雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

KAZE 機関誌 と Kawasaki ニューモデル情報

2010-06-30 05:13:48 | ジェットスキー&KAZE
★KAZEの機関誌が送られてきた。
最近は二輪車やジェットスキーのこともとかく疎くなってしまうのも仕方がないのだが、何とか情報を繋いでくれているのが、KAZEの機関誌や二輪車新聞である。

ただ、最近は、これに加えて『ツイッター情報』が、タイムリーである。
この機関誌が、近く送られてくることも、
ニューモデルの情報も、みんなツイッターでは、先に流されている。

★一番先に、ニューモデルのことに気付いたのは、
まっしまさんが出している、『モトビークルのこんなブログ』である。

Ninja400のニューモデルが出るんだ。
このブログはアップされると、こんなサイトのトップに現れるのである


調べて見たら、カワサキの公式ツイッターでも当然ながら、先に情報発信されていた。
まっしまさんの情報源も、多分このツイッターなのだろう。

ちょっと遅れて、KAZE機関誌である。
『果たして、この情報が載っているのかどうか?』
非常に関心興味があって、開いてみたら、
                   
 見開きのページで、掲載されていた。 『流石だな』と思った。
こちらの写真クリックすると、読めます

    


ツイッター検索で『Ninja400R』を引くと既に500件以上がつぶやかれている。
toraichiさんという方が
『カワサキのKAZEが届いた。Ninja 400R結構カッコイイ。400ccがんばれ!っていう感じ。』 とつぶやいたりされている。

最近の情報は、複合発信である。
それらの相関関係をちゃんと把握していないと、テレコテレコになってしまう。
特にカワサキとは直接関係ない『まっしま』さんのモトビークルに載って、KAZEの機関誌に載っていないでは、格好つかないのである。

メインの記事の位置づけで掲載されていて、良かったと思う。
このごろの、情報は本当に早く流れる。
まだ、この情報を流している販売店のホームページはないだろうと思っていたら、

もう、ホームページのメインに扱って載せている店があった

モトボックスセキさん、ツイッターもおやりだから、ツイッターでもつぶやけばいいのにと思ったりする。
それにしても、早くちゃんと対応できるようになっているものだと思う。

★Ninja250は、ヒット商品だった。
Ninja400R も是非、ヒットして欲しいと思っている。

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タケタクさんのブログ

2010-06-29 04:47:23 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
★武雄市長の樋渡さんとブログで繋がったおかげで、武雄のいろんな方と何となく繋がっている。

三木のさるとるさんや熱血漢丸坊主さんなどは、武雄市まで出かけて、選挙応援したりするほど、三木には熱烈な武雄ファンは多い。

私はまだ一度も武雄市を訪れたことは無いのだが、Google mapでは何度も空から眺めているので、何となく武雄のまちは解っているような気もしている。

★そんな武雄で、
ホントにお世話になっている方がいる。

『武雄温泉として 有名な 佐賀県武雄市のタクシー会社です。西九州観光の宿泊拠点 武雄温泉から、長崎・熊本・大分など、九州各地への観光タクシーもご利用頂いております。さらに訪問介護事業者として・・福祉車両も保有し、おかげ様で移送実績も豊富で皆さまから好評を受けるまでになりました。武雄温泉においでの節は、よろしくご利用お願い申し上げます。
こんなブログもやっています』

とさりげなく、NPO The Good Times の会員紹介に書かれている。
『タケタク』さんは武雄のタクシー会社なのである。

2006年の6月から、ブログをはじめられて、私もブログを始めてからずっと手本にしているようなブログなのだが、
私のパソコン技術ではとても足元にも近づけないのである。

★じっくりブログをご覧になれば解るのだが、
大げさに言えば、このブログを見たら『武雄がわかる』と言っていいほど
武雄のすべてがリンクされているのである。

そのリンクは、武雄だけではなくて
『あるきっかけから訪問したブログ』として、ホントに早い時期から
この「カワサキバイク雑感日記」を紹介いただいていて、
さらにまた、NPO法人 ザグッドタイムス もリンクして頂いているのである。

★NPOを立ち上げた際、ホントに厚かましく参加頂けませんか?
と声を掛けたら入って頂けたのである。
それ以来、何のお役に立つことも無くて、心ぐるしく思っていたのだが、

ごく最近『ツイッター』をやりだして、
それもNPOとしての公式ツイッターにして、
会員さんの情報を、『広く全国に流すこと』でいろんなお手伝いをやり始めたのである
このブログも毎日ツイッターで紹介しているし、
一番手っ取り早いのは、会員さんがツイッターをおやりになって、
そこに『いい情報』を流されたら、それを『リツイート』しているのである。

最近『たけおブログ』のなかにも『ツイッターのコーナー』が出来て、
『タケタクさん、ツイッターおやりにならないかな』と毎日チェックはしているのだが、
私が見落としているのか見当たらないのである。

★私のほうの公式ツイッターもこの月末で
フォロワー3万人
全国での順位200位ぐらいも7月中には十分狙える位置にきた

武雄の情報を、毎日でも全国3万人以上に情報発信できるのである。

タケタクさん、『ツイッターおやりにならないかな』
そうすれば、幾らかでもご恩返しが出来るのにと、
恋人を待っている心境なのです。


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私の母、101歳の誕生日です。

2010-06-28 04:44:26 | 自分史
★6月28日は母の誕生日である。
明治42年生まれ、101歳になる。
お蔭様で元気と言うべきか、自分のことは大体自分で出来る。

今日は、妹たち4人が誕生日を祝ってくれると言うので、
私の次の妹の明石に送っていって何日か、そちらで面倒を見てもらっている。

幾つになっても、女性の話は独特で、女ばかりの話のほうが気が休まるはずである。
父が52歳で亡くなって、そのとき母は、考えてみると42歳、私が高校3年、と言うか4月には大学1年であった。
家には大学、高校、中学、小学校1年生と5人兄妹の内、4人が1年生であった。

昭和27年(1952年)まだ戦後の状況が残っていたかも知れない。
そのあとの一家の家計は、すべて母が働いて支えた。
私は大学は、授業料免除で奨学金を貰っていたから、母に迷惑は掛けなかったが、家計などの足しには、全然ならなかったのである。
その頃には金の蓄えなど全く無かったから、母は大変であったと思う。

★母の里は、岡山である。
今の韓国でも鉄道敷設など土木事業をやっていた。
その事務所が、ソウル、京城にあった。
父は、何も仕事らしいことはしていなかったし、この自分史を書くにあたって,なぜ大田から京城に移住したのかその理由がわからずに、母に聞いてみたが、もう1つよく解らないのである。
ひょっとしたら『里の事業でも手伝うためだったのかな』などと頼り無いのである。

この自分史を書こうかなと思った理由のひとつは、母は記録を残しておきたいと思うと思ったからである。
母の兄弟は男3人、女3人の6人兄妹である。
私が言うのもおかしいが非常に優秀ではあるが、特に男兄弟は、ちょっと変わっている。

★長兄は、京大を出て大阪市大の教授をしていた学者だが、戦争でベトナムで亡くなった。立命館大学の学長をされた末川博さんの妹さんと結婚したと言うが、私が物心ついた頃には既に亡くなっていて知らない。
私とほぼ同じ年代の3人の男兄弟がいて、それこそ両親の無いまま、立派に育った。
ごく最近、その長男のかたが、祖父(楠見忠三郎)のことを中心に楠見家のことを150ページに『あしあと』として、文献や資料を付してまとめている。
楠見家の総領として纏められたのだと思う。
それを母のところにも1冊送られてきていて、私も見せてもらったが、とても私には真似の出来ない、学者の方が纏めたような詳細な記録である。

★その3兄弟は、戦時中は岡山の祖父の家で、戦後は次兄の楠見幸信が面倒を見ながら、それぞれ独立していった。

その楠見幸信は、ちょっとした有名人である。
慶応の野球部の黄金時代、宮武、山下、水原などいた、昭和のはじめの4年間慶応のセンターを守っていた。
プロ野球もまだない時代で、全国の熱狂的なファンに東京6大学野球が支えられていた時代で、アメリカのプロ選抜チームが来日したときの全日本チームのセンターにも選ばれている。当時のブロマイドの売れ行きトップであったとか。

『あしあと』には20ページ以上もこの頃の野球雑誌の記録などが纏められているが、雑誌の表紙を飾ったり『日本一の外野手』などの表現などもあって、スター選手であったことは間違いない。
慶応卒業後は藤本定義率いる東鉄にいて、出来たばかりのジャイアンツと互角以上にに戦ったとか、藤本定義はそんなことでプロ監督に入ったとか記述されている。
水原、三原、苅田などの名前が全日本のチームに見られる、そんな華やかな時代であったらしい。
その頃の、早慶戦を見た母から、何度と無くそんな話を聞かされたが、その記録を見るとなるほどと思ってしまう。

戦後そんな関係で、国鉄スワローズの初代総監督を5年ほど引き受けて、その後も球団の役員をしていた。
渋谷に家があって、東京出張のときはよく泊めてもらった。
金田正一が入団のとき関ったようで、金田が渋谷の家にはよく遊びにきたようである。

一番末弟の叔父は昭和の生まれ、私よりは少し上だがまだ健在である。
音楽などに堪能で、私が子供の頃からピアノなど弾いていた。その頃は確か、自転車も乗らなかったのではと思う。
大林組から独立して、設計事務所を開いている。
奥さんは、熊本のお殿様、細川元総理の娘さんを貰っている。


3人3様、不思議な男兄弟ではある。

★楠見幸信は、京城にいた私が小学生の頃、最初の妻に先立たれて再婚する前、半年ほど私の家で、一緒に生活したこともあるのでよく知っている。
戦前のあんな時代に、レコードをいっぱい持っていて、葉巻をたしなむなど、
まさに慶応ボーイであった。

以前『昭和初期の野球界』というブログを一度だけかいたことがあるが
いとこの書いた『あしあと』には雑誌の記録や写真などもいろいろあって、
私には野球の部分が一番興味があった。

★そんな母の実家だが、今は岡山には何も残っていない。
確か西田町と言った、岡山駅の少し前を流れている川に屋敷の裏が面していて庭の泉水にはそこから水が引かれていた。鯉やなまずが勝手に池に入ってきていて、魚好きの私のお気に入りの池だった。
最初に泳げるようになったのはこの池でのことである。

小学校の頃、明石に帰省したおり、岡山にも立ち寄っていたので、当時小学生で同じ年頃だった3人のいとことは良く遊んだ。
ただ、それ以来、いとこたちとは、1回も出会っていない。

母は、10年ほど前までは、東京に出向いて、親戚づきあいもしていたが、
私は、どうもそういうのが面倒で、みんな母や妹に任しいてきた。
今日は母の誕生日だが、妹たちに全部お任せである。
ただ、日頃はすべて私と家内で面倒を見ているので、
いつもは何もしない妹たちが、たまには面倒を見てお祝いをするのもいいと思っている。

こんな母の実家の話も、子供たちにも話をしたこともない。
ちょっとブログにでも、残しておくほうがいいのかなと思って書いている。

★それはそうと、
6月28日は、アメリカにいる一番上の孫の誕生日でもある。
娘はブログを自分でも書いていて、このブログも読むだろうから
ちょっと書いておかぬと、『忘れている』と思うかも知れない。
何も気を遣っていないようで、結構気を遣っているのである。

おばあちゃんも、力也も 『誕生日おめでとう』

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小学生だった頃の時代

2010-06-27 04:49:46 | 自分史

★単なるブログなら、気軽に書けるのだが、
『自分史』というカテゴリーの中で書くとすれば、あまりいい加減なことも書けない。

特に、時代背景というかその年表ぐらいは、ちゃんとあっていなくてはと思う。
私が小学生の時代といえば、日中戦争から大東亜戦争(そう呼ばれていた)の真っ只中である。

いつどうなったかというのも何となく覚えてはいるが、改めて年表で調べてみた。


昭和12年7月7日に日中戦争が始まっている。
私の5歳の頃である。

日中戦争の長期化で欧米と日本の関係は急速に悪化した。
昭和16年12月8日にハワイ真珠湾攻撃があって、大東亜戦争は始まったのである。
12月8日、よく覚えている小学校3年生の頃である。
そして、昭和20年8月15日の終戦まで、外地で空襲などは一切無かったのだが、戦争のさなかに子供時代を過ごしたのである。

こうしてみると、子供時代は戦争とともに過ごしていた。
終戦間際の2年間ほどは、本土空襲などもあって、全く勝ち目の無い負け戦だったのだが、
最初の半年から1年ほどは、その勝ちっぷりもすごかったのである。

★ハワイ空襲のあとマレーシアを攻めた。シンガポールも直ぐ陥落したし、確か英国と豪州は降伏したのである。
提灯行列が行われ、ゴムのボールを頂いた。

確か、紀元2600年の翌年でみんな意気軒昂だったのである。
世界地図の白地図が配られて、日本が占領したり統治したところは、赤く塗るように言われた。

日本も朝鮮も台湾も満州も赤かったし、中国の半分ぐらいは赤く塗れた。
そしマレーシヤもフィリッピンも、シンガポールは昭南島と名付けられたのである。
今のインドネシアの半分くらいまでは、赤くなった。
子供心に『世界はみんな赤く塗れる』と思ったものである。

そこまでで、この塗り絵も終わりであった。


★アメリカとの戦争が始まった小学生の3年生の頃から、5年生ごろまでは、夏冬の休みに朝鮮から明石まで帰省していた。
そんなことで、戦災にあうまでの神戸、明石も何となく覚えているのである。

関門海峡で連絡船が潜水艦に撃沈されてから、それからは本土空襲も始まって、とても帰省など悠長なことは言っていられなくなったのである。

当時の朝鮮での小学生(確か小学校ではなく国民学校と呼ばれていた)は、
今のように「子供、こども」でなく育てられたような気がする。
親も学校の先生も、甘やかすことなくとにかく厳しかったような気がする。

逆に、子供たちも親や先生に甘える態度など一切無かった。
父に遊んでもらった経験など一度もない。


★所謂、修身、道徳。「教育勅語」と「宣戦の大詔」を毎月聞かされて育った年代なのである。
校長先生が読まれるのを直立不動の姿勢から頭をたれて、ただ聞いていた。

教育勅語はただ、みんな暗記させられた。
教育勅語はまだ何となく意味が解ったが、
宣戦の大詔」のほうは、ほとんどその意味も解らぬまま、毎月8日の大詔奉戴日には聞いていたのである。

検索で調べてみたら、出てきたので、リンクしておきます。
こんな難しいことを、その意味も特に解説無く一方的に聞かせていて、聞くほうも何の疑問も持たずに、襟を正して聞いていた。
1年生から6年生まで、校庭にたって聞いていたのである。

★そんな環境の中で、別に疎開も空襲もなく、授業は確りとやられたように思う。ただ、男女共学ではなくて、5年生からは兵隊さんが来て、教練らしきこともやったし、軍服のボタン付けなどもやらされた。
ボタンは二の字に糸が真横になっていないと不合格で、斜めになったものは検査をする兵隊さんが鋏で容赦なく切って『やり直し』であった。
ズボンの今ならチャックの部分の『まつり縫いを半針返し』でやらされたりもした。

こんな環境の中で育ったが、トモダチとの遊びは結構楽しく、外で遊んでばかりいた。そんな子供の世界はチャンと独立して存在していたと思う。

今の子供たちよりは、間違いなく確りしていたと思うのは、『思い過ごし』であろうか?
若し仮にそれが正しかったとすれば、時代の環境がそうさせたのだと思う。

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ワールドカップ、参議院選挙、 ツイッター、 いろいろあるけど

2010-06-26 05:15:41 | 発想$感想
★参議院選挙が始まった。
ワールドカップは1次予選を突破して、めでたくベスト16である。
決勝戦は7月11日、参議院の投票日と同じ日である。

選挙も始まってはいるが、ワールドカップもこれから本番である。
世の中の関心事はどうなのだろうか?

これに加えて、私の周りもいろいろいっぱい目白押しである。


★5月から本格的にやりかけたNPO The Good Timesの公式、ツイッターはフォロワーが6月末には3万人になるだろう。
今朝現在も既に27000人を越えている。
兵庫県で今3位、全国でも250位ぐらいには位置している
5万人を越えたら全国で100位ぐらい、有名人を除いたら間違いなくトップクラスになる。
毎日5時間以上の単純作業だが、夏の終わり頃には、ぜひ達成したい。
そんなことで、『ツイッター』も毎日結構忙しい。


★7月からは、アメリカにいる娘と孫が、夏休みでやってくる。サッカーをやっているので、ワールドカップ期間中は、テレビで大変だろう。
よく食うので、家の食事の内容が一変するはずである。
サッカーの相手も、カブトムシ採りもねだられるから、忙しくなる。


★それに、淡路岩屋の『潮流発電』がいよいよ佳境に入るはずである。
先日、船への取り付けを完了した。ちょっとしたテストでは『まぐろタービン』は上手く回ることまでは確認できた。
昨日、海上保安庁の許可も下りて、今朝6時から船を岩屋まで曳航していよいよ現地での発電実験のテストがスタートする。

今日は現地まで、行ってみようと思っている、
先日、NPOの会員にもなってくれた、ABCの『ニュースゆう+』のデイレクターさん「2010kawauso」さんからも、26日は現地に行きますとのメールも頂いた。


★こんなことで、とても参議院選挙どころではないと思っていた。

事実、あんまり選挙には関心が無いのである。
投票ぐらいは行くだろう。
元々が無党派層で、その時々で誰に入れるか決めているのだが。

民主党のこの地区の衆議院議員の高橋昭一さんとは、
『潮流、海流発電』の従来からのノヴァエネルギーの応援者と言うことで繋がったのだが、
『ネットや広報』が得意の分野で、そちらのほうで話が通じるのである。
ブログも眠っていたのを『ちゃんとやりましょう』とズケズケ言ったら、眠りから覚めて、今朝のブログはこんな話題である
ツイッターは私が薦めた翌日から直ぐスタートされた。
元々民主党の『民主君』の漫画を制作したりして、プロの領域なのである。

昨日、秘書さんから電話が掛かってきて、『選挙の投票』のことかと思ったら
民主党のホームページに選挙用の菅さんの動画を作ったので見てくれというのである。
先日来、民主党の広報委員会の副委員長になっていて、
今回の動画も、
『デイレクター 高橋昭一』『カメラ 高橋昭一』 『編集 高橋昭一 』 となっている。みんな独りでやったということだろう。

こんなの造ったから、『ぜひ見て下さい。』と秘書さんからの電話なのである。
なかなかスマートに纏まっている。
自民党の動画と比較したら、これ長さも内容もこちらのほうがいい。

ホームページの真ん中の動画である。時間と関心のある方は、ちょっと見てあげてください


★いろいろあるが、やはり『潮流発電』が一番の関心事である。

先日のNHKの各党首インタビューの中で菅さん、何を想定しているのか『海洋エネルギー』と確かに言った。『潮流、海流発電』は公明党も熱心だが、こんな話はぜひ超党派でどんどん進めて欲しい。
いつの日にか、高橋さんに『潮流発電の動画』を造って欲しいと思っている。

先日の撮影は、そんなことで当方もプロを使って、ちゃんと撮影したのである。

今日は岩屋で『まぐろタービン』どんな進展を見せるのだろう。
昨夕のノヴァエネルギーの公式ツイッター

「皇国の興廃この一戦にあり」日本海海戦にのぞむ東郷元帥の心境です。 八百萬の神が私を応援してくれるでしょう。いよいよ明日午前6時から始まります。 しばらくは岩屋事務所での滞在、私にとっては戦場です。 「新エネルギー革命」の!^^ 』 開発者鈴木清美さんの心意気である。

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信念の管理、アバターそして神々の信念体系

2010-06-25 04:24:18 | 発想$感想

★一昨日の夜、近くの山本医院の先生に誘われて、
『信念の管理』アバターの導入レクチャーのようなものを、3時間ほど受講してきた。

山本先生は、こんな医院を私の町で開いておられる
NPO The Good Times の団体会員さんでもある。


山本先生はブログもツイッターもおやりである。
三味線教室もやっておられる。
そして、このアバターも、アメリカまで受講に行かれたりしておられるのである。

『信念の管理』とはすごいなと思ったが、
『belief 』 英語で言えばビリーフ、信念という訳も確かにあるが、講義を聴いた感想でいえば、
『ずっと日頃、思ったりしたりしている考え方や態度』ぐらいのことかも知れない。

日本語の言う仰々しい『信念』とは、ちょっと異なる次元の話のようにも思った。



★病院とは思えないような綺麗な待合室の一角にこんな器具を使ってレクチャーはすすめられた。

私は、こういう講習会や研修会のようなのは、どうも性に合わなくて苦手である。
そして、聞くだけならちゃんと聞いているのだが、グループ分けなどして、やらされるのは耐え切れないのである。結果としては全く不真面目な受講生であった。

ただ、好奇心から、或はマーケッテングの観点から、斜めに客観的には見ることが出来たし、そういう意味では非常に面白かった。

アメリカ生まれの発想だから、ちゃんとしたシステムの中で講義も進められる。
人のタイプを4つに分けて、その説明がある。学問やこのような世界では、仕方がないのかも知れないが、千差万別の人間を4つに分けること自体にムリがある。

私のように『いい加減で、ネアカで』 すべて『差別化』して生きることを、
それこそ『信念』として持ち続けた、普通でない『奇人、変人の類』から見ると、
申し訳ないが、とてもツイテはいけないのである。
途中までやって投げ出してしまったので、担当の先生はさぞ、お困りになったことだろう。

私のほかに、5人ほど受講されていたが、私以外は多分ちゃんの最後まで、コースをおやりになったのだと思う。


★自分の想いを実現するために、
どんな風に発想するといいのか?
どのように、自分の生きる態度を変えるべきなのか?
自分自身を前向きに変える、そんなことが基本的なテーマなのだろう。
そうすることで、人生は明るく楽しくなる。

その通りだと思う。

普通一般の真面目で、物事を普通に考えて生きておられる方は、
思いつめたり、ストレスがあったりするのだろうし、こうしたレクチャーを受けて、考えられるのはいいことだと思う。

、性格テストでも『反省を全然しない』と0点の評価の私には、あまり人生や、仕事や家庭に悩みなどないのである。仮に悩みがあっても大して悩まずに、直ぐ『運がいいから、何とかなる』と思ってしまうのである。


★4つのタイプの最後が面白かった。

『意図的に作り出された信念が含まれている。これらの信念は、それを創る人が経験や新しいものの見方を得るために創るもので、究極的には自分が制限の無い源であることが確かめられる。これは神々の信念体系である。アバターはタイプ4の信念体系である。』とテキストに書かれている。

英文の和訳なので、文章が仰々しいが、私は全くこのタイプであると思う。
神様は反省なさるのかどうかは知らぬが、
ここで言う『信念』は冒頭の私流の解釈をすれば、まさにこのように生きてきた。
「制限の無い源」とは言えぬがあらゆる制限を切り抜けるテクニックは間違いなく身についていて、例えば『うるさい上司』など全然問題なく生きてこれたのである。

★貴重な3時間ではあった。
担当の先生にも申し上げたが、アメリカの発想だから、原文が英語であるのは仕方がないが、それを訳しているだけだから読んでも意味がさっぱり解らないのである。

冒頭写された動画でアメリカ人たちが大笑いするのが、いかにも不思議な光景にしか写らないのである。これはみんな訳文の性である。
日本で広めるのなら、ちゃんとコンセプトを理解して、ちゃんとした日本語のテキストを作られたほうがいい。
隣の女性も『何とかいてあるのかさっぱり解らない』と言われていた。

講師の先生も、ただテキストを読むのではなしに、自分の言葉で話されたほうが説得力はあるのだろうが、そうするとレベルが統一できないのだろう。

コンセプトを一般の方に理解してもらうのは、これは『至難の業』である。
もう、何十年間、そんなことばかりして生きてきた。
それは『神々の信念体系?』そんな言葉が聴けただけで、良かった。


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梅雨どきの庭

2010-06-24 04:53:38 | 日常生活、園芸、バラ

★自分の思い違いかも知れぬが、
6月は梅雨の時期と言われるけれど、毎年晴れる日が多くて、実際に雨が降るのは7月はじめに大雨があったり、水の被害が起こると思っていた。

今年は、6月後半雨が多い。
雨が降らなくてもどんより曇り空で、まさしく梅雨の季節という感じである。

★小さな庭だが、木々の葉が茂る。
剪定をしないと、新しい枝葉で覆われてみっともない。
なぜか、はさみを使うのは好きなほうで、庭木の剪定も全部自分でやる。

今年は、ちょっと忙しくて少しサボっていたら雑草も木々もいつの間にかいっぱいである。



バラも返り咲きの季節になった。
雨が多いので花びらが雨で重くなって、枝がたわんでかわいそうである。



こんな花も、あと2日もすれば満開である。
それだけ成長も早く、春バラは1つの花が咲いている期間は短い。
秋バラの確りと長く花が楽しめるのと対照的である。

今は成長の季節なのである。
おかげで、雑草も伸びる。
ちょっと手入れを怠ると直ぐいっぱいになる。
バラの土は、栄養分豊富なので余計によく伸びる。

★週の途中、やっと時間が出来た。
今から、パンダ碁を打とうか、庭の手入れをしようか。
放っておくと、どうしても前者になるような気がして、ブログに書いて、
気を取り直して、今から草抜きをすることにする。

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「三つ子の魂百まで??」 よりは少年期

2010-06-23 05:07:44 | 自分史
★「三つ子の魂百まで」って、どんな意味か調べてみた。
最近は検索で何でも出てくる。
いろいろな説があるが、3歳までにはこだわらないという解釈もあって、ちょっと納得した。
前回にも書いたが、私自身、3才までの記憶など皆無である。
覚えているのは、朝鮮太田から京城に移住した5歳以降のことからである。
それ以降のことは、いろいろあったが意外にちゃんとした記憶もある。


★振り返ってみて5歳まではともかく、
それ以降昔で言えば、『元服』の15歳までの少年期に、私の骨格は形成されたと思っている。
5歳から15歳までの激動の『10年間』が私の人生のベースになっているような気がしてならない。

その中間点、13歳の夏、昭和20年8月が終戦である。
その年の12月8日に日本に引き揚げて明石に帰ってきた。

所謂、生活はそこから、とても想像できないほど一変した。
戦時中だと言っても何事もなく豊かで平穏だった当時の外地京城での環境と、
空襲で焼け野原になり、食糧事情も極端に悪い戦後の日本、個々の家の事情を通り越して、その環境は一変したのである。
さらに加えて、個々の家の事情も、一変どころではなく、全く違う世界が待ち受けていた。


★それが、どんなものか思い出しながら、書いていこうと思うが、

私は一応大学卒となっているが、勉強をしたのは、中学2年までである。
小学校でも、中学校でもよく勉強したし、成績も良かった。
小学校卒業時には知事賞に当たる京城府伊賞など頂いた。
いろんな理由はあるのだが、中学3年以降、大学卒業するまで、勉強をした記憶がない。それ以降、高校、大学は野球部卒、大学は単位はあったのだが卒論を出さずに1年野球部の監督をしていた。
そういう意味では私は実質『中学卒』なのである。

終戦までは、金持ちの生活だったし、学校の成績も良かったのである。
それが、結構高いレベルで維持され、それを自ら経験もしたし、当時は社会的な地位も高かった伯父に連れまわされたこともあって、子供の頃からその後、経済界でトップを歩いた人たちを当時は単なる『ただのおっちゃんとボク』の関係で接したりしていて、
それが何となく、何事にも物怖じしない、厚かましさや自信に繋がっているのだと思う。

★私は、そんなめぐりあわせを、ひっくるめて『運が良かった』と思っている。
自分は『ツイテイル』と思うから、すべて『運がいい』と思ってしまうし事実『運がいい』のである。
それは、今でも続いていて、結構運がいい。

それに、『いい加減でネアカ』な性格が、いい方向に作用している。
例えば、世に言う東大出の人を、そんなに特別に思ったりしないのである。
中学校のときは結構成績は良かった。私より下の成績の人が沢山東大に行っている。
『お前も行けたのか』と言われると、数Ⅱや嫌いな理科が受験科目にある国立大は、東大以外のどこでも多分入学できないのは間違いないが、
『自分より下のやつ』でも東大に行ってると勝手な理屈を自分で作って、自分で納得し妙な自信に繋がっているのである。

★大学でも、勉強など一切せずに、野球をしていたから、成績はめちゃ悪かった。
川崎航空機に伯父のコネで入れて貰ったのだが、面接の会社側の第一声が『君は成績が悪いねえ』で始まった。いろんな理屈を並べて『成績悪くても、会社の仕事などで人に絶対負けたりはしません』と言い切った。
『君、面接は良かったな』とコネで入れて頂いた方に言って貰ったが、この面接の自分で言った言葉と、入れて貰ったということをずっと退職するまで意地のように思い続けていた。。
そんなことで給料など安いと思ったことなど一度もない。


★何だかんだと言いながら、常に『周りの人』に恵まれて、人生77年生きてきた。

13歳までの主として小学生時代。
今から思うと、考えらないほど裕福であった。
戦時中だというのに、アメリカ製の運転手つきのパッカードやオールドモビールと言ったクルマがあった。当時の金で1万円だと言っていた。給料が70円の時代である。何となくそんなことは、知っていた。
伯父は私のために庭にプールを作ってくれたりもした。小学生なのに神戸の花隈や有馬の芸妓さんたちとの宴席にも何度か連れて行ってもらったりした。
子供は金など持ってはいけないと、小学校時代お年玉を貰ったことがない。
そんなことからか、その後もずっと、一生小遣いを家内からも貰った経験がない。
要る時には貰うが、そんなことも少なかった。逆に言うとタバコなど吸った時期もあるが、自分でタバコを買ったりすることは、ほとんどなかった。
そんな、不思議な経験をしている。

終戦後から、一転金がなくなって、その上父が脊髄カリエスで何年も寝込んで、1本2000円のマイシンの注射代に、伯父がその後1坪100万円にもなった上の丸の土地を1坪2000円で、順次手放して、売り食いの生活であった。
高校の3年のときは、神戸港の沖中士、所謂アンコのアルバイトもした。
父は高校3年生の1月2日に亡くなった。
父が3年近くも寝ていたので、大学には行かないつもりで、これも伯父のコネで無試験で2社ほど決まっていたのだが、1月に亡くなったので治療費が不要になり、、伯父が一転して大学に行けということになったのである。
先ほど勉強はしたことがないと書いたが『ウソ』だった。この2ヶ月間ほどは、猛烈に勉強したように思う。

金が本当にない生活は、30歳ぐらいまで15年間ほど続いた。
その間、肺結核になり、休んだりもせずに野球を続けていたら、肺に空洞が出来て、それでもそのまま野球をしていたら、診療所の先生に見つかって『菌が出ているから、会社に置いておくわけには行かない』と三田の療養所に入院させられた。
不思議なぐらい回復して、1年で職場に戻って『単車営業』で二輪と出会ったのである。


★30歳以降は、どちらかというと、普通一般のかたのサラリーマンとして、普通の生活になったと思っている。

まあ、ざっと若い頃の境遇はこんなことだった。
オモシロい話は、山ほどある。
このあともそうだが、自分の人生を切り開いたという実感は全然ない。
『運に任せて』、なるようにしかならないと、その流れに乗って生きている。

自分の行く道に、いつも誰かが『何かを』与えてくれる。
そんな『小さないいチャンス』を見逃さずに、生きてはきた。

そんなのは、時間を掛けて考えてみても仕方がない。
みんな『勘』に頼って大丈夫である。
そんな生き方の77年、
その土台を作ってくれたのは、少年期であり、一番影響を受けたのは、父ではなくて、伯父であった。


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潮流発電、多くのマスコミや支援者に囲まれてスタート

2010-06-22 04:41:14 | 潮流、海流発電
★今日は
『潮流発電】 育波漁協にて、Nova-ene号とタービンもろもろの最終組立、staff・組立業者・新聞社・佐世保重工業の方など、現地に待機してます。 #chouryu 』
こんなツイッターで幕が開いた。

現地へは行く積りはなかったのだが、
民主党の広報次長になられた高橋昭一事務所から『現場の状況のビデオ撮ってもらえませんか?』の電話、朝9時過ぎにある。

こんなビデオは撮るならプロにちゃんと頼まねばダメだが、今からの手配で今日の午後の話、果たして間に合うのか?
こんな綱渡りは現役の頃から慣れていて、私の周囲にはこんなムリを解決してくれる仲間はいる。携帯に掛けたら運転中、あとで手配できるかどうか返事するという。

20分後、一人とにかく手配した。『12時半に担当をつけて現地で』という返事。
『私も行くことにする』頼むだけ頼んで放っておくわけにもいかない。

『淡路の青波漁協にて、まぐろタービン最終組立中・テレビ、新聞社・佐世保重工業の方、など賑やか。午後プロの仲間でビデオ撮影、民主党広報次長高橋昭一さんが編集。いよいよ本格的に始動。 #chouryu 私も参加、今から三木を出発。 』とツイッターでつぶやいて、11時40分に家を出た。


★現地が、どんな状況であったのかは、
写真が大きく写るexciteのほうのブログをご覧ください
半日の作業を確りと纏めました。




現地に行ってよかった。
12時半から、5時過ぎまで、ぎっしりと作業されて、めでたくツインまぐろタービン智子と華子は無事住吉丸にセットされて海中に納まったのである。
智子と華子、開発者鈴木清美さんの双子の姉妹の名にちなんで命名されたのである。


先週、土曜日韓国での第1次開発期間を終わり、日本での第2次開発の旗揚げを、
NPO The Good Times のメンバーを中心に旗揚げをした。
具体的な取り付けを行い海に沈める作業第1日目である。

★読売テレビ、フジテレビに,ABCからは塩見友理ディレクターが単身カメラを持っての取材であった。
毎日新聞の南良記者は先日三木での『のこぎりバーガー』でお世話になって、私は忘れていたのに、先方は覚えていただいていた。



こんな取材陣のほかに佐世保重工からは東京と長崎から事業開発室のメンバーが、大阪ガスや淡路市のメンバー、先日も顔を出され太鉄人28号の北海製作所からは山崎さんが、
ツイッターなどの情報を見てこられたとか。
テレビ局や南良さんとも話が出来たし、佐世保重工さんの考え方も聞けてよかった。


★ABCから、ニュースゆう+ のデイレクターとして、現地に来ていた塩見さん、


ちょっと、話をしたらなかなか、オモシロいので、NPO The Good Times に入りますか?と誘ったら参加するという。その場で会員カードを渡し,入会金1000円を頂いた。

入会を誘うかどうかは、面白そうかどうかという私の勝手な判断である。
闇雲に誰でも誘ったりはしていない。
衆議院議員の高橋昭一さんも鉄人28号の北海製作所の山崎さんも、このブログのとっぱしに、ツイッターを紹介した淡路の古川さんも、みんな私のカンで最初にお会いしたその時にお誘いして、
期待通りにこのプロジェクトを支援頂いているのである。

塩見さん、果たしてお付き合いになるだろうか?
ABCテレビのデイレクターだとか。
ホームページを見たら、ツイッターもある。


★会員になられた方は、応援する。
ノヴァエネルギー』団体会員になられて、ちょうど1周年である。

ずっと応援してきた。最近はNPOの副理事長タッチャンは、社員のような本気の応援である。
今日の作業でも、バイクの現役時代どおりの活躍であった。
役に立つやつは、何をやらしても大丈夫機能するのである。

それと、『もう1つ、現場で感じたこと』
鈴木さんは、技術者であり、開発者だが、
海を背にして、船の仕事がやはり『本職』で一よく似合う。生き生きとしていた。

現場に行ってよかった。塩見さんに会えてよかった。
いい1日であった。

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日曜日の雑感

2010-06-21 05:01:22 | 発想$感想
★オランダ戦、惜しかったなと言うのが、日本全体の感想だろう。
あれだけ文句を言われていた岡田監督の評価は『手のひらを返すように』絶賛とは行かないまでも圧倒的に支持する人が増えたようである。

世間の評価や意識は、本当に手のひらを返すように変わるものである。
民主党の評価も、同じようにV字回復なのである。
目先のちょっとしたことで、一喜一憂するのは、決して好ましいことではない。

★私自身は、基本的には決してくるくる変わったりしないと思っている。
現役の頃から、とにかく考えは文章にして残すことにしていた。

言葉で言うだけでは、直ぐ上手に弁解したがるものである。
文章で残しておけば、なかなか言い逃れが難しい。
世の中の、評論家と言う人種は、ホントに上手に言い訳をして、常に自分の言っていることが正義である。
どうも、そんな生き方は潔くないな、間違ったら素直に謝るほうがいい。


★昨日は、三木の吉川の稲田営農組合の『黒大豆とサツマイモ』の苗の植え付けの日で
、朝吉川まで行って来た。
役所のJJさんに昨年薦められて、秋の黒大豆の枝豆は最高だったので、今年は当方からお願いしたのである。


こんな田んぼに


こんな苗を


こんな具合に植えてきた。


昨日に続いて、サツマイモを植えに来られてた『いなだsabu』さんと一緒になった。


★昨年吉川からの帰り道、はじめて『かのん』さんを訪れているのである。
昨日も、帰りに寄ってみたら、

また、いなださんにお会いした。


1年前の今頃
『かのん』さんも、
NPO The Good Times も
立ち上がったばっかりで、不安いっぱいだった時期である。

『吉川に夢を植えてきました』とこんなブログをアップしている

1年経って
二つとも何とかなっている、まあ順調と言っていいのだろう。


bunCさんがこんなブログを書いているのを見つけた。

ひょんなことで出会って、今彼はNPOのアドバイザーをしてくれている。
1年間の幾つかのブログを時系列に並べてくれているが『手のひらを返すように』変わったりはしていない。

この1年の間に、
ご縁があって、JJさんも、かのんさんも、bunCさんも、いなだsabuさんも、
NPOの会員として繋がっている。

まさに、異種、異質の年も経歴もそれぞれ違う繫がりだが、
『新しい公共』といった、まだちゃんとした概念はないが、そんな活動でも一緒に出来ればいいなと思ったりしている。

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『潮流、海流発電』いよいよ日本での開発実験スタート

2010-06-20 05:20:37 | 潮流、海流発電
★昨日は淡路の現地で『潮流、海流発電』の日本での記念すべき『開発実験のスタートの披露会』が行われた。

ノヴァエネルギーのこのプロジェクトを支えてきた、三木市を中心とするメンバーに加え、

淡路の地元から、南淡路市、洲本市、そして地元の淡路市からそれぞれ市会議員さんなどが多数参加されて、淡路での関心の高さが伺えたのである。

写真を中心に、ご覧ください。


『智子と華子』開発者の鈴木清美さんの双子の娘さんの名にちなんで名づけられた
『まぐろタービン二つ』、既に陸揚げされて作業中である。





鈴木さんの希望でタービンには、日の丸が貼り付けられた。
指差しているのは、『元気な”みき”を創ろう会』顧問の「いなだsabu」さん.
このプロジェクト、きっと三木を元気にするだろう。



これは、主力応援団、
右から衆議院議員高橋昭一さん秘書の中村さん、
神戸高専の加藤博士
鉄人26号、北海製作所の山崎さん
ノヴァエネルギーの吉田さん
そして、NPO The Good Times 副理事長のタッチャン,渡部達也さん





場所を淡路岩屋の新事務所に移して、和やかに『日本での開発実験スタート』の旗揚げパーテイーが全員の一言メッセージで行われた。

昨年の6月、NPO The Good Times の立ち上げとともに、
NPOの団体会員に参加されたノヴァエネルギーをこの1年応援してきた回顧と、
今日、集まって頂いた方たちは、
それこそ異種、異質、異地域の人たちだが、ほとんどの方がNPOの会員さんである。
私からはそのお礼も申しあげた。



午後、鈴木船長の操縦、タッチャンの解説つきで、直ぐ近くの『明石大橋』まで。



下から見上げる大橋は圧倒的な迫力である。



この橋脚に中型の『まぐろタービン』が取り付けられて、
大橋のネオンの電気代をすべてまかなう日も、そんなに遠くないことを祈りたい。


★ここに来て、あちこちからの取材も忙しいが、ほんとに順調に行けば、
来週にでも、『まぐろタービン』智子$華子は、今日乗せて貰った『住吉丸』に積み込まれて、岩屋の前、50メートルの沖で、『世界で初めて』の『潮流発電実験』がスタートするかも知れないのである。

淡路の地元もすごい熱気だが、
『潮流、海流発電の故郷』海のない三木も,
その元気を貰って、大いに盛り上げ、おおいに応援大勢の整備を図っていきたいと思っている。

こちらはご一緒したkwakkyさんのブログです。 ぜひご覧ください

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私の人生、川の中から始まった?

2010-06-19 04:00:16 | 自分史

★皆さん、幼児期の思い出、最も旧いものは何ですか?
ちゃんと覚えておられますか?

私の記憶で一番旧く一番鮮明に覚えているのは、
『私の人生の始まり』とも言える記憶は、
今の韓国のちょうど真ん中辺りに位置する、『大田の川の中』から始まっている。

お隣の竹内さんのお兄ちゃんと、家の直ぐ近くの川の中にいた。
鯉か鮒か、何かよく解らぬが魚を捕ったのか、捕ってもらったのか?
とにかく、魚を持って大喜びしたところから、私の人生はスタートしたのである。

成長してからも、魚が無類に好きで、ずっと魚釣りをしたり、家で熱帯魚を飼ったり、鯉を飼ったりしたのは、この人生のスタートの印象が強すぎるのかも知れない。


ただ、朝鮮大田の思い出は、これ以外はほとんど覚えていないのである。
『竹内さんのお兄ちゃん』と言っているのは、その後の勝手な推測で、私を川などに連れて行ってくれるのは、お隣に住んでおられた竹内さんの、年格好から言っても竹内さんのお兄ちゃんしか、想い浮かばないのである。
戦後、阪大か市大の教授になられたと聞いている。


★私は昭和8年3月2日、『明石市上の丸2丁目720番地』で生まれた。
当時、父母がそこに住んでいたのか、たまたまそこで生まれたのか、その辺はよく解らないが、そこで生まれたことはその後のいろんな方の話から間違いない。

今は明石の『魚の棚』(うおんたな)で有名になった、その直ぐヨコの細工町に屋敷があって当時はそこが本籍で、伯父たちもそこに住んでいた。上の丸は、別荘だったのである。
ひょっとしたら、その別荘の上の丸に、父母は住んでいたのかも知れない。
とにかく、祖父の遺言で、財産分けなどしていなかったようである。
伯父と父男は二人、妹の叔母と3人兄弟だが、仲が良かったのは子供から見てもよく解った。

私の本籍の住所は、上記の通りで免許証の記載もそう書かれているのだが、今はそんな番地は存在しないのである。
多分、当時の別荘の土地は2000坪か3000坪、前のテニスコートも入れるもっとあったのかも知れない。
それがすべて1つの番地だったのかも知れぬが、今はそこに、3~40軒ほどの家が建っていて、それぞれ番地を持っている。
戦後、一部は新しい道路にもなったりもしている。

小学校の頃は、夏、冬の休みに毎年朝鮮から帰省していたので、戦前の戦災にあう前の当時の様子はよく覚えている。
ただ、生まれてから大田に行くまでの、明石の記憶などは当然のことながら皆無なのである。


★そんなことで
私の人生のスタートは、大田の川の中から、突然始まっている。
前回もちょっと触れたが、大田には祖父が作った大田電気があったのである。


『大田の川の中から一挙に今のソウル京城』の経緯を前回ウロ覚えで書いたのだが、

それをちゃんとネットで調べて、教えてくれた人がいる。
大和屋嘉平さん、東京で部品
船の模型などのご商売をやっているNPO The Good Times の関東統括理事村島さんである。

その検索からは、いろんなことが解った。
どうも戦前の朝鮮での『社史』を造られた方がおられるようで、その記録がいろんな検索キーワードで現れるのである。

(その記述はいろんなキーワードの組み合わせで、いろんなものが現れる。やりかけるとキリがないので後に纏めておくことにする。)


★その記述からすると

昭和12年に朝鮮総督府の電気事業統制推進政策により、『南鮮合同電気』に統合合併が行われ京城にその本社が移った。
昭和12年、私が5歳の頃で、この統合があったので京城に移住したのだろう。

京城に移ってからのことは、何となく覚えている。
当時保育園や幼稚園があったのかどうか、私はどちらにも行っていない。
3月の早生まれで、7歳でいきなり小学校に入学した
そんなことで、私のトモダチの記憶は、それまでは誰もいない。
それまでに、遊んで貰ったという記憶は、『大田の竹内さんのお兄ちゃん』だけなのである。


★南鮮合同電気の本社が京城にあり、伯父が年に数回明石からやって来ていたので、その関係で、京城に移ったのだろう。
ただ、小学校時代、父はずっと無職で、通勤をしたりする父の姿は見たことがない。

絵はよく描いていた、趣味としては本格的だった。
書や絵の号を『素雪』と言った。
書は『橋本海関』絵は『橋本関雪』が師匠だと自慢していたから、多分素雪の雪は『関雪』さんから貰ったのだろうか?
橋本関雪の父海関は、明石藩士で遠縁に当たるらしくて、伯父の家にも、京城の家にも関雪さんの絵はいっぱいあった。明石の絵は戦災で焼けてしまったし、朝鮮に残してきた絵はどうなったか知る由もない。
今は父の戒名で『素雪居士』としてその名前だけが残っている。

書も、絵もそこそこのレベルだと言うことはよく解ったが、
『ヴァイオリン』は子供が聞いても、お世辞にも上手いとは言えなかった。
そんな父であったが、小学校時代、今の父親のようによく遊んでくれたと言うような記憶は全然ない。
あまり怒られたこともないが何となく一歩離れて父親を見ていたような気がする。

私が高校3年のとき52歳で亡くなった。
母はこの6月末もう直ぐ101歳の誕生日である。
父が早く亡くなったからという事ではなくて、私は父が好きである。

若し人生に悔いがあるとすれば、『父と話をする時間が少なかった』ことである。
多分、伯父とは、父との会話の3倍ぐらい『一緒にもいたし、話もした』のである。

★そんな小学校時代が今のソウルで、多分6歳のころから始まるのである。

それまでの、大田での私の記憶は、極端に言えば『大田の川の中』だけなのである。



(検索のまとめ)

●兵庫県 明石水力電気の重役だった古谷虎雄は渡鮮してすぐ忠清南道の江景で江景電気株式会社(創設:西島寅吉)の設立に動きました。

● 江景電気の社長になった古谷虎雄は忠清道の中心都市である大田の将来が有望であると考え大田電気会社の株を買い取り、大正9年 社長に就任しました 。

● 大正13年 社長の古谷虎雄が亡くなると息子の古谷脩一が後を継ぎました。 本社:大田府本町2丁目写真:

●昭和12年に朝鮮総督府の電気事業統制推進政策で大邱の大興電気(株)が朝鮮南部の大手6社を吸収合併する形で、大田電気株式会社と傍系の電気会社はすべて南鮮合同電気株式会社に吸収され消えることになりました。

●南鮮合同電気 取締役一覧会長 香椎源太郎(6千株) 社長 小倉武之助(7万株) 副社長 古谷 脩一(一万五千株) 副社長 上杉亥八(一万株) 常務 青柳八百蔵 (?) 大田電気常務 佐久間權次郎(?) 常務 樋口 虎三(一万株) 常務 増田 定吉

●南鮮合同電気株式会社の公称資本金は2165万円年内に増資して5000万円を予定し配電会社としては朝鮮で最大になります。

● 1945年9月 米国との戦争に負けた日本は米軍の出した帰国命令で総引上し、南鮮合同電気は韓国人の経営になりました。

などの記述が見つかりました。戦後どなたかが、どこかの電力会社の社史の編纂を手がけられたようです。


 

★ちょっと中断しているが『自分史』と言うカテゴリーをつくっている。

その自分史の3回目

『私の人生川の中で始まった』 

朝鮮の太田と言うところにいて、家の近くに川が流れていたその川でとなりのお兄ちゃんに魚をとって貰ったこと。

これが私の人生の一番旧い記憶なのである。

 

そのブログの最後に、太田電気など検索の記述などを記しているが、

最近になってSnippinng Tool

を覚えたので底の部分だけを、再度再現してみたい。

 

自分のことではない。生まれた時にはもうなくなっていた祖父のことや写真が載っているのである。

 

 

★祖父は大正13年に亡くなっているのだから、生まれるずっと前である。

古谷修一は伯父なのだが、未だ早稲田の学生だったか、卒業したばかりのころだったとか、父は未だ早稲田の学生だったはずである。

私は昭和8年生まれだが、出生地は明石の上の丸なのだが朝鮮太田には、生まれてすぐ行ったのだと思う。伯父は社長はしていたがずっと明石にいた。

太田のころは父も太田電気で何かしていたのだと思う。なぜなら会社の社宅に住んでいたのは間違いない。となりが竹内さん宅だったのである。

川で魚をとってくれたお兄ちゃんは、竹内清次郎さんの息子さんで、確か阪大の教授になられたとか聞いている。

太田での記憶は、そんなにぼんやりしたものだが、なぜか川での魚だけが鮮明に記憶にある。

 

 

★太田電気が南鮮合同電気に統合されたのが昭和12年とあるので、私が4歳のころである。

小学校に入る前に、太田から京城(今のソウル)に移ったのである。

多分、南鮮合同電気に統合されたので京城に移ったのだろうが、、京城では父は会社勤めはしていなかった。

 

 

★この記事によると南鮮合同電気の本社は釜山となっているが、 私が覚えている限り南鮮合同電気の本社は京城の半島ホテルのビルの中にあり、副社長をしていた伯父はの年に何回か京城に訪れて、その時は我が家に泊まったりしていた。

 

 

この資料によると伯父は15000株も持っていたようだが、多分父も株は持っていて、その配当などで暮らしていたのかも知れない。

この記録が正しいのかどうかはよく解らないが、ネットの中にちゃんと現れるのである。

私の記憶では、終戦時南朝鮮の電力会社は一つだったような気がするのだが、戦後に記述のような3社になったのだろうか?

本社が京城だったのはこれは間違いない。それに結構大きな会社だったはずである。伯父が明石から京城に来るときは新聞に人事往来が出たりしていた。

 

Snipping Tool 野お陰で、こんな検索サイトがコピー出来るようになったので、このまま

旧の『私の人生川の中で始まった』」の中に貼付することにしたい。

 










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梅雨の中休み

2010-06-18 05:09:54 | 発想$感想
いつの間にか梅雨に入っていて、昨日はその中休み、夏のような太陽の照りつける暑い日だった。

ぼんやりと1日を過ごしたが、世間もみんな中休みのようである。

★まず、政治の世界も国会を切り上げてしまって、参議院戦までのちょっとした空白、中休みのような状態である。

国会の論戦をやらずに終わってしまったことは、一般に不評だが、民主党が参院選を有利に戦うための戦略としては、解らぬでもない。
国民は、いつも直ぐ近くのことに関心が高いし、ちょっと時間が経つと直ぐ忘れてしまうのである。

あれだけ、文句を言っていた沖縄問題も、最近の菅内閣の支持率にはほとんど影響していないのだろう。
国会でまともな論戦をしなかったことなど、直ぐにアタマの中から消えてしまうのである。

★ワールドカップ、カメルーン戦に勝って、今はオランダ戦までちょっと間がある。
Yahooの意識調査で、先発メンバーを変えるべきか?
と言う設問に、75%の人が『変えるべき』と答えている。

誰をどう変えるのかは、それぞれ意見があるのだろうが、
『どう戦うのか?勝ちに行くのか、引き分けを狙うのか?』

昨日の新聞情報では、ツートップにするとか、書いてあった。
もう何十年もサッカーを観ているが、どうもその違いが、よく解らない。
みんな、解ってみているのだろうか?

ここは、監督の戦い方が、焦点だろう。
岡田監督の手腕が問われるところだろう。


★プロ野球も交流戦が終わった。

パシフィックが圧倒的に強かったのは、2連戦と言う方式が、ピッチャーのいいところに有利に働いたと思うし、ピッチャの質は圧倒的にパのほうが上である。

それにしても、オリックスが優勝とはーー。
こちらの岡田監督は、もう名監督の呼び声に近づいているというか、既に名監督と言ってもいい雰囲気を持っている。

岡田にあやかって、サッカーの岡田監督も頑張って欲しい。
もう一人の岡田もいいし、今年は岡田のあたり年かも知れぬ。


★大相撲の野球賭博の話、これはこの際、小出しにせずに、次の場所を休場ぐらいにして徹底的に出直すべきである。

今の現役力士だけではなく、多分協会上層部も関係があるに違いない。

これは梅雨の中休み程度のものではなくて、
『長い夏休み』でも取って、世間が納得するような結論を出して欲しい。

それこそ、『国技としての品格』が問われているのである。
朝青龍が、手を出したぐらいの話とは、訳が違う問題である。


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ネットの世界のすごさ

2010-06-17 04:48:27 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
★昨日は、ブログに『自分史』をスタートしたのですが、早速『いなだsabu』さんからコメントを頂いたりしました。

creopatoranさんからは、ツイッターからきましたと、バイクについてのコメントを頂きました。

ハンドルネームでツイッターのほうをチュックすると、
今朝の自分史を書いたという『つぶやき』に返事を頂いていたのですが、フォロワーが2万人を越えたりすると、とてもそれを見つけることが出来ません。ご返事を差し上げずに失礼しています。

そういう意味では、多くの方に失礼をしていると思っています。
特に、ダイレクトメッセージは本当に沢山の方から頂くのですが、とてもご返事を差し上げる時間がなくて失礼し放しです。


★しかし、考えてみると個人レベルで、万の人たちに『情報発信』出来るシステムがあるということは、すごいことだと思います。

ツイッターからは、今日潮流発電が、淡路でどんな状況だったのかが、別に報告がなくても、こちらで探せば直ぐわかります。「まぐろタービン」の内部の写真もありました。要は『チェックする気があるかないか』です。
チェックさえすれば、どんどん情報は入ります。すごい時代になったものです。


★今度の土曜日は、潮流発電の日本での開発実験スタートの旗揚げを、今まで応援してきた『三木の人たち』を中心にやろうと声をかけたら、いいメンバーが集まることになったようです。
みんなNPO The Good Times の会員さんで、ブログやツイッターをやっています。

案内書を発送いた訳でもありません。
NPO The Good Times の三木のメンバー中心に、それぞれがちょっと声を掛けただけですが、衆議院議員の高橋昭一さんは忙しいだろうから、秘書さんでも顔を出されませんかと言ったのですが、ご本人も来られるとか。
鉄人28号の北海製作所の山崎さんは、私のブログのコメントでいろいろ連絡があったりします。
三木の有名人『いなだsabu』さんも行かれると言うので、昨日お宅に伺って、当日の打ち合わせをしてきました。
私が運転すると言ったのですが、年寄りをいたわって頂いて当日は淡路まで運転をして頂けるそうで、折角ですのでお言葉に甘えることにしました。
最初に、ノヴァエネルギーを紹介してくれた、kwakkyさんと3人で出かけます。
淡路の方も参加されます。この方もNPOの会員さんですしツイッター仲間です。


★昨日、三木の話で、『いなだsabu』さんが言っておられた』三木の日月くらぶ』のことも家に戻って、検索したら、すぐこんなページが現れました
こんなのは当然なのですが、

東京の大和屋嘉平さんからメールが届いて、

今朝、うろ覚えで、『自分史』に書いた「太田電気」と「南鮮電気」をどこかで検索して頂いてメールで送ってくれました。
そしてこんな記述が現れました。

『江景電気はその後 南朝鮮電気に譲渡. 大正13年 社長の古谷虎雄が亡くなると息子の古谷脩一が後を継ぎました。 本社:大田府本町2丁目写真:大田 ... 大田電気株式会社と傍系の電気会社はすべて南鮮合同電気株式会社に吸収され消えることになりました。 ...』

「江景電気」という名前は私も聞いたことがありません。
祖父が亡くなったのが、大正13年とは知りませんでした。伯父の古谷修一が継いだとありますが、こんな時期だと父はまだ、早稲田の学生だったのかも知れません。
こんな記述も見つけました。

『南鮮合同電気株式会社の公称資本金は2165万円年内に増資して5000万円を予定し配電会社としては朝鮮で最大になります。 ... 1945年9月 米国との戦争に負けた日本は米軍の出した帰国命令で総引上し、南鮮合同電気は韓国人の経営になりました。 ...』
確かに大きかったのだと思います。日本一だとか伯父が言っていました。


こんな記述がどうして現れるのか?
ネットのすごさを改めて、感じました。

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若し、戦争がなかったら

2010-06-16 04:47:18 | 自分史
★昭和20年8月15日、12時、夏の暑い日、中学校の校庭で直立不動の姿勢で、
天皇陛下の玉音放送を聴いた。
よく聞こえなかったが、『日本は戦争に負けた。降伏をした。』ようである。

朝鮮京畿道京城府城東区の城東中学校の1年生であった。
この日から、私や私の家族、親戚たちにとって、今までと180度変わった環境、境遇が待ち受けていたのである。

当時の、朝鮮は日本の『外地』であった。
朝鮮も、台湾も、北海道も、『外地』と呼び、日本のことを『内地』と言っていた。
満州はどう呼んでいたのか知らぬが、子供心には満州も日本だと思っていた。


★私の本籍は兵庫県の明石である。
私が生まれたのは明石だが、その頃には、祖父は多分亡くなっていたのだと思う。
祖父はかっての山陽電車の創立など電力に関することに関っていたようである。
その後、祖父は朝鮮太田というところで電力会社を設立していて、
私が太田にいたまだ幼い頃は、伯父はその社長をしていた。
聞いた話だが、伯父も父も早稲田を卒業して直ぐ社長や重役になったようである。
現地には父がいて、伯父はずっと明石が本拠であった。
実際の経営は、昔で言う番頭さんたちがやっていたのだと思う。

私が小学校に入る頃、幾つかの電力会社が合併でもしたのだろう、
京城、ソウルの『南鮮電力』という今の韓国をテリトリーの大きな電力会社になって、伯父は副社長となったが、そのときも定位置は明石で、年に何度か京城を訪れていた。
会社の事務所は当時の『半島ホテル』と言った一番大きなビルの中にあった。
今も多分そのままビルは残っているはずである。
新聞の人事往来には伯父の名前が載ったりした。

父は、何をしていたのか私は知らない。会社などには出勤などしていない。
多分、株の配当か何かで食っていたのだと思う。
旅行をしたり、絵を描いたり、優雅な生活であった。


★母方の実家も朝鮮で土木関係の事業をやっていたし、伯母の実家は満州大連で大豆を扱っていた。私は行ったことはないのだが、写真で見る伯母の実家は、ヨーロッパのお城のような家だった。

まあ、一言で言えば、みんな結構金持ちで、
所謂戦時中でも、少なくとも外地にいた私たちは、何の苦労も、空襲などもない平和で、豊かな生活をしていたのである。

本家の伯父に子供が居なかったので、伯父は私を跡取りと思っていたのだろう。
特に可愛がってくれたし、いろんなことを私に教えようとした。
家系に関することなど、父からは一言も聞いたことはない。
私が、幾らかでもここに書けるのは、みんな伯父が私に叩き込んだのである。
父は、そんなことには全く無頓着で、まあ言えば自由人であった。
私は、どちらかと言えば、そんな父の性格を受け継いでいるのだと思う。
伯父の教育を鬱陶しく思うことも時にはあったのである。

★私の家は、小学校の頃、特に明石ではまだ普通に言われていた『士族』であった。
曽祖父の古谷萬平は明石藩松平家の剣道指南番であったとか、その妻はなんと言ったか?結構有名な歌人であったとか。
私のところにその歌人のことを聞きたいと、どこかの女子大生が電話をしてきたこともある。

松平家のお殿様の菩提寺が明石の長寿院だが、伯父がその檀家総代をしていて、私がまだ子供の頃はお盆には東京からお殿様の子孫の方がお墓参りに来られて、伯父の家に泊られていた。

その頃は、まだ、お殿様扱いで普通の方とは違って大変だったのである。
伯父の家には、お殿様どころか、天皇陛下のご名代も泊られたりして、昔で言う旧家なのである。


★昭和20年8月15日までは、私はそんな境遇の中で、父は一言も私にそのようなことも言わなかったが、伯父は私を『古谷家の総領』として育てようとしたのである。
伯父のそんなスタンスは、戦後直ぐ近くで生活するようになってからも、ずっと続いた。
私の人生の歩く道は、伯父が決めてくれたとも言えるだろう。

その年の12月8日、日本に引き揚げてきたのだが、その日からは急転直下、
全く違った生活が始まったのである。
まさに天と地みたいな極端なことで、こんな貴重な経験はなかなかしようにも出来ないのである。

『若し戦争がなかったら』
私の人生は、間違いなく違ったものになったであろう。
しかし、本当にどちらがよかったかは、解らないと思っている。
むしろ、現実の今の人生のほうが、多分『よかった』と言うよりも『面白かった』と思っている。


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