雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

いいお年をお迎え下さい

2006-12-31 06:58:54 | 発想$感想
今年も、とうとう大晦日になりました。

9月から、突然始めた「雑感日記」ですが、大勢のの方に読んで頂き有難うございました。
コメントなども大いに励みになりました。

昨日の夜、突然息子一家が来ることになり、伊丹まで迎えに行きました。
正月三が日は、久しぶりに賑やかになりそうです。

「カワサキ単車の昔話」途中ですが、少しお休みさして頂きます。

皆様、どなた様も、いいお年をお迎え下さい。


ブログが簡単に英訳できること知りませんでした。
正月休みに、英語の勉強でもしてみます。
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1980年代前半 昔話ー18

2006-12-30 06:30:19 | カワサキ単車の昔話
「1980年代 苦難と激動期」-(1)80年代前半

1970年代は各メーカーとも積極的な海外進出と新車投入により、業容の拡大を実現し世界の二輪産業を席捲する成長を遂げた。

1980年代に入る頃から、急激な成長のひずみが見られるようになり、この対策が大きな課題となったのである。

1.ハーレー社のダンピング訴訟問題
2.HY戦争による影響

そしてカワサキだけの問題であったが、
3.UAWの労働問題

ダンピング問題は、アメリカ市場での価格が国内価格に比し低過ぎるためにハーレー社が損害を受けた、と提訴したのである。
カワサキでは、当時の国内販社の「赤字や経費率」がダンピング問題に直結して解決を要する問題として浮上したのである。

これに対しては、国内販社の再編成、構造改革を行い赤字体質の脱却を図った。
部品会社の分離も経費対策の一環であった。
幸い、Z400FX、400LTD,250FTなどのヒット商品の投入もあってこの問題は意外にスムースに解決をしたのだが。

このあと続いて、国内の50ccのシェア競争に端を発した「HY戦争」は、アメリカ市場にまで飛び火し、全メーカーに影響を与えることになった。
過剰在庫になり値引き競争は激化した。
83年にはアメリカ政府はハーレー社を守るために700cc以上の輸入関税の増額を決定するなど輸入規制の措置を講じたりした。

これに関連して、在庫圧縮のためのKMMの生産調整が、UAWの労働問題になり大問題となった。

更に、当時アメリカ全体で問題となっていた、PL問題も経営の足を引っ張るものであった。

これらの問題が一挙に出て、81年頃から事業部もアメリカ側も苦境に追い込まれるのである。

これらの問題は、財務、資金、法規の要素が多かったため、この解決のため本社専門スタッフによるプロジェクトチームが編成され、アメリカ側、事業部とともにドラスチックな対策が打たれた。100億円の桁の大掛かりな対策であった。

この対策の効果は直ぐに現れ、カワサキの単車事業存亡の危機を救ったのだが、財務対策などが中心であったので余り広くは知られていない。
私は、たまたま前半国内販社、プロジェクトチーム発足と前後して企画担当となったので、その経緯を知っているのである。

UAW問題は、その後も尾を引くがこれは主としてKMMの佐伯さん以下の努力で乗り切ることが出来た。

この時期、これら問題に対応された人たちの名前を、思い出す範囲で、順不同で。

本社サイド     大西、堀川、松本、児玉、砂野、横山、田中、武内、佐藤、小川,松岡,中間、原田さんなど

アメリカサイド    田崎、高田、佐伯、野田、奥寺、富永さんなど

事業部サイド    青野、高橋、内田、五百井、前田さんなど

この問題の解決は、事業部だけの力ではとても解決できる種類のものでなかった。
このような大きなプロジェクトを、本社と現場の協力で成し得たことは、その後の単車事業に非常にいい影響を与えたと思う。
本社のスタッフも若い人たちが多かったし、このプロジェクトのお陰で単車への理解も深まったし、単車フアンも出来た。

こんな激動期を乗り越えて更に進むのだが、いろいろと激動の時期はまだ続くのである。


「ダンピングやHY戦争を調べていて「二輪車産業に関する私的考察」に出会いました。二輪車産業に関心のある方にお奨めです。
ダンピング以下の件、参考にさして頂きました。」

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1970年代、成長期 昔話ー17

2006-12-29 06:29:32 | カワサキ単車の昔話
「1970年代 成長期」

1970年代は、カワサキの単車事業にとって、アメリカ市場を基盤とした成長期であった。

68年に設立したKawasaki Motors Corporation(KMC)をベースに、全米に事業を展開し業容の拡大を一途に目指した時期と言えるだろう。

商品としては世界の名車と言われたZ1が72年に、ジェットスキーが73年に発売され、販売の拡大に世界的に拍車がかかった。

74年には、現地に生産会社KMMを設立し、ホンダやトヨタさんよりもずっと早く、75年にリンカーンで現地生産を開始した。

カワサキの事業展開の基本コンセプトとして、今もなお全世界で受け継がれている

「Kawasaki Let The Good Times Roll」

カワサキに出会うすべての人たちにGood Timesを、すべての人たちにHappyをという「Good Timesコンセプト」は73年に造られ、全米に拍手をもって受け容れられた。

このようなアメリカでの事業展開は浜脇洋二さんをリーダーとする当時30代前後の若い人たちと現地マセック副社長以下のアメリカの人たちで成し遂げられ、単車事業のあらゆる分野の牽引力となった。

特に、アメリカと呼応して技術開発力の強化は特筆できるものでであったと思う。
Z1,Z2を筆頭に、H2,KHシリーズ、Z1100,1300,Z400FX、400LTDなど70年代後半にかけて続々ヒット商品を世に送り出したのである。
レースでも、デイトナでのH1Rや後半KR250のGPなど素晴らしい活躍の時代であった。

この時期の技術部は高橋鉄郎さん以下、渡辺、大槻、稲村、百合草さんなどその後の技術部門を引っ張った人たちで構成され、ある意味では技術部門が一番元気があり、うるさかった時期かも知れない。

他の部門、例えば部品部門も自動供給システムの大規模なものを造り上げたし、実験研究部門、サービス部門も見違えるほど立派になった。
桑畑、田崎、北村と続いた部品、実験の糠谷、サービスの田村さんとみんなユニークな侍ばかりが居たように思う。

後半は塚本本部長の時代で、人事もようやく全社的な見地で行われ、青野、堀川,酒井、佐野,永友、佐藤、森田さんなどが加わった。

堀川さんを長とした企画室は、高橋(宏)坂口、田崎,田付、武本、森田,佐藤、繁治さんなど、後の川重や単車を支えたメンバーで構成されていた。

欧州市場への進出も図られ、イギリス、ドイツに販社が設置された。

このように成長を続けた事業部も、70年代の終わり頃には、陰りも見え始め新しい市場を探すべく、CKDの市場開発室が高橋さんを長に設置され活動を開始した。藤浦,石井、佐伯さんなどがいた。

この間、私は前半5年は国内でZ2で、はじめてバックオーダーが2年も続く営業を経験し、新しい販売網、特約店制度の確立に没頭した。
後半5年は、約10年の出向から戻り、企画室の後、市場開発室で初めて海外を経験した。

みんな、まだまだ若かったし、一番面白かった10年であったかも知れない。








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創生期 昔話ー16

2006-12-28 06:34:57 | カワサキ単車の昔話
今年も後余すところ4日になった。
今年ではなく、永くお世話になった単車事業について40年間を振り返ってみることにした。

自分勝手に1960年代、70年代、80年代、90年代の4期に分けて昔話として気軽に書くことにする。
同じ時期を一緒に過ごされた方も多いのだが、そんなこともあったと昔を懐かしんで頂けたら幸いである。

1960年代 創生期
1970年代 成長期
1980年代 苦難&激動期
1990年代 安定成長期 
解りやすくする為に、ざっと4期に分け、何回かに分けて書いてみたい。


「1960年代 創生期」

私が単車の営業に配属になったのは、1961年12月である。
既に単車事業はスタートしていたが、まだB7や井関のタフ50などの時代で、この頃から単車に居られた人は少ない、そんな時代であった。

アメリカの販売会社KMCの設立が68年、3社合併で新しい川崎重工業がスタートしたのが69年だから、ほぼそれまでの10年間である。

国内市場だけで、一時は事業中止と思われる時期もあったのだが、B8が何となく売れて、青野ヶ原のモトクロスで運よく勝って、日本能率協会の調査の結果脈ありと判断されて、単車再建が決定された。

事務屋は本社や勤労などから、技術屋は主としてJET部門から集められた。
岩城常務も単車事業部本部長に着任された。

事務屋では、  塚本、矢野、浜脇、北村、種子島、前田、岩崎、藤田さんなど。
技術屋では、  高橋、桑畑、田村、石原、田崎、大前さんなど。

元から単車の人は技術部を中心に   
山田、堀江、中村、井出、渡辺、大槻、安藤、高橋(宏),川崎、稲村、百合草、野田、井川、大西さんなど。

国内販社関係では、   
田中、苧野、清水屋、加茂、松田、池田、永田、内田、小竹、平井、大井、石塚,宇田川、岡島、富永、さんなど。

レースメカニック、ライダー関係では
水町、松尾、福田、藤原、榎本、加藤,飯原、清原さんなど。(社内)
三橋、安良岡、金谷、山本、歳森、梅津,岡部、星野さんなど。


抜けている方も当然多いと思うが、その後もずっと永く単車に関係した人や私の印象に残っている方を、勝手に挙げさせて頂いた。
名前を並べただけで当時が思い出せるから不思議である。

この時期は、国内、海外の第一線に初めて出た人も多い。
国内には、矢野、野田、井川、岩崎、藤田さんや私。
海外には、浜脇、安藤、田崎、種子島、内田、野田さんなど。
みんな若かったが無茶苦茶頑張ったその頃の経験が、その後本当に役に立ったと思う。

苦労も多かったが、
国内、海外とも、レースチームが活躍したこと。
国内だけでなくアメリカ市場への進出し希望が見えて来たこと。
W1,A1、H1など話題のの大型スポーツ車が発売され、「スポーツのカワサキのイメージ」の基盤が出来たなど、明るい話題もまた多かった。

60年代前半には、未だ三菱重工業、富士重工業、新明和工業、トーハツ、ブリジストンなどの大企業をはじめ多くの企業がこの業界にいたのだが、
この厳しい競争の中でカワサキだけが生き残れたのは、
大型スポーツ、海外市場をメーンと位置づけた基本戦略が間違っていなかった結果だと思う。

将来ホンダ、スズキ、ヤマハに伍して、二輪業界の一翼を担うことに繋がったことは、この大きなコンセプトを確立された先人たちのお陰であり、敬意を表したい。

個人的に関係の深かった人は、
苧野さんは直接の上司として、山田さんはレース関係で、高橋さんとはレースと国内の販社でお世話になった。
一緒に仕事をした仲間と呼べる人たちは、レースで大槻、安藤さん、メカニックやライダーたち、田崎さんとは、組合の常任幹事、TVの源平芸能合戦出場、レースなど。東北時代の宇田川、石塚さんなど、ずっと後までのお付き合いだった。

66年にはカワサキオートバイ販売への社名変更、68年にはアメリカKMCの設立、そして、69年には川重、川車,川航の3社合併があった。
まだまだスタートしたばかりの単車事業であったが、将来の基盤は築かれた、そんな時代であった。

私自身は、単車営業、広告宣伝、レース、東北営業を担当の時代であった。

この時代を一緒に苦労した人たちの「仲間意識」が、「単車事業部独特のいい雰囲気」のベースになっている。

 
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日記帳&ブログ

2006-12-27 07:13:49 | 日常生活、園芸、バラ
今年も本当に押し詰まった。もうあと数日である。

5年間お世話になった日記帳も、もう残り数ページになった。
その薄さが今年も本当に残り少ないことを実感させてくれる。

永年日記をつけてきたが、今年ほど日記が現実に役に立ったと思ったことはない。
今まで眠っていた日記帳を持ち出して、ブログを書く資料として使い出すと、何か会社の生活に戻ったのではないかというような錯覚に陥る。

「カワサキ単車の昔話]など発信し出したが、書き出してみると40数年という会社での生活は永いもので、別に時系列にこだわっている訳ではないのだが、何時になったら後半の話に入れるのかと、自分で勝手にいらついたりしている。

来年からも5年連用の日記帳を買ってきた。

今までは、何となく「5年といってもこんなことだろう」と予測出来たが、今からの5年は本当に未知の分野に入って行くように思える。
まさに想定の範囲外である。

生き方によって、アタマも体力も差が出るように思う。
5年の日記帳を無事書き終えて、5年先の年末に、「もうあと数ページだ今年も押し詰まった」と同じ感想を書けるように頑張りたいものである。

過去の既に過ぎてしまった事柄が、日記帳のお陰でもう一度整理が出来つつある。
且つこれからの生き甲斐にもなるであろう「ブログ」を新しく発見できたのは幸いであったと思う。

自分だけでなく、今までお世話になったいろいろな分野の方にも、幾らかでもお役に立つ「ブログ」になればと思っている。


ブログについて言えば,昨日やっと「りンク」のやり方が解った。
1週間ほど本を見たり悪戦苦闘を繰り返したが、出来てみると馬鹿みたいに簡単で便利ある。
子供が自転車に乗れた心境である。年内に出来て安心して年が越せる。

関連記事
50年間の日記とブログ
カワサキ単車の昔話
日記帳5年連用
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金谷秀夫君のこと

2006-12-26 06:35:29 | M/Cレース

ヤマハのGPライダーとしての金谷の実績は素晴らしいものがある。
1975年オーストリアGPでの500cc、350ccのダブル優勝など,ロードレースに於ける彼の天性みたいなものを感じる。

1965年6月。カワサキはスズカ6H耐久レースにはじめて正規のロードレースチームとして参戦した。
3チームの出場であったが、歳森康師がパートナーとして選んで連れてきたのが、神戸木の実の金谷秀夫であった。

そういう意味では、金谷がカワサキでの最初のロードレース専門の選手であったと言える。
その時から確かに早かった。片山義美の秘蔵っ子と言われるだけのものを持っていた。
66年10月FISCOでの日本GPのジュニア250でヤマハのG,ニクソンとの勝負は、私の脳裏に焼き付いている。

先日、記録を調べてみたら、3位の三室とは37秒、4位和田とは1分14秒差で、6位以下を一周遅れにしている。
最高ラップを2分14秒27で金谷、G、ニクソンが同タイムで取っている。
その日の350ccの最高ラップが2分18秒56であることからも、如何に二人が飛びぬけて早かったことが窺がえる。

たった2年間ほどの付き合いだったが、当時カワサキはロードレースはまだやり始めたばかりで、マシンは開発途上であったし、安良岡と金谷には本当に苦労ばかり掛けていたと思う。
金谷にはレース以外にも、A1の名神高速での走行テストなども手伝って貰った。

さっぱりした性格で、ちゃんとした意見をはっきりと言ってくれた。
彼が意見を言ってくれたお陰で対処を間違えずに済んだこともあった。

私が東北に行ってからも、いろんなことで手紙など頂いた。
ライダー諸君とはいろいろあったが、手紙をもらったのは金谷だけである。
短い期間ではあったが、私にとって一番印象に残っているライダーかも知れない。

そんなことで、SPA直入のオープンの時には、清原
和田、宗和、鶴田などと共に、金谷にも来て貰ったりした。
90年11月の彼の恩師、片山義美君の引退パーテイは金谷が取り仕切っていたが、逆に招待を受けて出席しご挨拶などさして頂いた。

清さんに聞いた話だが、先日のオートポリスのレースの前に、往年の名選手たちが走行したという、片山、清原などと一緒に金谷も走ったそうである。

機会があれば、是非一度会いたいライダーの一人である。

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吉村太一君のこと

2006-12-25 06:23:15 | M/Cレース



先日、ダートスポーツに「MFJ全日本モトクロスの思い出」を紹介して頂いたが、直ぐ下に「日米欧モトクロスチーム首脳、スズキ本社に集結」と題した記事の紹介があり、開いてみた。

そこにチームスズキ全日本モトクロス総監督として吉村太一君が大きな写真で載っていた。
永らく会っていないので、直ぐには「太一ちゃん」とは解らなかったが、よく見ると面影が残っていた。
まさしくあの人懐こい吉村太一君がそこにいた。

レースに関係して、カワサキ以外の方ともいろいろ懇意にして頂いたが、
彼とは何となくご縁があって、特にお付き合いがあった訳ではないのだが、親しくモノが言える「太一ちゃん」と呼べる関係になっている。

 

    

 先頭を走るのが吉村太一、追っかけてるのが星野一義である。

星野一義と殆どデビューが同じで、当時スポニチの西日本モトクロスなどで二人はしょっちゅうデッドヒートを演じていた好敵手であった。
18才ぐらいの頃、少なくとも20才前の「太一ちゃん」とが最初の出会いである。

その後、二人とも順調に成長し日本を代表するライダーに成長していった。

レース場で出会うのは当然であるが、不思議に彼とは思わぬ処で出会っている。
彼が覚えているかどうか。

1967年、MFJ全日本モトクロスの1~2日前に郡山市内で一人で歩いている彼を見つけて、私は車だったので送ってあげた。(冒頭に書いた全日本モトクロスのときのことである。)
送り先は多分モトクロス会場だったはずだが、それは覚えていない。
ひょっとしたら会っただけかも。人間の記憶は本当に頼りない。

1973年2月11日。カワサキのファクトリーライダーだった竹沢君の結婚式で。
私は別の結婚式に仲人で出ていたのだが、その帰りに見つかって「入れ、入れ」と急遽、披露宴に飛び入りで引っ張りこまれた席で出会っている。
この日の日記に「吉村太一君いい挨拶をした」と記述しているから、これは間違いない。

三度目は、札幌の行く飛行機の中で、「どこに行くの?」「これは千歳にしか行きません」などという会話を交わした。

1回目はともかく、2,3回目の出会いは、「太一ちゃん」の誰とでも幅広く付き合い、世話をする人柄が表れている。
北海道もモトクロス場の開発か何かで、札幌のデーラーの手伝いに行くのだと言っていた。

どういう関係でそうなっているのか、詳しくは解らないのだが、堺の㈱忍者の伊藤さんと名古屋のミスターバイクの斉藤さんとの三人の仲は親密である。

昨年、伊藤さんに呼び出されて飯を食った時も、「太一ちゃん」に電話をしその時久しぶりに私も彼の声を聞いた。
つい最近、斉藤さんにスズカのツインサーキットのことで電話した際、「来春ゴルフセットします。太一も呼びますから」と誘って頂いた。

何となく合うのだと思う。
そんな意味では、私もその仲間に入れて貰えているようで、光栄である。

立派に事業を展開しておられるが、自分の事業だけでなく二輪業界、レース界などと広い視野で実際に幅広く活動されているのがいい。


このブログに登場した若い人たちが立派になり、夫々の分野で活躍されていることは嬉しい限りである。
その若いと思っていた人たちも、考えてみるともう結構トシである。
私が老けるのも仕方がないと思う。

 

   

 

 これが最も最近、マウンテンライダース50周年記念パーテイーの時、 私が80歳の誕生日の3月2日のことである。

 太一ちゃん、気を使ってくれて私に花束を贈ってくれたのである。

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Z1会総会

2006-12-24 07:09:07 | ジェットスキー&KAZE
第3回Z1会総会があり、私は出席出来なかったが、議事録が送られて来た。

「カワサキの名車Z1を限りなく愛していることを宣言できる人」
なら誰でも会員になれるゴルフコンペ会である。
会長はZ1の開発チームリーダーであった大槻さん、副会長はエンジン設計を担当した稲村さんが務めている。

年4回、三木セブンで開催される。
会員は現在51名、来年は4月4日、6月6日、9月26日、11月7日と決まっている。

いろんなゴルフコンペグループがあるが、このZ1会は際立って素晴らしい。
こんないいコンペグループは、探してもなかなか見つからないと思う。
順不同でその良さを列挙すると、

1.とにかく参加メンバーが幅広く、その雰囲気がいい。

エンジン設計、車体設計、実験研究、デザイン、生産、品質保証、企画、営業、部品、などのメーカーとしての全ての部門はもとより、海外、国内の販売会社、CKD,国内の現役販売店経営者、、元有名ライダーまで。
二輪事業が間違いなく展開できると思われる、横の広がりがある。

2.殆どがOBであるが、現役もいる。メンバーは増える一方である。

元川重常務というエライ肩書きのひとも何人もいるのだが、会社の位で言えばそんなに威張れない人もいる。
然し、それが全然感じられない横一線の仲間意識で繋がっており、会話も極自然で何の遠慮も要らないところは、特筆できる。「これが一番いいところだと思う。」

3.事務局の仲さん、栗島、藤原さんの事務局運営が特にいい。

仲さんの年間スケジュールから、案内まで見事である。
出席メンバーは当然だが、今回の欠席者はと明示されるコンペ案内は珍しい。その分、出席状況がいい。
栗島さん特製の優勝盾Z1プレート、毎回の写真素晴らしい。プロだから当然。
藤原さん、F21M時代の山本や星野を支えた名メカニックである。今も縁の下で支えている。

4.今回の総会の報告なども、下手な会社の議事録などよりは、臨場感もあってよく解るし、立派である。

5.東京から藤木さん、九州から井上さんなど遠くからの参加もある。参加の価値があるのだろう。

6.まだまだあるが、最後に会長、副会長がいい。
そう私が言い切っても会員から文句が出ないこと請け合いである。


どんな連中がいるのか、
レース関係では、ライダー出身、清原明彦、塚本昭一、元BSのGPライダー的野征治、カワサキではじめてのモトクロス青野ヶ原、やロード6H耐久に出場の飯原武志くんなど。
レース監督経験者やメカニックは沢山居りすぎて書けない。

バイクショップでは、現役で東京、エム、エス、エルの藤木君、兵庫、エントリーの山本君、プロショップkiyoの清原君,カワサキマイスターの森田君

OBが殆どだが、結構元気でH5を筆頭にシングルが4人もいる。
チームグリーンの監督をしていた重本修次郎くんは、H5である。
逆にH50も3人いる。68才以上がシニアで18名である。

総会での来年への抱負抜粋
大槻さん 「来年は絶対 100以上は叩かない」と豪語。 
稲村さん 「今年はシニア2位2回、もう少しだった。ハンデイ減って優勝程遠い、然し頑張る」 
清原さん 「19回4月4日は優勝する。ウマを買って下さい」 パチンコよりゴルフが好きになったとか。  
山本さん 「川重バイク現役担当者を招待して苦言を」 元品証、今販売店の立場から? 
山下さん 「上手くなるためには、ゴルフを好きになること」 H5から全員への訓示?   
など、など。

今年のMVPは飯原武志君でその受賞理由は
「大病を患ったにも拘らず、1回だけの欠席で、馬名「カイキン。オー」の名に恥じないこと。
最近、清原君とよくゴルフをして、清原会員にやる気を起こさせた功績大であった。」ことのようです。


今年の総会には、㈱クレタのカワサキバイクマガジンから北村社長と編集部から4人が特別参加され取材されたようです。
また、北村社長は名誉会員になられたので、今年のコンペには、一度は参加されるとか。

ざっとこんな感じで、来年のコンペ幕開けが楽しみである。

ちなみに私の来年への抱負は、
「家から10分程で行けるし、入会以来皆勤と思うので、来年も4回全てに出場したいと思っています。H12になりましたが、もう一度シングルを狙ってみます。」

総会に欠席してもこれくらい書けるのは、議事録の良さです。


「カワサキの名車Z1を限りなく愛していることを宣言できる人」は会員になる資格があります。如何ですか。
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2007年はどんな年に

2006-12-23 06:52:59 | 発想$感想
世の中情報が満ち溢れている。
情報収集は非常に重要と思うが、最近はいろんな便利な仕組みがあって、パソコンの前に座っているだけでいっぱいの情報を得ることが出来る。

Googleのニュースアラートのように、関心のある「言葉」を入れておくだけで、先方からそれに関するニュースをその都度送ってくれるような便利なものもある。

博報堂の未来年表では、2007年以降の予想されるいろんな分野での社会の出来事が整理されていて、簡単に見ることが出来る。
2007年に予測されている面白そうな出来事を幾つかピックアップしてみると、

デフレが解消する。経済成長率2.1%。ちなみに2008年は2.9%。

北海道の外国人観光客54万人(2006年比86%増)

日本初の公道グランプリ「チャンプカー小樽」が開催される。

袖ヶ浦サーキット(2.4キロ)オープン。

団塊の世代が定年を迎え、SNSを利用した新たなライフサイクルを創造する。

厚木市で電気自動車の税金がゼロになる。

中国の自動車メーカーが米国市場に参入、5モデルを投入する。

ブログ開設者が782万人に、月1度以上の閲覧者が3455万人になる。
2008年には、アフリエイト広告市場(パソコン、携帯)が1064億円に。

日本フットサルリーグが開幕する。  などなど。

デフレ解消、好況は続く予測で楽しいことも多そうだが、一方地方の県や市の人員整理も今後延々と続く予測である。

ブログやSNSといった新しい流れは今後更に進むと予測している。
今朝のGoogleアラートで、野村総研の調査だが、2011年にはブログ数1800万、SNS登録数5100万を超え市場は1706億円に拡大するという。

このような世の中の流れに乗り遅れないように気をつけるべきと思う。
流れに乗ると楽に泳げるし、逆らうとむなしい努力を重ねるだけに終わってしまうものである。


小林ゆきさんのブログで見たのだが、
来年は、マン島TT100周年で記念事業としてレジェンドラップが行われ、アゴスチーニ、フイルリード、レッドマンなどの懐かしいライダーたちが出場するという。
TTレースなど、どうなってしまったのかと思っていたのだが、100年の歴史、伝統の重みはすごいものだ。
もう宿が取れぬほどの人気だとか。


朝、1時間ほどで得た情報の一部である。
ヤマほどある情報の中から自分の関心事に絞って取れるのがいい。便利になったものである。

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ものを金に変えるー4 昔話ー15

2006-12-22 06:53:49 | カワサキ単車の昔話
「ものを金に変える」-4

「ものを金に変えること」の難しさを書いてきたが、「ものが簡単に金に変わること」も現実には多くの例がある。

物を売る商売に於いては、商品力がそれを左右する。
カワサキでの永い営業経験の中で、幾つもの優位性のある商品を持って営業をした時期がある。

国内市場に限って、そのベスト3を挙げるなら、
Z-2,Z400FX,そしてZEPHYRだろう。

Z-2はカワサキがはじめて胸を張ってNO1バイクと言い切れた、そんな商品であった。
Z-2で国内の新しい販売網、特約店制度が出来たと言っていい。

Z400FXは、破綻寸前にまで追い込まれた販売会社を1年で復活させたと言ってもいい、そんな記念すべき大ヒット商品だった。

ZEPHYRは、まだ記憶に新しいが、予想もしなかった大ヒットで、他の商品の販売にまでも好影響を与え、カワサキが国内ではじめて7万台の販売を達成した。

いずれの時期も、バックオーダーは2年にも及び、金の回収に頭を悩ますことは全然なかった。
いずれの時期も、その営業を担当できた幸運に感謝したい。
ZEPHYRの時期は、国内の販社の銀行借入金はゼロ、所謂無借金の超健全経営であった。


このようなことから見ても,如何に商品力が事業を左右するか、技術開発がこの事業の最優先課題であるかが解る。

然し、商品力は競争相手の商品との比較において評価されるので二輪業界のように厳しい競争が絶えず展開される中で、常にベストの商品をもって戦うことは難しいと言わざるを得ない。
超ヒット商品をもたぬ時期にでも、自然に「ものが金に変わる仕組み」を構築し、体質化することが必要である。


「ものを金に変える」のは難しいのだが、「金をものに変える」のは至極簡単なのである。要注意である。


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私の今年の3大ニュース

2006-12-21 06:15:32 | 日常生活、園芸、バラ
http://www.city.miki.lg.jp/index.html

今年も、もう終わりに近い。
今年の私にとっての3大ニュースを挙げると、次の三つになる。

新しいアイアン。
ブログ。
三木市。


昨年暮れ、新しいアイアンを買った。
やはり世の中は進歩していることを実感した。
2番手は、前のものと完全に違う。
アイアンだから飛ぶのがいいとは限らないが、アイアンが飛ばないことに何となく劣等感を持っていたので大いに気をよくしている。
150ヤード7番で打てるようになって、大げさに言えばゴルフが変わった感じである。


9月9日からブログをやりだした。
今は、はまってしまっている。
世耕弘成氏と樋渡啓祐氏のブログに関するコメントが直接のきっかけである。
更にその前のきっかけとなったのが三木市である。


三木市。
人口85000人の兵庫県の神戸と明石の北にあるまちである。
三木に移り住んでもう33年にもなる。

今までに、一度も三木市政などに関心を持ったことなどはなかった。
去年の末か今年の始めに、市長選挙があって10何年ぶりに新しい市長になった。

4月になって、ふと見た新市長の市政方針の中に、夢、ビジョン(イメージ向上)を見つけて4月半ばに市長メールを打ったのが始まりである。

夢、ビジョン、イメージ。
いずれも難しい課題である。
今までに94通、「三木市のイメージ向上」にテーマを絞って発信している。

7月末に、薮本吉秀三木市長は「日本一美しいまち三木をめざす」という基本コンセプトをスローライフなまち造りとともに宣言された。
その後の行政はこの基本コンセプトにすべて基づいて進められている。

1通目のメールで
「H/pは三木市の顔です。今のままではいつまで経っても、三木のイメージは上がりません。有名になったりはしません。」
と書いたH/Pも、現在は全国のトップレベルに匹敵する、或いはその先を行くまでに立派なものになっている。

基本コンセプトを前面に掲げて、行政を推進しているところは、殆どない。
あったとしても「前面に明確に」は発表されていない。
そういう観点では、三木市は全国の最先端を走っている。
来年は更なる飛躍と実現を期待したい。

この間、自分の勉強のためにも全国のいろんな都市のH/pをみて、いろんなことが解った。
地方行政は、へたな民間企業より余程面白いし、面白くやれる要素いっぱいと思った。
行政が難しくなっているからこそ面白いのである。
高槻市のH/Pで市長公室長の樋渡啓祐氏のコメントblog,blog,blogをみて、ブログに出合ったのである。


ブログをやり始めてから、市長メールの数は減ったが、三木市のH/Pや各都市のH/pも欠かさず見ている。
ブログの中にも三木市の人に見てもらいたいことを幾つも書いているのだが。
見落とさずに見ていただいていれば、幸いである。
意外に市長メールよりもブログのほうが本音に近い形で書けるものである。

今、樋渡市長の武雄市の動きは、めちゃめちゃ面白い。
1月4日「佐賀のがばいばあちゃん」の放送日までは見逃せない。
一地方行政でも、頭を使うだけでこんな動きが出来るのである。

世の中、ソフトの時代だとつくづく思う。
人間の知恵は無限で、幾ら頭を使ってもコストは掛からない。ボケ防止にもなる。

今年は少なくとも、私のボケは進まなかったと思っている。そんな1年だったことに感謝したい。



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MFJ全日本モトクロスの思い出

2006-12-20 09:30:19 | M/Cレース
第1回MFJ全日本モトクロスが1964年、相馬が原で開催された頃から仕事上でもレースに関係するようになった。

相馬が原の頃は未だ直接ではなく横から眺めていただけだったが、地方では連戦連勝であったのに、5位にも入れぬ状況でトップレベルとの差を痛感して、本格的な強化対策に入るきっかけとなった。


第2回大会は名古屋で65年3月に行われたが、125ccでトップを走りながら、ノービスで星野がパンク、ジュニアで歳森が片肺になって優勝を逸した口惜しい思い出がある。
64年11月にデビューした星野一義のはじめての大きなレース出場であった。
ちなみに当時のカワサキの125ccマシンは2気筒だったのである。


第3回は66年4月に高松。
このときもファクトリーに優勝はなく、大阪赤タンク会の木村夏也君が125ccノービスで優勝した。
MFJ全日本でのカワサキのはじめての優勝は、ファクトリーではなかったのである。

初期の時代は、城北ライダースの全盛期で、久保、矢島、菅谷、榎本など多士済々であったし、荒井、小島,三吉などのベテランも強かった。
66年後半、F21Mが登場しカワサキはモトクロスでの確固たる地位を築いていった。


第4回は郡山の自衛隊の演習場で67年5月に行われた。

このときは東北担当の営業に転任していたが、MFJの山田事務局次長に頼まれて福島オートの中西社長と一緒に自衛隊の場所を借りるお願いに行った。
中西さんは陸士出の元偉いさんで、門までわざわざお迎えがあり、スムースにお借りすることが出来た。
先輩後輩の関係はすごいなと思った、そんな思い出がある。

ヤマハがニューマシンDT1を登場させた。
優勝は90山本、125星野、250はヤマハの鈴木忠さんだった。


第5回は68年8月、札幌。
たまたま、東北、北海道の代理店会議が札幌であって、観ることが出来た。
これに合わせて計画してくれたのかも知れぬ。

優勝は、90山本、125星野、250鈴木であった。


第4回大会以降は直接のレース担当を離れて、本当に気楽にレースを楽しめた。
優勝メンバーを見ても、新しい時代に入ったことが解る。
カワサキはこの頃、山本、星野、岡部,歳森、梅津と揃えて最盛期であったと言えよう。

当時のモトクロス界では激しい競争もいろいろとあったが、クラブ間の交流も盛んでスズキ、ヤマハの人たちやライダーとも仲良く付き合えたのがいい思い出として残っている。




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5年間の今日

2006-12-20 06:28:52 | 日常生活、園芸、バラ
今の日記帳は5年連用でその5年目である。上から5年間の今日のことが並んでいる。
もうあと少しで日記帳ともお別れで、来年はまた新しい5年連用の日記帳でスタートすることになる。

「5年間の今日」,どのように過ごしてきたのか、初めてのことだが今年しかチャンスがないので、12月の後半に絞って調べてみた。
「  」が日記。  その他は感想。


2002年12月15日 日 晴れ
「暖かい。まだバラが花を咲かせるかも知れない
車検ができた。今回はフリーサービスという制度に入っているので、修理代はタダなので助かる。」

バラはまだはじめたばかりで熱心だった。12月も当然花をつけるのだが、咲くというだけの花である。
車もまだ新しかった。今回また車検である。このところ距離は出ていない今6万キロである。


2003年12月15日 月 晴れ
カワサキモータースジャパンの50周年の記念パーテイがある。
田崎さんも出席して行われたのは良かったが、OBの招待の基準がよく解らない。
久しぶりにKMJの連中に会えて楽しかった。
石塚君が犬の写真も届けてくれたのに余り話もできなかった。」

50年の歴史のうち、23年間カワサキ自販、カワサキオートバイ、KMJの三つの名前の時代に3回、それぞれ出向してお世話になった。
旧いOBが少なかったように思ったが、こんなパーテイの人選はなかなか難しいものである。然し、ちょっと寂しかったのが実感である。

田崎さんはバリバリの現役社長のころで、高橋鉄郎さんが所用で出席されず、彼と気軽に話せる旧いOBも少なかったこともあって、もっぱら私が話し相手をした。
昔から仕事で深い関係があった仲間うちだし、年次では私が1年上であったから、思い出話など尽きることがない、楽しくいい雰囲気ではあった。
石塚君の犬とは、私の家のTom、Loveという柴犬の子供の犬のことである。


2004年12月15日 水 晴れ
「バラの大苗が待ち遠しい。
昨日Niftyにパスワードのことを聞く。郵送してくれるという。朝日のアスパラというクラブにも入ったが、パスワードが要る。いろいろと難しい。」

バラは12月がスタート時期で植え付けの時期である。毎年この時期、熱心になる。
パソコン。やり始めの頃で何も解っていない頃である。日記の記述自体が少しおかしい気もする。


2005年12月15日 木 晴れ
「明石のゴルフショップでアイアンを買う。ダイワのアイアン95000円、約10年ぶりのニューアイアンである。
今、流行のインターネットで株取引をしてみたくて、登録手続きをする。」

現役の終わりの頃,ヤマハの方の紹介でヤマハのいいアイアンを買ったのだが、最近のアイアンに比べて飛ばない。
ショートホールで2番手も違うので新しいのをと思っていた。
今使っているが本当に2番手ぐらい違う「飛び」である。
何でも新しいことに飛びつきやすい性格である。インターネット取引は簡単に出来たが、儲かりはしない。
今は熱も冷めてしまった。


2006年12月15日 金 晴れ
「このところ、母が少しボケてきたというか忘れっぽい。97才だから仕方が無いのだが。
近所の人と神戸まで水着を買いに行っていた家内が俺の水着も買ってきてくれた。
ブログ、Pit Crewのことを書く。」

母はお陰さまで元気である。確りしているのだが、最近急に忘れっぽくなった。月のうち2回、ショートステイでお世話になっている。家と半々の生活である。
週に2~3回泳ぎに行っている。これはこの5年間変わらなかった。
このところ、毎日の2~3時間をブログで費やしている。何事でもそんな傾向だが、今はブログにはまっている。


「5年間の今日」振り返ってみたのは初めてだが、自分なりに面白かった。やはり少しずつだが変わっているものである。
新しいことが幾つかあったので、自分では満足である。
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ものを金に変えるー3 昔話ー14

2006-12-19 06:45:16 | カワサキ単車の昔話
「ものを金に変える」-3

同じ表題で東北とCKD東南アジアのことを書いた。
シリーズの三番目にメーカーと海外販社の昔話を。

カワサキの単車事業は、1965年ごろからアメリカ市場に進出を試み1968年KMCを設立し本格的に参入を図った。
アメリカ市場向けの大型高性能車など積極的な商品開発を続け、1972年にはZ1の投入で大いに活気づき、事業の業容も発展の一途をたどった。

1974年にはどこよりも早く、リンカーンに工場進出を果たし、75年からは現地生産を開始し、ジェットスキーの生産も開始した。

この流れは、1982年頃まで続き、明石の生産台数も55万台に達するのだが、この間の事業部としての損益は、黒字、赤字を繰り返したが、どちらかと言えば苦しい時代のほうが多かった。

ダンピング問題やリンカーン工場でのUAW労働問題、市場での過剰在庫問題などで、83年にはカワサキの単車事業は存亡の危機に直面したのである。


この危機の原因は、単純に言えば、「ものがお金に変わらなかった」仮にお金に変わっても「お金に変わる期間が掛かりすぎた」のがその理由である。

「ものをお金に変える戦略的な仕組みが無かった」のが原因だったと思う。

二輪車は図体は四輪などに比べて小さいが、一台100万円前後、一台あたりの粗利は10万円以上になる。
細いから在庫スペースは取らない上に、販売店の数は多い。
在庫をばら撒くまでは意外に簡単なのである。

販売はメーカーー販社ー販売店ーユーザーと流れ、その一つ一つの段階で、売上も利益も発生する。
然し本当に売れたのは、ユーザーに渡った1回だけであとは単なる車の移動なのだが、売上、特に粗利も発生するので、つい多く造り、多く売り上げたいと思ってしまうのである。

仮に1台あたりの粗利10万円ということは、1000台で1億円、1万台で10億円である。
1万台の在庫をばら撒くのは,そんなに難しくはないのである。
本社とかTOPが利益確保に頑張れと言えば、簡単に頑張れるのである。

一方、1台100万円の商品が1000台在庫になれば10億円の資金が、1万台だと100億円の資金が寝てしまい、それに金利がかかる計算になる。
それも当時のアメリカの金利は年利20%の高金利だったから金利負担が大変であった。

そんな簡単な理屈が解るまでに20年も掛かったということである。
在庫投資をしたときは、事業部も販社も大幅な黒字になり、在庫調整の時期は赤字になるそんな繰り返しであった。

83年にやっと本社の財務も調査団を出し、ユーザンスをつけ、事業部も末端消化や在庫に最大の関心を持ち、販社を専門で担当する関連事業部を造った。
「ものを金に変える戦略的な大きな仕組み造り」が完成して以来、安定して川重の経営を支える存在になっている。

バブル崩壊後、いろんな企業や行政でも多くの問題や破綻が見られた。これらは全てお金が寝てしまったことが原因である。
解るまでに20年もかかったが、バブルでは何の影響も受けなかった。

「ものを金に変える戦略」は事業の如何、大小を問わず、基本的なことだと思っている。



コメント

Kawasaki GTO 

2006-12-18 06:27:37 | カワサキ単車の昔話
先週末、カンサイオトキさんからコメントが届いた。

山本隆君のショップに遊びに行ってきたとか。
来春のヴィンテージモトクロスには山本君も行くようなので、是非遊びに来てくださいとのお誘いである。
会場のアネックス三木は直ぐ近くだし、是非お伺いしたいと思っている。

コメントの後のほうに、「前の日曜日にエンジン設計の松本氏、デザインの栗島、山内氏と大阪マッハクラブの方と食事会があっていろいろ話をする機会があった。、当時の話、特にB-8のできるくだりは最高でした。」とあった。


松本博之さん。
カワサキで「2ストロークのエンジン設計は松本」と言われていたエンジニアである。
松本さんの名前が出たので、私自身思い出深い、開発コード740、GTOの話をしてみたい。

1978年、東南アジアのCKD新市場進出のため市場開発室を組織して、高橋鉄郎さんを長として、タイで合弁会社をスタートさせるなど、解らぬなりにいろいろ努力していた時代であった。
営業としては、どうしてもCKD市場にあった「専用の機種」の開発を要望していた。

78年2月3日の日記の記述そのまま。
「夕方から技術部の会議に呼ばれる。大槻部長以下課長以上全員が揃っていた。
方針が明確でない限り、技術部としては開発はやらないと大槻さんにまくしたてられたが、大槻さんとはレース時代からのお付き合いで気心もよく解っていたので、営業代表としてねばって言い分を通してもらった。」と書いてある。

このときのことは、本当によく覚えているのだが、
いろいろとねばったのは事実だが、営業の言い分を通して貰ったのではなく、営業の要望事項を入れて何とか開発をやってみようと「助け舟」を出してくれたのが、松本さんだった。

カワサキにとって始めての「CKD専用機種、開発コード740」,110ccGTOは、CKD専用車であるために一般には余りよく知られていないが、歴史に残る大ヒット商品であった。

この機種でカワサキのCKD事業は軌道に乗ったと言っていい。

当時、タイでの販売台数6400台/年であったものを、11000台、20000台と一挙に引き上げ、インドネシアでも好調に売れてCKD進出を軌道に乗せた。

タイでは台数だけでなく、委託販売であった取引条件を仕切り販売に換え、更にデーラーは車を確保したさに前金を積むところまで現れ、合弁会社の利益も資金繰りも一挙に改善できたのである。

この隠れた大ヒット商品のエンジン開発者が松本さんであり、私としては一度もお礼を言っていないので、この機会に是非お礼申し上げたい気持ちである。


大槻さんは勿論、松本さんも、栗島さんもゴルフコンペZ-1会のメンバーである。
年4回、楽しいゴルフをさして頂いている。 来春が待ち遠しい。
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