雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

試験と受験勉強  雑感

2021-01-20 07:56:10 | 私の生き方、考え方&意見


★ 世の中にはいろんな『試験』という制度がある。

学校の入学試験に始まって『運転免許試験』や
企業の中でも『昇格試験』などと言うものもある。
これに対してやる勉強を『受験勉強』という。


今は『大学入学共通テスト』の時期である。


   


大学全入時代』と言われているらしい。
少子化にともない、高校現役生の人口が著しく減少していて、
えり好みしなければ全員が大学に入学できる「大学全入時代」と呼ばれているそうだ。
3割以上の私立大学において、定員割れの現象が起こっているとか。
大学全入時代の流れを受けて、
多くの大学では学生を幅広く受け入れる人物重視の入学試験になってきているようだが、
やはり試験はあるようだ。


★  私自身は運がよかったのか、人生で受けた試験で落ちたことがナイのだが、
受験勉強』を一生懸命やった経験もまた『ない』のである。

戦前に朝鮮で受けた中学校は入試があったのかなかったのか、よく覚えていない。
小学校の成績は結構よくて、当時の京城府伊賞など頂いたが、
戦時中だったからか、家から遠い『京城一中』は受けずに『城東中学』に入学したので、
試験はあったのかも知れぬが、受験勉強などはしなかった。

戦後、日本に戻った時は中学1年で、翌年名門『神戸一中』に入学したのだが、
親父が手をまわしたのか、何故か『無試験』で入学できたので、
試験も受けなかったし勿論受験勉強などしなかった。

ただ父に『お前は無試験で入れて貰ったのだから、ちゃんと勉強するよう』と言われて、
中学2年生までは滅茶勉強したし、成績もよかった。
人生でこの2年間が一番『勉強した』期間かも知れない。

それ以降は大学を卒業するまで『勉強をした』覚えがなくて、
学校には行っていたが『野球ばかり』やっていた。

その理由は『勉強しなくても、付いて行けたのであ
逆に言うと神戸一中の2年生の学力は新制高校の2年生レベルのことをやっていたのである。
中学3年生の時に男女共学になって県一女と一緒になって、
数学・英語など1年程前に戻り、
高校は学区制で明石高校に転校したら、ここでもまた元に戻ったのである。

大学は神戸商大を受験したのだが、
父が1月2日亡くなるまでは、受験する積りはなかったのである。
1月に突然父が亡くなってそれから少しだけは勉強はしたが、
何故か運よく入学できたのである。

大学でも勉強しなかったのは、
就職に優位になるように兎に角『』の数を増やそうとする学生ばかりだったから、
それに反発したのか『』ばっかりだが単位は、授業など受けなくても簡単に取れたのである。

当時の神戸商大は歴史的にも一番難しかった時代で、16.5倍の競争率だったが、
どうして通ったのかも解らなかったが、伯父が県会議長に頼んでいたことが後から解ったのである。
そんな『コネ』も効く時代だったのである。
川崎航空機にも『社長のコネ』での入社だった。


★ 別に勉強が嫌いなわけではない。
 『受験勉強』のように『試験に通るための勉強』は、
 『何かになる』ための勉強なので嫌いなのである。
 
会社でも、課長になる、部長になる、重役になるためにいろいろ努力するのは嫌いで、
なる』ことは狙わなかったが『やる』ことには非常に興味があって、
 そのための勉強は、現役時代も結構やった。
 そういう意味では『独学』なのである。
 定年後のネットの世界なども、すべて『独学』でやりたいことだけをやっている。
 
 ただ、結果的には30歳以降は、現実に上司がいないような状態で、
 『頼まれた仕事』をこなしただけだが結果的には
こんな順番で、こんな職位、職名を経験した。
係長』は経験がなくて、平社員から突然『広告宣伝課長』になったのである。カワ販で統括部長を経験した後、川重の課長に戻ったが、またすぐ常務となっている。

課長・事務所長・所長・母店長・副会長・統括部長・課長・常務・部長・室長・理事・営業本部長・専務・会長・技監・社長・理事長
何故か、若い頃からいろんなことを経験したのである。

一度もその『昇格試験』などを受けなかったのはラッキーだった。


★これからの世の中は、日本もどんどん変わって行くのだろう。
 大学も入れば、簡単に卒業出来て、
 大学卒の資格さえあれば
何もせずに、欠点が付かなければ偉くなる』という日本のシステムも、
 これからの時代には『新しい仕組み』に変わって行くのだろう。

 写真の横幕に
コロナ禍 初の大学入試共通テスト始まる
 と書かれているが、内容が変わっているのだろうか?

 
 
 

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次の総理は? その他コロナ問題、いろいろ  雑感

2021-01-17 11:22:30 | 私の生き方、考え方&意見

★こんなニュースが載っていた。
 このところ菅総理の支持率が急落のようである。

 その理由の第一は『コロナ対策』が疑問視されているようだ。

 






 その支持率はホントに急落なのである。



 
   


 次の首相に相応しいのはと、こんな結果も出ていた。
 河野太郎が1位で、なるほどとも思うが、
 1年以内には間違いなく総選挙もあり、次の総理も決まるのだが、
 果たして、どうなるのかな。


次の衆院選後の首相にふさわしいのは
①河野太郎行政改革担当相 85人(12%)2
②石破茂自民党元幹事長  73人(10%)3
③菅義偉首相       59人(8%)1
④安倍晋三前首相     25人(4%)5
④小泉進次郎環境相    25人(4%)6
⑥枝野幸男立憲民主党代表 18人(3%)4
⑦小池百合子東京都知事  16人(2%)15
⑦橋下徹元大阪府知事   16人(2%)8
⑨岸田文雄自民党前政調会長12人(2%)10
⑩吉村洋文大阪府知事   11人(2%)12


★それはそうと、コロナで日本の医療崩壊がいわれているが、
 いろんな記事のネット検索の結果である。
 病院数もベッド数も世界一だが、日本の基本的な仕組み、制度に問題があるらしい。単なる記事の羅列だが、その中から読み取って欲しい。

 
●日本は人口あたりの病床数は世界一多い国、感染者数はアメリカの100分の1くらいなのに、医療が逼迫して、緊急事態を迎えているという状況について、
政治が制度を変えれば、対応出来るのではないか。

●現在の医療法では病床の転換は病院にお願いするしかないが、医療法を改正することは政府のアジェンダに入っていないのではないか。

●日本の病院数は約8000とG7諸国のなかで最も多く、日本の1病床当たり医師数は、米国の5分の1であり、独仏の3分の1である。看護師も同じ傾向にある。日本では大病院の勤務医が恒常的に不足しているという問題がある。

●手立てはある。コロナ感染を恐れて患者が来なくなり、余裕が生じている中小病院や診療所のスタッフを感染症指定病院に行って応援してもらう仕組みをつくることである。そうなれば人手不足がネックとなって増大できない病床数を大幅に拡大できることになる。

●病床数が世界一であるにもかかわらず、日本では空き病床が少ないのは、現在の病院経営は「病床が埋まってナンボ」であり、いかに空き病床を少なく管理するかが医業収益の決め手となっているからである。

●コロナ患者受け入れ、民間病院は2割
民間で受け入れが進まない理由について、「コロナの患者さんを診るのは通常の何倍も手が掛かる上、他の手術や診療もできなくなり赤字になる。院内感染のリスクも抱える」

受け入れた病院は「数十億円の赤字」
しかし、コロナ患者を受け入れ、経営が厳しくなるのは公的病院も同じ。「特定の病院に負荷が掛からないよう、どこがどのぐらい受け入れているか見える化することも一案だ」

●「行政がしっかり方針を示す必要がある。今の仕組みだと(コロナ対応を)強制できないけど、中長期的にはそうした議論も必要になる」と主張する。



★以上はいろんな記事の羅列だが、何となく解ったような気がした。
 この仕組み、制度の問題の改革が必要だと思うが、
 菅総理は、その点を聞かれて、このように答えたようである。
 何となく、物足りない。

◆制度の問題を問われ、首相「国によって考え方違う」
日本が世界有数の病床数を確保しながら、新型コロナ感染拡大に対応できていない現状について、菅義偉首相は13日の記者会見で、日本の制度や体制に問題があると考えるかを問われ「感染拡大が続く中、まずは必要な医療の提供を受けられるよう病床を確保していくことが極めて重要だ」と話すにとどめた。
 



★上にあった総理候補のなかで、こんな質問に明確に答える人は、
 河野太郎・橋下徹・吉村洋文 ぐらいではなかろうか?
 そんな総理が出てくることを期待したい。
 

 
 

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関西にも緊急事態宣言が出たが・・・  雑感

2021-01-14 07:29:34 | 私の生き方、考え方&意見

★1月13日に関西にも『緊急事態宣言』が発令された。

   
 
 
 私の日常生活にどんな変化があるのだろう?
 今までも、殆ど人とは会わないように努めてたし、
 人に会うのは週に何回かのジム・トレーニングだけだったが、
 それも8人以上は入れないし、安全だとは思うのだが。
 『緊急事態宣言』が出たので、ジムは止めようかと思っている。

   年金生活者にとっては『コロナへの対応』はそんなにムツカシクない筈だから、
このような行政の対策には、出来る限り協力することが必要だと思っている。

世界に比べて、日本のコロナが何とか低い水準で収まっているのは、
基本的に国民の対応が世界に比べて『いい水準』にあるのだと思う。


 これが感染者の多い主な国だが、
 アメリカを筆頭に欧米の先進国が軒並み顔を揃えている。


    


 日本やお隣の中国・韓国はこんな数値で、
 欧米諸国とは『桁が違う』のだが、なぜだろう?
 東洋人はコロナに強い体質なのだろうか?


 



 これが日本の『新規感染者数の推移』だが、
 年末・年始をピークに、多分収まっていく方向だろう。
 仮に収まらなくても、欧米諸国のようにはならないのでは・・・と思う。


 


日本の水準でも確かに問題はいろいろあるのだろうが、
若しアメリカや欧米のような水準になったら、どのように言うのだろう?
医療対策の限界が近いように言われているのだが、
アメリカや欧米はどのように対応しているのだろうか?

 日本の医療水準は欧米諸国に対して、そんなに劣っているのだろうか?
 その辺りのことが、もう一つよく解らない。
 


★ 『コロナ』も確かに大変だが、2月末にはワクチンも出るだろうし、
 何とか納まるのではと思っている。

 長く生きてきたが、『敗戦の』は大変だったが、
 それでも何とか『乗り切れ』のである。

 世の中の『インテリ』や『マスコミ』は『大変だ・問題だ』と言いたがるが、
 その殆どは『大したことにはならない』のが普通である。
 『大変だ・問題だ』というほうが賢そうに見えるのかも知れない。

 私自身は、『なんでも大丈夫』と、楽観的にネアカに生きてきた。
 

 でも、世の中の人たちは、『悲観的』に考える人が圧倒的なようである。
 夏に開催されるオリンピックは『中止』と考える人が90%に近い。
 
 春には『ワクチン』も出るし、何とか『開催の方向』になるのでは
 と思っているのだが、果たしてどうなるのか?
 確かに、『開催できる』と楽観的に考えると、
 何も考えていない『バカに見える』のかも知れない。

  



 
 
 
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高校サッカー選手権 山梨学園優勝!   雑感

2021-01-12 07:23:20 | 私の生き方、考え方&意見

★ 新春は幕開けからスポーツの連続である。
 それも昨日の高校サッカー選手権で終わって、
 今年のお正月も終わったかなという感じである。
 
 それにしても青森山田山梨学院の決勝戦は壮絶だった。
 技術的には青森が上かなとも思ったのだが2-2のまま延長戦に入り、
 最後はPK戦で山梨学院の優勝となった。

     
  

★  最近の高校生の県代表チームは、
 野球もそうだが 当初のコンセプトであった県の代表チームというには、
 県外からの選手が多すぎてどうももう一つだなと思ってしまうのである。

 今回青森代表として出場した『青森山田』は23年間連続して、
 全国大会出場を果たしているのだが、
 青森県出身者は殆どいない県外からの選手で構成されている。
 
 そういう意味では『山梨学院』も青森以上に県外選手が多くて、
 県内選手の少ない、43位と45位の決勝戦だったのである。
 

 

 今回大会出場校で、県代表チームだと言えるのは、
 こんな大都市県と言える地域で、
 地方に行くほど県外選手の数が増える傾向にある。


  

 その解決策は?
 と言われても名案は持ち合わせてはいないのだが、
 学問をやることが本業の学校が『スポーツ専門校』になってしまっているのは、
 問題と言えば問題なのだろう。

 
★ このようなスポーツ有名校の部員たちも、また問題かなと思っている。
 100人以上も部員がいるとその殆どは応援団みたいな存在になってしまう。

 その点、アメリカの高校の運動部は同好会的な活動で、
 プロなどを目指す選手は、地域のスポーツクラブの上級クラブに所属している。
 そして、大学の運動部は推薦入学でサッカー部などは20数人ぐらいの規模でそれ以上は入部させないシステムになっていて、合理的だし、
 そんなサッカー部だが単位が取れないと卒業が出来ないので、
 所謂『大学』としても、日本のようにスポーツだけだと卒業できない仕組みになっている。

 
★ 成人式もそうだが、『日本の独特の仕組み』はいいところもあるが、
 世界の常識からみると、ちょっと変わっている。

 コロナで会社のあり方も少しは変わるようだし、
 日本独特のシステムも、世界に通用する方向に変わって行くべきかなと思ったりする。

 こんな有名校のレギュラー選手は兎も角、
 応援団のようなことで卒業する部員たちの将来はどんなことになっていくのだろう?

 
  



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ファン心理?

2021-01-11 07:27:04 | 私の生き方、考え方&意見

★ 日曜日、高校女子サッカー大会の決勝戦がテレビであった。
 
 藤枝順心と作陽高校だったが、別にどちらとも関係はないのだが、
 何となく『藤枝順心』を応援してたから不思議である。

 結果は3-0で『藤枝順心の全国優勝2連覇』という結果になった。
 この決勝戦は神戸のスタジアムで行われたのだが、

 この大会は今年1月3日、4日から
 いつもトレーニングに行っている三木総合防災公園のサッカー場でスタートした。
たまたま動画に撮っていたのだが、この画面に藤枝順心高のこんな横幕が映っていたのである。

 


 ただ通りかかった時に、試合の前の練習が始まっていたので、
 カメラを向けただけのことなのである。
 そこが昨年の優勝校などとは全く知らなかった。


  
 

 ただそれだけのことなのだが、
 新聞で『藤枝順心と作陽高校』の対戦だということを見て、
 この横幕を思い出したのである。

 そのほかにもこんな場面を撮っているのだが、
 そこにも横幕がぼんやりと写っている。
 



 あの横幕の印象が残っていて、テレビでも応援していたのである。


★大相撲の初場所が始まった。

 特に応援する力士などは居なかったのだが、この数場所は『貴敬勝』を応援している。
 二輪で関係のある『青木隆さん』に聞いたのだが、
 お父さんがカワサキのバイクにお乗りだという。

 ただそれだけのことだが、何となく応援をしている。


             
 


★ 私自身は『熱烈なファン』などにはなれない性格かなと思っている。

  『阪神ファン』などのあの熱烈ぶりが不思議でならない。
  それでも何となく『タイガースは好き』といったレベルなのである。

        プロ野球選手で言えば、あの金田正一のファンだった。
  彼は昭和8年生まれで私と同年齢なのだが、
  私が高校2年生の時には既に国鉄スワローズに入団していた新人選手だった。

  昭和25年(1950)、私が高校2年生の時に、
 甲子園の『阪神ー国鉄戦の家族優待券』を当時国鉄の総監督であった
 伯父の楠見幸信に頼んだのだが、
 『甲子園の窓口で聞いてもらうと解るようにしておく』ということで
 そうしたら、
 滅茶背の高い選手が、『楠見さんからです』と券を届けてくれたのである。

   

 
 それがその年入団したばかりの新人選手『金田正一』さんだった。
 その時は知る由もなかったのだが、あの背の高さと風貌は
 間違いなく『金田正一さん』だったのである。

 その後は皆さん、ご承知のような活躍をつづけた『金田正一』さんだが、
 それ以来は一度もお会いしたことなどないのだが、
 ずっと応援してたのは間違いない。


★ そんな 私の経験から言うと
 『ファン心理』などはひょんなことから、始まるのだと思っている。

  ほかにも何人か、『ファンと言える方』はいるのだが、
 みんな『何かのきっかけ』みたいなものがある。 

 ただ、どうしても『熱烈な・・』というレベルにならないのは、
 私自身の性格かな?と思うのだが、
 『熱烈なファン』になれる人の方が『普通なのか?そうでないのか?
 そんなことに関心がある私なのである。


 
 
  
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そうか、そんな生き方もあったのか!  その5

2021-01-08 06:49:11 | 私の生き方、考え方&意見

★ 今年の目標のプロジェクトの一つに『仲俊二郎読書友の会』がある。

 昨年の暮れに県立兵庫大学の名誉教授の小西一彦先生から
 突然のお誘いがあって、このプロジェクトはスタートしたのである。

 私は頼まれごとを断った経験は殆どない。
何事も『ご縁』だし頼まれるということは『期待されてる』ということだから、
結構ちゃんと取り組むことにしている。

 昨年暮れに小西先生がFacebookに『仲俊二郎読書友の会』を立ち上げられたのだが、順調に育っていま93人のメンバーが参加されている。

 私も小西先生もネットについては疎いので
 昨年末から登山道夫さんにも管理者になって頂いた。


   

  
このグループの『設定』など発展する方向に改定するように思っているが、
最初の設定から1ヶ月は触れないようなので、愈々今年から再スタートである。

 今の会員さんは小西先生と私がご招待したものだが、
 管理者以外の方も『招待できる』ような設定にして、
 今の94人を1000人ぐらいの規模になれば、オモシロいかなと思っている。


    今でもメンバーの方から、このような投稿があって活発なのだが、
 さらに多くの方からの投稿を期待したい。

  


    




★ このプロジェクトがスタートしたきっかけは、
 ネットで本が読めるようになったりして、
 なかなか本の販売がムツカシイ世の中のようである。

 そんな中での『本の販促活動』の一環なのだが
 著者の『仲俊二郎』さんもメンバーに入っておられて、
 こんなコメントが戻ってきたりする。

  


 

  本の著者と直接会話ができると言うことは
  『これはなかなかオモシロい
  Facebook の『友の会』なるがゆえに可能なのである。


★ 今のメンバーさんは私のご招待した方が多いので、バイクファンが多いのだが、
 仲俊二郎さんは、元々川崎重工業におられて『カワサキ』にも関心おありなのである。
 先日もこんな私の旧いブログを検索されて、この会にアップされていた。
    作家の方にこのように言われると嬉しい。

    
     
   

  そのブログは旧いのだが
  川崎重工業の大庭社長のことを書いた、こんなブログなのである。

  

 
   今年は未だ始まったばかりだが、
 このプロジェクトがどんな進展を図るのか、
 非常に関心を持ってその推移を見守っていきたいと思っている。


 
 
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結婚記念日から いろいろと

2020-12-22 06:52:22 | 私の生き方、考え方&意見

★ 昨日、12月21日は結婚記念日だった。

 結婚をしたのは昭和37年(1962)12月21日、私が30歳の時だから
 もう58年にもなる。
 年末のこんな押し詰まった日に結婚式を挙げているのは、
 会社が無茶苦茶忙しくて、1週間も休むことなど考えられなかった、
 そんな時代だったのである。
 
 カワサキが二輪事業をスタートさせて、新しく単車営業課が出来たのが、
 昭和36年12月なのだが、その時点から単車営業に異動したのである。
 まだ入社4年目の若手ではあったが、実務的には中心に座っていた。
 『単車営業』という営業部門ではあるのだが、
 『技術・生産部門』以外のすべての業務を担当していたので大変だった。

 今の職制で言えば、企画・営業・品質保証関連の業務をすべてこなしていたので、
 ちょっと考えられないほどの忙しさだったのである。
 そんなことだったので、年末を迎えるこんな時期の結婚式となったのである。


★ 結婚式場を当時は教職員関係しか使えなかった『神戸六甲荘』を
 高校・大学を通じての球友であった校長先生の息子の親友小野田尚弘が借りてくれて、
 高校・大学の野球部の連中が大勢やってきて、
 『忘年会の一次会』にするからと『披露宴』は3時から始まったのである。
 
 ホントに忘年会の一次会のような賑やかさで、
 『新郎も歌え』と歌など歌わされて、
 私は流石に『披露宴』の席だったので旧制神戸一中の校歌を歌ったのである。

 不思議に今でも2番ぐらいまでは歌詞を覚えているのだが、
 1番のまさに『我が世の春に似たるかな』の心境だったのである。
 
 一.
 群巒色は紫に 金波さ揺らぐ茅渟の浦
 東大野を瞳々と 朝日子昇る曙や
 希望の光輝ける わが世の春に似たるかな
 二.
 天の霊火を地に呼ぶと 意気の子胸の高鳴りや
 自重と自治の旗しるく 𠮟咤呼号の五十年
 ああ微笑みの誇らひの 歴史の跡ぞ勇ましき

 私は神戸一中は旧制の3年間だけで、
 高校は学区制が実施されて『明石高校』に転校したのだが、
 家内はその後の『神戸高校』だったので、関係あるかなと思ったりした。

 声高らかに結構上手く歌えて、
 仲人の小野助治さんに秀逸だ』と褒めて頂いたのを想い出すのである。


★ 新婚旅行は北陸から長野に回ったのだが、
 結婚式の日は披露宴が終わったのが6時頃なので、
 京都のホテルに泊まったのだが、
 三宮から京都まで普通の電車だから、駅の見送りなどはなく、
 披露宴に出ていた『小野田滋郎さん』が『俺が送ってやる』と3人一緒だったのである。
  
  

 
 
 小野田滋郎さんはあのフィリッピンの小野田寛郎さんの弟さんなのだが、
 当時はカワサキ自販の総務・広宣課長だったのである。

    私が人生で一番薫陶を受けた方は『小野田滋郎さん』かも知れない。
 陸士出の秀才で、私が広告宣伝やレースの世界を引き継いだのも
 小野田さんから引き継いだのである。

 カワサキがレースを最初にやったのは『青野ヶ原』ということになっているのだが、
 1年前のB7の時代にカワサキ自販三吉一行などがレースに出ているし、
 ヤマハから三橋実を引っこ抜いて『カワサキコンバット』を創ったのは、
 小野田滋郎さんなのである。

 小野田さんのことは今まで何回もブログにアップしていて、
 『小野田滋郎 雑感日記』と検索するとこんな画面が現れる。

 そこにいろいろ書いてるので、興味・ご関心のある方は
  ご覧になってみてください。
 




  
 
 私の人生で、一番影響を与えてくれた人は
 『家内と小野田滋郎さん』かも知れない。
 
そんな人たち3人で新しい人生のスタートでもある『新婚旅行のスタート』を
三宮から京都までの短い区間だが、一緒だったのは不思議に思ったりする。



★ そんな『結婚記念日』なのだが、よくまあ、長く続いたものである。

 この数年は12月のこの頃は、アメリカから孫が来ていたり。
 昨年は息子も来ていて『結婚記念日』というより
 孫や息子中心の1日だったのだが。
 今年は『コロナのお陰』で夫婦二人きりである。

 しかし、結婚記念日だと言って特に『何をする』でもないのだが、
    『昼飯』が鮨になって、小さなケーキが付いたぐらいのことである。


 
 
 
 人生で一番長く一緒にいる家内だが、
 結婚するまでは、もっと派手なのかなと思っていたのに、
 意外に『旧い』のである。
 文字通り『家内』で、家の中のことは一切私はしない、
 風呂から上がっても、朝起きても、
 私が着るものは全て揃えてあって、私はそれを着るだけである。

 そんな生活が、あとどれくらい続くのだろうか?
 二人の子供たちも、家内が『育てた』といって間違いない。
 お蔭様で『いい子に育った』と言っていいだろう

 こんなことを静かに思っただけの『結婚記念日』だったのである。

 
 
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そうか、そんな生き方もあったのか  3

2020-12-19 07:05:52 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『そうか、そんな生き方もあったのか?
 は本の題名なのだが、その著者の『仲俊二郎』さんの

 『仲俊二郎読書友の会』というグループをFacebook 内に立ち上げて10日あまりになる。

 
  
 

メンバーは、今73名も集まって、予想以上に活発な展開なのである。

 その一部をご紹介すると、
 向笠暁彦さん、バイク仲間では名も通っているので、
 ご存知の方もいらっしゃるかと思うが、
 バイク雑誌の記事なども書かれるとあって、
 その投稿はなかなかオモシロい。


★なかなかの読書家で、大槻幸雄さんの本を読み終わったところだが、
 次に仲俊二郎さんの『ドーバー海峡の朝霧』を読まれるとか。
 

 



 そんな告知があったのは、12月11日だったのだが、
 12月16日には読み終わられて、
 こんな書評をアップされている。

「ドーバー海峡の朝霧」
本日の帰りの電車、通勤図書館にて無事読了しました。
トンネル工事が主題の作品としては、吉村昭の高熱隧道を読んだことがあります。
黒部ダムに設ける発電所のトンネルを掘る話で、湧き出す温泉やガス、暴風雪に発破、落盤事故に苦しみながら遂に完成に至ります。
この作品が専ら「掘る」ことに主眼を置いているのに対して、
ドーバー海峡の朝霧は「工事の受注に至る駆け引き」がテーマです。
本書を読みながらTVドラマ「ハゲタカ」で描かれた、企業再生のスポンサー選定を巡る入札シーンを思い出しました。
そして、「ドーバー海峡の朝霧」というタイトルと内容の関連性に気づいて読み終えました。
とても苦味の効いた一冊です。


 それで終わるのではなく、更にこんなコメントが続いて、
 著者仲俊二郎さんとこんなやり取りとなっている。


  




★こんな本の著者との『直接のやり取り』が出来るのが
 『ネットの良さ』だと思う。

 いま、このグループは立ち上がったばかりだが、
 管理者になっていると『小西一彦先生』の招待による
 メンバーが70名ばかり参加している。

 ただ、小西先生も私も、そんなにネット関連には強くはないので、
 その辺りがよく解った方に『管理者』になって頂くと、
 このサイトもさらにオモシロい展開になるのではと思っている。

 例えば、私のこの記事を読んで、
 ・『面白そうだから入ってみよう』と思われた方が
 ・『入会する術』があるのかないのか?
 ・どうすれば一般の方の入会が出来るのか?
 ・この会に既に入会されている方がトモダチを招待できないのか
 その辺のところが、さっぱり解らないのである。

 そんなことで、小西先生にはその旨、Facebook のメッセージで
 ご連絡している。
 私が親しくしている登山道夫さんは結構ネットに強いので、
 管理人になって手伝って頂こうと思っている。



★『仲俊二郎』さんは、川崎重工業にかってはお勤めで、
  私は面識はないのだが、今回の件で繋がって、
  私のFacebook の記事にもコメントなど頂いたりしているのである。


   
 


 
  間違いなく『才人』である。
 『そうか、そんな人生もあったのか!』は10人の偉人たちの人生を書いているのだが、
 『仲俊二郎』さんの人生こそ
 ホントに『そんな人生もあったのか?』という感じなのである。

 ご本人がこのように語っておられるのである。

 
40歳の時に急に作家になりたいと思ったことを思い出し・・
実際、4年間、小説学校に通って小説の書き方を勉強した・・
「そうだ、僕は川重を辞める前に、営業のプロジェクトマネジャーとして20世紀最大のプロジェクトを受注し、成功させた。
そのことをフィクションも交えて小説にしてみたい。
ふとそう思って、半年ほどかかって書き上げました。


 ドーバー海峡のトンネル工事のことは、聞いていて知ってはいたが、
 詳しくお聞きするのは初めてのことなのである。
 


 


これはこのプロジェクトの責任者であった、
仲俊二郎さんご本人のコメントだが、このように書かれている。

・・・受注時は2割ほどの赤字を覚悟で決めたのですが、
その後詳細設計をするにつれ赤字がどんどん増えて、5割ほどにまで膨張。
社内は「誰がこんな赤字工事を受注したのだ」と、てんやわんや。
関連役員たちは「わしは関係ない」と逃げまわります。
しかし営業の受注契約書の中に或る工夫をしておいたのが功を奏して、
トンネル貫通時には4割ほどの利益が出たという、

川重にとって画期的なプロジェクトでした。
このプロジェクトはエリザベス女王に褒められ、川重の大庭社長がイギリスに招待されてナイトの勲章を授与されました。

 最後の大庭社長への勲章の授与と、この関連から大庭さんはサッチャーさんと繋がって、
 サッチャーさんは川重にお越しになったし『記念講演』をされたのはよく知っている。


★それにしても、ひょんなことでひょんなことになるものである。
 
 『そうか、そんな生き方もあったのか?』

 このプロジェクトはどんな方向に進んでいくのだろうか?


 
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人生で出会ったエライさんたち    雑感

2020-12-18 06:48:36 | 私の生き方、考え方&意見

★ 私は人生の半分以上を川崎航空機と川崎重工業で過ごしたのだが、
 不思議なほど社長・副社長という会社のトップの方とのご縁が多かった。
 ホントに特に親しくして頂いたのである。

 でも、昔のお殿様とは違って、
 昨今の社会の『エライさん』はみんな若い時は普通の人なのである。

 若い頃を知ってる方は、その方が偉くなられても、
 昔のままで話ができるから、不思議である。

 川崎航空機に入れて頂いたのは当時の副社長砂野仁さんなのだが、
 伯父の知人だった砂野さんにお会いしたのは子供の頃だし、
 神戸一中も砂野さんの薦めで入学したのである。
 そんなことだったので、新入社員の時から会社の上司で一番気安く
 『モノが言えた』のは砂野仁さんだった。


★昔のアルバムが出てきた。
 その中の写真には、『社会のエライさん』の写真がいっぱいである。


  これは現役の時私がお世話になった方が、顔を揃えておられる。
1990年代の初めだと思うが、私も国内販社の専務をしていた時だと思う。

   
     
   

 一番左が私だが、
 奥におられるのが『山田熙明さん川重副社長をされてたのだが、
 この時は多分、もう引退後だと思う。
 神戸一中の先輩で、私の現役時代の後半は山田熙明さんの人事で企画に動いたのだと思う。
 
 山田熙明さんは、神戸一中・1高・東大、それも航空機科という秀才で、
 私は後輩であったことから、ホントに若い頃から面倒を見て頂いた。

 そのお隣が『苧野豊秋さん』永年私の直接の上司であった。
 明石高校の先輩なのである。
 このお二人には本当にお世話になったのである。

 一番最初が、カワサキ創成期のレース関係で
 お二人は『レース運営委員会』の技術・営業分野での委員長をされていて、
 その事務局長を私が担当していたのである。

 当時はお二人とも課長から部長になられたばかりの頃で、
 カワサキでのレースの初めての外人契約であった『デグナーとの契約』は
 山田・古谷コンビでの契約だったのである。
 私は未だ30歳にはなっていなかった頃だから、山田さんも若かった。

 苧野さんは長く国内販社の専務で直接の上司であったが、
 晩年は国内の部品会社の社長JJSBAの会長などで支えて頂いたのである。


★ 真ん中にお座りなのが、『小野寺和夫さん』
 全国カワサキ会会長で私がその副会長で支えた仲なのである。
 多分ここは、小野寺さんが行きつけの銀座のバーである。

 二輪業界での活動でお国から叙勲を受けられたりもしたのだが、
 独特のお人柄で、誰とでも親しく且つ対等に話をされるそんなところがあった。
 勿論私よりは年上だったのだが、よく支えて頂いて本当にお世話になったのである。

 小野寺さん、横浜で二輪のご商売をされてたのだが、
 その活動範囲は半端ではなくて、

 ごく最近になって解ったのだが、
 小野寺さんの葬儀の葬儀委員長を務められたのが、
 若い日の菅義偉さ、今の総理大臣なのである。
 これにはちょっとビックリだった。


    こんな昼の部の写真も出てきた。
     
   
 


★ 一番右は、国内販社10年の出向の後、
 事業本部の企画室に戻ったのだが、その時の直接の上司の髙橋宏さん
 
 当時川重に中國班なるものが初めてできて、
 その中國班への異動が殆ど決まっていた私を、
 高橋さんが『取返しに』行って頂いての『企画室異動』だったようである。
 私は大学時代第2外国語を試験さえ受ければ『』をくれる中国語を受けていて、
 記録の上では『中国語=優』だったものだからそうなったのだと思う。
 そういう意味では、『髙橋宏さん』は大恩人なのである。

 若し中國班などに行っていたら、
 私の現役時代は全く変わったものになったであろう。
 


★ 私が若い頃から、一番長く一緒に仕事をした人と言えば

 それは田崎雅元さん、元川崎重工社長だが、
 彼は私の1年下で、レース仲間でもあったし、
 その後もいろいろご縁があって、
 お互い気心の知れたお付き合いが今でも続いている。

この当時川重副社長であった『大西 胖』さんとの写真を送ってくれたのも、
田﨑雅元さんなのである。


 KMCの新社屋の土地、建物については、
 当時の副社長大西 胖さんのお世話になったのである。
 
 『大西 胖』さんとは私がまだ課長時代、
 アメリカのダンピング問題でこれはちょっと大変な問題だったのだが、
 それを直接担当してたのが田崎さんで、
 その対策として国内販社体制の構造改革対策が求められたのだが、
 その起案をしたのが私で、当時の本社財務担当だった『大西 胖』さんに、
 毎月報告に上がっていて、その結果がよかったものだから、
 大西さんには『絶大な信頼』があったのである。

 そんなこともあって、
 KMCの新社屋には社内で反対論も多かったのだが、
 私や田崎さんの起案ということで、
 大西さんはわざわざアメリカまで足を運んで現地を視察され、
 この案に『賛成』して頂いた結果、実現したのである。

 その時の大西副社長とのツーショットである。
 この時は私も新参部長にはなっていたと思うが、
 普通では川重副社長とこんなことにはならないのである。


  
 
  
 
★ これは大庭浩事業本部長・髙橋鐵郎副本部長時代
 それに企画室長だった私、当時のカワ販専務をされていた髙橋宏さん、
  
 二輪車新聞の年頭記事の記者会見の時の写真である。

 大庭さんは後、川重社長、髙橋さんは川重副社長を務められるのだが、
 当時私はその番頭役をしていたので、
 非常に気安くお付き合いをさせて頂いていたのである。

 大庭さんの事業本部長人事私や髙橋さんの企画室人事をされたのは、
 冒頭、ご紹介した山田熙明さん なのである。
 

   


  当時は山田さんは、川重副社長をされていたのである。

  この写真も田崎さんが私に送ってくれたものだが、
  当時田崎さんはアメリカの現地販社KMCの社長をしていたのである。

  単車事業本部の大庭本部長・髙橋副本部長と田崎さんだが、
  後、川重社長が二人、高橋鐵郎さんが副社長というスリー・ショット
  なのである。



 
★ こうしてみると、川崎重工業の中では
 錚々たる社長・副社長の方々と、密接にお付き合いする機会を得ているのだが、
 それは『カワサキグループ』の中のことだから、
 ホントはそんなに大したことではないのかも知れない。

 そういう意味では、小野寺和夫さんはお国が認めての表賞だから、
 それは『偉いさん』だと言えると思うし、

 もう一人、私が親しくさせて頂いている世の中のエライさんは、
 『吉田純一、吉田純ちゃん』なのである。
 彼も叙勲を受けたし、政界のお偉方にもいっぱいトモダチはいるし、
 純ちゃんが一番の『出世頭』だと思っている。

  彼は、東京都知事とも

        


 三原じゅん子さんとも仲良しだし、




  
 レース界のこんな大御所たちとも 仲良しなのである。

 星野一義は『日本一速い男』と言われる有名人なのだが、
 彼が17歳の無名の新人時代からのお付き合いで、
 我々の仲間では、今でも『ホシノ』と呼び捨てなのである。
 山本隆が星野のお師匠さんだし、その山本隆の仲人は私。
 私はカワサキでは『純ちゃんよりは先輩』だから、
 いまは『エライさんの吉田純一さん』を『純ちゃん』と呼べる間柄なのである。

 私も『捨てたものではない』と勝手にそう思っているのである。

 



 こうしてみると
 世の中のエライさんたちも、いろいろあってオモシロいなと思っている。


 
 

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本の著者と 直接お話するという機会   雑感

2020-12-15 07:07:44 | 私の生き方、考え方&意見

★ 私自身は特に読書家でもない。
  どちらかというと『本は読まない』ほうである。
 
  そんな私がいま仲俊二郎さんの書かれた
 『そうか、そんな生き方もあったのか!
  という本の『仲俊二郎 読書友の会』の管理者をやることになっている。

  

 
  


  仲さんとは『親友』と仰る
  兵庫県立大学名誉教授小西一彦先生にひょんなことで頼まれて、
  お引き受けした結果なのである。

 
  小西先生がFacebook の中に立ち上げられた
  仲俊二郎 読書友の会 は予想以上に活況で既に70名ものメンバーが
  参加されて、いろいろ投稿やコメントなど頂いているし、
  既に、何人かの方は本を購入されたりもしているのである。


  


★ こんな展開になるとは予想もしていなかったので、
  私も、ちょっとビックリなのである。

  そんな中のお一人に『向笠暁彦』さんがおられて、
  こんな記事をアップしておられるのである。

  大槻幸雄さんはバイクのユーザーならご存じの
  『カワサキZ1の開発責任者』なのだが、
  こんなガスタービン開発の本も書かれている著者でもある。
 

   




 実は昨日、『向笠暁彦』さんとご一緒に大槻幸雄さんとお会いしたのだが、
 大槻さんの本を読まれたばかりの向笠さんと大槻さんの会話を
 横で聞いていたのだが、これはなかなかオモシロかったのである。

 これは大槻さんと向笠さんの対談の一場面である。

 

 
 読者と著者が直接話などする機会は少ないはずだが、
 この仲俊二郎さんとも、
直接の会話』が出来る舞台だけは出来上がりつつあるのである。



★ 仲さん、Facebook は初めてのようだが、
 既に登録されていて、トモダチは『私1人』だったはずだが、
 いつの間にか、39人もの方と繋がっているのである。

  



 これはその一部だが、こんな方たちが友達になっておられる。
 自由に本の著者との直接の会話ができる舞台が整いつつあると言っていい。

 
  

 ひょっとすると、
 これは 『本の著者と読者を直接つなぐ新しいシステム』
 になる可能性もある。

 電子書籍などの出現で、本の売れ行きがもう一つの現代社会のようだが、
 Facebookなどと言う、ネットシステムを使っての
 新しい『本の読み方』というか、
 著者と読者の繋がりが出来ればいいなと思ったりしている。

  
 Facebook をおやりの方なら、
 『仲俊二郎読書友の会 』 『仲俊二郎』と検索したら
 簡単に繋がることが出来ると思います。


 



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そうか、そんな生き方もあったのか?    2

2020-12-10 07:22:59 | 私の生き方、考え方&意見

★『そうか、そんな生き方もあったのか?』第2弾です。

 我が家には小西先生が本を送って下さいましたので、
 少しだけですが、読んでみました。

 こんな10人の偉人たちの人生が描かれているのだが、
 私もお名前だけはよく知っている偉人たちの人生は、
 結構な波があって大変だったようである。
 そんな人生の大波・小波を乗り切ったからこそ、
 世に名を遺す偉人となられたのだろうかなと思ったりしている。

 




★ 先日、この本のご紹介をしたのだが、
 Facebook で毎日のように出会っている『青木隆』さんからメッセージを頂いた。

   


Amazonで、注文しました。 はい、糧にしたいと思います。
古谷さんの人生も、十分楽しそうで、本の題目と似てると思っています。
 寒くなりました、公園の散策もいいですが、お身体ご自愛ください。』

 早速このような反響があることは嬉しい。


★ 小西一彦先生はFacebook に
  早速、こんな『仲俊二郎読書友の会』を立ち上げられている。

  その仕組みがよく解ってはいないのだが、
  私のFacebook のトモダチを招待したら、 
  早速、20人ぐらいの方が参加されている。
 


 今週の新メンバーとあるのは、既に参加された方だし、
 招待済みの方が84人もいらっしゃる。



 ただ、つい先ほどまではこんな表示が出て、
 『現在友達を招待することが出来ません』などと言う表示が出てたのだが、
 もう今は解除されたのだろうか?

 ネットのシステムは、どうもこの辺りがよく解らないのである。



★ 『松田真弥』さんなどはこんな表示が現れるし、



  
  

こんな画面が現れる方もおられる。



 
   


  


 これらの方は、間違いなく私がご招待したのだが、
 この『仲俊二郎読書友の会』には招待なしに独自で加入は出来ないのだろうか?

 スタートしたばかりで、その辺のところがよく解ってはいないのだが、
 よく解ってはいないのだが、

 著者の『仲俊二郎』さんは
 かって川崎重工業にお勤めだったようだし、
 最初の勤務は私の一番下の妹と同じ職場だったようなので、

 そんなご縁もあって、私も応援したいなと思っている。
 70歳になってから『若い頃からの夢だ った作家へ転身された』のは
 これは大変なことである。
 それ以降、既に10冊を世に出しておられるのである。

 このプロジェクトは、そんなに急いでみても仕方がないので、
 じっくりと腰を据えて、そのご紹介を続けていきたいなと思っている。

 『青木隆』さんのように実際に本をご購入された方は、
 その読書の感想なども頂けたら幸いだなと思っている。

 本のテーマは
 『そうか、そんな生き方もあったのか?』という
 どなたにも関係のある『人の生き方』がテーマなので、
 是非、皆様も関心を持って頂きたいなと思っている。

  

 
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そうか、そんな生き方もあったのか!     1

2020-12-07 05:51:32 | 私の生き方、考え方&意見

★『そうか、そんな生き方もあったのか!
 仲 俊二郎著 の本の題名である。

 同じ題名で、多分このブログも何回か続くと思われるので
 『そうか、そんな生き方もあったのか 1』とした。

 久しぶりに私が取り組む『プロジェクト』になるのかも知れない。

  
   


 本の帯には、
 兵庫県立大学名誉教授の小西一彦先生
 『人生には迷いもあり、悩みもある。
  しかし10人の偉人たちは、運命に敢然と立ち向かい生き抜いた。
  若者から年配の方まで、明日を生きるためにお薦めしたい一冊。
 と書かれている。


★ その小西一彦先生から、長いメールを頂いたのである。
 大要は次のようなものだった。

『さて、久しぶりにメールを送らせて頂きましたのは、 実は、大学時代からの親友の仲元俊二君からの依頼で、 古谷様へたってのお願いです。
仲元君は、大阪市立大学を卒業した後、 川崎重工業に就職し、その最初の配属先が、 健康保険組合でした。
その彼が、その後、フランスに出張して、 世紀の大事業と言われるドーバー海峡のトンネル 掘削工事を受注し見事に成功させました。その実績が 買われてか、外資系のケミカル会社の取締役にヘッド ハンティングされ、そこを退職後、若い頃からの夢だ った作家へ転身することに成功しました。
これまで、10冊の本を書いていますが、いずれも素晴 らしい作品です。最近刊は『そうか!そんな生き方も あったのか!』(栄光出版社)という本ですが、今年 の夏前に、いつものように、まず、私に原稿を送って きて読みました。一読して、今回も素晴らしいと直感 し、早々の発売を心待ちにしていました。
ところが、その後、いくつかの出版社にあたったが、 どこも引き受けてくれない、電子書籍の影響で、昨今 の出版業界の経営悪化に加えて、今回のコロナの影響 が加わり、大衆受けするかしないかわからないような 本の出版はどの企業も手を出したくなくなったのでし ょう。
せっかく苦労して書いた作品もそんなことで日の目が 見られないのはまことに残念なことであるので、私も 販売に協力するから、もう一度、出版社と交渉して、 出してもらうようにしてはどうかと、肩を押したとこ ろ、彼と私の販売協力を条件に、一社(栄光出版社) が引き受けてくれることになりました。
コロナ禍の中でではありましたが、さる11月12日に、 添付のような「仲俊二郎出版記念祝賀会」を開催し、 参加者及び参加できないが販売には協力するという人 たちから、100冊近くを買って頂くことが出来ました。
しかし、もうひと頑張りしなければなりません。そこで、 最近の研究会で知りえた情報を参考に、この後は、 インターネット経路もフル活用して宣伝して売って いく必要があるのではないかと考え、その方向での 販売協力を彼に提案しました。
古谷様は、既に、何十万というフォロアーを持つ、 ブロガーなので、、何か情報を お持ちのはずで、良いアドバイスは頂戴できるので はないかと考え、メールを出させて頂いた次第です。』

 
仲元俊二さんが川崎重工で最初に務められた健康保険組合では、
私の一番下の妹と同じ係で一緒に仕事をしていたというのである。
それも何かのご縁である。

要は『電子書籍』などの影響で本の販売がムツカシクなっている昨今、
ネットでの販売促進』をやりたいので手伝って欲しいということなのである。


★その依頼主が兵庫県立大学名誉教授の小西一彦先生というのである。
 兵庫県立大学はかっての神戸商大で私の母校ではあるのだが、
 大学時代は野球一筋で殆ど授業にも出ずに、
 は体育実技・体育理論という運動部員は優、中国語の1,2というこれも試験を受ければ優、それに野球部の部長だったゼミの先生のたった5つだけで、当然優が取れる科目のみなのである。
 
 そんなことで 大学の先生など殆ど無縁の存在だったのだが、
 その大学の先生からのご依頼なのである。
 『人生いろいろと変わるものである

 私は現役時代もずっと、人から頼まれた仕事をやってきたことが多かった。
 『他人からの頼まれごと』は『私への期待』なのだから、
 頼まれた方が満足するような成果が出ないと失敗なのである。
 幸いにして殆どの『頼まれごと』は120%の成果を得たと自負している。

そうか、そんな生き方もあったのか!』を
 出来る限り沢山売ることが目である。
 
 これはなかなかムツカシそうだが、目標としてはオモシロい。
 どんな結果になるのかはよく解らぬが、
 私なりに、独自のやり方で『その広報展開』を進めてみたい


★ こんなメンバーが応援されているようである。

  

    著者の名前は『仲俊二郎』となっているが、
 本名は『仲元俊二』さんのようである。


 まずは、その一報なのである。
 ご興味のある方は、是非ご一読下さい。

 『そうか、そんな生き方もあったのか! 
 人の生き方はいろいろあるのでしょうが、
 『頼まれごと』はちゃんとやるのは『私の生き方』なのである。

 そんなことで『私の生き方、考え方&意見』というカテゴリーで纏めてみたいと思っている。

 
 
 
 


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三木山森林公園をスロー・ジョッギングしてきた

2020-11-10 19:06:27 | 私の生き方、考え方&意見

★昨日は三木総合公園にある三木市総合体育館のジムでにトレーニングに行ってきた。
 1時間ほど筋力トレーニンをしたあと、
 直ぐ隣の『三木山森林公園』でスロー・ジョッギングを楽しんできた。

 『三木山森林公園』と『三木総合公園』はこんな位置関係にあり、
 隣というか、道を挟んで東西なのである。

 
 
 
 森林ばかりで何もないように見えるが、そんな自然いっぱいの公園なのである。
 孫たちが小さい頃はよく来てたし、犬がいたころは散歩もしょっちゅうだった。
 
 三木には大きな公園が幾つもあるが、その中でも『一番好きな公園』である。


 写真をいっぱいとってきたので、通った順にご紹介してみよう。

 向うの建物が三木総合体育館なのだが、
 その前の駐車場に車を止めたまま、三木山森林公園に向かったのである。
 




 森林公園に向かう道から、三木総合公園を見下ろしたところ。
 この公園もスポーツ施設がいっぱいで結構広い。




 これは三木山森林公園の上の方にある広場、
 芝生も広いし、今は紅葉も綺麗である。





 この奥には子どもたちの遊び道具や木工教室などもある
 『ウッディ広場』などもあるのだが、





 さらに進むとこんな林の中の道になって、
 こんな道が縦横に走っている公園なのである。





 こんな展望台もあるのだが、
 開場以来25年も経って、木が大きくなって
 下の芝生広場が見えないし、





 こちらの展望台からは柱の横の上の写真のように三木市街が見えていたのに、
 今はほんの少しが見えるだけになっている。



 これは東の方、右の山波が神戸の『六甲山脈』
 左の少し大きく見えてる山は『丹生山』これも神戸なのである。




 
こんな森の中のメイン道路には



 茶室などもあったりするのだが、

 


 
 その先の道で、『古谷さんじゃないですか?』
 と声を掛けてくれたのは、川崎航空機ー川崎重工業と同じ道を歩いた『岡崎くん』 
 殆ど毎日散歩に来ているのだとか。

  

 
 いま76歳だそうだが、元気そうである。
 私も色濃く関係した、開発途上国市場のインドネシアに10年もいたという。
 そんな昔話などにも花が咲いて、ちょっと懐かしいひと時だった。

★  『また、お会いしましょう』と別れてきたのだが、
 
 私は人生、特に現役時代は『八方美人』で過ごしてきたので、
 どなたとお会いしても、『昔のままに』お話しできるのは特技と言えるのかも知れない。

 結構、年の開いた方でも大丈夫なのである。

 今日は、長くお会いしていないジェットスキーで関係のあった
 『福井昇くん』が家にやってくる。
 先日、懇意にしてくれた仲間たちに配ったのだが、
 特に、日本で初めてカワサキのジェットスキー展開にスタート時点に
 『力を貸してくれた福井昇・藤田孝昭・潤井利明くんの3人のために残している、
 大槻幸雄さんの殿堂入り記念品をお渡ししようと思っているのである。

 因みに言うと
 ジェットスキーのスタート時に手伝ってくれた人は、このほかにも
 渡部達也・吉田純一くんなどもいるのだが、
 このお二人はゴルフ・コンペZ1会の方で配布されるのである。

 もう定年になって20年にもなるのに、
 『いろんな方たちとのお付き合い』が続いているのは幸せなことである。
 
 
 

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継続は力なり  その2 運動

2020-11-08 06:26:39 | 私の生き方、考え方&意見

★子供の頃から『体を動かす』のは好きだった。
 
好きこそものの上手なれ』と言うが『体を動かすこと』は得意だった。

小学校時代は走りも早かったし、相撲も強かった。
戦後日本に戻ってからは、日本国中野球が盛んで中学校から大学まで『野球に熱中』した。

ただ確かに続いてはいたが『継続』という意識はなかったのである。
社会人になってからは、『草野球』などはやっていたが、そのうちにさっぱり運動はしなってしまった。

体を動かす』のは40代に始めたゴルフぐらいで、50代以降は『会社の仕事』が忙しくてというより自分で勝手に忙しくして、

60代後半は『身体の状態は最悪』の状況だったのである。



★定年を迎えた『68歳の頃』は膝や腰が痛くて、ずっとマッサージや整形外科に通い詰めていたのである。

そんなある日、整形外科の先生に『こんな電気治療などして治りますか?』と聞いたら、

治らないね。時間が出来たのだから、ストレッチでもしたら
筋肉は何歳になっても付くから』と仰るのである。

 この一言で、私の『毎日の生活』が一変したのである。
 その『ストレッチ』は『もう17年』も続いている。

 

★ 昨日は『継続するもの』として『日記』のことを書いたが、それに続くものが『ストレッチ』なのかなと思う。

ストレッチ』をやり始めて感じたのは『結構な時間』が掛かるのである。
整形外科の先生が『時間が出来たのだから』と言われた意味がよく解った。
 
 私の『ストレッチ』は朝目覚めた布団の上でやってるのだが、
 最初は確か30分ぐらいだったのだと思うが、それが『40分』になり今は『50分から1時間近く』にもなっている。


ストレッチと言えば『イチロー』が試合前に2時間近くもやるのが有名だが、
ホントに、結構時間が掛かるのである。


 

 

1日に1ミリ伸ばせば、1年には36cm伸びる』と
整形外科の先生は言われたのだが、とてもそんなには伸びないが、

17年も続けたら36㎝ぐらいは伸びて、イチローと同じぐらいの体勢はとれるのである。

まさに『継続は力なり』なのである。


 





★ これが79歳の時、三木市の『体力測定』の記録である。
  ストレッチのお陰で『柔軟性=20歳』と出て
  『体力年齢=42.8歳』と出たのである。



   


 これに気を良くして、
 この頃から『50メートルダッシュ』を始めたりしている。
 はじめは上手く走れなかったが、この年になっても年々上手く走れるようになって
 『ホントか?』と思われるかも知れぬが今が一番上手く速く走れている


 これが85歳の時の『体力測定』だが
 『体力年齢=53歳』と出て柔軟性に加えて敏捷性5点満点なのである。


  


 
 この頃から『ジム・トレーニング』を新たに加えたし、
 『スロー・ジョッギング』もやり出した。
 最初は15分ほどしか続けて走れなかったが、
 それが30分になり、今は1時間は走れるようになっている。

継続期間は短い』がやりかけたものは、みんな続いている。

 今年は、コロナで『体力測定』はなかったのだが
 もしやってたら、『50歳台前半』は自信があったのだが、残念である。

  


こんな『環境』と『有り余る時間』が私の『運動の継続』支えてくれている。

もう一つは『継続の意志』なのだろうが、
これは『やりかけたら続く』そんな性格なので大丈夫だと思っている。



 
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継続は力なり  その1  日記

2020-11-07 07:07:11 | 私の生き方、考え方&意見

★『継続は力なり』とは言うがホントにそうかも知れない。

 87年生きてきて、『私の周囲』には継続出来てるものが結構ある。
 そんなにムツカシイことの継続は出来ないが、
 簡単なことを努力で継続出来ているものばかりではある。

 まず、一番長く続いているのが『日記』なのである。
    毎日書いていたら、こんなに沢山になってしまった。


 



書き出したのが大学2回生の昭和28年(1953)11月9日だから、
もう67年続いている

 突然書き出したのは、11月8日の朝日新聞に
 『蒋介石が30年間日記を付けてい』のが立派だとあったので、
 『日記を書くぐらいなら自分にも出来る』と翌日から書き出しているのであ
る。

 11月だったので、日記帳など買わずにこんな大学ノートで始めている。


  



 その第1日目にこのように書いている。


  


 そのまま転記してみると

『平安の昔より十六夜・かげろう・紫式部日記と日記も上の部類では文学として1000年の年代を経て現在に残っている。そのような部類のものにしようとは毛頭考えてないのだが、ただ単なる青春の想い出として後々には自分の脳裏から消え失せてしまうであろう些細な日々の出来事を、大袈裟に言えば思想というものをつたない筆ではあるが記していこうと思うのである。
 日記というものを自分で記そうと思ったのはこれが初めてである。
 そして生まれて初めての日記の書き出しが肺浸潤という病気に悩まされている日々であることは思っても不幸極まりないことである。
 日記とは読んで字のごとく日々の記である。このようなものは少なくとも後に自分の考えなり行動なりを残そうとする意志表示である。健康な時には日記など見向きもしなかった代物である。
 十日ほど寝たというだけで、日記を記そうという気持ちになるのはどういう意味を持つのだろう?
 人生五十年という短いとされている期間をさらに短縮されるかも知れないという人の弱い気持ちから出ているのだろうか?
一日の手持無沙汰からかも知れない。まあとにもかくにも悪いことではなさそうである。世に名の聞こえた人々も多く記していることではあるし。
 いつまで続くかが問題である。これから先一生続いたら大したものである。
 2,3日で止まってしまっても、またそれもよいだろう。
 身分相応に『あきしょう』の自分に最適な大学ノートによってその1頁を始めることとする。
 いついつまでも続くことを祈るや切である。』

 大学2年の秋のリーグ戦の途中から、何となく体が『けだるく』て、
 自分から医者に診てもらいに行ったら『肺浸潤』と診断されたのである。

 『10日間ほど寝てた』と書いてるが、一番落ち込んでた時期だと思う。
 『肺浸潤』にはなったが、その後は寝込んだりはせずに、ずっと野球を続けていたら、段々ひどくなって『肺結核』から更に『空洞』が出来たりしたのだが、会社に入社して3年目に入院したら1年で完治して、今まで生きている。

 そんなことで日記もそのまま続いているのである。


★大学ノートでスタートした日記だが。
 今では『5年連』の高価で立派なもので書いている。




 
定年後になってネットをやり出してから特に現役時代の昔のことを書く際には
本当に重宝しているのである。
人間の記憶力』が如何に『いい加減』なものであることを思い知らされる
ことが何度もあった。 
どうも自分の『都合のいいように』覚えているので、事実と違うことが多いのである。

 
★ ちょうど20歳の時から書き始めて

 これは29歳の時、この年の12月21日に結婚しているのだが、
 この年の日記を先日読み返してみた。
 会社の仕事も『めちゃ忙しかった』年なのだが、
 『家内との付き合い』にも相当の時間を割いている。
 
なぜ12月21日などと言う年末の押し詰まった日に結婚式を挙げたのかというと、会社の仕事が忙しくて、とても10日間も休むことなど『考えられなかった』のだが、ほぼ1年も終わってやっとこの日には何とかなったのである。

  これがその年の日記帳である。


  

 

 若し、日記がなかったら、この年のことなどこんなに詳細には思い出せないだろう。 そういう意味でも日記はなかなかいい。
 書いてるときは、単に書いているだけなのだが、後になって役立つこともある。


★ 今からも『生きてる限り』日記は続くかも知れない。
  今の日記帳は来年まで、米寿の年(88歳)までは大丈夫だが、
  来年の秋には、また『5年連続の当用日記』を買うことになるのだろう。

  それから5年と言えば、『93歳まで
  自分の感じとしてはこれくらいまでは大丈夫だろうと思う。

  『蒋介石』は『30年日記を書いて』褒めて貰っていたが、
  私は誰も『褒めてくれる』人がいないので、
  自分でこんなブログにアップして悦に入っているのである。

  日記に限らず『継続しているもの』は幾つもある。
  これは『私の趣味』なのかも知れない。

 
  
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