雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

相信会

2007-03-31 05:54:16 | 日常生活、園芸、バラ
川崎重工業のOBたちの集まりである「相信会」の春の会合が神戸の元町であって出席した。

このブログにも度々登場する高橋鉄郎さんが会長で、山田、大槻、田崎、稲村、北村さんなどレースや仕事で一緒に同じ時期を経験した仲間たち、そのほか脇本,砂野、柏木、佐伯、野田、原田、三原さんなど挙げるときりがないが、多くの人たちと旧交を温めた。

この他にも、SPA直入の建設でお世話になった阿二さんや、4輪レーサー開発で関係のあった同期の藤川君、など懐かしい人たちと楽しい会話のひと時であった。

当然のことだが、私よりずっと後輩の大橋社長のお話によると、今川重は非常に好成績のようである。

この期末の配当もはじめて一株5円の高配当をするという。
二輪事業やガスタービンなど明石の工場で育った製品が今の川重の好調の原動力となっていることは、そのOBとしてこんな会合に出席しても胸が張れるというものである。

世の中は変るものだと思う。
単車や車両という昔経営の足を引っ張った事業が、永年川重の中枢であった造船などに変って今を支えているのである。


単車時代の同僚で今川重会長の田崎さんの挨拶は、今流行りの「品格」について触れたいい挨拶だった。
余裕ができると言うことも違ってくるものだ。

雑談で「品格」というのは英語で何と言うのかという話になったが、「それがないのだ」ということだった。
帰宅して、改めて和英で調べたが本当にないようである。


大槻さんとデグナーのことを話したが、山田さんと大槻さんとでデグナーと契約の約束をしたのは大槻さんがドイツに留学される以前だったようである。

山田さんともお話をしたが、山田さんの年代の方のこの会への出席もめっきり少なくなって知らないのばかりになったと言われていた。
山田さんは私の中学の先輩で、レースで関係のあったほか単車再建期も高橋、田崎さんらとともに直接お世話になった。

一中,一高、東大(航空機)という秀才の見本みたいな方だが、
誰もしない頃にやっておられたパソコンも今はやっていないと言われていた。
今は、散歩だけだとか。


私のブログも話題になって、この会のパソコン同好会で「講師に来て喋れと」、北村敏さんに頼まれた。
パソコンについて殆ど知識のない、私が 「ブログをやっているという事実だけで」 パソコン同好会の講師になれるというのも不思議である。

何事においても、 「行った。」「やった。」「見た。」 など、 実績というか経験は「モノをいう」のである。

確かに、こんな年でブログをやっているのは希少価値であろう。
ブログという新しい言葉が経験のない人にとっては無性に難しいことに見えるのかも知れない。


そんな相信会の楽しい会合であった。




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KSS物語ー4 昔話-48

2007-03-30 06:02:23 | ジェットスキー&KAZE
KSS物語ー4(1991年以降)

新会社KSSも3年目で軌道にのり更にいろいろなソフト事業への挑戦が続いたのである。

平成3年3月3日オープンを目指した札幌のショールームが予定通りオープンし東京の神田ショールームもスタートした。

7万台を目指した高い販売目標も2年8ヶ月後の5月末に達成し、グループ関係者全員にマグカップを配ってお祝いをした。

4万8千台から7万台へ、全体の市場が伸びなかった中での達成は、シェアアップという非常に難しい課題への挑戦であったのである。

ゼファーという商品にも恵まれ、ARKというカワサキ独特の販売網にも援けられたが、そのベースにあった基本戦略、末端への視線、ソフト戦略、カワサキイメージの向上が力になったと思っている。

ソフト分野を担当したKSSはKAZE会員はスタートの6000人から最盛期50000人までに拡大し、それをベースにグループ全体としての情報システムやお客様相談室など非常に高いレベルでの活動を可能にした。

お客様相談室などもどこにでもある組織だが、その質に於いて完全に差別化されたレベルを目指したし、愛情車カードの回収率なども22%と一般の3~5%と比較して格段に差別化できたレベルであった。

阪神ライデングスクールとタイアップして目指した二輪専門の自動車学校の資格取得も殆ど不可能と思われる難しい基準をクリアして取得することができた。

ソフトの事業化を当初漠然と考えていたが、実際の活動を積み重ねていくと、思わぬ新しい知恵もわき、思わぬ展開にもなるのである。

いろんな人たちが先方から訪れてくれるのでどんどん広がっていくのである。

有名芸能人、それは雲のうえの存在と思うがKSSと特に関係のあった岩城洸一などもその例である。
突然、先方からコンタクトがあって、まずロードレースでお付き合いが始まった。後にはチーム月木の総監督という立場で8耐を一緒にやったり、ジェットスキーでJJSBAのレース場やSPA直入にもしょっちゅう出入りしていた。

ARKミーテングの時やKAZEのユーザーミーテングに大勢の仲間を引き連れて参加してくれたりした。

実現しなかったが島田しんすけも8耐に出たいとわざわざ明石まで訪ねてくれたりした。


「ソフト機能の強化」とは
1.異質性を組み合わせる力の強化であり
2.コンセプトの組み上げ方のノウハウを提供する力の強化である。
と定義されている。


1987年10月21日に「新会社設立構想について(案)」という文書の企画力の強化のなかでこの定義を引用し、
カワサキ独自の企画を造り出す時期に来ている。
そのためにも、「ソフト企画」専従のスタッフ養成とシステムの構築を進め「売れる企画」を生み出す体制を作ると述べている。


タテ型は一つひとつが完結して終わってしまう。
ヨコに異質なものを繋いでいくと、大きな仕事が出来る。

大きな仕事はトータルシステムとして、ヨコに繋がないかぎり実現しない。

私の実務の経験からそう信じている。
そして、全く私の思う通りのことをもっともっと正確に言っておられる方にKSSの3年目に出会った。

服部吉伸先生
コンサルタントや中小企業大学の先生をしておられたが、
その後、立命館大学の経済学部教授をされ最近またコンサルタントに戻っておられるとか。KSSの後半いろいろお世話になった。

KSSは私にとってサラリーマンの集大成みたいな思い出多いものだった。
(現在はKSSは改組され、KMJの中の一括管理の中での運営になっている)

手伝ってくれたKSSの南常務以下の古石、森、渡部、西川、重本君や皆さんに心から感謝とお礼を申し上げたいしたい。




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KSS物語ー3 昔話-47

2007-03-29 06:18:12 | ジェットスキー&KAZE
KSS物語ー3(1990年度)

KSSの2年目もは、ソフト戦略展開のベースになる部分が次々に実行に移されていった年度であった。

まず1月には新販売網ARK契約がスタートした。ジェットスキー(J/S)のARKも統一展開を図ることになった。
従来依託販売が一般的であった取引形態を業界初の受注制度に変更した。

一般ライダーが走れるサーキットSPA直入もオープンし、岡山を皮切りに広島、宇都宮、明石と今までのイメージを一新するショールームをオープンさせた。
世界一の商品を売るに相応しい店舗を目指した。

今では全国のMCの販売店が受注となり店も素晴らしくきれいになったが、15年以上も前にそのレベルでの展開を図ったのである。

レースも鈴鹿2&4で優勝は逸したがドーソン,塚本、宗和、と2、3、4位を占め,4輪では優勝を飾ったカワサキOBの星野一義がヴィクトリーランでわざわざチームグリーンのパドックの前でマシンを止めて、話しかけてくれるサービス振りであったりした。

チームBEETが6耐優勝、鶴田がシーズンを通じてのシリーズ優勝を飾るなどこの年もレース活動は素晴らしかった。
従来、スポーーツ推進部で担当してきたレース活動も、SPA直入の順調な会員確保状況もあって10月よりKSSへ移行しKSSとしての活動となった。

開発コード015で開発された、ZX1100ccのエンジンをベースに160PS/10500rpmの四輪のサーキットマシンX-11も、TIサーキットなどとの話もあり、星野インパルの金子豊や星野がカワサキコンバットのご縁で相談に乗ってくれたりした。
初のパーソナルスポーツビークルとしてほぼ完成し、KSSでの販売が企図されていたのだが残念ながら陽の目をみることはなかった。

この年8月にKSSが出した経営見通しによると、KAZE会員な現在18000名で年末20000名の目標は十分達成できる。
機関紙の発行は、毎月という目標から内容の充実へと転換する。その他スポンサー獲得活動、イベントカーによる広報活動、用品の強化、SPA直入及びショウルーム運営など経営全般に順調で売上高5億円を見込めるようになり8百万円の利益見通しとなっている。

グループ全体としてはゼファー750も発売され、J/Sも好調で売上高385億円に達し、目標の7万台、400億円の売上も翌年度事業計画に現実に組み込めるまでになった。

数値計画以上に重視した「カワサキのイメージ戦略」は業界は勿論一般経済誌などの注目を浴びるまでに急改善された。
これはKSSが主導した一般ユーザーを巻き込んだソフト戦略の果たした役割は大きかったと思う。

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KSS物語ー2 昔話-46

2007-03-28 05:56:44 | ジェットスキー&KAZE
KSS物語ー2(1989年度)

新しい会社の設立で中心となったコンセプト、「ソフトの事業化」について一番求められたのは企画力の強化である。

「ソフト機能の強化」とは、
「異質性を組み合わせる力の強化であり、コンセプトの組み上げ方のノウハウを提供する力の強化である」と定義されている。

既に、KAZEもレースもイベントもその他いろいろの販促策が夫々単一には実施されていた。
それらを組み合わせて如何に効力を発揮させるか、これは従来のタテ型の組織から実行される完結型のやり方では難しいのである。

個別のものをヨコに結び、更に高質化を図ることを目的として新会社は設立されたのである。


1989年の1年目の活動は個々のプロジェクトの質を高めることからまずスタートしている。

KAZE活動は既に6000人の会員がいたが、カワサキマニア中心のものであった。
より広い範囲でモータサイクルを持っていなくても関心のある人を集めようと切り換えた。
JCBと組んで会員カードに機能を持たせ、JCBカードを会員証とする業界初の試みとしてスタートした。

昨日家にKAZE機関紙VOL.180が届いたが、
第1号はバラバラのチラシを何枚か封筒に入れて89年春に発送されている。その後、製本の形をとり毎月発行を目標に継続された。
第3種郵便の認可をとって現在と同じ形になったのは、2年後の91年2月7日である。


毎月発行できるベースとしてのニュース源の確保が最大の課題ではあったが、いろんな活動の成果でネタは有り余るほどあった。

3月にはSPA直入が着工され、1989年4月1日㈱ケイスポーツシステムは正式にスタートを切ったのである。

レース活動は、この年はまだスポーツ推進部で担当し実施されていたが、OB会でのハッパが効いたのか好成績が続いた。
3月には鈴鹿の2&4で宗和が3位になり、4月にはフランス遠征した「ルマン24H」で宗和、多田が3位入賞を果たした。
4耐はジュニアでBEETの高橋等が優勝、
6耐ではジュニア北川、鶴田も優勝を飾り、藤坂、林が2位に入った
8耐では塚本、前田が4位に入賞した。

好成績を収めたのはファクトリーを支えるチームグリーンの活動が主体であった。

5月にはZEPHYRの発売が開始され、販売は絶好調の月々が続いた。
MCだけでなくジェットスキーについても本格的な販売網政策とJJSBA対策を開始した。

KAZE対策としては各営業所にKAZE担当者を置き会員募集と活動の強化を図った。
6000名の会員は年末には倍増の12000名になっている。

9月からは、安全運動活動を本格化するため、当時鈴鹿8耐などの常連であった二輪専門の教習所阪神ライデングスクールの有馬社長と組んで種々の対策をスタートさせた。

10月には新販売網ARK(Authorized & Riliable shop of Kawasaki)構想、レタリング、看板などを発表したり、オータムフェスタin Akasi、岡山新ショップ構想など話題性のある業界初の試みを連発している。

12月には当時世界一であったフランスの耐久チームのスポンサードをKAZEが引き受けるなど新しい試みにチャレンジしている。

これらのいろんな話題やイベントをそれだけで終わらせることなく、どんどん繋いでその効果を更に倍増させてゆく新しい動きは業界から注目を浴びだした。
いろんなところで採り上げられ、日経ビジネス7月号には特集記事として掲載されたりもした。

社内でも話題になり、川重の関係会社社長会の席上でKSSの活動としてKAZE、レース活動などを発表して話題となったのである。


グループの各部門の諸活動をコンセプト通り「ヨコに結んで高質化を図るというソフト活動」は初年度、KSSの南常務以下数名の少人数での活動であった。

これら初年度の基礎部分の対策は、2年目以降更に大きく飛躍する可能性を約束するものとなったのである。
グループとしても充実した新規活動初年度であった。
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KSS物語ー1 昔話-45

2007-03-27 06:03:04 | ジェットスキー&KAZE
KSS物語ー1

1988年10月55才の秋、3度目の国内担当となった。
単車事業部の業績も安定し昔のような販社再建という役割ではなく国内市場に真に期待が掛けられている状況であった。

年からいっても最後のご奉公と思ったし、事業本部長でカワ販の社長も兼務されていた高橋鉄郎さんと、
7万台、売上高400億円、利益10億円、事業部の限界利益100億円という高い目標のお約束をして引き受けたのである。

大変な目標ではあったが、やり甲斐はあった。

モーターサイクルの市場は横ばいで大きな拡大は見込めなかったが、時代の流れは新しいものが沢山あって、ハードだけでなくMCのもつソフトの分野、レースとか遊びの事業化を合わせて考えると面白い事業展開が出来るのではないかと思った。


まず、レースのテコ入れを考えて就任最初にやったのは、レース関係のOB会を現役も含めて10月15日に開催した。
安良岡、山本、金谷、和田、岡部、梅津、星野、清原などの懐かしいライダーたちと宗和などの現役連中、歴代監督やレース関係者が集まって芦屋の竹園ホテルで盛大な会合となった。。

カワサキの昔のレース関係者は山田、苧野、高橋、大槻、田崎さんなど川重の社長、副社長、常務などを務めた偉い人が多くて、こんな昔の仲間が集まって今後のレースを語ったことは現役のレース関係者にも大いにハッパをかける結果になったのである。

この年の年末までの3ヶ月間、本来の販売網関連の契約事項、価格体系などの検討も勿論やったが、特に力を入れたのは

1.ユーザー対策として既に動いていたユーザー組織KAZEの再編成
2.新しいソフト会社の設立準備、その内容の検討だった。

業界でもはじめてのソフト会社、それが翌年4月に設立された、㈱KSS(ケイ、スポーツ、システム)である。


この新しい会社の責任担当者として手伝ってくれたのが、南昌吾君である。
彼とは、特約店制度発足当時からのお付き合いだが、難しい、はじめてやることを多く担当してくれて、全て上手に捌いてくれた。

コンセプトを決めてこれで実行してくれと頼んだらまず間違いなく、目標を実現してくれるプロの実行責任者と思っている。

南君のほかに、今はオートポリスの責任者をやっている渡部達也君や西川寿光くんなど実力者の少数精鋭でスタートしたのである。

会社の設立は4月であったが、実質活動は11月頃からまずKAZEの再編成から始まるのである。
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スポーツシーズン開幕

2007-03-26 06:01:13 | スポーツ
「春は選抜から」高校野球の開会に続いて一斉に各種スポーツがスタートした。

こんなに一斉に毎年スタートしていたのだろうかと思うほどである。

日曜日の朝刊はスポーツニュース満載である。

まずフィギュア世界選手権、安藤、浅田が金銀と逆転の制覇である。
男子も含めてこのところの日本フィギュアの勢いは素晴らしい。

世界水泳のシンクロのメダル確保。ここはいつものことだがロシアが強い。
何故こんなに強いのか、不思議に思うほどである。

ただいつも思うのは,点数制で争うスポーツは素人から見ると微妙な差は何となく解らないところである。

久々に中村、高原と海外組を召集してチーム編成をしたオシムジャパンは今まで一度も勝てなかったチリに2-0と快勝した。
二人の活躍と思っていたが、新聞の解説では中村と国内組オシムのサッカーとのリズムがもう一つとの論評、オシムの感想も「勝ったからといって、浮かれていられないのが現実だ」と厳しい。

パリーグが一足先に開幕、面白い幕明けとなった。
大リーグへの選手移籍でいろいろ言われているが、日本ではパリーグの人気がホンモノになってきたのではないか。
大リーグへの選手移籍の問題よりは、セリーグだけに、特にその中の一つのチームに偏った人気に問題があるので、パシフィックも含めての全体の野球人気に期待したい。

そのほか、亀田興毅のボクシング、2連敗でスタートした朝青龍が今日優勝を争うやはり強いものである。


こんなスポーツと同列に並べるのはおこがましいが、
私の今年初めてのゴルフも雨の中昨日スタートした。

KMJの懐かしい後輩たちとの楽しいゴルフであった。パートナーの石川,日野、青木君有難うございました。
スコアは駄目だったが、みんな雨の影響か悪くて、4位だったのでまずまずのスタートである。

今年もスポーツシーズン幕明けである。
次回は4月4日、年4回行われるZ1会の第1回コンペ。
浜脇洋二元KMC社長、元ライダー金谷秀夫君も初参加して総勢30名で賑やかに開幕、楽しみである。
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ソウルオリンピックの思い出

2007-03-25 06:13:55 | ジェットスキー&KAZE
1988年10月、ソウルのオリンピック委員会の招聘を受けて、オリンピックの開会式の当日スタジアムの直ぐ横を流れる漢江(ハンガン)でジェットスキーのデモンストレーションを行うことになった。

オリンピックとあってデモを行う選手も、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、日本からの男女代表選手でチームを構成した。
この団長をおおせつかったのだが、日本からは当時ジェットスキーの責任者だった鶴谷君や藤田君JJSBAの会長の苧野さん、それに福井、大南君など日本のジェットスキー業界の先駆者たちが参加した。

オリンピックファミリータウンに宿舎を用意して貰いオリンピックも自由に観れた筈なのに、本番前の練習やら挨拶ビジネスなど忙しくて、13日から18日まで1週間もいたのに、結局何も観ることはできなかった。


それなりに理由はあったのである。
戦前、中学1年生まで当時の京城、いまのソウルにいた。

どうしても住んでいた家がどうなっているのか確かめたくて、苧野さんとタクシーに乗って探しまわっったのである。
様変わりしていて見つけにくかったが、小学校を探しあてそこから道を辿ったら、家が見つかったのである。

殆ど昔のままの姿で残っていた。感無量であった。
懐かしくて帰国する当日、今度は独りでもう一度家を見に行ったりしたのである。

戦前の当時と比べるとソウルも見違えるほど発展している。
オリンピックスタジアムのあったハンガン流域は昔は何もない荒地だったのに、繁華街に一変している。
昔の漢江も魚釣りに行ったりしていたのでよく覚えているが、当時の面影はない。


そんな思い出のあったソウルオリンピックであったが、当日のデモンストレーションは練習の成果が出て無事終了し、みんなで賑やかに打ち上げパーテイをやったのを覚えている。

英語でスピーチをやったのは二度しか経験がないのだが、この時がその1回である。
英語のスピーチといっても流石に原稿無しでは難しく、鶴谷君の作ってくれたものを読み上げただけのことであった。

ソウルオリンピックの想い出は、オリンピック委員会から頂いた立派な額をみて時々懐かしく思い出している。
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WITH太田さんとの出会い

2007-03-24 06:00:23 | カワサキ単車の昔話
ブログをやっていて、「いろんな出会い」にそれこそ「出会う」のである。

今回も、二輪車新聞の衛藤さんの「忍者創業40周年」という記事を読んでブログを更新したら、「NINJYAファンならぬ忍者ファン」という忍者の伊藤さんのファンと称する方から丁寧なコメントを頂いた。

クリックしてみると福岡県福津市の「WITH」というカワサキの正規取扱店のホームページが現れた。
立派なホームページである。
カワサキのお店の方なら「何回もミーテングなどでお会いしている」と書かれてあったが、なるほどと思った。

最近、ブログで「SPA直入物語」を5回ほどの連載で更新をしたのだが、当方でSPA直入に関するブログを探して幾つかコメントを差し上げたりした。


そんな1週間だったが、「WITHの太田」さんからメールが届いて、ブログにリンクしたい旨お申し出があった。
「是非お願いします」とご返事してからもう一度「WITHのホームページ」をじっくり見直した。

私にとっては面白い記事を沢山見つけた。
まず、SPA直入がいっぱいである。直入建設の基本コンセプトであった一般ユーザーの方の走行イベントがいっぱいで感激した。
写真もいっぱいで懐かしかった。

このように利用して頂くと造った甲斐がある。
SPA直入を一緒に造った岩崎茂樹君(故人)もさぞ喜んでくれているだろう。

そのほかにサーキット関連は、オートポリスや岡山のT.Iや、ミスターバイクの斉藤さんの鈴鹿ツインサーキットなどもあって、そこには忍者の伊藤さんの写真が出てくるなど興味が尽きなかった。

おまけに、SPA直入関係で出会ったブログ「へっぱくおやじのウダウダ」が載っていた。これは太田さんのブログだったのだ。

お店のホームページはいろいろ見せて頂いているが、「WITHのホームページ」はなかなか面白い。
「ユーザーへの視点」や太田さんの「お店経営のコンセプト」が明確でそれが上手に表現されている。

WITHを訪れるバイクを愛するみなさんの「いいバイクライフ」を祈りたい。
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40年も経つと

2007-03-23 05:59:59 | 日常生活、園芸、バラ
先日久しぶりに仙台へ行った。
仙台に住んでいたのはもう40年も前のことである。

その頃はまだ人口も50万人を切っていたし、仙台駅もまだ昔のままで勿論新幹線も開通前で、駅のウラ辺りも未開発のままであった。

今回、仙台の町を久しぶりに見て特に周辺の変貌振りに驚いた。
4年も住んだ街なのに、新しく開発された地域はクルマで走ってもどこを走っているのか見当もつかぬ変りようである。

街の中心部は流石に昔の面影のままであったが、杜の都の面影は少なくとも郊外には見られなかった。


彼岸の墓参に明石に行った。
中学、高校、大学、会社勤めで仙台に転勤するまで住んでいたし、子供の頃の明石もよく知っている。

終戦後伯父たちが疎開していた田舎も、今は神戸市西区になって新興の繁華街に一変している。
大型店舗や飲食店の看板が並んで賑やかではあるが、昔の面影など偲びようもない変わり方である。
昔のままがいいとは言わぬが、もう少し何とかなったのではないか。


仙台も明石もともに昔の城下町である。
お城やそれに付随する公園などそれなりに昔の風情は残っているのだが、どちらも郊外に行くにつれて郊外のよさよりは、賑々しさやけばけばしさが目だって城下町の面影など微塵も残っていないのである。


ヨーロッパの町などは、どこも何となく風情があって街全体の景観に統一性があるように思う。

どうも日本の行政は個々の規制や規格には熱心だが、トータルデザインはどうも得意ではないようである。

個々をいろいろ言う前に、「どんなコンセプトの街づくり」をするのか、「昔から受け継がれた伝統や景観」をどのように生かした街づくりをするのか、そんなことをよく考えて欲しいと思う。


今住んでいる三木市も城下町である。
今のところ、仙台や明石のような雑然としたところはない静かないい街だと思うが、40年先もそんな雰囲気が残るような街づくりであって欲しいと思う。

詳しいことはよく解らぬが、国の言う「景観法」はそんな方向を示しているのだろうか。
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テクノラテイー2

2007-03-22 05:52:52 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
つい先日、テクノラテイという検索サイトを見つけた。

インターネットの世界は「ただただスゴイな」と感心するばかりのことが多いのだが、このような素晴らしい検索サイトがどのようにしたら出来上がるのか。

技術オンチの私などはただ驚くばかりである。
インターネットそのものがそうだが、この検索サイトも無料の運営である。

確かに大手の広告も入ってはいるが、広告料だけで成り立つのであろうか。

私は朝日の日曜版beで知ったのだが、実際に利用してみて検索範囲は従来のものに比べて格段に詳しく面白い。

まだまだ、内容を正確に理解している段階ではないが、自分のブログの内容でチェックしてみると本当に驚くばかりである。

日本に今900万人がブログをやっているとか、その9割を即座に把握して、検索した言葉の含まれる新しい順に時系列で並んで表示されるのである。

情報収集は元来好きで,年に似合わず好奇心も旺盛で今までも、いろんな検索を楽しんできたがまた一つ楽しみが増えた気がする。

兎に角、日本語で発信された言葉の9割をキャッチするというのが面白い。

いろんな言葉を今実験的に挿入してその結果を楽しんでいる。
時間は有り余っているし、時間つぶしにも情報収集にも有用なテクノラテイある。
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SPA直入物語ー5 昔話ー44

2007-03-21 05:56:45 | M/Cレース

SPA直入物語ー5

起工式から丁度1年後の1990年4月15日、SPA直入はオープンイベントで幕を開けた。

金谷、和田、清原、宗和などカワサキに関係したライダーたちが参加してくれてイベントを盛り上げてくれたが、主役は何といっても自分の愛車に乗って集まってくれたユーザーたちだった。

その数4000人。広いと思っていたパドックが埋まってしまった。

岩屋万一直入町長は開会セレモニーで、
「今日、有史以来一番大勢の人が直入町を訪れた。」と挨拶された。

愛車に乗って直入を訪れたユーザーたちが、その車でサーキットを体験走行したのである。
先導をつけたものではあったが、切れることなく続いた走行はまさに壮観であった。

これは日本で始めての試みであった。

これを機会に各地のサーキットでも一般ユーザーの走行会などが開催されるようになったのだが、その皮切りの役目をSPA直入は果たしたのである。

建設当初からレースだけでなく、
「一般の人たちも気軽に走れるサーキット」というコンセプトでイベント当日だけでなく、「インジョイライデング」などと称してその後も一般ライダーに開放する時間帯を設けたりしたのである。


地元直入町にもいろんな意味でお役に立てたと思う。
もともと、温泉で有名であったがSPA直入ができて若者も集まるようになり、温泉だけでなくモータースポーツのサーキットのある町というイメージも生まれた。

芹川ダムのジェットスキーもプラスになった。
特に、後年カワサキといろんなことで関わりのあった岩城滉一がジェットスキーで芹川ダムに、レーサーでSPA直入を好んで訪れるようになった。

今、人気の宿房「翡翠之荘」がスタートしたばかりの頃で,その主、首藤文彦さんとも仲良くなって岩城滉一の定宿となったのである。

SPA直入と時を同じくして建設されたオートポリスもご縁があって、今カワサキのサーキットになってKMJがマネージメントを担当している。

その責任者の渡部達也君は、直入とも深く関係があった。
機会があれば是非訪ねてみたい懐かしい思い出いっぱいの、今は竹田市直入町である。




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SPA直入物語ー4 昔話ー43

2007-03-20 06:15:37 | M/Cレース
SPA直入物語ー4

事業部内のコンセンサスは問題なかったが、財産物件に関するマターなので本社の了解が必要なのは当然のことである。

ひと昔前なら難しかったと思うが、経営危機を乗り越えて事業の将来性にも目途が立ち社内の単車事業を観る目が変わっていたので至極スムースに本社の協力が得られたのである。

とはいうものの、いろんな方に応援をして貰った。特に本社企画の阿二さんにはスタートの頃から一緒に岡山や四国のサーキット視察から付き合ってもらい本社サイドの説得を一手に引き受けてくれた。

財産の桑畑部長以下にも、建設会社の選択、当方の予算に合わせた工事内容の検討などお世話になった。
工事を担当してくれた三井不動産もサーキット工事は始めてであったが、岩崎君などと一緒にいわば素人が指示するサーキットの仕様に全面的に協力してくれた。

その結果、3ヵ月後の7月には、当方の要求どおり380百万円で概算見積もりが出たのである。

9月8日には社長以下の経営会議で正式に社内承認がとれて、次は大分県の開発申請の認可を得る手続きに入ったのである。


このようなプロジェクトははじめての経験であったが、いろいろと許認可か必要で時間が掛かるものであるのがよく解った。

ただ、このときは直入町が積極的に応援をしてくれたので県庁関係も本当にスムースであった。
年が明けて2月の県庁への説明には、岩屋直入町長に一緒についていって頂いた。

開発申請も無事認可になり、
3月29日、工事着工。
4月14日、起工式。
といよいよ工事が具体的に開始の運びとなったのである。

最初に「サーキット」という発想をしてから、ほぼ1年で工事着工に漕ぎつけられたのは、本当に早かったと思う。

その蔭には、いろんな人たちの協力が合ったと思う。
特に、表面には出ていないが直入町の役場や町の方たちにはお世話になったし、励ましていただいたと思っている。

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テクノラテイ

2007-03-19 13:50:40 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

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㈱忍者40周年

2007-03-19 05:55:41 | カワサキ単車の昔話
家に送られてきた二輪車新聞に「忍者創業40周年」の記事が載っている。

伊藤さんのところ40周年だったのだ。先日仙台の服部君のお店の30周年記念に出席したが更に10年早かったのだと思った。

大阪ではじめて伊藤さんと会ったのは1970年の末だから37年ほど前である。
カワサキとお付き合いをするまでに何年か過ぎていたのだ。
70年に伊藤さんとお会いした経緯を、衛藤さん(二輪車新聞記者)らしく、私のことも記事に書かれている。

「たまたまこの地を通りかかった」とあるが、同乗していた竹内優君が「面白い店があるのだがちょっと寄りますか」ということでお寄りしたのである。
確かに小さい店だったが弟さんと二人で、今とおんなじ早口の河内弁が印象に残っている。

40周年で今回も立派な新店舗に改装されて、その写真も載っていたが本当に立派な店に成長されたものである。
両親から受け継いだ店だから、新築の方が費用も安いのにあくまでも改築にこだわったというのが伊藤さんらしい

最初の店から何度も改装を繰り返し、
店の名前も「伊藤モータース」から幾度も変遷を経て「忍者」まで、
カワサキも共栄会、特約店、ARK,などその時々の時代を経て今、正規取扱店まで一筋に続いている。

新店舗での営業を3月2日から開始したと載っているのだが、
実はつい最近、伊藤さんから「昆布」を送って頂いた。毎年泉州の「水ナス」を送って頂いているのだが、少々シーズンに早いなと思っていたのだが今思うと、新店舗関連だったのだと思う。

包み紙に書いてあったのか、若しそうなら見落としてしまっておりお礼状にもその旨は触れていないので、このブログ、お詫びとお祝いの気持ちで書いている。

記事には息子さん仁君(伊藤仁専務)と一緒の写真も載っている。
服部君のところもそうだったが、いい跡取りがおられて楽しみである。仁君には2年ほど前三宮で飯を食った後、わざわざ三木の自宅までクルマで送って頂いた。
30年以上も経つと世代が変っていくのである。

たまたまとは思うが「3月2日」は私の誕生日である。これも何かのご縁と思う。
新しい忍者」のますますのご発展を祈りたい。
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SPA直入物語ー3 昔話ー42

2007-03-18 06:12:33 | M/Cレース
SPA直入物語ー3

88年3月11日、大分県直入町の所有地内に小型のサーキットを建設しようというプロジェクトはスタートしたのである。

たまたま営業にいた岩崎茂樹君と組んでこのプロジェクトを進めたのだが、
はじめての経験ではあったが、二人ともレースマネージメントの経験はあって「ずぶの素人」でもないので、基本コンセプトさえ確りさせておけば何とかなると思った。

大体、次のように考えた。


1.直接の動機は今後も続くであろう直入町のいろいろな要望を満たすことが出来る、そんな施設の建設である。サーキットがそれを満たすことになるかどうか,100%自信があった訳ではないが基本コンセプトの中の一つに直入町としてのメリットを考えた。


2.当時,各メーカーが発売するマシンは所謂レーサーレプリカ的なものが多く、性能も相当なものであった。ユーザーはマシンの性能に見合うレースに似た走行はしたいのだが、その場所を求めてカーブの多い峠などに集まり、各地で峠族などと言われて問題となっていた。

各地にサーキットはあったが、一般市販車で走行を許してくれるところはどこにもなかった。
このコースを造る当初から、ここでは一般の市販車でも走れるコースにすると決めてスタートしている。
大げさに言えば、ユーザーに車の提供をするだけでなく、走る場所の提供をすることもメーカーの社会的責任と思ったからである。

テストコースでは客は来ないが、サーキットならお客も来るし幾らかでも温泉も賑わうのではないかとと思った。


3.岩崎君とコース設計をする時点で、コースの安全性についてはどこのコースにも負けないように留意した。コースの巾、カーブのアール、安全地帯、傾斜角度など。
コースの規模から言って、初級クラスのライダーの走行が多いことを意識した。


4.建設費も3~4億円という枠を勝手に決めた。
土地は有り余るほどあるのだが、九州という市場で余り大きくしても採算維持費に将来苦労するようではと思った。

サーキットの建設に掛かる費用の大きいのは,移動する土量と水処理などである。
土の移動量を極力少なくするようになレイアウトを考え、それでコースの長さ1.43キロは決まったと言ってよい。


5.レースに関連するイベント開催を当初から想定したので、パドックは広くとった。1000人位の人を入れても十分余裕がある広さを確保した。


いろんなことはあったが、このプロジェクトのMUST条件は直入町が納得するかどうかに掛かっていた。
町長以下議員さんたちににサーキットを理解して貰うために、岡山の中山サーキットを見学して貰ったりした。
また、3月には直入町の芹川ダムにジェットスキーを寄贈しレンタル業を町が行うなど町との関係の改善を図った。
これはジェットスキーが新しい乗り物で話題性もあって好評であった。

今までぎすぎすしていた直入町との関係は、サーキット完成前に大きく前進したのである。

一番大きかった町との関係が目途が立って、次に社内の本社決済を取ることから具体的に活動をはじめたのである。


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