★『LEAN,MEAN AND RIMEGREEN!』というカワサキのアメリカでのレースの本が出版されたので、今英文の300ページを読んでいるところだが、アメリカのレースが始まる前に、国内のレースがあって、当時は『赤タンクのカワサキ』と言われていたのである。
この機会に『日本も含めたカワサキのレース』の話を私なりに時系列に纏めておきたいと思っている。
★カワサキの2輪事業は昭和35年(1960)『単車準備室』と共にスタートし、翌昭和36年度から国内市場に125B7などをカワサキ自動車販売を通じて販売することからスタートするのだが、そのB7の時代に、カワサキ自販の小野田滋郎さんや川崎航空機の井出哲也さんによってMCFAJ全日本への参加をしているのである。
ライダーは三吉一行だったと思われる。
これがカワサキの最初のレースだと言っていい。
★昭和37年度(1962)にはB7の不具合で車両の返却が相次ぎ、レースどころではなかったのだが、
この年11月に『鈴鹿サーキットがオープン』し、日本で初めての本格的ロードレースが開催され、カワサキの生産部門の人たちがその観戦をして、カワサキにもレース熱が非公式だが秘かに湧き出すことになるのである。
このレースの250㏄優勝者が三橋実、350cc優勝者が片山義美で、のちカワサキのレースは三橋実主宰の『カワサキコンバット』、片山義美の『神戸木の実クラブ』のライダーたちと共に活動することになったのも何かのご縁かなと思うのである。
★その結果昭和38年(1963)5月に生産部門が独自に創り上げたB8モトクロスで出場し、1位から6位までを独占するのだが、これは当日雨が降って他メーカーのマシンはみんな止まってしまったのにカワサキだけは『防水対策』が完全であったので、車が止まらなかったという結果なのである。
カワサキの長いレースの歴史の中でも1位から6位までを独占したのはこのレースだけで、運がよかったと言わざるを得ないのである。
それは兎も角、B7の不振で単車事業をこのまま進めるべきかどうかを検討していた最中の出来事で、非公式なレース参戦ではあったが、現場は大いに意気上がって、市場調査に入っていた日本能率協会は『単車事業やるべし』との判断を下すのである。
青野ヶ原レースまでは、生産部門の中村・髙橋・川崎・松尾さんなどで進められていたしライダーも社内ライダーだったのだが、この年の末あたりから広告宣伝課でレース予算も取り、川合寿一さんがライダー契約をスタートさせたし、関東ではカワサキ自販の小野田滋郎さんが厚木に三橋実を中心にしたカワサキコンバットを立ち上げることになるのである。
★昭和39年(1964)度がカワサキの公式なレーススタートの年だと言っていい。
この年から昭和41年(1966)までの3年間がカワサキが国内だけでレースを展開していた『赤タンクのカワサキ』の時代で、アメリカはA1が発売された1966年からレースがスタートすることになるのである。
ただ、この時代は川崎航空機の人たちはエンジンについてはプロがいっぱいいたのだが、単車事業の経験などは一切なくて、民需大量生産品の販売も初めてだったし、ましてやレースなど何の経験もなかったのだが、みんな手探りでスタートしていったのである。
この年の1月に『単車再建宣言』がなされ単車事業本部が独立し、広告宣伝課がレース運営を担当することになるのである。
この年関西では神戸木の実クラブの歳森康師・山本隆と
関東ではカワサキコンバットの三橋実・安良岡健・梅津次郎・岡部能夫
の契約ライダーでスタートした。
レースに関しては、当時はエンジンのチューンアップは技術部、マシンに仕上げるのは生産部門のレース職場で兵庫メグロからカワサキに移籍した松尾勇さん以下が担当し、レース現場ではライダーたちの先輩格の三橋実が指揮をとっていたような状況だった。
レース職場の管理を田崎雅元さん、レース運営の管理を私が担当していた『寄せ集めチーム』だったのである。
それでも、4月に朝霧高原であったMCFAJ 全日本MXのオープン部門で山本隆が優勝し、10月の丸の山高原の全日本では4種目中3種目を制して、カワサキはモトクロスでの地位を確立することになったのである。
★翌昭和40年(1965)は星野一義がノービスクラスでデビューし優勝を飾り、
5月には山本隆が非公式に鈴鹿ジュニアロードレースに出場しホンダに次いで3位に入賞し、一気にロードレース分野への参入も正式に決まったのである。
6月には鈴鹿アマチュアロードレースに3台を出場させ、カワサキで初めて大槻幸雄監督・田崎雅元助監督のレース布陣がお目見えした。
このレースに初めて金谷秀夫が歳森康師とのコンビで初のレース登場となるのだが、それは4月のレースで山本隆がジュニアの資格を取ったために出場できなかったので歳森康師が神戸木の実の同僚の金谷秀夫を連れてきたのである。
この年あたりからカワサキでもGP125の開発が進められ鈴鹿サーキットなどで安良岡健・金谷秀夫などがテストを重ねていたのだが、2分50秒がなかなか切れないような状況だったのである。
アメリカ市場への進出も始まって、この年の8月には、一緒にレース活動をやっていた田崎雅元さんが明石サイドから初めて、アメリカシカゴに出向くことになるのである。
同じころ一般車両の250A1の開発がスタートし、このテストには名神高速道路で歳森・金谷なども手伝ったりしたのだが、アメリカ市場には百合草三佐雄さんが単身乗り込んで、アメリ人ライダーと共にテストしたのもこの年だし、当時アメリカにいた杉沼さんや田崎さんも手伝ったようである。
レースがモトクロス・ロードレースと拡がって、この年の10月に岩城本部長の命で『レース運営委員会』が設立されたのだが、そのメンバーは山田熙明・苧野豊秋・中村治道・髙橋鐵郎・大槻幸雄・安藤佶郎というその後の単車事業を背負ったメンバーだったのである。
その事務局を私が担当することになったのである。
★このようにカワサキにも本格的な250A1というスポーツモデルが市販され、
昭和41年(1966)から、GPレースもロードレースも、モトクロスも『本格的なレース仕様車での取り組み』がスタートするのである。
1月には藤井敏雄との契約締結でスタートした。 スズキからの移籍なのだが、その交渉は技術部で行われ、私はその契約だけを担当したのである。
本格的なGPレース参加を目指しての契約なのだが、1月の時点ではマシンの貸与契約で9月までその貸与マシンでヨーロッパGPを転戦し、10月の日本GP前に『正規のライダー契約を』というのがご本人の強い意志だったのである。
この年モトクロッサーでは、本格的なクロモリのパイプフレームによるF21Mが完成した。 カワサキの単車のレースの世界に当初から参画してくれた松尾勇さんの傑作と言っていい。
このF21M以降、カワサキのモトクロスは、山本・歳森・梅津・岡部・星野とライダーも揃って連戦連勝の最盛期を迎えるのである。
カワサキが初めてロードレースの世界で優勝を飾ったのが9月のFISCOのロードレースで、A1Rの金谷・三橋が他を寄せ付けなかったのである。
こんな『いいニュース』もあった傍ら、この年は大変な年でもあった。
8月末にマン島のプラクテスで藤井敏雄が転倒事故死することが起こったし、
その1か月後の9月末には、10月の日本GPのライダーとして契約していたデグナーが練習中に転倒し頭を打って入院してしまったのである。
本番の日本GPは、急遽シモンズ・谷口と契約して繋いだのだが、これがカワサキとしては初めてのGP参加ではあったが安良岡健が7位に入ったのが最高だったのである。
ただ、同時に行われたジュニアロードレースでは、カワサキの250A1と対抗するためにヤマハが急遽アメリカからAMA の1967年、1968年チャンピオンのゲーリー・ニクソンを、ジュニアのレースに登場させたのだが、
このレースで金谷とニクソンは『同じベストラップを記録』するなどの大接戦だったのである。
G・ニクソンはその後アメリカのカワサキでも大活躍することになるのだが、この年のFISCOのレースでは、全てのライダーが真っ黒のつなぎの中で、G・ニクソンだけが『真っ赤なつなぎ』で観衆をビックリさせたのである。
★この年までの何年間かが『カワサキのレースの創生期』だと言っていい。
この時期、カワサキのレースを支えたメンバーは『レース運営委員会』のメンバーだったのである。
ずっと後、カワサキのレース25周年のOB会を私が主宰して行っているのだが、そこにはこんなメンバーと当時の現役たちが集まっている。
前列左から 糠谷・松尾・山田・西海・髙橋・苧野・中村・大槻
2列目 岡部・金谷・平井・田崎・古谷・安良岡・和田・山本・清原・大西
3列目右 歳森・岩崎
4列目右 梅津・星野
が所謂OBで、その他の方は当時のレース現役なのである。
現役諸君には宗和・多田・杉本など顔も見えるが、OBでは星野・清原が一番若手だったのである。
★この年で当時の創生期のメンバーはレース担当を終わり
私は東北仙台に、
モトクロス監督の安藤さんは、田崎さんと入れ替わってアメリカに、
ロードの監督の大槻さんは技術部の量産開発部門に異動になって、
糠谷監督・岩崎茂樹マネージャーの体制に移ることになるのだが、この時代も未だカワサキは『赤タンクのカワサキ』だったのだと思う。
一方海の向こうのアメリカでもようやく、A1Rから、本格的なレース活動が展開されるようになって、『LIME GREENの時代』がスタートすることになるのである。
マシン開発も技術部の手に戻って、本格的なレース活動がスタートするのは、糠谷さんの後を継いだ百合草三佐雄監督からで、モトクロッサーの名称も『KX』に統一される時代になり、
技術部の量産品開発担当に戻られた、大槻幸雄さんが市販品ではマッハⅢ・900Z1と2サイクルから4サイクルへ転換し、GPレースでは栄光のKR時代を迎えることになるのである。
私自身のことを言うなら、
1967年から1988年までの20年間は、販売網政策・東南アジア市場開拓・国内販社担当・事業本部再建計画と全くレースとは無関係で、この間のレースのことは殆ど解っていないのだが、1989年に再び国内市場担当になる直前から、岩崎茂樹と二人で直入サーキットを創り、その後の国内市場担当でも、本格的なレース展開中心のマーケッテングを展開しているのである。
そのスタートの旗揚げが、1988・10・15の『カワサキファクトリー25周年OB会』で、
この会合で当時の先輩諸氏に、『国内販社でのレース活動復活宣言』をした積りなのである。
★この会合からさらに20年の歳月が流れて、お亡くなりになった方も多いのだが、
いまでもZ1会などで顔を合わせるほか、大槻幸雄さん・田崎雅元さん・百合草三佐雄さん・山本隆さん・平井稔男さんなどと親しくお付き合いさせて頂いている。
昨日も田崎さんから当時のこと、こんなメールを頂いた。
『1965年、田崎さんは8月20日に日本を発って、シカゴに行き9月に本社企画の渡邊さんと二人出張所を設け、全米をカバーするサービス体制を強化するには、まず部品センターが必要と、翌年の1966年3月に、現地法人の部品センターを設立した。その株券発行は1966年3月9日、American Kawasaki Corporation(AKM)で、資本金5万ドルの株券には発起人として私がサインした。』 とある。
この会社が後のKMCとなっていくスタートなのである。
A1のテストは、百合草さんの手伝いはしたが、主務ではなかったようでこんな写真もある。
同じころのW1の走行テストは、当時の現地の日本人のメンバーでは、バイクに乗れたのは田崎さんだけだったようで、ハイウエイも走られたとか。
田崎さんは1967年2月には帰国されているので、
Randy Hall は、ご存じないそうである。