雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

新しい期に、新しい目標を

2021-04-11 07:56:08 | 発想$感想

★ 4月と言えば現役時代は新しい期の始まりだった。
 そんなこともあるので、今でも何となく4月は『新しい期の始まり』のような気もする。

 多分、今日からだと思うが、パソコンのトップページが
 このような『新しいモノ』に変わった。
 なぜ変わったのかはよく解らないが、
 なかなか綺麗で、ニュースもいっぱいでなかなかいい。
 
  


  できれば、コレで今期は行きたいと思うが、
 このままにしておくと、『毎回出てくるのか?
 何か特別の操作をしなくてはいけないのか?
 その辺のことが、よく解らないが、何とか成るのだろう。


★新しい期に入ったので、
 今までもやってはいたが、はっきりと目標に提示することにした、
 以下の5つの目標である。

 1.毎日6km、最低スロー・ジョッギングジョッギングで走る
 2.ゴルフのスコアは『80台を目指す』
 3,金魚とメダカを増やす
 4.囲碁1級に戻ること
 5.庭仕事に精を出す

 こんなことにした。

● 毎日6kmは、大体できると思っている。
 最近2週間の実績である。親知らずを抜いた翌日だけ自重した。


  
 防災公園で約1時間半動くと7km近くになる。


● 今年何回のラウンドになるかは解らぬが、
 90を切って回ると『エイジシュート』も可能かも知れない。
 気分的には『出来るはず』と思っているので頑張ってみたい。

● 金魚とメダカを増やすのは、特に金魚は今年も仔を産むかどうかだが、
 何とか産むように環境を整えたい。
 自然に近い環境にすれば何とかなるのでは?

● ネットで『パンダ碁』を毎日打ってるが、半分遊んで打ってると直ぐ3級ぐらいまで落ちてしまう。
 今は2級の上になってるのでもう一息である。かっては初段で打ってたので
ちゃんと打てば何とかなるだろう。
 ずっと維持するのは気分的にしんどいので、何回か1級になればいいと思っている。

● 最後の5番目の『庭仕事』を一番確りやりたいと思う。
 個々の目標としては

 a. コンシーネを上手く育てる
 b. 雑草を抜く
 c. 庭木にの剪定をちゃんとやる
 d. 葡萄など実のなるものを上手く育てる
 e. 薔薇をちゃんと育てる
 f. トータルして庭の景観を綺麗に保つ

 以上である。
 久しぶりに『今期の目標』なるものをたてた。
 幾つ『実現できる』だろうか?
 目標を建てた以上は『実現できるように』頑張ってみたい。
 


 
 
 




コメント

独学  雑感

2021-04-10 07:26:41 | 私の生き方、考え方&意見

★ 私の人生、一応は『大学卒』となってはいるが、
 何度もこのブログでも、自分史の中でも書いたように、
 学校で勉強したのは中学2年生まででそれ以降は『野球一筋』だったから、
 ほんとの学歴は『中学卒』なのかも知れない。
 
 別に勉強が嫌いなわけではなくて、社会人になってからも、
 必要に応じて自分なりに必要なことはその都度よく勉強したと思っている。
 神戸商大を出ているのに『簿記』の単位は採っていないのである。
 ただ、社会に出てから特に二輪の自前の代理店の経営が軒並み難しくて、
 その経営の維持や立て直しに最も重要だったのは、 営業内ではなくて、資金繰りなどの営業外対策がメインであったし、
 銀行に借入金の申し入れをするためには『バランスシート』が必要で、
 『それは解りません』と言える立場でもなかったので、『独学』で勉強したのだが、
 これは後々自分で販社経営を行った時に非常に役に立ったりしたのである。

 『勉強』など別に学校で習わなくても『やろう』と思えば幾らでもやる方法はあるもので、
 そういう『自分の意思』こそが一番大事かなと思っている。
 『独学する』ための基礎学習は『中学2年生までの学力』で十分だと思っている。


★ ところで、長く人生を生きてきたが、
 定年後に出あったのが『ネットの世界』と『薔薇などの植物栽培』なのである。
 
 特に『ネット関連』については定年後パソコンに出会ってからなのだが、
 全くの『独学』で、ブログも、Twitterなども、それなりのレベルでやっているので『詳しい』と思われることもあるのだが、
 自分がやれていることが『やれている』だけのなのである。

 つい最近も、家内の『iPadのLineの海外通話』が繋がらなくなってしまって、そんな対応はとても出来ないので、
 アメリカの孫にFacebook のビデオチャットでいろいろ聞いてみたのだが、
 『Wifi のルーターの線を抜いてもう一度差し込め』というのだが、
 その『ルーター』なるものが何かが解らないのである。
 孫が丁寧に絵を画いてくれてやっとルーターとは『これだ』と解ったようなそんなレベルなのである。

  
    


 やってみたら、ホントにそれで治ったのである。
  


★ 植物の栽培もまずは『薔薇の栽培』からスタートしたのだが、
 これはまずまずのレベルになりもう15年以上も続いている。

 極く最近になって、実の成るものにチャレンジしているのだが、
 これがなかなかムツカシイのである。
 みかんは何とか成ったが、『柚子』は実が付いたことがないし、
 葡萄も5年目になるが花が咲かないから、実も成らないのである。
 そんな『独学・植物栽培』なのだが、
 今年は葡萄は6年目だから、是非葡萄の房が見たいものである。
 多分『巨峰』だと思うから、是非我が家の『巨峰』を食ってみたいものである。
 
 その葡萄の新芽が出だして、いまこんな状態なのである。

 

 
 今年こそと思って『葡萄の栽培』についてネットで調べているのだが、
 こんな厳しい指摘の文書に出会って、
 『こう厳しく言われると』全く自信はないのである。
 
樹木はきちんと世話をすれば毎年楽しませてくれます。 放っといても花が咲いて実がなるのはごく一部です。
成らせたい、世話をする気がある、というのであれば、今からブドウの栽培について勉強して下さい。 
特に前年の管理が一番関係します。来年、花が咲くかどうかは今年の夏にだいたい決まるということです。

1年を通しての管理が花着きに影響しますので、花を咲かせたいなら今からきちんとブドウの管理を学んで下さい。



 まずはこの時期の『芽欠き』についてネットでいろいろ調べてみた。
 『葡萄の芽欠き』で検索すると動画などで詳しく説明されている。

 こんな動画を見ながら、何とか『芽欠き』をやってみた。
 昨年は確か『芽欠き』などはやらなかったように思う。

 

 
 まだ今のところ『葡萄の花芽』は見られないのだが、
 『花芽』についても作業があるようなのでやってみたいが、
 何よりも今年は『花芽が見られるかどうか』が焦点である。

 ことほど左様に頼りない『独学』だが、
 ひとつひとつだが、身に付いていく『私の独学』なのである。

 
 
 

コメント

ワクチン接種 ちょっと遅れたが・・・

2021-04-09 07:31:34 | 発想$感想

★ここにきて関西でのコロナの感染者が激増傾向である。
 大阪がひどいが、兵庫県も同じように増加している。

 この1年間、都会の雑踏の中には出たこともないのだが、
 テレビの画面で見る限り、どこも大勢の人である。
 『不要不急の人は外出を控えるように』と言われているが、
 本当にこの人たちは、どうしようもない用事があるのだろうか?
 といつも思っている。



 私自身は高齢者だから、
 4月には『ワクチン接種』ができるのでそこまで頑張ろうと思っていたが、
 三木市のホームページをみると、こんな感じで5月にずれ込みそうである。
 
 




市のホームページにはこのように書かれている。

新型コロナウイルスワクチン接種について
新型コロナウイルス感染症の感染拡大と重症化を防止することを目的として、ワクチン接種が始まります。
市では、三木市健康福祉部ワクチン接種対策室を立ち上げ、接種体制の構築を進めています。

 
 ただ、国から送られてくるワクチンの量が少ないので、
 まず『85歳以上』を対象に『接種クーポン券』を発送するようだが、
 その発送開始予定日が4月21日からだという。
 85歳以上の対象者数はは4,813人だとか。

 接種スケジュールは、5月6日・7日・10日・11日で、
 会場は三木市総合保健福祉センターだが、
 接種クーポン券が手元に届き次第、
 三木市新型コロナワクチンコールセンターで予約可能だとか。
 順調にこの通り行けばいいのだが、
 予約完了してみない限りはどうもはっきりしないような状況である。


★ざっとこんな感じで、
 遅くとも5月11日までには第1回のワクチン接種が出来そうだが、
 やってみないとはっきりしたことは解らない。

 昨年の3月以来、『コロナ対策』は徹底してやってきた積りである。
 『不要・不急の外出』というか『コロナ感染の危険』があるところには出かけていないし、『外食』も一切せずに自重してきた。

 毎朝、三木総合防災公園にはスロー・ジョッギングには出かけているが、
 広い公園で殆ど人とはすれ違わないような環境で、
 公園に来ている人の半分は『マスク』もしていない。
 『マスク』の必要性を感じないような環境なのである。


★ 4月には『ワクチン接種』が終わるので、
 5月からはゴルフもやろうかと思っていたのだが、
 どうやら5月にずれ込むようなので、
 いま来ている『ゴルフのコンペ』はお断りすることにした。

 外でのスポーツだし、大丈夫だとは思うが、
 『不要不急』と言えばその範疇だし、特に関西は激増中だし、
 あと1ヶ月ほどの辛抱だから、そんな判断が順当かなと思っている。

 野球部のコンペも予定にあって迷ったのだが、
 一応は欠場することでご返事してある。
 コンペ当日は5月13日なのだが、
 若しそれまでに『ワクチン接種』が終わるようなら出場しようかなとも思っている。
 何とか予定が遅れることなく『ワクチン接種』が出来ることを祈っている。

 『ワクチン接種』が終われば、本当に普通の生活に戻っても大丈夫なのだろうか?
 少なくとも、『ジム・トレーニング』は再開しようかなと思っている。
 
   
 
 
 
 


コメント

庭仕事 いろいろ

2021-04-08 07:15:32 | 日常生活、園芸、バラ

★ 庭仕事もいろいろある。
 結構、庭仕事は好きなほうである。
 昨日はこの庭のプレートを全部張り直した。

 元々これも自分でやってるので、
 ただ地面を均してその上に置いているだけなのだが、
 少々、デコボコになってたのが気になって、全部めくって下の土を均して、
 その上に置き直しただけのことだが、
 自分で思うように出来たので満足である。

 
  
 

 簡単な作業だが、全部やるのは時間も掛るが
 やりかけると、やってしまわないと。
 昼から、2時間ちょっと掛かったかな。



★こちらの方も石を置いて、玉砂利を敷いているだけで、
 私の作である。
 セメントなど使っていないから、
 ちょっと石を動かしさえすれば、植える場所は広くとれるようにしている。
 そんな自由度があるのがいい。
 



 ここは、かっては池を造って鯉を飼っていたのだが、
 『鯉ヘルペス』で全滅してしまったので、
 折角造った池なのだが、埋めてしまってこんな形にしているのである。


★今年は『コロナ禍』で、時間がいっぱいあったから、
 冬の間も、春になっても、いろいろと庭仕事に精を出している。


  
 

 ちゃんと世話をすれば、生き物はそれに応えてくれる。


 葉の色が輝いている。




 ちゃんと世話をしないとこうはならない。
 枝の育ち方の勢いが違う。

  




 薔薇の蕾もいっぱいついている。
 





  5月には一面が薔薇で覆われるはずである。






 こんな野菜の種を撒いた。
 一面に芽を出していたのを、7cmの間隔に間引きした。

 




 こんなにいっぱい芽を出すので
 今から間引きする。
 



 こんな鉢に種を撒いたので、結構今から手間である。

 



 今年は、私の庭仕事も今からがシーズンに入るのだろう。
 いろいろと頑張ってやってみたい。


 
 
 

コメント

ドラセナ・コンシンネの挿し木

2021-04-07 07:47:15 | 日常生活、園芸、バラ

★昨日は奥歯の『親知らず』を抜いたので、
 あまりキツイ運動などしないようにと医者が仰るものだから、
 防災公園でのスロージョッギングも休んで家で大人しくしていたのだが、

 毎日の2時間ほどの運動がないと、不思議なほど時間が経たないので、
 毎年春にやっれいる『ドラセナ・コンシンネ』の選定と挿し木をやって、
 午前中の時間を潰したりしたのである。

 なかなか名前の覚えられない『ドラセナ・コンシンネ』だが、
 こんな観葉植物である。


 左の鉢は10年ほど前に園芸店で買ってきたのだが、
 どんどん枝が伸びて大きくなり過ぎるので、
 それを切ると


切ったところから二股に枝が伸びてどんどん新しい形を創っていくのである。

 右の鉢は、その切った枝から挿し木で何年か経つとこんな形になっている。

   
   



 下の方を大きく写すと今はこんな形になっている。





     それをこんな形に切ったのと、
 切ったものを鉢に挿し木したのだが、

 なかなかお解り難いかも知れぬが、

 ● 切ったところは、そこから二股に分かれるし、
 
 ● 挿し木したものはそのまま成長するはずなのである。





 つる薔薇の整枝や剪定も同じだが、
 枝が伸びて葉をつけたところを『絵を画く』心境で思いながらの作業なのである。

 挿し木したのは、大体の形は解るが、
 切ったところから『二つの芽』が出るまでは、ドキドキしながら待っている。

 1ヶ月もすれば新しい芽が芽吹くはずである。



  これなどは4万円もする売り物だが、
  何年も掛かって、ここまで仕上げているのである。

 

   

 
 
コメント

戦前の子供時代  自分史  その5

2021-04-06 06:04:00 | 自分史

★昭和20年(1945)8月15日、天皇陛下の玉音放送を私は京城城東中学校の校庭で直立不動の姿勢で聞いた。
 よく聞こえなかったのだが『戦争に負けた』ということは解った。

 朝鮮の人たちは既に解っていたのだろうか、
 学校から帰る市電には『歓喜の朝鮮人達』が朝鮮の旗を掲げていっぱいで、
 とても乗ることなど出来ずに家まで歩いて帰ったのである。


 1945年8月9日、ソ連は満州国と朝鮮半島北部に侵攻を開始した。
ソ連軍が単独で朝鮮半島を占領する事態を防ぐため、
北緯38度線で暫定分割する」という案が画定され、この案はソ連側に提示され、8月17日には決定されたのである。
 同一民族であった朝鮮が世界の大国の判断で分割されてしまったことは、
本当に不幸なことだと思っている。
 
   あの戦争で一番被害を受けたのは、敗戦国の日本ではなくて、
 『朝鮮民族』だったような気がする。
 『南北統一』も言われるが、政治体制の問題もあり、
 現実に実現を図ることはムツカシイのかも知れない。
 

京城(ソウル)は南鮮であったためアメリカ軍による軍政が敷かれ、治安は非常に安定していたのだが、
日本ではなくなったので、日本に引き揚げざるを得なくなってしまったのである。

38度線以北の北鮮にいた人たちは大変だったようだが、
京城など南鮮では特に大きな問題もなく、順次引き上げていったのだが、
引き揚げ時には持てる荷物とお金は1人1000円だけだったので、
家をはじめ財産はそのままに、引き揚げてきたのである。


★我が家は母の出産が11月あたりに予定されていたのと、
私が遊んでいた時に左足が折れたのか、ひびが入ったのか、
医者がいないので診て貰っていないので詳しくは解らないのだが、
歩くのが難しかったこともあって、妹たちだけが楠見の伯父夫婦と一緒に先に引き揚げたのである。

戦時中には母の兄の楠見幸信伯父が楠見組の仕事で京城に来ていてずっと我が家にいたのだが、
ちょうど終戦の年に再婚して我が家の筋向いに家を借りて住んでいたのである。
  その伯母の実家も京城にあって、ちょうどその横がアメリカ軍の基地になって、陽気なアメリカ兵たちが話しかけてきたりしてオモシロいというので、
私も行ってみたら、塀越しにチューインガムなどをくれたりして、
私も初めて『チューインガム』なるものに出会ったりしたのである。

そんなことで、日常の生活は戦前と何ら変わることなく無事に過ごしていた毎日だったのである。


★我が家は前回触れたように、水洗トイレやスチーム暖房など、
 結構『近代的な造り』だったからかも知れぬが、
 アメリカの空軍大佐の家として買い上げられたのである。
   
 
 
 
 幾らで売れたのかは知らないが、
 その時世話をしてくれた朝鮮人の通訳の人

お金を持っていても、一人1000円しか持って帰られないのだから、
 それを金塊に変えて、高価なものを二つほどの荷物にしたら、
 空軍大佐に頼んで、伊丹空港まで飛行機で送ってあげる。
 と言ったようで、父は金の延べ棒に変えて家に置いていた。

 『15本ぐらいの金の延べ棒』で、
 私はそんな大量の金の延べ棒など、その時に見たのが最初で最後である。
 そんなことで、荷物と一緒に通訳の人に渡したようだが、
 伊丹空港に荷物が届くことなどはなかったのである。

 父も全く信じていた訳ではないのだろうが、
 いずれにしても持ち帰ることは不可能なので、
 『ダメもと』でそんなことをしたのだと思う。

 それは『通訳の人』に渡ったのであろうが、
 いずれにしても持ち帰ることは出来なかったので、
 そんなに腹も立たなかったのである。


★妹たちは10月頃に、一足先に伯父と一緒に日本に引き揚げたのだが、
 両親と私と生まれたばかりの妹は、終戦の年の12月8日に引き揚げたのだが、
 京城から釜山までは貨物列車だったのである。
 ほんとに荷物のように貨車の中に坐っての旅だったが、
 特に不満にも思わなかったのは、私の太平楽な性格なのだろうか。

 釜山からは、母が産後だということで病院船で博多まで、
 そして明石までは普通列車で引き揚げてきたのだが、
 途中の広島の街もまさに『焼野原』だったし、
 明石の町も『焼け跡』ばかりで、故郷上の丸の実家も消失して何も残っていなかったのである。

 屋敷跡には1トン爆弾が一つ、500キロの爆弾が2発も落ちていて、
 その跡は逆三角形に大きな穴が開いていて、その一つには水が溜まって池になっていた。
 焼夷弾はホントに無数といってもいいほど地面の突き刺さっていて、
 これは後、掘り返したら幾らかで『売れたり』したのである。

 明石公園の外堀のすぐ横で安全だからと、
 神戸の方などから疎開荷物を預かったりしていたのに、
 なぜ、こんなところに爆弾や焼夷弾が落ちたのだろう。

 伯父の話では、明石の町から公園に逃げてきた人の死体で、
 この池がいっぱいになったそうである。


 


 ずっと西の方に川崎航空機があったから、明石も空襲を受けたのだと思うが、
 ほんとになぜ明石公園などに爆弾や焼夷弾が落ちたのだろう?



★引き揚げた先は、今は立派な街になっているが、
 当時は『伊川田んぼ』だけの全くの田舎だった伊川谷だった。
 その川沿いにあったお稲荷さんのある、その隣の平屋のおうちに、
 伯父家族が疎開をしていて、そこに引き揚げてきたのである。

   


その『お稲荷さん』は今も残っていて、その向こうの立派な建物になっている場所にその『平屋のおうち』はあったのである。

引き揚げた日から、日常生活も全く変わったものになってしまったのだが、
両親は大変だったとは思うが、私自身は『新しい戦後の生活』が物珍しさからか結構楽しんでいたようなところもあったのである。

食糧事情も悪かったが、上の丸の土地に芋や野菜やトウモロコシなどを植えて自給自足の足しにしたし、
その肥料にするために、明石の町に馬糞を拾いに自転車で走り回ったりしたのである。
馬糞は直ぐ1斗缶にいっぱいになるほど取れたので、当時はまだ馬車がそんなに多かったのである。
こんなことも『辛い想い出』ではなくて『懐かしい想い出』として、私の脳裏に残っている。
 

★ それにしても日常生活は全く戦前・戦後では変わってしまったのである。
 こんな凄まじい変化の中を生きた経験からか、
 その後の人生で、私は『大変だ』と思ったことは皆無で、
 人間少々の環境の変化などには、簡単に対応できると思ってしまうのである。
 そういう意味では『いい経験』をさせて貰ったと思っているし、
 『裕福も貧乏も』それなりにいいところがあるものなのである。

 88年の自分史を現在に近いところから、逆に子ども時代に向かって書いてきたが、
 その最後となる『戦前の子供時代』もこの稿を最後に幕を閉じることにする。

 『反省しない』というか『済んでしまったことは仕方がない』と、
 何事にも振り返ったりはせずに生きた私の88歳の人生は、
 この子供時代に身に付いたものかも知れないのである。

     本当に『激変』とも言える『環境の変化』の中で
 戦後の『私の中学校生活』が引き揚げてから4ヶ月目には始まったのである。

 その新しい学生生活は『一人も知った友達のいない』環境の中でスタートするのだが、それも不思議なほど自然に『溶け込めた』し、
 その後の人生で『新しいことに』臆することなく挑戦出来たのも
 こんな『子供時代の経験』がそうさせたのかも知れないのである。


 
 
コメント

萌黄色の季節

2021-04-05 06:28:05 | 発想$感想

★毎年今頃『萌黄色の季節』の風景を追っかけている。
 
 葉桜の頃、1日で樹々はその色を微妙に変える。
 今年はやはり暖冬だったからか、10日ほど早いような気がする。

 
 これは今年の4月3日、

 


 
 同じ場所だが、
 これは昨年の4月15日ごろである。






 新しい芽が出始めた時期なのだが、1日でその芽は大きくなり、
 新葉に変わる。





 そんな樹々たちが醸し出す『萌黄色の季節』の雰囲気は独特で、
 毎年この時期追っかけている。





 こんな景色が見られるところも少ないのだが、
 三木総合防災公園は、いろんなところから『萌黄の風景』が眺められる。

 この森の向うが、我が町緑が丘である。







 この山『丹生山』は、公園からも真正面に見られるのだが、
そこはもう『神戸市』なのである。






 樹々たちは、まさに『萌黄色』の今の季節である。




 新緑の若葉の季節ももう直ぐ、そこまで来ている。
 
 まさに春のひと時なのである。


 
 
コメント

戦前の子供時代  自分史  その4  

2021-04-04 07:28:19 | 自分史
★昭和16年(1941)12月8日、大東亜戦争が始まった時は小学校2年だった。
 
天佑を保有し萬世一系の皇祚を踐たる大日本帝国天皇は昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。
朕茲に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。

 こんなムツカシイ『開戦の詔書』が出されて
 毎月8日は『大詔奉戴日』として校長先生がこの詔書を読まれて、
 運動場で直立不動の姿勢でそれを聞いていた。

 そんなこともあったのか、小学校時代にも『こども・こども』したようなところがなくて、
  自分で言うのもおかしいが、結構確りとした小学生だったような気がする。

 小学校に入学した時の記念写真である。


    



 その大東亜戦争はマレーシヤあたりから始まって、
   翌年の2月には『シンガポールが陥落』したし、その後も連戦連勝で、
 フィリッピンも今のインドネシアも日本軍の手中になった。

 小学生3年生の時だと思うが、白地図に日本が占領したところを赤く塗っていく教科があり、どんどん赤いところが増えるので、
 当時の朝鮮・満州はもとより東南アジアがどんどん赤く塗られて、
 これは『世界中が日本になる』などと思ったのを覚えている。

 こんな感じで、どんどん赤く塗っていったのである。
 こんなことが続いたので、地図や地理に興味を持つようになったのかも知れない。

 
 

 

★戦争当初はこんな感じだったので、確か小学校3年生までは戦時中ではあったが、夏・冬の休みの明石帰省は続いていたのである。

 京城から釜山までも、下の関から神戸までも1等車の展望車に乗っていたし、
 
 
 
関釜連絡船も金剛丸とか興安丸など豪華客船の1等船室での旅だった。
 
 


 こんな贅沢な経験があるのは、こどもの時だけなのだが、
 父には旅の途中での行動を結構厳しく躾けられたのを覚えている。

 こんな夏・冬の明石帰省は3年生までは続いたのだが、
 確か4年生の春に関釜連絡船がアメリカの潜水艦の魚雷で撃沈されてからは
 流石に終わってしまったし、
 その後は戦局も一転負け戦に転じて、本土空襲などもあって、
 昭和20年8月15日の終戦に繋がっていくのである。
 その年が中学1年生だった。
 

★『子供時代』には、父母は私には細かいことは言わずに自由放任だったが、
 今思うと父母に遊んでもらったことは殆どないし、
 母方の祖父も、父方の祖母も孫に対しても毅然とした態度を崩さなかったように思うのである。
 子どもを甘やかして育てない、そんな時代だったのかも知れない。

 戦時中ではあったが、朝鮮には空襲もなかったし疎開などもなく、
 食糧事情なども何の問題もなくて戦争をしている実感は殆どなかったが、
 小学生5年生頃からは、兵隊さんが来て『教練』があったりした。
 アメリカの飛行機は飛んでは来たが、爆弾などは落とさなかったのである。

 そういう意味では、内地のような戦時中とは全く違ったものだった。
 

★ 父は特に職など持ってはいなかったのだが、
 何故か経済的には何の問題もない生活を送っていたのである。 

 父は家で絵を画いたりすることも多く、
 大きな絵は展覧会にも出したりしていた。
 明石の出で遠い姻戚に当たるという橋本海関に書を習い、
 その息子の橋本関雪に絵を習ったのが自慢だった。
 当時、橋本関雪は日本画の大家として第1人者だったのである。

これは関雪の絵なのだが、そんな関係で『関雪の絵』は家にいっぱいあったようである。

  

 
  そんな関雪の絵を見て、いろいろと同じような絵を画いていた。
  
  この絵は父の絵なのだが、なぜか戦後2番目の妹の家にあって、
  甥っ子がネットにこんなことをアップしていた。
 
 



 この絵は戦後、引き揚げてきてから画いた小さな絵だが、
 これは今も我が家にある。

  




★ 戦時中だったから小学校時代は、野球は全く無縁でボールを握ったこともない。
 スポーツと言えば冬はスケート、夏は水泳だったと言っていい。
 スケートは前回書いた『将忠壇公園の池』で冬中毎日やっていたし、
 水泳は学校にプールがあって、結構厳しく指導された。
 25メートルプールだが石ころを20個置いて戻ってきたら一個落として無くなるまで、毎日1000メートルは泳いでいたのである。
 先生がたの子供に接する態度も、今の時代と違って厳しかったように思う。

 クラスは男の子ばかりだったが、
 全体によく出来た生徒が揃っていたように思う。
 『級長』などもやらされたし、京城府伊賞なども頂いたので『よく出来た』ほうにいたことは間違いないが、
 『がり勉』などした覚えは全くない小学校時代だった。


  

 
 これがソウルオリンピックの時に見つけて私が写真を撮ってきた
 桜ケ丘国民学校である。
 左手前の建物のところは体育館だったのだが、
 この建物は新しく建てられたものでその向こうにあるのは昔そのままの学校で懐かしい。
 当時の内地の木造の小学校などとは違って、冬はスチーム完備の綺麗で立派な施設だった。
 当時の外地での日本人の生活は、平均して内地よりは水準が高かったのだと思う。



★ 当時の私の家族は、私の下に3人の妹がいて、
  終戦時には4人目の子供が母のお腹にいた、そんな6人家族だったのである。
 妹が言うには、家族で外で食事をする機会も多かったのに、
 私だけは、夕方おそくまで友達と遊んでばかりで『連れて行って貰えてな』ようなのである。

 不思議なぐらい妹と話をした記憶などもない。
 小学校時代の記憶と言えば、『友達と外で遊んだ』ことが殆どで
 家に『シロ』という秋田犬がいて『シロ』と遊んだことなど、
 冬になると『キムチ』を幾つも甕に漬けるのに専門の女の人が来て、
 白菜の間にいろんなものを挟んで漬けていたのをなぜかよく覚えている。

 父とはそんなに話もしたこともないのだが、
 何となく父の背中を見ながら育ってきたようにも思う。
 一言で言うと『ハイカラな父』だった。

 背広は神戸元町の老舗『柴田』のものというのが自慢だったし、
 絵も字も書き、ヴァヨリンを弾いたりもした。
 家の造りなどもサンルームもあったし、結構大きな温室もあった。
 風呂は6畳ぐらいもあって広かったし、何よりもトイレが水洗だった。
 暖房も全室スチームがあって、冬中切らさず石炭を焚き続けていて、
 これは『石炭を夜中にくべる・焚き屋さん』がいてボイラ室だけは外から合鍵で入れるようになっていたりした。
 戦前だったが電蓄電気冷蔵庫もあったし、
 当時の内地の家などと比べると、所謂・近代的なものは殆ど揃っていたのである。

 そんな贅沢とも言える暮らしではあったが、
 伯父と違って父は外では遊ばなかったそんな父を見て、
 私は子供ながらに秘かに父を尊敬して、その背中を見て育ったのかなと思ったりするのである。

 こどもの頃の、ほんの一瞬のちょっと贅沢な生活だったのだが、
 それを『経験できたこと』は、
 それがどんなものかと解っただけで『よかったかな』と思っている。

 戦後の一転した生活や、自分で独立した『三木での生活』が
 戦前の生活に比べて『劣っている』とは決して思わないのである。

 88年、いろんなことを経験できたことが『私の財産』であることは間違いないのである。

 
 
 
 
 

 
  

 
 
コメント

トカイナカ   雑感

2021-04-03 06:29:10 | 発想$感想
★『トカイナカ』って、ご存知ですか?

 私はこの4月1日に配布された三木市の広報誌で初めて知りました。

 その表紙に『永住しやすい「トカイナカ」三木市が2位に選ばれました
 と書かれていたので、
 ネットでチェックしたら、三木市のホームページにも、
 そのほかにもいろいろて出てきました。

 
  


 『家賃・病院数・診療所数・老人福祉費・小売店数・サービス業種』などから、
 それぞれの点数が合計されて、
 三木市は関西で泉佐野市に次いで2位に入っているようです。



  



  確かに三木は家賃も安いですし、病院の数も多くて、
 それ以上に『老人福祉費』が高いようです。
 これに『公園』とかスポーツ施設・ゴルフ場などの要素が入ると
 間違いなく他市を圧倒するのだと思います。


★ 『永住しやすい・都会に近いイナカ』という意味では、
 三木市はいろんな面で、最高にいいと私自身は思っています。
 
 近畿地区は若い頃の担当地域でしたから、
 どこの地域もよく解っていますが、
 ここに登場した 泉佐野・大和郡山・奈良・岸和田・明石 などよりは
 『三木』の方が圧倒的にいいと思うのは『住めば都』だけではなくて、
 三木には『世界一』や『日本一』もいっぱいあります。

 三木総合防災公園のビーンズドームやE-Defence世界一でしょうし、
 金物・山田錦日本一と言われていますし、
 私が勝手に思っている『日本一』は、
 無料駐車場の広さ公園の広さテニスコートの数と広さなどがあります。
 
 25もあるゴルフ場の数で解るように、豊かな自然がありますし、
 道の広さと共にアメリカのような町だと思っています。

 ただ、三木の地の方たちは『単なる田舎町』と思っている方が多くて、
 『トカイナカ・関西2位』になったことを機会に
 『我が町・三木』を見直す機会になればと思っています。
  
 

★以下の地図は三木市と泉佐野市の同じ縮尺の地図ですが、
 ご覧になってもその広さは歴然ですし、
 自然の多さも比較になりません。


 
  

  
 


★『トカイナカ』で検索してたら、
 あるブログにこのように書かれていました。
 これはなかなか、『いいところ』をついているように思いました。

1. 都心まで自宅から1時間程度
2. 距離にすると15〜30キロ圏内
3. バス便も多いが著しく不便を感じるほどでもない
4. スーパー、医療機関、教育機関などのインフラは普通に確保されている
5. 自然が案外多い
6. 畑や田んぼも多く、少しだけ自給自足している人も多い
7. 川や里山で遊んだりすることが日常になる
8. 笑っている住人が多い
9. 坂が多いが眺望や通り抜ける風が良い
10.人間以外の生き物も多い


 
 
 
コメント

戦前の子供時代  自分史  その3

2021-04-02 06:51:19 | 自分史

★ 小学生の頃から、昭和20年(1945)終戦の年まで、
 この時は中学1年生だったのだが、朝鮮京城・今のソウルにいた。
 当時は朝鮮ではなくて日本だったし小学校は国民学校と称していたが、
 京城府城東区新堂町桜ケ丘の『桜ケ丘国民学校』に行っていたのである。

 こどもの頃育った京城は私にとっては懐かしい故郷なのだが、
 当時の京城も間違いなく大都会ではあったのだが、
 その人口は100万人ぐらいで、
 現在の1000万人を超えるソウルとは全然違った街だったのである。
 
 懐かしい京城の街を思い出しながら、Google マップで今のソウルを眺めてみたので、
 自分のために纏めておきたいので、お許し頂きたいと思います。


★ 今は全く変わってしまったが、
 将忠壇公園の池に冬になるとスケートに行っていたので、
 まずそこからGoogle Map を拾ってみたのである。
 
 その場所は丸い大きな屋根のあるところで、
 そこから逆に我が家の方向を辿ってみると
 上のグランドが見えるところが、『桜ケ丘小学校』で、
 我が家はそのすぐ右側あたりの住宅地だったのである。

  

 
 ただ、当時はこの辺りは山ばかりで、
 我が家のあったあたりが山との境界線だったのだが、
 今は完全に家が密集してしまっている。

 

★ これがその小学校である。


  


 そして、これは外壁や門構えは変わってしまっているが、
 家は間違いなく、私が小学校時代を過ごした我が家なのである。
 瓦の横は銅板が張られているし、煙突のある下はスチームのボイラー室で、
 間違いなく『我が家』なのである。

  
   

 二つとも、私が写してきたものなのだが、
 なぜこんな写真があるのかというと、
 1988年『ソウルオリンピック』の時に、オリンピック委員会から正規の招待があって、
 オリンピック会場のすぐ横を流れる『漢江』で、世界のチャンピオンを集めて、ジェットスキーのデモンストレーションをやったのだが、私はその団長を務めたのである。

 その時の1日、JJSBAの苧野豊秋会長と一緒に、かっての家を探しに行って、 見つけて写真を撮ってきたのである。
   
  
 

 これが門構えの奥、我が家の玄関だったのだが、
 果たして、どんな形になっていたのだろう?
  
 
      
  
   写真には私は写っていないが、
   左は母の長兄・大阪市大の教授をしていた楠見一正伯父である。 


★ 戦前の京城は人口100万人だが、
 現在のソウルの10分の1以下だから、
 まだ家などもそんなに建ってはいなくて、
 我が家の上あたりは山地だったし、
 漢江の辺りも、山野で家などは建っていなかったのである。
     
 


 この地図にある左から印をつけたところが
 『京城駅』・『南大門』・ 『東大門』
 そして其の下に並んでいるのが、『将忠壇』と『桜が丘』なのだが、

 
 それはGoogle マップでみると


 これが京城駅

 


 これが南大門


 
 これが東大門



 そしてこれが今の将忠壇公園公園


 
 そして、ここが小学校の前の大通りで、
 確かに道幅は広かったのだが、まだ地道で、
 この辺りは閑静な住宅街だったのに、賑やかな街に変貌してしまっていて、



 

 30年ちょっと前、ソウルオリンピックの時には
 間違いなく残っていた我が家あたりも
 今はこんなビル街に変わってしまっているのである。





★ 世の中75年も経つと全く変わってしまうものである。

 これが今のソウルだが、
 私が小学生の頃の我が家は京城の郊外に近い新興住宅地だったのだが、
 今観るとソウルの中心と言ってもいい位置である。
 左のマルが『ソウル駅』、真ん中の印が『我が家あたり
 そして、右が『オリンピック公園』なのである。

 漢江の南側など全くの荒れ地か野原だったのに、
 今はこのような大都会なのである。

 



★ それにしても Google Mapなどネット の機能 は凄いなと思う。
 京城には中学生の1年の夏までいたので、大体のことは解っていて、
 いろいろ調べてみると、いろいろと解るのである。


 これが戦時中の京城三越だが、

 


 
それは殆どそのまま残されて、 こんな形になっている。





 南山にあった朝鮮神宮は、よくお参りしたのだが、
 今は公園として残っているようである。

 



 そして、これが朝鮮総督府で、前の韓国風の門はなかったが、
 そのまま残っている。

 


 今の韓国大統領公邸の青瓦台のところに、
 朝鮮総督公邸もあって、たまたま小学校のトモダチに小磯総督のお孫さんがいて、
 『おじいちゃんがいる場所を観に行こう』をとわざわざ見に行ったことを覚えている。
 それは総督府のずっと奥の方だった。
 


  まずは、こんな当時の『京城』について纏めてみた。


 
 
コメント

春は成長の時期 & 育てるということは

2021-04-01 06:45:39 | 日常生活、園芸、バラ

★4月になった。
 我が家の薔薇たちは、今年の新芽をいっぱいに付けている。

 いまこんな状態である。

 


 同じ場所だが、2月にはこんな状態だったのに、
 今は葉がいっぱいで、ちょうど蕾も付きだした時期である。
    沢山の枝が交錯してるが、実は4種類の『蔓バラの枝』なのである。
 自分なりに『絵を画く心境』で枝を誘引している。
 ちょっと咲く時期も違うのだが、それでも4須類の薔薇がこの一面に咲く。




 木ばらも同じような状態だったのだが、
 お解り難いとは思うが、こんな風に枝を切り詰めた、
 所謂『整枝』の作業をやったのである。

 


  
 折角、伸びた枝だが、結構思い切って切っている。

  


 
 これは切る前だが、
 折角、伸びている枝だが、内側に向かっている2本は切ってしまうのである。

  




★ 『育てる』ということは、
 どれを『育てるのか』という『育てる目標』を明確にしないと、
 『全部育てよう』とすると形が整わないし、確りとは育たないのである。

  人間の『入学試験』みたいなもので、
  『試験に通った人』だけが『育てる目標』となるのである。

  まずは冬の時期に『育てる枝』を選択して、
  4月には、そこから芽生えた枝も、不要なものは切り落としてしまうのである。

  これは結構『面倒な作業』で、解っていてもサボってしまうのである。
  今年は頑張って、やれてるのは『コロナ様様』で、
  有り余る時間があるからなのである。
 

★ 今年は、冬の肥料も確りやれたし、
  『冬剪定』も出来ている。
  いつもはこの辺りで、サボってしまうのだが、
  今年は4月に『整枝作業』を始めたのである。

  つる薔薇など、結構枝が長いから、なかなか大変だが、
  何日か掛るが、昨日はその第1日目だったのである。

  あと1ヶ月、5月には『綺麗な花』を見ることが出来ることを
  祈っている。

  


 薔薇だけでなく、春は新しい枝や新芽がいっぱいなのである。


  
 
 
  
コメント

戦前の子供時代  自分史  その2   

2021-03-31 06:57:18 | 自分史
★ 子供時代に『大きな影響を受けた人』と言えば、
 それは『伯父と父』だと言っていい。

 これは戦前の私の子供時代の伯父と父なのだが、
 写している場所は、伯父がオーナーだった『明石の錦江ホテル』の庭である。

 いつ、どんな時に写した写真なのか定かではないのだが、
 結構な正装である。

 
   



 当時、伯父にはこどもがいなくて、
 伯父は私を『古谷家の跡継ぎ』として可愛がってくれて、
 あちこちに連れまわされたので、 
 私は父以上に伯父との会話が多かったように思うのである。

 こどもの頃は、朝鮮京城府に住んではいたのだが、
 小学生の頃、夏・冬の休みには毎年明石に里帰りしていたので、
 私は戦前の日本というか、当時は『内地』と呼んでいたのだが、
 戦前の明石も、神戸の街もよく覚えているのである。

 小学生だったのに、伯父に神戸花隈の夜の席や、有馬温泉での芸者さんが沢山の席などにも連れていかれて『大人の遊び』も見ているのだが、
 伯父の遊び方は、結構派手であったことは間違いないのである。

 
 そんな夜の世界だけではなくて、当時伯父が檀家総代をしていた
 明石藩松平家の菩提寺・長寿院などにも連れていかれて、
 こどもの頃にお上人の話なども聞かされたのである。
  



 伯父は当時は朝鮮の南鮮合同電気という今の韓国をテリトリーとする
 大企業であった電力会社のオーナー副社長だったのだが、
 現地に来るのは数回だけで、ずっと明石に居を構えていて、
 明石では『錦江ホテル』という結構大きなホテルの経営者でもあった。

 その立地は当時の『中崎海岸』に位置していて、
 松並木のある素晴らしい景観で
 夏休みなどそこを拠点に私は海水浴など楽しんでいて、
 ホテルにいた従業員のお姉さん方にもいろいろと可愛がって頂いたのである。


 アメリカ製のクルマが止まっているが、
 これはリンカーンか、パッカードで伯父の自家用車だったのである。
 勿論、運転手さん付だったのだが、よく乗せて貰ったし、
 車にラジオがついていたりしてビックリしたのである。
 車などの名前も、その当時覚えたものである。

 
   
 


 こんなパンフレットもあったし、

 



 装備や調度品や庭なども非常に凝ったホテルで
 当時から外人客なども訪れていたのである。
 ホテルにあった天婦羅やでよく天婦羅を食べたのも覚えている。

 

 
 
 戦前のことだがクルマもあったし、
 上の丸の家の庭には、私のためにプールを作ってくれたりした伯父だったのである。
 神戸に行くにも『車で行く』ことが多かったし、
 伯父の家には『爺や』もいて、私を明石公園の魚取りや明石川での鰻の子を採りにつれて行ってくれたりした、
 そんな上流家庭の生活だったのである。
 
 子どもの頃はそんな環境で伯父に可愛がって貰ったりはしたのだが、
 少々『派手に遊ぶ』伯父を見ていて何となく子供心に、
 『お金があることはあまりいいことではないな』とホントにそう思ったりもしたのである。

 逆に父は一切外では遊ばなかったように思うし、
 子どもの私に対して『金には厳しくて』一切小遣いなどは与えてくれなかったからかも知れない。

 そんな環境で育ったからか、戦後は一転金などない生活になるのだが、
 『お金が欲しい』とか『金を貯めよう』などと思ったことは一切なくて、
 『給料が安い・高い』なども全く関心がない生活が続いているのである。

  二人の子供たちが独立するまでは、家内は専業主婦だったし、
 貯金なども一切なくて『家計は苦しい』時期が続いたのだが、
 その当時もホントに『金には無関心』だった。

 それは何となく『お金があることはあまりいいことではないな』と
 こどもの頃思ったことが、
 そのまま続いているのだと思う。
 
 

★ 父は私が高校3年生の1月に亡くなってしまって、
  それ以降、伯父には大学入試にも世話になったのだが、
  その伯父も大学3回生の時に亡くなってしまうのだが、
  大学卒業後の就職が川崎航空機に当時の社長砂野仁さんのコネで入社できたのは、伯父のお陰なのである。

  前述した『錦江ホテル』は、その後大東亜戦争が始まってから、
 軍の指示で明石の川崎航空機に『軍の人たちの宿舎』として接収されることになり、
 その当時の川崎航空機の総務部長が砂野仁さんで、
 そんな関係もあって伯父は砂野さんとその後も懇意にしていたのである。

 結構な遊び人であった伯父だが、『人の面倒見』は非常に良かったようで、
 戦後の食糧難の時代に、酒などもなかったのになぜか伯父の家には酒などもあって、砂野さんともよく家で飲んでたし、
 後、明石商工会議所会頭をされた辻勝一さんは京都の方なのだが、
 戦後明石の相生町で工作所を始められた際、伯父がその場所を提供したのだと思う。
 その土地は伯父や父の妹夫婦が住んでいた場所なのだが、
 二人とも戦災で亡くなってしまって、戦災で焼失したままになっていた場所なのである。
 
 私は戦後1945年12月に、引き揚げてきて翌年4月神戸一中に入学するまでの3か月間、伯父に連れられてしょっちゅう、相生町のその場所に来ていたので知っているのである。

 戦災で亡くなった叔父は『錦江ホテルの支配人』をしていてその家にはお稲荷さんがあったのをよく覚えているのだが、
 そのお稲荷さんは今でも残っているのである。

 
  かっての錦江ホテル跡は、今では『明石勤労福祉会館』となっていて、
 この写真の左上にあるのがその『お稲荷さん』なのである。


 
  

 


 私の小学生時代の懐かしい想い出『錦江ホテル』の辺りは、
 今は海の方に大きく埋め立てられてしまって陸地になり、明石市役所などがあるが、
 私の子供の頃は、そこは海だったのである。

 
  


★ 夏冬明石に里帰りをしていた小学生低学年の時代の想い出は
 朝鮮京城よりはむしろ内地の想い出の方が懐かしいように思うのである。

 ただ、当時の内地の印象は『旧くて小さい家が多いな』と思っていたのが正直な感想で、
 当時の京城の家はみんな、内地の家に比べると新しくて、敷地が大きい家ばかりだったように思ったし、
 神戸の市電や、神戸の三越よりも、京城の市電や京城三越の方が綺麗で大きいと思ったりしたのである。

 内地の小学校は木造だったが、京城の小学校は鉄筋コンクリートで冬はスチームが通っていたし、学校に当時からプールもあったりして、
 全般に近代的だったなと思っているのである。

 
そんな朝鮮・京城の当時の外地の想い出は次回に。


 
 
  
コメント

コロナ対策 どうなるのだろう?

2021-03-30 07:24:36 | 私の生き方、考え方&意見

★ ここにきて、収まり掛けていた関西でのコロナが急増傾向である。
 大阪では3日連続で300人を超え、東京を上回ったという。

 兵庫県では新たに93人とあるが、
 神戸市45人、尼崎市10人、西宮市7人、明石市7人、姫路市5人
 とやはり大阪に繋がっている『通勤圏』が殆どで、
 『三木市』の名前はない。


 



 『三木市』のホームページを見ると
 三木市はなぜか『加東健康福祉事務所管内』として公表されるようになっていて
3月1日付の発表より、三木市の新たな感染者数の増加はありません。 』
と公表されているので3月の新発生者はゼロということなのだろう。


★4月になると高齢者に対する『ワクチン接種』が始まるので、
 それまで『頑張ろう』と思っているのだが、
 これも市のホームページを見ると、『少し遅れている』ようである。


 


 
 然し、遅くとも4月中には『ワクチン接種』をして貰えるだろうから、
 あと1ヶ月の頑張りである。

 結構ちゃんと、『コロナ対策』になっているような日課をこなしている。
 殆どと言っていいほど『人との会話』はないし、
 この半年『外食も皆無』である。
 
 それなのに、あまり寂しくもないのは、Facebook でのネットのやり取りがあるからだろう。
 昨日もアメリカの孫のサッカーの実況を観ていた。
  無茶苦茶攻められて18本のシュートを打たれたが、
 見事セーブして2-0の勝利だった。

  



★ 昨年春以来の『私のコロナ対策日課』だが、

 ● 朝は三木総合防災公園を走る
 ● 家内の買い物があるとスーパーまで付き合う
 ● Facebook でのやり取り
 ● ネットで囲碁を打つ
 ● 庭仕事をする
 ● 結構確りと毎日ブログをアップする

    ぐらいのことなのだが、退屈せずに毎日が過ごせている。
 こんな日課なので、この1年『マスクをした時間』は殆どない。
 スーパーに行った時だけと言ってもいい。
 車の中に3枚のマスクがあるが、これは昨年3月以来のもので、
 『3枚のマスク』で間に合った三木の環境に感謝である。

  私だけではなくて、マスクをしていない人が殆どである。


  


 



 5月からは 新しい日課がこなせるようになることを期待している。



 
 
コメント

戦前の子供時代  自分史  その1   

2021-03-29 06:09:40 | 自分史

★ 88歳の今現在に近いところから、逆に若いほうに向かって書いてきた自分史だが、
 戦後の中学生からの学生生活を終わって、
 いよいよ生まれてから小学生だった『戦前の子供時代』に入ることになった。

 この世に生を受けてから小学校を卒業するまでの『こどもの頃』は、
 ちょうど大東亜戦争が終わる昭和20年までで、
 当時は日本であった朝鮮京城(今のソウル)にいて、
 それ以降の人生とは全く違った『異質の時代』を過ごしたのである。

 生まれ故郷は兵庫県明石市上の丸で、それは昭和8年(1933)3月なのだが、 
 3歳の頃には朝鮮太田市にいて、小学校に入学当時には既に京城府に移っていて、
 京城府城東区新堂町桜ケ丘という高級新興住宅地で、
 通った小学校は京城桜ケ丘国民学校だったのである。


★ なぜ、朝鮮などにいたのか?
  それは祖父・古谷虎雄が起業した『電気事業』を引き継ぐために朝鮮に渡ったのである。

  
  祖父・古谷虎雄のことにについては、
  ネットの中にもこのような記述で残っていている。

  
  

  
  そして、このように記述されている。
  
   


 更に こんな記述も残されている。

  


 
祖父・古谷虎雄は私が生まれた時は既にこの世にはいなくて、私は知らないのだが、事業家で一代で財を成したようである。
 早く亡くなってしまったので、伯父・古谷修一も若くして『太田電気』の社長になったようだが、
 その経営の実は、祖父時代からの重役陣や番頭さんであった竹内さんなどで実際には行われていたのだと思う。
 伯父はオーナー社長で明石に住んでいたので、
 その代わりに父が太田市の現地に赴いたのではなかろかと思っている。

 その太田電気は、昭和12年(1937)3月に朝鮮総督府の政策で、
 6社の電気会社が合併して『南鮮合同電気・株』となり、

 当初の本社は釜山に置かれたようだが、

  
 
 
 その後本社が京城(今のソウル)に移った時に、
 我が家も太田から京城に移転したのだと思うのである。


 南朝鮮の6社が合併してできた『南鮮合同電力株式会社』は、現在の日本の『各地電力会社』に相当する位置づけで、
 現在の韓国に相当する地域を担当した『大企業』ではあったのだと思う。

 その『南鮮合同電気』の経営陣は以下の通りなのだが、
 伯父・古谷修一オーナー副社長として経営陣に加わってはいるが、
 この時も伯父の居住地は兵庫県明石市だったので、
 年に何度かは京城府の我が家に来ていたが、
 その時の伯父の移動は、当時の新聞の『人事往来』に掲載されたりしたのである。


  

   
 以上が私の憶測も入ってはいるのだが、
 戦前に朝鮮京城にいた理由と経緯なのである。



★私は昭和8年(1933)3月に明石市上の丸で生まれている。
 ここは祖父の別荘だったところだが、父の新婚時代はここに住んだのだと思う。
 
 この写真に写っているのは、祖父・祖母・叔母など祖父一家なのだが、
 伯父も父も未だ多分早稲田の学生時代なのである。

  

  
 
 これは 明石市細工町20番地でここが住居だったのだと思う。
 今も『魚の棚』で有名だがあの辺りが細工町である。
 小学校時代にはここが私の本籍だった。
 伯父一家も私が小学校に入ったころはここに住んでいたのである。

 



★ これらはみんな祖父が残した遺産なのだが、
 祖父の偉業を偲んで、伯父は祖父の銅像を上の丸の庭園に建てていた。
 これがその『祖父の銅像』なのだが、
 私は子供の頃から、この銅像で祖父と対面していたのである。

 不思議に戦災からも免れて、これは今も少しだけ残っている明石上ノ丸の本家の一隅に残っているものである。


    




★ こんな経緯で、私の少年時代は京城(今のソウル)にいたのだが、
 父は何をしていたのかはよく解らないのである。
 兎に角、勤め人ではなかったし、と言って自分で事業などもしていない。
 どのようにして生計を立てていたのかも知らない。

 ずっと家にいて、好きな絵を画いたり、旅行に行ったりしていた。
 古谷家の次男なのだが、祖父の遺言で伯父と財産分けなどしていなかったようなので、
 何もしていなかったが『暮らしに困る』ようなことは全くなくて、
 まさに悠々自適の生活だったのだと思う。

 伯父の一家には当時は子供がいなくて、私が『古谷家を継ぐ』立場にあったからだと思うが、
 こどもの頃から伯父には『古谷家の総領』として育てられたようなところがあった。
 逆に、父は私に特に何も言わなくて自由に育ててはくれたが、
 金には何故か厳しくて『こどもは金など持つな』ということだけを私は覚えている。
 私は生来そんなことで『小遣いもお年玉も』貰った経験がないのである。


 
 これは私の3歳の頃のそんな父との写真である。
 ほかにもいっぱいあったのだと思うが、戦災で焼けてしまったし、
 朝鮮から引き揚げの時に持ち帰らなかったので、
 父と二人の写真はこれだけなのである。


  



  これも同じころの写真だが、
  この頃も、間違いなく『良家のぼん』のような感じである。
  
   
     



★ 母は岡山の出である。
  
 父は52歳で亡くなってしまったが、母は103歳まで生きて、
 戦後、私と妹4人を育ててくれたのだが、103歳まで長生きした。

 これは若い頃の写真だが、多分結婚後直ぐの頃だと思う。
 明治42年生まれの明治の女で確りしていたと思うが、
 私には何にも言われたりはしなかった。



  



 これは先の写真にもあった、明石細工町の伯父宅での写真だが、
 母に抱かれているのが私である。
 一番右は母の兄・楠見幸信ご夫婦で、真ん中は父の妹の叔母ご夫婦、
 そして本家の祖母と伯母、それに書生の方がいて、
 当家の主、伯父はなぜか家の中である。
 
 
 

 母は岡山・楠見家の出で、
 楠見幸信は次兄・慶応黄金時代・宮武・山下・水原の頃の一番センターで、
 昭和の初期の未だプロがあったのか、なかったのか?
 当時の全日本のメンバーで、戦後は国鉄スワローズの初代総監督なのである。


 これは、岡山の楠見家での写真である。
 祖父・楠見忠三郎も写っているし、母の長兄・楠見一正伯父もいるし、そのお子様も
 母の一番下の弟、昭三叔父も未だ子供時代である。

 母方の楠見家は男3人女3人の6人兄弟で、母は3番目で長女なのだが、
 男兄弟3人は3人3様、長男の一正伯父は学者大阪市大の教授をされていた。
 次兄の幸信伯父はパリパリのスポーツ選手なのに、三男の昭三叔父は、この時代には自転車にも乗れずに、ピアノなどが得意で今は建築家なのである。




 楠見家も朝鮮で『楠見組』という土木事業などをやっていたので、
 祖父はよく京城の家にも来ていたが、
 今の『おじいちゃんと孫』のような関係ではなくて、
 常に毅然としていたし、父と囲碁を打ってたのを私は横から眺めていただけである。


 これも岡山の母方の実家で、同じ時なのかどうか?
 まだ私は小学校前かも知れない。
 
 
        



 子どもの頃は、服装を見てもこんな感じで、
 私など結婚してから今まで、こんな父のような服装をしたことがナイのだが、 
 昔はこんな家庭で『ぼんぼん』として育てられたのである。
 少なくとも、こどもの頃の戦前の生活と
 戦後の中学校以降の生活とは180度違っているのである。

 いわゆる『お金持ち』の生活がどのようなものなのか?
 特に、私を可愛がってくれた伯父の生活は、
 父とは違って『派手だった』のである。
 それを子供心にどのように感じたのか?
 これらはまた次回に。


  
 
 

   

  
コメント

佐藤輝明  期待以上の大活躍!

2021-03-28 07:16:06 | スポーツ

★ 阪神ーヤクルト戦をテレビで見ている。
 まだ4回だが、阪神が6-0で勝っている。

 昨日の第1戦では、初打席・初打点でスタートを飾った新人佐藤輝明だが、
 第2戦の第一打席は『初ヒットが初ホームラン』だった。

 『佐藤輝明』と検索すると
  こんなニュースが並ぶ。
 
 昨日は『初打席で初打点』だったが
 今日は『初打席が初ホームラン』でビックリした。

  

  


★ 試合は9-5で阪神が勝ち、
 佐藤輝明は『初のお立ち台』である。

   


  これは何と言っていいのか解らぬほどの大活躍である。
 
  スターはいろんな運を持っているものだが、
  この佐藤輝明のデヴューぶりは、
  長嶋一茂以来の鮮烈さを持っている。

  初ホームラン・初複数安打・初盗塁・初四球・初お立ち台
  『初尽くし』である。


  『期待以上の大活躍
  今年の阪神はオモシロそうである。


   
 
 
コメント