に位置し、面積約68.8km2(全国第10位)で、海水と淡水の混じりあった汽水湖である。南部は遠州灘に通じているため、一部では「浜名湾」とも呼ばれる。
明治の随筆家、大町桂月は、「浜名湖は湾入多く、ざっと形容すれば、手を広げたるが如し、手首は今切也」の名文を残した。
古名は遠津淡海(とおつあわうみ)と呼ばれており、遠江の語源となったとも言われる。この時代は、(琵琶湖より)遠い淡海つまり淡水湖として認識されていた。
1498(明応7)年に起きた大地震やそれに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分(砂提)が決壊し現在のような汽水湖となった。
この時に決壊した場所は今切(いまぎれ)と呼ばれ、その後は、渡し舟に頼るしかなくなった。この渡し舟を「今切の渡し」といい、今切口東側の「舞阪」と西側の「新居」に渡舟場が置かれた。
こうして東海道を分断することになった浜名湖を、徳川家康は、1600(慶長5)年、軍事上の理由から「今切の渡し」の新居側渡舟場に関所を設置、東海道では、箱根とともに、最大級の規模を持っており、江戸に不審者が入らないようにするための、重要な拠点となった。
明治の随筆家、大町桂月は、「浜名湖は湾入多く、ざっと形容すれば、手を広げたるが如し、手首は今切也」の名文を残した。
古名は遠津淡海(とおつあわうみ)と呼ばれており、遠江の語源となったとも言われる。この時代は、(琵琶湖より)遠い淡海つまり淡水湖として認識されていた。
1498(明応7)年に起きた大地震やそれに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分(砂提)が決壊し現在のような汽水湖となった。
この時に決壊した場所は今切(いまぎれ)と呼ばれ、その後は、渡し舟に頼るしかなくなった。この渡し舟を「今切の渡し」といい、今切口東側の「舞阪」と西側の「新居」に渡舟場が置かれた。
こうして東海道を分断することになった浜名湖を、徳川家康は、1600(慶長5)年、軍事上の理由から「今切の渡し」の新居側渡舟場に関所を設置、東海道では、箱根とともに、最大級の規模を持っており、江戸に不審者が入らないようにするための、重要な拠点となった。