雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキのレースのスタート

2018-10-13 06:46:05 | カワサキ単車の昔話

 

 ★日本時間の今日、『カワサキモトクロスOB有志の会』が盛大に開催されたようである。

 

            

 

  写真は、堀ひろ子さんと一緒に、女性で初めて鈴鹿を走った腰山峰子さんのFacebook から頂いた。

 この会は、7月7日に開催が予定されていたのだが、当日は台風のため延期されていたのである。

今はアメリカで出席できないのだが、特別寄稿の『カワサキモトクロスの始まりとその意義』については、出席者に配布されたと思うので、ブログでも公開することにする。

 ちょっと長いが、関心のある方はお読みください。

 

 

       https://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/61baf4c13446ff83d63c5fdc4b5f6c0b

 

 

 

特別寄稿

「カワサキ・モトクロスの始まり と その意義」 

                                                        平成30年7月7日

                                                        KHI OB 古谷錬太郎

1.  昭和38年、当時のカワサキ単車事業部の状況 

カワサキの単車事業は、昭和35年(1960)4月に単車準備室が出来て、当時の川﨑航空機工業(株)の明石工場での一貫生産を計画し、10月からモペットの生産が始まったのである。 その翌年125ccB7が発売されたのだが、フレームに欠陥があって返却が相次ぎ、私はこの年の11月に発動機事業部の中に初めてできた単車営業課に異動したのだが、ものを売るはずの営業なのに、毎日毎日、明石工場に返却されるB7の物品税の戻入手続きが主たる業務で、昭和38年1月の生産台数は出荷より返却台数が上回ってマイナスを記録したりしたのである。

 そんな単車事業を今後も進めるべきかどうか? 当時の本社が日本能率協会に大掛かりな調査を依頼し、その調査が進められていたのが昭和38年度(1963)のことである。そんな状況の中で昭和38年5月19日、兵庫県青野ヶ原モトクロスが開催され、カワサキも出場することになったのだが、これは会社が進めた計画ではなくて、当時の生産部門の中村治道さん(当時課長か係長)を中心に有志が集まって、勝手に進められたものだったのである。この当時の状況を語れるはずの中村治道・髙橋鐵郎さんなどは既に他界されて、この時のことをご存じの方は本当に少なくなってしまったのである。

 非公式に生産部門が勝手に進めたプロジェクトなので、残業料も出なかったので、当時の営業の小野助治次長から『パンでも買う金を都合してやれ』という指示があって、私はちょっとしたお金を都合しただけの話なのである。ただ、私の係からは川合寿一さんが野球部のマネージャーであった経験をかわれて、チームのマネージャー役をしていたので『何かやってるな』ということぐらいは知っていたのである。そんな関係もあって川合寿一さんが、カワサキの最初の契約ライダーの歳森康師や山本隆の契約やカワサキコンバットとの契約を担当していたのである。

 

2.青野ヶ原モトクロスの経緯

当時の川崎航空機にはエンジンのプロはいっぱいいたのだが、二輪車については全くの素人ばかりで、ましてやレースのことなど解った人は皆無だったはずなのである。このレースの仕掛け人は、川崎航空機の人ではなくて、兵庫メグロの西海義治社長だったのだろう。西海さんはオートレースの元プロライダーだったし、カワサキがレースを正規に始めてからもいろいろと応援して頂いた方なのである。

 

                          

       

  青野ヶ原のレースのスタートは、昭和37年11月に鈴鹿サーキットで開催された日本初のロードレースに、明石工場の生産関係のメンバーたちがバスを仕立てて観戦したのだが、そのメンバーの中心が中村治道・高橋鐵郎・川崎芳夫さんたちで、このレースを観て生産部門の『レース熱』は一挙に燃え上がり 青野ヶ原のレースに繋がったのである。中村治道さんをご存知の方はもう少ないと思うが、熱っぽい人の多かった単車事業部でも最右翼と言って間違いない方なのである。『レーサーを作る』などと言っても、そんなノウハウを持っている人は、当時のカワサキの中には居なかったので、西海さんは兵庫メグロの子飼いの松尾勇さんを川崎航空機の製造部門に送り込んで、新たに生産が始まった125B8のモトクロッサーを松尾さん主導で作ったのである。青野ヶ原のレースはMFJの兵庫県大会として開催されたのだが、これを企画したのも多分当時のMFJの兵庫県支部長をされていた西海社長ではなかったのか?

 

                         

                               

  ちなみに、カワサキが正規にレースをやりかけてからも、レーサーのエンジンは技術部担当だが、マシンに創り上げるのは全て松尾勇さんがいた『製造部のモトクロス職場』で、それはずっと後のF21Mの時代まで続くのである。カワサキのモトクロッサーが正規に技術部に移ったのは、KX称号で呼ばれるようになって以降からのことで、大槻・安藤・糠谷と3代続いたレース監督の後の、百合草三佐雄さんが監督になってからが、カワサキも本格的なファクトリー運営になって行ったのではなかろうか?

  

3.青野ヶ原のレース結果

 昭和38年5月19日に行われたモトクロスレースの結果は、カワサキが1位から6位までを独占した完璧な勝利だっ

たが、ライダーは当時の社員の人たちなのである。

 

 

 

 

                       

 

 

青野ヶ原モトクロスレースに関して、その勝利だけがあたかもマシンもライダーも完璧だったように書かれている記事もあるが、これは雨で出来た水溜りのために他車はみんなエンジンが止まってしまったのだが、カワサキだけは西海さんの指示の『防水対策』が完璧で、独り走り続けた結果だったのである。 このレースにヤマハで出ていて、ご自身もマシンが止まってしまった山本隆さんもそう言っているので間違いないのである。 私は、モトクロスの写真を始めて見た時、どれも水しぶきを上げて走っているので、『モトクロスとはそんな水溜りを走る競技だ』とホントにそう思ったのである。カワサキの長いレースの歴史の中でも、1位から6位まで独占というのは、この緒戦だけであとはそんな実績は皆無なのである。まさに『天祐』というべきなのだが、このレース結果に明石工場中が湧きかえって、意気盛んになったのは間違いない事実なのである。 

 

4.日本能率協会の調査結論

 たまたま日本能率協会の市場調査中の最中で、その結論は『この事業継続すべし』ということになるのだが、青野が原での結果が齎した現場末端の意気の高さと共に、その年新発売された125㏄Bが、堅調な販売を静かに続けていたということもあったのである。 その前の125ccB7が散々な状況で、当時の『技術部の真価が問われる製品』であっただけに、ホントに良かったと思っている。そんなこともあって、カワサキの二輪事業は継続という結論がなされるのだが、日本能率協会が事業継続の条件の中に『広告宣伝課を創ること』という項目があって、その広告宣伝課を私が担当することになって、その中でカワサキのレースは展開されることに成るのである。

 

 5.広告宣伝課とレース

ここから先の話は、カワサキの中で『当事者の私にしか語れない分野で、あまり知られてはいないことも多いので確りと書き残しておきたいのである。 当時のカワサキの販売分野は、『カワサキ自動車販売』(今のKMJの前身)が担当していて、昭和36年(1961)にメグロと業務提携して社長には川崎航空機工業の土崎英利専務が直接担当されることになり、翌昭和37年(1962)にはメイハツ・メグロを吸収合併して、販売を総括することになったのである。 私が営業に異動したのもこの年のことなのである。当時は未だ国内市場だけで、海外市場は未開拓の時代なのである。現在とは全く違って、販売会社が工場よりは圧倒的に強かった時代で、世の中もトヨタ自販・トヨタ自工の時代なのである。そのカワサキ自販で、『総務並びに広告宣伝』を担当されていたのが、あのフィリッピンの小野田寛郎さんの弟さんで小野田滋郎さんなのである。 (当時の小野田さんの写真がないので・・見習士官(陸軍曹長)当時の小野田(右)、弟の滋朗(陸軍少尉)と昭和19年12月ごろ撮影)

 

                     

 

 現役時代、『この人にはとても敵わない』と思った人の一人が小野田滋郎さんで、陸士出身の『戦略・戦術・戦闘論』など確りとたたみこまれたのである。小野田さんが広告宣伝の後継者に私を選び、立ち上がりの何ヶ月だけを親身に手伝ってくださったのである。その広告宣伝の担当業務の中に『レース』もあったし『レース運営の経験』のある人など社内に皆無の状況だったので、自然に広告宣伝課担当という形になって行ったのである。カワサキのレースは、青野ヶ原のモトクロスが最初だと言われているのだが、実は125B7時代に既にカワサキ自販の方でMCFAJの全日本などにも、ライダー三吉一行で出場しているのだが、このレースを担当していたのが小野田滋郎さんで、青野ヶ原のあった昭和38年(1963には、ヤマハから強引に三橋実を引っこ抜いて厚木に『カワサキコンバット』なるチームを作らせているのである。 

                           

 

ヤマハの本橋明泰さんにお会いした時、こんな話が飛び出したのである。『カワサキB7のエンジンを何台か貰って、レースに出た』と仰るのである。そして『井手さんという方がおられましたね』とも。当時のライダーとしては三吉一行、それに三室や本橋さんなども関係したという話で、その中に三橋実もいたのだと思う。当時は、三橋実もヤマハにいて、青野ヶ原のスタートとなった鈴鹿の日本初のロードレースでは、250㏄の優勝者が三橋、350ccの優勝者が同じくヤマハの片山義美なのである。この二人のチャンピオンは、その後のカワサキのレースに色濃く関係しているので不思議なご縁なのである。

 

 左の写真、これがカワサキ創成期のカワサキライダーたちである。 『カワサキコンバット』の三橋実・安良岡健・梅津次郎・岡部能夫と『神戸木の実』の山本隆・歳森康師の二人の6人が契約ライダー。 左から4人は未契約の若手ライダーで、4人目が星野一義である。

 

そんな経緯から、『カワサキのレース』は広告宣伝課がそのままライダー契約などを直接担当することになったのだが、当時は本社から『事業開発費』として毎年1億2000万円の広告予算が3年間頂けたので、レース予算もライダー契約なども悠々と出来た3年間だったのである。私の年収が50万円に達しない、そんな時代の1億2000万円だったので、それは相当な額だったのである。ライダー育成費として三橋実のカワサキコンバットに月額20万円を渡していたので、厚木にライダーの宿舎を借りて全国から若手の有望ライダーがいっぱい集まっていて、その中に星野一義・金子豊などもいたし、ひょっとしたら増田耕司などもいたかも知れないのである。

 

レース場に行くのも、最初は会社の運輸課のトラックで運んでいたのだが、この費用の中から三橋が中古のトラックを買ってきて、それでレース運営をするようになったのである。星野一義が最初に出場した和歌山の紀の川モトクロスには、彼はライダーで来ていたのではなくて、トラックの運転手で来ていたのだが、朝の練習で岡部が小指を骨折したので、『岡部の代わりに』『岡部の名前で』出場したのが星野の初めてのレースなのである。ちょっと余談だが、なぜそんな勝手なことが出来たのか?

実はこのレースはカワサキが仕掛けて『スポーツニッポンが主催』した『カワサキ主催』のようなレースで、その第1回大会だった。

 

当時はモトクロスをやって優勝しても、どこにも報道されないし、モトクロスを知っている人も少なかったのである。広告宣伝課が担当しているレースだから「広報活動」も確りとやりたかったのである。このスポニチ主催のモトクロスはこのあと5回ほど続くのだが、毎回スポニチに大きく報道されたのである。多分最後の5回目は山本隆くんの当時の練習場だった加古川の河原で開催されたのである。豊かな広告宣伝費のお蔭で、いろんなことが可能で、レースの広報もできたし、有望ライダーも育っていったのである。

 

★    青野ヶ原の勝利からカワサキの二輪事業の継続は決まり、その中での『レースの位置づけ』は非常に大きなものだったの

である。50年以上も経った今は、競合メーカーに比して、カワサキも優れている分野が幾つもあるのだろうが、この1960年代には『レース』以外に競合他社に優位に立てるものは『何一つない』そんな時代だったのである。 

   

そんな時代のレースを支えていた技術屋さんたちの中に山田煕明・髙橋鐵郎の後川崎重工業の副社長になられたお二人もおられる。左から4人目が、B7時代からレースに関係された井出哲哉さんである。ちなみに、この写真を私に送ってくれたのは、当時のレース仲間、元川崎重工業社長の田崎雅元さんなのである。当時のレースは、いろいろあったが事業の中枢を担う人たちが担当していたことは間違いないのである。

                               

 

 

もし、『西海義治さんや松尾勇さん』がいなかったら、青野ヶ原は無かったかも知れない。

もし 『青野ヶ原のレース』がなかったら、カワサキの二輪事業の継続はひょっとしたらなかったかも知れない。

もし、『鈴鹿サーキット』で昭和37年11月にレースがなかったら、『カワサキの二輪事業』はなかったかも知れない。

もし、『膨大な広告宣伝費』がなかったらカワサキのレース運営も、こんなことにはなってはいない。

もし、『小野田滋郎』さんが厚木に『カワサキコンバット』を創っていなかったら、こんなライダーが集まっていなかったかも知れない。

 

その後のカワサキのブランドイメージ創造などを見ても、『レースが果たした役割』は非常に大きなものだった。

そんなレースの世界に色濃く関わりを持ったことが、『私の人生を豊かなもの』にしてくれたのは間違いないのである。 

 

 

 

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カワサキの部品が来なかった時代

2018-09-22 06:43:29 | カワサキ単車の昔話

★つい先日、『男・カワサキ』についての感想をアップしたら、FBで沢山のコメントを頂いたのだが、カワサキの昔話として『カワサキの部品は来なかった』という話が幾つかあった。

武骨なW1が男のイメージかと思います、それと、ぶっ飛んでいたマッハⅢ、この2モデルは強烈な個性を持っていました。
70年代初頭、私の郷里の千葉県東部では、部品が来ないのは通説でした。販売店も、部品がなかなか来ないですよと、ことわりを入れて販売していました。 Z2、レインボーのSSの頃には、大分、改善されましたが・・・
『80年代初めくらいまでは部品が入りにくかったというところもあります。カワサキに乗る=覚悟がいるという風潮がありました。』

 その通りなのである。

 私自身は非常に悪かったカワサキの部品補給について、その改善対策システムを創った張本人なので当時のカワサキの部品補給がなぜ悪かったのか・それをどのように対策したのか・コメントにあるようにZ2以降は非常に改善された筈なのである。

 

なぜカワサキの部品補給はそんなに悪かったのか

 ● ホンダ・スズキ・ヤマハに比して、当時のカワサキの50ccなど比較できないほどの少量販売だった。

 ● それなのに販売店の数だけは、委託販売で結構な店数を持っていたし、各地の営業所の数も他社と同じように展開していた。

 ● そんな営業所が部品補給が悪いので、みんな部品在庫を持ちたがるのである

 ● 10万台以上を売る他社のモペットに比べて、数千台のカワサキの50ccだから、メーカーはそれに見合う部品しか持っていないのに、営業所が部品在庫してしまうものだから、日本のどこかに部品はあるのだが千葉県にはないという状況になってしまうのである

 ● 部品をちゃんと補給できるようにするとしたら、生産台数と同じくらいの部品在庫を持たないとちゃんとした供給にならないのである。

 ●この辺りのことが、当時のカワサキの二輪事業担当は素人ばかりだから、末端の状況など全く解っていなかったのである。

 

★そんな時代、昭和45年(1970)大阪万博の年に私は第1線の大阪営業所長になったのである。

 ●はじめての経験だったのだが、すぐ部品の問題に直面した。浜寺モータースのおやじさんにこっぴどく怒られたのである。

 ●車の修理をする時に仮に10点の部品が必要で営業所に注文すると5点はすぐ来る。然し残りの3点は半月も掛かる。さらに残りの2点はいつまで経っても来ない。修理は10点揃わぬと完成しない。完成していないのに最初の5点の部品の請求書だけはすぐ来る

 ●お客には修理が完成しないとお金などもらえないのだ。そんな部品の請求書の金など払えると思っているのか。

 というのである。確かに仰る通りなのである

 

★ その対策をいろいろ私なりに考えた。

● これは営業所が部品倉庫を持っているからダメなのだ。営業所で幾ら在庫を増やしたとしても、10点が揃うように持つことは不可能に近い。

●営業所の部品庫を無くして、明石の本部に部品庫を持ち出先は一切部品を持たないようにして、注文があったら、そのまま明石に連絡してそこから送って貰えば、仮に何日か掛かっても現状よりは改善されるはずである

● こういう仮説を立てて、『大阪営業所の部品倉庫を廃止し、明石に集中して部品を持つようなシステム』をスタートさせるのに約半年かかったが、明石サイドでは当時の苧野専務が私の案に乗って下さってすぐ動いて頂けたのである

●1978年Z2が発売される3年後には明石に部品倉庫もできて、第1線で部品を持たない営業所の注文に対しては、すべて明石から発送するシステムが動き出したのである。

● 今の宅急便のシステムがスタートしたのが1976年頃からで、この新しい『宅急便システム』に乗せたのでカワサキの部品は全国どこにでも2日後には配送されるそんな状態になったのである

 

★この部品配送システムは、カワサキが一番早かったはずである

 1978年には全国に先駆けて近畿と名古屋で中大型車を売る『特約店制度』を立ち上げ販売店の数を絞り各営業所の部品在庫はゼロにして特約店からの部品注文は明石に繋ぎ、明石の部品倉庫から『宅急便システム』を使って発送するそんな新しい体制になったのである。

 そんなこともあって、カワサキの宅急便の価格は、ホントに宅急便システムがスタートした時期からのおつき合いだったので、今はどうか解らぬが、ある時期までは他がびっくりするほどの『低価格』だったのである。

 この部品システムは、こんな大阪の浜寺モータースのおやじさんに怒られたのが契機なのだが、その親父さんとはあの有名なレースライダー・徳野政樹・徳野博人の兄弟のおやじさんなのである。

当時はもう一人3兄弟がレースをしていて、未だファクトリライダーなどにはなるずっと前のことなのだが、『徳野3兄弟』はおやじさんの自慢の種だったのである。

あの時徳野のおやじさんが、あんなにこっぴどく私に怒らなかったら、カワサキの部品配送システムはできていないかも知れない。

カワサキの部品補給は悪い』という伝説は延々と続いていたかも知れないのである。

 

         

★ この部品発送システムは、当時川崎が展開した『特約店制度』の実施地区営業所で順次展開していったので、1980年前半、特約店制度が全国展開されるころには、全国展開で完成したのである

明石サイドも部品発送部門は、その後独立した部品会社になって、カワサキの部品は全国どこでも注文から2日後には届くシステムが完成したのである。

このシステム展開は『私自身の発想』で、当時のカワサキ本社を動かして展開していったプロジェクトなので、結構ちゃんと解っているのである。

 『カワサキの部品供給が悪かった』というのも今ではホントに昔話なのである。

 

 

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KAZE30周年

2018-07-13 06:23:55 | カワサキ単車の昔話

★ KAZEの機関誌が送られてきた。

  『ありがとう。お蔭様でKAZE30周年!』 と書かれている。

 

     

 

 もう、アレから30年も経つのだ。

当時のことを一番正確に語れるのは『KAZEの起案者』であるなのだが、

当時二輪車業界は、各社ユーザークラブに熱心でホンダさんはHART・ヤマハさんはYESSなどとそれぞれネーミングしてのユーザークラブ活動で、ホンダさんは『公称10万人』とその規模を誇っていたのである。

カワサキも以前から KGRC(Kawasaki Good Riders Club)があって、カワサキの熱心な販売店がジムカーナなどを中心にイベント開催していたのである。

 

★そんな1988(昭和63年)の10月に私は当時の髙橋鐵郎単車事業本部長・兼カワサキオートバイ販売社長の命でカワサキオートバイ販売の専務で出向することになったのだが、『国内市場で7万台販売』という途方もない販売目標のお土産付きの異動だったのである。

現状の倍という無茶苦茶な目標だから、ホントに『それを実現する』には『従来とは全く異なるアプローチ=新しい仕組みの創造』でないと、努力などではそんなことは実現しないと思ったのである。

KAZEは、Kawsaki Amusing Zone for Everybody の頭文字からだが、『風』をイメージして名付けられたものだと思うが、私自身は Everybody に注目し、その後のいろんな活動の対象を『熱心なカワサキ車のユーザー』から『一般の二輪愛好者』にまで広げることにより、会員目標をまずは『1万人』と現状の10倍に設定したのである。

そして、KAZEの会員カードは、社会で通用する機能を持った『JCBとの契約カード』にしたのである。

 

何故そんなことを? その時立てた『私の仮説』は概ね次のようなものであった。

 ●まず、ホンダの HARTが10万人いるはずがない。年会費3000円で募集している会員だから、毎月1万人近い人の期限がくる。その『1万人』をもう一度会員にしない限り、10万人は維持できないのである。

 ●同時にカワサキはホントに多くの会員を目指そうと思ったので、JCB提携のカードにしておけば、『多分、期限が来ても辞めにくいはずだ』と思ったのである。

 ●この仮説は想定以上に当たって、自動継続率は95%もあったので、KAZEの会員は増え続けて実質55000人までにもなったのである。ただ55000人にもなると、毎月辞める人が5%でも500人ぐらいにはなるので、『年会費を取る以上』これ以上にはならなかったのである。

 ●あとで解ったことだが、ホンダさんの10万人は、過去を含めてHARTに入会した延べ人数で、現在会員ではなかったのである。

 

この会員管理などを『末端ユーザーを対象とするソフト会社』を立ち上げそのノウハウを企業としてプロのレベルで蓄積していこうと思ったのである。

 

 

★この年矢継ぎ早に対策したいろんな諸策なのだが、その中心にあったのがKAZEとケイ・スポーツ・システム というソフト会社を4月に設立していて、その時情報紙の第1号を発行しているのだが、その第1号はこんな立派なものではなく、当時のいろんな情報をそのまま集めてお送りしたことが懐かしい。

この年の5月末に、あのZEPHYRの発売がなされている。このZEPHYR(西からの風)は当時のカワ販の若手の発想で名づけられたものである。そんなことも簡単に出来たのは、ZEPHYRなど大して期待されてなくて、当時の期待の新車はシーズンの始まる前の3月までに発売されるのだが、ZEPHYRは5月末の発売だったのである。

前年10月に再開したレース活動も半年後には成果を現わし始めたし、二輪車と共にジェットスキーのJJSBAの活動対策など、前線の販売は販売店に任して、周辺の遊びの分野ばかりに傾注しているのである。

 

 

    

 

★『実装』と『マネタイズ』という言葉があるようだが、どのくらいの方がご存じなのだろうか?

私自身も、孫のこんなツイートから初めて知ったし、調べてみて、何となく解った。

  • 頭がいいというよりも、ちゃんと考えてる。最近における自分のキーワード「実装」と「マネタイズ」も堅実にやっている。 言い訳しないで、「実装」と「マネタイズ」してやる! デザインとお金の勉強!

 

世の中、ネットをベースに既にこんな時代になっているのである。

『実装』『マネタイズ』 どんなことかお解りですか?

マネタイズとは』こんなことだといわれている。

 ビジネスモデルとは、顧客を喜ばせながら同時に企業が利益を得る仕組みのこと。しかし、現在のビジネスモデルは、あまりにも利益を得る仕組み、すなわち、マネタイズ(収益化)に対する理解が少ないと言えます。マネタイズは、将来の顧客価値提案のためにあり、それを度外視して決めることはできません。それほど密接に関係しているにもかかわらず、別々に取り扱われていることが多いです。・・・・

 

そんな新しい発想を、仕組みの中に取り入れて行かないと どんどん遅れてしまうのではなかろうか?

 

当時の『KAZE』 は、ちょうど当時の『実装とマネタイズ』の発想に当たるのかも知れない。

アレから30年、そのままいるということは30年遅れている ということにも繋がるように思ったりもする。

 

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カワサキ・モトクロスの始まり と その意義

2018-06-28 04:47:10 | カワサキ単車の昔話

★来る7月7日に『カワサキモトクロスOB有志の会』が マリンピア神戸のLOCHE MARKET STOREで開催されることになっている。

カワサキのモトクロスの始まり と その意義』について簡単に喋って欲しいという依頼が、この会の主宰者である大津信さんから私にあったのだが、現場では簡単に話すことにして、その背景などを纏めてみることにする。

ホントにその時代を知る人が、殆ど居なくなってしまっているのである。

 

 

1.当時のカワサキ単車事業部の状況

 カワサキの単車事業は、昭和35年(1960)4月に単車準備室が出来て、当時の川﨑航空機工業の明石工場での一貫生産を計画し、10月からモペットの生産が始まったのである。 その翌年125ccB7が発売されたのだが、フレームに欠陥があって返却が相次ぎ、私はこの年の11月に発動機事業部の中に初めてできた単車営業課に異動したのだが、ものを売るはずの営業なのに、毎日毎日、明石工場に返却されるB7の物品税の戻入手続きが主たる業務で、昭和38年1月の生産台数は出荷より返却台数が上回ってマイナスを記録したりしたのである。

そんな単車事業を今後も進めるべきかどうか? 当時の本社が日本能率協会に大掛かりな調査を依頼しその調査が進められていたのが昭和38年度(1963)のことである。

そんな状況の中で昭和38年5月19日、兵庫県青野ヶ原モトクロスが開催され、カワサキも出場することになったのだが、これは会社が進めた計画ではなくて、当時の生産部門の中村治道さん(当時課長か係長)を中心に有志が集まって、勝手に進められたものだったのである。この当時の状況を語れるはずの中村治道・髙橋鐵郎さんなどは既に他界されて、この時のことをご存じの方は本当に少なくなってしまったのである。

 非公式に生産部門が勝手に進めたプロジェクトなので、残業料も出なかったので、当時の営業の小野助治次長から『パンでも買う金を都合してやれ』という指示があって、私はちょっとしたお金を都合しただけの話なのである。

ただ、私の係からは川合寿一さんが野球部のマネージャーであった経験をかわれて、チームのマネージャー役をしていたので『何かやってるな』ということぐらいは知っていたのである。そんな関係もあって川合寿一さんが、カワサキの最初の契約ライダーの歳森康師や、山本隆の契約やカワサキコンバットとの契約を担当していたのである。

 

2.青野ヶ原モトクロスの経緯

当時の川崎航空機にはエンジンのプロはいっぱいいたのだが、二輪車については全くの素人ばかりで、ましてやレースのことなど解った人は皆無だったはずなのである。

このレースの仕掛け人は、川崎航空機の人ではなくて、兵庫メグロの西海義治社長だったのだろう。西海さんはオートレースの元プロライダーだったし、カワサキがレースを正規に始めてからもいろいろと応援して頂いた方なのである。

       

 

青野ヶ原のレースのスタートは、昭和37年11月に鈴鹿サーキットで開催された日本初のロードレースに明石工場の生産関係のメンバーたちがバスを仕立てて観戦したのだが、そのメンバーの中心が中村治道・高橋鐵郎・川崎芳夫さんたちで、このレースを観て生産部門の『レース熱』は一挙に燃え上がり 青野ヶ原のレースに繋がったのである。中村治道さんをご存知の方はもう少ないと思うが、熱っぽい人の多かった単車事業部でも最右翼と言って間違いない方なのである。

レーサーを作る』などと言っても、そんなノウハウを持っている人は、当時のカワサキの中には居なかったので、西海さんは兵庫メグロの子飼いの松尾勇さんを川崎航空機の製造部門にに送り込んで、新たに生産が始まった125B8のモトクロッサーを松尾さん主導で作ったのである。青野ヶ原のレースはMFJの兵庫県大会として開催されたのだが、これを企画したのも多分当時のMFJの兵庫県支部長をされていた西海社長ではなかったのか? 

 

ちなみに、カワサキが正規にレースをやりかけてからも、レーサーのエンジンは技術部担当だが、マシンに創り上げるのは全て松尾勇さんがいた『製造部のモトクロス職場』で、それはずっと後のF21Mの時代まで続くのである。

     

 

カワサキのモトクロッサーが正規に技術部に移ったのはKXの称号で呼ばれるようになって以降からのことで、大槻・安藤・糠谷と3代続いたレース監督の後の、百合草三佐雄さんが監督になってからが、カワサキも本格的なファクトリー運営になって行ったのではなかろうか?

 

 

3.青野ヶ原のレース結果

 昭和38年5月19日に行われたモトクロスレースの結果は、カワサキが1位から6位までを独占した完璧な勝利だったのである。

  長くこのような形で、神戸のカワサキワールドに展示されていたので、ご存じの方も多いと思う。

 ライダーは当時の社員の人たちなのである。

  左から中村・髙橋・秋原・多賀井・加藤・藤森・飯原・藤井・武藤

 

      

 

青野ヶ原モトクロスに関してのこんな記事なども残されていて、その勝利だけがあたかもマシンもライダーも完璧だったように書かれているのだが、これは雨で出来た水溜りのために他車はみんなエンジンが止まってしまったのだが、カワサキだけは西海さんの指示の『防水対策』が完璧で、独り走り続けた結果だったのである。

 このレースにヤマハで出ていて、ご自身もマシンが止まってしまった山本隆さんんもそう言ってるので間違いないのである。

 私は、モトクロスの写真を初めて見た時、どれも水しぶきを上げて走っているので、『モトクロスとはそんな水溜りを走る競技だ』とホントにそう思ったのである。

 

     

 

カワサキの長いレースの歴史の中でも、1位から6位まで独占というのは、この緒戦だけであとはそんな実績は皆無なのである。

まさに『天祐』というべきなのだが、このレース結果に明石工場中が湧きかえって、意気盛んになったのは間違いない事実なのである。

 

 

4.日本能率協会の調査結論

 たまたま日本能率協会の市場調査中の最中で、その結論は『この事業継続すべし』ということになるのだが、青野が原での結果が齎した現場末端の意気の高さと共に、その年新発売された125㏄B8が、堅調な販売を静かに続けていたということもあったのである。

  

    

 

 その前の125ccB7が散々な状況で、当時の『技術部の真価が問われる製品』であっただけに、ホントに良かったと思っている。

そんなこともあって、カワサキの二輪事業は継続という結論がなされるのだが、日本能率協会が事業継続の条件の中に『広告宣伝課を創ること』という項目があって、その広告宣伝課を私が担当することになって、その中でカワサキのレースは展開されることに成るのである。

 

 

5.広告宣伝課とレース

ここから先の話は、カワサキの中で『当事者の私にしか語れない分野』で、あまり知られてはいないことも多いので確りと書き残しておきたいのである。

 当時のカワサキの販売分野は、『カワサキ自動車販売』(今のKMJの前身)が担当していて、昭和36年(1961)にメグロと業務提携して社長には川崎航空機工業の土崎英利専務が直接担当されることになり、翌昭和37年(1962)にはメイハツ・メグロを吸収合併して、販売を総括することになったのである。 私が営業に異動したのもこの年のことなのである。当時は未だ国内市場だけで、海外市場は未開拓の時代なのである。

現在とは全く違って、販売会社が工場よりは圧倒的に強かった時代で、世の中もトヨタ自販・トヨタ自工の時代なのである。

そのカワサキ自販で、『総務並びに広告宣伝』を担当されていたのが、あのフィリッピンの小野田寛郎さんの弟さんで小野田滋郎さんなのである。 (当時の小野田さんの写真がないので・・)

        

 

現役時代、『この人にはとても敵わない』と思った人の一人が小野田滋郎さんで、陸士出身の『戦略・戦術・戦闘論』など確りとたたみこまれたのである。小野田さんが広告宣伝の後継者に私を選び、立ち上がりの何ヶ月だけを親身に手伝ってくださったのである。

その広告宣伝の担当業務の中に『レース』もあったし『レース運営の経験』のある人など社内に皆無の状況だったので、自然に広告宣伝課担当という形になって行ったのである。

カワサキのレースは、青野ヶ原のモトクロスが最初だと言われているのだが、実は125B7時代に既にカワサキ自販の方でMCFAJの全日本などにも、ライダー三吉一行で出場しているのだが、このレースを担当していたのが小野田滋郎さんで、青野ヶ原のあった昭和38年(1963)には、ヤマハから強引に三橋実を引っこ抜いて厚木に『カワサキコンバット』なるチームを作らせているのである。

 

  

ヤマハの本橋明泰さんにお会いした時、こんな話が飛び出したのである。『カワサキB7のエンジンを何台か貰って、レースに出た』と仰るのである。そして『井手さんという方がおられましたね』とも。

当時のライダーとしてはは三吉一行、それに三室や本橋さんなども関係したという話で、その中に三橋実もいたのだと思う。

当時は、三橋実もヤマハにいて、青野ヶ原のスタートとなった鈴鹿の日本初のロードレースでは、250㏄の優勝者三橋350ccの優勝者が同じくヤマハの片山義美なのである。

この二人のチャンピオンは、その後のカワサキのレースに色濃く関係しているので不思議なご縁なのである。

 

これがカワサキ創成期のカワサキライダーたちである。

      

 

 『カワサキコンバット』の三橋実・安良岡健・梅津次郎・岡部能夫と『神戸木の実』の山本隆・歳森康師の二人の6人が契約ライダー。

 左から4人は未契約の若手ライダーで、4人目が星野一義である。

 

そんな経緯から、『カワサキのレース』は広告宣伝課がそのままライダー契約などを直接担当することになったのだが、当時は本社から『事業開発費』として毎年1億2000万円の広告予算が3年間頂けたので、レース予算もライダー契約なども悠々と出来た3年間だったのである。私の年収が50万円に達しない、そんな時代の1億2000万円だったので、それは相当な額だったのである。

ライダー育成費として三橋実のカワサキコンバットに月額20万円を渡していたので、厚木にライダーの宿舎を借りて全国から若手の有望ライダーがいっぱい集まっていて、その中に星野一義・金子豊などもいたし、ひょっとしたら増田耕司などもいたかも知れないのである。

レース場に行くのも、最初は会社の運輸課のトラックで運んでいたのだが、この費用の中から三橋が中古のトラックを買ってきて、それでレース運営をするようになったのである。

星野一義が最初に出場した和歌山の紀の川モトクロスには、彼はライダーで来ていたのではなくて、トラックの運転手で来ていたのだが、朝の練習で岡部が小指を骨折したので、『岡部の代わりに』『岡部の名前で』出場したのが星野の初めてのレースなのである。

ちょっと余談だが、なぜそんな勝手なことが出来たのか?

実はこのレースはカワサキが仕掛けて『スポーツニッポンが主催』した『カワサキ主催』のようなレースで、その第1回大会だった。

当時はモトクロスをやって優勝しても、どこにも報道されないし、モトクロスを知っている人も少なかったのである。広告宣伝課が担当しているレースだから「広報活動」も確りとやりたかったのである。このスポニチ主催のモトクロスはこのあと5回ほど続くのだが、毎回スポニチに大きく報道されたのである。多分最後の5回目は山本隆くんの当時の練習場だった加古川の河原で開催されたのである。

豊かな広告宣伝費のお蔭で、いろんなことが可能で、レースの広報もできたし、有望ライダーも育っていったのである。

 

★青野ヶ原の勝利からカワサキの二輪事業の継続は決まり、その中での『レースの位置づけ』は非常に大きなものだったのである。

50年以上も経った今は、競合メーカーに比して、カワサキも優れている分野が幾つもあるのだろうが、この1960年代はには『レース』以外に競合他社に優位に立てるものは『何一つない』そんな時代だったのである。

 

  

 

そんな時代のレースを支えていた技術屋さんたちの中に山田煕明・髙橋鐵郎の後川崎重工業の副社長になられたお二人もおられる。

左から4人目が、B7時代からレースに関係された井出哲哉さんである。

ちなみに、この写真を私に送ってくれたのは、当時のレース仲間、元川崎重工業社長の田崎雅元さんなのである。

当時のレースは、いろいろあったが事業の中枢を担う人たちが担当していたことは間違いないのである。

 

もし、『西海義治さんや松尾勇さん』がいなかったら、青野ヶ原は無かったかも知れない。

もし 『青野ヶ原のレース』がなかったら、カワサキの二輪事業の継続はひょっとしたらなかったかも知れない。

もし、『鈴鹿サーキット』で昭和37年11月にレースがなかったら、『カワサキの二輪事業』はなかったかも知れない。

もし、『膨大な広告宣伝費』がなかったらカワサキのレース運営も、こんなことにはなってはいない。

もし、『小野田滋郎』さんが厚木に『カワサキコンバット』を創っていなかったら、こんなライダーが集まっていなかったかも知れない。

 

その後のカワサキのブランドイメージ創造などを見ても、『レースが果たした役割』は非常に大きなものだった。

そんなレースの世界に色濃く関わりを持ったことが、『私の人生を豊かなもの』にしてくれたのは間違いないのである。

 

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城北ライダース 60周年おめでとう

2018-06-25 07:21:08 | カワサキ単車の昔話

 ★昨日は 『城北ライダース60周年記念パーティー

   こんなに沢山の出席者で、ご盛会だったようで何よりである。

 

城北ライダース現会長久保亨さんとはFBで繋がっていて、昨日のパーティーには、実は私もご招待を受けていたのだが、どうしても出席できずに残念だったのだが『ご招待された』こと自体が大いに光栄だと思っているのである。

 

 Facebook から拾ってきた写真だが

 

   

  真ん中、久保和夫さんである。

 

  星野一義の顔も見える。

   

 

  

★カワサキがモトクロスの世界に初めて参入した昭和38年当時(1963)城北ライダース久保和夫・鈴木誠一・矢島金次郎・菅家安智などなど超一流選手を揃えた文字通り日本でトップのクラブだったのである。

城北ライダース』はスズキのファクトリーのような形だったし、カワサキも『カワサキコンバット』や『神戸木の実クラブ』と密接に繋がっていた時代だった。

私はスズキやヤマハのライダーの方たちなどとも親しくさせて頂いていたのだが、城北ライダースのエースライダーであった久保和夫さんとは、何故か特に親しくさせて頂いていて、懐かしいいろんな想い出があるので、そんな昔話をちょっと。

 

  

 

城北ライダースのホームページを飾っている久保和夫さん、125・250クラスでは、誰もが認める第一人者で、スズキの久保和夫、ヤマハの荒井市次の両巨頭がモトクロス界に君臨していた時代だった。

 

★これはごく最近と言ってもいい。

2012年7月2日に、東京であった『酒井文人& クラブマンレースを語る会』に出席している。

 

  

 会場に到着するなり、久保和夫さんに会った。 一番会いたかった人でもある。

カワサキのマシンでマン島のプラクティスで亡くなった藤井敏雄くんを紹介してくれたのも久保さんである。

 

久保に勝って初めてカワサキは、モトクロスの世界で認められたのである。

 

 

東京オリンピックの開会式の当日、伊豆丸の山高原で開催されたMCFAJ全日本で山本隆君は久保、荒井の両雄を抑えて、真ん中に立ったのである。一番右は亡くなった梅津次郎である。

 

 

 そんな想いの交錯する城北の菅家安智を交えたショットである。

 当時の雰囲気をそのまま、今でも持っている。

 

40年振りに城北ライダースの久保さんや菅家さんにも会えたのだが、このパーテイーには、村島邦彦さんと『二輪文化を伝える会』の松島裕さんを一緒にお連れしたのだが、松島さんの活動はこの会を機会に大きく羽ばたいたとも言えるのである。

 

★ちょうど1年後の2013年7月、 全日本MX Legend Riders 記念パ―ティー が東京品川で開催されたのである。

  https://www.facebook.com/rfuruya1/media_set?set=a.640038466006791.1073742118.100000019311141&type=1

 

二輪文化を伝える会がお手伝いをして、久保和夫、山本隆、吉村太一、鈴木忠雄、小嶋松久と言う超有名ライダーが発起人で、まさに全日本の日本を代表するモトクロスライダーたちが集なったのである。

 それは久保和夫さんの開会の挨拶で始まった。

 

 

 

        

        

 

★これも同じ年の3月、こちらは西の名門マウンテンライダースの50周年パーテイー

 この時も久保さんとご一緒した。

 

   

 

  

 

 一緒に参加していた山本隆くんと、久保ご兄弟、シャッターを押したのは私である。

 

★ライダーたちとの出会いは、『私の人生を豊かなもの』にしてくれたと思っている。

夫々『世界の・・』とか『日本の・・』と呼ばれる人たちに成長して、そんな人たちと『昔の儘の関係でお付き合いできる幸せ』を感じているのである。

 既に先に逝ってしまわれた方も多いのだが・・・そんなライダーたちの写真を紹介してみる。

 有名人ばかりだから、敢えてお名前は付さないが・・・

 

  

 

   

 

   

 

    

 

    

 

 

   

 

 

  これは荒井市次さんの生涯最後のレースになったのだと思うが、その場におれてよかった。

 荒井さんとも何となく『繋がっていた』のである。

    

 

   

 ★そして最後に、

 城北ライダース60周年記念パーティー   にこのカワサキの3人で『お祝いのメッセージ』を動画に纏めてお送りしたのだが、

カワサキらしさも幾らか出てるかなと思うので、クリックしてご覧になってみてください。

 

 http://www.nicovideo.jp/watch/sm33256081

 

    

 

 

城北ライダース60周年おめでとう

モトクロスの創生期、名門中の名門 『城北ライダースの60周年記念』にカワサキ関係のレースOBがお祝いのメッセージを贈っています。
全日本モトクロスチャンピオンの山本隆、カワサキチームグリーンの創始者平井稔男、カワサキの当時のレースマネージメントを担当した古谷錬太郎、そして故堀ひろ子と共に女性で初めて鈴鹿を走り、アフリカのラリーにも一緒に挑戦した腰山峰子さんからもお祝いの言葉を。

 

  

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衛藤さんの記事の中の私

2018-06-06 10:02:53 | カワサキ単車の昔話

★先日ご紹介した衛藤誠さんの『二輪車新聞社便り』に『カワサキ販売網づくりの今昔』という記事があるというので読んでみた。

 懐かしい『カワサキ特約店制度』の取り組みは、私は未だ38歳の頃で、それを二輪車新聞のトップ記事に大々的に発表して貰ったことが、即成功に繋がった大きな要因だと今でもそう思っている。

 そのまま転記させてもらっている。

 

 

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二輪車新聞社便り

 

2017-10-02

カワサキ販売網づくりの今昔(1) 構想発表で大目玉

カワサキモータースジャパン(KMJ/寺西猛社長)は現在、新しい全国販売網政策に基づく「カワサキ・プラザネットワーク」づくりに取り組んでいる。思えばカワサキは今から46年前の1971年(昭和46年)、現行の「カワサキ特約店」制度の基盤ともいえる全国販売店の組織化が胎動の気配を見せていた

 これは、これまでの“実用車のカワサキ”から脱皮し、“中・大型スポーツ車”を中心とする販売展開を目指すため、新しい販売方式を模索しての動きであり、特に東京・大阪・名古屋など大都市市場で見られてきた。既にこの前年、70年(昭和45年)には東京で、中・大型機種の販売を指向する販売店約50店による「東京カワサキ会」(正式な名称は違うかも?)が結成された。

これに触発された大阪でも、カワサキオートバイ販売(カワ販=現KMJの前身/田中誠社長)大阪母店(近畿地区を統括)大阪営業所が1月、府下の主力20店を和歌山の勝浦温泉に招待して新年会。この席上、古谷錬太郎所長(大阪母店長も兼任)が“中・大型機種を指向する販売店の組織化”を相談したところ、出席者の大半が賛成し「早急に準備を進めてほしい」ということになったという。

この直後、古谷氏から私に声がかかり、古谷氏が考える新しい全国の“カワサキ販売店組織化構想”を示し「この早急な実施を図りたい」との話。そこで私も「この構想を二輪車新聞に掲載していいのか」と問いかけると、「是非大きく書いて」ということになり、本社でも“面白い”ということで、2月5日付で、1面トップで大きく扱ってくれた。

ところがカワ販でこの記事が大問題となり、私と古谷氏が明石のカワ販本社に呼びつけられ、当時の苧野豊秋専務から“大目玉”。

苧野専務曰く「現在、全国にカワサキ車を販売してくれている販売店は1000店以上ある。この販売店は、何の前触れもなくこの記事がいきなり舞い込んできたら何とする。販売店の今後の経営方針にも大きく影響するばかりか、カワサキの今後の営業活動にも大きく支障が出る」というような主旨のお叱りの言葉を約3時間。私は苧野専務のお叱りは“ごもっとも”と思い、大いに反省させられた。

ところが一方の古谷氏も、その場では“ハイ、ハイ”と平身低頭していたが、後々、古谷氏の言葉から、これは“確信犯”だと感じさせられた。

「難問題にチャレンジするには、まず、事を公に発表してから進める。当然リスクはあるだろうが、そのくらいのことは最初から覚悟している。私は物事を半年刻みに考えており、半年で出来ないものは、10年経っても出来る保証はない。これは私の信念であり、今度のことでは、衛藤さんには迷惑をかけたが、“事を急ぐため”の常套手段であり、物事の実現には大きな“追い風”になります。もちろん、これには多くの人たちを納得させる正当性がある限りです」とのこと。全く恐れいりました。

二輪車新聞 大阪支社顧問 衛藤誠

 

★衛藤さんはこのように書かれているが、この販売網政策については、実はもう1年以上も前にカワ販の本社企画が立案をして役員会でも決裁・承認されていたのだが、第1線の現場が一向に動かないのである。現場の長にしてみると結構なリスクがあるし、本社案は総論は書いているが、実戦をどう進めるかなどは全く触れていないのである。

 私はこの時営業の現場責任者を初めて担当したのだが、会社が決めた方針が実際に動かないのは問題だと思って、私なりの方法でその実行を試みただけのことである。

 従って『この政策を実施すること自体』を苧野専務が怒られることは全くなくて、専務が怒られたのは『二輪車新聞に大々的に、本社の許可も得ずに大阪営業所が勝手に発表した』ということに対しての注意なのだが、こんなことを本社に相談などしていたら、それだけで何ヶ月も掛かってしまうのは間違いないのである。

 それに、私を大阪営業所に指名されたのは田中誠社長で、当時の大阪市場は全国でも最弱市場だったので『それを何とかするように』との指示を仙台から異動する前から聞いていたので『私流にやって大丈夫』と思っていたのである。

 

 

 2017-10-09

カワサキ販売網づくりの今昔(2) 現在も過去も狙いは同じ

古谷氏の狙い通り、事はトントン拍子に進み、「半年あれば物事はある程度の現実をみる」とおっしゃる通り、この年の5月には大阪府下の主要な販売店25店が参加して「大阪カワサキ共栄会」の結成総会にこぎつけ、カワサキオートバイ販売から田中誠社長の出席もみた。

名称の「大阪カワサキ共栄会」は、その文字通り“カワサキとその販売店が共に栄える”という願いを込めたもの。また、その会長には船場モータース(現・船場)の岡田博社長が就任した。さらに5カ月後の10月には、同共栄会の2回目の会合が開かれ、東京カワサキ会から北多摩モータース、城東カワサキの両社の社長さんも来賓で出席し、東京の組織活動などの情報を話し、相互に意見交換を行った。

このあと、カワ販大阪営業所は、カワサキ共栄会メンバーを軸とした販売強化策を展開して、府下の販売店のうち約500店もの販売店との取引中止を実施した。同時に「カワサキ特約店制度の基本構想」の検討にも着手した。これにはカワ販本社の田中社長も大阪の展開に強い関心を示し、その取り組みを側面から支援したこともテンポを早める要因になったようである。

おりしもカワサキは、この年(71年)、“二輪車事業10周年” を記念して、全国的な「二輪車事業10周年記念セール」を展開し、このセール成約の優良店100店を“KMC&米国市場視察旅行”に招待することにした。

このセールの主催は全国カワサキ会(小野寺和夫会長)。この会は、全国のカワサキ代理店(ディストリビューター)組織で、カワ販の各地区母店もこのメンバーに含まれており、大阪母店長の古谷氏は同会の副会長に就任していた。

「米国視察旅行」は、72年(昭和47年)1月8日から15日までの7泊8日で、KMC(カリフォルニア)とサンフランシスコなど西海岸の旅で、参加した100店のうち、約50店は東京地区、残る50店が大阪をはじめとする関西と、名古屋地区の販売店であった。この帰国直後には、京都カワサキ共栄会も結成をみた。

このあと、4月にはカワサキ本社に東京・大阪・名古屋地区を統括する直営部が社長直轄として設けられ、直営部長に大阪母店長から古谷錬太郎氏が赴いた。前年から検討されていた「カワサキ特約店制度」の構想も急ピッチで進み、8月中にはその概要がまとまり、二輪車新聞の8月31日付けに掲載。9月8日、大阪の厚生年金会館で、この正式な発表説明会を開いた。まずは直営部管内の東京・大阪・名古屋地区で先行することにして、正式なスタートは72年10月1日からだった。

契約第1号は、説明会を行った翌日の9月9日、大阪の船場モータースで、しかも船場モータースの岡田博社長は自店の契約だけでなく、東・名・阪各地で契約促進をバックアップした。さらに翌年の73年9月からは、この「カワサキ特約店制度」を全国的に導入することになり、首都圏全域や広島、福岡などで積極的な活動が展開された。

これには、東京・大阪・名古屋地区で特約店契約を結んでいた販売店も積極的な協力を行ったという。また、当時のカワサキは“ZⅡ”をはじめとする中・大型車の販売が好調で、これも特約店契約促進の追い風になったようである。

カワサキが現在取り組んでいる新しい販売網政策の「カワサキ・ネットワーク」と、46年前に取り組んだ「カワサキ特約店制度」は、新しい販売網を構築しようという狙いは共通している。しかし、唯一異なる点を挙げると、現在進めている制度は、寺西猛社長、清水泰博取締役を中心に、本社で綿密な計画を練り、これを全国展開している点と、46年前の制度は、販売店の声などを汲み入れる形で地域の営業所長などが考え、これを可能な地域から全国的に拡大しようとした点だと思われる。

この差異は、混沌とした46年前の二輪車市場と、すでに成熟しきっている現在の二輪車市場という、全く異なる時代的な背景がもたらすものだと思う。

なお、カワサキ・プラザネットワークは、15年11月に計画が発表され、16年4月に内容の説明会、16年12月8日、大阪にモデル店第1号がグランドオープン。17年4月から正式スタートし、17年中には全国で25店前後のカワサキ・プラザネットワークをみる予定。そうして当面の目標である20年4月までには全国で120店のカワサキ・プラザネットワークを実現させたいとしている。

二輪車新聞 大阪支社顧問 衛藤誠


昭和47年8月31日付の二輪車新聞より。


昭和46年2月4日付の二輪車新聞1面。

 

★衛藤さんの記事はホントに正確で懐かしい。 

ただ、現在進められている『カワサキの販売網政策』とは、基本コンセプトの段階で差異があるようにも思うのである。

基本コンセプトに共感する仲間たちと一緒に創ったので、全国展開には3年程掛かったが県単位では1回の『特約店説明会』毎に完成していったのである。その説明を大阪の船場モータースの岡田博社長が、現地まで出向いて手伝ってくれたのである。

私の30代後半からの数年の大仕事であった。

この特約店制度の完成を見て、私は約10年の『カワ販出向』を終わり発動機事業本部企画室企画課に課長として復帰するのである。

 

もう50年も前の話だが、この特約店制度を一緒に進めた仲間たちは、いまもFacebooKのトモダチで繋がっているのである。 

平井稔男・柏原久・関初太郎・吉田純一・吉川健一・山本隆・加藤さん(八尾カワサキ)などなど、そのスタートの時期に、みんなカワサキにいた人たちなのである。

 

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私たちが入社した頃 と カワサキ

2018-06-04 06:38:38 | カワサキ単車の昔話

★私は当時の川崎航空機に昭和32年に入社した。1957年のことだから、今から60年も前である。

 どんな時代だったと言ってもなかなかお解りにならないのかも知れないが、川崎航空機工業は戦前からの会社だが、明石工場はエンジン・岐阜工場は機体工場だったのである。そんな軍事工場なるがゆえに戦時中は爆撃にもあったし、終戦後は昭和27年まで、会社は再開されなかったのである。

そんな中断もあっての再開だったので、従業員はみんな若かったし、なかなか新しい柔軟な発想をする企業だったと思う。

 上の方が少なかったこともあって、入社早々の若い新人の頃から、結構任された仕事が出来たのである。私が取り組んだのは、IBMによる財産の償却計算システムを、岐阜も本社も巻き込んで創り上げたりしたのだが、そんな機械化のお蔭で、償却計算する人手が要らなくなって、新しく出来た単車営業に異動になったのである。IBMが日本に入ってくる10年も前のことである。

 

 田崎さんは、勿論川重の社長もされた『エライ人』だが、私とは若い頃はカワサキのレースチームの仲間だし、1980年代のカワサキの二輪事業の危機の時期は、ちょうどアメリカのKMCの社長をしていて、私が明石で企画室長などしていた『経営再建コンビ』だったので、今でも特別な関係が続いているのである。

田崎さんもある意味 昭和の昔気質』で、いろんな意味で『1年先輩の私』を立ててくれるのは有難い。

 

★昨日は、こんなメールと共に何枚かの写真を送ってくれたのである。

 

懐かしい話

古谷さん  昭和33年4月に、川崎航空機に入社、 神戸製作所 ジェットエンジンオーバーホール工場に配置されました。 資格は見習い、初任給は12、000円/月 でした。当時は、小型飛行機もよく飛来し、ベルヘリコプターの製造もやっていました。 品質管理、特に非破壊検査が主務で、いろいろな製品に係りました。

労働組合の常任幹事もやりました。あなたが最初に私に会い、何にでも口をはさむ奴だ、と認識した場面です。「組合は民需優先の旗を揚げるべきだ」と主張したのを覚えています。   懐かしい写真を見つけましたので添付します。昭和33年組は、60人という多数の入社で、技術屋は面接のみで無試験という売り手市場、かなり高姿勢でした。

3研ビル正面で 新入社員の記念写真、砂野さん、塚本さんも若いですね!

 

 

 当時の初任給は、私も月給が12000円だったから、このころ入社した人は、退職するころは給料は、初任給の100倍以上になったそんな時代なのである。

月給が10万円に届いたのは、入社15年目ごろだったがその5年後には30万円になったりした。

 

   

 

 今でも思い出すが、当時はこんな安い初任給だったが、皮靴は5000円もしたし、腕時計は1万円もして大変だった。60年経って一番安くなったのは、『靴と時計』かなと思たりしている。

 当時川崎航空機は、アメリカ空軍の東洋で唯一の『ジェットエンジンのオーバーホール工場』を持っていて、アメリカ空軍がいたし、ジェットエンジンの生産管理は、当時からIBM管理されていて、日本では最先端の『管理ノウハウ』があったのである。

 

  

 田崎さん、流石に若いな。

 

 明石工場の中には、滑走路もあったし、ヘリコプターのベルを生産していたりして、文字通り川崎航空機工業に相応しい、事業はやっていたのだが、損益的には非常に苦しくて、営業収入が不足する時は、戦前からあった膨大な機械の売り食いなどで、辻褄を合わせていたのである。

 

  

 

 二輪車のエンジンは単体で作っていて、『メイハツ工業』にエンジンを供給していたのだが、昭和35年(1960年)ごろから単車の一貫生産工場を造ろうということになって、事務屋は本社や神戸製作所から、技術屋はその殆どがジェットエンジン部門から異動してきたのである。

 私が営業部門に異動になったのは昭和36年の末なのだが、未だその当時は田崎さんはジェット部門で、私は営業部門の常任幹事、田崎さんはジェット部門の常任幹事で、会議に出てきたらどんな議題にも『雄弁に口を出すので』てっきり事務屋だと思っていたら技術屋だと聞いてびっくりしたのが、田崎さんとの最初の出会いなのである

 

 

 

 

これが昭和33年に入社した60名だが、この写真の中に、後川重の社長をされた、砂野仁・四本潔・田崎雅元さんの3人がおられるのも懐かしいし、後単車の事業本部長をおやりになった岩城良三さんや塚本碩春さんもおられる貴重な写真である。

 この中には、後Z1のエンジン開発に携わった稲村暁一さんもおられるはずである。

 

 

★そんな若かった田崎さんも、川重の社長になられてからは『カワサキワールド』を作ったり、今回話題を提供した『ヴィッセル神戸』のスポンサーになるなど、重工業だがなかなか『ソフト面』での対策もできていて、『カワサキのブランドイメージの向上』に尽くされているのは流石である。

 

    

  

  この写真などは『Kawasaki』が世界中を駆け巡ったし、

 

   

 

   三木谷さんとの談笑の写真なども送って頂いた。

     

        

   ヴィッセル神戸 とのスポンサー契約、2003年というから、もう15年も経っているのである。

 

       

 

   

 

   これはいつ頃かな? 未だ田崎さんも若い。

 

    

 

    歴代川重社長の中で、ジェットスキーに乗ったり、サーキットをバイクで走れるのは、田崎さんの秘かな自慢なのである。

    現役社長の頃に『川崎柔工業』を目指したのは、単車出身の田崎雅元さんの面目躍如なのである。

 

 

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ナイジェリア 出張

2018-06-03 05:38:06 | カワサキ単車の昔話

★先日、どこかのテレビで『ナイジェリア』を特集していた。

 

  

 

ナイジェリアはアフリカのこんなところに位置し、その人口と経済規模から「アフリカの巨人」と称されることが多い。

人口はおよそ1億8400万人でアフリカでは最大である。

 海外に行かれる方も昨今は多いのだが、ナイジェリアなどに行かれた方は少ないのでは?

 

★私は1976年から78年当時、カワサキの開発途上国関係を担当していて、当時のイランにもナイジェリアにも行ったことがある。

 イランは未だ王政時代で二輪各社も進出していたし、カワサキも工場を持っていて、そこに一人で出向していたのが佐伯達彦元川重副社長で、テヘランには日商と一緒に事務所があって岩崎茂樹くんが行っていたのである。

イランの数字が1,2、3、4ではなくて独特のペルシャ数字だったのも、回教文化にもビックリしたが、ナイジェリアもびっくりした。

  

これらの国に比べるとタイやインドネシアは日本人が行ってもそんなに驚かされるようなことのない国なのである。

 

★当時アフリカのナイジェリアに手を出しかけたのはカワサキだけだったかも知れない。

なぜそんなことになったのかは、よく覚えていないのだが、駐在員を一人置いて、イギリスのリバプールに本社のある英国企業との合弁で進めるべく、私はリバプールにも行ったし、そのあとナイジェリアのラゴスも訪れたのである。イランのようなCKDではなく二輪の輸出が出来たような気もする。

その辺の記憶の不確かさは、なぜだろう? 曲がりなりにも当時の私は開発途上国の担当責任者であったのだが・・・

多分カワサキの方でも、カワサキがナイジェリアに進出を図ったことなど、ご存知の方は少ないだろうし、ナイジェリアに足を踏み入れたのは確か私を含めて4人だけだと思うのである。

 

★私も、結構無頓着にいろんなことを経験するのだが、この出張が現役時代でも一番大変だったのを思い出すのである。

● 出張した当時は課長ではあったが、単独行動だった。

● リバプールの英国企業本社も一人で訪れたが、『リバプールなまりの英語』が解らずに、半分筆談になった。

● ロンドンに戻って、ラゴス行きの飛行機を探したが、そんなフライトがないのである。ロンドン市内にはヒースロー空港のほかにガトウイック空港があることなど全く知らなくて、タクシーを飛ばしてやっと間に合ったのである。ロンドンに5つも空港があることなどご存じだろうか? 多分殆どの方がご存じなのはヒースロー空港だけだと思う。

ラゴスの空港からは、名前を失念してしまったが駐在員の方との一緒の行動だったから何の問題もなかったが、ナイジェリアならではの経験をいっぱいしたのである。

 

   

今でもマラニア蚊がいて、ナイジェリアに行くには日本でマラニアの予防注射が必要である。

先日のテレビの方も言っていたが今は予防注射のほかに毎日薬も飲むそうである。

どんな国か?と思われるだろうが、首都ラゴスは結構な大都会で、私もテニスコートのついているような立派なホテルに泊めて頂いたので蚊などはいなかったが、何となく気持ちが悪かった。

 

   

 これは今のラゴスだが、当時も結構立派な大都会である。

 ホテルで駐在員の方とテニスを楽しんだが、ボールボーイ付きのテニスをしたのは最初で最後だった。

 食事も立派だったし、ラゴスでは何の問題もなかったのである。

 

  

 

ただ、当時から大渋滞で、車は日によって走れる車は偶数か奇数かのどちらかのナンバーなので、毎日乗るには2台の車が当時も必要だった。

地方にも出かけたが一歩ラゴスを出るとまさにナイジェリアで、様相は一変するのである。

 

   

 

    

 

 兎に角、人が多いし子供が多いのである

英語は通じるので『何歳か?』『結婚してるか?』『こどもは何人か?』と聞くので『二人』と答えると『なぜ二人だ???』と不思議そうに仰るのである。

今はどうか解らぬが、当時は『避妊の方法』など全く解っていないようで『こどもが二人』などは想像外のことのようだった。ホントに子どもいっぱいなのである。

  

 

 ★ 世界は広くていろんな人がいる。

 日本人は常に自分の方からの目線で、日本と違う風習などに出会うと直ぐに『おかしい』とか『変だ』と言ったりするのだが、日本人は世界で1億人だし、ナイジェリアだけでも日本人の倍ほどいるのだし、回教徒に至っては25億人もいるのだから、先方から見ると、日本人の発想の方がおかしいと思うのかも知れないのである。

 昔々の懐かしいナイジェリアをテレビ放送で思い出したのである。

 

 

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二輪車新聞社便り  カワサキ創成期を支えた人たち -2

2018-05-29 06:42:48 | カワサキ単車の昔話

 

★二輪車新聞社の衛藤誠さんが連載で書かれている『カワサキ創成期を支えた人たち』の連載第2回がアップされたのでご紹介してみよう。

 

 

 

 

このB8の全国MX1〜6位独占に一つの秘話があるという。

それはモトクロス大会が開かれる1年前の62年11月、鈴鹿サーキットがオープンし、その開幕レースが開かれた。これにカワサキの代理店であった兵庫メグロ販売の西海義治社長(元プロレーサー)が見学会の実施を呼びかけ、当時、単車事業現場で中心的なメンバーだったた高橋鐵郎氏をはじめ、中村治道氏、川崎芳夫氏、田崎雅元氏、古谷錬太郎氏など、20人近くがバスを仕立てて参加した。

この鈴鹿サーキットのレース見学会に触発され「うちでもレースに取り組もう」ということになった。しかし、考えてみると、当時のカワサキにはレースマシンの開発に詳しい人がいなかった。このため西海社長が、社長子飼いのメカニックの松尾勇氏を、兵庫メグロ販売からカワサキにトレードすることにし、発動機事業部製造部に転籍した。

とりあえずモトクロスから始めることにし、B8をべースにしたモトクロスレーサーの開発にあたった。1年間に渡る懸命なマシン造りで、約10台のモトクロス車が完成。青野ヶ原(兵庫県下)のMFJ第1回全国モトクロス大会に出場し、6台全車が1〜6位を独占する快挙となったものである。

後に、川崎重工業副社長となった高橋鐵郎氏は「あのとき、青野ヶ原のモトクロス大会に出場していなければ、現在のカワサキはなかった。さらに言うなら、ホンダさんが鈴鹿サーキットを建設していなければ、現在のカワサキはなかった。つまり、現在のカワサキは鈴鹿サーキットのおかげとも言える」とおっしゃっていた。ともあれ、カワサキの単車づくりは継続されることになって、64年1月、それまで発動機事業部の中にあった単車事業は、新しく「単車事業部」として独立し本格的な体制が確立された。

この事業部スタートの条件として、「広告宣伝課の設置」があり、向こう3年間に渡り「本社(川崎航空機)の開発費の中から、毎年年間1億2000万円の予算を与える」ことになった。

新設の「広告宣伝課」や「販売推進課」では、この年間1億2000万円の広告宣伝予算割に頭を痛めた。当時のカワサキには東京・大阪・名古屋など大都市での需要は低く、“カワサキは登坂力のある実用車”のイメージが強く、九州や東北、北陸などでの需要が高かった。そのため、テレビなどを使った宣伝では“費用対効果”を出せない。

結局、ジェットエンジン事業部から、下取りのヘリコプターを約1000万円で購入して、地方を中心に全国各地で“ヘリコプター体験搭乗会”を開き、カワサキのブランドイメージを高めた。あらかじめ各地で、ヘリコプター搭乗希望者を募り、その現場では製品展示会などのイベントも開いて、効果を高めた。この企画は全国各地で人気となり、大成功だったようである。

そうして65年には、単車事業本部に格上げとなり、本部長には本社の常務取締役の役職にある岩城良三氏が就任した。この岩城本部長により米国現地生産の“リンカーン工場”建設が進められた。さらに、カワサキはこの後69年に、グループ3社(川崎重工業・川崎航空機事業・川崎車両)合併もあり、また、単車事業も順調に発展。カワサキが本格生産を始めて10年が過ぎた1972年秋には、カワサキ“Z”が発売され新たな飛躍の時代へと進んだ。(つづく)

二輪車新聞 大阪支社顧問 衛藤誠


米国でカワサキ車を現地生産するため「リンカーン工場」の建設を進めた。右から2人目が、この建設を指揮した川崎航空機事業・常務取締役単車事業本部長の岩城良三氏。その左隣が同単車事業本部企画室課長の浜脇洋二氏(川崎重工業退職後にBMW・ジャパン社長に転じ、BMWの二・四輪販売網を全国に確立するなど大きく貢献した)。一番左はカワサキの米国現地法人・KMC市場開発担当の杉沼浩氏(川崎重工退職後にMFJに転じ長らく常務理事としてMFJの体制強化に貢献した)

 

★ 衛藤誠さんの記事は、このように詳しいのだが、若干事実と違っているところもある。

 鈴鹿のレースを観戦した人の中に私の名前もあるのだが、私は鈴鹿には行っていない。私は当時は新しく出来た単車営業課に在籍はしていて、既に衛藤誠さんとはお会いしていたのだが、青野ヶ原モトクロスにも行っていないし、レースが何たるやも全く解っていなかったのだが、私の係の川合寿一さんがチームのマネージャー的役割をやっていて、当時の小野助治次長の指示で残業時の『パン代』など幾らかの負担を営業の経費で負担するなどのお手伝いはしていたのである。

 広告宣伝課は私が担当して、衛藤さんとはより密接にお付き合いすることになったのだが、記事にあるヘリコプターを広告宣伝課で持っていたのも事実で、各地でのヘリの搭乗会はホントに人気があったのだが、当時のヘリの新品の値段が1000万円で、広告宣伝課で持っていたのは下取りのヘリだから、簿価200万円ぐらいで、その運営費を広告宣伝費で負担していたのである。

 衛藤さんの取材は、現役時代からずっと受け続けていたし、衛藤さんは歴代のカワサキ二輪事業を担当した人たちとは親しいのだが、特に国内市場を長く担当した、髙橋鐵郎さんや私は懇意にして頂いたのである。

 

 

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大槻さんと田崎さん

2018-05-28 06:28:07 | カワサキ単車の昔話

★今朝一番にかってのカワサキのレース仲間の大槻幸雄さんと田崎雅元さんからメールが入った。

 お二人はカワサキの初めて会社が正規に認めた鈴鹿のジュニアロードレースの監督・助監督コンビなのである。

   

そのアマチュア6時間耐久レースの写真(これも田崎さんが私に送ってくれた)

このレースが歳森康師とのコンビで金谷秀夫のレースデビュー戦でもあった。

お二人とは、そんな昔のレース仲間の関係もあって、いまも尚いろんな形で繋がっているのである。

 

 

田崎さんからは、昨今新聞を賑わした話題の二つからのメッセージを頂いた。

 

まずはヴィッセル神戸に入団した『イニエスタ』のことである。

 

・・・・ユニフォームの背面の Kawasaki がテレビ、新聞など主要メディアに大きくアピールされ計り知れない恩恵を受けたようです。・・・Kawasaki-Rakuten のコンビを強化するチャンスだと思います。過去に、GPレースのスポンサーをお願いした事がありますが、時期尚早という事で実現しませんでした。楽天が欧州進出を計っている今、Kawasaki ブランドとのタイアップは非常に有効でインパクトがあると思いますので、この機にもう一度MOTO GP のスポンサーをお願いしてはどうかな・・・・

 

  

 

この機会にもう一度 MOTO GPのスポンサーをお願いしたらと思っているようなのである。

これは実現したらなかなかオモシロいなと思っている。

         

  

 三木谷さん、明石高校出身のようで、面識はないが後輩にあたる。明石高校も大物を産んだものである。

 

 

 

★ もう一つは、最近マレーシアのマハテイールさんが92歳で首相に返り咲いたというニュースが流れたが、これに関してこんなメッセージが写真と共に送られてきた。

 ・・・・ご存知のとうり、マハティール首相と川重は親密な関係にあり、私もモーターサイクルのマレーシア国産プロジェクトで、何度もお会いしています。大庭さんが、よく「俺とマハティール、サッチャーは同じ年の生まれだ」と云っていました。

 

大庭浩・髙橋鐵郎・田崎雅元さんの3人が揃って写っている。この時は大庭川重社長時代だと思うが、私は大庭浩単車事業本部長・髙橋鐵郎副本部長時代の番頭役を務めていたので、大庭さんのあの独特の性格が思い出されて懐かしい。

大庭さんはサッチャーさんでも、マハティールさんでも、物怖じせず自然に近づいて行かれる独特の性格をお持ちなのである。

 

      

 

 田崎さん、元気になられたので、川重の現役諸君も三木谷さんにも、マハテイールさんにも気軽に話のできる田崎さんを大いに利用されたらいいと思う。

 その田崎さんは、ごく最近オートポリスのレース観戦にも行かれたとか、こんなメールも頂いているのである。

 5月12日(土)~13日(日)は、12年ぶりに大分に飛び、翡翠之庄で広瀬知事夫妻と懇親会、翌日はオートポリスのレース観戦というスケジュールでした。・・・朝から霧と雨で開催が危ぶまれたJSB1000Rd.3の決勝。11:00頃から奇跡的に雨が止み、霧が晴れて、レースが始まり、結果はカワサキの1,2フィニッシュで関係者は久々の快挙に大喜びでした。 カワサキがレイン用タイヤをつけず、後半の路面の乾きで一挙にスピードを上げ、10位ぐらいのところから、ごぼう抜きで1,2位を得するという戦略的な勝利でした。・・・93年にNYから帰国後、夫婦で観戦したスズカ8耐で初めて優勝した事を思い出しました。・・・・

 最後に書かれている93年の鈴鹿8耐は私も一緒だったし、岩城滉一と一緒に会食したのもこの時のことなのである。

 田崎さん、結構ちゃんとバイクに乗れるのは彼の自慢である。こんな写真を一緒に送ってくれたのである。

      

 

 

★現在は、こんなカワサキの二輪事業の展開だが、昭和37年当時は大変だったのである。

ごく最近私のブログに、大槻さんからこんなコメントを頂いたのである。

  Yukio Otsuki 極東空軍のジェットエンジンのオーバーホールでいち早く、ジェットエンジンの仕事を始めたが、仕事が減って将来がなく、単車事業に将来を期して、昭和35年に本格的に事業を開始したが、早くも昭和37年にB7のクレームなどで、撤退を真剣に検討していた時代を想起します。撤退とは何事だと憤慨したことを思い出します。

 

  

 

 ホントにあの頃は大変だったのである。

 川崎航空機はエンジンは専門で、エンジン技術者はプロがいっぱいだったし、アメリカ空軍のジェットエンジン・オーバーホールをやっていて、その生産管理方式は、最先端のアメリカの生産システムノウハウを持っていたのだが、車体設計だけは素人で最初の125ccB7はその車体欠陥で返品が相次ぎ大変だったのである。 

そんなこともあって、『この事業を続けるべきか否か』日本能率協会が調査に入っていたのが昭和37年なのである。

その当時の人たちは、みんな血気盛んだったように思うのだが、その最先端が技術部の人たちで『撤退とは何事だと憤慨したことを思い出します。』 とコメントで書かれているように、こんな係長総意の文章もあったようである。 

当時を現わす貴重な資料だと思うので大槻さんから、わざわざお送り頂いたので、ご紹介しますのでご一読下さい。

当時の技術部の若手の熱っぽさがよく出ているし、その後再開されたカワサキの二輪事業は、こんな人たちの熱意の下に展開され、『カワサキ独特のブランドイメージ』に繋がっていくのである。

 

 昭和37年5月20日 単車製造削減方針に対する意見書草案

今回、我々は当社の基本方針が単車製造を大幅に削減するという報せを受け、その意義が余りにも大きく、且つ我々が受けた精神的打撃が測り知れざるものであることをご認識頂きたく、甚だ僭越ではありますが、我々の所感の一端を述べ、経営者の方々のご批判を仰ぐ次第でございます。

顧みれば2年前当社の生い立ちから当然のことですが、民需部門拡大の第一歩として敢えて競争激烈なオートバイ界に乗り出すべく、単車製造の大方針が打ち出され、社の主力が結集されました。そしてその任に当たる我々は仕事の重大性を充分認識してより良きものの生産に全力を傾けて努力邁進した次第です。

不幸にして我々の設計した単車はあまりにも速い技術的進歩の故に、はっきり申しまして現在市場で多売されているものに比して劣ったものであったことは認めざるを得ず、その責任や誠に重大なものであり、”クレームが出て売れない”という言葉を耳にするにつけ、「今に見ておれ」と身を切る思いで歯を食いしばって来た次第です。

 技術的な問題については、我々は決して責任を回避し、弁明するものではありません。然しながら”ローマは1日にしては成らず”の譬えのごとく、成果は蓄積された技術の集積によるものであり、僅か1年や2年の設計期間にて、この激しい競争に打ち勝って他社より優れたものを作るのは不可能なこと、今や我々の研鑽は実を結び、早くも世間並みの線に達し、近い将来設計開発するものは、間違いなく他社を圧倒するものであり、その前途や見るべきものがあると思います。そして我々は単車製造が当社の重大な仕事であることを充分認識するが故に臥薪嘗胆必ずや他社を圧倒する製品を設計して見せます。又設計しなければならない決意と責任に燃えている状態です。

かくの如く漸くにして他社を圧倒する製品を設計し得る状態に達したその時に、単車削減の方針となり新規開発は全て中止の理解し難きことでございます。若しここで新規開発を止めんか、わが社は単車界の物笑いとなって消滅しなければならないでしょう。ひいては永久に民需部門に乗り出す機会を見出すことが出来ず企業界からも消滅する運命を辿らざるを得ないでしょう。

一方、販売網の弱体を見聞するに及び我々一人一人が単車を連ねて販売店を廻り”売り込み、売って見せる”の意気に燃え、石に噛り付いても単車製造を成功に導くべく決意に燃えている次第です。

単車製造は極めて厳しい競争場裏に飛び込むことであり、2,3年は現在の如き業績不振が起こることを覚悟して而も尚単車製造によって民需部門進出の第一歩とされたことを思えば、現在の状況に陥ることは当然のことであり、今ここに単車製造の方針を撤回されるということは誠に理解に苦しむところであります。

かくの如き事情を改めてご考慮下され、今回の処置に対して敢えてご再考のほどお願い申しあげます。

                                          係長一同

   

 

  この日本能率協会の調査が行われたのは、昭和37年(1962)のことだがこの年新発売された125B8が好評で、青野ヶ原のレースで 好運にも恵まれ1位~6位独占で、事業部内の意気が上がり、昭和38年1月に『単車再建宣言』が出され、日本能率協会の再建の条件の一つの『広告宣伝課』の設置が決められて、私はその担当をすることになるのである。

 それから3年間、本社開発費で年間1億2000万円の広告予算が与えられ、その中での『レース運営』でもあったのである。

 ホントに懐かしい時代で、みんな若かったが熱っぽかったのも間違いないのである。

 

 

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カワサキファクトリーチーム結成25周年記念OB会

2018-02-24 06:57:35 | カワサキ単車の昔話

★ 手元に残っている写真で、一番私の想いがこもっているものと言えばコレだろう。

 

  

 

1988年10月15日 今からちょうど30年前 私も未だ55歳の頃である。

 この年の10月1日付で、私は国内の販売担当のカワサキオートバイ販売に専務取締役として出向することになったのである。

 当時のCP事業本部長でカワサキオートバイ販売の社長を兼務しておられた髙橋鐵郎さんから『国内市場で7万台の販売達成』と言う高い目標を与えられての出向だった。

それまでの単車事業は80年代初頭に膨大な赤字を抱えてその事業再建が第一命題であったことから、世界の各販社も堅実経営が一番の目標であり、ロードレース関係も一時中断していたそんな時期が続いたのだが、ようやく事業再建もなって、髙橋本部長が自ら社長を兼務されていた国内販社での販売台数倍増の目標を掲げられたのである。

健全経営なら兎も角、販売倍増を狙うなら、二輪車はスポーツ・遊びの道具だから、一番必要なのは『遊び心』と『末端ユーザーへの働きかけ』そしてその結果としての『カワサキの新しいイメージ創造』なしに台数倍増など望んでもとても達成はできないと思ったのである。

そんなことで、10月1日に赴任して真っ先にやったのがこの『ファクトリーOB会』で、かって創成期のレースを担当されたOBの方々にその決意を披露し、現役チームのメンバーたちにも『積極的なレース展開』を宣言したのである。と同時に新たに ユーザークラブ KAZEをスタートさせたので、KAZEも今年が『30周年記念』を迎えるはずなのである。

結果的には90年代初頭に『7万台の販売目標』も達成できたし、この席に出席している『多田・宗和』と塚本の3人で世界耐久ルマンでの3位入賞も果たしたし、ラッセル・ㇲライトコンビでの鈴鹿8耐での優勝も達成して『国内市場の輝ける90年代実現』となったのである。

この会合は当時から巨人や中日の定宿であった芦屋の竹園旅館で一泊どまりで盛大に開催したのである。

この写真を撮って頂いたのは、二輪事業スタートの時期からカワサキを担当し、今も尚現役の記者である『二輪車新聞社の衛藤誠』さんで、当然二輪車新聞の記事にもなったし、『新しいカワサキの基本方針』発表の場として、それに『相応しいメンバー』を集めたのである。

 

★今回は、この写真に載っている方々について、私が今までこのブログなどであまり記述していない方々を中心に、ご紹介をしてみたい。

まずは最前列『胡坐をかいて座っている方々』がカワサキのレース創生期の中心メンバーで、カワサキの二輪事業の中枢におられた先輩方である。

前列右から

● 大槻幸雄 カワサキの初代ローレース監督を務めた。Z1開発責任者で川重常務を務められた。今でもZ1会などでお付き合いがある。

● 中村治道 

カワサキのレースはこの方が生産部門で旗を振られて始まったのである。あの『青野ヶ原モトクロス』の総監督で、カワサキの当時のレース委員会の中心人物である。中村さんがいなかったら『青野ヶ原』もなかったし、あの勝利がなかったら、ひょっとしたらカワサキの二輪事業もなかったかも知れないのである。情熱の塊のような方だった。

● 苧野豊秋

私がカワサキの二輪事業に異動して以来、ずっと私の上司としてカワ販専務を務められ、山田さんとともにレース運営委員会をリードされた。ジェットスキー関連では、JJSBAを創設しその初代理事長として国内のジェットスキーレース分野で大いに貢献された。

髙橋鐵郎・中村治道・田崎雅元さんなどにとっても、ジェットエンジン部門時代の上司でもあった方である。

川重退職後も国内部品業務やJJSBA関連で大いに援けて頂いて、ソウルオリンピックでのジェットスキー・デモンストレーションにもご一緒して頂いたのである。

 

● 髙橋鐵郎 長く直接の上司として関係があった。川崎重工業副社長を務められた。

 

● 西海義治

真ん中に座っておられるのが兵庫メグロの西海社長である。カワサキのレース活動は西海さんの主導で進められたと言っていい。当時カワサキには二輪事業も解っている人は少なかったし、ましてやレースの世界など誰もよく解ってはいなかったのである。西海さんは元プロのオートレーサーでレースに詳しく、カワサキでレースをするために『子飼いの松尾勇』さんを当時のカワサキの生産部門に送り込んで、昭和37年11月鈴鹿サーキットで開催された日本で初めてのロードレースにバスを仕立ててその見学観戦を行ったのである。その観戦に行ったのが中村治道・髙橋鐵郎さんなど当時の製造部門の人たちで、そのレースを見て、カワサキのレース熱は一気に燃え上がり、翌年6月の『青野ヶ原モトクロス』に繋がり、その後のカワサキの二輪事業の方向が定まったのである。兵庫県のMFJ支部長なども務められた。

ちなみに、鈴鹿ロードレースでの250㏄優勝が三橋実(後カワサキコンバット主宰)350㏄が片山義美(神戸木の実クラブ)と言うカワサキのレースに密接に関係のあったお二人だったことも何かのご縁だと思っている。

  

● 山田熙明

かっての技術部長で、レースに関しても熱心で『レース運営委員会』の長を務められた。大槻幸雄さんなどの直接の上司である。神戸一中・一高・東大(航空機)の英才ではあったが、西海さんとも親交があったし、私は中学の後輩でもあったことから特別に目を掛けて頂いた。Z1開発にも最初のカワサキのGPレース出場も直接関係されて後、航空機事業本部長などを務められて、川崎重工業副社長となられたのだが、80年初頭の『カワサキ二輪事業の最大の危機』には本社での『単車事業対策委員会』の長を務められ、私を国内から、髙橋鐵郎さんをアメリカの会長から企画に呼び戻した人事をやられたのは山田さんなのである。私も未だ40代後半の頃で、その時KMCを私よりも若い田崎さんに任されたのだが、最初は『田崎で出来るか?』と言われたのは、有名な山田さんの言葉なのである。当時のムツカシイ状況を私や田崎さんなどの若手に思い切って任されたのは、『ファクトリーレース時代の信頼関係』みたいなのがあったのだと思う。

この写真当時は既に川重を引退されてはいたのだが、『国内市場倍増の目標に挑戦する決意』みたいなものを山田さんにはぜひ聞いて欲しかったのである。

    

 松尾勇

 前述の兵庫メグロからカワサキの製造部に来られた松尾勇さんである。カワサキの初期のレーサーは全てエンジン以外は『松尾勇さん作』と言っていい。当時は製造部の中にレース職場があってそこでレーサーを創り上げていた。その中心が松尾勇さんで、最初に鈴鹿を走った90㏄の『ロードレーサー』もF21Mもみんな松尾勇さんが仕上げたもので、技術部はエンジンのチューニングまでが担当だったのである。その極め付けはF21Mのパイプフレームのモトクロッサーで、ヘリコプター部門からクロモリのパイプを貰ってきて、ベニヤ板に釘を打ってフレームの形を創り、海岸で砂をとってきてパイプに詰めて曲げ、ダブルクレードルのフレームを創りあげたのである。

● 糠谷 

 昭和41年度で大槻幸雄・安藤佶郎・私の3人がレースから離れ、そのあとのレース監督を引き継がれたのは糠谷さんである。メグロから来られた方で、技術も勿論詳しかったのだろうと思うが、私がびっくりしたのは二輪車もサイドカーもホントに上手に乗りこなされるのである。やはり二輪が好きで会社に入られた方は違うなと思ったのである。創生期の二輪関係者は特に二輪が好きでそこにいたのではなくて、何らかのご縁で二輪事業に異動して来られた方が殆どだったのである。

 

 

★2列目からはライダーなどが並んでいるが、有名ライダーも多いし、そんな方たちの紹介は簡単にさせて頂くことにする。

● 大西健治

 私の下でレース現場を纏めてくれていた大西健治さんである。当時の広告宣伝課はヘリコプターなども持っていて、レース場にヘリコプターなど帯同させていたのだが、そんなフライト計画などもやっていた。ちなみにヘリと言っても当時新品で1000万円ぐらいでこれは下取りのヘリだから200万円ぐらいだったのである。それを飛ばす時だけ、当時は明石にいた『ヘリコプター部門』のお世話になっていたのである。

● 清原明彦 ご存じ『カワサキの清さん』である。 ちなみにOBでは、清さんと、星野一義が末席を務めたのである。

● 山本隆  モトクロス3年連続日本チャンピオン。 ロードレースで最初に鈴鹿を走り3位入賞を果たしたのは山本隆である。

● 和田将宏 カワサキで正規にロードライダーとして契約したのは和田なのかも知れない。当時既に名を成していた。

● 安良岡健  

ロードライダーとして知られているが、カワサキで初めて契約したのはモトクロスライダーとしての契約でGP125の開発時代は、専ら安良岡がモトクロスライダー契約で鈴鹿を走っていた。当時はカワサキコンバットというクラブチーム所属で、星野一義はその安良岡を慕ってカワサキコンバットに入ってきたのである。

 

● 私・古谷錬太郎

 

● 田崎雅元 

  

   

後川崎重工業社長・会長を務めた田崎さんである。若い頃からのレース仲間で、前述の製造部レース職場を管理していて、山本隆が初めて鈴鹿を走った90㏄のロードレーサーの元は田崎さんが製造部から都合してくれたものである。最近はまた昔に戻って、若い時代のままのお付き合いが続いている。

 

● 平井稔男

 

   

自ら『カワサキの真打ち』と言って憚らない平井稔男さんである。そう言われても仕方がない経歴の持ち主で、未だカワサキが二輪事業をやっていない頃から、カワサキ明発で二輪車を売っている。レース関連では『神戸スーパ₋スポーツ』などで多数のライダーたちを育てているし、鈴鹿のロードレースの現場での平井さんも有名である。

 今も私とは直接いろいろと繋がっている。

    

 ● 金谷秀夫

金谷が初めて乗ったメーカーのマシンはカワサキなのである。カワサキが公式に初めて出場したアマチュア耐久6時間レースに歳森康師のコンビライダーとして、契約もないまま出場したのが最初だが、流石ロードレースライダーでモトクロスライダーとはちょっと違う抜群のタイムだったのが印象に強く残っている。

金谷と言えば神戸木の実と師匠片山義美さんとの関係だが、私もかってのレース仲間として金谷が呼んでくれるのである。

有名ライダーばかりの中に独り異質な私がいるのである。(神戸木の実クラブ解散会)

       

 

 岡部能夫

 二列目一番左で正座しているのが岡部能夫、あまり名を知られてはいないが、早かったしいい奴だった。4年ほど前『二輪文化を伝える会』の『第1回、山本隆と私のトークショー』に岡部と星野と金子豊がわざわざやってきて。 岡部と金子これが最後になった。

   

 

 

★3列目からはOBの他に、88年当時の現役諸君も入ってくる。

 

● 岩崎茂樹

 私の後のレースマネージメントを引き継いでくれたのが岩崎茂樹くんである。私と違って二輪にもレースにも詳しいし自分でも二輪に乗るマニアである。彼と一緒に創ったのが『SPA直入』その名付け親でもある。SPAは長湯温泉のSPAでもあるのだが、『スパ・フランコルシャン』と言うベルギーの有名サーキットともかけての『SPA』なのである。

● 歳森康師

 神戸木の実のライダーで天才的とライダー仲間が言っていた。カワサキで一番最初に契約したのが歳森で、山本隆は片山義美さんと歳森がわざわざ加古川まで足を運んでの『神戸木の実』入りだったとか、2番目に契約したのが山本隆なのである。二輪から4輪に転向したのも早かったし、星野を4輪に誘ったのも歳森のようだが、目を悪くしてこの頃はすでに引退していた。

 

● 白瀬  技術部におられて昔からよく知っているが、この席におられるのは現役チームなのかも知れない。

● 武本晃 

武本さんがレース関係あったのは知らなかった。 これは間違いなく現役チームからの出席である。後アメリカリンカーン工場の社長なども、務められた。

● 北村敏

 北村さんは、私の後の広告宣伝課長でレース関係も管轄されていたのでレースOBとしての出席だと思うが、仕事の面では後田崎さんの後の部品業務や80年代には営業部門の担当もされた。

● 吉田義正  彼は多分現役チームとしての出席だと思うが、旧いカワサキファクトリー時代もメカニックとして所属していた。

● ???

 技術部のレース担当長だと思う。 よく存じ上げているのだが、名前が出てこないのである。確か三木におられて、ゴルフのZ1会にも関係されていた。全然思い出さないのが不思議なほどである。

● 宗和孝宏  現役ライダーとしての出席である。この当時よりも最近の方が色濃いお付き合いがある。

● 安井隆史 ごく最近までレース関係を担当していた。当然現役チームとしての出席である。

 

★ 最後尾の一番右が 星野一義である。 OB会の中では星野と清原が一番若手なのである。

● 星野一義

 この時期既に、彼は4輪ライダーとして、超有名人であったのだが、最後尾に並ぶようなところが、星野のよさだと思う。この時もエレベーターの中で中日の現役選手たちと一緒になったのだが、中日の選手曰く『星野さんだ!!』と言って 『うちの星野よりは上だな』などと言っていたのである。17歳でカワサキに入ってきてモトクロスでは山本隆を師と仰ぎ、20歳になったころにわざわざ私の家まで訪ねてきて『クルマ買ってもよろしいか?』と聞きにきたりする一面を持っているのである。

今会っても全く昔の儘の星野がいる、上の写真山本と私が上京した折は、運転手を務めてくれて高級焼き肉をご馳走してくれたのである。

 

● 梅津次郎 カワサキコンバットのトップライダーで全盛期は本当に速かった。

● 福本敏夫 現役ライダーとしての参加である

● 多田喜代一 現役ライダーとしての参加だが、現在でもいろいろと繋がっている。

● 野村純一  現役チームとしての参加だが、野村君とはこの後、チームグリーンの監督として長くお付き合いすることとなった。

● ????  残念ながら一番左の方はお名前が解らない。

 

 

 

   

 当日のライダー関係者だけでの写真である。

 

  こちらはカワサキ現役時代の山本・歳森・岡部・星野

 

  

 

 最後に、田崎さんから頂いた写真を。

 カワサキの二輪事業を引っ張った山田さん、高橋さん、田崎さん。

 みんな創生期のカワサキファクトリーチームのメンバーなのである

    

 

   

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田崎さんからの懐かしい写真

2017-08-10 07:13:33 | カワサキ単車の昔話

★昨日の夕方、田崎さんからこんな写真が送られてきた。

 

   

 

  83・9・28 日とある。

 こんなコメントが付されていたので、 早速調べてみた。

 

1983年9月28日の写真です。

これは何のパーティでしたかね? 1983年の手帳は、米国法務局に取り上げられて手元にありませんので、判ったらおしえて下さい。  

酒井さん、安藤さん、北村さん、古谷さん高橋さん、大庭さん、と私、 後二人が分りませんが、一時帰国の私の歓迎会ですかね?

 

 1983年というと大庭さんが単車事業本部長として7月に明石に来られた年である。

これは、大庭さんが 田崎KMC社長・佐伯リンカーン社長・坂口カナダ社長の北米3社長を明石に呼んでの状況報告を求めたので、その3社長の歓迎会を神戸の山手寮でやった時の写真なのである。

兎に角、田崎さんはいろいろと写真をお持ちである。

 

 この頃の職位の順位で言うと、

大庭本部長・高橋企画室長・酒井工場長・安藤技術本部長・古谷企画部長・田崎KMC社長・北村営業部長・佐伯リンカーン社長・坂口カナダ社長の順位で、

大庭さんが常務、高橋・酒井さんが理事安藤・古谷・田崎・北村が部長佐伯・坂口が課長 という時代なのである。

 

大庭さんも、この年の7月に単車に来られたばかりで、結構オモシロかったのは、大庭さんは川重の受注部門におられたので、納入先はお得意さんで、そういう意味ではKMCも、リンカーンも、CKMも明石工場から見ると『お得意さん』なので、田崎さんや、佐伯・坂口さんなども『お得意さん』と見ていた節があって、そういう意味での『お得意さん招待』の会席だったのだと思う。

この時は9月だから、少しはお分かりになった時期かと思うが、8月に最初にアメリカの現地を訪問された時は、非常に丁寧で、田崎さんはちょっとびっくりしたと言っていた。

佐伯さんなども何百人も従業員のいるリンカーン工場の社長さんなので、扱いがめちゃ丁寧だったようだが、帰国されて『佐伯社長はKHIでは課長ですよ』と言ったら『ア、課長か』と言われたのが、印象に残っている。

これは、その翌月のことだから、田崎さんが部長、佐伯・坂口さんは課長だという認識はおありだったと思うのだが・・・

 

それにしても、この9人の中から川崎重工業の社長が二人副社長が二人生まれているのだが、このころはまだ単車が再建できるかどうかも解らなかった『単車事業部再建』時代で、この日の翌日は上京して山田副社長・松本専務への『単車事業部報告』がなされているのである。

 私は企画部長として、アメリカと本社上層部を繋いでいた 『懐かしい時代』なのである。

 なかなか大変ではあったが、単車が一番活気のあった時期だと思う。

 当たり前だが、皆さんお若いが、私もちょうど50才の頃である。

 

 

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小池百合子さんと田崎さんと吉田さん

2017-06-23 10:06:36 | カワサキ単車の昔話

 ★世の中、社会的に地位の高い人を『エライ人』という。

私の周りにも社会的地位の高い人は沢山いて、川崎重工業の社長をした田崎雅元さんなどは、間違いなくその部類に入るのだろう。

 

   

 

  最近、その田崎さんから私のところに毎日のように情報が入る。

 私は過去の記録はふんだんに持っているのだが、実は写真は殆ど持っていない。

 その点、田崎さんは写真はいっぱい持っていて、いろいろと送ってくれるのである。

 この写真も、1986年だから大庭さんが単車の本部長時代、高橋さんは取締役、田崎さんはKMC社長だったが、川重の職位で言えば部長の頃である。その後大庭さんは社長に高橋さんはその副社長で支えたのである。

このお三人、みなさん、普通の人では真似られない『独特のもの』をお持ちだから、いいなと思っているのである。

一般に世間で『偉くなる』と、逆にいろいろと言われるのは仕方がないのだが、それ以上の『独特のもの』をお持ちならそれでいいのでは、と思っている。

 

★田崎さんが何を思ったのか、写真や情報をいろいろと送ってこられるのも一種独特で、完全にずっと昔の『私と田崎さんの関係』に戻ってしまっているのである。

それは兎も角、昨日から東京都議選が始まったが、自民党と対する一方の旗頭『小池百合子さんとのツーショット』の写真を送って来てくれたのである。

 

   

 

2004年、小池さんは環境大臣、田崎さんは社長の頃だろう。 東京兵庫県人会とある。

そういえば小池さん、関西学院大学中退して、アラビヤの大学に留学されたようである。

田崎さんは、こんなコメントをくれている。

小池百合子 東京都知事は、モーターサイクルのサポーターですが、若い時、カイロ留学中に川重の駐在員にお世話になった、と言っていました。』

 川重社長と大臣ならどちらが格上か知らぬが、『どんな人と会ってもも決して動じたりしない』のが田崎さんのいいところで、多分、この時も堂々と接したに違いないのである。そういう面では、日本人離れしていて、アメリカ人みたいなところがある。

ここで、『モーターサイクルのサポーターですが・・』と入っているのは、その当時どうだったかはもう一つ定かではないが、今は間違いなく小池さんは『モーターサイクル・サポーター』なのである。

 

  

 

 Facebook の吉田純一  https://www.facebook.com/junithi.yoshida?fref=ts のところに使われている写真である。

吉田純一さん、カワサキ出身である。 

それも川重ではなくて、カワサキオートバイ販売(現在のKMJ)の昭和42年度(1967)定期採用者である。 

私の周りで偉くなった人は沢山いるが、何と言ってもそのTOP は吉田純一さん、通称今でも『純ちゃん』で通っている吉田純一さんだと、私は思っている。

 

 今は こんな立派な全国組織になっている

     全国オートバイ協同組合連合会

 

     http://www.ajac.gr.jp/outline.php?id=4  だが、 

旧く大阪からスタートし、仲間を募り1県づつ組織を創って、今や全国組織に創り上げた。

 

長年勤めたその全国会長を昨年譲って、『一般社団法人 日本二輪車文化協会』を立ち上げたのである。

日本にまだ育っているとは言えない、『日本独特の二輪文化の創造』は壮大な夢だと思う。

 

   

 

 いろんな方たちが協働するようである。

 

彼の人柄だろうが、オートバイ議連に名を連ねる超党派先生がたと、『オトモダチ』のようなお付き合いだし、

『純ちゃん』が声を掛けると、あの忙しい東京都都知事の小池百合子さんが、やってこられるようである。

これはごく最近の東京都の会合の時のツーショットのようである。

 

   

 

  声を掛けたら『小池さんがやってくる』 

 これはなかなか、声を掛けるのも普通ではムツカシイし、声を掛けてたら『来てくれる』ところが吉田純一さんの実力である。

 

   

 

 純ちゃん 偉ぶらないのがいい。

人に頼むだけではなくて、頼まれたらホントに気さくに動くのである。

これはオートバイ神社の件で三木を訪ねてくれた吉田純一さん、昔の仲間達とうどん屋さんとの記念撮影、シャッターを押したのは私なのである。

日本二輪車文化協会の活動も何らかの形で、みんなが手伝えたらいいなと思っているのである。

オートバイ議連の先生がたや、小池百合子さんは手伝ってくれるのは間違いないので、

古巣のカワサキも田崎さんあたりも、手伝ってくれたらいいなと思っているし、私も何らかの形でお手伝いが出来たらいいなと思っている。

そんな忙しい吉田純一さんだが、毎日Facebook で繋がっているのが『ネットの世界の良さ』なのである。

 

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田崎さんが送ってくれた写真から

2017-06-17 07:18:12 | カワサキ単車の昔話

★私は、いろんな記録は持っているのだが、現役時代の写真は殆ど持っていない。

先日来、田崎雅元さんが、いろいろと写真をいっぱい送ってくれてるので、その中から旧いものを並べてみたい。

 

 

 

 まずこの写真、多分 MCFAJの富士の裾野の朝霧高原であった全日本モトクロスの写真ではないかと思う。

 山田熙明さん、当時は技術部長のころだが、髙橋鐵郎さんは解るが、田崎さんその間かな? メカニックの福田・藤森さん、など何となく解るがあとはよく解らない。井出哲哉さんと松本博さんかも知れない。

 

  

 

 これは鈴鹿アマチュア6時間耐久、カワサキが初めてレース監督大槻幸雄・副監督田崎雅元と監督を指名したレースで、ロードレースはこれが2度目、会社が認めたロードレースとしては初めてのレース、1962年6月13日。

その1ヶ月前の5月13日、鈴鹿ジュニアロードレースに、会社には内緒で初めてロードレースに出場し、山本隆がホンダに次いで3位入賞を果たしたので、一気にロードレース熱が盛り上がったのである。このレースにも、私と田崎さんは密接に関係しているのだが、現場には行っていない。3位入賞など『夢のまた夢』の話が現実となったのである。

カワサキが初めて鈴鹿を走った日     http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/8356d318b5dc414c15dd1b7488a09f63

 

この6時間耐久レースには、3台のマシンで、加藤・飯原のテストライダーチーム、岡部・梅津のカワサキコンバット、歳森・金谷の神戸木の実クラブの3チームで出場した。

山本隆は、1か月前のジュニア・ロードレースに出場したので、『アマチュア』の資格がなかったのである。そんなことで歳森康師が急遽連れてきたのが金谷秀夫で、金谷はこれがカワサキの初めてのレースである。

多分、一番手前が歳森康師、真ん中が岡部能夫、一番右は加藤か、飯原だと思う。途中歳森・金谷組も、加藤・飯原組もトップに立ったりしたのだが、両者とも転倒、岡部は1周目トップグループでスタートしたのに、『スプーン・カーブ』に水があってトップグループが何台か転倒などと言う派手なレースだった。

カワサキも、スズキも、ヤマハも当時のモトクロスライダーがいっぱい出場していた。

 

 

    

 

カワサキのアメリカ市場・開拓当時、そのリーダーの浜脇洋二さんが名付けた『7人の侍』がいたと言われている。

そのうちの6人が揃って写っている、貴重な写真である。

田崎さんがアメリカに渡ったのは、『鈴鹿6時間耐久レース』のあった年の8月、その年大槻さんもドイツ留学が決まって、8月10日にレースチームで二人の送別会をやっている。

浜脇さんの本によるとブラジル市場調査の帰り、アメリカによって、アメリカには二輪の市場があると思ったのは1964年3月のことで、ここからアメリカ市場開発が始まっているのである。

この時点ではすでに、川崎航空機では単車再建の方針が決定して、広告宣伝課なども創られ、私はそれを担当したりしているのだが、市場は国内だけだったのである。浜脇さんは社内でアメリカ市場への進出を提案し9月に本社企画から輸出課長となっている。

アメリカ市場の開拓は、ここから始まっているのである。浜脇さんがまずアメリカに連れて行ったのは企画に一緒にいた渡辺くんだと思う。彼は私の大学の後輩なので、『アメリカに行きます』と挨拶に来てくれた。

そして、その次にメンバーに加わったのは、トーハツにいてアメリカ市場にいた杉沼浩さんで、濱脇さんがどこからか見つけてきたのだと思う。これが1964年の末か65年の初めだと思う。

私も国内のことはきっちりと記憶があるのだが、アメリカの話は、何となくしか解っていなかったのに、ごく最近田崎さんがいろんな話や写真を送ってくれるので、時系列に改めて整理できることになったのである。

田崎さんがアメリカに行ったのは、明石工場としては第1号で、その任務はサービス・エンジニアだったという。それが1965年9月でその赴任地はシカゴだったのである。そして、サービスをやるには部品はMUSTということで、シカゴに部品会社を立ち上げることを提言し、それがAKMとしてできたのは1966年のことで、そのために部品の担当者の黒田くんをアメリカに呼び、会社の経理をやるために、私と同期の久保勝平くんが、アメリカに渡り、さらに明石から種子島経さんが加わって『7人の侍』となったのだろう。

この部品会社AKMが、後の販売会社KMCの母体になっているのである。

 

 

 これは1973年とあり、岩城さんも顧問となっておられるが、KMCの初代社長は当時の川崎航空機常務であった岩城良三さんだった。 そして右端は、7人の侍の一人で、上の写真には抜けている杉沼浩さんなのである。

 

 田崎さんからの写真、他にもいっぱいある。

 

  

 これはIKS20周年 ということであれば、多分89年以降だろう。IKSには直接関係のない、私がいるのはよく解らないが、ひょっとしたら記念講演のスピーカーとして呼ばれた時だったのかも知れない。

左から3番目が山田晴二さん、この時はIKS社長だが、濱脇さんの次のKMC社長でもある。私の右は同期の鈴木啓司さん当時はIKSにいたと思う。後列のメンバーも、皆さん懐かしい顔ぶれである。

 

 

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鐵郎さんと宏さん

2017-06-03 20:58:49 | カワサキ単車の昔話

★『宏さん、亡くなってしまいましたね。 いろいろ聞きたい事もたくさんあったのに、残念です。寂しくなりました。ところで、宏さんが、KMCに出向したのは、何時ですか。また山田晴二さんがKMCの社長になって、浜脇さんが帰国して、明石で幹部を集めて、変わった挨拶をしたのは何時だったですかね。 何かマナーが悪いと言われたので、後のハーフは皆さんと一緒に回る、というようなスピーチだったと思います。』

ダンピングの調査資料を、アメリカ大使館から受け取ったのは、1977年7月、これは国内の販売費用と深くかかわっていると、宏さんとカワ販の田中社長に説明し、カワ販を無くさなければならなくなるかも、と云ったのが、11月1日で 翌2日も続けて会議している。田中社長の言葉は、「泣く子と地頭には勝てないという事だな」であった。その後、カワ販定期入社組の猛反発もあり、貴方の出番となった。確かに当時のカワ販は、OBを沢山抱え、KHIからの輸出マージンがあったり、健全とはいえなかった。

 

 

どちらも、昨日田崎雅元さんから、頂いたメールの一部である。

最近、田崎さんとこんなやり取りが毎日続いている。 

 田崎さんとは、何度も密接に繋がって、いろんなことを一緒にやっているのだが、この二つのメールの頃は、1975年から79年ぐらいの間のことで、田崎さんも私も当時の発動機事業部の企画室にいたころから、発動機事業本部の中に単車事業部が出来て高橋鐵郎さんが事業部長になられたころの話なのである。

 

宏さん』と田崎さんが書いてるのは「高橋宏」さんのことで、当時の企画部長、私も田崎さんもその下にいたのである。部員制で課はなかったが、古谷・田崎のほかに田付・種子島・武本・森田・岩崎・佐藤・繁治などなど、その後のカワサキを支えた人たちがいっぱいいて、その大将が『宏さん』だったのである。

当時の技術本部長が高橋鐵郎さんで、『高橋さん』というと紛らわしいので『鐵郎さん宏さん』と呼んでいたのである。

このころの私のちょっと上の先輩たちは、私も旧制中学なのだが、旧制高校の方もいるし陸士や海兵からもう一度大学に入った方もいるし、年次とお年がよく解らなかったのだが、『鐵郎さん』は海兵からだし、『宏さん』も旧制高校だったし、濱脇さんも大槻さんも旧制高校から大学で、昨日『宏さんの訃報』を頂いて87歳だったことが解ったような次第なのである。

故郷の出雲に戻られて天寿を全うされた『宏さん』である。お世話になりました。こころからご冥福を祈ります。

 

★この昭和50年(1975)からの数年はカワサキの激動期で、その真ん中におられたのが『鐵郎さんと宏さん』でそれを支えていたのが『私と田崎さん』だったと言えるのだろう。

ちょっと時系列に並べてみると

● 昭和50年10月(1975)に私は企画室にカワ販の10年間の出向から帰任した。『宏さん』が企画部長、企画室長は本社から来られた堀川運平さんだった。塚本本部長・青野副本部長の時代である。吉田専務が『小型プロジェクト』の旗を振られていた。

● 私が起案した『開発途上国の小型車CKD対策』として『市場開発プロジェクト室』が出来てその長には『鐵郎さん』が座られた。『鐵郎さんと宏さん』が話し合われて私は『鐵郎さん』のほうに異動することになった。昭和51年11月(1976)のことである。

● この『市場開発プロジェクト室』には、技術屋さんとしては藤浦さんや、佐伯さんもいたのだが、どんどん順調に拡大してヨーロッパ営業もその中に入り『鐵郎さん』は営業本部長になられるのだが、さらに昭和53年4月(1978)には発動機事業本部の中に『単車事業部』が出来て『鐵郎さん』はその事業部長になられるのである。その管理部部長も兼務されたが管理部員は『古谷・田崎・野田・坪井』という課長メンバーでまた田崎さんと一緒になったのである。

●この昭和53年4月(1978)には、この当時の事業本部の一応の対策も終わって、堀川運平企画室長は本社に戻られ、10年アメリカのKMCを担当された浜脇洋二さんも川重本社に、大槻幸雄さんはガスタービンをおやりになるためにジェットにそれぞれ異動されて、KMCは発動機出身の山田晴二社長に『宏さん』はそれを支える副社長で出向されることになるのである。

● その間、突如勃発したのが『ハーレーダンピング』で、それを田崎さんが担当していたのだが、『ダンピングの調査資料を、アメリカ大使館から受け取ったのは、1977年7月』と田崎さんの昨日のメールに書いてあって、そのスタートの日付が正確に解ったのは昨日が初めてなのである。 これが昭和52年(1977)のことで『カワ販を無くさなければならなくなるかも』と言ってるように、これは大変なことだったのである。

● その後、この問題はいろいろあったのだが、10年間もカワ販に出向していて田中社長の下にいた古谷にこの対策をさせるのは気の毒とこれは多分『宏さんの配慮』で除外して頂いていたのだが、なかなか具体案が出来ずに、最後に私にお鉢が回ってきたのである。その指示を直接塚本本部長から言われたのは昭和53年10月(1978)のことで、対策案を創るだけかと思っていたら、昭和54年度(1979)からは、私自身が『カワ販常務』に指名されて国内担当となり『鐵郎さん』はその副社長として支えて頂いたのである。

 

★この『ハーレーダンピング』でカワサキは揺れたのだが、続いて『HY戦争』がアメリカ市場に飛び火して、当時の事業を支えていたKMCの経営がおかしなことになり、『鐵郎さん田崎さん』コンビでアメリカに渡ることになるのだが、これから先は、事業部というより川崎重工業本体の経営を揺さぶることになり、その対策を担当した中枢は、むしろ本社財務のメンバーたちになってゆくのである。

この時代のことは、ほんの数人の人しか解っていないし『語れない』のである。

その数少ない『鐵郎さん宏さん』が逝ってしまわれた今は、事業部出身で解っているのは『私と田崎さん』くらいになってしまったのである。

田崎さんのメールにある『カワ販定期入社組の猛反発もあり』というのは、田崎・野田・古谷でカワ販の第1期、2期の定期採用の富永・山田君に意見を聞いた時、田崎さんの九大の後輩二人、特に山田君が『自分の墓は掘れません』と俄然反発したことを言っているのだと思う。

そんなカワ販のいろんな事情、特にカワ販独特の メイハツ・メグロ・旧代理店従業員・カワ販定期採用・川重からの出向者という複雑な人たちが集まった『カワ販』の事情の理解者としては、その『カワ販』に10年出向していた私が適任だったのかも知れないのである。

 

★この10年間が、カワサキの二輪事業にとっても、田崎さんと私にとっても、激動の10年間で、この危機を乗り越えたから、『今のカワサキがある』と言って間違いないのだが、この間の事情をご存じの方が、どんどんおられなくなってしまうのである。

 

  

 

いつか『カワサキ』が社史でも作るようなことがあれば、それを語れる人がどんどん少なくなってゆくので、その事実を誰かが語っていかないといけないと、昨今は田崎さんも何となく、そんな想いをお持ちのようなのである

メールでこんなことも書いてきている。

 私は、1958年入社、ジェットエンジンオーバーホール工場の品質管理担当で、神武事業部長は九大の大先輩、苧野さん、桑畑さん、田村さん高橋さん、中村さんも一緒だった。神武さんが単車事業部に移籍してから、次々とジェットの人が単車に移り、私は1962年の夏に、一度は、発動機のディーゼルエンジン部門に移籍し、中村さんが話が違うと、人事の森さんにねじこみ、夏のボーナスを貰っただけで、単車工作部に移籍になった。この年に結婚したのだが、来賓が「前途有望な航空機エンジニア」と持ち上げた直後の、単車移籍となり、家内は「何か悪い事でもしたのか?」といった。すぐにバイク屋の女房にせねば、と会社のB8を借りて、後ろに乗せてツーリングを楽しんだ。

暫くすると、発動機の機械職場を編入することになり、組長どうしの融和調整にはいろいろと手こずった。メカニックを連れて レースのお手伝いをしたのは、この頃のことである。

そして1965年には、高橋さんから、身体は大丈夫か、とアメリカ行きを指示された。だから生産中のB8やJ1のエンジンは毎日の様に扱い細部まで良く知っていて、カットエンジンなどを造って、教育担当の種子島さんの生徒(養成工)の面倒も良く見たのである。

 田村さんは大分後から参加してきたが、後から出るほど重要な人材なのだ、といっていた。神武さんというトップが移籍したのだから、重要な人材から順に、引き抜かれたのでは?などと、からかった。彼は販売店に行ってサービスを勉強し、整備士の資格をとったり、下手だったライディングも怪我をしながら猛訓練したり、先輩には失礼な表現だが「口は悪いが頼りになる」ナイスガイであった。

後に、米空軍ジェットエンジンシステムの経験者、『田村技術サービス、田﨑部品補給』でサービス体制が整えられていった。

 

 カワサキの単車のスタートは、事務屋は当時の本社から、技術屋はジェットエンジン部門から有能な人材が集まってきた。とりわけ生産・品質管理や部品システムは、アメリカ空軍のジェットエンジンの品質管理システムや、IBMシステムが持ち込まれて、当時の日本の一般の管理システムとは10年程の開きがあったと言っていい。

川崎航空機の同じ会社で発動機から分離した単車だが、いろんなシステムで、単車は常に発動機をリードしていたのは、『ジェットのシステム』の影響が大きかったのは私も認めるものである。

田崎さんの話に出る田村一郎さんは、カワサキの名物男だが、田村さんが品証に来られた時、新しい取扱説明書などの製作費が膨大だったのだが、それを広告宣伝費から都合して差し上げたりしたのである。

 

そんな時代の 山田熙明さんも、苧野豊秋さんも、小野田滋郎さんも、中村治道さんも、安藤佶郎さんも、両高橋の鐵郎さんも、宏さんまで、昔のカワサキを語れる人がどんどん少なくなってしまうのは、本当に寂しいことなのである。

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