★ 今年は〇〇周年が多い年のようだが、戦後60周年でもある。
昭和20年(1945)は私は中学1年生だった。
朝鮮京城からその年の12月に引き揚げてきて、翌年もう一度中学1年生からやり直した。
戦後は猛烈な野球ブームで、私も神戸一中の2年生から野球部に籍を置いたが、
中学3年になるときに男女共学、高校に入学するときは学区制が敷かれて、
明石高校に転校した。
神戸高校も明石高校も所謂公立校だが、当時の兵庫県は公立高校が野球が強くて、神戸も明石も甲子園に出ていたし、そのほかの公立校では、芦屋、兵庫、
鳴尾高校などが甲子園に出場していたのである。
そんな明石高校野球部から『野球部100周年の記念誌』が送られてきた。
私たちが在籍した当時の明石高校は、中京ー明石の25回戦がまだ巷で言われていた時代で、『名門・明石』と言われていたのだが、
昨今は明石高校は進学校になってしまって、野球部員数がやっとと言う状況のようである。
明石高校野球部在籍時代、昭和25年(1950)に甲子園に出場している。
記念すべきその当時の写真である。
それから75年経ってこの写真に写っている球友は私以外みんな亡くなってしまった。
同級生だった溝畑圭一郎投手だけが存命だったのだが、
今回頂いた野球部誌を見ると昨年亡くなってしまって、とうとう私一人になってしまった。
溝畑圭一郎と言う名投手がいたので甲子園出場が出来たと言っていい。
彼は兵庫県予選では灘高相手に完全試合を達成しているのである。
当時、野球部の部員も完全試合なるものを知らなくて、
ゲームが終った時、球場放送が『この試合は完全試合でした』と放送して初めて。完全試合なるものを知ったのである。
そんな明石高校野球部が今年は100周年を迎えたという。
当時の明石高高校には商業科があって、溝畑も商業科だったのだが、その後、商業科が独立して『明石商業』となっているのである。
いまは『明石商業』は結構強くて、最近でもよく名前を聞くのである。