雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 17

2020-07-12 05:27:30 | 私の生き方、考え方&意見

★ このシリーズも17回になった。
 今回は『新宿ショールーム』 について
 『私の生き方、考え方&意見』というシリーズの中で纏めてみたい。


   


 
   こんなビルの1階がショールームで、屋上には、こんな看板が掛かっていた。
 上下を占拠していたので、
 『カワサキの自社ビル』だと思っていた人も多いようだった。


 時代はカワサキが国内市場で史上最高の時代、
 『7万台の販売目標を達成した』平成の初期のことなのである。
 ただ、このショールームを創るのには、それなりの葛藤もあったのである。

 確かに場所も立地もいいのだが、
 費用は『看板と共に1億円』も掛ったのである。




 当時の冊子にも髙橋鐵郎さんと共にこのように登場していて、
 確かに『グッドタイム』をお届けしていたのだが、


 



 この時代の『カワサキの象徴』が新宿ショールームであったと言ってもいい。
 何よりもその立地が素晴らしかったのである。

 
★25年も経つと場所もはっきりとは分からなかったのだが、
 当時ここを本拠にしてた植村武くんが
 Facebookでいろいろ教えてくれてやっと解ったのである。
 
 地図ではもう一つ解らないが、ちょっと道路がカーブしているので、

 
 

 

 真っ正面にビルも看板も見えて、
 JRの車窓からも真正面に見えるという『最高の立地』だったのである。

 

 


 
これは植村くんが送ってくれた『Googleマップ』から
いろいろやってみた写真なのだが、こんな感じに見えるのである。



★1989年からの10年間の私の最後の国内販売担当時代のことをこのように纏めている。

  
    



そんな中に、平成4年5月『ショールーム・新宿看板設置』という項目がある。
このシリーズ、100回ほど続くかな』と言ってるのはこんな項目を拾っていけばいいので、ホントに幾らでも材料はあるのである。


   



★この年の8月には東京営業所はこのビルの3階に事務所を移していて、
まさに『カワサキのビル』のような感じだったのである。

当時の二輪の販売店はまだまだ『綺麗』とは言えない時代だったから、
このショールームは立地と共にひと際抜きんでていて、
自工会の二輪部会の方からも
カワサキさんだけでなく二輪業界の地位向上になっている
との評価も頂いたりしたのである。

二輪車は名実ともに世界一』の商品なのだから、
世界一の商品』は、それに相応しい場所で販売されて然るべきと思っていた。


この冊子にも書かれているように、
常に『末端ユーザー』にその視点は向けられていて、
当時の『plaza』はいろんな形での全国展開だったのである。
いろんなスタイルがあったが、
そのいずれもが『業界のトップ』と言って間違いないそんなレベルでの展開だった。


 




★さらに、このショールームで特筆できるのは、
アフター・ファイブ』と称して、5時以降はユーザーに対する販売も行ったのである。
当時のARK からカワサキOBの五島・関くんらが手伝ってくれての展開だった。

二輪のユーザーの想いをマーケッテングする『マーケッテング』主体の発想で、『サービス機能もない店でもユーザーは買うのか?』と思ったのだが、
当時の二輪販売店には行きたくない』というユーザーも結構いたのである。
 
ユーザーにはいろんな人がいて、そんな多彩なユーザーに対応することこそが、
『二輪全体のパイを広げる』と思っていたのである。


★それは兎も角、このショールームはどんな形で実現したのか?
 当時、東京には神田に既にショールームは設けていたのだが、
 『新宿にいい場所がある』というので私は一人で現地を見たのである。

 平成4年1月15日、ちょうど国松君の結婚披露宴が午後からあった
 そんな日の朝だった。
 
 現場を見て『いい』とは思ったが、看板を入れて1億掛かるという。
 髙橋鐵郎さんにも現地を見て貰って、
 3月5日にGOサインがでて、
 平成4年6月7日に『プラザ新宿』はオープンしたのである。



★ 販売台数も7万台、450億円の売り上げもあったが、
 カワサキの国内グループの一番元気だった時代と言ってもいい。
 カワサキの東京の営業はこのビルの3階が本拠地だったのである。

 先述の植村くんも『懐かしい時代』だったと言っていた。
 Facebook にこんなコメントを頂いていて、
 今もFacebook でも繋がっている柏原久さんが
 『アークアシスト課』を仕切っていた時代なのである。


  



 活気のあった『いい時代』だったなと思っている。

 もう25年も前のことだが、『想い出』はいいものである。



 

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家内の誕生日     雑感

2020-07-11 05:53:52 | 発想$感想

★昨日、7月10日は 『家内の誕生日』だった。
 めでたく83歳を迎えて、
 私の歳、87歳を加えたら、夫婦で『170歳』になったのである。

 結婚したのが、昭和37年(1962)12月10日だから
 もう58年にもなるのだが、よく続いたものである。

 朝、アメリカの孫が『誕生日おめでとう』とラインで言ってきていたが、
 誕生日と言っても、特に格段のこともしない。
 
 誕生日だから『鰻でも食うか』と、鰻屋に行ったわけではないのだが、
 スーパーでいつもは買ったりはしない『鰻のかば焼き』を買ってきた。

 付き合っていた頃、
 神戸の『竹葉亭の鰻』をよく食いに行ったのを思いだしたからである。

 
   
 

 
 そんなことは覚えてはいるのだが、
 当時それが幾らだったのか?
 当時の給料は2万円になったばかりの頃だから、
 今のような値段ではなかったはずである。

 そんな細かいことは、全く覚えていないのである。



★ 私はその頃から日記を書いているので、
 一体、どんなきっかけで家内と付き合うようになったのか、
 昨日は雨も降ってるし、閑に任せて調べてみたのである
 5年分の日記を読むのは、結構な労力なのだが、
 やりかけると、最後までやらぬと気が済まないのである。

 覚えているようでも『いい加減な覚え方』で、
 人間の記憶は頼りないことがよく解ったのである。

 折角調べていろいろ解ったのだから、粗っぽく纏めてみると、
 私が当時の川崎航空機工業に入社したのは昭和32年(1957)4月なのだが、
 財産課のすぐ隣の勤労に彼女はいたのである。

 
 ●最初に話をしたのは、6月5日のことで
 野球部の旧友からの電話を『小野田さんという方からの電話です
 とわざわざ席まで伝えに来てくれたのである。
 ただ、それだけのことだが、日記に書いて残してるのは、私が気があったのかも

 ●その後11月6日の日記に、『神戸高校出身らしい』と書いている。
 私が旧制の神戸一中の出身なので、後輩になるのだなと思ったようである。
 何事もふとした縁が繋がったりするのだと思った。

 ●最初に映画に誘ったのは私で、それは翌年の5月28日のことなのだが、
 結婚に至るまではいろいろとあったのである。
 付き合いを始めてから4年目で結婚はしているのだが、

 ●その間、私が肺結核で三田の大原療養所に1年余り入院してしまって、
 ちょうど1年間の空白があったものだから、いろいろ大変だったのである。



★それは当時は大変なことだったのだが、
 この入院のお陰で、空洞までできていた私の肺結核は治ったし
 ちょうどその時期、会社では新しく単車事業を立ち上げることになって、
 私は、その新事業の単車部門に異動することになったのである。


 そんなことで1年入院はしていたが、健康になったし
 単車事業というオモシロい分野に入ることが出来たのも
 ラッキーだったと 今になるとそう思っている。



★ これは当時の日記に挟まれていた、家内の写真である。
 
 私は当時は写真など一切やってないので、私が写したわけではない。
 多分、当時家内がくれたのだと思う。
 こんな写真があることも、覚えていなかったが、
 日記をひっくり返して見て、若い頃の家内に会えて、よかったなと思っている。

  
  

 
     これは2年ほど前、アメリカの娘一家のところに

 遊びに行った時の写真だが、
 何となく若い頃の面影は残っているようにも思う。

  
 


      これは同じころ、日本。
  鳴門海峡淡路島で二人の孫たちと。
  

   
 




★ 家内は私と違ってネットなど全くやらないので、
 83歳の誕生日に、私がブログでこんなこと書いてることなど、
 全く知らないし、読んだりはしないのである。

 私は、この付き合っていた5年間の日記を詳細に読み直してみて、
 『いろんなことが解った』というか、
 個々の行動などはホントに人間の記憶など、全く正確ではないなと思ったりした。

 ただその頃『想っていたこと』は、これは間違いないのである。
 そういう意味では、粗っぽく『想い出』というのは、
 大切にすればいいと改めてそう思ったのである。

 

★神戸の『竹葉亭の鰻』ほど、旨くはないのかも知れぬが、
 83歳の家内の誕生日に食った『スーパーの鰻』も結構旨かったのである。

 そういう意味では 『いい家内の誕生日』であった。
 せめて後5年、『180歳』になるまで頑張って生きたいなと思っている。
 

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富士通  『通勤という概念なくす』

2020-07-10 05:05:19 | 発想$感想

★ 最近の記事の中で、これはちょっとビックリした。

 使っているパソコンは3台目だが、
 すべてFujituuだし、
 何となく身近な会社のようにも思えるのだが、

 その会社が 『通勤という概念をなくす』 というので、
 何となく 説得力がある ように思う。









★ 昨今の『新コロナウイルス』対策で、
各社とも『テレワーク』などを始めて、それなりの実績が出来たからであろうが、
世の中もどんどん変わりそうである。

現在でも富士通は『オフィスへの出勤率を従来の約25%に抑えている』というが、
一歩進めて、『オフイスなどの縮小・廃止』なども考えているようである。




  




勤務制度の面では、オフィス縮小とテレワークの全面導入と同時に、
単身赴任を順次解除』するという。



  
 
 

★ 富士通という会社だから、なるほどと思うのだが、

  例えば、川崎重工業のような会社でも、こんな動きは広がるのだろうか?

  販売会社などは、どうなのだろう?

  例えば、二輪販売などは、元々が『販売網というネット販売』なのだから、
  セールスなどは必要はないように思うし、 
  もっと進んだら『販売網はほんとに要るのか?』と思ったりする。
  
  『販売網はなくても大丈夫』だが、
  『ユーザーへのサービス機能は必要』などと思って、
  もう20年以上も前に、
  『サービス機能』や『レースや遊びの機能』など
  『ユーザーが求める機能』に対応した『機能別ARK構想』など構想したが、
  時間切れになって実現しなかった。
  

  世の中の動きが、このようにどんどんと変わったら、
  どんな会社も、『従来のまま』というわけには行かないのだろう。
  同じ業種でも、一社が前を向いて進んだら、
  それに追随できない企業は、遅れてしまうのは間違いない。


  いま、コロナで大変だが、
  コロナが終わった後の方が、より大変なのかも知れない。
  でも、オモシロい世の中になってきたなと思っている。

  
  
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野本浩一さんとの ZOOMミーテング

2020-07-09 05:52:07 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★ 先日来、 私のブログには何度か 『野本浩一さん』 が登場するのだが、
  極々最近、Facebook で繋がったばかりなのである。

  確か6月中旬のことだったが、
  野本さんから突然、『トモダチ申請』が届いたので、
  どんなお方かな?とちょっとチェックしたのだが、『東大出』とあったので、
  東京大学出身の友達もいいかなとOKしたのである。

  それ以降、結構密接なやり取りがFacebook 上であったのだが、
  なぜか、この雑感日記も気に入って頂いて、
  私がびっくりするほど、詳しく読んで頂いているようなのである。


  


 
 そんな野本さんから『ZOOM ミーテングをやりましょう』というご提案があって、
 私なりにいろいろやってみたのだがもう一つ上手くいかないので、
 アメリカにいる孫に、いろいろやって貰ったら、
 アメリカの孫とは『ZOOM ミーテング』が出来たことは、
 昨日のブログ通りなのである。
 



★ ところが肝心の野本浩一さんとは、
 いろいろやったが出来なかったので、
 半分諦めていたのだが、 

野本さんにミーティングのurlをおじいちゃんのフェイスブックのメッセージに直接送るように言ってください。
そのurlがフェイスブックのメッセージに来て、おじいちゃんがそれをクリックしたら、昨日したみたいにZOOMミーティング出来るはずです。』

 と孫が言ってきたので、
 その通りのことを野本さんに伝えたら、
 『野本さんとのZOOM ミーテング』が実現したのである。

 いろんな話題に飛んで
 初めての会話ではないような、いろんな話題に亘って、
 約2時間近くも話していたのである。

 
  
 



 そしてFacebook にはこんなコメントまで頂いたのである。


  


★『人の繋がり』は、本当に不思議なものである。

 1か月前までは、全く存じ上げることもなかった『野本浩一』さんと、
 普通では2時間近くも『途切れることなく』話が続くこと自体が不思議なのである。

 『ネットの世界』がなかったら、こんなことはあり得ない。
 先日、ちょっとご紹介した『樋渡啓祐』さんとの出会いも不思議なご縁だったが、
 東京大学出身の方でも、真面目一筋ではなく、
 『ちょっと変わったオモシロい方』もおられるのである。

 果たして今後、どんな展開になっていくのだろうか?
 

  
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野本浩一さんとの ZOOMミーテング

2020-07-08 16:05:31 | 発想$感想

★ 先日来、 私のブログには何度か 『野本浩一さん』 が登場するのだが、
  極々最近、Facebook で繋がったばかりなのである。
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アメリカの孫とのZOOM ミーテング

2020-07-08 06:10:40 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★私はネットはいろいろと、
 それも結構ちゃんとやっているので、
 みんな相当に詳しいと思っておられるようなのだが、
 
 ホントは全くの『技術オンチ』だから全く何も解っていないのである。
 
 70歳になって初めて始めたパソコンだから、
 独学だし、自分のやってることだけ、毎日同じことの繰り返しだけが、
 『何とか出来ている』のである。

 
 ごく最近、Facebook で繋がって、このブログでも取り上げたことのある
 野本浩一さんから、『ZOOM ミーテング』をやりましょうと誘われて
  

 
    自分で挑戦してみたのだが、ログインの途中で解らなくなってしまって
 ギブアップしていたのである。

 どうしようもないので、その旨連絡したら、
 『お孫さんにでも頼んでみたら』と仰るので、
 こんなメッセージをダメもとで孫に送ってみたのである。

  
 『真也君。
 ZOOMに私を登録してみてくれますか?
 自分でやってみても、なかなかやれません。 
 若し出来たら、それを送ってください。
    パスワードなどと一緒に。』


 と送ったら、門野真也は親切なのである。
 どうしたのかはよく解らぬが、
 私の代わりにもう一つ、
 私のメールアドレスも、IDも創ってくれて、
 それでアメリカで私の代わりに、ZOOMにログインしたようなのである。
 
 Facebook のメッセージ欄に、『Https・・・・以下』を送ってくれて、
 それをクリックしたらアメリカの孫とのZOOM ミーテングが出来たのである



  これがいろいろ教えてくれた次男・門野真也である。
     

     
 末弟の門野哲也 てっちゃんも現れたし、
 娘も写っている。

 



 今度新しい家に移って、窓からプールも見えるというので

 そのプールも見せてもらった。


 



 世の中、『世界はどんどん狭くなる。』

    昨日は、真也が描いたこんな『毎日てっちゃん』をご紹介したが、

 
 




  今日は今から、ジムにトレーニングに行くとか言っていた。






★ ところが、昨日の午後、
  野本浩一さんとは、電話を掛けて話しながら、
  ZOOMミーテングに挑戦してみたのだが、
  どうしても繋がらなかったのである。

  ネットは簡単なようでムツカシイ。
  どうしたらいいのか、もう一度アメリカの孫に聞いてみたいと思っている。

  果たして、野本さんと上手く繋がるだろうか?





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雨の合間を縫って昨日は

2020-07-07 05:47:31 | 日常生活、園芸、バラ

★ 毎日やってることをやらないとどうも気分が悪い。
 昨日は起きたら曇り空だったが、
 天気予報を見ると1時間ちょっとは持ちそうなので、
 7時前に三木総合防災公園に走りに行った。


 現地に着いたのが6時50分、
 今にも降り出しそうなこんな天気なのである。

  
 


風も強かったが、
いつ雨が降り出してもいいように車の止めてある近くを走ることにした。
  


 周回路はこんな感じで、パラパラ降ってはいるのだが、
 路面は濡れてはいない。




 こんな道をスロージョッギングで、1時間ちょっと走って
 最後はいつも、少々急な150段の階段を上って終わりにしている。


 


 
 登り切って振り返ると、サッカー場がこんな感じで見れる。






 
 そして、こんな急な下り坂を下っていくと、







 車が止めてある駐車場のところに出る。
 昨日は流石に、車は私の1台だけである。
 



 
その後、 こんな運動器具のある 林間広場にクルマで移動し、


 



 こんな周回路で、60メートルダッシュを10っ本やって終わりなのだが、




 


 突然雨が降り出した。

 



 結構な土砂降りになったので、
 ダッシュは諦めて戻ってきた。

 



★ ツイていたなと思う。
 それからずっと雨は降り続いている。

 Fitbit の記録はこんな感じで、
 9400歩 約7キロを記録して  アクテイブタイムも1時間を越えた。
 消費カロリーも今で1000を超えたので、2000cal になるとは思うが、

 体重がなかなか減らないのは、『食い過ぎかな

 


  

 
 1日 雨になりそうだが、
 朝の7時台の約1時間、上手く利用できて、大満足なのである。

 因みに今の天気図はこんな感じで、雨も本格的なのである。

  



 


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雨の合間を縫って昨日は

2020-07-06 10:27:10 | 発想$感想

★ 毎日やってることをやらないとどうも気分が悪い。
 昨日は起きたら曇り空だったが、
 天気予報を見ると1時間ちょっとは持ちそうなので、
 7時前に三木総合防災公園に走りに行った。


 現地に着いたのが6時50分、
 今にも降り出しそうなこんな天気なのである。

  
 


風も強かったが、
いつ雨が降り出してもいいように車の止めてある近くを走ることにした。
  


 周回路はこんな感じで、パラパラ降ってはいるのだが、
 路面は濡れてはいない。




 こんな道をスロージョッギングで、1時間ちょっと走って
 最後はいつも、少々急な150段の階段を上って終わりにしている。


 


 
 登り切って振り返ると、サッカー場がこんな感じで見れる。






 
 そして、こんな急な下り坂を下っていくと、







 車が止めてある駐車場のところに出る。
 昨日は流石に、車は私の1台だけである。
 



 
その後、 こんな運動器具のある 林間広場にクルマで移動し、


 



 こんな周回路で、60メートルダッシュを10っ本やって終わりなのだが、




 


 突然雨が降り出した。

 



 結構な土砂降りになったので、
 ダッシュは諦めて戻ってきた。

 



★ ツイていたなと思う。
 それからずっと雨は降り続いている。

 
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毎日てっちゃん & Tad Kadono

2020-07-06 06:01:37 | 発想$感想

★今日のブログはお読みになっても、よく解らないかも知れない。

 書いている本人が、どうなっているのか、もう一つよく解っていないのである。
 ネットに詳しい方で、若しお解りの方がおられたら。教えて欲しいのである。


 アメリカには娘家族がいる。
 3人の孫、力也・真也・哲也がいるのだが、
 力也は今は日本でサラリーマンしてるから、今日の話題からはボツ。
 娘も直接関係ないからボツ。

 父Tad Kadonoと、次男、真也と絵の題材の末弟、哲也の3人の話である。
 Tad Kadono と通称し、その風貌からメキシカンと間違われることもあるとか、
 然し、本名 門野匡秀 正真正銘、日本人である。 なかなか『いい奴』である。



★ 昨日のFacebook にTad Kadonoがこのようにアップしている。

  




 ということで、娘婿・Tad Kadono は今後最低100日間Facebook をアップする
 というのである。
 ホントに続くかどうか、『それは単純に楽しみ』なのである。



★ まず私の疑問点の第1は、この文中にある、
  この『Https のコピー』をクリックしても、何も現れないのだが、
  みなさんはご覧になれますか?
   

  当然ご覧になれるのだと思うが、
  私の場合、Instagram だけが何かおかしいのである。
  rfuruya2 でスタートしたのだが、何回もおかしくなって(乗っ取られて)
  今はrfuruya5で Instagram やっている。

   
  皆さん、真也は『いいね』の数期待のようですので、
  よければ『クリック』してあげて下さい。

  


 ★ところが昨日 このようにしたら、それが見れたのである。

 どうしたかというと、Google で『毎日てっちゃん』と検索してみたら、
    こんな画面が現れてそれをクリックしたら、

   



  こんな画面が現れて見れたのである。
  それがこれである。

  

 
 このURL は『お気に入り』に入れたので観れるのだが、
   

 いま同じことをやってみても検索の画面から見れないのである。 
 こんなの、どうなっていると思われますか?
 どうも、ネットのおかしいのが絡んでいるとしか思えないのです。


★それはそれとして、 孫・真也の絵の上手い下手は兎も角、
140日も、弟の特徴を捉えて描いているのは、これは『才能』としか思えない。

先日Lineの電話で喋った時、『サッカーリーグ』が再開しても描き続けるのか?
と聞いたらYes と言ってたが、ホントに続くのだろうか?
 
弟の哲也は、背も190cmに近いのだが、こんな絵を画き続けられても悠然としているのは、『これは大もの』である。

 これは哲也のInstagram からである。

 
 

 真也の絵 とどちらがイメージいいですか?


 それは兎も角、お父さん、Facebook 100日続けてください。
 楽しみにしています。

 
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7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 16

2020-07-05 05:44:57 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『レース』は私の人生で、大きな分野を占めるのかも知れない。

 特に 『レースでの人の繋がり』 はその密度では一番かも。
 カワサキの二輪関係だけではなくて、結構な広がりなのである。

 そんなレースの世界に対する『私の生き方、考え方&意見』の一端を。


   
    


私が直接、カワサキでレースに関係したのは、
初期のスタートの時代の昭和37年(1962)からの4年間と、
1990年代の『7万台への挑戦』の時代の2回なのだが、
それ以外の時期も、いろんな形でレースとは関わりがあったのである。




★世の中は競争の世界なのだが、一番厳しいのが『レースの世界』ではなかろうか?
レースで一番になるのは『ライダ一1人』 なのだが、
マシンがなくてはライダーは走れないし、そのマシンは一人では造れない。
そこに自ずと『チーム』が必然になるし、『チームワーク』がベースにあって、
密接な『人の繋がり』が出来るのである。

だから『優勝はチーム』に与えられるものなのだろう。


野球などのスポーツの世界にも色濃く携わった時期もあるのだが、
その『チームワーク』の質とその広がりの大きさなど、
レースの世界』のそれはちょっと特別なように思うのである。


レースには厳しいルールがあり、そのルールは厳守されねばならない。
時間に厳しいスポーツ』でホントに『1秒』を争うのである。

そんなレースの世界が好きだったし、
何よりも、レース界にいる人たちが、なかなかオモシロいのである。

先日、現役時代は『東大出の連中といろいろ関係があった』と書いたりしたが、
レースの世界は、そんな学歴などとは全く無縁なところがいい。
そんな学歴など関係ない人たちとも『親しくなれる』のは私の特技かも知れない。



   



カワサキのレースがスタートしたころから、いろんな人たちと出会ったが、
出会った頃はほんとに若い無名の青年だったのに、
世界の』とか『日本の』と言われる選手になって素晴らしい活躍をしたのである。


  

        


カワサキからも安良岡健・金谷秀夫・星野一義・山本隆・北川 圭一 など、
私とは密接に関係があったし、

他メーカーのライダーたち、
久保和夫・小島松久・吉村太一さんなどとも、親しくさせて頂いたのである。


         




ライダーと言われる人』と初めて喋った相手は、片山義美さんだった。
その時の印象は強烈で、厳しいことをいろいろ言われたが、納得できた。
そんなことから、私は『レースの世界』に直接関係するようになったのである。

片山義美さんと話をするきっかけになったのは、
山本隆・歳森康師の『BSとの仮契約事件』だったのだが、
その時点では私はレースには殆ど関係はなかったし、
二人と話をしたこともなかったのである。


    




★1990年代には、直接レースの世界にはいなかったのだが、
 Team Green の重本・野村コンビを応援して、それなりの成果を挙げたし、
 
 その当時のライダーたち
 多田・杉本・宗和・塚本・鶴田・北川くんなどは、今もFacebook で繋がっているし、
 
 従野孝司くんも、増田耕くんも、カワサキにいたこと、ご存じだろうか?
 

    

 
 

★カワサキの有名人『平井稔男さん』が、そのブログにこんなことを書いている。 

1984年にKHI(川崎重工業)がレース活動を凍結した時、私はコリャイカン、オートバイメーカがレースを忘れたらアカン、せめてJAPANだけでもと当時のカワ販古谷常務とKHI実験研究部武本部長(ル・マン24時間の総監督故武本 晃)に食い下がったのである。・・・・・・・・
前記のお二人に縋りメーカーの凍結との重なりもあり、TEAM GREENとTEAM38のコラボがロードレースに立ち上がったのである。
時まさに1985年ロードレースを加えNEW TEAM GREENが誕生したのである。


ちょっとだけ訂正させて頂いて、
もう少しこの時の経緯をお話しすることにする。

1984年は私はカワ販から川重企画部長に既に異動していた頃で、
カワ販常務ではなかったが、平井さんとお話ししたのは間違いない。
むしろ私の方からのお願いだったかも知れないのである。

この時期は『川重単車事業本部』の存続がムツカシイなどとも言われた危機的状況の時代で、カワ販から私は企画に呼び戻された翌年なのである。
レースはヨーロッパGPなどでKRが華々しい時代だったのだが、
とてもレースを続けられる状態ではなかったので、
GPレースの凍結』を提言したのは私で、髙橋鐵郎さんが決断されたのである。

ただ、すべてを消してしまうのは? ということで
それまでは『神戸スーパースポーツ』として活動していた平井稔男さんに
Team Green の創設』をお願いし、
それなりの運営費もお渡しして、
この時初めて日本にもTeam Green が生まれたのである。



★さて1990年代に話を戻すと、
 この時代の国内販売活動の状況や考え方を、 
 事業本部の部課長の人たちに話した講演会の記録の中から


     

    
    1990年の夏の鈴鹿8時間耐久なのだが、
 
 カワサキのイメージキャラクター風太』が登場していて、
 NHKの衛星放送が非常に多くの時間を『風太』を映し出してくれました。

 とあるがKAZEギャルと一緒に歩いているのが『風太』なのである。

  写真が小さくて解り難いと思うが、


       


  
 ひょっとしたら日本で初めて
 『大舞台に登場したイメージキャラクター』のはずである。
 
 そうでなければNHKが長時間一メーカーのキャラクターなど、
 追っかけまわしたりはしないのだが、
 確かにこの時のNHK衛星放送は『カワサキのイメージキャラクター 風太』を 
 執拗に追っかけまわしたのは、まさに珍しかったに違いない。

 くまモンが登場したのは2010年だから、それよりも20年も前の話なのである。


   


 カワサキのレース活動も広報活動も 
 『時代の先端』を走っていたと言えるだろう。



★1990年代のその時代、
 新しいソフト会社『ケイ・スポーツ・システム』      南昌吾
 TEEM GREEN を中心のレース活動         重本修次郎
 それを纏める 広報活動               小林 茂

 このメンバーが担当していて、この3人と私が講演者だったのである。

 
 『7万台の販売目標を達成』するために、
 直接的な販売活動そのものよりも、その周辺分野での
 『新しいカワサキのイメージ創造』を目指した展開があったから
 現実に『7万台の販売』が達成できたのだと思っている。

 このあたりの発想は、私独特なのかも知れない。
 部下たちは結構自由に動いているし、特にKSSは派手な動きで金も使うが、
 独立会社としてその金は自らがアタマを使って産み出してきていたのである。
 
 『プロのレベル』で動かない限り、金など産み出せないのだが、
 『サラリーマンからプロへ』の脱皮は、部下を信じて『自由を与えない限り
 ムツカシイのではと思ったりもする。


 『レースの世界』で優勝するのは一番だが、
 たとえ優勝は出来なくとも、それなりの価値がある運営が出来ればいい。
 それは総合的な仕組みの構築から生まれるもので、
 この時代は、『遊んでいたら自然に売れる』そんな仕組みの創造を目指していた。

 そんな『総合的な仕組み』の中に
 末端を巻き込んだ『ネットの世界』を加えて、末端のユーザーと直接繋いだら、
 『二輪の販売量の倍増』などそんなにムツカシクはないと思うのだが・・・


 世の中全てが『ネット時代』なのに
 幾ら上手に大量に使っても『無料』のネットを使わぬ手はないと思うのだが、
 
 いつまで50年も前の販売網をベースの展開に執着しているのだろうか?
 四輪などでも世界の趨勢は『ネット販売』になりつつあるようだ。
  
 
   

  
 
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今年はどんな年になるのだろう?

2020-07-04 05:18:12 | 発想$感想

★ 今年も前半は終わった。

       最近話題になっているニュースは

  ● 東京のコロナ問題
  ● 香港問題
  ● ロシアの憲法改正
  ● 安倍政権の凋落
  ● 南北朝鮮問題

  などなど、世界が変わりそうな話題が多い。


★ 閑に任せて 『今年はいい年か?』
 とGoogle で検索してみたら、こんなページが並んだ。
 昨年末に『占い師』の人たちなどが、『2020年を予想』しているのである。
 



 いろいろ並んだが、全く当たっていないことはない。
 こんなのもあったし。



 これなどは『200年に一度の大きな運気の曲がり角』などと言っている。
 興味・関心のある方はお読みになってみてください。

  


確かに世の中全体では、『大変な目』に会われた方も多いだろうし、
個人だけでなく、事業経営などでは殆どの企業が影響を受けたと言えるのだろう。



★ 私個人の今年の前半はどんな年だったのか?

 確かに『コロナ問題』で影響は受けたが、そんなに大きな変化も影響も、
 受けてはいないような気がする。

 昨年の前半と比べてみても、そんなに今年が悪かったとも思えないのである。
 人生87年生きてきて、もっと大変だった年は、もっとあるような気がする。

 コロナのお陰で、生活態度が変わったのは間違いないのだが、
 一言でいうと、1日の生活態度が『規則正しくなった』し、忙しくなった。

 不思議に思われるかも知れぬが、
 出来るだけ外出するなとか人に会うななど言われて、
 やることが制約されたので、そっれを『きっちり』とやるようになったと言っていい。

 午前中は基本的に
 ブログをアップし、防災公園に運動をしに行くのがベース。
 そのほかには『金魚とメダカの餌やり』と『ブログのコメントの返事』ぐらい。

 午後は
 一番時間を使っているのは『このブログを書くこと
 15年以上続いているブログだが、今年が『一番ちゃんと書けている
 これは午後に間違いなく『書く時間』があるからで、
 そのほかに『庭仕事』とか時間があれば『パンダ碁』を打っている。

 お蔭様で家の中のことは家内が全てやってくれるので、
 私が手伝うのは『洗濯物を2階に上げること』と
 週1、2回、 買い物に行くときの運転手を務めることだけである。

 夜は『パンダ碁』を打ってるか、テレビを観たりして、10時就寝である。

 
★こんな生活、結構満足で、退屈などしないのは、
 やはり『ネットの世界』があるからで、
 パソコンを覗くとコメントなどの対応が結構あるからだと思う。

 なかなか健康的ないい生活で、このままずっと続けたいと思っているが、
 『今年後半、果たしてどんな年になるのだろう?』
 



 
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人の繋がりとご縁の不思議さ

2020-07-03 06:05:32 | 発想$感想

★ 人は生きてるといろんな方と出会いがあるのだが、
 こんな複雑な繋がりもあるから不思議なのである。


 つい1週間ほど前に『ノーリツの社長交代』があったという
 こんなニュースが流れたのだが、


 
 
 

 娘婿のTad Kadono(門野匡秀)はノーリツにいて
 今回社長になられる 腹巻さんの下にいたとかで、
 Facebookにこんな記事をアップしていた。

 前職 ノーリツ時代にお世話になって先輩が、ノーリツの社長になられるとのこと。
何もわかっていない入社2年目で、給湯器の商品企画担当させていただき、そのときの商品開発リーダーが腹巻さんでした。仕事、遊びともによくできる方で、何よりこんな若造で、何もわかっていない私にも同じ目線で、話していただけたことがうれしく思い、一生懸命仕事させていただいたことを思いまします。その10年後、経営企画室でも同じグループで、新規事業開発のリーダーで私がその下でお世話になりました。
5時までも、5時以降も楽しくお仕事させていただきました。
 腹巻さん、がんばってください!


 私自身も『ノーリツ』とは、結構身近なところがあって、
 今回の新社長の『腹巻さん』とは全く何もないのだが、
 前社長の国井さんは未だ面識はないのだが、
 三木商工会議所会頭の稲田三郎さんと同じ小野出身で、
 稲田さんの子供の頃からの『トモダチ』で、今でも親交がおありのようで、
 いつか機会があれば『ご一緒に』などと言って頂いていたりしたので、
 ひょっとしたら国井さんの耳には入っているかも知れないのである。


   

 稲田三郎さんとも三木に来てからの繋がりだが、
 私の80歳の誕生日には『80本の薔薇の花束』を頂いたりしたのである。


   
      
 私の生涯で花束など頂いた記憶はないのだが、
 この80歳の誕生日には
 マウンテンライダーㇲの50周年記念パーテイーの日だったので、
 小嶋松久さんからも花束を頂いたりしたのである。
 

         



★私の現役時代の直接の上司だった髙橋鐵郎さんとは、
現役時代の半分ほどご一緒に仕事をさせて頂いたのだが、
髙橋さんは海軍兵学校のご出身で、終戦時は学生だったそんな年代なのである。

その同期の方などとはホントに特別な間柄で、
呼び合う名前は海兵時代のままの『苗字』だけの呼び捨てなのである。
そんな仲間のお一人に『ノーリツの創始者・太田敏郎』さんがおられて、

   
     




高橋さんからいつも聞かされていたのである。

太田武郎さんは敏郎さんの弟さんで、
私の大学時代の野球部の2年先輩で、
ノーリツの副社長をされていたというそんな不思議な関係なのだが、

これは大学の野球部OB会のゴルフで、右が太田さんである。
私がシャッターを切った。


     



娘の結婚相手の門野匡秀くんがまたノーリツなのである。

そんなことで、特に太田武郎さんとはしょっちゅうゴルフでご一緒したので、
その度に『門野くん、元気にしていますか?』と声を掛けて下さったのである。


彼は最初は東京勤務だったが、工場にに異動してからは
技術屋なのに労働組合の委員長などになったりして、
カワサキの明石工場と同じ地域だったので、
川重の労働組合の井上さんなどには、可愛がって貰っていたようで、
井上さんから私は『門野はいい奴だ』と何度も聞かされていたのである。
確かに、門野匡秀くんは『いい奴だ』という評が一番当たっているかも知れない。


★2004年頃、ノーリツは企業のアメリカ進出を決めるのだが、
2005年1月門野匡秀は突如アメリカの新会社への出向を命じられ、
新会社の社長と共にアメリカ異動となり、娘たち家族も7月には、アメリカIrvine の住人となるのである。

どこもそうだが、一番最初は最優遇で、
社宅も社長宅のすぐ横の立派な家だったようだし、
年に2回日本への帰省も家族もみんなビジネスクラスだったのである。
そんないい待遇の何年間だったのだが、
サラリーマンの出向は、いつかは帰国が待っている。

2012年だと思うが門野にも帰国指示があったのだが、
アメリカ残留』を決めてノーリツ退職に至ったのである。
その理由はそんなに詳しくはないが、単に『アメリカがいい』と思ったのだろう。

生活は大丈夫か?とみんな心配はしたのだが、
娘は私に似て『ネアカ』で、『何とかなる』と思ったのだろうし、
Tad Kadono も大変だったとは思うが、
それから8年確かに大変だった時代も乗り越えて、
長男は日本で就職し、次男はアメリカのサッカー・プロになり、
末弟はいま大学生だが、同じくサッカープロを目指している。

結果的には『いい判断』だったのだと思う。


   もうアメリカ生活も15年を過ぎた。
 幼稚園前だった末弟がもう大学生である。

 そんなアメリカ生活の中で、いろんな方たちとの出会いもあったし、
 家内は10回も行ってるし、私も4回訪ねて、Irvine はほんとに詳しくなった。

 Facebook でも何人かの方とトモダチで繋がっている。
 これからもまた新しく繋がる方が出てくるかも知れない。
 『世界は狭くなった』そんなご縁を大事にしながら、今後も生きたいものである。


 

  









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7月1日 今年の後半が始まった

2020-07-02 05:59:22 | 発想$感想

★『7月1日 今年の後半が始まった』 と題したが、
 先週の日曜日に、突然8度近くの高熱が出て『コロナか?』と心配になり,
 病院に行ったりしたのだが、特に問題はないという診断だった。
 28、29、30日と3日間の半分は寝てたが、不思議なほど体力は落ちるものである。

 昨夕『家の秤』だが、基礎代謝は減少、体脂肪率は上がって、
 いつもは72歳前後と出る『年齢』が80歳と出て、びっくりしてしまったのである。
 やはり、動かないと高齢者の体力は急激に弱ることがよく解った。

 そういう意味では、7月1日は『今年の後半の運動を再開』したのである。
 3日間休んでいたら、やはり体は重くて、
 いつも1時間はやるスロージョッギングを30分ほどにしてきりあげたのである。

 ずっと続いていた『アクテイブタイム』は見事に3日間0だったのだが、
 後半の初日は39分からのスタートなのである。

    午後も草抜きなどの『庭仕事』を2時間ほどやったら、
 正直なもので、夕方秤に乗ったら、『年齢75歳』まで回復したのである。


★4日ぶりの三木総合防災公園だが、
 花が多いこの公園も7月は緑が目立つようになる。
 これも花と言えば花なのだろうが、なかなか綺麗である。

  


 手入れの行き届いた芝生が、こんなに綺麗になった。




 結構大きい木が目立つ、こんな緑の中での運動は気持ちがいい。





 お蔭様で、体調回復の再スタートが、7月1日に切れたのである。

 いよいよ夏の始まりである。
 暑さには慣れてきたようにも思うが。猛暑の季節を迎える。
 今回の発熱を機会に、今後も健康や体調には留意して過ごしていきたい。



★ 今回『コロナウイルスの日本での対応』がどんなものなのかよく解かった。
 あれだけ『検査『とかはいろいろやりたがる病院だが、
 抗体検査、PCR検査、抗原検査などは8度の熱ぐらいではやらないようである。
 
 たまたま午後のアメリカの娘一家がこの度引っ越しをしたとかで電話があった。
 アメリカも日本以上にコロナは大変なはずだが、
 何事も自己責任が徹底しているし、個人の意見が強い国で、
 大統領も個人的にはマスクをしていない。
    ただ検査は無料でやってくれるようで、
 末弟も合宿が始まれば毎週検査するとか言っていた。

 
娘婿がFacebook にこのように書いている。
 
明日から真也が、2週間後から哲也がチームトレーニングが始まります。
どんな練習スタイルになるのかわかりませんが、3か月間続いた個人練習も、とりあえずこの週末が最後。親も必死で練習手伝いました😅
兄弟でポジション重なららず、他の選手と比べると、効率よく練習できたと思います。哲也は先輩から「シュート練習したいから、できるだけ早くサンディエゴに帰ってきてくれ!」ラブコールされているようです😄

   


 次男は昨日チーム全員が『コロナ検査』をしたとかか言っていた。

       


★いま娘家族が住んでいるIrvine
 アメリで一番治安のいいと言われている市で、
 原野の上に『Irvine』という開発会社が開拓して、
 『Irvine市』になったという全く計画的に創られた街で、
 道路の横は緑か家で、道路に面した店が一軒もないという珍しいまちである。
 銀行もガソリンスタンドもいろんな商店も、すべては一画に集約されて、 
 それが大小いろいろ点々とセットされているのである。

 コロナ問題でも、所謂『蜜』になるようなところが皆無な街と言ってもいい。
 そういう意味では、ロスなどと比べると『安全だ』と言えるのだろう。


★ 私は現役時代からご縁があって、
 1983年当時すぐ北のSant ana にカワサキの現地販社KMCはあったのだが、
 事業が拡大して4か所の事務所に分散していたのを一か所にしようと、
 Irvineを探したら、Sant ana の事務所を売れば広大な土地が買えたのである。

 ちょうど405と5号線が繋がって5号線となった一番南端だったが、
 それは広大な土地だったのである。



 

 
 
 そこに日本の建築会社が約20億円でそれこそビックリするような
 立派な社屋を建てたのである。

 なぜそんなに詳しいのかというと、ちょうどその頃事業部企画室長で、
 当時のKMC社長の田崎さんとはコンビですべての計画を進めていたし、
 日本側の川重本社との折衝は私が担当していたのである。
 土地はあまりにも広すぎたので、半分はどこかに売却したりしたのである。

 KMCが大赤字で単車事業再建最中の立案であったことが特筆される。
 当時の監査役からは『大赤字会社が新社屋か』と反対意見ではあったが、
 当時はKMCの経営に関与していた本社財務の賛成も得て実現したのである。
 
 この新社屋建設で4か所の事務所が一体化し効率も上がったし、
 何よりも経営再建に向けての士気の向上が大きかったと思う。


★そんな町『Irvineに娘一家はいま住んでいるのだが、
   あのエンゼルスの大谷翔平もこのIrvineに住んでいるようだ。
 静かで本来は砂漠の原野なのに緑いっぱいの街なのである。
 コロナとも無縁であって欲しい。
 
 


 


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千両・万両 今年は実が付きそうである

2020-07-01 06:11:52 | 日常生活、園芸、バラ

★小さな庭だが千両と万両が結構沢山植わっている。

 冬に赤と黄色の実をいっぱいつけるのは楽しみである。
 千両は株分けで万両は勝手に実が落ちて増えていった。







 ところが昨年の冬はどちらも一切実つけなかったのである。
 確りとは覚えていないが昨年の春に花が咲かなかったのではないか?
 と思ったりしている。


 そんなこともあって、
 今年は花が咲くかなと気をつけていたのだが、今こんな状態だから、
 大丈夫なように思う。


  






  間違いなく、いっぱい花を咲かせている。


  『千両・万両花が咲かない』と検索したらこんなことが載っていた。



  

 雨が多いとダメだとある。
 今年の梅雨はちょうど花時と重なって今日も雨である。

 大丈夫かなと思って、写真など撮ってきた。
 冬に赤と黄いろい実をいっぱい付けるように期待である。

 1月2日の父の命日の墓参りには、普通の花は買わずに
 いっぱいに実った庭の千両・万両を持っていくのだが、
 来年はどうなるだろう?

 こんな心配をしたのは、初めてのことのように思う。


 

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東大出の人たちと私

2020-06-30 08:09:01 | 発想$感想

★ 『東京大学出身』というと何となく一目置くのだが、
 私の人生振り返ってみて、
 何故か世の中の『どの大学出の方たち』よりも
 『東大出』の方たちとのご縁が圧倒的に多いのである。

 川崎航空機の入社試験の面接で、
 人事課長をされていた塚本碩春さんも東大出なのだが、
 その第一声は『君は成績悪いね』だったのである。
 それが私が社会に出て聞いたはじめての言葉だったのだが、
 全然悪びれることもなく、
 『会社の仕事ぐらいなら他人に負けずにちゃんとやれます。』と答えたのである。

 
   その後入社15年目には、私は当時企画室課長だったのだが、
 塚本碩春本部長、青野格副本部長、堀川運平企画室長 すべてが東大出で、
 私の下にいた武本一郎係長まで東大出身で
 『東大出身』の方たちに囲まれて仕事をしていたのである。

 塚本本部長にはその2年後、
 どうにもならずに行き詰まっていた『国内販社対策』を創るように指示されて、
 その計画の通りに、国内販社改革は進んだのである。 

 面接の時に塚本さんに応えた通りのことが出来てよかったと思ったし、
 塚本さんは多分忘れておられたかと思うが
 私は現役時代『最初に言った言葉』はひとときも忘れたことはないのである。
 
 その計画を本社に説明に上がった時の財務本部長が堀川運平さんで、
 『古谷くんが2ヶ月も掛って創った計画ならそれに乗りましょう』と言って頂いて、
 殆ど説明も聞かずに承認頂いたので、それなりの信用はあったのだろう。



★私が最初にペアで仕事をした東大出の方と言えば、
神戸一中の先輩でその後川重の副社長もされた山田熙明さんだが、
レース関係でのデグナーの契約だったのである。
そんな外人との契約書の作り方など社内では解かる人はいなかったので、
ホンダの前川さん』のところまで教えて貰いに鈴鹿まで出かけたのである。
その原文は私が創って、それを英訳されたのは、山田熙明さんなのである。

そんな山田さんとはその後もいろいろあって専務をされていた頃、
アメリカのKMCの経営危機という大問題が起こって
山田さんは全社挙げての『対策本部長』をされるのだが、
当時販社の経営を実際にやった経験者が少なくて、私に相談があったのだが、
すぐ解決します』と言ったものだから、
当時はカワ販に出向中だったのだが、企画に呼び戻されたのである。

その時の企画当時、私の下にいたのが武本一郎さんで、
彼は本当によくやってくれたのである。
さらに言えば当時の本社財務サイドは堀川運平・松本新さん体制で、
このお二人も東大出なのだが、本当に後押しをして頂いたのである。

なかなか本社を通すのは普通では難しかったのだが、川重全体の問題になっていたこともあって、常に『フォロー体制』だったのである。



★なぜ、そんな方々に『信用があったのかな』と思うのだが
私は世の中の職位とか学歴などには『全く物怖じしない』性格で、
どんな方にでも、『同じようにしか話せない』のが返っていいのかも知れない。

それにしても『東大出』の方とはご縁があるのである。

こんなブログを書きだしたのも、Facebook で、
山田浩平くんからこんなコメントを頂いたのである。


お元気でお過ごしとうかがい安堵しております。
カナダ時代に末端顧客について「先端的な顧客研究(マーケティングリサーチ)」を行い、そこから出た事実に基づく「顧客戦略(セグメンテーション)」を立てることをやろうとしました。
値付け、販売チャンネル、広告宣伝をその「顧客戦略」の上に組み立てようとしたわけですが、時間切れでした。今となっては懐かしい昔話です。
今の時代はAIもあり、昔ではとうていできなかったような量的リサーチが色々と可能になっていて、さぞかし面白いだろうなあと思います。
カナダのチャンスを与えてくださり、ありがとうございます。御礼申し上げます。


如何にも技術屋さんらしいコメントだなと思った。
このNinjaのエンジン設計を担当したのは、若き日の山田浩平くんである。

     



私が彼と出会ったのは、Ninja 900が世に出た1982年からずっと後の90年代、
カワサキでX-11というサーキット走行マシンの開発をやっていたころ、
この時の担当が山田浩平くんで、その時初めて彼と出会ったのである。
 
こんなかっこいいマシンなのである。
KAZEというマークがあるように、この開発については 
国内販社カワ販がサーキット走行など大いに面倒を見たのである。



 


 最近出たマシン Ninja H2 山田浩平くんの最後の作だと言っていい。

 彼はその後カナダ・アメリカKMCなどの販社を経て、
品証から技術本部長に戻った時、
私にくれた手紙に書いてあったマシンは多分間違いなく 
Ninja H2のことだったのだと思う。

約束通り彼はこのマシンを仕上げ、世に出してカワサキを去ったのである。
 

 
 



   山田浩平くんは、変わっていると言えば変わっている。
 『優秀な技術屋さん』なのに
 なぜか『マーケッテング』に興味があって、海外の販社をやりたいというので、
 その時、カナダでもと、紹介したことがあったかなと思う。
 そんなことで、こんなコメントを頂いているのだが、
  
 カナダのチャンスを与えてくださり、ありがとうございます。御礼申し上げます。


 彼もまさしく、『東京大学』 出身なのである。



★ そんなことで現役時代は東京大学出身者と数多くの関連もあったのだが、
 定年後ネットの世界でも、何となく『東大出』の方たちと繋がっているのである。

 一番密接だったのは『樋渡啓祐』さんだと思うし、
 最近もFacebook でお会いすることも多いのである。

         
        



     鉄道マニアの藤原廣三さんも東大だし


      
 

 極々最近、こんなコメントで繋がった『野本浩一』さんも
 東大ご出身なのである。


   


野本 浩一 ぶれないで現在に至る・・・これは、参考になります。 多くの人にとっての有難い人生の指針になったのだと思います。 読んでいて、楽しく振り返る人がおおいのではないでしょうか。  何故、こんな風に感じるのか・・・・それは、これから暫く続けさせて頂くであろう、メール交換のお楽しみにさせてください。 本当に今日の文章は 素晴しいものだと思います。

 
とお褒めの言葉を頂いたりするのである。


★日本の最高学府であると言ってもいい東京大学出身の方に、
 『認めて頂ける』のは、正直嬉しいのだが、

 私の心の底には、東大や京大などと言うが
 『中学時代私より下の成績の人がいっぱい行っている。』
 という負け惜しみの想いがあるのは間違いないのだが、
 
 私自身は、アタマがいい悪いは兎も角、
 どこの国立大学でも『通る』のはムツカシイのは事実なのである。

 数学は『対数』以降は、現実離れしていて勉強する気にはなれなかったし、
 理科や技術の話は、全く受付けないのである。

 国立大学はどの大学でも数学と理科の試験科目があるので、
 『入学するのは無理』だと思っている。

 然し、同時に東京大学出身の方たちと対等にお付き合いが出来たのは
 『よかったな』と思っているのである。

   私自身も結構『変わっている』のだが、
 その私とお付き合いをされる『東大出』の方たちも
 『変わっている』のかも知れない。


 
 
  
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