雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

井川、よかった。

2007-04-30 11:36:11 | スポーツ
本当によかったと祝福したいヤンキース井川の一勝であった。

開幕以来何となくピリッとしたところがなくて、この日も先発を外され次回の登板も白紙の状況であった。
正直、井川はどうなってしまうのかと心配していた。

先発投手が第一球をひざに直撃を受けるというアクシデントで、無死一二塁というピンチに井川の救援が告げられた。

誰が見ても非常に厳しい状況だった。

予想もしない突如の登板のピンチを併殺の後、零点に抑えて切り抜けた。
その後も素晴らしく6回まで2安打無失点、7回で交代したが、後続が後を抑えてヤンキースの連敗をも止める貴重な一勝をもたらした。


井川に対する信頼は、ファンの脳裏にも、チームメートにも、首脳陣にも焼き付いたに違いない。
これでまた、先発復帰は確実である。
ニューヨークっこの「モヤモヤとした」井川に対する印象も本当の「助っ人井川」の好印象に変ったことだろう。

人間ツキも実力のうちというが、こんなことは滅多に起こらない。
こんなチャンスをモノにする運みたいなものを井川は持っているのだ。

たまたま、昨夜BS放送で井川のこれまでの大リーグへの特集を放映していた。
新天地でいろんな苦労もあったようである。

そんな努力が実って、「本当によかった」と言ってあげたい井川の一勝であった。
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山本隆のブログ ON ANY SANDA

2007-04-30 05:47:11 | M/Cレース
山本隆君のブログにON ANY SANDAの写真掲載でアップされている。

私は今のところ未だブログに写真掲載出来ない。

リンクは出来るようになったので、写真掲載のブログをアップしてくれたら、それをリンクすると、約束していたので。

山本君が当日乗ったBSA,なかなかエンジンが掛かりません。
ヨコに映っている年寄りは、私です。




もう一つ、Sunny Dayメンバーのブログで、当日の様子と私の話し相手を積極的にして頂いた貴島さんについて、立派な写真つきでどうぞ。



私のブログでは
 4月24日 ヴィンテージな走り 荒井市次、山本隆 (F21Mでの)
 4月25日 カワサキ単車の昔話 X-11 (貴島さんとの話に出た)
 に、当日の様子をアップしました。
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今年のゴールデンウイーク

2007-04-29 05:51:01 | 日常生活、園芸、バラ
ゴールデンウイーク。 会社勤めをしている頃は心待ちした、連休である。

この頃は、毎日が休みでむしろ世間の休日の日には外出なども控えて、「動くならウイークデイ」というパターンが、我が家では定着している。

そんなことで、27日金曜日の休みに入る前に、市内のゴルフ場でウイークデイのシルバーゴルフ大会を楽しんだ。

「市内のゴルフ場」という言い方は一般には馴染まないだろうが、市内に24ものゴルフ場があって、この大会も毎月1回の開催だが、若し仮に全部廻るなら2年も掛かるという、ゴルフ銀座の三木に住んでいる。

最近は、三木市主催のコンペも2ヶ月に1回開催されるようになり、ゴルフをする積りなら、気軽に1万円以下で幾らでも出来るようにになりつつある。

近いところは車で10分から、30分も走れば殆どのゴルフ場に行けるという贅沢な環境だが、
混雑するゴールデンウイークは、ゴルフも避けて、家で大人しく静かにしている予定であった。



そんなところへ突然、いつも突然なのだが、
鎌倉に居る息子の嫁から、「GWに小型台風が直撃します」とのメールが入った。
5月の3、4、5と連休にお邪魔したいというのである。

中学2年になる孫はサッカー部の公式試合があって帰れないけど、息子夫婦と1匹のアンと仰る仔犬を連れて訪問したいというのである。

メインの目的はミエミエである。
つい最近、「ウエルッシュ,コーギー,ベンブローグ」の子犬を買って可愛くて仕方がないようだ。
名前の「アン」は結婚15周年と孫の14歳の誕生日記念の「ANNIVERSARY」からとって名付けたと仰っている。
そのご自慢の「アン」をわざわざ飛行機に乗せて、お目見えさせようという魂胆である。

我が家には、今年の正月このブログで唯一写真を添付してご紹介した(この写真は孫がやってくれたたから添付できたのだが、そしてアメリカにいる娘の方の孫からグッド、ジョブとコメントが入った)、TOM,LOVEという12歳の柴犬夫婦がいる。
TOM,LOVEが果たして大人しくアンを迎えてくれるだろうか。


静かに過ごそうと思っていた今年のゴールデンウイークは、本当に小型台風なみの騒がしいものになるかも知れない。

でも世の中、親子や嫁姑の問題が何かとむつかしい昨今である。
「孫抜きでも」、「仔犬付きでも」、わざわざ帰省しようと言ってくれているのは、

「有難いことだと言わねばなるまい。」 結構なことである。

 ノンちゃん、このブログ読んでくれるかな。


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雑音に耳を貸すな

2007-04-28 05:58:46 | 素浪人&樋渡啓祐氏
「雑音に耳を貸すな」 小野田滋郎さんの送別会の席で、小野田さんが 「私にくれた言葉」 である。

小野田さんは、私の生き方に大きな影響を与えてくれた人で、このブログでも何度か触れた。
あのフィリッピンの小野田中尉の弟さんである
世の中にはこんな素晴らしい人が居るのだと、そう実感させてくれた。
今年、年賀状が来なかったが、噂によると亡くなられたとか。 心からご冥福を祈りたい。

私が20代後半頃のことだが、
何事も出来すぎる小野田さんを 「何かと悪く言う人も多かったので」
その時は、ご自分のことを言っておられるのかと、思ったりしていた。

自分が年をとって、当然ながら会社の中の仕事も、そこそこ中枢に属するようになった。
さらに、90年代に入ってからは、実績もよく社内だけでなく業界や、日経などにも取り上げられたりすると、大学の先生からのインタビューが入ったりして、自分でも信じられないような展開になったのである。


ところが、外の評価とは別に、身近なところからの雑音が聞こえ出したのである。
「雑音に耳を貸すな」 と言った小野田さんの言葉を、このときしみじみと思い出し、自分の行く方向をきっちりと確かめ直したのを覚えている。

このブログで、はじめて樋渡啓祐氏について触れたとき「その意見や仕事の進め方に、共感を覚えたのは小野田さん以来と言っていい。」と感想を述べている。
まだその頃はこんなに身近に樋渡さんと繋がるとは、夢にも思っていなかった。



先日の「武雄市長物語」。

佐賀新聞の古賀史生記者の特集記事の中に採り上げられている問題について、珍しく樋渡さんがコメントをされている。

物事上手く行き過ぎると、その時「雑音」と思われるものが出てくるのである。
意見を言っている人たちは「雑音」でなく、それが「正論」であると信じておられるのだと思うが。

「具約42」についても、その冒頭に書かれて下線が敷いてある基本コンセプトの部分には関係なく、個別の問題ばかりを取り上げるのは、「雑音」と見られても仕方がないと思うのである。


その冒頭には
「武雄に生まれて良かった、育って良かった、帰ってきて良かった」といった「ぬくもり」のある元気な、新、武雄市を市民と共に一緒に造り出す。

次世代につながる風格ある都市づくりのために、10数年、舵取り役を行いたい。


と明確にステートメントが記されている。
樋渡さんの市政の1年目は、この「基本コンセプトに示された方向に聊かの狂いもない」、
他のまちに住むものから見ると羨ましいばかりの実績だと思うのだが。


何度も、明言している樋渡ファンの私から、 2年目をスタートされた樋渡啓祐市長に、

小野田滋郎さんが、私に贈ってくれた 
「雑音に耳を貸すな」 の一言を贈りたい。
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市議会議員選挙

2007-04-27 05:43:39 | 政治
4年に1度の統一地方選が終わった。
朝日の社説では「自立の芽を育てよう」という見出しで、今回の選挙を総括している。

その中で,「かってなく自立の芽が多く見受けられたと言える。」と評価し
お上頼りでない自立への意欲の表れが経営手腕を求めて、元市議ではなく元会社社長に再建を託した夕張市の例などを挙げている。

民間出身者であるから、経営手腕があるとは言えないが、
少なくとも従来のお役所のタテ型組織のスタンスでは、よく言われている「行財政改革」など、計画までは建てられるが実効は難しいのではなかろうか。

言葉は正確に使うべきで、今やっているのは「行財政改善」のレベルであろう。
「改革」とはスタンスを変える抜本的なことをやる時に使うべきと思っている。
ただ、今までの水準から言えば「改善」でも十分目標は達成できると思う。

目標数値そのもののレベルが、もともとそんなに高くはないように思える。
文句を言っている訳ではない。とにかく、意識が少しでも変わることはいいことだ。前進である。


もう一つ、投票率の低さを指摘して、この原因の一つに業界や旧来型の組織選挙の崩壊を挙げている。
「有権者が自らの判断で投票しようとして、そこで迷い立ち止まっているのだ。」と指摘している。

この指摘は当たっている。少なくとも私には、正直、真面目に投票しようとすればするほど、その判断材料に苦しんだ。
「迷える有権者に判断材料を提供するには,戸別訪問やインターネットの活用が有効だ。早急に解禁すべきだ。」と論じている。

exciteの方のブログだが、「丁度投票前日の夕方の感想」を書いている

朝日の社説は、そんな無党派層の迷いのことを言っているのだろう。



リンクついでに、
先日「無党派層」について思うところを述べたら、コメントなどいろいろ頂いたのでご紹介したい。

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リンク(ご紹介)のお礼

2007-04-26 06:05:59 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
今週に入って私のブログのアクセスがずっと400に近いところで推移している。

毎日400人近い方が訪れて頂けるのは大いに励みになるのである。
この一両日は、レース関係が圧倒的であるのは、アクセス解析でURLや検索ワードを見ても解る。
ON ANY SANDA は、また新しい大きな広がりを見せた。

今週になって100ほど増えている理由は、はっきりと解っている。
今朝は、ダートスポーツが昨日のON ANY SANDAについての記述を紹介頂いたからであり
その前は武雄市長物語に樋渡さんが雑感日記のことを紹介頂いたのが急激に増えた原因であるのは間違いない。

読者の多いサイトに紹介されると、そこからの新しい読者が訪れてくれるのである。

今まで一番多かったのは、武雄市がヤフーニュースに取り上げられて、武雄市長物語に10万件のアクセスがあった日に、雑感日記にも流れてきてその日には約1000件のアクセスがあったりした。

そういう意味で、ご紹介頂けることは非常に有難いことであり、改めてお礼を申し上げたいと思うのである。



私も登録している「テクノラテイ、ジャパン」の記事に、

昔は「図書館」のようであったウエブは、今「会話」に近い「参加型エコノミー」になり、インターネットの利用者は情報に対して「受動的な消費者」から「アクテイブに働きかける参加者」へと変ってきたと述べている。

1日に75000個の新しいブログが生まれ、1日に120万個の記事が書かれているとある。

博報堂の未来予測をはるかに上回るペースであり、年内に日本のブログ人口は1000万人を越えるものと思われる。

その「テクノラテイ」のブログのランク付けはgooのようなアクセス数ではなく、「リンクされているサイトの数」で表している。
上述した趨勢などをみても、「リンクの数」が重要で、「リンク数で、ブログの妥当性、ブログの即時性をトラッキングするのです」といっている。

ちなみに、今日の雑感日記のランクは、「50リンクfrom 24blog」と表示されており194485位とある。トータルのブログ数がでていないが、多分800万個位だろう。

分析は非常によく出来ていて、どんなブログからリンクされたか、時系列に解るようになっている。
そしてそれがどのくらいのリンク数を持っているサイトかが解るのである。

例えば、「ダートスポーツ」には95個のリンクがあり、「小林ゆきさんのブログ」は50個のリンクとある。

この数値から推測すると「50リンクfrom24blog」という私のブログは、50ではなくて24と数えるのだと思う。
他のブログを見ると二桁のリンクがあるのは5個で、殆どは一桁か0である。
1日に万の単位のアクセスがあるという「武雄市長物語」は出てこないのは何故か、不思議なのだが解らない。


こんな分析もあって、リンク数の順位などもあるが、
ブログによって知らなかった人が現実にお会いできたり、更に密接に繋がっていくことに本当の意義があるのだと思う。

今朝もまた、MJさんが昨日アップしたX-11について、
「明石のショールームに飾ってあったマシンてですね。フナキレーシングが開発したと聞いていました。」というコメントを下さった。
ご返事はまだ書いていないが、直ぐ書く積りである。

そういう意味で、
雑感日記をリンクして頂いている方たちに、心からお礼を申し上げたいと思うのである。
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カワサキ単車の昔話-55

2007-04-25 06:02:03 | カワサキ単車の昔話
カワサキのサーキット専用4輪スポーツヴィークル、X-11

カワサキの昔話もいろいろあるが、これは4輪に関するもので余り一般には知られていない。
ハードとしては完成し、カタログまで造ったのだが、最後に何故現実の販売にならなかったのか、直接担当はしていたのにもう一つ良く覚えていない。
人間の記憶は本当になくなってしまうこともあるのだと思う。

そんな話を思い出させてくれた人に、ヴィンテージモトクロス、ON ANY SANDAの日に出会った。
大阪の貴島久裕さん。

このヴィンテージモトクロスに深く関係して、立脇君の所からファクトリーマシンを調達して展示したり、ご自分の持っているマシンも展示したりしている方で、当日年寄りの私の話し相手を積極的に引き受けてくれたのだが。

話は、止まるところを知らず面白かった。
その貴島さんからX-11の話が出たのだが、その前の自己紹介を聞いてビックリした。

少し横道にそれるが、解る人が読めば直ぐ解る。このブログをお読みの方も解る人は多いと思うのだが。

「今は自分で商売をやっていますが、以前、Taichi に居ました。」
「佐々木さんのところにもいました。その頃お会いしたこともあります。」
「吉田純一さんの手伝いもしていました。」

夫々、この道では有名人であり、全国区である。
私は直接,深く関係のあった人たちばかりである。

「ここからは、後からの挿入です。 山本隆君のブログのコメントから飛んで行ったのですが、ON ANY SANDAについても、貴島さんについても、詳しく写真入りのブログを見つけました。貴島さんのことホントに詳しく出ています。是非ご覧下さい。ここまで。」

X-11は、

90年の秋、開発NO.015の試作がほぼ完成し、その販売を中心にソフト面でのお手伝いを当時のケイスポーツシステムが引き受けた面白いプロジェクトであった。

どんな4輪かというと、
FJ1600よりは限りなくF3に近いサーキット走行専用車で、
ZX1100ccのエンジンをベースに160PS/105000rpm、車重409kg,
ホントにかっこいいマシンだった。

エンジンは当然カワサキの開発陣が関わったのだが、サポートしてくれた人たちがまた、かっこよかったのである。

シャシーは、FJ1600の創始者で鈴鹿のウエストレーシングカーズ㈱社長の神谷さんが直接担当してくれた本格的なものだった。
このマシンに興味を持ったのは、出来たばかりの4輪の個人メンバーを集めようとした「TIサーキット」の千々岩さんや国井さん。
そのテストと評価は、元F3チャンピオンの佐々木さんで、その評価も上々であった。

その他、星野インパルの金子社長、星野はタイヤの契約の関係で乗れなかったのだが、この件で金子君はわざわざ明石まで足を運んでくれたりした。

少し脱線するが、金子豊君は若い頃、星野と同じカワサキコンバットにいた。
秋田の出で、その後、私が仙台で東北6県を担当した頃もよく遊びに来ていて、彼のトヨタの空冷のスポーツカーで一緒に走りまわったりした仲なので、特に頼みやすかったのである。
90-12-4、発表されたばかりのホンダNSXに乗ってカッコよくやって来た。
チームグリーンの連中が、思わず車に群がったのをよく覚えている。

レース界では名を知らぬ人は居ないほど有名だった、ダンロップの京極さんなどもタッチしてくれている。
大げさに言えば、レース界の日本の最高レベルの人たちが関与してくれていた。

KSSでは、当時のチームグリーン監督の重本君ほかが、いろいろとお手伝いをした。

当時カワサキに出入りしていた岩城洸一や二輪ライダーの宗和なども乗りたくて、乗れたときには子供のように喜んでいた。
乗りたくて仕方がなかったそんな魅力いっぱいのマシンであった。
岡山のTIサーキットでのKAZEのイベントでルマン耐久3位入賞コンビの宗和,多田が走行披露したりしたこともあった。

特に、二輪エンジン10,000回転を上回る独特のノイズが何とも言えぬいいムードであった。

TIをベースにテストは続けられ、川重社内の経営会議決済でも承認された。
当時の社長の「大庭さんも上機嫌」と日記には書いてある。91-10-17のことである。

当時の雑誌、カーグラフィックにも記事が掲載され、その評価も至って良く、カタログも作って1台800万円ぐらいで売り出すべく準備をしていたのだが。

そこまでの記憶も記録もあるのだが、何故本格的な発売にならなかったのか、それが解らないのである。

私自身は、松井田のサーキットや、JJSBAの改組、新宿ショールームなど同時進行の面白いプロジェクトを手一杯に持っていて、X11はアタマの片隅にしかなかったのか。
そんなことはないと思うのだが、どうしても思い出せない。

今日はこのくらいにして、また調べてみたい。貴島さんとの話でXー11を思い出した。



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ヴィンテージな走り、荒井市次、山本隆

2007-04-24 06:06:53 | M/Cレース

私にとって、これほど楽しい一日は久しぶりだった。

三木市のアネックスパークで行われた「ON ANY SANDA in ANNEX MIKI Park」というヴィンテ-ジモトクロスに行くことを楽しみにしていた。

カンサイオトキチクラブが主催したこのイベントは素晴らしく、期待を裏切らぬ楽しい時間を過ごさせて頂いた。

ダートスポーツでも紹介されて
「かっこいいバイクとかっこいい人たちが集う」ところまでは間違いないのだが、

果たして「昔かっこよかった人たち」が、今でも「かっこいい走りが出来るのだろうか」
これは実のところ、大いに心配していたのである。


ところがである。
元、全日本モトクロスチャンピオン、荒井市次70歳、山本隆63歳。
本当にその走りは素晴らしく、40年以上経った今も、昔のままと思えるレベルに近い走りを展開して、観る人みんなが驚いたと思う。

メインレースの浅間では、二人が他の出場者を完全にぶっちぎってのバトルを展開した。
二人の現役時代の凄さをよく知っている私には、昔そのままの荒井と山本がそこにいるように思えた。

トップで戻ってきた山本がちょっとコースを開けた,第一コーナーのインを果敢についてトップを奪い返した荒井を,裏のコースで山本がまたトップに立って戻ってくる、といった展開だった。
年齢とマシンの差が少しあって、最後は山本が昔のように片手ジャンプでゴールをしたのだが、
昔々の全日本チャンピオンは今でも尚健在で本当に観ている人を驚かせたのである。


他のレースもみんな楽しくよかったが、
特に、全日本レディスNO7のゼッケンで登場した現役の山本いずみさんが、並み居る男性ライダーを尻目にぶっちぎって優勝したのにはビックリした。

出場者のライダーたちはみんな家族や仲間たちの応援で、日本にもこんなスポーツ文化が定着してきたのを肌で感じた。
山本隆君は、息子さん夫婦とお孫さんや近所の山本ファンの応援で、
荒井一次君も昔の応援する仲間たちと一緒の出場だった。

会場には立脇君から提供された往年のファクトリーマシンも飾られて、ヴィンテージモトクロスの雰囲気を盛り上げていたが、更に、カワサキのはじめての市販レーサーB8Mや85J1MそしてF21Mなど、
私にとっては思い出多い懐かしいマシンがいっぱいで、それを観るだけでも楽しかった。


レースもマシンも良かったが何にも増して一番は、
レースをこよなく愛する同じ想いの人たちとの楽しい会話であった。

このイベントの主催者の高下さんとも、ブログを通じての繋がりで始めてお目にかかったのだが、もう何年も前からの知人のような会話がはずんだ。

いろんな人の名前が話題に上がり、スムースに会話が広がる、同じ世界の空気を吸った仲間たち。

荒井君とも、ホントに久しぶりでトレーニングでずっとバイクに乗っているとか、とても70歳とは思えない身体で、話しぶりも昔のまだった。
レース直後、「山本と走れて楽しかった」の一言、実感がこもっていた。

ON ANY SANDAというこのイベントの名前の由来を、
「スティーブ、マッキーンのON ANY SUNDAYという栄光のライダーを最初の開催地、三田にもじって付けられているのだ」と説明してくれたのは、主催者の高下さんではなく山本隆君であった。
講釈師、山本隆はここでも昔のままだった。


昔の雑誌からコピーした
「名門神戸木の実のマークのヘルメットで、F21Mに乗る山本隆のサイン入り写真」が賞品として用意されていたが、それを記念に1枚頂いた。

「時として、こんな具合に後輪が流れ出す。ライダーは逆ハンを切って修正し、マシンを立て直す。舌打ちするひまもない。」

 とかっこよくコメントされている。
 レースをお解かりの方なら即座にイメージできる、かっこいい写真である。


高下さん、本当に有難うございました。また、次回を楽しみにしています。


オマケ。

山本隆君、ブログはノービスですが、
当日サウンドオブサンダに出場した時乗った「BSA441の写真」が載っている彼のブログ見つけましたので、見てコメントしてあげて下さい。

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カワサキ単車の昔話ー54

2007-04-23 05:54:59 | カワサキ単車の昔話
若い頃のこと

カワサキの単車事業は会社にとって始めての未経験の分野であった。

そんなことで、経験を積んだ先輩が殆どいなくて、若い頃からいろんなことが経験できてよかったことも多かったが、中にはやはり若過ぎて、もうひとつしっくり来ないことにも度々出くわした。

まだ30代後半の頃だが、その頃の肩書きが余り一般的ではないが「大阪母店長」であった。
小さな営業所を統括するという意味だが、銀行などではよく使われていた肩書きである。

大阪のある銀行の「大阪母店長」と名刺交換したことがあるのだが、相手は正真正銘の専務取締役母店長だった。
こちらはただの母店長で、こういうときは少々気まずい思いがした。


当時、全国カワサキ会の副会長もさせられていた。

東京で世界のBPICMの総会があって、この肩書きに対して招待状が来たのである。
世界の流通業界の団体の長が,メーカーの招待を受ける形だったのだと思う。

高松の宮様が出席され、歓迎委員長は本田宗一郎本田技研社長が務められた。
日産の川又社長や自動車工業各社の重役さんや、川重からも中南専務、吉田常務、山田事業部長らが出席されていて、その方たちがずらっと並んでアタマを下げて出迎えられる前を,夫人同伴で40才前の実質課長の若造が歩くのは、どうしてもサマにならなかった。

世界各国からの招待客が主流のそんな立派なパーテイで、本田宗一郎がされた歓迎挨拶は、日本人離れして本当に立派だったのをよく覚えている。
あのような挨拶は、長い経験がさせるものだ思った。

高松の宮様も出席されるようなパーテイだったから、多分堅苦しい雰囲気ではと思い、出席前にラーメンで腹ごしらえをしてから出席したのだが、そんなことは全然なく和やかないい雰囲気でパーテイは進行した。

私も場違いに若かったが、同伴した家内も確かに出席者の中で若いことには間違いなく、会社の偉い方々に殊のほか気軽に声をかけて頂いて喜んでいた。


こんな経験は、私に限らず当時世界のあちこちで同じような経験をした人は多いのだと思う。
段々とこんなことにも慣れて、一見厚かましい人たちや単車独特の雰囲気が造られていったのだと思う。

カワサキだけでなく何となく二輪業界の特徴のような気もするのだが。

確かに、どんなことにも動転したような記憶はない。
そんな風に育ってしまった。環境が人を造るということか。
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狩野サヨナラ打、G茫然

2007-04-22 06:06:55 | スポーツ
「狩野サヨナラ打、G茫然」新聞の見出しである。

これだけ読んで意味の解る人,カリノではなく、カノウだと読める人はTVを確りと見てこの感激を味わった人だろう。

残念ながら私は1-1までの9回くらいまではテレビを見ていたのだが、いつの間にか寝てしまっていて、この感激を味わっていない。

朝のスポーツニュースを見ているだけでも、すごい雰囲気と興奮が感じられる。
こんな試合をすれば日本のプロ野球も人気復活だし、人々は注目するだろう。

新聞の写真を見ても、活字を見ても踊っている。
テレビニュースでは更に実感が伝わる。

ジャイアンツの原監督も豊田もショックではあろうが、
こういう面白い迫力のある試合をファンは望んでいるのである。

勝負に負けたことは残念だとは思うが、プロとして野球の面白さを印象付けた「功績の多い一戦」であったと見るべきだろう。

それにしても、狩野(カノウ)にとっては一生忘れぬことの出来ない出来事だと思う。

単なるフロックでないことは、昨季のウエスタンリーグの首位打者であるという実績で解る。

実力があってもそれ以上の人がいるとレギュラーになれないプロの世界、(余談だがジャイアンツの一塁手は川上と王で何年間占拠されたか、何人もの選手がチャレンジしたが駄目だった)

狩野の相手は矢野のようだが、昨夜の1打はぐっとレギュラーへ近づけたとも言える。

これが、プロ一軍での初安打であったとか。
一度は観客席に投げ込まれていた記念ボールを関本と葛城が頭を下げて戻して貰ったという、涙の出るようないい話のオマケまでついた。

そのシーンもテレビニュースに映ったが、
阪神が勝ったことよりも心から狩野選手を祝福したい一戦であった。




一日経って、
「連夜の活躍狩野3安打」今朝の朝刊の見出しは阪神が負けたので小さいが、狩野は矢野に代って出場、大活躍である。
掛布や新庄がデビューしたのとよく似たシチュエーションである。

今後の狩野に注目したい。

阪神ファンだが、昨夜は久保も2年半ぶりの勝利投手になったりして、「巨人が勝ってよかった」と何となく思っている。


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樋渡武雄市長、就任一周年記事と私の感想

2007-04-21 06:24:16 | 素浪人&樋渡啓祐氏
昨日の武雄市長物語。就任一周年と題して西日本新聞、田代芳樹記者の大きな記事が紹介されている。

新聞記者の記事だから当然ではあるが、
「いいところもあるが、まだ足りないところも」と指摘している。

「市政運営にブログ」、「職員、市民の意識変化」、「型破りの手腕に戸惑いも」とあり続いて小さな見出しで、「関心高める狙い」、「次々に行動起こす」、「真価はこれから」と続いている。

樋渡さんは、「1年が10年に感じた、中味の濃い日々でした」とこの1年を振り返り、この記事に対しては、田代記者はよく取材されていると褒めている。
そして、むきに反論などする気配など微塵も見せず、僕自身は「型破り手腕」などと思っていませんがと、さらっと結んでいるのはいつもの樋渡流である。



私は、ここ1年にも満たぬことではあるが、高槻の市長公室長時代の「こちら部長室」で樋渡さんに出会って以来、120%の樋渡ファンであるから、そのスタンスで感想を述べてみたい。

まあ、阪神ファンみたいなものだから、「あばたもえくぼ的」なところもあるかも知れぬが、そこは大目にお許し願いたい。


まず、西日本新聞に武雄市のことがこんなに大きく採り上げられることだけを見ても「大成功」である。

全国の首長さんで就任1年目で特集を組んで貰えるのは、まず異例のことだと思う。
その可能性が今あるのは、宮崎県の東国原知事ぐらいではなかろうか。

それだけ見ても、「一般の人たちが注目するに足る業績」があったという証しである。
「一般の人たち」が注目や関心を示さぬことを新聞が採り上げたりは、決してしないものである。

何故、一般の人たちや市民が関心を示したのか、そしてマスコミが注目したのか。
自然に「関心を示した」「注目した」のではなく、「---させた」のである。

樋渡さんのこの1年の動きを見ていると、到るところに「仕掛け」がある。それも「遊びごころ」がある。
この辺りの感想は先日「仕掛けと遊び心」で感想を述べた


もう一つ、行政に効果的に「マーケッテング」が取り込まれて、それが「実効」を挙げている。

マーケッテングは世の誰もが本で読んだり、調査や広報など「実行した経験」はあるのだが、不思議なほど「実効を挙げた」人や企業は少ないのではないかと思う。

私見ではあるが、その理由は 「マーケッテングマインド」 がないのである。
知識、見識があり広報も「マーケッテングが何たるや」もよく理解している人や優秀な人は大勢いるのだが、
相手の立場から常に物事を考える 「マインド」を 「体質として持っている人」 は、極めて少ないと思っている。

また、ほんの些細なことでも、大きなことに結びつく可能性のあるものを 「見逃さない感性」。
「佐賀のがばいばあちゃん」は武雄市に大いに貢献したのだが、ロケ地の立候補の動機は一市民のメールである。そんな小さなことを見逃さない感性が、大きな成功に結びついているのである。

樋渡さんは、こんな資質や、仕事に対するスタンスや感性、をみんな持っている。
それでいて、一言でいえば「東大卒のイヤミ」がない。
ひょっとすると「東大卒」が嫌いなのかも知れない???。経歴には確か記載されていなかった。


田代記者は「真価はこれから」と言い、樋渡さんも同調しておられるが、そんなことはない。
「真価は既に発揮されている」のである。

こんなに進歩や変化の激しい現代で、1年で真価が発揮できない人が何年か経ったら真価が発揮できると思うのは「錯覚か幻想」である。

記事の中に、
一見派手に見える市政運営だが「ハード面よりもソフト面の施策が目立つ」。
職員のやる気を感じるという一市民は「とにかくやってみる」という前向きの姿勢になった、とある。
簡単なようで行政に限らず企業でもなかなか出来ないことである。

もうひとつ、市議会の質問に「市民が本当にしてもらいたいことにもっと目を向けるべきだ」
よくある発言だが、この方の言う市民とはどんな市民なのか、建設や土建業の市民の方の要望はよく解るが、「一般の市民が本当にして欲しいこと」、こんなに価値観が多様化している時代にそれを知ることは、マーケッテングマインドがあっても、それを知ることは本当に難しい課題なのである。
本当にそれが解って仰っているのだろうか。


率直な私の感想である。「少し褒めすぎたかな」と思うが、ファン心理なのでお許し願いたい。
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ヴィンテージMX、ON ANY SANDA

2007-04-20 07:25:05 | M/Cレース
昨日、ブログのアクセス数が増えた。
何故かと思って、アクセス解析でURLを調べると、ダートスポーツに紹介されているのである。

今度の日曜日、MIKI ANNEX Parkで7年目を迎えるカンサイオトキチクラブ主催のヴィンテージMXがあって、このブログで出会ったカンサイオトキチクラブからも是非来て下さいとお誘いを受けていた。
山本隆君がF21Mで出場するというので、久しぶりに独特のノイズとほこりを楽しもうと観戦を予定していた。

先日,大阪で行われたMFJ関西ふれあいミーテングのとき山本隆君にもお会いしたが、還暦を既に迎えた今も口だけは昔のままの「講釈師、山本隆」のままだったが、そんな彼が果たしてどんな走りをするのか、本当に楽しみである。

ダートスポーツの記事によると、荒井市次君も来て走るという。
荒井君とはもう10年も前になるが、KAZEのスーパーバイカーズが姫路のサファリーパークであったとき出場してくれていて、その時以来だが昔の面影が残っているだろうか。

ダートスポーツの記事には「かっこいいバイクが集合するのだろうなと思ったら、かっこい人も来るらしい」と紹介されている。
いずれにしても、二人とも抜群の実力を誇った全日本チャンピオンである。「かっこいい人」のイメージを崩さぬ「かっこいい走り」を期待したいものである。


このイベントの正式名称が「ON ANY SANDA 春の祭典 in ANNEX MIKI Park」ということも始めて知った。

ボランテアだけで運営されるこうした楽しい催しはいいものだ。

三木市では西日本で最大の規模と言われるBUG IN MIKIも5月末ごろには道の駅みきで7回目の開催とか。1万人の人たちが集まって楽しむようである。

三木には金物祭りとか伝統のお祭り行事も多いが、BUG IN MIKIとかON ANY SANDAin ANNEX Parkのように若い人向けの新しいイベントも「新しい三木のイメージ創造」には格好のイベントと思うのだが。

三木には、みっきいマラソンもあるし、国体をやったテニスコート、サッカー場と抜群の施設もいっぱいである。

立地も大阪と姫路を定規で結ぶと三木を通るのはご存じない人が多いと思うが、イベントを行う一つの条件、その立地にも環境にも恵まれている。

「ON ANY SANDA in ANNEX MIKI Park」が新しい三木のイメージを造る楽しいイベントに成長することを期待したい。



今朝、この記事をアップしようと思っていたら、山本隆君から先日このブログで書いたジェットスキー開発物語にコメントが入った。
「J/Sは他のMXライダーは乗れなかったが、私は始めてでも上手く乗れて、ジャンプまで出来ました。」とある。
野球など丸いものの球技は、からっきし下手糞だが、オートバイや自転車などの乗り物は信じられないほど上手いことは認める。
それを独特の語り口で喋るのを人は「講釈師」と呼ぶのである。
J/Sの短いコメントのなかにもそれが見られる。
興味のある方は,覗いて見て下さい。
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大変な一日

2007-04-19 05:55:06 | 発想$感想
新聞やテレビは、アメリカと日本で起こった銃による発砲殺人事件で持ちきりである。

いろんな問題が背景にあるのだろうが、いずれにしても自分の思い通りにならなかったら銃で発砲して人を殺すというのはとんでもないことである。
「断じて許すことは出来ない」と誰でもコメントするのだが、では「断じて許さないとは」どういうことを具体的に行動として起こすのかと言うと本当は難しいのである。

朝日の社説をみると長崎の事件については、
暴力団だという犯人の背後関係の解明をする。警察の警備に落ち度はなかったか。
反核運動が萎縮しないように。右翼活動について。銃の取締りの強化。テロに屈しないことは多くの人が、声を上げることを止めないことだ。
と確かにそうかも知れぬが、それでこのような事件が根絶するとも思えない。

一方バージニア州の大学で起きた銃乱射事件については、
動機は政治的なテロの可能性は低く、ビデオゲームのような感覚で行動したのではないか。アメリカの銃社会の問題、銃規制の問題が進まないのは、さまざまな選挙でその影響力を発揮するライフル協会のロビー活動が原因という。
米政府や議会、それに国民の銃規制への取り組みを期待したい。

いずれの主張も否定しようとは思わないし、それが大事な指摘であるとも思うが、同時に個人が起こした、今回は日本とアメリカは韓国人であったが、二人の個人が起こした犯罪を、大上段に振りかぶり過ぎているような気もするのである。


どんな背景があったにしても、その中でまともに生きている人が普通一般なのである。
ひとりひとりの個人が、少しは自分の思い通りにならなくても、辛抱するというような昔流の素朴な生き方も要るのではないか。

自分の権利主張もいいが、それが思い通りにならぬときは銃で人を撃つという行為は断じて許してはならない。
「そんなことはしない、少しは我慢が出来る人間を育てよう」と主張するのは時代遅れなのであろうか。

上手く言えないが「私は絶対にそんなことはしない」と断言できる。
そうなったのは、「そういう教育を受けて育ったからである。」と言えそうである。

二つの事件があった大変な一日にふとそんな風に思った。
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ジェットスキー開発物語

2007-04-18 06:14:54 | ジェットスキー&KAZE
ジェットスキーはカワサキが商標登録した商品名である。

この商品は現在はモーターサイクルと一緒の所管になっているが、
単車と発動機とが別事業部であった時代は、発動機の商品として開発され販売をアメリカのKMCが担当をするという時代が永く続いた。

手元に、1988年10月に当初開発を手がけられた田中秋夫さんが纏められた「ジェットスキー物語」がある。

その冊子から、開発の経緯を簡単にご紹介したい。

田中さんが、谷本君とアメリカに市場調査に出張された1068年5月、ミシガン湖でSEA DOOのジェットボートを見たときに開発の着想がスタートしている。

当時、スノーモービルのエンジンを開発中で、そのエンジンを改造してジェットボートが造れないかという発想であったようである。

1970年4月に研究が開始され、エンジンは何とかなったが,舟艇の形状でいろいろ苦労していた矢先、KMCのR&Dの斉藤君のところにアメリカ人のジェイコブソンがジェットボートのコンセプトの提案があった。

1971年6月のことである。
そして彼とコンビを組むことでジェットスキーの開発は本格的に進んでゆくのである。

ジェイコブソンの原案は独特のものであったが、当初目論んだ要求特性の大半を満たせるものであったようである。

設計試作には、後単車の工場長や建機も担当した藤浦さんなどが加わって、KMCのR&Dでジェイコブソンと協力して続けられ71年の11月に試作1号艇が完成している。

アメリカでのテストを続けた後、最後の商品化業務は国内で行うこととしテストを続けたのち、72年10月に待望の量産試作艇が完成し翌73年2月にジェットスキーという独創的な商品が完成したのである。

5月からは明石で生産されたジェットスキーがアメリカに向けて出荷が始まっている。

その後、75年にはアメリカのリンカーン工場の稼動で、アメリカ生産が開始された。
その後アメリカでのみ7000台/年の安定した販売賀続いたが、80年ごろからは国内でも逆輸入での販売が極僅かではあったが始まった。

急激に販売が伸びだしたのは、エンジンを440,550ccにボアアップした83年ごろからであり、一挙に20000台を越える販売となり経営を支える主力商品に成長したのである。


私も知らなかったが、1988年に全国発明表彰が行われ、ジェットスキーが通産大臣発明賞を受けている。

発売後、15年目の受賞であり、丁度その頃から日本のマリンスポーツレジャーが本格的に始まったと言えるのだろう。

今は、ヤマハさんの参入もありレース活動なども定着して、日本のマリーン文化の一翼を担っている。
まだまだ若い商品と思っていたが、開発当初からみるともう40年近くにもなるのである。




昨日、川重相信会のパソコン同好会のメンバーにブログの解説を頼まれて、出席した。そのメンバーの中に私と同期で、ジェットスキーの開発当初から色濃く関係した藤川哲三君もいた。

440,550ccにボアアップした開発は彼が直接手がけたそうである。
以前にこのブログでも触れたことのある、日本のジェットスキー界の有名人、福井昇君は藤川君の下にいたのを同期のよしみで単車に貰い受けに行きOKしてくれたのも藤川君である。

ちなみに,この件では当時発動機の企画室長だった柏木茂さんに「闇取引をしやがって」と怒られた。覚えておられるだろうか。その柏木さんも昨日のパソコン同好会に出席されていた。

このジェットスキー物語についても帰りに車の中で話に出た。冒頭の田中さんと谷本君の話も覚えていた。

昨日の今日だから、多分この項はお二人ともお読みになると思ったので、パソコン同好会以降は今朝書き足して発信する。

昨日お話したように、これにコメントするのは簡単です。
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カワサキ単車の昔話-53

2007-04-17 05:59:14 | カワサキ単車の昔話
何事もいいことばかりがずっと続くことはないのである。
企業の経営環境もいつどう変るか解らない。

あれだけ好調に業績を伸ばしたアメリカ市場であったが、
1973年のオイルショックで需要そのものが大きく後退した上に、為替の変動相場制への移行で円高の荒波が押し寄せたのである。

固定相場時代の1ドル360円から、300円を割ることがたびたびとなり、77年には240円、その後一時170円台になったりした。

為替変動の事業に与える影響の凄まじさは、直接責任を持った立場で経験した人でないと幾ら口で説明しても解らないと思う。

丁度その頃、私は販社から76年に企画に戻ったのだが、為替が大変で事業部長などKMCとの値上げ交渉に明け暮れていたのは知っていたが、その痛みは本当のところ、そんなに解らなかった。


後に企画を担当したときに200円を割る円高に直面したが、その時は身に沁みてその怖さが解った。
当時のカワサキのレベルでも1円の変動で8億円ぐらいの利益変動になるのだから、10円で80億、50円も変動したときがあったが実に400億円の利益が減少するのである。


70年代の為替は360円から100円以上の変動であったので少々の経費対策などではどうにもならなかったのはよく解った。

事業部としてはアメリカ一辺倒から、ヨーロッパと共にCKD市場の東南アジア対策として市場開発室を新たに組織しその対策を開始したのが丁度この頃77年のことであった。


65年ごろからアメリカ市場開拓を開始し、
部品会社の設立、現地直販会社KMCの設立から更にリンカーン工場の建設、
A1,H1、Z1とカワサキの二輪事業の基礎を築いた素晴らしい発展の時代であった。
ジェットスキーもこの時期に販売が開始されている。

丁度この時期12年間アメリカで活躍された浜脇洋二さんは、後半の経営環境の激変の中で、勇躍凱旋というわけにはいかなかったのだが、
この時期の業容の拡大がカワサキの単車事業のその後の基盤になったことは間違いないと思う。


特に75年からの10年間は激変の時代で、中長期計画の検討が頻繁に行われ、私も企画部門にいた期間もあり、幾つもの計画の策定に従事した思い出多い懐かしい時代であった。


浜脇洋二さんの書かれた「45歳までにあなたもトップになれる」を参照しながらシリーズでこの時代のことに触れたが、一応ここで区切りとしたい。
昨日、ご本人からメールを頂いた。先日ゴルフでお会いできたし、何かのご縁があったのだと思う。
会社の仕事では特にご一緒する機会もなかったのだが、私は個人的に、浜脇さんのファンなので今後ともご指導を頂きたいと思っている。


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