雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

ラグビーもよかったが、阪神も素晴らしかった

2019-09-30 06:31:03 | 発想$感想
★全力で戦うスポーツの世界はイイ。

 優勝候補のアイルランドに快勝して、日本中が湧いた。





★昨日は阪神の試合もよかったし、
 メッセンジャーの引退セレモニーも素晴らしかった。

この日の先発は今季限りで引退を表明している右腕・メッセンジャー。
先頭の1番・大島を空振り三振に抑えて交代となり、スタンドからは惜しみない拍手が送られて有終の美を飾ったことから試合はスタートした。

7投手の継投で中日を破り、あと1勝で広島を逆転しての3位となる。





  

 ★試合後行われたメッセンジャーの引退セレモニーが素晴らしかった。

 サンテレビが最後まで中継をしたのもよかった。
 そのテレビ画面からの映像である。

 阪神ファンで満員のスタンドをバックに行われた。







 支えた家族も一緒に!




 素晴らしい雰囲気だった。
 これは、日本人の感謝の気持ちを素直に表していると思う。



 
阪神ファンは素晴らしいなと、正直そう思った。






 それに応えて、丁寧にグランドを一周したメッセンジャーもホントによかった。


 ここまで来たら、今日も阪神勝って欲しい。


 


 
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読めたのだろうか?

2019-09-30 00:39:37 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
★私の書いているこのブログは、そのままFacebookに転記することにしている。
 Facebookにこんな長い文章を乗せるのは、どちらかというと異質なのだが、構わずそうしている。
 いつも何人かの方は見て頂いて『いいね』が頂けるのだが、ホントにたまにアメリカの孫たちからの『いいね』が届くのである。

アメリカの孫たちは3人いて上の二人は日本の小学校にも行っていたので、日本語も大丈夫読めるのだが、一番下の門野哲也はまだ幼稚園の頃にアメリカに行ってしまったので、小学校に入るころは英語も解らず大変だったようである。

学校でも何も喋らず先生が心配されたようだが、ホントに何も解らなかったのだろうと思う。今は日本語も不自由なく喋るのだが、英語のほうが間違いなく得意で、日本語は喋れるが字を読むのは、もう一つなのである。

 そんな哲也もたまには、Facebookに、『いいね』をくれたりするので、
『私のFacebook も日本語の勉強にはなっているのかな』と思ったりしているのだが、
芝生を草原に戻そう 雑感』 

というこのブログに『いいね』が来たが、ホントに全部読めたのだろうか?

裸足・駆除・奏功 などという漢字がもし読めたら大進歩である。
そういう意味では、私のブログも、哲也の日本語の勉強の足しにはなっているのかも知れない。

 彼はいま、サンデイエゴ大学にこの9月から入学したばかりなのである。
 ちょうど休みで戻ってきているようで、

娘婿がFacebookにこんな記事をアップしていた。

日本語の読みは不得意だが、サッカーは得意なのである。


 


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芝生を草原に戻そう  雑感

2019-09-29 06:17:41 | 私の生き方、考え方&意見
★週末は、近くの三木総合防災公園に走りに行くことが多い。

 若い人たちも、神戸あたりからいっぱい集まってくる。
 
  


 ランニング用に舗装された道もあって、

   


 そこを走るのが主流だが、
草いっぱいの広場の中を裸足でジョッギングしたりも、している。

 


だんだんと都会に住む人の割合が増えて、自然の中で暮らす機会が少なくなっているので、自然に帰りたいのかも知れない。

こんな大都会の中を走るよりは、多分気分もいいのだろう。




★この公園は兵庫県の管理なのだが、
三木には同じように兵庫県管理の『三木山森林公園』もある。

昭和30年代の里山環境を復元しようと職員らが立ち上がった三木山森林公園
外来種を駆除し、芝生広場をかつての草原に戻す取り組みなどが奏功し、カヤネズミやニホンアカガエルといった多様な生物が定着した。・・・』 
 
という記事が神戸新聞に載っていたが、
この公園の芝生も『草原に戻そう』としているのだろうか?

 この公園の手入れはいいのだが、何故か大きな芝生広場は雑草が自然に生えるままに放置していて、『三木山森林公園の芝生広場』と同じような状態になっている。

 



 もう少し、このままに放置したら、芝生広場の面影は消えてしまうだろう。

この公園にはサッカー場なども何面もあって、
そこは草一本生えていないような管理なのだが、こちらはホントに草原になりかけている。


★確かに『昭和30年代』までは、日本も自然がいっぱいだった。

 日本全体の大改造が始まったのはその後の時代からである。

最近は、外来種は何となく減ったような気もするが、自然に任したら、日本の在来種が息を吹き返すのかも知れない。

除草剤を撒いて、雑草のない綺麗な芝生もいいのだが、こんな草原も叉いいような気もする。

 『昭和30年代の自然を取り戻す』、こんな発想が浮かぶのも、自然を潰してしまって、草の生える場所のない都会を経験した人間の知恵なのかも知れない。

私自身、まさに『昭和30年代』までに成人した世代なのだが、
昭和一桁生まれ』はみんな85歳以上になってしまって段々少なくなる一方だが、

戦時中』も知ってるし、『戦後の激動』も、『高成長時代』も経験した、オモシロい時代を経験した世代だと思っている。

何となく『綺麗な芝生』よりは『自然の草原』に似た世代で、ひょっとしたら、自然だけでなく人間も
昔の日本人』のほうが自然で、人間らしくて、『よかったのかも知れない』ような気もするのだが、
 ホントはどうなんだろう?

 


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メダカを池に入れたけど

2019-09-28 07:35:24 | 日常生活、園芸、バラ
★8月には毎日卵を産み続けたメダカだが、流石に9月も末に近づくと産まなくなってしまった。

それでもこの夏生まれたメダカは、数えきれないぐらいいたので、
昨日はそのうち100匹ほどを池に移してみたのである。

   

 
三木に来て45年以上になるが、
ガレージの下のこのT字型の池には、スタート以来ずっと何かが居る。

かっては鯉も鮒もドジョウもいたことがあるのだが、
この15年ぐらいは、金魚とエビとメダカぐらいだが、
5年程前から金魚は毎年何匹かの仔どもを産み出したのである。
 
最初にいた金魚は死んでしまっているのだが、その後生まれた金魚が大きくなって今では20匹以上いるのだと思う。


餌をやると水面に浮いてくる。
 慣れていて逃げたりはしない。






金魚の向うの黒い小さなのは 『エビ』 
毎年こどもを産んで、今写っているのは親エビで、
小エビは写真には写らないが、何匹いるのかワカラナイくらいいる。

これは15年ぐらい前に、孫と川で獲った川エビが毎年こどもを産んでいっぱいなのである。




★そんな池に、この夏に生まれたメダカを100匹ぐらい入れた。

 去年も何匹か入れて、生きていたのだが数が少なくて全然目立たないし、何故かこどもが育たないのは、金魚に卵を食われてしまうからかも知れない。

 今年はちょっと多めに入れて来年の夏、この池でメダカが孵らないかなと思っているのである。



 100匹も入れたのに写真にはなかなか写らない。




 肉眼で見るといっぱいいるのだが、まだ小さすぎるのだろう。
 それでもじっと飽きずに30分以上眺めていたりするのである。





 果たして来年の夏『メダカの仔』が見られるのだろうか?

 
 
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運転免許更新

2019-09-27 08:14:22 | 日常生活、園芸、バラ
★免許更新の通知が来た。
高齢者講習が必要になってから、何回目なのだろう?

 最近はすぐ『免許更新の通知』が来るなと思ってしまう。

 『免許取得後5年未満の人や違反運転者、71歳以上の高齢者は3年間、そのほかの人の有効期間は5年です。 免許証の有効期間が満了する直前の誕生日の1ヵ月前から1ヵ月後の2ヵ月間が更新期間で、その間に手続きをする必要があります。』

 とあるから『3年経った』ということなのだろう。




   




今回から、また手続きの内容が変わって、
認知機能検査のお知らせ』となっていて免許更新手続き以前に『認知機能検査』が必要になったようである。

 『高齢者による事故多発』の現状を見ると、これも仕方がないのかなと思う。

 私自身は今86歳だが、あと何回かは若し生きてたら『免許更新』をしたいとは思っているのだが、更新の手続きが『ムツカシクなる』のは一向に構わないが、年齢で取れなくなってしまうことは困るなと思っているのである。

お蔭様で元気だし、体力も認知機能も日頃から、鍛えているのも、
一つには『何時までも運転したい』と思っているからなのである。
三木に住んでるが、ここはクルマがある限り『最高の場所』だが、
クルマに乗れないとなると、ちょっと生活も大変だと思ってしまう。

 

★ それは兎も角、こんな内容なのである。

     


 
どこかで聞いたが、
大変混しています。 すぐに予約申し込みを!』とあるので、
昨日近くの教習場に電話したら『今なら、12月になって、免許更新に間に合わない』  
と言われるので、これは大変だなと思ったが、

今朝、いつも更新している『小野の教習場』に電話したら『今日は臨時休業です』とあって、ちょっと慌ててしまったのである。

兵庫県自動車学校の明石校に電話してみたら、
一番早くて10月3日の1時50分の予約』が取れてホッとしたのである。
でも、なぜ三木の教習場はすぐ電話してもダメなのかな?
そんなに混んでいるのだろうか?


★まあ、何とか今回は免許更新が間に合いそうでほっとしたのだが、
認知機能検査』に合格しないとイケナイようである。

 この検査は3つあって

● 『受験の年月日、曜日・時間』が言えないとダメ。
 今日の電話でも相手の方は、
 『10月3日、木曜日の1時50分です』と何回かゆっくり言われたのである。

● 『16の絵を記憶して後で答えてもらいます』 これは何回も経験したが、なめてたらダメで第1回の時は16のうち4つしか答えられなくて、慌ててしまったのである。
幾ら考えても、同じものばかりがアタマの中に、現れるのである。

その時言われたのは、年を取ると絵を理解することは出来るのだが、何か一つが解ると、そこに注意が集中してしまって他のことが解らなくなる言われるのである。
 
車の運転に例えると、『交差点の信号はちゃんと認識できても横断歩道や、右折止に気が付かない』と言われて、それ以来、すごく気を付けるようになったのである。

その後は同じ問題が出ているが、半分以上答えられている。

● もう一つは時計の文字盤と、時間を長針、短針の記入で、これは問題ないと思う。


 是非『76点以上』が取れるように頑張りたいと思う。
 どうやら『76点以上』とそれ以下では『講習内容』が異なるようである。
 こんなブログをアップしておけば『予習』にでもなるかなと思っているのである。



 
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カワサキのレースの歴史 の創生期

2019-09-26 07:46:31 | M/Cレース
★『LEAN,MEAN AND RIMEGREEN!』というカワサキのアメリカでのレースの本が出版されたので、今英文の300ページを読んでいるところだが、アメリカのレースが始まる前に、国内のレースがあって、当時は『赤タンクのカワサキ』と言われていたのである。

この機会に『日本も含めたカワサキのレース』の話を私なりに時系列に纏めておきたいと思っている。

     




★カワサキの2輪事業は昭和35年(1960)『単車準備室』と共にスタートし、翌昭和36年度から国内市場に125B7などをカワサキ自動車販売を通じて販売することからスタートするのだが、そのB7の時代に、カワサキ自販の小野田滋郎さんや川崎航空機の井出哲也さんによってMCFAJ全日本への参加をしているのである。
ライダーは三吉一行だったと思われる。
これがカワサキの最初のレースだと言っていい。
 

★昭和37年度(1962)にはB7の不具合で車両の返却が相次ぎ、レースどころではなかったのだが、
この年11月に『鈴鹿サーキットがオープン』し、日本で初めての本格的ロードレースが開催され、カワサキの生産部門の人たちがその観戦をして、カワサキにもレース熱が非公式だが秘かに湧き出すことになるのである。
このレースの250㏄優勝者が三橋実、350cc優勝者が片山義美で、のちカワサキのレースは三橋実主宰の『カワサキコンバット』、片山義美の『神戸木の実クラブ』のライダーたちと共に活動することになったのも何かのご縁かなと思うのである。

 
★その結果昭和38年(1963)5月に生産部門が独自に創り上げたB8モトクロスで出場し、1位から6位までを独占するのだが、これは当日雨が降って他メーカーのマシンはみんな止まってしまったのにカワサキだけは『防水対策』が完全であったので、車が止まらなかったという結果なのである。
 カワサキの長いレースの歴史の中でも1位から6位までを独占したのはこのレースだけで、運がよかったと言わざるを得ないのである。

    


それは兎も角、B7の不振で単車事業をこのまま進めるべきかどうかを検討していた最中の出来事で、非公式なレース参戦ではあったが、現場は大いに意気上がって、市場調査に入っていた日本能率協会は『単車事業やるべし』との判断を下すのである。
 青野ヶ原レースまでは、生産部門の中村・髙橋・川崎・松尾さんなどで進められていたしライダーも社内ライダーだったのだが、この年の末あたりから広告宣伝課でレース予算も取り、川合寿一さんがライダー契約をスタートさせたし、関東ではカワサキ自販の小野田滋郎さんが厚木に三橋実を中心にしたカワサキコンバットを立ち上げることになるのである。



★昭和39年(1964)度がカワサキの公式なレーススタートの年だと言っていい。
この年から昭和41年(1966)までの3年間がカワサキが国内だけでレースを展開していた『赤タンクのカワサキ』の時代で、アメリカはA1が発売された1966年からレースがスタートすることになるのである。

 ただ、この時代は川崎航空機の人たちはエンジンについてはプロがいっぱいいたのだが、単車事業の経験などは一切なくて、民需大量生産品の販売も初めてだったし、ましてやレースなど何の経験もなかったのだが、みんな手探りでスタートしていったのである。

この年の1月に『単車再建宣言』がなされ単車事業本部が独立し、広告宣伝課がレース運営を担当することになるのである。
この年関西では神戸木の実クラブの歳森康師・山本隆と
関東ではカワサキコンバットの三橋実・安良岡健・梅津次郎・岡部能夫
の契約ライダーでスタートした。

 レースに関しては、当時はエンジンのチューンアップは技術部、マシンに仕上げるのは生産部門のレース職場で兵庫メグロからカワサキに移籍した松尾勇さん以下が担当し、レース現場ではライダーたちの先輩格の三橋実が指揮をとっていたような状況だった。
 レース職場の管理を田崎雅元さん、レース運営の管理をが担当していた『寄せ集めチーム』だったのである。

それでも、4月に朝霧高原であったMCFAJ 全日本MXのオープン部門で山本隆が優勝し、10月の丸の山高原の全日本では4種目中3種目を制して、カワサキはモトクロスでの地位を確立することになったのである。


★翌昭和40年(1965)は星野一義がノービスクラスでデビューし優勝を飾り、
5月には山本隆が非公式に鈴鹿ジュニアロードレースに出場しホンダに次いで3位に入賞し、一気にロードレース分野への参入も正式に決まったのである。

6月には鈴鹿アマチュアロードレースに3台を出場させ、カワサキで初めて大槻幸雄監督・田崎雅元助監督のレース布陣がお目見えした。
このレースに初めて金谷秀夫が歳森康師とのコンビで初のレース登場となるのだが、それは4月のレースで山本隆がジュニアの資格を取ったために出場できなかったので歳森康師が神戸木の実の同僚の金谷秀夫を連れてきたのである。

この年あたりからカワサキでもGP125の開発が進められ鈴鹿サーキットなどで安良岡健・金谷秀夫などがテストを重ねていたのだが、2分50秒がなかなか切れないような状況だったのである。
アメリカ市場への進出も始まって、この年の8月には、一緒にレース活動をやっていた田崎雅元さんが明石サイドから初めて、アメリカシカゴに出向くことになるのである。
 
同じころ一般車両の250A1の開発がスタートし、このテストには名神高速道路で歳森・金谷なども手伝ったりしたのだが、アメリカ市場には百合草三佐雄さんが単身乗り込んで、アメリ人ライダーと共にテストしたのもこの年だし、当時アメリカにいた杉沼さんや田崎さんも手伝ったようである。

レースがモトクロス・ロードレースと拡がって、この年の10月に岩城本部長の命で『レース運営委員会』が設立されたのだが、そのメンバーは山田熙明・苧野豊秋・中村治道・髙橋鐵郎・大槻幸雄・安藤佶郎というその後の単車事業を背負ったメンバーだったのである。
その事務局を私が担当することになったのである。


★このようにカワサキにも本格的な250A1というスポーツモデルが市販され、
昭和41年(1966)から、GPレースもロードレースも、モトクロスも『本格的なレース仕様車での取り組み』がスタートするのである。

1月には藤井敏雄との契約締結でスタートした。 スズキからの移籍なのだが、その交渉は技術部で行われ、私はその契約だけを担当したのである。
本格的なGPレース参加を目指しての契約なのだが、1月の時点ではマシンの貸与契約で9月までその貸与マシンでヨーロッパGPを転戦し、10月の日本GP前に『規のライダー契約を』というのがご本人の強い意志だったのである。


     

この年モトクロッサーでは、本格的なクロモリのパイプフレームによるF21Mが完成した。 カワサキの単車のレースの世界に当初から参画してくれた松尾勇さんの傑作と言っていい。
 
このF21M以降、カワサキのモトクロスは、山本・歳森・梅津・岡部・星野とライダーも揃って連戦連勝の最盛期を迎えるのである。

         


カワサキが初めてロードレースの世界で優勝を飾ったのが9月のFISCOのロードレースで、A1Rの金谷・三橋が他を寄せ付けなかったのである。

 こんな『いいニュース』もあった傍ら、この年は大変な年でもあった。
8月末にマン島のプラクテスで藤井敏雄が転倒事故死することが起こったし、
その1か月後の9月末には、10月の日本GPのライダーとして契約していたデグナーが練習中に転倒し頭を打って入院してしまったのである。


   


本番の日本GPは、急遽シモンズ・谷口と契約して繋いだのだが、これがカワサキとしては初めてのGP参加ではあったが安良岡健が7位に入ったのが最高だったのである。

ただ、同時に行われたジュニアロードレースでは、カワサキの250A1と対抗するためにヤマハが急遽アメリカからAMA の1967年、1968年チャンピオンゲーリー・ニクソンを、ジュニアのレースに登場させたのだが、
このレースで金谷とニクソンは『同じベストラップを記録』するなどの大接戦だったのである。

         
 
G・ニクソンはその後アメリカのカワサキでも大活躍することになるのだが、この年のFISCOのレースでは、全てのライダーが真っ黒のつなぎの中で、G・ニクソンだけが『真っ赤なつなぎ』で観衆をビックリさせたのである。



★この年までの何年間かが『カワサキのレースの創生期』だと言っていい。

この時期、カワサキのレースを支えたメンバーは『レース運営委員会』のメンバーだったのである。
 ずっと後、カワサキのレース25周年のOB会を私が主宰して行っているのだが、そこにはこんなメンバーと当時の現役たちが集まっている。

   

 前列左から 糠谷・松尾・山田・西海・髙橋・苧野・中村・大槻
 2列目   岡部・金谷・平井・田崎・古谷・安良岡・和田・山本・清原・大西
 3列目右  歳森・岩崎
 4列目右  梅津・星野
 が所謂OBで、その他の方は当時のレース現役なのである。
 現役諸君には宗和・多田・杉本など顔も見えるが、OBでは星野・清原が一番若手だったのである。


★この年で当時の創生期のメンバーはレース担当を終わり
私は東北仙台に、
モトクロス監督の安藤さんは、田崎さんと入れ替わってアメリカに、
ロードの監督の大槻さんは技術部の量産開発部門に異動になって、
糠谷監督・岩崎茂樹マネージャーの体制に移ることになるのだが、この時代も未だカワサキは『赤タンクのカワサキ』だったのだと思う。

一方海の向こうのアメリカでもようやく、A1Rから、本格的なレース活動が展開されるようになって、『LIME GREENの時代』がスタートすることになるのである。

マシン開発も技術部の手に戻って、本格的なレース活動がスタートするのは、糠谷さんの後を継いだ百合草三佐雄監督からで、モトクロッサーの名称も『KX』に統一される時代になり、
技術部の量産品開発担当に戻られた、大槻幸雄さんが市販品ではマッハⅢ・900Z1と2サイクルから4サイクルへ転換し、GPレースでは栄光のKR時代を迎えることになるのである。

私自身のことを言うなら、
1967年から1988年までの20年間は、販売網政策・東南アジア市場開拓・国内販社担当・事業本部再建計画と全くレースとは無関係で、この間のレースのことは殆ど解っていないのだが、1989年に再び国内市場担当になる直前から、岩崎茂樹と二人で直入サーキットを創り、その後の国内市場担当でも、本格的なレース展開中心のマーケッテングを展開しているのである。

そのスタートの旗揚げが、1988・10・15の『カワサキファクトリー25周年OB会』で、
この会合で当時の先輩諸氏に、『国内販社でのレース活動復活宣言』をした積りなのである。


★この会合からさらに20年の歳月が流れて、お亡くなりになった方も多いのだが、
いまでもZ1会などで顔を合わせるほか、大槻幸雄さん・田崎雅元さん・百合草三佐雄さん・山本隆さん・平井稔男さんなどと親しくお付き合いさせて頂いている。

 昨日も田崎さんから当時のこと、こんなメールを頂いた。

 『1965年、田崎さんは8月20日に日本を発って、シカゴに行き9月に本社企画の渡邊さんと二人出張所を設け、全米をカバーするサービス体制を強化するには、まず部品センターが必要と、翌年の1966年3月に、現地法人の部品センターを設立した。その株券発行は1966年3月9日、American Kawasaki Corporation(AKM)で、資本金5万ドルの株券には発起人として私がサインした。』 とある。

 この会社が後のKMCとなっていくスタートなのである。

 
 

A1のテストは、百合草さんの手伝いはしたが、主務ではなかったようでこんな写真もある。

 

 
同じころのW1の走行テストは、当時の現地の日本人のメンバーでは、バイクに乗れたのは田崎さんだけだったようで、ハイウエイも走られたとか。

 

   
 
 田崎さんは1967年2月には帰国されているので、
 Randy Hall は、ご存じないそうである。

 

 







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Wikipedia  と 門野真也

2019-09-25 06:31:50 | 発想$感想
★今どき Wikipedia をご存じない方は少ないと思うが、
私が初めて『Wikipedia』という言葉に出会ったのは、娘一家がアメリカに移った当時、孫たちはまだ小学校の低学年だった今からもう15年以上も前の話なのである。
孫たちの学校の宿題をやるのに、アメリカの話なのでなかなか難しかったようだが、その時役に立ったのが『Wikipedia』だったようである。

そんな話を娘から聞いて知ったのだが,
当時の日本の人たちの間では、その名前すらご存じなかった時代だったのである。
当時、何となく三木市の広報の方たちとは繋がっていて、三木市の広報の方にWikipediaを聞いても、どなたもご存じなかったし、日本の市名をWikipediaで探しても、殆ど何も記載がなかったそんな時代だったのである。


そんな孫たちも今は成人して、アメリカに居る孫の次男門野真也は,
昨年末にアメリカのBerkeleyを卒業して、
この春からアメリカのサッカーのプロになったりしているのである。

そしてふと『門野真也』と検索すると、こんなページが現われて、
門野真也ーWikipedia などと現れるのである。
 




そしてこのような内容になっていて、その通りなのである。
Wikipedia などどんな方が書かれるのだろうか?

私もある程度興味は持って、Wikipediaにチャレンジしたことはあるのだが、とても歯が立たなかったのである。


門野 真也(かどの しんや、1997年1月30日 )は、
兵庫県神戸市出身のサッカー選手。USL League One の Tormenta FC 所属。
ポジションはFW、MF。 
2019年1月にメジャーリーグサッカーのD.C. ユナイテッドからドラフト3巡目で指名された。 

略歴
小学2年生まで地元兵庫FCに所属。父親の転勤によりアメリカへ移住、カリフォルニア州のアーバインへ引っ越した。 
中学生の頃は地元サッカークラブの Strikers FC に所属。Strikers FCには2度のトライアウトに失敗し、3度目で合格している。 
U-15シーズン終了後、U-16のStrikers FC Academyチームに所属し、
U-16/17、U-18/19時にはチームキャプテンを務めた。 

Woodbridge High School 卒業後、サッカー推薦でカリフォルニア大学へ進学。NCAAディビジョンIのカル・ゴールデンベアーズでサッカーをプレイした。
大学4年時には日本人として初めてキャプテンをつとめ、ミッドフィールダーながらパシフィック12カンファレンスでは得点王を獲得した。 

2019年1月、2019 MLS SuperDraft において3巡目(全体の72番目)でD.C. ユナイテッドから指名を受け、D.C. ユナイテッド傘下のLoudoun United FCと契約した。
同年5月11日の対 Charlotte Independence  戦でプロ入り初ゴールを挙げた。
同年7月、USL League One の Tormenta FC へ期限付き移籍した。 

  1. ^ a b c “Loudoun United FC Acquire Forward Shinya Kadono for the 2019 Inaugural Season”. Loudoun United FC (2019年2月15日). 2019年5月29日閲覧。 
  2. ^ a b c d “ルーニーとチームメイトに サッカー米MLSでドラフト指名の門野真也選手”. 神戸新聞NEXT. (2019年2月1日). https://www.kobe-np.co.jp/news/miki/201902/0012027068.shtml 2019年5月29日閲覧。  
  3. ^ “ルーニー所属のDCユナイテッド、FW門野真也をドラフト指名”. サッカーキング (2019年1月15日). 2019年5月29日閲覧。 
  4. ^ “Loudoun United signs Shinya Kadono”. Black And Red United (2019年2月15日). 2019年5月29日閲覧。 
  5. ^ “Loudoun United triumphs in second half over Charlotte Independence”. Black And Red United (2019年5月11日). 2019年6月7日閲覧。 
  6. ^ “Shinya Kadomo Joins Tormenta FC on Loan from Loudoun United FC”. South Georgia Tormenta FC (2019年7月27日). 2019年8月1日閲覧。 
外部リンク[編集]
  • 門野真也 (@skadono97) - Twitter
  • 門野真也 (shinyakadono) - Instagram
  • Shinya Kadono - Men's Soccer - カル・ゴールデンベアーズ所属時のプロフィール(英語)



ホントに詳しくご存じで、誰がアップしたのかと思う。
お蔭様でこんなリンクをクリックして、神戸新聞の記事のところを見ると


こんな私とのツーショットも出てくるのである。

 


★もし私がWikipedia の記事に追加できるなら、門野真也のいろんなことを解っているので、幾らでも追加できるのだが、それができないのが残念なのである。

門野真也』は今はサッカーのプロなのだが、何事にも熱心に取り組む勉強家で、不思議なほどいろんなことが出来て、そのレベルも結構高いのである。

● まずは、スペイン語ができて、これは会話は勿論なかなかのレベルのようである。 英語から日本語への翻訳も勉強してみたいとか。

● 料理が得意で、プロに近いレベルにある。大学の下宿では仲間の食事を全部造って、幾らか頂いていたようで、生活費が助かったようである。

● こどもの頃から絵も得意で、三木森林公園での写生大会で表彰など頂いたのだが、いままた、『こんな絵を描いたよ』とFacebook で送ってきているのである。

これはBerkeleyの母校の写真からだが、このように書いているらしい。
同じ書くなら画用紙に画けばいいのにと思うのだが、
練習だから』とこんなノートに描いている。

   


      


 こんなことも、Facebook でやり取りしているのだが、
 子どもの時は魚取りやカブトムシ採りにずっと付き合ってやった真也なのだが、
 Wikipedia に載るようになって、びっくりしているのである。


   
   
  


何事にも熱中する性格は、私に似たところもあるのだが、
そのレベルが私のように『いい加減』ではなくて、結構真面目に取り組むのである。

サッカーも『プロになる』というものだから『成れるわけがない』と思っていたのになってしまったのである。

今後はサッカだけでなく、
門野真也のWikipedia』の巾が広がるような人生を歩けたらいいなと思っている。


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曲がっている鉄橋ほか  三木雑感

2019-09-24 07:52:01 | みっきぃふるさとふれあい公園
★全国の鉄橋はみんな直線で曲がっていないようである。

曲がっている鉄橋』は、
全国で一つだけ、神戸電鉄の美嚢川に掛かっている鉄橋』だけだというが、

調べてみたら、そうでもないようだが
珍しい』ことには変わりはないようである。

 


 こちらは車内からの映像だが確かに曲がっている。



 
カメラマンにも人気があるようで、
特に三木城址から見るとこんな映像になるらしい。

  
 



★曲がった鉄橋もいいのだが、『三木城址そのもの』もなかなかよくて、
Google Mapからの位置状況はこんな感じになるのである。




 
以下は私がずっと以前に撮った三木城址の写真』からである。









なかなか風情があって、なかなかイイ。
 


★本題に戻って全国の曲がっている鉄橋の写真から

 確かに、こんな鉄橋もあるのだが、




  


『曲がっている鉄橋』は珍しいことには違いないようである。



★『三木城址』も兼ねて、まだご覧になっていない方は、
三木にも遊びに来られたらいい。


 三木は旧いまちでその通りなのだが、

 新しいものでは、こんな『みっきっこランド』も出来ていて、

 


それは私がジムに通っている、『総合体育館の横』なのだが、
昨日は朝8時半にはこの広い駐車場が『クルマで満杯』だったのである。



そんな方たちにとっては、やはり『三木の新しいもの』に魅力を感じるのかも知れない。
昨日は体育館で全国の剣道大会が行われて、1000名ほどの子供たちが集まったようである。


入場料・駐車料が無料というのが『三木の魅力』でもある。
この駐車場がいっぱいになっても、
周辺には幾らでも無料駐車場がある、普通では考えられない環境なのである。
 
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パソコンはムツカシイ

2019-09-23 15:18:44 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
★結構パソコンではいろいろやっているので、『詳しいのでは?』と思われているようだが、技術的には何にも解っていないので、一度トラブルとどうしようもないのである。

 そんなことだから富士通のお客様相談室に登録していて、トラブルが起こるとそこに電話して1回2000円ほどの有料なのだが、いろいろ相談して解決して貰っている。
 つい先日は悪質サイトに入り込まれてどうにもならなくなって、家まで来てもらって、2万円も掛ったのだが治して貰ったりしたのである。

★みなさん、パソコンの電源はどうしておられるのかワカラナイが、私はずっとつけたまま放っていたのだが、何日か前から画面がスタート画面に変わってしまって、毎回パスワードを入れないと立ち上がらなくなってしまっていたのだが、そのパスワードが勝手に10数けたもあるモノが並んでしまって、何回も消さないとダメな状況になり、最後には10数回も掛かるようなことになってしまったのである。

 いつもはお客様相談室の係の方に代わって貰って、やってもらうことが多いのだが、『立ち上がりの画面』は『それができない』と仰るのである。

 それになぜそうなっているのかも、『よく解らない』と言われて、ほぼ諦めていたのだが、いろんなことをやってたら、『なぜか治った』のである。

 


  こんな画面から『システム』を選び、





 画面とスリーブのチェックを両方とも『なし』設定しただけである。

 ここに、時間が入っていたのだが、そんな時間を入れた覚えはないので、何故かな?
 と思っているのだが、先日来『あなたのパスワードは知っている』というおかしなメールがしょっちゅう来るので、そんな連中に入り込まれているのだろうか?


★気分が悪かったが、治ってホッとした。

 果たして、どれくらい持つのだろうか?
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三木金物  剪定ばさみ

2019-09-23 06:26:20 | 私の生き方、考え方&意見
★なぜか私は、はさみを使うのが好きである。

 それが『なぜなのか』はよく解らぬが、アタマの髪を切ったりするのも好きで、昔は子供の散髪をよくしたものである。

 それがいまは、『庭木の剪定』に変わっていて、小さな庭だが植木の剪定は全て自分でやっている。

 それも大きなハサミでは、簡単に刈れてしまうので、こんな小さな『剪定ばさみ』で面倒でも少しづつ仕上げたりしているのである。

 

 
 同じようなものが何本もあるが、大体3年毎ぐらいに新調しているのである。

 実は昨日新しいものを買ってきた


  


★ご存じのように、三木は金物のまちで、のこぎりやハサミや包丁など、
金物にはいいものが沢山ある。

 こんな剪定ばさみも1000円前後のものから、5000円以上もするものまで、沢山あるのだが、
いま使っているのは3000円程度の中級品だが、なかなかよくて『気に入っている』ので、家には同じ形のものが何本もある。

 『気に入ってる』のだから、もう少し『手入れ』でもしたら、多分まだまだ使えるのだろうが、3年に一度ぐらいは、新しいものに買い替えて、それで納得しているのは、性格というか性分なのだろう。

 『新しいモノを手に入れる喜び』みたいなものを楽しんでいるのだと思う。



★三木の175号線沿いに『道の駅みき』があって、その2階に、こんな三木金物の展示館がある。

 毎回、そこで買うか、一度だけ『三木金物まつり』の時に買ったりした。

  


 この展示場には、いろんな三木の金物が展示されていて、
 見るだけでも、なかなか楽しいのである。


    


 ホントにいろんなものが、メーカーというか製造元ごとに展示されている。
  
  
   
  
そんな中から一本だけ選んで買うのは、ムツカシイので、これを買うことに決めてしまっているのである。



 別にこのメーカーさんと、関係がある訳でもないのだが、
何となく何年もお世話になっている』ので、
そんなご縁で、同じものを買うことにしているだけである。

 大袈裟に言うと『私の生き方、考え方』なので、
 『私の生き方、考え方&意見』というカテゴリーの中に分類させて頂いた。

 

 

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10月19日を「二輪文化の日」として日本記念日協会に登録する

2019-09-22 07:02:39 | NPO The Good Times
★『二輪文化を伝える会』の松島裕さんから、

 10月19日を「二輪文化の日」として
 日本記念日協会に登録しようというプロジェクトを立ち上げたので、

 『情報拡散』して欲しいというご連絡を受けましたので、その概要をお伝えしたいと思います。


   

 





二輪文化を伝える会の松島裕さんは、かつて鈴鹿8耐を走ったこともあるレース好きなライダーです。
 日本での二輪文化・オートバイ文化がもっと認知され成熟していくためには、広く一般の人にもオートバイに関心を持ってもらうにはどうしたらいいかと考え、人物や出来事に焦点を当てて情報を整理し発信する「二輪文化を伝える会」の活動を開始ししておられます。
 
■その ホームページ です。
  https://2rin-tsutaeru.net/  

 二輪文化を伝える会は、NPO The Good Times の団体会員さんでもあります。



▼松島さんが、このプロジェクトを立ち上げたきっかけは、
永年『二輪文化を伝える活動』を展開されてきて、二輪文化についてあれこれ発信したりしているうちに
独自に「二輪文化の日」を作ったらどうかと考えるようになり、
 
歴史や文化を語るの日なので、何か由来があったほうがいいと考え、
 
そこで「10月19日」が思い浮かびました。
昭和32年(1957年)に、「浅間火山レース」が開催された日です。

より多くの人に興味を持ってもらうために、
クラウドファンディングを利用」して、「日本記念日協会に登録する」ことにされたのです。
 

▼プロジェクトの内容は、一般社団法人日本記念日協会に、10月19日を「二輪文化の日」として登録します。
 記念日の登録料を皆様からのご支援で集めたいと思います。

また、ご支援いただいた方には、記念品(オリジナル日本手拭い、ステッカー)をご用意します。特別プランにご支援いただいた方には、レジェンドライダー(鈴木忠男さん、トシ・ニシヤマさん、荘利光さん他:予定)のサイン色紙を、またご支援いただいた全てのみなさまに、御礼のお手紙を郵送いたします。

 
 ★ざっとこんな内容のプロジェクトです。

 是非、二輪を愛す皆さんのご協力を期待いたします。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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LEAN, MEAN AND LIME GREEN!   創成期のレースの話  1

2019-09-21 07:16:57 | M/Cレース
★カワサキの創生期には私もレースには色濃く関わってはいたのだが、
それは一言で言ってまさに『創成期のレース活動』だったのである。

世界的なレベルでの活動展開となったのは、
モトクロッサーで言えば『KX』というネーミングが出来た時期、
それまでの赤タンクのカワサキがライムグリーンに変わってからではなかろうか?

この時からレースは本格的に技術部の管轄となり、そのリーダーを務めたのが『百合草三佐雄』さんなのである。
 
百合草さん』は昭和35年(1960)年、カワサキが本格的に単車事業に取り組んだ年の入社なのである。

私自身も、その年から新しくできた『単車営業部』に異動したので、カワサキの単車事業のスタート時点から、その営業部門の担当はしたのだが、これら営業部門はメグロ・メイハツの方たちが、その主力だったのである。

二輪開発に関しては技術部が車体関係も含めて、初めて『二輪車という完成商品』の開発挑戦をスタートさせたのである。
会社としても初めての経験だったので、大量に入社した『昭和35年組(1960)』は、入社当時から主力だったし、その後も単車事業の中枢として活躍するのである。


★私自身は創成期のレース活動のマネージメントを担当したので、当時の技術部門の先輩たち山田熙明・中村治道・髙橋鐵郎・大槻幸雄・安藤佶郎さんたちとも密接に繋がったし、田崎雅元さんとも一緒にレース活動をしたのだが、
大槻ー安藤ー糠谷と続いたレース監督の後を引き継いでくれたのが『百合草三佐雄』さんなのである。

レース関係では、ちょうど私とは入れ違いで、ご一緒した時期はないのだが、その後いろんなことで繋がって、私が一番密接に具体的に『技術屋さんと一緒に仕事をした』仲間は『百合草三佐雄』さんかも知れないのである。
 
それは『レースの世界』ではなくて、カワサキの単車事業存亡の時期にその焦点であったアメリカ市場のKMCの社長として、明石の企画部門を担当していた私と一緒に『事業再建』に取り組んでくれて、技術屋さんながら見事に成功に導いてくれたのである。
 
そんなこともあって個人的にも親しくして頂いているのだが、
その百合草三佐雄さんから
KMCで永年レース関係を担当していた Randy Hallが今回Kawasakiのレースの歴史を本に纏めたのでお送りする
というメールを突然頂いたのである。


★送られてきたその本はこんな表紙で

LEAN,MEAN AND LIMEGREEN!』 というのが本の題名である。

  
  

 こんな裏表紙の344ページもある分厚い力作なのである。

 


 
勿論、すべてが英語なのだが、素晴らしい写真がいっぱいだし、内容はレースに関することだし、結構読むと『理解できる』のである。

この裏表紙に書かれているようにRandyは1971年からKMCに参加されて、1968~78年あたりの2ストローク全盛時代が中心に書かれているのだが、


   

こんな懐かしい『赤タンクのカワサキ』時代の話も出てきて、
藤井敏雄金谷秀夫などの私にとって懐かしい名前も出てくるのである。
 

   


 見開きのページには、こんな直筆のサインもあって

 To Huruya from Randy と書かれている。


 

   
ひょっとしたら、私もRandyさんにお会いしたことがあるのかも知れないが、覚えてはいないのである。


★昨日送られてきたばかりの本なのだが、一応は300ページ以上もある英文の文章を斜めに目を通してみたのである。

 一言で言って、これは労作である。

その中味については、じっくり読ましていただいてから、何回かに分けてご紹介したいと思うのだが、
今回は Randy Hall さんの直接の上司でもあった『百合草三佐雄』さんについて、ご紹介をしておきたい。

前述したが、百合草さんとは1980年代後半に彼がKMC社長になってから、密接に繋がって、同じ目標に向かって仕事をさせて頂いた仲間『百合ちゃん』なのである。
昭和35年川崎航空機工業入社だから私より3年後輩なのである。

Googleで『百合草三佐雄』と検索したら、このように結構並ぶ有名人である。


 

松本博之さんと一緒のこんな雑誌の対談記事が現われた。

松本博之さんは、カワサキの2サイクルエンジンは、すべて手掛けたと言ってもいい人なのである。 B8・B1・J1などのの時代を経て、A1サムライ・マッハⅢなどこの本でも紹介されているレースのきっかけとなった車も松本さんの開発だった。

 その後4サイクルの時代に入ったが、1977年東南アジアのCKDマシンとして開発された120GTOも松本さんの作である。


 
この車は私の唯一の開発に関係した車なのだが、CKD専用車であるために一般には余りよく知られていないが、歴史に残る大ヒット商品であった。
78年2月3日の日記にこのように書いている。

夕方から技術部の会議に呼ばれる。大槻部長以下課長以上全員が揃っていた。
方針が明確でない限り、技術部としては開発はやらないと大槻さんにまくしたてられたが、大槻さんとはレース時代からのお付き合いで気心もよく解っていたので、営業代表としてねばって言い分を通してもらった。」
と書いてある。

何とか開発をやってみようと「助け舟」を出してくれたのが、松本博之さんだった






私も初めて見る記事だが、百合ちゃんの誕生日が私と同じ3月2日とあってびっくりした。

 入社当時のことをこのように語っている。
 

 
川崎航空機に飛行機のエンジンがやりたくて入ってきたのに『バイクのエンジンなどやらされて・・・』というエンジニアは、意外に多かったのである。

私の頭の中にある『百合ちゃんの若い頃』は、あのA1の開発テストのために、単身アメリカに渡って、そのテストに携わっていたことである。
 
 その頃のことをこのように語っている。

 
  

 未だカワサキがシカゴに田崎雅元さんが事務所を創ってた頃のことである。
 
 そんなアメリカ市場には若い頃からご縁のあった百合草さんだが、その後1976年にはKMCに中に創られたR&Dの責任者としてKMCに出向し、ここでレースにも関係したし、Randyとも直接の関係になったのだと思う。
 
81年に一度帰国するのだが、1986年にアメリカ市場のKMCが大変なことになった時期に、その再建に田崎さんの後を引き継いでの社長となるのだが、その頃私は事業本部の企画室長をしていて、KMCの社長に『百合草三佐雄』を推したのは私なのである。

 当時のKMCの問題点は、『資金営業外損益』など財務上の問題が主体であったのだが、そんな個別の問題は解らなくても、構造改革の先頭に立って旗が振れる『強力なリーダーシップ』のある人材がMUSTで、それが技術屋さんであってもいいと思ったのである。

   


話はちょっと変わるが、アメリカに出向する日本人は、みんなニックネームをつけられるのだが、
 百合草さんのニックネームは『Misao Lyndon Yurikusa』 なのである。
 この『Lyndon』はどうやら アメリカの36代大統領『Lyndon Bainesから来ているようである。
 Randyさんがこのように語っているのである。
 

 英語がちゃんと読める方ならいいのだが、私でも何となくアメリカ大統領にちなんだニックネームは、それなりの評価かなと思うのである。

そんな百合草さんが、わざわざ私に送って頂いた本なので、
じっくり読んでまたその感想など、述べてみたい。


★実はこの本、Randyの自費出版のようだが、
LEAN, MEAN AND LIME GREEN! をGoogleで検索するとこんなページが現われる。



 アメリカでは、相当話題になっていることは確かである。
 
 
 ご関心のある方は、調べてみてください。

 まずは「第1報』です。

 
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ブログ 雑感日記  雑感

2019-09-20 06:08:06 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
★このブログ雑感日記をスタートさせたのは、2006年9月6日のことである。

 スタートからもう10年以上、4700日を超えている。


  



 『雑感日記』と名付けて、その時々、どんなことを感じたのか、
 その日々に思った『発想&感想』のカテゴリーを中心に、
 こんなカテゴリーで纏めている。

 現役時代のカワサキの昔話なども結構多いし、『樋渡啓祐さんや橋下徹さん』ファンとして、結構多く取り上げている。

 『樋渡啓祐』さんの影響で、このブログを始めたのだとも言えるのである。
 
 

  



★ 文章を書くことは、20歳から日記も書いているし、全然苦にならない。

 パソコンのキーを叩くスピードは遅いが、
 文章はすらすら出てくるので、時間としてはそんなに掛からないのである。

 毎日、結構な方たちが訪れて、いろんなページをご覧になるので、
 『トータルアクセス数』は
 『閲覧ページ数』が 1100万人
 『訪問者数』が    290万人

 とこんな数値になっているので、
 『1200万ぺージの閲覧』と『300万人の訪問者』を目標にしたいなと思っている。

 


 
この1週間の『閲覧数・訪問者数』だが、こんなアクセス解析がきっちりしているので、沢山のブログの中からgooを選んでいるのである。

 多い日には1000人を超える訪問者が3000ページあまりを読んで頂ける。
 

   


★かっては、ブログを10種近くやっていて、それぞれのブログの特徴などもチェックした結果、今はgoo一つに絞っている。

gooの一番いいところは『アクセス解析』がほかのブログに比べてダントツにいいと思っている。
マーケッテング』は人一倍関心があるので、『今どんな状態にあるのか』は関心事なのである。

 最近は、ブログの中にいろんな情報を盛り込むようにしているので、『役立った』という評価を結構頂けているのである。

マーケッテング・マインド』みたいなものは、今でも持ち合わせていて、『検索する』ことはあまり苦にならないので、それをブログの『材料』にしているきらいもある。

 いま、86歳だが、少なくとも90歳ぐらいまでは大丈夫だと思うし、今日目標に上げた
 『1200万ぺージの閲覧』 と 『300万人の訪問者』 をまず達成することを目標に頑張ってみたいと思っている。

 『頑張る』と書いたが、ブログを書くことは『習慣化』されていて、別に頑張らなくても『自然体』で毎日アップできているので、健康が維持できていれば大丈夫だと思っている。

 
 
  
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大相撲 今場所 雑感

2019-09-19 06:27:03 | 発想$感想
★大相撲などあまり関心がなかったのだが、夕方必ずテレビで取り組みを観るようになってからは『結構オモシロい』と思うようになったから不思議である。

 現役時代などと違って、この時間帯にテレビを観ることができる生活環境になったからだと思う。
 我が家では母が存命時代は、母一人が相撲ファンで、下位の力士の相撲が写るBS放送から観たいなどと言って、我が家にもBS放送がやってきたのである。
 
 私自身は、相撲を見だしたのはここ数年来だから、そんなに詳しいわけでもないし、未だ名前と顔が一致しない力士も沢山いるし、相撲そのもののことで、新たに発見することも多いのであある。

相撲は長い歴史のある日本独特のもので、純粋に『スポーツ』とは言い難いく、
興行的要素もいっぱい残っている。
優勝』などもあるが、15日間15人の力士と戦った結果で、同部屋の力士は戦わないし、その取り組みもいろいろあって、どのように決められるのか? 
今場所は白鵬・鶴竜という両横綱が休場してしまったので、優勝の行方もなかなか予想がムツカシそうである。
 


★閑に任せて、2時ぐらいからBSで『序二段』あたりの取り組みを見てみると、まだガラガラの国技館だが、仕切り前の時間も短いし、行司が裸足なのにはびっくりした。 その衣装にも格式があって、通常出てくるとは行司とは衣装も違うのである。

 


行司の足元など注意してはいなかったが、素足が足袋になり、最後は草履を履くようになっていて、スポーツで言えば『審判の服装』がその位によって異なったりしているのである。
このクラスでは関取の髷の形も異なっている。



★ 関取に関しては、私なりに『贔屓力士』というか応援している力士がいる。
 今場所で言えば『貴景勝』と『栃の心』である。

 『貴景勝』は、兵庫県出身だし、お父さんがカワサキのバイクに乗っている。
今場所10勝すれば大関返り咲きだし、

 

 
 『栃の心』は、その体つきが逞しくて、スポーツマンらしくていい。
そして今場所『大関カド番』なのである。
 今日はその二人の直接対決だった。


  

 
 二人に勝たせたいが、そうはいかない。
 どちらかというと、『栃の心』に勝たせてやりたいが、『貴景勝』は優勝も掛かっているので、負けるわけにはいかないだろう。

 貴景勝が勝って大関復帰にも優勝にも一歩近づいた。
 あと、4日、どんな結果が待っているのだろう?
  
 
 


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千葉県の台風被害  雑感

2019-09-18 06:04:11 | 発想$感想
★連日報道されている『千葉県の台風被害』状況は、想像以上のものである。
 災害復興は一言で言うと『遅れてしまっている』のだが、その状況が明るみに出ると『その対策のムツカシさ』も解るような気がする。

 一言で『千葉県』と言っているが、被害を受けている地域は主として房総半島でそこは『都会』ではなく、全くの『田舎』と言っていい。
 そんな房総半島に、また大雨の天気予報なのである。

 千葉県とはこんな地形である。

  

Wikipediaにはこのように記述されている。

千葉県は、東京大都市圏の一角を成し、都道府県人口・人口密度は全国第6位、財政力指数は全国第3位訪日観光客数は第1位であり、幕張メッセ、来場者数日本一のディズニーリゾート、自然豊かな南房総国定公園・水郷筑波国定公園などを筆頭とした観光都市・リゾート地、優れた社会基盤、恵まれた地域資源、バランスの取れた産業構造を核としている。 
県の人口は1920年(大正9年)10月1日は約100万人であった。その後増加を続け、1983年(昭和58年)500万人を超え、2002年(平成14年)9月17日に600万人を突破した。

 こうしてみると確かにバランスの取れた、立派な県なのだが、今回の被害を受けた地域で、復興の遅れているのは、房総半島で、その環境は全くの『田舎』と言っていい。
 同じ半島でも対岸の三浦半島とは、いろんな面で全く違っているのだと思う。

  

 



いっぱいの自然が残っているし、さらに南は山が殆どの『過疎地域』だと言えるのかも知れない。




 停電の復旧を阻んでいるのが、森林の立ち木、倒木であるようだし、ご覧のような立地で、復旧対策がままならぬのも、よく解る。

 地理的にも半島だし、周辺の県などからの応援も半島の一番先だから、現地に行くだけでも大変なことで、これが今回の対策のムツカシさでもあるのだろう。
 単純に大阪などとの被害対策との比較などをしているが、単純比較は無理な面があるような気がする。

 ただ、今回の被害を少々甘く見た節は間違いなくある。国は対策本部を立ち上げていないし、各省庁の大臣が次々に現地視察に訪れたりはしているが、『誰が総合的に旗を振るのか?』 そのあたりが決まっていないのは問題かなと思う。
 今からでも遅くはないので、『責任本部』を明確にすべきなのだろう。

 一番基本的な『発電対策』だけでも今月いっぱいかかりそうだし、今からでも官邸が旗を振るか、対策責任部門を明確にすべきかなと思う。


★ちょっと違った観点から、
 私の頭にある『千葉県』は 『=田舎』なのである。
 もう50年も前の話だが、カワサキが『実用車のカワサキ』であった時代には、関東や中部や関西の都会では全く売れずに、当時ダントツに台数を売っていたのは、岩手県だったし、当時千葉県は『岩手』に次いでモペットが売れたりしていた『田舎』だったのだが、その地域は東京に隣接した地域ではなくて、今回被害対策が遅れている地域なのだろう。

 ここは間違いなく、足として実用車のバイクが必要だったと思うし、山坂に強いカワサキ125ccなども、売れる環境にあったのだろう。
 そんな房総半島の自然環境は50年前とあまり変わらずに残っているのだろう。

 

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