「海女」森男
三島由紀夫の「潮騒」には参ってしまい、挿絵を描きたくなったのだ。
おおらかな青春賛歌が誠に好もしく、何回も読み直した。今なら、アラ探しをするだろうが、当時は森男も純粋だったのだ。
上は伊勢志摩の海女さん。中は若い漁師。下は笛を吹く少年。
どちらも、モデルは無く、ああでもない、こうでもない、と何度も書き直し、最後は版画にするつもりが、草臥れてしまい、切り絵風と版画風に纏めたものです。
少し自慢すると、下を除き、当時の「サンデー毎日」に掲載されて、1枚1000円の謝礼金を頂き、有頂天になったものである。重ねて言うが、当時の森男は純粋だったのだ。
実際に志摩に行ったのは53歳になってからだ。
鳥羽市浦村の白浜海岸に芸術村を造る、というバブルな事業に係ったのである。
嬉しかったねぇ。美しい海女に逢える、素朴な漁師に知り合いが出来る、ハイブロウなゲージツカに近づける、と。
白浜海岸は入江の小さな海岸。浦村に属しているが、漁業権は隣の石鏡(いじか)が持っていた。
石鏡は歌謡曲界の鳥羽一郎山川豊兄弟の出身地。
農漁兼業で豊かな浦村に較べると、気の荒い狭い漁村です。
違っていたらごめんなさい。
パールロードから海岸に下りる道が無いので、観光客には殆ど知られておらず、石鏡の旅館のお客が、教えられて来る程度だった。
旅館組合の昼間労務対策として、海の家を開業するように迫られて、会社は儲かりもしないのに、10年前からこの海岸で食堂付き本格的な海の家を営業していた。
石鏡の海女さんたちが天草を採りに来る、と聞いて待ち構えていたら、御木本の白装束美形集団ではなく、やって来たのはオバサン海女軍団。尼寺へ行きゃれ、だった。
丸太のようなお身体を黒いゴム製のウエットスーツに捻り込んで、まるでオットセイが立ち上がったよう。
「漁師」森男
現実は惨憺たるものでしたよ。でも、今になってみると、面白かった。
本社の連中は、地元の人たちを我利我利亡者と看做して、嫌い、軽蔑していたけれど、わが社は迷走に次ぐ迷走で、嘘ばかりついて13年。信頼されていなかったのだから、勝手なことを言われるのは当然。
でもね......。
浦村漁協へ文具を買いに行くと、西瓜をご馳走してくれた上に、代金は受け取らなかった組合長さん。お祭りも楽しかった。
天然モノのハマチの刺身を鱈腹ご馳走してくれて、奥方特製の匂わない美味しい毒だみ茶を飲ませてくれた定宿のご主人。牡蠣の佃煮はいまいち。
森男の会社の経費で、沢山の有名レストランを案内してくれた浜島町の元勅任官閣下。どうせなら、もっと。
県庁奥の院まで案内して、秘密とお歴々を紹介してくれた県のお偉いさん。厳しいことを言われ続けたが、森男引き回しを自慢していた風。
ビジネス料金で、ロイヤルスウィートルームに泊めてくれた有名ホテルの総支配人。生涯最多忙、最贅沢だった。
献身的に地元を案内してくれた下請け土建会社好人物アル中課長。肝不全で亡くなってしまった。黙祷。......奥さん元気になったろう。
散々悩ませてくれた海の家のアンチャンたち。勢揃いして、磯部の料亭の鰻尽くし、経費の出所実は知ってたぜ。
それに、ヤクザの怖いお方々。
森男の八つ当たりを受け止めてくれた坂手島の綾ちゃんの若いパパも。
みんなみんなみんな、本当に有り難う。
終わって見れば、酒と薔薇の日々だった。芸術村は実現出来なくて命拾い。
代わりに出来た超豪華ホテルは、人手に渡り、誰も、知らない人ばかり。
「磯笛」森男
簡単に行けるけれど、ほろ苦さが甘くなるまで、あと10年は行かない方がいい。
だから、HPでこっそり楽しんでいる。
「磯笛」 海女が水中作業を終えて、水面に浮上したときにつく息。口笛のように聞こえる。
笛など道具は使いません。
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