ヤマハのGPライダーとしての金谷の実績は素晴らしいものがある。
1975年オーストリアGPでの500cc、350ccのダブル優勝など,ロードレースに於ける彼の天性みたいなものを感じる。
1965年6月。カワサキはスズカ6H耐久レースにはじめて正規のロードレースチームとして参戦した。
3チームの出場であったが、歳森康師がパートナーとして選んで連れてきたのが、神戸木の実の金谷秀夫であった。
そういう意味では、金谷がカワサキでの最初のロードレース専門の選手であったと言える。
その時から確かに早かった。片山義美の秘蔵っ子と言われるだけのものを持っていた。
66年10月FISCOでの日本GPのジュニア250でヤマハのG,ニクソンとの勝負は、私の脳裏に焼き付いている。
先日、記録を調べてみたら、3位の三室とは37秒、4位和田とは1分14秒差で、6位以下を一周遅れにしている。
最高ラップを2分14秒27で金谷、G、ニクソンが同タイムで取っている。
その日の350ccの最高ラップが2分18秒56であることからも、如何に二人が飛びぬけて早かったことが窺がえる。
たった2年間ほどの付き合いだったが、当時カワサキはロードレースはまだやり始めたばかりで、マシンは開発途上であったし、安良岡と金谷には本当に苦労ばかり掛けていたと思う。
金谷にはレース以外にも、A1の名神高速での走行テストなども手伝って貰った。
さっぱりした性格で、ちゃんとした意見をはっきりと言ってくれた。
彼が意見を言ってくれたお陰で対処を間違えずに済んだこともあった。
私が東北に行ってからも、いろんなことで手紙など頂いた。
ライダー諸君とはいろいろあったが、手紙をもらったのは金谷だけである。
短い期間ではあったが、私にとって一番印象に残っているライダーかも知れない。
そんなことで、SPA直入のオープンの時には、清原,
和田、宗和、鶴田などと共に、金谷にも来て貰ったりした。
90年11月の彼の恩師、片山義美君の引退パーテイは金谷が取り仕切っていたが、逆に招待を受けて出席しご挨拶などさして頂いた。
清さんに聞いた話だが、先日のオートポリスのレースの前に、往年の名選手たちが走行したという、片山、清原などと一緒に金谷も走ったそうである。
機会があれば、是非一度会いたいライダーの一人である。