雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

除夜の鐘

2016-12-31 07:32:58 | 発想$感想

★大晦日の『除夜の鐘』 苦情が相次ぎ中止になった寺もあるという。

あなたはどう思いますかというYahooの意識調査は、

 

   

 

 『迷惑だとは思わない』と答えている人が95.5%もいて、私もこのアンケートに答えるなら、『迷惑とは思わない』ほうに1票を投じる。

このアンケートのコメントを見てもみんな手厳しい意見が並んでいる。

 

   

 

確かにこの通りだとは思うが、『除夜の鐘』は実際にはテレビでしか聞いたことはない。それも108も初めから最後まで聞いたことはないので、実際に家の近くでの鐘の音はうるさいかも知れないなと思ったりはする。

ここまでは譲れるのだが、仮に『迷惑だ』と思っても日本古来のこんな伝統文化を辛抱できないのかな?と思ってしまう。それも毎晩ではなくて大晦日の夜だけの話なのである。

どうも昨今、個人の権利ばかりが尊重され過ぎているような気がする。百歩譲って『個人の権利』を主張するのもいいが、社会の中でみんなで生きる『辛抱』が足りないと思う。

 

    

 

 なぜ、こんな日本になってしまったのだろうか?

 やはり、教育かな?

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2016年歳末

2016-12-30 13:09:32 | 発想$感想

★ 2016年も今日で最後、大晦日の朝である。

今年は どんな年だったのか?

この年になると、そんなことよりも、健康で大晦日を迎え、明日は新しい年を迎えることが出来ることに感謝である

      

 

    

 

30日に、アメリカから日本に留学中の孫がやってきた。

いま、大学3回生、授業料以外は『仕送りなし』で頑張ってる。

男の子はそれくらいのほうがいい』 もう20才を過ぎている成人なのだから、いつまでも親に頼っているのは情けない。私自身も大学は一切、面倒見て貰わずに自分で卒業した。『やろうと思えば、やれる』はずなのである。

そんな孫だが、おばあちゃんはまた別である。入学式以来スーツを買ってないので、『いまなら、半額』と『青山』に連れて行き、『ユニクロ』で何かを買ってやっていた。 別に、孫がせびったわけでもないように思ったのだが・・・

 

 

 

 

 

そのあと回転ずし。

孫は、年明け4日までの滞在だという。

その間、我が家は、いつもと違って『ちょっと贅沢』になる。

 

 

 

   

 

★それにしても『歳末商戦』とはよく言ったものだ。

三木に『洋服の青山』があることすら知らなかったが、『12月、1月は普通の月の倍以上売れる』そうである。

お正月・成人式・卒業・入学式・入社式など、確かにいわれてみると、いいシーズンである。

自分自身が関係ないだけなのである。

 

確かに、来年以降は4人の孫たちが、毎年いろいろと新しいそんな段階を迎えることになる。

新しい人生に向かって、また新たなスタートを切る。

これから毎年、そんな孫たちのことを思いながらの大晦日や新春になるのだろう。

私にとっても、今までとはちょっと違った新春を迎えることになる。

 

せめて、いま高校生の孫の一番下が、大学を卒業するまで、元気で居れたらいいなと思っている。

 

 

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カワサキの二輪事業と私 その33  85JIの富士登山

2016-12-30 06:22:11 | 自分史

★昨日に続いて『カワサキの二輪事業と私』である。

ホントにビックリしたのだが、ツイッターに オートバイ編集部 がこんなツイッターを昨日流したのである。

 

    

 

 この話は、私のカワサキの二輪事業との関係の中でも、会社が正式に絡んだプロジェクトではなくて、福田泰秀君くんとで仕組んだイベントで、それにオートバイ社の衛藤誠さんが絡んでの、ホントに旧い旧いカワサキに関係のあった人たちの仲間意識で出来たものだったのである。

昭和36年にスタートしたカワサキの単車営業部、その時のことを話していま解る方は、福田泰秀くんと、今でもオートバイ誌におられる衛藤誠さんと私の3人ぐらいしかいないのではないかと思うのである。福田くんは当時10人もいなかった営業部のサービスの3人の中の一人で私の係の仲間の一人なのである。衛藤さんはその頃からオートバイ誌のカワサキ担当の記者さんだったのである

この話は、それから4年後のことなのだが・・・

この85JIによる富士登山は、昭和40年7月(1970)なのだが、当時広告宣伝課を担当していた私のところに福田くんがやってきて、『85J1』で富士山に登りたいのだが、その費用を持ってくれないかといってきたのである

その時期は夏休みというので全くのプライベートな計画なので、そんな計画に会社の金を使うわけにもいかないので、考えた末『もし富士登山に成功したらオートバイ誌で紹介して頂けるか?』衛藤さんに頼んだら快諾してくれたので、福田君には『富士山頂での写真がもし撮れたら費用は面倒見ることにしよう』ということでこの話はスタートしているのである。

当時、福田君は品質保証にいたので一緒に行ったメンバーは当時の品証のメンバーで私と同じ名前の古谷君もいるし、今は大阪で『八尾カワサキ』を大きく展開している加藤君もいるのである。どうしても、『成功させたかった』ので当時のレース職場の松尾勇さんなども手伝ってくれて、モトクロスタイヤなどの提供もしたのである。

この計画は見事に成功して、オートバイ誌にも掲載され、どれくらいの費用だったか忘れてしまったが、広告宣伝費からその費用を面倒見たのである。

 

その時のことをオートバイ編集部の船山理さんがこのように紹介してくれている。

 

    

  

霊峰富士山をバイクで登る。世界遺産に登録された今、そんなことをやったら世間からフクロ叩きに遭うのが目に見えているが、実はバイクによる富士登山は、けっこうな歴史のあるイベントなのだった。というのも昭和の28年(1953年)7月には「富士登山軽オートバイ競走大会」なるものが開催されている。大会会長は富士宮市市長で、この当時から「バイクの競争」に目を光らせていた警察を、何とか説き伏せての開催である。

コースは浅間神社をスタートし、この日だけ通行止めした登山道を2合目まで登るというもの。後に「富士登山レース」と呼ばれたこのイベントは3回行なわれ、これをきっかけとして日本のバイクレースは、有名な「浅間火山レース」へとつながって行く。富士山の登山ルートは、モータースポーツの発展に大きな役割りを果たしてくれたのだ。

しかし富士の山頂までバイクで登るとなると、話は別だ。これはもうモータースポーツではなく「冒険」の領域と言っていい。ホンダのモンキーでこれをやってのけたのは、東京の上野動物園2代目の園長さんである林 寿郎さん。このニュースは新聞でも取り上げられた。時代は60年代初頭のことだから、初代モンキーZ50Mはまだ市販されていない。おそらくは当時、多摩テックのアトラクションで使われていたZ100なのだろう。

これに触発されたのが、カワサキの猛者たち。自社のバイクで富士山頂を極め、証拠の写真を撮ってくれば宣伝になると会社に掛け合い、ついにOKをもらった。選んだモデルは、そのころ売出し中だったカワサキ85J1だ。空冷2スト85ccロータリーディスクバルブのエンジンを、プレスフレームに搭載するこのモデルは、64年の東京モーターショーでデビュー。これをベースとした市販モトクロッサーJ1M(11馬力)は、翌65年に市販されているが、彼らの選んだのはスタンダードの85J1(7.5馬力)だ。

昭和40年(1965年)7月、2台のカワサキJ1は社内の有志たちによって山頂を目指すが、あまりの急勾配にロープで引き揚げるという事態にも遭遇する。動物園の園長さんが成功したのは、いざとなれば小脇に抱えられるモンキーだったからに違いない。タイヤだけはモトクロス部門に頼み込んで、モトクロスタイヤを履かせていたが、相当な難作業だったはずだ。やがて山頂に到達した彼らは念願の写真を収め、カワサキは本誌を含む専門誌に、85J1の高性能ぶりをアピールする広告を掲載することになる。今やれば別の意味で新聞に載るだろうが、この時代では間違いなく「快挙」だったのである

(船山 理)

 

★ 実はこの話は、最近でもいろいろあって、

2013年に『二輪文化を伝える会』が取り上げてくれたので、http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/6c60ad7d2d2c14363f242385d12b6c04

こんなブログもアップしたし、昨日もオートバイ誌のこの記事をFacebook にこのようにアップされているのである。

 

 

 

何年か前に、三木のグリーンピアで開催した KAWASAKI  LEGENDS & FUTUR  https://www.youtube.com/watch?v=ZKdEuytpOns ではご当人の福田泰秀くんご自身がこの話を披露しているのである。

その時の写真である。

  

 

 そのあと、衛藤誠さんに電話して、『この85J1の富士登山』の話のオートバイ誌の記事残っていませんかませんか?と探してもらったのだが、その時は見つからなかったということもあったのである。

いろんな昔話はあるのだが、当時のカワサキの連中はいろいろとオモシロいのがいたものである。私も福田君もそのほかの人たちも誰も役職などついていない平社員で、この話を私は『上の人』などには一切相談もしていない。若し成功していなければ、そのままに消えてしまった話だが、大成功だったので、その時に出た費用はオートバイ誌の広告の取材費のような形で処理しているのである。

ここには表示されていないが、オートバイ誌のカワサキの広告のページにこの富士登山の写真が、カワサキの85J1の広告として掲載されたはずなのである。

富士山頂までのバイクでの登山は大変だったようで、最後はロープで引っ張り上げないと流石の登坂力を誇る85J1でも無理だったようで戻ってきたバイクの後輪のモトクロスタイヤは新品をつけていたのに「ほとんどその山」は残っていなかったのである。

結果的には成功して、その費用も負担できたし、50年以上も経った今、こんな話が『ツイッター』で流れているのである。

取り上げて頂いた『オートバイ誌編集部』と記事を書いて頂いた『船山 理』さんに感謝である。

 

 

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カワサキの二輪事業と私 その32  KAZE 雑感

2016-12-29 07:12:50 | 自分史

 ★年末、KAZEの機関誌が送られてきた。

1989年10月、私は高橋鐵郎本部長(カワ販社長)からカワ販専務を命じられ、7万台販売のビックリするような目標を与えられたのである。7万台を達成するためにいろいろ考えた末、KAZEを創ろうと思い立ったのである。

当時は既にKGRC( Kawasaki Good Riders Club)というカワサキの熱烈な愛好者のユーザークラブが存在していたのだが、このKGRCを潰してKAZEを創ろうと思ったのである。 こんな熱烈なカワサキファンばかりを集めていたのでは、とても7万台という目標など達成できないと思ったのである。

7万台の販売達成のためにはもっと広い範囲に視野を広げて、社会に対する働きかけこそが必要だと思ったのである。

バイクに乗る人、それもカワサキに乗る人ばかりを対象にするから『小さく固まって』しまうのである。1台のバイクに多くの人たちが支援するレースの世界、その観戦に鈴鹿に集まる20万人の人たちは、バイクに乗っている人たちばかりとは言えないのである。そんなバイクの周辺の人たちにまで活動の範囲を広げようとしたのである。

KAZE(Kawasaki Amusing Zone for Everybody) はこんな名称で、その名称の中に基本コンセプトEverybody が明確に入っている。 Everybody バイクに関心のあるすべての人に働きかけるそんな活動展開をしない限り7万台などと言う高い目標は達成できないと思ったのである。

カワサキの二輪事業と私』の今年の最後は、年度ごとの纏めを中断して、『KAZE雑感』で纏めてみたい。

 

 

   

 

年末にこんなKAZEの機関誌が送られてきた。

今回、突如『KAZE雑感』を纏めようと思ったきっかけは、このKAZEの機関誌の裏表紙にあった『広告の紙面』なのである

  

    

 

★ここから先は、『私の仮設の分野』なのだが、KAZEの機関誌の裏表紙に、突然こんな広告が入って、正直私は『違和感』しか覚えなかったのである。

現在のKMJの広報担当者やTOP の方たちはマーケッテングや広報がお解りになっているのかな? 全くの素人の『思いつき』ではないのかな? と思ってしまったのである。

すべての冊子の『裏表紙』は、最高の広告媒体なのである。その紙面の使用に、果たしてどのような検討があったのだろうか?

KAZEの機関誌の裏表紙には、かって『アライヘルメットの広告』が長く掲載された時期があったことを覚えておられる方がいるかも知れない。これはアライヘルメットから広告掲載を求められたのだが、確か当時の額で1回50万円で、その掲載を認めていたのである。それ以上の価値があったと思ったのだが『ヘルメット』自体が大型バイクやジェットスキーに乗るKAZEの会員たちと密接に関係があり『お互いのイメージ創造』に寄与するという判断からだったと思う。

55000部も発行される機関誌は、世の中の雑誌の発行部数に比べても圧倒的に多く、現在でも多分25000部ぐらいは発行されているだろうから、その辺のバイク雑誌の実質発行部数を凌駕しているのだと思っている。

その裏表紙には、最近は広告掲載など一切ないままに進んでいたのだが、今回突如としてこの広告なのである。

こんな広告が今後も続くのかな? 単なる思い付きで1・2回で終わってしまうのではないかな? 

そんなことはない、このKAZEの裏表紙の広告は、『2017年度の新しいKMJの広告戦略の一環である』ということならご同慶の至りなのである。

 

★そうなることを期待して、2016年の歳末のKAZE雑感なのだが、当時KAZEを創り、それを専門的に扱う『ソフト会社』を考えるスタートとして、私自身が書いた文章が残っていたので、ご紹介してみたい。

いま、読み返してみても『ちゃんと書いていて』現在のこのブログに載せても何の『違和感』もないと思う。書かれたのは昭和63年10月21日、10月に就任して20日後のことで、この文章をもとにスタートし半年後の翌年4月1日付で、川崎重工業経営会議の承認を得て、遊びのソフト会社 株・カワサキスポーツシステム がスタートしそのとしてKAZEプロジェクトは推進されるのである。

是非、KMJの現役諸君も、読んでみて欲しいと思ったのである。

 

      

 

 

  この時期からもう25年が経過しているのだが、このKAZEや、KSSのソフト会社展開で得た『ソフトノウハウ』をベースに、7年前にNPO The Good Times というネットをベースのソフト法人を立ち上げて現在があるのだが、その中の二輪分野の中枢は当時のKSSで中枢にいた渡部達也くんが務めてくれているし、NPO The Good Times の経理担当は、KSSの経理担当であった吉田俊一くんなのである。

そして、その仕組みのトータルは、私自身が担当しているので、システムそのものは、「20年以上も前に私が考えたシステムそのままのKAZE」よりは前を走っているのではないかとと思うのである。

とはいうものの、20数年も前に発想したシステムは、他社が全て退出したのちも、生き続けているのだから、カワサキの現役諸君もぜひその展開については確りとした考え方の下に運営して頂きたいと思っているのである。

 

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神戸大空襲 と 島田晴夫さん

2016-12-28 07:39:00 | 発想$感想

★ ついこの前、クリスマスイブの日に、『緑が丘駅前で~おかしを もらっちゃおう』というイベントを主宰されて、その時初めてお会いした 島田晴夫さん、私と同じ83才、その時お会いした印象が強く残っていて、昨日の朝、殿界さんの事務所で3時間ほど雑談したのである。

地域に貢献したい』と仰る島田さん、私などにはない『何かを』持っておられるように思って、今後一緒にやりませんか?というような雑談をしていたのである。

 

     

 

 

 最近は、私から見ると『若い方』ばかりとのお付き合いが殆どで、話の内容もそれなりに新しいのだが、昨日もFacebook をお勧めしたら、すぐ登録されて今はもう友達として繋がっているのである。

 そんな話が主だったのだが、私が一番印象に残ったのは戦後の旧制中学当時の話もさることながら、

 

  

 

 

 『神戸空襲を記録する会々員  語り部 被爆体験と昭和史 (その時銃後も戦場だった)』 と書かれていた名刺の肩書なのである。

島田さんがふと漏らされた『広島の原発ばかりが言われるが・・・』という言葉が気になって、戻って『神戸大空襲』を検索してみたのである。

 

   

 

    

 こんな写真と以下のような記述があった。

 

 神戸とその周辺地域は1945年(昭和20年)1月3日から終戦までの約8ヶ月間に大小合わせて128回の空襲を受け、特に3月17日および6月5日の市街地絨毯爆撃と川西航空機甲南工場を標的とした5月11日の戦略爆撃によって大きな被害を受けた。被害状況に関する公式記録は存在せず、具体的な数字ははっきりしていないが被害面積は神戸周辺都市部の21%に及び、少なくとも8841名の市民が犠牲となり15万人といわれる負傷者、焼失家屋15万戸、のべ65万人もの人々が家屋に被害を受けたといわれている。これは、人口および面積から換算した被害率としては当時の五大都市の中でも最悪の数字であった。

 

 ★私は全くの同世代なのだが、戦時中は朝鮮にいて全く『空襲』など経験がないのである。

この記述にあるように、神戸空襲は川西航空機甲南工場が標的だったようだが、明石は川崎航空機明石工場がその標的で叔父叔母がなくなったし、家が焼けたりはしたのだが、そんな話を聞かされただけで、経験は全くないのである。

島田さんとは、今後多分お付き合いが続くだろうから、一度機会を見て、島田さんの『お話』もぜひ聞いてみたいなと思っているのである。

 

 私は空襲の話は、伯父・伯母以外からは聞いたことがない。 その伯父・伯母の話も凄まじかったが、『語り部』として、どのような『昭和史』が語られるのであろうか?

私自身も、『引き揚げ』という大変な経験は持っているのだが、これは大変は大変だったが、『死の恐怖と直面』などはしていないのである。

そんな戦中・戦後を語れる方も、段々と少なくなっている。

島田さんにお会いしていなかったら、『神戸大空襲』など絶対に検索することはなかったのである。

 この歳末、『いい方と出会えた』とお互い思っている昭和8年生まれ なのである。

 来年は、二人とも『年男』ぜひ『いい年』になるように精一杯頑張ってみたいのである

 

  

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Google Mapからの写真

2016-12-27 06:27:04 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★ 最近のネットの世界は、ホントにびっくりしてしまう。

 三木に座っていても、世界を見ることが出来るのだる。

 私はなぜか、地図をみたりするのが好きで、 Gooogle Map はよく見るのだが、昨日は何もすることがなかったので、私の住んでいるまち三木や、今年私が行ったところを改めて観ていたのである。

 他愛のない話だが、『すごいな』と勝手に感心しているのである。

 以下の写真はすべて昨日、閑に任せて、Google Map から切り取ったものである。

 

   

 まず、私の住んでいるまち、三木の緑が丘である。 右のゴルフ場は『日本一』と言われる廣野ゴルフ倶楽部で、そのすぐ前にある住宅街である。

 

  

 そのすぐ前が、神戸電鉄緑が丘駅で、駅の向うの高い木はゴルフ場の木なのである。80年も経つゴルフ場だから木も大きい。

 

  

  これは三木市役所である。駐車場の広さは、日本一かも知れない。

 

  

   こんな建物である。

 

    

    

   今年の夏、アメリカから日本に留学している孫を連れて、栗林公園に行った。

  ホントに綺麗だった。 日本で一番きれいな公園だと思った。

 

  

 

  

 

  

 

栗林公園は8月だったが、9月にはアメリカの娘のところに遊びに行った。

   

   アメリカで一番治安がいいとも言われているIrvine の Green Moor に住んでいる。手前の赤い屋根のところである。

 

  

   家の前の道は、この辺りでは狭いのだが、Uターンが簡単にできるほど広い。

 

  

  すぐ近くにこんな人造湖がある。

 

  

 その前にあるプールとジャグジー。 住民しか入れないし、且つ住民は無料である。 こんなプールとジャグジーが15ほどもあってどこでも行けるし、テニスコートやバスケットコートも完備である。

 

  

   こんな位置である。サンタナの南、カワサキの事務所のあるレイクフォレストのヨコである。

 

  

  

   ラグナビーチまでは20分ほどだが、キロ数で言うと30キロほどあるのかも知れない。

 

   

 

   

   こちらは末弟がいつもサッカーのリーグ戦のある、サンタナのサンタナ大学のグランドである。

 

       

        Irvine からサンデイエゴ までこんな汽車にも乗った。 ここはIrvine駅。

 

  1ヶ月ほど滞在したのだが、バークレ― と スタンフォードまでちょっと遠出をした。延々と続く真っ直ぐな道を800キロ

    

 

 

   

  バークレーのまちの中心に、Berkeley 大学はある。この一角が大学で塀もないし町と同居している。

  

  一番左のグランドで、真ん中の孫のサッカーの試合を観に行ったのである。 コレ大学のサッカー場や野球場である。右にあるバカでかい競技場はアメフトの競技場である。

 

      サンフランシスコの南、シリコンバレーの中心の スタンフォード大学にも行ってきた。

   

    

   

 

 ここも無茶苦茶広かった。 サッカーや野球やアメフトの競技場がいっぱいある感じで、このサッカー場で試合があったのだが、ホントに校内のごく一部という感じだった。にかくアメリカは『広い』

 

 Google Map Noお蔭で、今年1年をじっくり思い出せた。

 

 

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今 思っている 独り言

2016-12-25 17:34:23 | 発想$感想

★ 2016年も最後の1週間になって、週間天気の最終日には、『元旦の天気』が現れる。

どうやら元旦は『晴れる』ようである。そんな年末に『いま 思っている独り言』を・・・

独り言』だから、決まっているのか、どうなるのかもよく解らないが、『思っている』ことには間違いない。

ちょっと、纏めて書いておきたいと思っただけである。

 

 ★2016年、今年はどんな年だったのだろう?

いろいろとあったようにも思うが、一言で云うと『中休みの年』だったような気もする。

70歳代に入って、2005年から始めたパソコンでこのブログを立ち上げたのは2006年の9月、さらにネットをベースにした仕組み、 NPO The Good Times2010年に立ち上げてからは、その活動が生活の中心になっていたのだが、どうも今年は何となく『気が入らなくて』結果的にも何にもできなかったことが『中休み』という感覚になってしまっているのである。

 

    

  

 http://www.thegoodtimes.jp/

異種・異質・異地域をみんな繋いでいい時を過ごそう』という基本コンセプトの活動は、繋ぐ相手も要るし、そのになる『』がいないと活動にならないのである。その『』がいなくなってしまったわけではないのだが・・・

私の周囲の人たちの『何かやりたい』という想いがなかったわけではないが、ちょっと弱かったと言えばそういえる状況だったのかも知れないのである。

それでもNPO The Good Time のホームページも、7年目に入りその訪問者は10万人を超えたりもして、一区切りついたかなと思っていたりしたので、今後どうするかな?などと思っていたりしたのである。

 

    

 

★昨日『緑が丘駅前で~おかしを もらっちゃおう』というブログをアップしたのだが、

このイベントは、写真の真ん中の島田晴夫さんが起案者且つ主宰者で、右の殿界寿子さんが援けて、具体的な応援を緑が丘子ども会育成会のキッズ・サポート新井謙次さんに頼んで、実現に漕ぎつけたのである。

左の神戸新聞の大島支局長さんにも殿界さんが電話して、来てくれているのである。

私はその経緯は知っていたが、今回は一切お手伝いはしていなくて、単に現場を観に行っただけなのである。

ここで、83歳だという私と同い年の 島田晴夫さんにお会いして、いろいろ話をしてたら、『来年は神戸電鉄に乗って阪神タイガースの応援団電車など出してみたい』などと、全然まだ決まりもしていないことを仰るのである。

そんなちょっと変わった元気で想いのあるヒトは、私は大好きなのである。

来年は酉年で私も島田さんも『年男』だし、島田さんが本気でいろんな『地域活動』おやりになるのなら、お手伝いしてもいいかな?と思ったりしたのである。

そんなことで殿界さんに『昨日はご苦労様でした。一度島田さんを入れてお話したいと思ってます。機会を作っていただけますか?』とこんなメッセージを送ったら、すぐ『かしこまりました』と返事がきたものだから、ひょっとしたら年内にあるだろうと、いろいろ考えだしたのである。

 

★昨日の現場には、殿界さん、新井さんのほかに、今は三木市会議員の草間透さんも来ておられたのである。

実は、NPO The Good Times を創ったきっかけになったのも、新井さんと草間さんとの3人NPO法人の講習口座を聞きに行ったのがそのきっかけで、当時の草間さんの『三木さんさんまつり』と新井さんの『緑が丘子ども会』がNPO の団体会員、1・2号だし、お二人ともNPO法人の理事さん、草間さんには副理事長を今でもお願いしているのである。そして殿界寿子さんは、今年から理事さんをお願いしているのである。

全然、その立場も思いも同じではないところもいっぱいなのだが、そんな『異種・異質』な人たちが繋がって、『協働しよう』というものだけ協働すればいい、そんなNPO 法人なのである。

 

話は、突然変わるのだが、緑が丘にはいろんなイベントがあって、三木市からすぐ『補助金』が出るのだが、殿界寿子さんは、その『補助金が大嫌い』で今回の島田さんのイベントも補助金などが出る三木市と関係なければ応援するという条件付きだったのである

    

       

 

  これは殿界さんのツイッターである。

  それを受けて解説ブログを私がこのように書いている

    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/10c2d23d7c6a467c5249698ad93555e2

 

  そのブログをご覧になった草間さんが、議員の立場で三木市に改善方対応してくださるようなのである

      これが草間さんと私のFacebook のコメントのやり取りである。

 

   

 

★この1週間はこんなこともあるし、多分島田さんともお会いすることになるのだろう。

 その話の方向では、NPO The Good Times にお誘いしようかなと思っている

 そしてそんな方向になれば、今年は殆ど動かなかったが、来年は殿界さんや、新井さん、草間さんなどさらに三木には結構沢山の会員さんもおられるので、自然に民間の末端が旗を振る『そんなまちおこしイベント』をもう一度やってみるかな?

などと思ったりしているのである。

昨年は『水曜マルシェ』で毎週盛り上がっていたのに、殿界さんが怒ってる『三木市の補助金問題』でその活動が潰れてしまったのである。

それは、これをお読みになれば、お解り頂けると思います。

   http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/10c2d23d7c6a467c5249698ad93555e2

三木市の末端で活動されてる、いろんな真面目なグループを、もう一度『繋なぐ努力』をしてみようかなと思ったりもしているのである。そんな年末の『私の独り言』だが、さてどんなことになるのだろうか?

ホントに数人の核さえできれば、物事は動くので、私流にいうと『球根』にして眠っている『核』はいっぱいいるので、時期が来れば水でもやろうかな?と思っている。

 

そのキーパーソンは、島田晴夫さんと殿界寿子さんのような気がするので、そんなお話し合いが年末までにできれば、来年は私ももう一度『新しい夢』を語ってみようかなと思っているのである。 

 

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緑が丘駅前で~おかしを もらっちゃおう

2016-12-25 05:26:01 | 発想$感想

★ 『緑が丘駅前で~おかしを もらっちゃおう』というこんなイベントがあるというので見に行ってきた

 

    

 

主催 粟生線サポーターズクラブ有志 となっているが、『有志』となっているのに意味があって『粟生線サポーターズクラブ』が主催ではないのである。

主催というか、このイベントの起案者は『粟生線サポーターズくらぶの運営委員』をされている 島田晴夫さんである。

趣旨に賛同して手伝ったのは、『三木 緑が丘 サンロードを愛する人のカイ!』主宰する 殿界寿子さんなのである。

   http://www.thegoodtimes.jp/sunroad/index.php

そして、殿界さんが繋いだ、緑が丘子ども会育成会・キッズサポートクラブ の 新井謙次さんのご尽力で実現したのである。

 https://www.facebook.com/profile.php?id=100009374016726&fref=ts

 

そして、サンタクローズの衣装を着て、現場を支えたのは『高齢者大学の方々』なのである。

神戸新聞の大島記者さんも、取材に来られたから、神戸新聞三木版の今朝の記事にもなっているかも知れない。

 こんな人たちの善意と協働によって実現した『イベント』なのである。

 

 こんな感じのイベントだった。

 

 

 ★ イベントそのものは、動画をご覧になれば、どんな感じのものであったのかお解り頂けると思うが、これが実現するまでの経緯ご紹介しようと思っている。

 

島田晴夫さんは、昨日初対面なのだが、殿界さんからはこのイベントの経緯をよく聞いていたので、イベントも見たかったが、島田さんにお会いしてみたかったのである。

神戸電鉄粟生線に非常に愛着を持っておられて、緑が丘はその三木の入口駅である。そこでクリスマスイブに子どもたちとイベントをと思って、企画を『粟生線サポーターズくらぶ』に持ち込んだのだが、相手にされなかったことからこのイベントはスタートしている

諦めきれずに、島田さんのお宅のすぐ近くの『殿界寿子』さんに話をしたことから、こんな展開になったのである。

クリスマスイブの日に、緑が丘の駅前で、こどもたちにお菓子を配ろう というだけのものだったのだが、お菓子を買うお金は島田さんご自身のポケットマネーでなどとも思われていたようなのである。

それを聞いた殿界さんが、緑が丘子ども会育成会・キッズサポートクラブ新井謙次 さんに話したら、子ども会の予算で5万円を出しましょうという話になり、それだけではなしに、子ども会の持っているサンタクロズの衣装や飾り付けなどもみんな提供して頂いて、それに『高齢者大学』の方々が善意で参画されているのである。

いろんな人たちの善意でスタートしたこんなイベントは本当に気持ちがいい。

今年は1回目だが、250個も用意したお菓子はみんななくなった。250人ものコドモたちがやってきたのである

 

   

    

  真ん中が、島田さん、右が殿界さん、そして左側がいろんなことで『何かと手伝ってくれる』神戸新聞の大島支局長である。

 神戸新聞に掲載されることだけでも、大成功である。

 島田晴夫さん、お聞きすると 昭和8年生まれ、私と同い年である。

 今後、何かとご一緒したいと思っている。島田さんにはネットをやることをお勧めしておいたが、おやりになるだろうか?

 お互い『いい方にお会いできた』という感想を、持ち合わせているのである。

 こんな感じの、『つながり』やイベントが、一番気持ちがいいと思っている。

       

       

 

       

 

      

 

      

 

      

 

      

       

 

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カワサキの二輪事業と私 その31  昭和37年(1962)

2016-12-24 05:51:31 | 自分史

 ★昭和37年(1962)、いまから54年も前のこの年は どんなことがあった年なのか?

あの鈴鹿サーキットが完成した年で、11月4日には日本で初めての第1回全日本選手権ロードレース開催された年なのである。

 

    

昨今のネットは、探せばいろんなデーターがあって、『本物のロードレース in 鈴鹿

 http://www.f1-stinger.com/special/mwc/chapter02/talk11/

というこんな記事を見つけたのだが、そこにはこんな記述がある。

 

1962年11月、《鈴鹿》オープニングの全日本選手権ロードレース。ノービス250ccクラスでは、ヤマハの三橋実、片山義美両選手が1~2位を独占。さらに、もうひとつのハイライトとなる350ccクラスでも、ヤマハの片山義美選手は、2位のホンダCR77(榎本正夫選手)に、1分以上の差をつけて優勝した。

 

三橋実も、片山義美も、この年はまだヤマハだが、三橋は翌年は厚木でカワサキコンバットを創っているし、片山義美の神戸木の実クラブからも、その傘下のライダー歳森康師がカワサキと契約することになるのだが、そんな二人が優勝しているのである。

この第1回ロードレースをカワサキの製造部の人たちがバスを仕立てて観戦したのが、カワサキの明石工場でのレースプロジェクトがスタートするきっかけになるのだが、私自身はちょうど1ヶ月前の10月に、広告宣伝の看板設置などのことで鈴鹿サーキットを訪ねているので、カワサキでは間違いなく『一番最初に鈴鹿に行ったのは私』なのである。

ちなみにFISCOも1966年に開場するのだが、第1コーナーの『須走落とし』が危険だと MFJの運営委員会でもめにもめたのだが、その現場検証に4輪だったが『試走』した時も私は現場に行っていて、何となくご縁があってこの二つのサーキットをカワサキの中で最初に観たり、走ったりしているのである。

 

★この前年の昭和36年12月16日付で、私は新しく創られた単車営業課に異動しているのである。

当時は、メイハツ・メグロを吸収して『カワサキ自動車販売』という販売会社を設立し、その社長には川崎航空機の土崎専務が兼務され、高野専務(川航部長)とのお二人で経営されていたのだが、その下のメンバーたちはすべてメイハツ並びにメグロから移ってきた人たちだったのである。

明石に出来た単車営業課は、カワサキ自動車販売に対しての出荷・販売を担当する業務で当時出荷していた機種は 125B7 と 50ccモペットのM5 の2機種だったが、このほかに井関農機の『タフ50』というモペットも明石工場では作っていたのである。

 

 

 

 

カワサキ自販の販売先は、当時はまだ日本各地に自己資本の代理店が存在していてそこを通じて『サブ店』と称されていた自転車屋さんを中心とする店に委託販売していた、そんな時代であった。メーカーの数も100社以上もあった乱立時代からは少なくはなってはいたが、三菱重工も、富士重も、トーハツも、まだ二輪車やスクーターの生産をしていたのである。

カワサキは二輪事業をスタートしたばかりで、最初に世に出した125ccB7がフレームの欠陥でどんどん返却されて、私が営業部に異動した翌月の昭和37年1月の生産台数は、出荷台数より返却台数が上回ってマイナス17台の生産台数を記録したりしたのである。

エンジンの専門家はいたのだが、フレーム関係は素人だったのだろうと思う。どんな欠陥だったのかは覚えていないが、兎に角フレームが悪くて毎日全国からの返却が続いたのである。

 

★当時は125cc以上には、『物品税』が掛けられていて、それは工場の門を出る時に掛けられ戻ってきたときには『戻入』として掛けられた『物品税』が戻されるルールなのだが、その手続きは税務署職員の立ち合い検査もあって厳しくなかなか大変なのである。

工場出荷時の状態』であることが原則だから、メーターが少しでも回っていたらダメなので、製造部の連中がメーターを巻き戻したりする『中古車屋』みたいなことをやっていたのである。

営業に異動したその日に、小野助治次長から『物品税を研究してくれ』が最初に言われた指示なのだが、ホントに誰も何にも解っていなくて大変だったのである。当時は カワサキ自販の明石事務所が通称4研という工場内の建物にいたのだが、ここに出荷しても工場内だから物品税を掛けられないのだが、カワサキ自販への売り上げ台数にすべて掛けて支払っていて、これは全部間違いなのである。

物品税は、大阪国税局の直接の管轄でその監査の時にそれを指摘されて、『知りませんでした』と言ったら『君は知らなくても、川崎航空機が知らなかったというわけにはいかない。物品税は申告税だから体刑もありうる』などと脅かされたりしたのである。

ことほど左様に誰も経験のない『新事業』で、何にもできていなかったのである。この年の半ばごろになってから、返品などが続くものだから生産台数・出荷台数が解らなくなって、最初からの台数を調べてももう一つはっきりしないのである。 今なら考えられないことだが、辻褄の合わない台数は私が勝手に調整して、延べ台数の資料を纏めたりしたのである。兎に角、B7は大変な車だった。工場は返却車で膨れ上がって、置き場所に困ったほどである。

そんな状況だから新規事業も不安定で、この年だけでも3回ほど職制変更があったりしたのである。ただ、私はこんな混乱期の業務を独りで裁いていたので課長や次長には大いに頼りにして貰って、2回目の職制変更の時からは係長は課長の兼務で『係長心得』のような形にして貰っていたのである。

 ボーナスの査定時に『古谷は満点』と次長が言っていたと先輩の坂口さんが教えてくれたのだが、その満点の査定の夏のボーナスは53,800円というそんな時代なのである。ちなみに冬のボーナスの平均値が川崎重工が60,000円、川崎航空機が58,000だったのである。

ニュースで言ってたが今年のメーカーのボーナスの平均は88万円だとか、時代は変わるものである。

 

★私の仕事としては『営業業務係』ということになっていたのだが、入社6年目だが6人ほどの部下がいて、非常に『広い範囲』を担当していて、毎月の営業生産連絡会議の事務局も担当だったが、土崎専務も出席されるので、営業サイドのカワサキ自販の発言力が圧倒的で、製造や技術サイドは、B7がクレームがあったこともあり謝ってばかりの、今では考えられないような末端上位の雰囲気だったのである。

私はその事務局として資料関係の作成やその議事録も担当していて、めちゃくちゃ忙しかったのである。

私事ではこの年中に結婚することにしていて、小野助治次長に仲人をお願いしていてそれは引き受けて頂いたのだが、忙しすぎて結婚式の日取りがどうしても決められないのである。どんどん伸びて12月になり、それも月の前半はダメだということで、12月21日という年も押し詰まった日時に決まったのである。

今年が結婚54周年だから、54年前の話なのである。

 

★この1年は、全く初めての二輪事業という仕事であったし、あっという間に1年が過ぎてしまった感がある。

B7の販売結果がもう一つで、カワサキの二輪事業がどうなるのかもよく解らぬうちに過ぎて行ったのである。

10月末にはモータショーも開催されて、『125B8』が発表されたのだが、まだこの時点では特に目立った機種でもなかったのだが・・ この125B8 がカワサキの二輪事業の命運を分けた機種になるのである。

この年のスターとの時期は、小野助治次長・北澤課長・壱岐係長だったのだが何度も職制変更など人事異動もあって、樽谷課長になったり、坂口・室・長谷川さんなど優秀な人材も単車に集まってきたし、後、カワサキのレースを最初に担当した川合寿一さんなども勤労からやってきて、岐阜の産業車両なども扱うことになって行ったのである。

そんな変化の中で、私自身は業務担当ということで『体のいい何でも屋』で何でもやらされていたのである。

企画・営業・営業管理・広告宣伝・サービス・会議事務局などなどいまなら何十人もの人がやってることを私以下の数人でやってたので、『その忙しさ』は普通ではなかったのである。

そんな忙しかった1年だったが、12月21日から翌年の年始まで『結婚休暇』を2週間も取れたので、私にとっても想い出多い『昭和37年度』だったのである。

一言で云えば『大変な年』だったのである。

 

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

 

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忘年会 雑感

2016-12-23 07:05:29 | 発想$感想

★ 12月は忘年会の月である。

 84年生きているが、私は『忘年会の記憶』は殆どない。

 別に、酒を飲まないわけでもないのだが、現役時代はずっと二輪関係で、安全運転関係にも色濃く関係していたし、三木から明石まで車通勤だったので、明石にいる時は一切酒を飲んでいないのである。 酒席でも酒を飲まなかったので、『古谷は酒を飲めない』と思っている人も多いのである。

先日あった、Z1会の年次総会兼忘年会も明石だったので酒は飲まなかったのである。 飲めるのに飲まないのは、我慢が要るので出来る限り、酒の席は明石では避けてきたのである。

逆に、東京などの出張先では結構、機会を作って飲んでいたのである。

 

★昨日は三木の街で、穂積さんに誘われての忘年会だった。

 昨年も誘って頂いたが、『誘って頂ける』のは有難いと思っている。

 70才を過ぎて引退してからのほうが、何度か誘われて『忘年会』なるものに出る機会が増えている。

 

 昨日は、こんな忘年会だった。

三木の街の 風凛香山 (ふうりんかざん)で鍋のあと、そのあとすぐ裏の あじさい で・・・

 

      

      

      

       

 

昨夜、また一人、Facebook の友達が増えた。 向山くんの同級生だという。

こんな動画に纏めたので、ご覧ください。

 

https://www.youtube.com/watch?v=OoS051eOYEo

 

 

      

 

      

 

 みんな三木の方だが、この数年の間に出会った方たちばかりである。

出会った順に、殿界さん、向山くん、樋口さん、穂積さん、辻さんみんなFacebook のトモダチで、なかなか気持ちのいいメンバーで、 いい時間を 楽しめたのである。

今年、初めてのカラオケだった。こんな機会でもないと、カラオケなど行くこともない。

 

       

 

       

 

        

 

★帰ってから、すぐ動画の編集をした。

結構時間はかかるのだが、その日のうちに、やることはやっておかないと気が済まぬたちなのである。

何とか、出来あがったので寝ることにする。

いま、11時40分である。

なかなかの、忘年会だった。

 

           

 

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結婚記念日

2016-12-22 06:34:43 | 発想$感想

★昨日は12月21日、今年は冬至だったが、私にとっては54回目の『結婚記念日』だったのである。

師走も押し詰まりもうその年も終わりに近いこんな時期に、なぜ結婚式を?

 

54年前、昭和37年(1962)は、カワサキにとっては、二輪事業がスタートした翌年、前年末の12月に初めて単車の営業部が新設されて、実質初年度の営業部スタートの年だったのである。

毎月毎月が多忙で、なかなか結婚式というわけにも行かなかったし、12月になっても月初めは営業会議などが詰まっていて、こんな押し詰まった時期にしか、結婚式の日程が取れなかったのである

その昭和37年度については、『カワサキの二輪事業と私』という自分史で次回どんな年だったのか、このブログでアップすることになっているのだが、とにかく忙しかったのである。

忙しかった』といっても、昨今の電通のように上からの押し付けでは全くないのだが、『二輪事業』なるものが川崎航空機にとっても全く初めてのことで『何にもできていない』のである。それをどう創り上げていくのか、それも自分で考えねば、誰も教えてはくれない前例のないことばかりなのである。

 

★やっと12月の20日過ぎにもなってやっと実現した結婚式だったのだが、野球部の連中がその日に忘年会にするから披露宴は3時ごろからにしてくれないかなどと勝手なことを言いだして、忘年会の一次会にされてしまったりしたのである。

 あれから54年、よく持ったものである。

最近はいろいろ文句も言うけれど、基本的には私のいうことに『すべてOK』で付いてきてくれた家内だったから、何とかなったのだと思う。12月21日の結婚式の日取りなども、一切何も言わなかったのである。

 54年前の結婚式、日記に何と書いたのだろうと調べてみたら、こんなのが出てきた。

 

  

 

  この日から、北陸から長野に1週間ほどの新婚旅行だったので、27日に振り返って1週間分を書いているのである。

 披露宴はなかなか楽しくて私も歌など歌わされたりして、家内も神戸高校なので旧神戸一中の校歌を歌ったりしたし、司会は先輩の坂口守次さんだったが途中から小野田滋郎さんが『俺にもやらせろ』と代わったりしたのである。

岡村先生とは、戦前の朝鮮京城の小学校の恩師で、後にも先にもこの1日だけお会いしたのだが、鹿児島県の喜界島から来て頂いたのである。

この披露宴こそ自分の今までの歩んできた姿をあらわしてくれたと思っているそしてそれでよかったと思う。これから先も同じような道を歩みたいと思う。』

と書いているが、同じような道が歩めたと思っている。

披露宴の時間が時間なので、とても一晩目は遠くには行けずに京都に一泊したのだが、三の宮から京都までは電車で小野田滋郎さんもご一緒だったりして、本来の新婚旅行は翌朝からだったのである。

 

★それにしても、54年とはお互い元気で『よく生きた』ものだと思っている。

結婚の前年まで、『肺結核』で1年間入院していたし、こんなに永く生きるとは思わなかったのである。

 

   

 

 これはたまたま、50周年の秋、アメリカの娘のところに遊びに行ってた時の写真である。

 あれからもう4年が経って、来年は55周年なのである。

 

   

 

 55周年は『エメラルド婚』 というらしい。

 最近は、晩年というか、老後という感覚は殆どなくて、結構お互い毎年の人生を楽しんでいる感がある。

 とにかく、『元気で、健康で』ないと生きている意味がないので、あと何年『元気で生きれるか』解らないが、自然に頑張ってみたいと思っているのである。

 

 ★『結婚記念日』といっても我が家は一般家庭とちょっと違っていて、家内は殆ど『結婚記念日』など気にしないのである。

 私が覚えていないと、間違いなく『普通の1日』になってしまうのである。

 『結婚記念日』に特に贈り物などしないから、気が楽である。

 『金婚式』の50周年も特に何にもしなかったが、実は昨年はちょっと家内に『贈り物』をしたりしたのである。

 昨年は、家内は足を骨折して入院中だったのである。どうしようかなと思ったが、病院に 緑が丘の『栄太楼で和菓子を買って持って行ってやったのだが、果たして覚えているのだろうか?

 今年は、特に何もない『54年目』の結婚記念日 だったのである。

 

  

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今村岳司 西宮市長 雑感

2016-12-21 07:04:30 | 発想$感想

★昨日、こんなニュースを見た。

  

 

   Googleで検索してみるとこんなページが現れた。

 

  

 

 風貌を見ただけで、『コレ 市長?』と正直そう思った。

 議会や、マスコミもみんな ペケ・ペケ である。

 そんな中で、こんな一行があったので、閑だったしいろんなことをチェックしてみたのである。

 

武井壮が今村岳司市長の批判報道に苦言「良い面も言ってあげて」

19日放送の「バラいろダンディ」(TOKYO MX)で、司会の武井壮が、兵庫・西宮市の今村岳司市長の批判報道に苦言を呈 ... しかし、武井は今村市長への批判が続出していることを認める一方で「こういうのを報道するときに、彼の失言だけを ...
 
 
 
★知らなかったが、西宮は『関西で一番住みたいまち』だそうである。
 
そんな街の市長さんがどんな人なのか?  Wikipedia  でチェックしてみると、こんなことが書かれている。
 
変わっているが、京大出でアタマはいいのだろう。
26歳で市会議員に出て、最年少でトップ当選したとある。 それも4期連続で当選しているので、西宮市民は『選んでいる』のである。
 

 甲陽学院中学校・高等学校、京都大学法学部卒業。大学卒業後、就職面接で「いずれ政治家になるので時期が来たら辞める」と宣言した上でリクルート入社し、1999年退社。西宮市議会議員選挙に無所属で出馬し、最年少の26歳でトップ当選した。

初当選後、6月に開かれた西宮市議会初日に「茶髪、ピアス、ひげヅラ」という格好で市議会に現れ、話題となる。選挙戦とはまったく異なる姿であったことについて問われるとあの方が選挙に通ると思ったから。こっちが本来の自分です」とコメントし、自らの出で立ちの意義について、「政治の業界には…若いやつが政治に目を向けたくなるような同世代のヒーローがいない。じゃ、おれが興味の対象になってやろう」と語った。以後、4期連続で西宮市議に当選し、うち初当選を含む3回は得票数トップで当選した。

 

さらに3年前は、市長に立候補して、自民党などが推す現職市長を降して、無所属で初当選とあるので、

このちょっと変わった『今村岳司』を西宮市民は、選んでいるのである

市長になったからも、いろいろとあったようである。

 

 

  

★ 武井荘は、ご自身の番組の中で、

 このニュースに、コメンテーターの倉田真由美氏が「センスがない」「(犯罪を)武勇伝のように語るのはどうよ」と批判すると、遠野なぎこも「この人が1番大人になれてないクソガキ」などと切り捨てた。
しかし、武井は今村市長への批判が続出していることを認める一方で「こういうのを報道するときに、彼の失言だけを取り上げるんじゃなくて、これまで成してきた政策とか、子どもに対する政策で、良いものがあるんだったら同時に紹介してあげて」と、今村市長を擁護する姿勢をみせたのだ。
さらに「『こういうことをやってきた人だから、こういうことも言ってる』って言ってあげるのも手じゃないかな? とは思います」「ただ、あげつらって悪いことだけを拾うと、この人、ただの悪い人になっちゃいますから」と、マスコミの報道に苦言を呈してた。

 

こんな風に言ってるので、何かいい面でもあるのかと、彼の『ブログ』を読んでみた。

 今村岳司 活動日記』 http://xdl.jp/diary/     というブログを書いている。

 

そこでも今回の問題に対する『彼自身の想い』みたいなのを述べているが、これを読んでも、彼を批判している人たちが納得するとは思えないのである。

何かないのかな? といろいろ読んでいたらこんな関西学院で講義をしているブログがあった。

 

   


これは、まともだと思った。

今までの政治の在り方がダメだと思っているのである。

  • 今村は有権者を「お客」と呼ぶ。これは社会人時代に営業マンとして身につけた「社会のリアルな感覚」を政治に反映させたものである今村は、「道路を広げたりカーブミラーを付けたりする政治に『お客さんが飽きてる』政治状況を根本から変えたい」と述べている。そして、「こっちも客を選ぶ」「『道路を作って』なんておれに言わないで」とコメントしている。
  • 阪神・淡路大震災では、西宮市の生家が全焼する被害を受ける。その時、震災対応に当たる自衛官や消防士の活動に感銘を受け、国や地域に尽くすために政治家を志望した[
  • 東日本大震災においては、当時西宮市議会議員であった今村はブログで「ボランティアの連中」について「被災していない人間に被災者の気持ちが分かるわけがない」「ボランティアは、被災者が食うべきものを食い、被災者が飲むべき水を飲み、被災者が寝るべきところで寝る」等と攻撃した。「要はプロに任せること」「被災地に必要なのは、プロだけです」とボランティア不要・迷惑論を展開した。このブログの内容はかつての被災者で、当時市議会議員の地位にある者の意見として、インターネットを通じて広く拡散した。

 

 ★ 基本的には発想はマジメなんだとは思うが、『やり方』が自分に正直すぎて『変わり過ぎている』のである。

 政治に対する基本的なコンセプトは、それでいいと思うが、あまり『突っ張らず』に『市長らしい』ところも『お客に見せる』ことも必要だとは思う。

若し私が『西宮市民』で、次回も『市長に立候補』したら、一票は投じるかな と思ったりしている。

特に『好きなタイプの人ではないのですが・・・』

 

 

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日本の運動部の問題点

2016-12-20 08:07:48 | 発想$感想

★東北高校の相撲部が問題になっている。

相撲部顧問が入浴前の部員をデッキブラシで殴る 福島・日大東北高』などとの見出しで書かれている。

名門運動部というところで、同じ問題が何度も繰り返される

なぜ、こんなことになるのだろう?

 

    

 

   

 ★こんな体罰を科すようなやり方でホントに選手の技量が上がるとでも思っているのだろうか?

日本の学校の運動部のあり方を根本的に見直す時期に来ているのではないかと思う。

特に、名門といわれるような学校で同じような問題が繰り返し起きるのである。

推測だが

多分選手個人を育てるというよりは、その運動部そのものの勝利とか、名前を売ることが第一義になっていて,選手の育成という面がおろそかになっているのだと思う。

このような『体罰』を受ける対象になる選手は、多分この相撲部のトップ選手ではなくて『その他大勢の中の一人に違いないような気がする。

ノコギリを下に置いての腕立て伏せなど、ケガするからトップ選手にはやらせにくいが、どうでもいい選手には、『頑張る見せしめ』のためにやらすのではないだろうか?

 

★ 野球でもサッカーでも、高校・大学では、名門といわれるチームは、部員が100人を超えたりする。 こんなに大勢いるとその扱いに、監督・コーチも困ってしまうのはよく解る。半分以上は選手ではなくて応援団みたいなものである。

こんなシステムが、体罰に繋がるのだと思う。

ある一定以上の人数は、チームにとっても不要だし、監督・コーチも見切れない。

部員の数を制限して、その中に入った選手だけにすれば、育てなければならぬ大事な選手だから、そんな無謀な体罰など科せられないのだと思う。(アメリカの大学ではそうなっているし、一般のスポーツクラブもそうなっている)

同じ日本でもプロの組織では、一切こんなことはなくて、制限数以上の選手はチームに残れないシステムになっている。

学校だけが、『育てる』ということの『本質』が解っていないのだと思う。

育てる』ということは、常に『選定』『剪定』があって、入学試験もそうだし、植物でも、枝や実も切り落として『育てる対象』を明らかにするのは常識なのである。

何故か学校の名門運動部だけが、100人もの大所帯のままだからおかしくなってしまうのだと思う。

 

★日本の運動選手たちも、最近は世界レベルに通用する人たちが珍しくなくなってきている。

そんな人たちのレベルでは、それなりに選抜された一定の数の中で、プロのコーチが技術中心に教えているのだと思う。

いま、問題になってる学校の指導者は、ホントにプロなのだろうか?

体罰中心で選手指導をするコーチなど、決してプロとは言えないのだと思う。

校長先生の一問一答など見ていても、そんな基本的はコンセプトが全然見えないところに問題があるように思うのである。

 

     

 

 強いチームを目指し鍛えるのなら、育てる目標を明確にし『部員数を制限』すべきである。

そこに入れない選手たちは、スポーツを楽しむ方向を目指せばいい。

 

 

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カワサキの二輪事業と私 その30   昭和32年~36年

2016-12-19 08:17:41 | 自分史

★ 私がカワサキの新しくできた単車営業部異動したのは昭和36年12月(1961)なので、二輪事業との関わり合いはその年からなのだが、当時の川﨑航空機という会社がどんな感じだったのか?

私は1957年(昭和32年)に川崎航空機に入社し、1999年(平成11年)に退社するまで、42年間カワサキにお世話になったのだが、正確に二輪事業に携わっていた時期は、1961年12月から1996年8月までの35年間で、最初の5年間は財産課最後の2年間は、北海道川重建機の経営に関わっていて札幌でサラリーマン生活を終わっている。

昭和32年は、『神武景気』と言われた時期である。その前年までは不景気で、大学を出てもなかなか就職がムツカシイ時代であったのに、一転『神武景気』となって各社とも大量の採用を行ったりしたのである。そんなこともあって、われわれ同期会の称号は『神武会』と名付けられているのである。

川﨑航空機は岐阜と明石にそれぞれ工場があり、本社は神戸にあったのだが、その本社の一部が明石工場の事務所の中にあったりした。後、カワサキの二輪事業のアメリカ市場の責任者として活躍された浜脇洋二さんは、当時の本社企画部所属だったが、私が入社したころは明石の事務所におられたのである。

戦前、明石工場は飛行機のエンジンを、岐阜はその機体を作っていたのだが、戦後軍事産業だということで会社は閉鎖されていたが昭和27年(1952)に再開したのである。再開された川﨑航空機は、明石ではエンジンやそれに関連する歯車関係を岐阜ではバスボデイなどの生産が行われていたのである。

小型の農業発動機のエンジンが一般のエンジンでは主流だったが、当時も『メイハツ』には二輪エンジンの提供もしていたのだがその部門は小さくて、私たちと同期入社の足立くんが独りで担当していたそんな感じだったのである。

 

★明石工場でのエンジン関係で特筆されるのは、アメリカ空軍のジェットエンジンの東洋で唯一のオーバーホール工場があって、空軍の関係者がいたり、アメリカ流のカフテリアが事務所の中にあったり、何よりも当時、日本にはまだなかったIBMでいろんな処理がなされていて、IBM室があったりしたのである。当時はまだ『ヘリコプター』関係も明石にいて、明石工場の中でも『JETエンジン部門』だけが別部門だったのである。

ちょっと脱線して、昭和37年以降の話にはなるのだが、新しく二輪事業を本格的にスタートさせる時期に、事務屋は川﨑航空機の本社部門からも明石の勤労からも多くの人材が異動してきたし、技術屋さんはJET部門から大量に異動してきたのである。

高橋鐵郎・桑畑禎文・田村一郎・田崎雅元さんなどその後二輪事業や川﨑重工業を支えたメンバーはみんなJET 部門からなのである。これらの人たちが主として生産・品質保証部門を担当したので、カワサキの生産管理システムは、JET部門の進んだアメリカ流の発想が自然に最初の時期から採用されていると私は思っているのである。

例えば、部品ナンバーの打ち方なども、カワサキの場合は、車種ごとではなく部品ごとに分類されていてたし、当時は部品課などはあまり重要視されていなかった時代に、初代の部品課長が桑畑禎文2代目が田崎雅元さんで、日本でも初めてと言っていい『自動管理システムの部品倉庫』が早い時期に造られたりした。

また当時は『サービス課』と称してアフターサービスをやっていた部門を担当した田村一郎さんは、『サービス』から『品質保証』という発想に切り替えて、当時技術部に所属していた二輪のテストライダーたちも、『品質評価』という観点から『品質保証部』に移ってきて、技術部の開発するバイクを客観的な目で評価するシステムが、本当に早い時期から創られて、そのライダーたちが、カワサキの最初に鈴鹿を走った飯原武志や清原明彦・山本信行くんなのである。

私が事務屋なのに、こんなことに係ったり、関心が持てたのは『レース』を通じて技術・生産・品証部門と何となく繋がっていたからで、田村さんが創った膨大な新しい資料も、品証が予算を持っていなかった時代に、十分な予算を持っていた広告宣伝予算から『秘かに』私が支援したりしたのである。そういう意味では私も品証に『貢献』しているのである。

 

★当時は、川﨑航空機の中でも4輪車の開発が行われていた時期で、私の一期下の稲村暁一さんは、その4輪車のエンジン開発を入社以来やってたようである。

当時の二輪車のエンジンは本田は4サイクルだったのだが、スズキもヤマハもカワサキも2サイクルばかりで、カワサキが4サイクルもやり出したのは、ずっとのちのメグロを吸収してからのW1の時代からなのである。それなのに稲村さんはなぜ『4サイクル専門なのか?』とずっとのちになって稲村さんに聞いたら、『入社当時は4輪のエンジンをやってました』との答えで、それでそのことを知ったのである。

カワサキが本格的に二輪事業をやろうと思いだしたのは昭和34年からだと思う。その当時に『単車準備室』というのが作られて主として生産関係の体制を整えるために、『資材関係』を中心にメンバーが集められて検討に入ったのである。

そして翌年の昭和35年度入社の新入社員は技術屋さんを中心に大量の人員を採用することになるのである。二輪車関係でも百合草・種子島・武本・竹本・大前くんなど名前が書けないくらい大量の人たちが二輪事業に入ってくるのである。

昭和34年までに川﨑航空機に入った人たちもその後多くの人たちが二輪事業に異動してくるのだが、入社以来ずっと一貫して単車というメンバーは、この『昭和35年組』からでこの人たちは入社以来ずっと単車だったという人もいるのである。

 

 ★昭和36年までに作られたカワサキのエンジンを使ったバイクは、カワサキではなくて『明発』『川﨑メイハツ』なのである。

 このころのことは私もよく解っていない。 当時は近畿メイハツにいた平井稔男さんがこんなブログで当時のことを書いている。

    http://toshihirai.exblog.jp/12795146/

 

 抜粋してご紹介する。

 1950年後半モーターサイクル産業に進出したカワサキは当初エンジンのみの生産でメイハツ(明発工業㈱)によって自転車に取り付ける物として販売されており、カワサキのブランドのモーターサイクルを持つまでには至っていなかった。・・・・・・
  各地に散在していた川崎航空機工業㈱の工場で、そのエンジンは作られていた即ち高槻工場では’50年にKE125、’52年にはKH2504サイクルOHVを?時期を同じく播州歯車工場では2サイクルKB60エンジンを生産していた、このエンジンは大日本機械工業㈱(光号という名の自転車メーカー)で発売されていた。
 戦争中、疎開の為に散在していた各工場は’53年から再び明石工場に集結し、

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*この写真よく見たら新しいものであるよ左下の国道2号線とJRの交差する正門前に安全運転コースがある

 ・・・・・・その後、’60年には明発工業㈱&目黒販売会社を吸収合併して「川崎自動車販売㈱」を設立、「KMJ」(カワサキモータージャパン)の祖先である。
 

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 こうして完成車の生産と販売が結び付き、改めてモーターサイクル産業に本腰を入れだしたのである、そうして’58年にはセル付きエンジンKB-5AS型を完成、ニューモデル125ccエース(フロントにボトムリンクを採用時代に即したバイクでシートが横開き・タンクはカマボコ型なにかしらマークがメイハツのMマークがスリッパであった)が生まれた。


 

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 ・・・・・ ’60年8月メイハツとして最後のモデル実用性能抜群の「ニューエース」125cc、・・・

明石工場に総工費40億を投入月産4500台可能の工場が出来上がり東京金町・立石工場が閉鎖され明石工場を主力に生産が始まったのである。
・・・メイハツからカワサキへの転換であったのである・・・t-hirai

 

★ ここまでが 『メイハツ』でカワサキの一貫生産となって初めて作られた機種が この125B7 と 50ccM5 というモペットなのである。

 この125ccB7は大変な機種で、私はこの機種の販売・出荷を担当したのだが、出荷というより、フレーム欠陥による『返却作業』のほうが大変だったのである。

それについては、私の『単車担当1年目』とも 言える次回の『昭和37年度』で詳しく纏めることにする。

    

 

 

 ★ 入社以来、単車営業部に異動するまでの5年間は、私は財産課で財産物件の管理やその減価償却などを担当していたのだが、最初にやった大きな仕事は『原価償却のIBM化』で完成まで2年ほど掛かったのだが、川崎航空機のなかでジェット部門以外では初めての『IBM化』だったのである。

それが完成して、財産課の償却計算をする人など要らなくなって、当時初めてできた『単車営業に異動』したのだが私にとっては非常に想い出多い5年間だったのである。

財産課の隣の給与にいた家内も見つけたし、肺結核だったがずっと野球をやってたが、それが医者に見つかって、単車営業に移る前の1年間は入院させられていたのである。

1年間の入院で『空洞』も消えたし、単車にも動けたし、運がよかったなと思っている。

次回からは昭和37年(1962)から1年ごとにどんな年であったのか、カワサキの二輪事業と自分史を綴ってみたいと思っている。

 

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

 

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師走 雑感

2016-12-18 06:43:44 | 発想$感想

★ 師も走るという 気忙しい12月ももう半ばを過ぎた。

来年は私は84歳の年男家内も80才を迎えて、超高齢者家庭になる我が家は、昔のように12月も忙しくなくなった。

だんだんと、『ずぼら』になってきて、家の掃除も大してしないし、第一『年賀状』も書かなくなった。

おせち料理も、するのかしないのか? おせちを作ってみても、やってくるアメリカ育ちの孫には、そんなに評判がよろしくないし、一滴の酒も飲まないので、家内としては多分『精が出ない』のだと思う。家事の判断の対象が、私よりは孫のほうに移っている。

正月・元旦も、1年のうちの1日化 に毎年・毎年なっていくような気がする。

 

       

 

                

 

 

              

 

             

 

 そんな中で、毎年この時期になると 正月を感じさせてくれるのは、庭の せんりょう まんりょう の 赤や黄色の実 だけかなと思ったりする。

千両・万両 と ネーミングも元旦に 似合っている。どんどん増えて 我が家の 庭だけは 千両・万両 がいっぱいなのである。千両は、 株分けで増えてるのだが、万両は放っておいても、種が落ちでどんどん増えるのである。

 千両も、万両も、園芸店や花屋にに行くと、この時期結構な値段がついている。

 『そんな高い値』を見て、気分をよくしている 師走なのである。

  

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