雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

スマホを買ってきた

2019-01-31 06:31:34 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★昨日は『新しいスマホ』を買ってきた。

 私個人が、自分の意思で、携帯やスマホを買ったのは今回が初めてである

 『ホントか?』と思われるか知らぬが『ホント』なのである。

 

      

 

 今まで、孫に2台目のスマホを買ってやった時に、下取りの電話機能のない『スマホの残骸』を、孫がInstagramの投稿に繋いでくれたのである。 

Instagramも含めて『電話機能以外のすべての機能』が無料で使えて重宝していたのだが『それが壊れて使えなく』なってしまったことが、今回スマホを買おうかと思ったきっかけなのである。 

 

 

  

 

 携帯電話も一応はこんな『ガラ携』を息子の嫁が家内に買ってくれたのがあったのだが、電話は1年に10回もしないというか使わないものだから、娘からは『勿体ないから処分したら』などと、言われていたのである。

今回『スマホの残骸』が壊れてしまったので、どうしようかなといろいろ考えたのだが、『まあ、一度新しいスマホ』でも買ってみるかと、新調したのである。

 

   

 

★ 『新しいスマホ』になったのだが、コレで電話をする気は毛頭ないし、電話機能としては従来通り全く使わないのだろうと思っている。 

現役時代から、一度も『携帯』は持ったことがないのである。『なぜ?』と言われたら、『携帯を持つ積極的なメリットを感じない』からである。現役最後の務めの頃は携帯も一般化していて、会社からも持つように勧められたけど、それを断っていたのである。

今の世の中、幾ら『スピード化』などと言っても『一刻を争うようなことは皆無』と言っていいし、当時も今も『携帯で喋っている』ことの殆どが『今でなければいけない』ようなことは皆無で、殆どがどうでもいいようなことばかりのような気がするのである。

 私自身は普通の方よりは『仕事のスピード』も含めて、何事もすることは『早い』ほうだが、携帯で話す内容を聞いていると、それを持つことが逆に『私の仕事のやり方をデイスターブする結果』になってしまうように思うのである。

こちらから連絡することは兎も角『掛かってくる電話』がもう一つで、家の電話の場合は喋りたくないときは『留守電』にしておけば邪魔されたりはしないし、家の電話でも掛かってくる電話の半分以上はどうでもいい電話が多いのである。

 

★それは兎も角、今回『新しいスマホ』を買った一番大きな理由は『スマホ』がないとInstagram をやることが不可能なのである。 

パソコンからでも何とかなるのだろうが、それはムツカシ過ぎて、スマホとパソコンを連動させる方法を孫が教えてくれたのである。

 これが私のパソコンのInstagram、最近はスマホが壊れてしまったので投稿が途切れてしまっているのである。

  https://www.instagram.com/rfuruya2/?hl=ja

     

 

Instagram を続けるために『新しく』スマホを買ったみたいなところがあって、勿体ないので『Instagram を止めるか』とも思ったのだが、カメラや動画の機能もあるし、いろんなアプリもいいのがあるかも知れないので『試してみるか』というのが正直な気持ちなのである。

 新しいものは『セッテング』が大変で、技術オンチの私が最も苦手とする分野なのである。

 昨日の午後はそのセッテングが大変で、まずはWi Fiの機能を繋がぬとイケナイと聞いて、それは何とかクリアした。

 写真や動画をパソコンに取り入れるやり方を何とかGoogle 検索でクリアできたのである。

 こちらは、新しいスマホでドコモで撮ってきた写真だが、逆に何とかパソコンに取り入れることができたのである。

 

  

  

 

肝心のInstagram への繋ぎも何とかなったし、Facebook も、ツイッターも、何とかなったが、具体的にパソコンよりも何がメリットなのかがよく解っていないのである。

 

★買おうと思った理由の一つは『対応して頂いたお嬢さん』がホントにテキパキしていて、私のややこしい質問にも的確に対応して頂いて、久しぶりに仕事をしたような気分になったからかも知れない。

電話機能はそんなにMUST条件でもないので、スマホの他の機能が使えるようになったら『スマホの電話機能は止めて』無料のスマホの残骸で十分とも思っていたのだが、いまは1年間は兎に角スマホを持っていて何かいい機能があれば、『さらに持とう』と思っているし、今までと一緒なら手放して『電話機能のないスマホ』を持つことにしようと思っているのが本音なのである。

それなら、中古のスマホを買ったり、他の方法もありますよ』とも言って頂いたのだが、そんなに高額なものでもないし、年寄りも幾らかでも経済に貢献すべきだと思っているので、ドコモで購入することにしたのである。

手放す時期』は、月々の支払いがちょっと高くなる前の『来年の2月』をリコメンド頂いているので、この1年周囲の方たちのご意見も聞いて、スマホを楽しんでみたいと思っているのである。

 果たして、どんなことになるのだろうか?

 

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西神医療センターに行ってきた 雑感

2019-01-30 06:22:37 | 私の生き方、考え方&意見

★昨日は西神医療センターに行ってきた。

 特にどうということはないのだが、首の後ろにあざというか、皮膚がカサカサした丸いものが出来ていて、首の後ろなので自分では見ることが困難なのである。痛くもかゆくもないのだが、昨秋皮膚科に水虫の治療に行った時に、最初の病院では、それを観るなり「これは治りませんね」と言われたのである。 

それで別に気にはしていなかったのだが、昨年の9月のことだが、ほかの病院に行く機会があって、そこの先生に観て貰ったときに『これは治りませんね』と言われたと言ったら、治るかも知れないと『ぬり薬と飲み薬』を出して頂いて飲んでみたのだが、やはり治らないのである。

水虫の薬も切れたので、先週その皮膚科に行ったら先生が『ちょっと大きい病院で診て貰ったら』と紹介状を書いて頂いたので、西神の医療センターに行ってきたのである。

 時間はいっぱいあるので、どんな用件でも『予定』が入るほうがいいような気がする、そんな生活なのである。

 

★西神に行くのも久しぶりだし、西神医療センターにはずっと昔行ったことはあるのだが、新しく初診窓口からスタートしたのである。

西神医療センターは、西神の中心街にあるこんな病院である。

 

  

 

 久しぶりだったし、診療カードも見つからなかったので、『初診です』と受付で言ったら、ちょっと調べて『以前に来られてますね』と仰るのである。

最近のネットはなんでも記録が残っている。

 

 

 

改めて『新しい診療カードを再発行しましょう』と言われて、保険証をお渡ししたのだが、『錬太郎の錬の字がムツカシイくて』その漢字がないので『レン』とカタカナでいいですか?と仰るのである。

 いろんな病院の診察券を持っているが、こんなことを言われたのは初めてなのである。

 改めて保険証の名前をよく見ると『錬の字』が戸籍通りの旧い字になっているのである。

 私の『錬太郎』は自分でも面倒なので金へんに東と書くのだが、戸籍の『錬』は東が『てんてん』なのである。

 

   

 

診察券の名前の『レン』がカタカナでもそんなに問題ないので、『いいですよ』と言ったのだが、こんなこと言われたのは初めてで、以前持ってた西神医療センターの診察券も多分、金へんに東の『』だったはずである。

 こんな細かいことに『なぜ、拘るのかな?』と不思議に思ったのである。

 たかが診察券だが、保険証の字と違っていてはダメで、『正確を期す』のだろうか?

 

 ★大きな病院は、混むかなと思って9時からなのだが10分前には病院に着いたのだが、既に『受付』はやっていた。

 そのあと『皮膚科』に行ったら、9時15分には呼ばれたのである。そして丁寧な先生の診察を受けて、2月4日に予約を取って「皮膚をとって」それを「検査する」と仰るのである。

ただそれだけのことなのに、同意書などの仰々しい書類にサインして、それを2月4日に持ってもう一度と仰るのである。

 最近は、何か細かいことに拘り過ぎると思うが、大きな病院でもいろんなことが起こって裁判などになったりするので『慎重すぎる』対応になってしまうのだろう。患者の側もすぐ文句を言ったり裁判にしたりするので、対応がどんどん細かくなってしまうのである。

診察が終わって、そのあと別の場所で『血液採取』をしてお帰り下さいというのである。

 

 

 

血液採取が、9時40分だったから、大病院でも結構早かったのである。

機能別に流れ作業になっていて、工場のような感じである。

最後の支払いも、すべてこんな器械で自動なのである。

 

  

 

 完全自働かと思ったら、そこには案内係の女性が二人もいて、いろんなお世話をしているのだが、こんなのはやり過ぎだなと思った。

 そういえば、皮膚科の窓口だけで8人もの女性がいたのである。

 これは、『みんな医療費にはね返っている』のである。 今回の支払いは1800円だった。1割負担だから18000円なのである。

 

★日本の社会も、ホントに『自己責任』という感覚がなくて、『もし何かあったら』と自分を守ってしまうので、どんどん『無駄なお金』が掛かってしまうような気がする。

 出かける前に『そんなの大丈夫よ』と家内に言われたが、それが正解かも知れないのである。

そういう意味では、一番最初に診て頂いた先生が、ちょっと見ただけで『これは治りませんね』と仰ったのが正解なのだろう。ホントにぶっきらぼうに言われたのだが、『放っておいても大丈夫』ということなのだろう。

 『痛くもかゆくもない』のだから、医者に紹介状など書かれても、自分の判断で西神医療センターなどには行かなかったらよかったのかも知れないのである。

 政治の世界など見ていても、マスコミなども、みんな大したことがないことを『大変だ、大変だ』とあおって『他人に責任を押し付ける』態度は、ホントにいい加減にしなければと思うのである。

 いま、読んでいる「ファクトフルネス」はそんな真実を見る目がなくて、世の中のトップレベルの人たちの知識や、判断が間違っていると言っているのである。そいう言う意味では「世界的な傾向」かも知れない。

 いろんなことを考えたのである。

 

 

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今年のヴィッセル神戸は期待できるかな

2019-01-29 07:05:08 | スポーツ

★私はスポーツは好きだが、野球でもサッカーでも個人的に好きな選手はいるのだが、チームに対しては『熱烈なファン』にはどうしてもなれなくて、ヨコから冷静に眺めてるスタイルなのだが、それでも「好きなチーム」はある。

サッカーで言えば、ヴィッセル神戸も、ガンバ大阪も、セレッソも好きだし、仙台も札幌もいい。 それぞれ何か関係があるから、熱烈ではなくても何となく好きになるのだろう。仙台とか札幌は昔そこに住んでいたことがあるという単純な理由だけである。

 そんななかで、『ヴィッセル神戸』はもっと熱烈であってもいいくらい その理由は揃っている

 ガンバも、ヴィッセルも、かって息子と一緒にやったこともある和田や長島がいたので何となく応援してたのだが、

ヴィッセルははじめはノーリツがスポンサーだったのだが、今では Kawasaki がスポンサーとなったし、オーナーの三木谷さんは、会ったこともないが明石高校の後輩なのである。 

 

 そんな『ヴィッセル神戸』が昨年イニエスタが入団して以来、俄然、話題がいっぱいなのである。

     

 

イニエスタが入団するまでは、いつも満員にはならなかったので、川崎重工業から毎回無料の入場券の申し込み受付があったのだが、最近はそれがなくなってしまったのである。

 

     

 

   さらに、ビジャ選手も入って、ポドルスキ選手と3人も世界最高のスターを揃えることになったのである。

  山口蛍も入ったし、ヴィッセル神戸は一躍スター軍団になったと言っていい。

 

 ★そんな『ヴィッセル神戸』だが、今カリフォルニアのIrvine で春のキャンプを張っているらしい。

 昨日娘婿が、Facebook にこんな写真をアップしたのである。

 これはIrvine のオレンジ・グレート・パークのサッカー練習場である。

   

   

   

    

 

  広大な空軍の飛行場跡を2年ほど前から、サッカー場や野球場にしている途中なのだが、途中と言っても完成したサッカー場や野球場は、こんなにあって見事である。

 ちょっと日本では、考えられないような規模で、孫の末弟の入っているStrikers FC の練習場がここだから、昨秋2ヶ月ほど遊びに行ってた時は、私も毎日のように観に行ってた懐かしい場所なのである。

    

 

  ヴィッセル神戸の、ホーム・ページにも、こんな紹介が載っていた。

  やはり、イニエスタ・ビジャ・ポドルスキの3人は、大人気のようである。

  2月まで滞在して、何試合か試合も組まれてるようである。

 

   

 

 同じ場所なのだが、これは孫のチームStrikers FC の練習風景なのである。

 

     

    夕方5時から7時まで、2時間の練習なのである。

     

 

 

   孫の末弟は、小さい頃から超有名人と一緒に写真を撮ってるので、今回、ヴィッセル神戸のスターと写真でも撮れたrいいのだが・・・

   これは、前アメリカ代表監督、クリンスマンさんと

     

     

     これは日本に遊びに来たとき、ヴィッセル神戸の練習に参加させてもらって、

     

 

  そして、これはこの『オレンジ・グレート・パークのサッカースタジアム』のこけら落としの試合に出場したのだが、その時たまたま、ここにやってきてた本田佳祐さんと、去年の春のことである。

      

 

    ベッカムと写っているのは、末弟ではなく次男だが、

   この辺りには、ホントに超有名人が現われることが多いのである。

     

 

   イニエスタと『ツーショット』で写せたらいいなと思うが・・・

   そんなことになったら、『ヴィッセル神戸の熱烈なファン』になるかも知れない。

 

 

   Irvine のグレートパークでのキャンプは、2月5日まで、まだチャンスはあるのだが・・・・

 

    

 

   

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春は 未だかいな

2019-01-28 07:26:43 | 日常生活、園芸、バラ

★ 昨日は、この辺りも雪が舞って寒かったのだが、今日は午後からは陽もさして暖かい。

 

   

 写真に撮っても、雪が写るぐらいにのこの辺りにしては、珍しい雪だったのである。

 動画にして、Facebook にアップしたら、カリフォルニアの孫から『いいね』が来たりした。

 あちらでは、雪など降ることは間違ってもないのだろう。

 

 今日は、日曜日。 日曜日は休息日だと決めている。

 毎日が、休みみたいなものだが、日曜以外は午前中はジムに行くことにしているのである。

 あまり、暖かいので春の気配でもないかと庭に降りてみた。

 わずかながらだが、その気配のようなものは感じる。

 

 木に春と書いて、「椿」である。

  椿の蕾も、膨らみかけたと言ってもいいかも知れない。

 

     

 

     

 

 

  これも春の花、梅は蕾が赤く見える。

     

 

  馬酔木は、いっぱいの蕾をつけている。

  これは結構早い時期に咲く。一斉に黄色い花を咲かせる。

 

     

 

   ひいらぎ南天は、少しだが花開いていた。

     

 

  ホントかどうかは知らぬが、春は黄色い花から咲くという。

 そういえば、菜の花は黄色である。

 もう少しで、春なのかも知れない。

 今日は1月27日なのである。

 

   

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私が入社したころの川﨑航空機という会社   その2

2019-01-27 05:51:30 | カワサキ単車の昔話

川﨑航空機という会社が再開されたのは昭和27年(1952)だが、昭和44年(1969)に、川﨑重工業・川﨑車輌・川﨑航空機の3社が合併して『川﨑重工業』となるまでの17年間存続するのだが、振り返ってみてもなかなかオモシロい『いい会社』であったように思うのである。

 戦後の中断があって、分散していた会社が統合したこともあって、大企業という重たい感じは殆どなくて、上の方たちに対しても自由に『モノが言える雰囲気』があったように思うのである。

  当時は小型エンジンや歯車ミッションなどを扱っている発動機部門と、米空軍のジェットエンジンのオーバーホール工場の2部門が中心だったのだが、そのほかに化繊機械やロボットなどの新しい分野も手掛けていたのである。

 当時は、二輪の他にも『四輪』もやろうかという案もあって、私より一期下の稲村暁一さんは、入社してすぐその4輪のエンジンを担当していたようである。 当時は二輪のエンジンはホンダ以外はみんな2サイクルだったのだが、この『4輪のエンジン』が4サイクルエンジンだったようで、後、Z1の4サイクルエンジン開発を担当するのである。

   

 

 

★発動機営業部門の中の小さな「一部門」として単車営業がスタートし、それを新人の私が担当したのだが、その範囲は従来の発動機のエンジンを受注先に販売するというような簡単なものではなくて、企画・管理・営業・品証・広告宣伝などという機能が必要で、従来の営業部門とは全く異なる広範囲なもので、それは大変なことだったのだが、新人ながら5人ほどの部下を持ってこなしていったのである。無茶苦茶忙しかったし、上司の課長・部長も勿論おられたのだが、全く新しい仕事なので、何の経験もお持ちではなく、すべて私に『丸投げ』の状態だったのである。会社の中でのボーナスの評価なども『君には100点をつけてやる』と上司の方が『仰るほど』頑張っていたのである。

 ただその当時の単車は、エンジンはまずまずだったのだが、車体は未経験の分野で最初の125ccB7は車体の欠陥でどんどん返品されて大変だったのである。

 

     

 

そんなこともあって昭和38年(1963)には、『この事業を続けるべきかどうか』を当時の本社が日本能率協会に大がかりな調査を依頼していたのだが、この年の5月19日の青野ヶ原モトクロスでの圧倒的な勝利もあって職場の意気は上がっていたし、日能は『この事業続けるべし』という結論を出すことになるのである。

 B7の後、この年に出たB8の評判がなかなかよくて、それも日能の判断のひとつになったのだと思う。

 

     

 

★昭和39年(1964)には単車事業本部ができて、『単車再建・単車優先・発動機緊縮』という基本方針が発表され、企画室と発動機営業からの一部が分離され単車に異動することになるのである。この時点で日本能率協会が『二輪事業継続の条件』の中に『広告宣伝課の設置』という項目があって、その広告宣伝課を私が担当することになり、2月1日に私は発動機から単車・広告宣伝課に移籍することになるのである。

この当時の推移はこの通りなのだが、発動機事業部の管理・営業部門の上の人たちの想いは、いろいろと複雑だったようである。

かっては、発動機のエンジンをメイハツ工業に販売していただけだったのが『二輪車の一貫工場を造り』営業部門には営業課を造ったのだが、それがどんどん変化して親と子が入れ替わったような感じになり何となく『オモシロくなかった』というのは私にはよく解るのである。特に技術関係の方は、ジェット部門から来られた方も多くて、その後何年間は、何となく単車と発動機は『しっくりいかない』期間が続くのである。

そして、この広告宣伝課には年間1億2000万円の予算が3年間、本社開発費から支給されて、そんな規模での運営を任されるのである。今の時代でも1億2000万円は大きいが、当時の年収が50万円程度の時代であったから、今の金額にすると10億円にも相当するのである。そんな大きな予算を持っている『広告宣伝課』を広告代理店が放っておく訳はなく、電通・博報堂・大広などの広告代理店の本社スタッフが担当されての展開になるのである。私も初めての経験であったが、立ち上がりの数か月をカワサキ自販の小野田滋郎課長にいろいろと援けて頂いたし、この3年間は広告代理店の本社スタッフとお付き合いをさせて頂いて、私としても思わぬ勉強になったのである。

★この広告宣伝課初年度は、ホントに華々しい活動が続いて、4月にはオートバイニュースを発行、全国の販売店に送り届けて好評だったし、中古のヘリコプターを購入して全国各地で『ヘリの搭乗イベント』なども行い、日活とのタイアップでバイクを提供したり、8月には当時の人気テレビの30分番組「源平芸能合戦」に川﨑航空機として出場し三洋電機と対戦したりしたのである。

 https://www.google.co.jp/search?source=hp&ei=qtJMXNyBAtXmwQPBibSIBA&q=%E6%BA%90%E5%B9%B3%E8%8A%B8%E8%83%BD%E5%90%88%E6%88%A6&oq=%E6%BA%90%E5%B9%B3%E8%8A%B8%E8%83%BD&gs_l=psy-ab.1.0.0.2855.10061..12762...0.0..0.190.1265.16j1......0....1..gws-wiz.....0..0i131j0i131i4j0i4j0i4i37j0i4i10i37j38.OgsQsUICDys

           

この番組出場に当たっては、本社の岩城常務が積極的に応援をして頂いて、本社も、岐阜工場も含めての大イベントとなり、応援団も結成しての熱の入ったものになったのである。この応援団には田崎雅元さんら製造部が熱心に絡んでくれたりして、その本番は8月22日大阪のABCホールに出場者並びに応援者がバスを仕立てて出演し、当時のこの番組出演の評価点は90点代が普通であったのに、107:105点と三洋電機に負けはしたのだが、稀に見る高得点で、岩城常務からは全員に記念品を配れとの指示が出たほど、川﨑航空機社内が盛り上がったのである。

 レース関係も広告宣伝課が担当したのだが、この年の10月MCFAJの丸の山の全日本モトクロスにはカワサキが3種目に優勝し、その会場にも、ヘリコプターを帯同し、空から花束贈呈などをを行ったのである。

           

 

★この時代は単車事業の市場は国内市場に限られていて『実用車のカワサキ』の時代で、その主たる市場は東北や九州などで、東京・大阪などの大都会には全く売れていなかったのである。

それが昭和40年(1965)からは、アメリカ市場進出がスタートし、カワサキの二輪事業も新しい時代に入っていくのである。 この年の5月にはカワサキが初めて鈴鹿サーキットでロードレースに出場して、カワサキのレースチームに初めて大槻監督・田崎助監督が実現したり、7月には田崎雅元さんがアメリカ市場のサービス担当として、シカゴに駐在したりするのである。

 そのアメリカ市場では、カワサキだけが現地の単車通の優秀なアメリカ人スタッフを『現地主義』として採用し活用したこともあって、いろんなところにアメリカ人の知恵が入っているのである。

 特に当時カワサキにはエンジンのプロはいっぱいいたのだが、こと二輪車に関しては素人ばかりでそんなに詳し人はいなかったのである。それが逆に幸いして、当時のクルマの開発にも、アメリカ人の知恵が生かされたのではと思ったりするのである。

アメリカ市場ではメグロのW1なども通用しないことが解って、アメリカ市場向けに最初に開発されたマシンが250A1なのである。

 

 

    

 

  続いてマッハⅢ

            

   350SSなどと続くのだが、この時期の二輪車のスタイリングを、カワサキはリードしたと言っていい。

 

            

 

確かに、最後のスタイルに纏めたのは、デザインルームであることは間違いないのだが、そこにある新しい発想は、私は『アメリカ人の発想』だなと思っているのである。

 当時のカワサキの人たちは、そんなにバイクには詳しくなかったのだが、KMCのアメリカ人達は『二輪大好きのマニア』が揃っていたのである。

 これらの『スタイリング』で私が気付いているのはこんなことなのである。

● 従来メッキ仕上げだったタンクを赤いカラーにしたのはA1が初めてなのである。

● タンクマークをとって、Kawasaki というロゴにして、ニーグリップをとってしまったのはマッハⅢが初めてである。

● そしてシートの後ろに、弁当箱みたいなをつけたのは350ssが初めてなのである。

 こんなスタイリングの先進性は、その後のバイクスタイルの主流となっていったように思っている。

 

 当時の川﨑航空機はそんな進取の気性みたいなものがあった企業だったなと思っているのである。

 アメリカKMCの旗を振られたのは、私より3年程上の未だ係長時代の浜脇洋二さんだったし、私も、田崎さんも未だ係長にもなっていない時代なのだが、私が昭和32年、田崎さんが33年の入社なのだが、この時期尤も先端で活躍した年次の人は大量採用された昭和35年度の人たちが多かった、そんな時代なのである。A1の開発に現地を走りまわたのは百合草三佐雄さんだし、有名な種子島経さんも35年なのである。

いろんな分野で、若い人たちが先頭に立って活躍したし、それを許してくれる『雰囲気』が会社の中にあったのは確かなのである。

 

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ミシュランの会長がルノーの会長になった

2019-01-26 07:32:37 | カワサキ単車の昔話

★『ミシュランの会長がルノーの会長になった』というニュースが流れた。

        

 

今の時代『ミシュラン』を知らない方などおられないと思うが、今から50年以上も前の1960年代に『ミシュラン』を知ってた日本人は少なかったのではと思う。

そんな頃の『ミシュランの話』をちょっと。

 その頃、私はカワサキで二論レースに関係していて、特にロードレースでは「タイヤの性能」がタイムに直接関係することをよく知っていたのである。

今では『日本のブリジストンも、ダンロップも』世界有数のタイやメーカーになっていて、その性能も間違いなく『世界のトップレベル』であることは間違いないのだが、1960年代には日本のタイヤではタイムが出なくて、カワサキなどは『英国ダンロップ』を使っていたし、フランスのミシュランもその名前が挙がっていたのである。

その頃は、ブリジストンも小型のオートバイを作っていて、ロードレースなどでも速かったのだが、1965年の鈴鹿日本GP』には50ccクラスにBSも出場したのだが、その時使ったタイヤは『ブリジストン』ではなくて、タイヤメーカーの名前は削られていたのだが、海外のメーカーのものを使ったはずなのである。

そんなこともあって、私は『英国ダンロップ』にも『ミシュラン』にもそれなりの関心は持っていたのである。

 

★今は『ミシュラン・ガイド』なども日本に上陸して、その名前は殆どの人たちが『ミシュラン』を知っているのだが、『ミシュランガイド』が日本に上陸したには2007年のことだそうで、未だ20年しか経っていないのである。

 私はレース関連を1966年に卒業して、67年度からは仙台事務所で東北6県の代理店担当となり、車で東北6県を走り回る営業になったのだが、その時乗っていた『カローラ・バン』には『ミシュランのラジアルタイヤ』を履いていて、冬季もでスノータイヤなどではなく、そのまま走行していたのである。

当時のミシュランのラジアルでも、それくらいの走行性能はあったのである。

 

      

 

なぜ、そんなことを❓ と思われるかも知れぬが、ミシュランタイヤが日本に上陸したのは、次のように書かれているのである。

ミシュランの日本での本格的なタイヤ販売事業は1964年に始まる。当初は自動車用タイヤの販売はなく、東京モノレールの車両用のみだった。翌1965年から三井物産が日本代理店となって自動車用タイヤの販売を本格的に開始し 1975年に日本ミシュランタイヤ株式会社が設立された。』のである。

 

当時の福島県のカワサキの代理店の福島オート商会が、そのミシュランの代理店もやっていて、福島オートの中西社長に頼まれて『ミシュランタイヤ』の実走行の感想を報告する役目も果たしていたのである。

 レースチームから営業に転じたばかりで『クルマの運転』にはかぶれていたし、『ヒール&トウ』など変速機のあった時代の『レース走行テクニック』などを楽しんでいたのである。

そんなことで冬場の雪道も、日本のスノーではなく、ミシュランで走っていたのだが、それは十分に通用する性能だったのである。

 『ミシュラン』など未だ殆どの人が、知らない時代だったが、関西までその車で出張してきたときに、神戸でスポーツカーに乗った方に『そのミシュランをどこで買われましたか?』と質問されたりしてビックリしたのを思い出す。

 普通には、ミシュランなど買おうにも買えなかった時代だったのだと思う。

 

★それから50年経った今は、 タイやよりはミシュランガイドのほうが有名かも知れぬが、今回の日産問題で世の中を騒がしているカルロスゴーンさんに代わって、ルノーは24日の取締役会で、仏タイヤ大手ミシュランのジャンドミニク・スナールCEOを会長とする新経営体制を決めることになったようである。

 いま、日産のタイヤが何を使っているのか知らないが、そのうち「ミシュラン」も使うことになるのだろうか?

 久しぶりに『ミシュラン・タイヤ』のことを懐かしく思い出したのである。

 

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高知商業野球部の処分問題  

2019-01-25 14:44:47 | 発想$感想

 ★Yahoo の意識調査にこんなのがあった。

        

 

その結果はこんな感じで、『処分は必要ない』と『処分は重過ぎる』が圧倒的である。

 

           

 

 スポーツ庁の鈴木長官も「もう少し寛容でも・・・」と言われていて、ネットの世界でもいろんな意見があるようだが、殆どがその処分に反対のようである。 そのコメントにも『個人的には・・』という言葉が入っている。

 

    

 

★どんな内容かなと、調べてみると、

高知商業高校の野球部が参加した「有料ショー」とは、昨年12月17日、同校のダンス同好会が企画・主催したもので「部員68人と卒業生が、ジャズやヒップホップ26曲を披露し会場を大いに盛り上がったようだが、入場料は500円、文化祭のステージをより本格的にしたイベントであり、商業目的でないことは明らかだ

このショーの一幕に、甲子園にチアガールとして応援に駆けつけてくれたダンス部へのお礼として野球部を引退した3年生がゲスト出演。ユニフォームを身につけて、甲子園の再現パフォーマンスなどを行っていたという。当日、会場の県民文化ホール・オレンジホールには1200人が来場。盛況だったようである。

 しかし日本高野連は、これが日本学生野球憲章の第2条の「学生野球は、学生野球、野球部または部員を政治的あるいは商業的に利用しない」などに違反するとみなし、高知県高野連の報告を受けて、日本高野連は1月16日の定例会合で、高知商業高校硬式野球部部長を「有期の謹慎処分」とする処分案を決定した。

 というものである。

 いろんなネットで、いろいろ言われているので、『これはどのように決着を図るのか? 既にその方向が決まったのか?』ちょっと聞いてみようと、高野連に電話してみたら、電話口に出た『お嬢さん?』がなかなか対応がよかったので、10分ほど和やかに話していたのだが、いろんなことが解ったのである。

 

★処分を決めたのは高野連なのだが、問題が大きくなってきたので、来る2月1日に、弁護士や世の識者も入れての日本学生野球協会の審査室会議で、処分を最終決定することになっているようだ。

 規定はあるし、高知県高野連からの報告からのスタートで、『処分すべし』という方も少数だがいるし、従来の『処分』との関連などもあって、ヨコから見てるよりは、なかなかムツカシイようなのである。

高知商業は2019年春の選抜の候補校になっているのだが、ダンスイベントに参加したのは部活を卒業した3年生だったこともあり、現役の1、2年生はおとがめなしで、監督も処分されない というのである。

 野球部長1人が『謹慎処分』ということであるらしい。

 

 私などは、結構『いい加減』なので『規定は、規定』などと、無視したい方なのだが、ちょっとでも抵触していると『何もしない』のも他との手前もあるのだと言われていた。

 然し、ネットの世界も大変である。

 私が『電話でもしてみようか』と思ったのも、『高野連の電話番号』というGoogleの検索ページがあって、大きく電話番号が載っているのである。 一時は多くの電話があって、『厳しく文句を言う人』ばかりだったから対応も大変だったようである。

 私は、至極和やかに話したので、先方の方もホッとしたのか、いろんなことを話して下さったのである。

 いろいろあったが、2月1日の結論は、『できればお咎めなし』になることを期待しているのである。

 

 今年の選抜高校の決定が、もう目の前なので、『忙しい』そうである。

 高知商業は、多分間違いなく出場するだろうし、『ダンス部』も甲子園のスタンドには現れるだろうから、いろいろ話題になることだけは間違いないのである。

 

 

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年齢や経験など関係ない できる奴は若くても出来る

2019-01-25 06:35:17 | 私の生き方、考え方&意見

 ★ 最近は、朝のうちはジムなどに行って結構忙しいのだが、午後からは時間がいっぱいあって、いろんなことを考えたり、ネットを観たりしているのだが、時間が余れば『パンダ碁』を打てば幾らでも『時間は消費』できるので、退屈したり、持て余したりすることは全くないのである。

ファクトフルネス』などという孫が勧めてくれた本なども読んでみて、これはコレで結構、オモシロかったのでいつかまた感想を纏めてみたいのだが、ごく最近の感想としては、『日本国紀』にも『ファクトフルネス』にも人の平均寿命のことがいろいろと書かれていて、日本は世界でまさにトップクラスの平均寿命を誇っていて、私など今年は86歳になるのだが、昔の人たちの寿命は短かくて、30歳で亡くなってしまった人たちも多いのである。

そんななかで、『人間は年と共に進歩するのだろうか?』というのが、今思っている感想なのである。

結論から言うと、『若くても、偉い奴は偉いし、年と共にそれが進歩するようなことはない』のではないかな? と思っているのである。

私自身を振り返ってみても、学生時代や30代に取り組んだことでも『大きな立派なこと』も沢山あったし、年齢を重ねて進歩したとも思えないのである。

 日本の社会のシステムが、まさに『年功序列』で、年を取らなければ『偉くさせないシステム』になっていて、若い人たちに『大きな仕事をさせない』ような仕組みにしてしまっているように思えてならないのである。

 

★スポーツの世界がそうであるように、ビジネスや政治の世界でも、『ホントは若い奴のほう』が『年寄りよりも鋭い』し、『発想もいい』し『いい仕事ができるのでは』と思ったりしているのである。

 なぜ、突然そんなことを、というのは、ごく最近孫・古谷仁がこんな『ツイート』を発信したのだが、はっきり言ってすぐには理解できなかったので、ネットでチェックしまくったのである。

 

   

 

 この『ツイッター』をご覧になって、すんなり理解できる年配者がどのくらいおられるのか?

 『若者フレーバー』も『ポストカマコンバレーコミユニテイー』も『PoliPoli』もよく解らなかったし、ネットで探しまくって何となく解ったのだが、Polipoliなど、無茶苦茶若いのに、博報堂や神奈川県庁などが放っておけないほどの存在感なのである。

ポストカマコンバレーコミユニテイー』とは、どうやら 古谷仁そのもののことを言っているようだし、

 

Polipoli』 は、こんなことらしい。

 

  

 

 代表者はこんなに若いし、役員も学生さんなのである。

 

   

 
 
    
 
 
 
 こんな polipoli を放っておけないのか
 
 『博報堂、ブロックチェーンスタートアップ企業のPoliPoliとトークンコミュニティ企画・インセンティブ設計領域で業務提携
 
 と業務提携したようだし、神奈川県とも連携しているようである。
 
 
    
 
  
 
知事さんと会うのに、こんな服装だが、服装には似合わず、そのMisson は『テクノロジーで国家システムを再構築する』と壮大なのである。
 
 
     
 
 
 
★果たして、成功するのかどうかは今からだが、日本の社会もやっと、自由に競争できる時代になったのかな? と思っている。
 
 能力があっても、大企業や官庁の旧い仕組みの中で、能力が発揮できない時代が、ずっと続いてたのだが、やっと何とかなる時代の幕開けかも知れない。
 
 ただ、私たちが生きてきた『カワサキの二輪事業』はかっては若い人たちが思う存分力を発揮できたのだが、それは会社にとって全く新しい事業であったからで、今は普通の大企業に戻ってしまった感がある。
 
 
こんな若者たち、孫も含めて、鎌倉で頑張って欲しいと思っている。
 
カマコンバレー』 は、勿論『シリコンバレー』をモジッテいるのである。
 
 
 年齢や経験など、大したことではない、『できる奴は若くても十分通用するのだ』と思っている。
 
 
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私が入社したころの川﨑航空機という会社 その1

2019-01-24 07:46:07 | カワサキワールド

★私は昭和32年(1957)に川﨑航空機工業という会社に入社した。

 川﨑航空機は戦前からあった会社なのだが、戦後軍事産業ということで中断があり、それまでは川﨑機械などという社名で高槻やなどいろんなところに分散していたのだが、昭和27年(1952)にやっと再開された会社なのである。

    

 

  今でもこんなに広いのだが、私が入社したころは、大袈裟に言うとこの2倍ぐらいあったのではなかろうか? 

戦時中は徴用工など何万人もの従業員がいて、工場の中の道がこんなに広いのは、これくらいの広さがないと朝の通勤時に従業員がスムースに歩けなかったのだというような話を聞いた。

 

     

 

 再開直後だったので、その経営は非常に苦しくて、爆撃で焼けた工場の鉄骨を売ったり、機械を売ったり、広かった土地を売ったりしていたのである。

 

 

★私が入社したころの昭和32年ごろからやっと本格的な新入社員を採用しだしたので、それまでの先輩たちの年次はその数も少なかったのだが、昭和32年以降は定期的に毎年多くの新入社員の採用があったのである。私の同期にはジェットスキーの開発に関わった藤川さんや村上さんがいたし、昭和33年には田崎雅元さんや、ZIのエンジン設計で有名な稲村暁一さん、昭和35年には単車事業をやるということもあったのだろう。百合草三佐雄、大前太、武本一郎、種子島経さんほか後の単車事業の中枢を担った人たちが大勢いたのである。

会社自体が再開されたばかりで、そんなにちゃんと整備されていたわけでもなくて、私が配属されたのは会社の財産物件を管理する『財産課』だったのだが、その管理台帳もちゃんとは整備されていないような状態だったのである。

戦前から明石工場はエンジン工場、岐阜工場が機体工場ということになっていて、再開後も明石工場はエンジン関係を、岐阜工場はバスの車体などを扱っていて、入社した当時は、東洋で唯一の米軍のジェットエンジンのオーバーホール工場部門と、小型エンジンや歯車ミッションなどを生産していて、ジェットエンジン部門は米軍が駐在していて、アメリカ式の生産管理システムや、管理体形はこの時代にIBM管理がなされていたのだが、ジェット以外の部門は井関農機の小型エンジンや歯車ミッションなど、エンジン関連をやっていたのだが、その中のひとつにメイハツ工業への単車のエンジン供給があったのである。

今から思うと、まだまだ貧しい時代で、私は財産課で工具器具備品という机や椅子などや車輌運搬具の自転車等を担当したのだが、当時は各末端ではそんな机や椅子や自転車なども、みんな欲しがって私は新人ながらその分配権を持っていたものだから、いろんな形で明石工場の各課の財産管理担当者を管理統括するような不思議な立場だったのである。 新しい机や、イスなどを今では考えられないような熱心さで欲しがったりするのである。自転車なども少なかったので、その配分権を持っていたので、大袈裟に言えば中央官庁のような職権を持っていたのである。

私の担当ではなかったが、土地や機械の売り食いもしばしばで、特に機械の売り食いは毎月定期的にあって、それは財産課の仕事のひとつでもあったのである。

初任給は12000円で、それも15日と月末の2回の分割支給だったのである。給与と言えば財産課の隣に給与係がいて、給与計算に女子社員がいっぱいいたのだが、その中の一人が『今の家内』なのである。配属されてすぐ『目についた』し、その年の夏には付き合い始めているので、家内とのお付き合いもそこから数えると、2019-1957=62 50年など優に超えて62年目になるのである。

 

★財産課というところは管理している財産物件の償却計算を毎期やらなければならないのだが、当時は考えられないことだが、ジェットエンジン部門などは通常1万円以上のものが財産物件なのだが、新規工場の場合は300円以上が財産物件に計上できるとあって、机も椅子も極端に言うとバケツもすだれも財産物件に計上されていて、償却計算する数は、財産課の中で私が一番多くて一年中手回しのタイガー計算機を回し続けていないと『償却計算』が完成しないのである。

 1年間、女子と二人でそんな償却計算をやっていたのだが、何とか機械化ができないかと2年目からはその機械化の検討に入り、ちょうどジェットエンジンのIBMがあったものだから、これが使えないかとその検討に入ったのである。

これは間違いなくできるのだが、そのためには『物品名のコード化』がMUST条件で、そのコード化に取り掛かったのだが、そんなことをした経験者は皆無ですべて自分でやらないと誰も教えてはくれないのである。IBM室にいた久森さんと二人で1年半ほど掛かって、川﨑航空機のジェット以外でのIBM化が完成したのである。

 IBM というシステムは、米軍がいたので川﨑航空機にだけあったシステムで、当時は日本にIBM社もない時代なのである。IBMが日本に入ってきたのは、約10年後の東京オリンピック以降のことなので、川﨑航空機の中でもジェットエンジン部門以外では使っていなかった時代なのである。そんな時代に償却計算のIBM化をやり出して、同じやるなら本社部門も岐阜工場もと手を広げたものだから大変だったのだが、多分この時代、IBMを使って民需の計算などやったのは、『日本で初めて』だったかも知れない。当時の川﨑航空機では「初めて』のことで、続いて「手形」や「給与計算」のIBM化が始まるのだが、その頃は新人ながら私は『先生役』を務めたりしたのである。

償却計算のIBM化が完成してしまうと、財産課で償却計算する課員など要らなくなって私は新しくできた単車の営業課に異動することになるのである。

 

★そんな新人社員時代だったので、結果的に私は上司から教えて貰ったことなど殆どなかったし、自分の思う通りのやり方で会社の仕事ができたのは非常に幸せだったのである。

 新しくできた単車の営業課も、この単車事業そのものが川﨑航空機にとってみると全く新しい事業で、エンジン開発や生産は兎も角、二輪車という完成商品は扱った経験もなく、ましてやそれを自ら売るということなど全くの未経験で当時のメイハツ工業や、メグロの人たちに頼ってのスタートだったのである。

 私が単車の営業に異動になったのも、『全く新しいこと』だが『アイツなら出来るかも』と思われたに違いないのである。

 発動機営業部の中に『単車営業課』ができると同時の異動だったのである。

そんなことだから、『引継ぎなど』は一切なくて、明石工場で生産されるオートバイを『カワサキ自動車販売』という新しくできた会社に売るという手続きからスタートしたのである。

その『カワサキ自動車販売』という会社は当時の川﨑航空機の土崎専務が社長を兼務されていて、当時は国内が唯一の市場だったから、カワサキの二輪事業は、カワサキ自販が明石工場を傘下に置いてその展開をしていたのである

当時は『トヨタ自販』が『トヨタ自工』を動かしていたそんな時代だったのである。

 『カワサキ自販のトップ』は川﨑航空機の専務だったのだが、そこにいる方は元メイハツや元メグロの方たちばかりで、私は新人ながら川﨑航空機籍だったので、カワサキ自販の方たちもそれなりに扱って頂いたのである。

 私自身が新しいことには興味があったし、当時のカワサキ自販の本社のあった神田岩本町にもしょっちゅう出張して、メイハツやメグロの方ともすぐ仲良くなったので、この当時の単車営業もなかなか面白かったのである。

 

       

 

★当時のカワサキ自販には小野田滋郎さんという、あのフィリッピンの小野田寛郎さんの弟さんがおられて総務課長兼広告宣伝課長として、カワサキ自販を統括されていて、私はこの小野田さんから、いろんな陸軍士官学校の戦略・戦術・戦闘論などを教わったりしたのだが、この方はホントに凄い方だった。後、フィリッピンの小野田寛郎さんの現地調査にも行かれたりするのだが、カワサキにおられたころも、小野田さんのお兄さんなら必ず「生きている」と私は信じて疑わなかったのである。

 この頃が昭和36年のことで、昭和35年に明石で単車の一貫生産工場がスタートしたのだが、それを受けて営業部門に単車営業が出来たのが昭和36年末、実際に動きかけたのは昭和37年(1962)からなのである。ただ、最初に生産した125B7は、車体に欠陥があって散々だったのである。私が営業に異動した昭和36年末には。B7の返却対策で大変だったのである。昭和37年1月度は生産台数より返却台数が多くて生産台数がマイナス17台と記録されたりしたのである。

 鈴鹿サーキットが完成したのが1962年9月で、11月にあった日本で初めての本格的ロードレースをカワサキの生産部門の人たちが見に行って、翌63年の5月に青野ヶ原モトクロスがあるのだが、このレースがカワサキの初のモトクロスレースと言われているのだが、このレースに出場したのは、125B8なのである。

 

       

 

実はもっと以前にカワサキ125B7で、モトクロスに出場しているのだが、そのチームを扱っていたのが小野田滋郎さんで、鈴鹿のロードレース250㏄優勝者の三橋実をヤマハから引っこ抜いて、厚木に『カワサキコンバット』を創ったのも小野田さんなのである。このカワサキコンバットから後、安良岡健や星野一義などが育つことになるのである。

 

 ★そして、この時期、ジェットエンジン部門の縮小があって、その関係でジェット部門から大勢の人たちが新しい単車事業部に移動してくるのである。

 髙橋鐵郎・大槻幸雄・田崎雅元さんたちなどなどはみんなジェットから単車に異動してきた人たちなのである。技術屋さんはその殆どがジェット部門からの異動だったのだが、事務屋関連は私が第1陣だったのだが、その後本社や勤労部門から当時の事務屋のトップレベルの人たちが異動してくるのである。

 そんな新しい単車事業部と、本来の親元だった発動機事業本部との関係などは次回に譲ることにする。

 

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保証人制度  雑感

2019-01-23 07:28:06 | 発想$感想

★私は元来、法律などは苦手だし、興味もないし、全く解っていないのだが、『保証人などにはなるなよ』と一般的によく言われていることぐらいは承知している。

ところで昨日孫から、就職するに当たり『保証人になって欲しいので、印鑑証明をとってくれますか?』という依頼があったのである。

 この『保証人になる』ことにいささかの問題もないのだが、会社に入るのに『保証人が要ったのか?』と思ったし、『私の現役時代の保証人は一体誰だったのだろう?』と思ったりしたのである。

 そんなことで、昨日は市役所に『印鑑証明』を貰いに行ったのだが、『印鑑証明』など最近は貰ったこともないので、実印だけ持って出掛けたら、『印鑑登録証』なるカードが要ると仰るのである。そんなものがあることは忘れてしまっていたし、もう一度家まで戻って探すのも大変だし、『再発行するには?』と聞いたら『300円が必要です』と仰るので、新しく再発行してもらって『印鑑証明1通300円』と合わせて600円払ってもらってきた。

家に戻って『印鑑登録証』なるものを探してみたら確かにあったので、それは廃棄することにしたのである。

 

★ところで入社の保証人だが、そんな制度が日本で普通に存在するのか? と閑に任せてネットで調べてみたら、日本の場合は「一般的」なようなのだが、これもどうやら「日本独特のシステム」のようで、あまり評価はよろしくないのである。

 昨今の外国人を雇用する場合には、この『保証人制度』が邪魔をすることもあるようなのである。

 こんなサイトも出てきたので、いろいろ読んでみると、親がなるのが普通だが、海外在住者の場合は、それもムツカシイとか

 孫の場合は大学の保証人も私がなっているのは、ひょっとしたら両親は海外なので、両親はなれないのかも知れない。

   https://shukatsu-mirai.com/archives/45266

 そんなことには関係なく、大学の保証人は娘に『頼まれたから保証人になったのだと思う。

 

   

 

★ 日本の場合は、このような保証人制度が『一般的』なようだが、世の中の殆どの問題に『自己責任』という姿勢が抜け落ちていて、すべてが『誰か他人に』その責任を押し付ける風潮があるようで、そんな風潮は必ずしも『いいとは言えない』と私は思っているのである。

 極端に言えば、日本では道のガードレールなども、道の至る所にあるのだが、クルマの先進国アメリカでは、ガードレールを見ることはムツカシイ。山道などのクルマの少ないところは、ガードレールなど見られないのはびっくりした。税金でガードレール代を負担させるよりは、夫々『自己責任』で注意すべきだというのだろう。

役所などの対応なども、役所は役所で、市民は市民でみんな他人にその責任を押し付ける対応になっていて、そのための税金の負担が結構多いように思うのだが、そんなところまでは考えないのである。

この会社の保証人制度も、会社の『自己責任』をどう考えているのか? 新入社員はちゃんと会社の就職試験を受けて入社していて、選んだのは会社で、保証人が頼んだわけではない。

入社するにはいろんな試験を受けたり、面接をして会社が『この人はイイ』という判断で入社を決めたはずである。その就職者が仮に問題であったとすれば、その会社が『人を見る目がなかった』という自己責任ではないのかな、と思ってしまうのである。

 

私が『保証人』として実印を捺印する文書の文面は以下の通りなのである。

 『この度、内定者が貴社に採用されるにあたり、私は身元保証人として諸規則を遵守し、誠実に勤務させることを保証いたします。つきましては、本人が諸規則を遵守せず、若しくは規則を乱し、故意または過失により貴社に金銭上はもちろん業務上信用上損害を被らしめた時は、本人にその責任を取らせると共に、身元保証人として本人と連帯し誠実に賠償の責任を負うことを誓約いたします。また、本人が職務、職位、勤務地を変更し、または退職後に発覚した場合であっても、同様に責任を負うものとします。・・・・
本保証期間は本保証書提出日より5 年間とします。期間満了時も本人が勤務を継続している時は、期間満了の際改めて本書を差し入れるものとします。』

 期間は5年間とある。5年が来たら再発行するのだという。ホントかなと思う。今年86歳になる私が、5年後まで『生きている』というう保証はないので、極めて『頼りない保証人』なのだが、会社としては兎に角『形だけは整えよう』とするのだろうか?

 例えば、会社の金を『使いこんだ場合』は、その賠償の責任を負うということのようだが、昨今の会社の使い込みの金額は、『億の単位』の場合が多いのだが、そんな額になるまで『気付かなかった』会社側の『管理体制の甘さ』などにはどのように思っているのかな?と思ってしまうのである。

 

★日本の企業も『外人労働者』を雇わないとやっていけないような世の中になりつつある現代で、こんな保証人制度に拘っていたのでは、企業自体もやっていけないのではなかろうか?

そんな時代だから、国もいろいろ動いている時代なのだから、日本ももうそろそろ『自己責任という発想』に転換していくべき時代だと思っている。

そんな私見とは別に、孫の保証人には『無条件で捺印』しようと思っている。大丈夫『ちゃんと育っている』という確信を持っているのである。

 

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神戸新聞 大橋凛太郎くんの取材を受けた

2019-01-22 06:35:18 | 発想$感想

★昨日は、『孫の門野真也』 のことで、神戸新聞の大橋記者の取材を受けた。

表題のほうは、『神戸新聞の大橋凜太郎くん』とわざわざ『くん付け』で書いてるのは「さん」よりは『くん』のほうが似合うと思ったし、初対面だったが、それくらい仲良く2時間ばかり雑談が出来たのである。

 何よりも、24歳という若さがいい。 

 孫の長男と同い年だが、よその子は孫と違って『しっかり』見えるから不思議だが、確かに『しっかり』しているのである。

 今回の取材に対しては、私なりに『真面目に、丁寧に、事前対応』してあったので、それはちゃんと評価してくれていて、肝心の取材は要点だけのちょっとした質問があっただけで、あとはホントに『お互いに有益な雑談』をしていたのである。

 

★ こちらは写真は撮られたのだが、『大橋凛太郎くんの写真はないかな?』とネットを検索したら、写真も記事も見つかったのである

 大橋凛太郎くん、こんな若者である。 

 野球部出身だが、グリークラブで歌にも自信があるのか 三木の『のど自慢』に挑戦している。

 

    

 

   その時の、神戸新聞の記事である。

  選んで歌った局が、『私らの年代』にはついて行けない、今どきの唄ではなくて

  『坂本九の上を向いて歩こう』だったのがいい。

  そんな歌が、『似合う』 大橋凛太郎くんだった

 

     

 

 ついでに、大橋記者の記事を探したら、こんなのがあった。

 こうしてみると、三木もなかなか面白いまちである。

 三つ、写真で『切り取って』掲載するので、ご関心のある方は、お読みください。

 

     

 

 

     

 

 

      

 

 ★是非、今日彼と話した『広報談義』をしっかりと身につけて。記者の道を堂々と歩いて欲しいなと思っている

  こんな風に、『私が取り上げる』のは、間違いなく『大橋凛太郎は、ナイスガイ』だと思ったからである。

  肝心の取材のほうは、何とか彼なりに『纏めるだろう』と思っている。

 

 

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カワサキジェットスキー物語  14

2019-01-21 05:17:33 | ジェットスキー&KAZE

★『カワサキジェットスキー物語』も、私が担当した時代は1997年あたりで一応の終止符を打つのである。

 今回、ふとしたことから書き出した『カワサキジェットスキー物語』だが、その当事者の私も初めて知ったことが多かったのである。

 

     

 

●その一つがこの写真である。

1971年に発動機事業部でスタートしたジェットスキー・プロジェクトは、5年後の1976に一応の終止符を打っているのである。その長をしていたのが私と同期の村上さんだとは、知らなかった。

この時点で上市していた製品はJS400だけだったのだが、その後アメリカ市場での『馬力不足問題』に対応して、藤川哲三さんを長とする550へのボアアップチームがスタートして、今回いろいろお世話になった福井昇さんなどもその一員であったようである。

●そのJS550 が生産されたのが84年度で、たまたまリンカーン工場がスノーモービル縮小で危機に陥っていて、当時のKMC田崎社長の独断で生産を一挙に2万台ベースに引き揚げそれを売り切ったことから、ジェットスキー事業の規模は一挙に24000台の規模まで急激にアップしたのである。

今まではJS550にボアアップしたから、急激に売れ出したのだと勝手に想像していたのだが、受注生産でもないJSなのだから、2万台を造らない限り、2万台を売ることは不可能なのである

● この販売台数の増大が、正規の事業として単車事業部として育てようという機運になり、明石の企画サイドにプロジェクトチームを作ってその対策がスタートしたのである。この提言をしたのは当時の企画室の武本一郎さんであり、具体的には85年8月から鶴谷将俊さんが具体的にプロジェクトの旗を振ることになるのである。

●86年度には福井昇くんもメンバーに加わり、ヨーロッパ・国内市場対策も進み、87年からは国内販売対策も具体的に進んで『ジェットスキー・プラザ』がスタートし、カワサキジェットスキー販売(KJS)という専門会社もスタートして、その販売形態も確立していくのである。この辺りの販売網対策の立案は、私自身が担当したのでよく解っているのである。

●87年度半ばには単発統合もあり、営業部門に正規のジェットスキー部門もできて、私自身が企画から営業部へ、さらに88年10月からは国内市場担当になったのだが、国内のジェットスキー事業は年間200~300台のレベルから、91年には7000台の販売規模にまで躍進したのである。

●その91年度からは、このプロジェクトをスタート時点から推進してきた鶴谷将俊さんが国内JJSBAの3代目の会長に就任して、国内JJSBA設立10周年を記念して、91年11月に琵琶湖近江舞子で開催した『ワールドカップ』には、アメリカのトップ選手を招いての盛大な大会となるのである。

 

      

 

 

★当時は田﨑雅元さんとこのジェットスキー・プロジェクトで打ち合わせなどしたことは一度もなくて、アメリカと日本でそれぞれ勝手な思惑で動いたのが事実なのだが、今思うとホントに、不思議なご縁で繋がっていて、当時から40年近くも経っている今でもこの『ジェットスキー物語』を書こうかなと思ったきっかけは、田崎さんからのメールや、送って頂いた写真がその『きっかけ』なのである。

 

        

 KMC社長(川重では若手部長)時代の若い頃の田崎さんである。 

このころ単車事業本部でジェットスキーに乗ることができたのは、「田崎雅元さん1人」だったかも知れない。当時、明石の単車事業本部ではジェットスキーに関わっている人は1人もいなかった時代で、発動機事業部がエンジンをリンカーン工場に送り、KMCの製品としてアメリカだけに売られていた『継子製品』だったのである。

 

これが、85年に単車の技術部が最初に開発を手掛けたJS300Aの試作品である。

モペットのコンセプトで、初心者向きに小型の舟艇を造ったのだが、水の上は『小型』は安定せずに、田崎さんも「乗れなかった」という代物だったのである。レースに出ていた福井昇さんでも上手く乗れずに、その時ズケズケ本音で書いた「福井レポート」は、技術部内で大問題となり、なかなか有名なのである。

そんなこともあって、アメリカ市場ではJS300は導入しなかったのだが、国内に導入したJS300Bは、舟艇をJS400を使たものだったというのは、これも今回『私も初めて知った』事実なのである。

 

     

 

 

これは、ネットの中からGoogle の写真検索で私が見つけてきたものである。  

こんな感じでその規模は、壮大だったのである。

 

       

 

  これは松口久美子さんから頂いた当時のスポーツ新聞の記事で、

 

          

 

レースをするだけではなく広く広報活動を展開したのは、この当時のカワサキの特徴だったと言っていい。

ユーザークラブKAZE も、SPA直入がスタートしたのも、カワサキが初めて鈴鹿8耐に優勝したのもこの時期なのである。

そんなレースや遊びを本格的に専門的に展開していたのが、カワサキの初めての『ソフト会社・ケイ・スポーツ・システム』で『遊んでいたら自然に売れる綜合システムの創造』が私自身の主たる仕事だったのである。

 

以下は、田崎さんから送って頂いた写真や、千里浜の写真などネットから拾ってきたものだが、すべてが『華やか』で『新しいカワサキのイメージ創造活動』だったのである。

 そんな観点から当時の写真をご覧になってください。

 私にとっても非常に懐かしい想い出いっぱいの写真なのである。

 

 琵琶湖ホテルでの前夜祭で、来賓挨拶の田崎さん である。

 

    

 

  当日は、岩城滉一さんも急遽出席してくれて、会場はより華やかになったのである。

    

 

 金森稔くんのテレビインタビューに、何故か田崎さん、割り込んでいる。

 ちょっと、向うに見えてるのは私。

 

     

 

  田崎さんご機嫌の写真だが、お酌をしている美女は、確かアメリカのジェットスキーチャンピオンなのである。

 

     

 

 ★ これから後の写真は、千里浜のジェットスキー大会で、エントリーは1000台を超え、1日のレースが130レースにもなったという、世界でも最大規模のジェットスキー大会となり、地元の役員の人たちから『ギネスブック』への登録がホントに真剣に検討されたりしたのである。

 石川テレビの中継もある、そんな大会だった。

 

          

  

  ネットから拾ってきたものだが、千里浜のレースは今も続いているのかも知れない。

 

     

 

 

     

 

1984年11月にアメリカでJJSBAの認可を得てから、もう30年以上になるのだが、ちゃんと育っていることは素晴らしいと思っている。

 

     

 

 

★そして最後の写真は、

1984年11月、アメリカにIJSBAの承認を取りに渡米された苧野豊秋さんに私が随行したのだが、当時のKMCの人たちや、明石からその時出張してたメンバーたちが、苧野豊秋さんを囲んでの記念撮影で、これも田崎さん提供なのである。

   

 

この人たちの努力で、KMCは見事に立ち直ったし、カワサキの単車事業の再建もなったのである

そしてJJSBAも、この時がそのスタートなのである。

最初に『井戸を掘った人たち』が、懐かしい。

 この稿を最後に『カワサキジェットスキー物語』も、一応終わりにしたいと思っている。

 

 ご協力頂いた、田崎雅元さん・福井昇さん・松口久美子さんに感謝である。

 

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MLSで日本人がドラフト指名!門野真也とは何者か

2019-01-20 04:58:49 | 発想$感想

★ 『MLSで日本人がドラフト指名!門野真也とは何者か』 こんな記事が流れたらしい。

 昨日のFacebook に娘婿のTad Kadono がアップしていた。

    

 

記事の内容は以下をクリックすると現れる。   

 https://qoly.jp/2019/01/18/who-is-shinya-kadono-hys-1?_scpsug=crawled%2C6122434%2Cen_d5cec076f0d20b40c3d208e477a7c8a158c10e6477b6aac1e8b4e14ef5dd8a06&fbclid=IwAR1SeAVz1CJ0_sQkJg090mtmI3SufK_oIdo0JTBGyGzX_CEBg3bUxl4kGVw

その内容は結構具体的に詳しく書かれているので、私は大いに助かったのである。

 

実は『孫の門野真也のMLS入り』について、明日神戸新聞から私に『取材申し込み』が来ていて、真也のことは何となく解ってはいるのだが、新聞に載るとなると正確でないといけないし、『客観性』も求められるのである。

 取材と言っても私のことではないし、孫のことだから、『どのように対応すべきか?』ホントに困っていたのである。

 そんなところに、この記事である。間違いなく『日本語で書かれている』内容も間違いない。

神戸新聞は私に取材して『どんな記事』に仕上げようとしているのか、そのあたりももう一つよく解らないのである。

私自身は、門野真也については、いろんなことは解っているのだが、それらは殆どネットの中に入っているので、この記事を見て思いついたのである。 『ブログ』でアップしておいて、取材を受けて後、神戸新聞の記者さんがブログを読んで頂いて、記事でも写真でも自由にお使いになればいいのである。

 そんなことで、『門野真也に関する話題』を以下に纏めておくことにする。

 

★今回の出来事は、日本では全く無名の『門野真也』だが、先日アップしたこんなブログには、https://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/be7d8a8fb9a5efe67c2c7e607dea06a4  

1日で1500人の読者が訪れ、4000ページ以上をご覧になっているのである。

   

 

 門野真也は、確かに日本では無名だが、カリフォルニアではテレビにも出るし、インタビューも受けるし、彼の得点シーンの動画もあるなどなかなかの有名人なのである。

 Google で『Shinya Kadono』と検索すると、こんなページが現われるのである。

  https://www.google.co.jp/search?q=Shinya+Kadono&ei=TKFCXKu8LM-noATis6fQBQ&start=0&sa=N&ved=0ahUKEwirkvSN-_jfAhXPE4gKHeLZCVo4FBDy0wMIcA&biw=1359&bih=694

 

冒頭の日本語の記事もアップされたので、今なら『門野真也』と検索しても大丈夫である。

 https://www.google.co.jp/search?source=hp&ei=7qFCXOuyEdGpoATQ_ogY&q=%E9%96%80%E9%87%8E%E7%9C%9F%E4%B9%9F&btnK=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&oq=%E9%96%80%E9%87%8E%E7%9C%9F%E4%B9%9F&gs_l=psy-ab.3..0i131.11985.17286..21541...0.0..0.157.1203.14j3......0....1..gws-wiz.....0..0i131i4j0i4j0i4i3j0j0i4i10j0i10j0i4i37j0i4i30j0i5i4i30j0i4i30i23j0i5i4i30i23j0i13.kky3HNT_EVY

 

 

★冒頭の「門野真也は何者か?」の記事はこんな風に纏めている。

 

 

 

  

  

US Development Academy の公認チームでもある 名門Strikers FC でも、日本人ながら主将を務めたのだが、前アメリカ代表監督の息子さんとはチームメイトで、お父さんのクリンスマン監督からは、真也は結構いい評価を得ていて『アメリカに帰化しないか』と言われたこともあるらしいが、真也は大の日本好きなので、お断りしたようである。

 

 

   

 こちらは真也ではなく、末弟の哲也だが、クリンスマンさんとはこんな写真も撮れる間柄なのである。

 

    

こちらも真也ではなく、私の息子の古谷大治とクリンスマンさんだが、クリンスマンさんは息子の試合を、大治は真也の試合を観に来てお会いした時のツーショットなのである。

門野真也のサッカーのお師匠さんは 実は古谷大治で、小学校の頃から懇切丁寧に指導してきたのだが、いまではお師匠さんを抜いてしまったように思う。

 

 

    

 

それでも、教え子の状態は気になるようで、わざわざアメリカまで、真也のサッカーを観にきたりするのである。

 今はすっかり、プロにも行ける実力を備えている真也だが、最初はこんな感じだったのである。

 

   

 

こんな頃から、いろいろと教えて、何年か後にはこんなに変身するのだが、アメリカから三木に遊びに来ると、息子もわざわざ鎌倉からやってきて、三木の協同学苑のグランドでサッカーをやっていたのである。 

     

    

 この写真を見てもお解りのように、子供の頃はこの兄弟は『単なるデブ』だったのだが、真也は Striker FC にトライアウトしても『デブはダメ』と言われて、2年間減量してやっとU14(14歳)の時に入れて貰えることになったのである。

それ以降は、名門Strikers で、かってのアメリカのプロたちが指導者なのだが、13歳までのコーチは古谷大治だったのかも知れない。

それにしてもこの兄弟二人とも、サッカーに掛けてはマジメで熱心なのである。二人とも今は見違えるように変身した。

 末弟はキーパーだが、間違いなくプロを目指すと思うし、真也以上にその評価は高いようである。

  これは中学3年生の頃だがヴィッセル神戸の練習に兄弟で参加したのだが、哲也だけの写真が残っている。

 コーチの石末さんは、全日空時代の息子の後輩で、そんな関係もあって練習に参加させてもらったのである。

 

            

 

 

 

★今回の神戸新聞の取材は、実は米田和彦さんが、神戸新聞に言われたようである。

 これは昨年の今頃の三木での写真だが、米田さんのチームの『フットサル』に誘われての門野真也と日系フランス人のSam くんである。

 今回、二人ともMLSの Superdraft 2019 に選ばれて、真也は D.C .United に、Sam くんは Huston Dynamo からのオファーを受けているのである。

     

 

★冒頭に紹介した『MLSで日本人がドラフト指名!門野真也とは何者か』という記事は、門野真也をこのように評して、その記事を閉じているのである。

 

もなく誕生日を迎える21歳で、出身は神戸だが早いうちにアメリカへ移住して、現在は永住権を保持しているという。高校時代は名門ストライカーズFCに所属し、ドイツのレジェンドであるユルゲン・クリンスマンの息子ジョナサン・クリンスマン(現ヘルタ)らとプレー。

カリフォルニア大学バークレー校に進学後は、4年時に日本人で初めて同校の主将を任され得点王を獲得するなど、4年間で66試合20得点3アシストを記録した(なお、大学ではMF登録されている)。

そんな彼について『blackandredunited』は、「170cmにもかかわらず、優れたタイミングと跳躍能力で多くのヘディングゴールを記録している頑強で勇敢なプレーヤー」と伝えている。小柄ながら馬力のある攻撃的な選手ということで、現在DCユナイテッドに所属する元イングランド代表FWウェイン・ルーニーから学ぶものも多いだろう。』

 

真也に 今の心境を聞くと『早くトップチームでプレイできるよう頑張ります』と言っているようである。

 なかなか厳しいとは思うが、『早くトップチームに上がって頑張って欲しい』と願っている。

 

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自働運転の実証調査

2019-01-19 07:05:29 | 発想$感想

 ★昨日、こんなチラシが入っていた。

 『緑が丘・青山において自動運転の実証調査を実施します』というものである。

 2月16日から2月22日に実施するという。

  所謂、自動運転のクルマを家のすぐ横のこんなコースを走らすので、『乗ってみませんか?』という内容のチラシである。

 

       

 

  その『モニター募集』なのである。

  募集条件は、『自動運転実証調査』のほうは『東地区にお住まいの方』なので、ダメなのだが、

  『体験乗車募集』のほうは西地区でもOKで、『自力で乗降できる方』とあるが大丈夫で、資格ありである。

 

 

    

 

 いま話題の『自動運転』のクルマの事だが、何となく興味もあって、Google で『自動運転の実証調査』を検索してみたら、こんなページが現われたのである。

ちょっと長いが、そのまま転載してみる。

 

平成30年度『ニュータウンにおける自動運転サービス』の実証調査地域決定!

平成30年12月18日

 国土交通省・内閣府は、今年度実施する『ニュータウンを対象とした公共交通ネットワークへの自動運転サービス』の社会実装に向けた実証調査を広く公募し、この度実施主体を決定しました。
 

 本調査は、昭和40~50年代に大量に供給された郊外住宅団地における公共交通ネットワークへの自動運転サービスの社会実装に向け、実証調査等を行い、自動運転を活用した公共交通サービスの導入に向けた課題の整理を行うものです。
 
 今般、内閣府戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)自動運転(システムとサービスの拡張)のプロジェクトの1つとして、管理法人の国立研究開発法人 新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)において平成30年10月5日(金)~11月5日(月)の間公募を行い、ご提案いただいた8者の提案について、外部有識者による採択審査及びNEDO内の審査を経て、以下のとおり調査主体を決定いたしました。
 

実証調査実施主体

 

調査主体 調査地区 ニュータウン・地区名
株式会社 日本総合研究所
京王電鉄バス株式会社
東京都多摩市 多摩ニュータウン
諏訪・永山団地
日本工営 株式会社 兵庫県三木市 緑が丘ネオポリス・松が丘ネオポリス
緑が丘・青山地区

  




 

 

 

 

国土交通省・内閣府と仰々しいが、選ばれた地区が全国で『たった二つだけ』で、『多摩ニュータウン』と 『緑が丘ネオポリス』だけなのである。

うしようかな?と思っていたのだが、全国で2地域だけなら、希少価値もあるし、申し込んでみようかなという気になった。

家のすぐ近くの『みどりん』まで、名前を書いて申し込むだけだから、そんなにムツカシイことは何もない。

 2月16日(土)で、30名程度というから、申し込んだら当たるかも知れないのである。

 早速申込書を出してきた。

 もし『モニターになれたら』また、乗車の感想なども、アップしてみたいと思っている。

 

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読書 「ファクトフルネス」  雑感

2019-01-18 06:50:36 | 私の生き方、考え方&意見

★最近の若い人たちは『本を読まない』そうである。

 『若い人が本を読まない』と検索すると、こんなページが現われた。

 

     

 

   こんなグラフも出てきた。

 

     

 

 実は、私もあまり『本は読まない』ほうだと言った方がいい。

 なぜ? と言われても困るが、本を読んでみても殆どの本で『がっかりする』ことの方が多いからである。

 なかなか『いい本』に巡り合えることの方が少ないので、そうなってしまうのである。

 本は読まないのだが、1日の中で活字を読む時間は結構あるほうだと言っていい。

 ニュースも殆どネットで読むし、『検索』する機会は『結構多い』と思うし、興味のあるモノについては「ちゃんと読む」習慣は付いていて、本を読むよりはそのほうが『効率がいい』し、『自分で納得できるまで検索を続ける』ほうがいろんな意見が解ってオモシロいと思ってしまうのである。

 

★ただ、若い頃から、文章というか自分の意見は殆ど『活字にして残している』 現役時代の『方針』というか『基本的な考え方』は全部と言っていいほど『活字にしている』のである。 

そういう意味では、文章を書いた量は、ひょっとしたら『小説家よりは多い』かも知れない。一体、小説家というのは一生で、どのくらいの文章を書くのだろう?私は20歳から日記も書いているし、現役時代の文章も多いし、引退してからも毎日結構長いブログを書いているので、最近でも1日に、5000字以上は書いているというか、発信しているのである。

なぜ、突然こんな話題か? というと私には4人の孫がいるのだが、そのうち3人はアメリカ育ちで、下の二人は、特に一番下の末弟などは『日本語を読むのが苦痛』なようで、英語が日常語だから、日本語で本を読む機会など少ないと思うのである。

 私は本は『読まない』のだが、家内も息子も娘も『本が好き』で、そのDNAは間違いなく孫にも伝わっているのだと思う。本の話題になった時は、とても私などは「ついて行けない」レベルなのである。

そんななかで、孫の長男二人は、私と違って『多分、本はいっぱい読む』のではないかと思っている。

 二人とも『ちょっと変わっている』と言った方がいい。

 

         

 

★特に息子の方の『古谷仁』は、『小説家になりたい』などともいうし、昨年の今頃は本の出版などに取り組んでいたのである。

 最近はツイッターなどでの発信も多いのだが、彼の書く文章は独特で、ヨコ文字も多いので『ついて行くのが大変』なのだが、ごく最近こんなツイッターをアップしていた。

ピーター・テイールのいう「曖昧な悲観主義」からの脱却の鍵「ファクトフルネス」かな

と「ファクトフルネス」という本のことをツイッターにアップしていて、孫の古谷仁推薦なので『読んでみるか』と思ったのである。

 

  

 

日本人がまず真っ先に読むべきだ』とあったので、発売前から申し込んで、今最初の数ページを読みだしたところなのである。

世の政治家や学者などの知識人など、貧困・教育・環境・エネルギー・人口問題などについて『賢い人ほど世界の真実を知らない』と本の帯に書かれていて、13の質問の正解率が33%を下回っていて『チンパンジー以下』だと言われてしまっているのである。

本の冒頭にある13問の質問はこんな質問なのである。 皆さんはお解りになりますか?

 

 ● 現在低所得国に暮らす女子の何割が初等教育を修了するでしょう?  A 20%  B 40% C60%

 ● 世界で最も多くの人が住んでいるのはどこ? A 低所得国  B 中所得国 C 高所得国

 ● 世界の平均寿命は  A 50歳  B 60歳  C 70歳 

 ● 世界中の1歳児で予防注射を受けてる人は   A 20%  B 50%  C 80%

 ● 幾らかでも電気が使える人たちは   A 20%  B 50%  C 80%

 ● 1996年にトラとジャイアントパンダとクロサイは絶滅危惧種に指定されたが、当時よりも絶滅の危機に瀕している動物は幾つか

    A  2つ   B 1つ  C ゼロ

 

最初に作者が言っているのは、世界のトップレベルにいる人たちが『みんな間違った常識しか持っていない』テストの結果になっていると言うのである。

これは要するに、世の中の進歩は非常に速くて、『昔の本』などで身についた旧い知識が邪魔をしていて、『新しい知識』を導入しないと間違ってしまうようである。その結果が『賢い人ほど世界の真実を知らない』ことになってしまっているというのである。

 本の冒頭に、世界の状況を表すこんなグラフが載っていた。

 

       

 

 この『健康・金持ち・貧乏・不健康』『寿命・所得』のグラフを一番最初のページだったので、ちょっと見ただけだが、私自身はこの13問中11問に正解出来たので、正解率85%と『めちゃ優秀』だったのである。

 別に威張る訳ではないが、そういう意味では『カン』だけはイイと思っている。

 兎に角、読み始めたところだが、なかなかオモシロそうなのである。

 この本を紹介してくれた古谷 仁は果たして読んでいるのだろうか?  

 ツイッターに出た時点では発売前だったのだが、我が家には発売と同時に本が来たので、結構早く読みだしているのである。

 

★ 孫がツイッターで言っている『ピーター・テイールのいう「曖昧な悲観主義」からの脱却の鍵「ファクトフルネス」かな』がどうしても気になって調べてみたら、こんな説明文があった。

 2年前に全世界でベストセラーになった『ZERO to ONE』あのペイパルを創業した著者のピーター・ティールはその中で、人間には4つのタイプがいると言っていて、それは『明確な楽観主義、・曖昧な楽観主義・明確な悲観主義曖昧な悲観主義』だというのだが、その曖昧な悲観主義』という人間のタイプからの脱却の鍵が『ファクトフルネス』だと言っているようだが、どんどん解らなくなってしまうので、まずこの本を読んでみようと思っている。

 本はちょっと読んだだけだが、なかなか解り易くて、『めちゃオモシロそう』なのである。

 読んでしまったら、また読後の感想でもアップしてみようかと思っている。



 

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