林 住 記

寝言 うわごと のようなもの

敗戦記念日の空

2007-08-15 | 遠い雲

 昼は、竈の中のような池袋で、社長さんのご馳走になった。
簿記学校の同窓生で、田舎に退却しちゃった森男とは異なり、まだバリバリである。
ありがと、また、ね。

  人影絶えた駅前円覚寺の森

 夕方、お盆の最中なので実家に行って、ここ1年で急に賑やかになった仏壇に合掌。

 北鎌倉も猛烈な暑さと、強い光である。
兄の家は冷房があるのに使わない。いくら木立に囲まれているといっても、この暑さでは身体に悪い。その証拠に寝ぼけたことを言っている。

 これからは、お寺にもきちんと寄付をするように。イザという時のために。

 春先死んだ叔母は、兄が叔母の貯金から、漱石の門の修理代の一部を寄付した、と報告したら、いたく喜んだ由。
 なに、あの締りやの叔母さんのことだから、甥の負担で、自分名義の寄付をしたと勘違いして喜んだのサ、と言ったらムッ。

 まだ、死なない門ね。

 でも、義姉には、誠心誠意真面目に、感謝している。
母の一周忌を前に、全てが終わり、寸志を無理やり受け取って頂いた。
亭主でなく、友人か姉妹と、贅沢な旅行を楽しんで下さいね、と言って。

 空は青黒く、木々の梢は際立ち、木陰は深い。

 62年前のあの日と同じ、濃い空の色。だが、こんなには暑くなかった。

 どういう訳か、玉音放送の記憶は全く無い。しかし、建長寺内の中学生達が、炎天下、道一杯になって、大船の勤労動員先の工場から、ぞろぞろと無言で帰って来た異様さを覚えている。

 爆撃を免れた鎌倉は、直接的な被害は無かったが、子供心にも馬鹿馬鹿しく理不尽な事どもを思い出す。

 ・小学校の校庭で薩摩芋や玉蜀黍を栽培したが、収穫物はどこへ行った?
 ・道の歩行は機銃掃射危険あり、と庭伝いの小学生も使わぬ小道を作らされた。
 ・兵隊の布団綿代わりのススキの穂を集めさせられた。
 ・爆風除けに、布団は押入れの前に積み上げ、警報があると押入れに避難した。

 暑い兄の家を早々に退散。義姉からはお土産をどっさり。感謝感謝。

 鎌倉山の叔母の個室には冷房が入っている、と聞いて、見舞うつもりで北鎌倉駅で殺人光線に炙られていたら、秋になったら行こう、と気が変わってしまった。

 大都会、池袋は夜になっても暑かった。
内陸、高麗の家も、物凄く、暑かった。

 今日、群馬県館林は40度を超え、埼玉県寄居は40度寸前。関東平野13箇所で、観測史上最高温度とか。

 やはり、お寺には寄付をしておいた方がいいようで......。


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