雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキが初めて鈴鹿を走った日 Ⅱ   

2022-02-10 06:43:02 | カワサキ単車の昔話
★「カワサキが初めて鈴鹿を走った日」というブログをアップしたのは
 9月にブログをスタートしたばかりの2006年11月2日なのである。
 
 実は北陸の竹田学さんから昨日、Facebook のメッセージで
 「古谷さん「塩本選手」という御名前のライダーご存知では無いでしょう か? 
 私の居住しております石川県と関係のある方らしいのですが詳細を知る方がこちらに居ないので・・・・」というメッセージを頂いたのである。

 私は「塩本選手とは直接お会いしたことはない」のだが 、
 塩本選手のことは知ってたので、それなりのご返事はしたのだが、
 その中で「カワサキが初めて鈴鹿を走った日」というブログがあるから、
 「それを検索してみて下さい」とご返事したのである。

 これはカワサキのロードレースのスタートの話で、
 なかなかオモシロイ話だから、改めてそのままご紹介してみることにする。


★「カワサキが初めて鈴鹿を走った日」 

1965年(昭和40年)5月3日、カワサキがはじめてスズカのロードレースに登場した日である。

当時カワサキは、モトクロスでは頭角を表わし始めていた。
4月18日朝霧で行われたMCFAJの全日本モトクロスで、星野一義が90ccノービスクラスで優勝した。彼の初優勝である。

当時は、ロードレース出場は、未だ会社で認められていなかったのだが、モトクロスのトップクラスのライダーであった、山本隆君がどうしてもスズカのジュニアロードレースに、出場したいと言い出したのである。

メカニックたちにレーサーが造れるか打診したら、何とかなるだろうという。
スズカのモトクロスに出場することにして、会社には黙ってこっそり出てみるかということになり、2台のレーサーを造り上げたのである。
あまり大きな声では言えないが、2台のマシンを都合してくれたのは、当時は生産部門にいてレースにも絡んでいた田崎さん(後川崎重工業社長)だった。

★モトクロスの山本だけではもう一つ自信がないので、ロードの経験のある陸の塩本にも出場を要請したのである。
案の定、山本は3分40秒前後でしか、走ることは出来なくて、これではとても入賞できるタイムではなかった。

駄目かなと思っていた本番のレースで山本隆は、見事3位に入賞したのである。
私の記憶が正しければ、1,2位はその後もロードレース界で活躍したホンダの神谷,佐藤(佐藤ではなくて鈴木だったようです)であった。
結果はホンダ、ホンダ、カワサキと初出場で表彰台に立ったのである。

なぜ?
当日のスズカは雨になった。この雨がカワサキに味方した。
終始、BSの滋野のあとにスリップストリームでついて、最後の最後、滋野をかわして3位になったというのである。

雨でタイムが遅くなったこと、滑りやすいコースが、モトクロスライダーの山本に幸いしたのである。
私は、現場には行っていなかったが、

チームマネージャーの川合さんから、
5月の連休中の自宅に『ヤマ3、シオ8、セイコウ,カワ』の電報が入った。
喜ぶより、びっくりしたのをよく覚えている。

       

★カワサキの初レース、モトクロスの青野ヶ原でも、このスズカでも、雨が助となった。 本当に何かの運である。
3位入賞して大きなカップを持ち帰ったので、黙っていた会社にも、その結果を報告したら、『ホンダに次いで2位か』ということになって、
一挙にロードレース熱も上がり、この結果が会社でも正式にロードレースの参を認めることになったのである。
約1ヵ月後の6月13日、アマチュアスズカ6H耐久レースにカワサキとして正規のデビューを飾ることになった。
3台のマシンを造り、6人のライダーで出場することになった。
関東のカワサキコンバットから梅津、岡部、テストライダーチームから加藤飯原(いずれもキヨさんの先輩ライダーである)は決まったのだが、
関西の神戸木の実の歳森の相手の山本が先月のジュニアロードレースに出てしまっていて、アマチュアでは走れないのである。
そんなことで歳森康師が『相棒に速いのが居るので連れてきていいですか?』と呼んできたのが、金谷秀夫なのである。 このレースが歳森康師と組んだ、金谷秀夫の初レースでもある。

★ もう、40年も前のことである。
このことを、正確に記憶しているカワサキの関係者も少なくなった。

このレースのマネージャーだった、川合さん,塩本君、塩本を出してくれたさん、ロードレースを許可してくれた苧野さん。みんな故人になってしまわれた。

こんなレース創生期に苦労した先人たちの努力が、今のカワサキのロードレースに繋がっているのである。
 
●不思議なことだが、カワサキが初めて鈴鹿を走ったのは、1965年5月3日、ライダーは、後全日本モトクロスチャンピオンを3年連続で獲得した山本隆君
●1ヶ月後のアマチュア6H耐久の監督は、Z1の開発責任者の大槻幸雄さん、副監督が田崎雅元さん(のち川重社長)である。
●走ったマシンは90cc、  この耐久レースヤマハは確か鈴木忠さん、スズキは菅家などみんなモトクロスライダーが走ったのである。
タイムは3分20秒は切れなかったと思う。


 以上がその全文なのだが、
 そのブログに山本隆さんがこんなコメントを寄せてくれているので、
 それもご紹介してみる事にする。


     
   


一番最初にカワサキを鈴鹿で走らせた男! (山本隆)

そうです思い出は鮮明に記憶しています!
私が鈴鹿ジュニアーロード参戦に駆り立てたのは訳があります!
その年の初春にブリジストンサイクル工業への移籍を密かに目論見、仮契約まで行っていました!
その内容は勿論MXエースライダー契約でしたが、新たに始まる鈴鹿ジュニアーRRの参戦も入っていました。
一度は憧れの鈴鹿を走るチャンスが来た!と色気の多い私はその気になっていたのに、大きなプレッシャーのせいで?元の鞘に収まってしまいました!
それじゃ自費でもRR参戦を!と固い決心をしたのを知った田崎さんが「山本君僕に任せなさい!」と言って生産ラインからカワサキ85J-1の新車を1台宛がってくれました。"(-""-)"


 そうです。
 こんな山本・歳森のBSへの仮契約事件があって、
 山本隆さんは「大きなプレッシャーがあって」とそれが実現しなかったと書いているのだが、
 それには私も関係があって、このBSへの移籍を止めるために
 神戸木の実の片山義美さんに頼んだのは私なのです。
 片山義美さんと兵庫メグロの西海社長というレース界の大先輩が二人を説得してカワサキに留まることになったのです。
 そして、私はそれまではレースには直接関わっていなかったのですが、
 この事件を機に直接「レース担当」することになったのです。

 もう昔のことですが、私にとってもこの事件がなければレースを直接担当しなかったかも知れません。
一つの岐路になった事件であり、その結果のロードレース参戦だったのです。

 
 
 

 
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カワサキバイクマガジン新年号

2021-12-04 06:48:11 | カワサキ単車の昔話

★先日取材を受けたカワサキバイクマガジンの新年号が送られてきた。
 今回は「川重事変」と称して
 カワサキの単車の創成期の出来事から現在までを繋いだ内容になっている。





 それはこんな内容になっていて、
 私の知っている仲間たちもいっぱい登場する。


 


 そんな中で、特に個人的に親しく今もお付き合いのある方も沢山登場するので、
 ご紹介をしてみよう。

 まずは山田浩平さん、今はニンジャH2Rの開発者として有名だが




  若いころは X11 の開発担当をしていて、
 そのころサーキットなどいろいろ面倒をみたので、
 そんなことからのご縁である。

  

 今でもFacebook の友達で「いいね」など頂いている。
 ここでは二輪開発について彼独特の熱い想いを語っている。


 百合草三佐雄さんも登場する。
 若いころ250ccA1の開発やレースなども担当したのだが、
 ここでは、もっと若いころの「メグロとの関係」を語っている。


 


 私も百合草さんがメグロ工場に出張していたなど、初めて知ったのである。

 
    メグロから来た北見紀生さんも登場する。
 北見さんは私が東京営業所の所長を兼務してた時のサービス工場長だった。
 その頃から独特の個性で面白かった人である。


 

 
 こんな写真も載っていたが、
 このトラックの後ろに立っているのは、
 間違いなく、当時の神戸営業所の営業だった「渡部達也」さんである。


 


 旧い写真では、もっと旧い旧明発時代の「平井稔男」さんの
 若いころである。

 
  


  お二人とも、今でもお付き合いが続いている仲間たちなのだが、
 当時はこんなに若かったのである。

 因みに、平井稔男さんは、私と同い年で、
 カワサキの国内営業の最古参であることは間違いないのである。


★ 取材を受けた「私の関係」の記事も6ページに亘っていて、
 結構、詳しく昔のことが語られているので、

 ご関心のある方はぜひお読みになればと思う。
 
 



  SPA直入のことにも触れられているし、
    


 
30年前の私の担当時代に創られた、KAZEについては
 2ページに亘っての記事となっている。
 

    


  
 これは大阪の特約店制度の記事の中で使われている
 当時はまだ「伊藤モータース」と称してた現在の「株・忍者」の展示会風景と
 当時のお店の写真なのである。
 

 



 旧い写真と言えば、
 これは間違いなく昭和35年(1960)当時の60年も前の写真だが、
 明石工場も建物など少なかった時代に、テストコースだけは作られていたのである。

 「単車製造準備室」は昭和34年頃の話で、
 私も入社3年目ぐらいだったのだが、資材の方に熱心に誘われたのだが、
 当時は財産物件の減価償却のIBM化に取り組んでいる最中でお断りしたのを思いだす。
 


 


 私が新設された「単車営業課」に異動したのは昭和36年11月のことなのである。
 当時はまだ明発を引き継いだ「カワサキ自動車販売」が国内市場を担当していた時代で、そのメンバーの殆どが明発とメグロの方たちで
 社長・専務だけが川崎航空機工業籍だった時代で、
 新設された単車営業課はその「カワサキ自動車販」に出荷・販売していたのである。

 その時代の営業を語れるのも、ホントに私だけになってしまったのである。


 
 

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旧いカワサキの創生期の写真から  2

2020-12-06 06:31:57 | カワサキ単車の昔話

★ この写真に写っている方、私にとってはいろんな思い出いっぱいの方たちである。

 まずは最後尾の列の中央の大柄な方が、営業部で青野が原のレースを支援された『小野助治さん』である。
新しく出来た単車営業を担当されて、私をその営業に引っ張られたのも小野さんだし、
私の仲人をして頂いたのも『小野助治さん』である。
 
当時の営業部には『苧野豊秋さん』と二人の次長がおられて、
小さい小野さん』『いもの苧野さん』などと言っていたのである。
その苧野さんは写真前列右から2番目である。

苧野豊秋さんも明石高校の先輩で、
その後もご縁があって長く国内を担当されたし、
最後の方では国内のジェットスキー販売時に大いに援けて頂いて、
初代のJJSBA会長もされたのである。
 



青野ヶ原に出場したライダーたちは、みんな社内の人たちだったのだが、
左から3番目が秋原くんである。
私が新しく出来た単車の営業部に移って一番最初に仕事でおつきあいの出来た人である。

カワサキB7、ご存じだろうか?
カワサキが最初に世に出したバイクだが、フレームに欠陥があって
毎日、毎日返品が続いたのである。



当時はまだ125cc以上のバイクには物品税が掛けられていて、
物品税の納入は至極簡単なのだが、
返品した場合の戻入はなかなか大変なのである。
 
要は、工場を出たままの形でないと、戻入は出来ない。
少しでもメーターが回っていたりすると許可にならなくて、
メーターの巻き戻し』などという中古車屋のようなことを当時はメーカーでもやってたのである。
秋原くんとは、そんな作業で毎日のように会っていたが、 
彼がレースのライダーをやれるなど知らなかったのである。

そんな大変だったB7は1年で生産中止になり、
翌年はB8が新発売されて、そのB8で青野ヶ原の優勝が決まったのである。
 
不思議なことに『カワサキ優勝』・『1位から6位まで独占』と言われるのだが、
1位が誰だったのかはよく解っていないのである。
なぜそれをみんな話題にしなかったのだろう?
 
この写真には4人のライダーが写っているが、
右側の二人は加藤・飯原くんで
彼らは鈴鹿6時間耐久レースにペアで出場している。
因みにそのレースに神戸木の実から金谷秀夫・歳森康師コンビが出場し、
それが金谷のカワサキでの最初のレースだったのである。


 

 
 
★ この写真の髙橋鐵郎さんの右が川合寿一さんである。
 営業部には私の後に入ってきて、青野ヶ原のチームの面倒を見たのだが、
最初のレース担当が川合さんで『ライダー契約』などをやったリ、チーム運営などもやっていた。

当時は全国各地で毎週草レースがあったのだが、
城北ライダースなど強いチームがくるところは避けて出場していたので、
カワサキは連戦連勝だったのである。
私が担当してた広告宣伝課がレースも担当してたので、
その結果は新聞社に広報してたので『カワサキはレースは強い』ということになっていたのである。
 レースのことなど全く知らない私もホントに『強いのだ』と思っていた。

青野ヶ原』の翌年、MFJ 第1回全日本モトクロスが相馬ヶ原で開催されたが、
川合さんが『困った困った』と言うので、
なぜそんなことを言うのかと思ったら、
そこには全国の強豪が集まるので、なかなか勝てないというのである。
結果はホントにその通りで7位が最高の成績だった。

然し、この年の秋のMCFAJ全日本では4種目中3種目に優勝するなど、
カワサキのレース活動の進化は早かったのである。

ところがその年の暮れだったか『歳森・山本のBS仮契』事件が発生して、川合さんが私に『片山義美さんに話をしてくれ』というのである。
そんなことで、レースなど全く解らなかった私が最初に話をしたのは、
歳森・山本の所属した神戸木の実の御大・片山義美さんなのである。

西海義治さんなども出てこられて、この件は何とか無事決着したのだが、
その時の話の流れで、レースを直接担当するようなことになったのである。
今思い出しても、純粋に川合寿一さんはいい人だった。


髙橋鐵郎さんの左隣が多賀井君である。

1976年に、10年間の国内出向から川重企画室に復帰するのだが、
小型車開発プロジェクト』として、
私は東南アジアの市場調査チームを起案すしたのである。

その時の調査団長を務めて頂いたのが髙橋鐵郎さんで、
現地の案内役を務めてくれたのが多賀井君なのである。

この調査団には、技術部から写真の川崎芳夫さんも参加されたし、
製造関係からは安藤佶郎さんが参加されていて副団長を務められた。

因みに、この東南アジア市場調査チームの団長は
当時の塚本事業部長は最初に『大槻幸雄』さんを指名されたのだが、
大槻さんが辞退されたので髙橋鐵郎さんに代わったという経緯なのである。


★この調査団は私にとっても髙橋鐵郎さんにとっても『転機』になったのは間違いない。
調査の結果は『このプロジェクト進めるべし』という結論になって、
市場開発プロジェクト室』が出来て、その室長を髙橋鐵郎さんが技術本部長と兼任されることになるのである。
そして『お前も来い』ということになって、
私も企画室から異動になったのである。

その後、髙橋鐵郎さんは技術本部長から、営業本部長・事業部長となられて、その後ずっとと言ってもいいほど、私とのコンビでの展開が続くのである。

これはずっと後の1990年代、
髙橋さんが川崎重工の副社長におなりになる直前まで、
高橋さんが社長を兼務され、私が専務を務めたのだが、

その最初が『市場開発プロジェクト室』でのコンビだったのである。

   
 

 
そういう意味では『青野ヶ原モトクロス』は単なるレースの優勝だけではなくて、
カワサキの二輪事業に大きな転機をもたらした出来事だったと言えるのである。

 

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旧いカワサキの創生期の写真から  1

2020-12-05 07:20:47 | カワサキ単車の昔話

★ コロナで閑なものだから、旧い日記などを見たりして時間つぶしをしているのだが、

 こんな写真が出てきた。
 昭和38年(1963)5月、青野ヶ原モトクロスでの1位から6位まで
 カワサキが独占したレースの優勝記念撮影なのである。


  


 このレースに関係したのは製造部と営業部で、
 この写真では神武事業部長を真ん中にまさに記念撮影となっている。

 ただ、このレース出場は正規のレース活動などではなくて、
 製造部の有志のメンバーが出場を決めて、それを営業部の有志が支援したもので、
 市販車B8のレーサーに改造作業も、正規の仕事が終わってから
 サービス残業で創り上げたものなのである。

 優勝など思ってもいなかったはずだが、このような結果になったのは、
 『神様が援けて下さった』のだと思うのである。


★ なぜそんなことを知っているのかと言うと、
 当時私は営業部にいて小野助治次長の下にいたのだが、
 営業部でもこのレースを支援した張本人が小野次長なのである。
 
    小野さんはこのレース活動に、かって野球部のマネージャーをしていた
 川合寿一さんにチームの面倒を見るように指示し、
 私には『残業料もなしにやっているので、パンでも買う金を出してやれ』との指示があって、
 私は営業の経費の中から幾らかの『パン代』を支援したので知っているのである。
 因みに『川合寿一』さんは私の係で私の下にいた人なのである。


 製造部でこのチームの指揮を採られたのが中村治道さんで、
 その下に髙橋鐵さん、実際にマネージされたのは川崎芳夫さんだと思う。

 上の写真を拡大したものだが、この3人の名前が書かれている。
 髙橋鐵郎さんの右隣りが川合寿一さんなのである。

   



★このレースのホントの仕掛け人は、社内の方ではなくて
 間違いなくこの方兵庫メグロの西海義治社長なのである。

    

 
    西海さんは元オートレースのプロライダーで、レースにかけては玄人、
 当時の兵庫県のMFJ支部長もされていたのである。

 このレースをやるきっかけは、昭和37年(1962年)11月3、4日の両日、鈴鹿サーキットで第1回全日本選手権ロードレースが開催され、 
日本では初の本格的ロードレースだったのだが、
このレースをバスを仕立てて、製造部のメンバーが見学に行ったのである。

この企画を仕組んだのも西海さんで、中村治道さん以下、
レースを観人たちは、『燃え上がって』しまったのである。
 
青野ヶ原』はそれから半年後なのだが、
当時のカワサキにはレーサーのノウハウなどなかったので、
西海さんは子飼いの『松尾勇』さんをカワサキに送り込んで、
松尾さんが独りで創り上げたものなのである。


★それにしても、レース初出場のカワサキが『1位から6位までを独占』するような快挙は、ライダーも社内の人たちだし、
実力ではなく『雨のお陰』だったと言っていい。

当日のレース場はこの写真のように水溜りだらけで、
他メーカーのマシンはみんな水を被って止まってしまったのだが、
防水対策が完全だったカワサキだけが止まらずに完走した結果なのである。
長いカワサキのレースの中でも1位から6位まで独占はこのレースが最初で最後なのである。

ご存じ、山本隆さんなども当時はまだ他メーカーのマシンで参加してたようだが、
やはり水で止まってしまったようである。

   

 
何はともあれ、こんな結果が『カワサキの二輪事業』の本格的な再建に繋がったのである。

 中村治道さんについては、あまり語られていないが、
 当時のカワサキの二輪事業の先頭を走った方であることは間違いない。
 年次は髙橋鐵郎さんよりもちょっと上で、
 その後、私が事務局を務めた『レース運営委員会』に於いても
 実質的に『旗を振られた』方なのである。

 明石の出身で明石高校の先輩・後輩にもなるので私は特に面倒を見て頂いたのだが、
 兎に角『あんなに熱心で迫力のある』人はいないと言っていい。
 当時の日曜日にあったレースの結果を、正門の横に張りだせと言う指示を受けたのだが、
 月曜日に来て火曜日の朝に張りだしたら、ご機嫌が悪いのである。
月曜日の朝になぜ張らんのか』と仰るのである。

それは・・・』と言ってたら『では俺がやる』と言われて、
日曜日に家でご自分で書かれて、月曜日の朝早く張り出されたりするものだから、
私がやります』とその後は日曜日に家で書いて、
 朝早く正門の横に張り出すようになったりしたのである。

 当時のカワサキの単車事業部を支えた人たちは、
 不思議なほどユニークな人たちが揃っていたと思う。

 何度もご紹介している写真だが、
 この最前列にお座りの方が単車事業を引っ張ったと言っていい。
 真ん中にお座りの方が『兵庫メグロの西海さん』でその左は元川重山田副社長、右が髙橋鐵郎さん(元川重副社長)。
 山田さんのヨコが『松尾勇』さんである。
 そして右から二人目、大槻幸雄さんと並んでるのが『中村治道』さんなのである。

 2列目は左から岡部・金谷・平井・田崎(元川重社長)古谷・安良岡・和田・山本・清原・大西と錚々たるメンバーが並んでいる。
 最後尾の右端が星野一義で梅津と並んでいる。

 3列目以降の左側は現役諸君だが、宗和・多田などの顔を見えるし
 ごく最近までカワサキのレースを引っ張った安井君などもいる。
 

  



 今回は主としてレースの話に限定したのだが、これら写真に載ってる方とは
 『レース以外』の実務でもいろいろとお付き合いがあったので
 次回に、そんな旧いカワサキの話を纏めてみたいと思っている。


  
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カワサキ メグロの話など  昔話を

2020-11-22 04:50:23 | カワサキ単車の昔話

★カワサキのこんなニュースが流れた。

 カワサキが『メグロブランド』を復活させたという。

  

 

 カワサキ500メグロK2  私にとっても懐かしいバイクである。
 
 1965年発売とあるが、当時は広告宣伝課で広告やレースを担当していたし、
 1967年からは第1線でこのバイクの販売を実際に担当したりした。

  

 
 当時の白バイは殆どがメグロで、ホンダは少なかった時代。
 カワサキも国内だけの販売の時代だが、
 国内の代理店網も旧メグロと旧メイハツの代理店で構成されていた。

 川崎航空機工業の明石工場は元々エンジン工場で、
 そんなことから二輪のエンジンは開発・生産しメイハツに供給してたのだが、
 車体のことは、というよりオートバイのことはあまり解っていなかったと言ってもいい、そんな旧い時代もあったのである。

 
 そんなカワサキがメイハツ・メグロを吸収して
 メイハツやメグロの人たちもカワサキの仲間になったので、
 何とか二輪事業が成り立ったのだと言っていい。


★私はその営業がスタートした頃から単車営業にいて、
 その営業先は『カワサキ自動車販売』で、社長・専務は川崎航空機の方だったが、
 そこは殆どがメイハツ・メグロからの方たちだった。
 そんなことで、旧いメイハツ・メグロの方とは親しかったのである。

 
 この写真はずっと後のものなのだが、
 その最右翼と言ってもいい、メイハツからの平井稔男さん
 メグロのサービスからの北見紀さん

 そんなスリーショットのこんな貴重な写真もある。


  



 平井稔男さんとは、ずっと最近までいろんなことで一緒だし、
 北見紀生くんは、今はちょっとした有名人だが、
 彼は、私が東京営業所長時代のサービス担当なのである。



★カワサキの誇る世界の名車Zのエンジン開発は稲村暁一さんだが、
 その車体設計を担当されたのはメグロから来た富樫俊雄さんなのである。


  



★ 1965年5月、初めて鈴鹿を走ったのは山本隆で、
 これがカワサキの初めてのロードレース出場なのだが、
 当時北陸にいて一緒に手伝ってくれたのが、メグロから来た内田道男さんである。

 彼はその後、川崎航空機に異動して
 カワサキがヨーロッパ市場を開拓した時の先駆者なのである。
 開発・生産は兎も角、販売会社設立などの営業面が解る人材がいなかったのだろう。

 彼は、カワサキが最初にヨーロッパで販売会社を設立したUKの初代社長だし、
 ドイツ市場も彼が最初に手を付け、さらにその後カナダの開拓も手掛けたのである。

 
 私が初めてヨーロッパ市場やアフリカ・ナイジェリアに出向いた時も、
 いろいろとロンドンで面倒を見てくれた。

 レースが好きで、UKでもレースを手掛けていたし、
 ヨーロッパのGPレース運営もUKで『ケン・鈴木』さんと組んでの展開だったのである。
 そんな彼も若くして逝ってしまった。

     
 

   
  

 そんな『ケン・鈴木』ご夫妻ともいろんなことから繋がって
 昨年は軽井沢Silver Stone で楽しい時間を過ごしたりしたのである。

 鈴木さんは元トーハツから、BSのレースチームに移り
 その後UKでのカワサキGP監督を務められたのである。

 カワサキのレースでいえば、初代監督が大槻幸雄さん 
 2代目が、安藤佶郎さん
 そしてそれを受け継がれたのはメグロから来られた糠谷監督だったのである。



★そんなことでカワサキの二輪事業はメイハツやメグロや、
さらに言えばトーハツやなどかっての旧い二輪業界の方々の方々の協力でのスタートだった。

そんなカワサキが、新しく『メグロブランドの復活!』
これはそんな時代を生きてきた私にとって、なかなか嬉しいことなのである。

 
 

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カワサキ二輪事業の昔話

2020-09-30 07:51:52 | カワサキ単車の昔話

★時間があって閑なものだから、ネット検索を毎日楽しんでいるのだが、
昨日は旧いカワサキの人たちが登場するこんな動画に出会ってびっくりした。
内容は旧いが創られたのは2019年なのである。

 記事はカワサキバイクイチバン編集部が纏められたようである。

 このように説明されていた。


     




『カワサキが「Heritage Video 2019」と題し、カワサキ創成期の歴史を3人の証言者とともに振り返った動画を公開している。
動画の冒頭では、英語のナレーションながら、1924年の目黒製作所設立から1964年の川崎航空機工業による吸収、650-W1デビューなどの歴史を、当時の写真やカタログを交えて紹介。
そして次のインタビューに登場するのは、川崎重工業の元社長であり名誉顧問の田崎雅元氏と、カワサキ4サイクルエンジンの元開発者である稲村暁一氏、そしてカワサキのテストライダーやレーシングライダーとして活躍した、ミスターカワサキこと清原明彦氏の3人で、当時のアメリカでのテストや開発当時の貴重なエピソードを語っている。』



★ 何でもスタートの物語は『オモシロく語られる』ものなのだが、
カワサキの二輪事業のスタートは、確かにエンジンのプロたちはいっぱいいたのだが、二論車に関しては全く素人の集まりだったので、
ホントのところ『何も解ってはいなかった』のである。

当時の川崎航空機に入社した人たちは『二輪車』など何の関係もなかったのだが、いざやってみると『二輪独特のオモシロさ』があって、
みんな『ハマってしまった』感がある。

この動画には田崎さん、稲村さんが登場するのだが、お二人は昭和33年入社で、田崎さんはジェットエンジン、稲村さんは4輪車のエンジン開発などやっていた。
私はその1年前の昭和32年の入社なのだが、川﨑航空機が二輪車の一貫生産を始めたのは昭和35年(1960)のことなのである。

私が単車に異動したのは昭和36年で当時、田崎さんは未だジェットにいたし、多分稲村さんも未だ単車には関係していなかったのではと思う。


最初に出した125B7がフレームの欠陥で返品の山となり、二輪事業を続けるかどうか日本能率協会が市場調査をするのだが、昭和37年の『青野ヶ原モトクロスでの快勝』もあって現場の意気は盛り上がっていたこともあって、
単車事業やるべし』との結論になるのである。

このモトクロスに関係した人たちは中村治道・髙橋鐵郎さんなど製造部の人たちだったのだが、それ以降カワサキの単車事業は本格的に動き始めるのである。




★ この動画に現れる画面から何枚かを抜き取って、ちょっと当時の状況など補足説明をしてみたい。 
こんな時代のことが語れる人ももう本当に少なくなってしまったのである。

販売関係は当時は旧メイハツ工業の人たちが中心の『カワサキ自動車販売』が担当していて、市場は日本国内だけだったのである。
私は初めてできた単車の営業部門で、この『カワサキ自販』への販売の窓口をやっていた。

川﨑航空機の人たちは昭和35年度(1960)に初めて二輪事業を展開するための人材が入社してこの年度の人たちは、最初から二輪事業を担当した人もいるのだろう。
二輪事業が解っている人たちと言えば、旧メイハツからの人たちと、メグロからカワサキにやってきた人たちだけだったと言っていい。

 ただ当時の川崎航空機は戦後の中断があってばらばらになっていたのだが、
それが集約されたのが昭和27年度(1952)からなので、会社も大企業というよりは、まさに『若い会社』で、私なども入社早々から自由に『やりたいことがやれる』そんな雰囲気を持っていたのである。 

 
 さて、最初の方に現れる場面だが、
 この画面にはメグロから来られた糠谷さん(一番右)が写っているので
 昭和39年以降のことだろう。

 


 

糠谷さんは実験研究などやっておられたのだが、
カワサキファクトリのレース監督大槻幸雄・安藤佶郎さんのあとおやりになったので私もよく知っているのである。 


動画では田崎さんがいろいろと話されているのだが
まずはこんな画面が現れる。

 
 


 
これは1966年のことだと思うが、アメリカ市場への進出で明石工場からは田崎さんが一番最初にアメリカに渡ったのである。
丁度その頃650W1がアメリカ市場に登場するのだが、当時アメリカにいた日本人でバイクに乗れるのは田崎さん1人だったものだから、
アメリカのハイウエイをW1に乗って初めて走った日本人は私』と、これは田崎さんの自慢なのだが、このお話が登場している。

 当時はまだシカゴに事務所があるころで、ちょうどその頃、あの250A1
の開発テストを百合草三佐雄さんがアメリカでやったのだが、それを田崎さんが手伝ったりしている。

  

 
 A1が開発中の時期には日本でも名神高速道路が出来たばかりの時期で、そのテストにはファクトリーライダーの歳森康師・金谷秀夫なども参加したりしていた。
金谷は『ミッション焼き付き』に出会ったがうまく処理して『何とか怪我もしなかった』というのが自慢だったが、今になってよく考えてみると、契約条件には開発テストなどなかったから、もし事故にでもなってたら大変だったのだが、昔はそんなことは頓着なくやってたのである。



 稲村暁一さんは、この動画では技術的なことを語っておられるが、
 稲村さんは『4サイクルエンジンの開発』で知られている。

 
  


 
カワサキの4サイクルは最初のクルマがあのZ1でそれは1972年の上市なので、『それまでの稲村さんは何をやってたの?』と私は稲村さんに聞いたことがあるのだが、昭和33年(1958)の入社以来、陽の目は見なかったがカワサキの4輪車のエンジン開発担当だったらしい。


 
その名車Z1は、大槻幸雄さんが開発責任者で基本コンセプトは大槻さんの発想で、そのエンジン開発を稲村暁一さんが担当されている。


 



大槻さんはカワサキの初代レース監督で助監督が田崎雅元さんだったのだが、
大槻さんも私も1967年のFISCOでの日本GPを最後にレースチームを離れて、大槻さんは技術部の市販車開発部門に戻られ、私は東北6県の営業担当として仙台に異動するのである。

 1968年の初めに東北の販売店会議が開催されて大槻さんはその技術説明者として東北に来られたのだが、
その時『世界一のバイクを創る』とその夢を語られたのである。
 それが『Z1』になったのだと思うが、ひょっとしたらそんな大槻さんの夢を私が最初に聞いたのでは、と思ったりしている。

 Z1が世に出るまでは、それから約5年の歳月が掛かっている。
 因みに、大槻さんが技術部の市販車開発に戻られて最初に世に出た車は
 あのH1なのである。

 

 この車の担当はあの松本博之さんだが、
 初めてこの車を見た時の印象は『痛烈だった』のを思い出すのである。



★カだワサキの二輪事業の創生期に事業全体をリードしたのはある意味『レースだった』と言ってもいいのだが、
当時はエンジン開発=技術部マシン制作=製造部レース運営=広告宣伝課という三者の協働で『レース運営委員会』でその基本方針が検討されていたのだが、そのメンバーは以下の通りだったのである。

 山田熙明・苧野豊秋・中村治道・髙橋鐵郎・大槻幸雄安藤佶郎
 田崎雅元・古谷錬太郎

 そして大槻・安藤さんの後の監督が糠谷・岩崎茂樹コンビ
 その後を引き継がれたのが百合草三佐雄さんなのである。
 その百合草さんの時代に『レース』は開発・運営が技術本部となるのだが、
 その時の技術本部長は国内販社出向から戻られた髙橋鐵郎さんなのである。


★カワサキの創生期の昔話をしてきたが、ここに名前が登場した方々の内、
 川﨑重工業の社長が1人、副社長が2人、常務が2人と5人にもなる。
 別に役職の上位が特にどうだということもないのかも知れぬが、
 それはそれで大したことであるとも言える。

 何はともあれ『カワサキの創生期』はレースチームのメンバーたちが、
 その事業を引っ張ったということは間違いない事実なのである。


 
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国道1号線の想い出 など 昔の話

2020-08-05 06:49:22 | カワサキ単車の昔話

★現役時代約40年だったのだが、ちょうど半分の20年間を
 3度、国内市場の担当で出向したこともあって、日本の主な道路は
 殆ど何度も自分で車を運転して走った経験がある。

 免許を取ったのは1965年(昭和40年)で33歳の時なのだが、
 当時は車の免許を持っている人は少なくて、ましてや自家用車を持ってる人など、
 本当に珍しい時代だったのである。

 ちょうどその頃は、ファクトリーチームを担当していて、
 全国のモトクロス場や鈴鹿サーキット、富士スピードウエイなど
 全国各地にクルマを運転して出かけていたのである。

 そんな中でも1966年には青森の津軽の岩木山であった
 MCFAJの全日本モトクロスには、
 明石から津軽まで往復3000キロを車で移動したりしたのである。
 朝7時に明石をでて御殿場泊、翌日は仙台に泊っての走行だった。

 今のような高速道路のない時代だから、国道1号線だと言っても大変なのである。


★国道1号線は富士丸の山や、伊豆のモトクロス、
 富士スピードウエイのロードレースなど、
 ホントに走りなれた道だったのである。


  


   

   
 


★ こんな国道1号線と国道4号線を走っての津軽行きだったのだが、
  1967年(昭和42年)度からは、私自身が東北6県の代理店営業担当として、
  仙台に新しい仙台事務所を作ることを命じられるのである。

  昨今の異動と違って、何もないところに新しい事務所を創れという指示で、
  それ以外は具体的に何もなくて、
  私は異動の餞別みたいな感じで、『コロナのトラック』を頂いての異動だった。

  こんなに綺麗ではなかったと思うが、こんな車だった。

   

  ホントに何もないのである。
  従業員の仲間もいないし、事務所もなくて、
  宮城県代理店『宮城カワサキ』の事務所に机をひとつ置かせて貰っての
  スタートだったのだが、

  この『コロナのトラック』に適当な荷物を積んで、
  明石から1号線を走り、東京で一泊して仙台まで
  約1000キロを独りで運転して走ったのである。

  その時の明石から東京までのスケジュールと実際が
  日記に記録されている。
  東京まで635キロ、
  一宮までの名神以外は一般道路なので、14時間も掛っている。


   
   





★ 東北6県は岩手県を筆頭に日本の有数な大県ばかりなのである。

  この13号線も仙台を起点によく走ったが、
  隣の仙台ー盛岡も、盛岡―青森も200kmなのである。

  この地図にある時間も、今は多分高速道路を使ってのモノだと思うが、
  当時は高速道路などないうえに、奥羽山脈を越える山越えの道は
  未舗装の砂利道だった。
 

 


 
★ そんな昔のことをいろいろ懐かしく思い出しているのだが、
 この東北6県を担当してた当時は、長距離走行には慣れてしまって
 少々、長い距離でもなんともなかったものだから。
 明石への出張などもちょうど1000キロを朝早く出たら、夕方には明石に着く
 というような強行軍も何度もやったし、
 仙台から大阪に異動した年には、仙台で全日本モトクロスがあったのだが、
 大阪から所員と一緒に仙台までレースを観に行ったりしたのである。

 そんな車での走行話は、いろいろあるので、
 また、幾つか改めてご紹介してみたい。


 



  
   

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全体最適値を求めた『仕組み創り』   雑感

2020-07-26 07:31:56 | カワサキ単車の昔話

★『岩手県』いま、コロナウイルス感染者ゼロで、話題である。

 そんな『岩手県』など東北6県を私は担当していた。
 旧い旧い時代だが、『実用車のカワサキの時代

    こんな車だった。



 



 
 当時、東北6県が最大の市場だったし、
 岩手カワサキはダントツの『全国1位』の販売台数を誇っていたのである。

 1972~76までの4年間、私も未だ、30代前半、初めての営業経験だった。

 実用車も売れたが、こんなC2SSもめちゃくちゃ売れたのである。
 なぜ?
 それは当時東北6県は全国で最もモトクロスが盛んで、
 このC2SSの仕様に関しては、
 当時の東北の意見が大いに取り入れられていたのである。


 


 当時のカワサキのモトクロスのファクトリーライダーたち、
 山本・歳森・梅津・岡部・星野などは毎月のように東北にやってきていたのである。




★そんな東北6県の中でも『岩手カワサキ』は群を抜いた実績だった。

 その岩手カワサキの社長が久保克夫さんで、
 私は久保さんから学んだことは多い。
 
 なぜ岩手県などの田舎県が日本一を続けたのか?
 まさに、その販売システムというか、『久保克夫さんの力』だったと言っていい。

 それはなんだったのか?
 ひとつは   『久保克夫さんと販売店の信頼関係
 もう一つは  『岩手カワサキ独特の仕組み』  だったと思う。

 

 若い時に、私は久保克夫さんに会えて本当によかったと思っている。
 1976年以降はカワサキも『スポーツのカワサキ』に脱皮して
 私は大阪市場を担当することになるのだが、
 そこで創った『カワサキ共栄会』や、日本で初めての『特約店制度』など
 すべて『久保克夫さんから学んだもの』なのである。
 

★仙台時代、私は岩手カワサキの久保さんと一緒に行動することが多かった。
 久保さんは運転がダメで、私が運転手で岩手県内の販売店廻りを一緒にして、
 久保さんが、販売店に対してどのように対応されるのかを見せて頂いた。

 久保さんは販売店を訪問しても雑談ばかりで、
 『売ってください』などとは全く仰らないのである。
 『売りたい』のは販売店の方だと言うのだが、これは間違いない。
 人間関係は『貸し>借り』の関係でないと、その逆ではうまくいかないのである。
 
 一般に『お願い』などするものだから、『借り>貸し』になってしまうのである。
 販売店にはお願いなどせずに、
 相手が『望むこと』を支援するのが、『いい信頼関係』を創る鉄則なのである。
 
 そんな久保さんの販売店との対応場面を数多く見て、
 こんな対応はその後の私の『人間関係の基盤』になっいて、
 『頼まれたこと』はどんなことでもまず『断ること』はないように心がけている。


 
   


 ところが、岩手県は南北200キロ、東西100キロもある大県なのである。
 販売店を訪問するといっても、そんなに簡単ではないのである。
 そんな販売店に社長が突然訪問するものだから、
 販売店の方が恐縮してしまうのは、ヨコで見ていてよく解かった。
 間違いなく『貸し>借りの関係』が成立するのである。
 

★ もう一つの『仕組み』の話だが、
 ちょっと専門的で、お解り難いかも知れぬが・・・

 ●当時は全て『委託販売』の時代である。
 ●今のような回収システムではなくて、なかなか現金にはならない時代
 ●委託-販売ー売掛金ー手形ー現金化 と結構時間が掛かる
 ●数を売ろうとすれば、普通では大量の資金が寝る
 ●そのための『資金繰り』が大変で、
 ●ちょっと油断すると営業外で赤字になってしまうのである

 そんな時代岩手カワサキは独特で、
 ●実際は『委託』なのだが、
 ●委託すると同時にその月から『売り上げに計上』し
 ●毎月『請求書』を発送する
 ●販売店としては即支払う訳ではないが、ずっと『貸して貰っている』ことになる
 ●従って売れると即『手形支払い』となるケースがほとんどで
 ●大量に売るのに結構『実質回転』はよかったのである

 岩手カワサキ側の経理処理としては
 ●売上が経つので『利益が計上』されるのだが
 ●それは『引当金』を計上して相殺する
 ●売り上げが経っているので在庫からは消えているのだが
 ●在庫が『極小』になっても一切気にしない

 そんな『仕組み』になっていた。
 そんな『岩手カワサキ独特の仕組みの創造』を非常に興味深く思っていて、
 私の二輪経営は常に『独特の仕組み』の上に成り立っていたのである。


★ 『いい仕組み』さえ創れたら、殆どいろんなことは解決できるのだが、
 一番大事なのはTOPの立場での『全体最適値』を求めることである。
 
 現在の国の『コロナ対策の仕組み』など見ていると、
 部分最適値が優先されていて、上手く機能していないように思う。

 日本の縦割り組織を見ていると、
 各省の立場からの『部分最適値』ばかりが優先されて、
 『全体最適値』になっていないことが殆どなのである。

 国と地方との関係も明確ではないし、
 日本の組織機能は、なかなかムツカシイ。
 
 今こそ『全体最適値』を求めた『仕組み創』が求められているのだが・・・・


 
 
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『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』 雑感

2020-01-16 07:42:30 | カワサキ単車の昔話
★ごく最近、Facebook にこんなOgasaさんの記事が出た。
 
カワサキが1965年に、ロードレースで初めて頂いたトロフィーなのである。

  
   

 そのコメントの中で Ogasaさんが
このレースで入賞していなかったら、カワサキのロードレースチームが出来るのは、もっと遅れたのですか?』 というご質問だったので、 
纏めて書きますね。』とお約束したものだから、
 
当時のことを含めて、私なりに纏めてみたい。





★この当時、カワサキはレースに関しては結構一生懸命にやってはいたのだが、
それは『モトクロスの分野』に限ってのことだったのである。

ロード・レース』の分野にも、
いつかは出ていくことになったのだとは思うが、
山本隆さんが『鈴鹿のレースに出たい』と若し言わなければ、
そんなレースがあること自体も知らなかったので、
カワサキのロードレース分野への進出はもう少し後になったのかも知れない。

少なくとも、この翌月の6月に行われた『アマチュア6時間耐久レース』には出場していなかったような気がする。
なぜ山本隆さんが『ロード・レース』と言いだしたのかは、
この年の1月に当時のBSチームから、山本・歳森の引き抜き事件があって、
二人ともBSとの契約条件などを聞いているのだが、
その時BSからは『ロード・レースへの出場』もその『契約条件』に入っていたものだから、それを聞いて『ロード・レース出場』に関心があったのだと思うのである。

カワサキにとってはこの『移籍事件』は大きかったのだが、西海義治さんや片山義さんの判断もあって、二人とも『カワサキ残留』が決まったのである。
その件で、私はライダーと初めて話をしたのが『片山義美』さんだったのだが、
片山義美さんのカワサキのレース対応に対する指摘は厳しかったが、
仰ること』は納得できて、
この1件から『私自身がレースに関与』すると片山義美さんに約束したのである。
この件がなかったら、私自身のレース関与も、もっと後になったのかも知れない。

★当時のカワサキはレースは勿論、
二輪の世界にも『素人』ですべて『手探り』状態だったのだが、
それに比べてBSは旧トーハツのレース関係者がおやりだったので、
カワサキに比べたら『玄人』であったことは間違いないのである。

そんな状態の中での、山本隆さんの『ロード・レース』出場希望で、
新車を自分で買ってそれをチューニングだけレース職場に頼んで、
個人で出場する』積りだったのだが、
当時、生産部門にいてレース職場も担当していた田崎雅元さんが都合してくれて、
出場費用は『鈴鹿のモトクロス』に出場することにして、ことを進めたのである。


★このレースのことを『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』と題して、
このブログをスタートした2006年の11月にこんなブログをアップしている。


その概略を転記してみる。

1965年(昭和40年)5月3日、カワサキがはじめてスズカのロードレースに登場した日である。当時カワサキは、モトクロスでは頭角を表わし始めていた。
4月18日朝霧で行われたMCFAJの全日本モトクロスで、星野一義が90ccノービスクラスで優勝した。彼の初優勝である。
当時は、ロードレース出場は、未だ会社で認められていなかったのだが、モトクロスのトップクラスのライダーであった、山本隆君がどうしてもスズカのジュニアロードレースに、出場したいと言い出したのである。
メカニックたちにレーサーが造れるか打診したら、何とかなるだろうという。
スズカのモトクロスに出場することにして、会社には黙ってこっそり出てみるかということになり、2台のレーサーを造り上げたのである。
2台のマシンを都合してくれたのは、当時は生産部門にいてレースにも絡んでいた田崎さん(後川崎重工業社長)だった。

モトクロスの山本だけではもう一つ自信がないので、ロードの経験のある北陸の塩本にも出場を要請したのである。案の定、山本は3分40秒前後でしか、走ることは出来なくて、これではとても入賞できるタイムではなかった。
駄目かなと思っていた本番のレースで山本隆はは、見事3位に入賞したのである。
私の記憶が正しければ、1,2位はその後もロードレース界で活躍したホンダの神谷,鈴木で、結果はホンダ、ホンダ、カワサキと初出場で表彰台に立ったのである。

なぜ?
当日のスズカは雨になった。この雨がカワサキに味方した。
終始、BSの滋野のあとにスリップストリームでついて、最後の最後、滋野をかわして3位になったというのである。
雨でタイムが遅くなったこと、滑りやすいコースが、モトクロスライダーの山本に幸いしたのである。
私は、現場には行っていなかったが、チームマネージャーの川合さんから、5月の連休中の自宅に『ヤマ3、シオ8、セイコウ,カワ』の電報が入った。
喜ぶより、びっくりしたのをよく覚えている。

カワサキの初レース、モトクロスの青野ヶ原でも、このスズカでも、雨が助けとなった。 本当に何かの運である。
3位入賞して大きなカップを持ち帰ったので、黙っていた会社にも、その結果を報告したら、『ホンダに次いで2位か』ということになって、一挙にロードレース熱も上がり、この結果が会社でも正式にロードレースの参加を認めることになったのである。

約1ヵ月後の6月13日、アマチュアスズカ6H耐久レースにカワサキとして正規のデビューを飾ることになった。
3台のマシンを造り、6人のライダーで出場することになった。
関東のカワサキコンバットから梅津、岡部、テストライダーチームから加藤、飯原は決まったのだが、関西の神戸木の実の歳森の相手の山本が先月のジュニアロードレースに出てしまっていて、アマチュアでは走れないのである。
そんなことで歳森康師が『相棒に速いのが居るので連れてきていいですか?』と呼んできたのが、金谷秀夫なのである。 
このレースが歳森康師と組んだ、金谷秀夫の初レースでもある。

もう、40年も前のことである。
このことを、正確に記憶しているカワサキの関係者も少なくなった。
このレースのマネージャーだった、川合さん,塩本君、塩本を出してくれた内田さん、ロードレースを許可してくれた苧野さん。みんな故人になってしまわれた。
こんなレース創生期に苦労した先人たちの努力が、今のカワサキのロードレースに繋がっているのである。
 
★このように書いているが、この時のマシンを作ってくれた松尾勇さんも、歳森も金谷も、梅津も岡部も逝ってしまった。
不思議なことに、このアマチュア6時間耐久レースのきっかけになった山本隆さん、
監督の大槻幸雄さん、田崎雅元さんと私はまだ健在なのである。

大槻幸雄さんは、『Z1開発の功績』で、昨年日本自動車工業会の殿堂入りを果たされた。
来る4月18・19日に、大槻さんの出身地の京都・綾部に Kawasaki Z1 Fan Club の人たちが集まって、そのお祝いをしようとの催しが進んでいるが、
その時 集まる山本隆・大槻幸雄・私に加えて、今田崎雅元さんにもお誘いを掛けているので、ひょっとしたら『カワサキのロードレース・スタート』のメンバー4人が顔を揃えることになるかも知れないのである。

 
   


★そんな想いでいっぱいの由緒あるトロフィーだが、
2月1日に神戸で開催される
片山義美さんを偲ぶ会』には、このトロフィーも会場に飾られることになっている。

片山義美さんご自身は、カワサキとは直接契約などはなかったのだが、
片山義美さんの神戸木の実クラブ』とはその傘下のライダーたち
歳森・山本・金谷・村上・星野・清原・和田などいろいろと関係があって、お世話になったのである。

いろいろとあったカワサキのレースの世界である。
このトロフィーが、その歴史の本格的なスタートになったと言えるのかも知れない。


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カワサキ単車の昔話 2

2019-09-09 06:16:08 | カワサキ単車の昔話
★昨日『カワサキ単車の昔話』をご披露したら、皆さんの反応も良かったので、
 あの当時のあまり皆さんご存じない話を。

 これも『J1での富士登山』をやった福田康秀クンも叉絡んでいるのである。

 昭和39年(1961)年の話で、当時のカワサキは日活と身近な関係にあって、日活映画にはよくカワサキが登場していたのである。

 『花咲く乙女たち』 という映画のロケが岐阜県尾西市であったのだが、そのロケにカワサキの車を提供したのだが、若し止まってしまった時のために、サービスを一人つけて欲しいと仰るのである。
 それを福ちゃんに頼んで、私も一緒に現場を見に行ったのである。


 『花咲く乙女たち』 と 
 Google 検索するとこんな写真が現われるから不思議である。 


  
 


尾西市で行われたロケには、当然主役の舟木和夫なども来ていて、日活の映画館が是非舞台で挨拶を、などと交渉していたり、
当時はめちゃ有名だった『喜劇俳優堺俊二』の息子の堺正明も下っ端で来ていて『堺俊二の息子』も出てるなどと思ったりしたのである。

    

 
現地では特に何もなくて、当時の日活の笠井プロデユーサーに映画界の話などいろいろ聞いたりして、福ちゃんと二人、いい旅館に泊めて頂いて、違う世界を経験したりしたのである。


★そんな日活との関係が続いていた昭和39年(1961)だが、
 たまたま明石日活に『風と樹と空と』という吉永小百合・浜田光夫主演の映画上映があって、『浜田光夫が挨拶に来ている』という話を聞いて、

   

 
突然、明石日活に行き、
浜田光夫に『明石工場に来ませんか?』と誘ったら、『お伺いします』と仰るのである。
   
 

    

 
この年の7月14日のことだが、
当時の大スター 浜田光夫と松原智恵子がカワサキの明石工場にやってきたのである。

 そんな突然の話だったが、当時の塚本本部長に対応して頂いて、その録音を録ろうとしたのだが、録音器を持ち込むのがほんの少しだが遅れてしまったのだが、
 浜田光夫は、全く自然に『最初の挨拶』から頼みもしないのに『やり直して』くれたりしたのである。
 そんな対応が自然に出来るのは『流石だな』と今でもそう思っている。

 そんな話の後、『テストコースで単車に乗りませんか?』 と言ったら『乗ります』と言われて、テストコースにご案内したのだが、
浜田光夫が来るらしい』とは、いろんなところに伝わっていたらしく、
テストコースはちょうど発動機工場の横だったので、発動機の女工さんたちがラインを離れて、群がって見に来たものだから、発動機のラインが止まってしまったのである。
 当時の勤労部長に文句を言われたりしたのだが、
これは発動機の管理体制の問題で、文句を言われる筋合いはないと思ったりした。

 今思うと、『よくやったな』と思うし、浜田光夫も『よく単車に乗った』ものである。
 どのように『お礼をしたらいいのか?』よく解らなかったが、3万円を謝礼に包んでいる。 3万円か?と思われるかも知れぬが、その年の私のボーナスが6万円の時代なのである。

 浜田光夫には、明石日活の劇場の壇上では、カワサキのバイクの話を詳しく話して貰ったし、広報担当の私としては大満足の出来事だったのである。



★昨日の『J1の富士登山』の話もそうだが、
 『咄嗟の判断』で動くことが大事だな、と思っている。

 この『浜田光夫』の件も、前日に課の女子社員が『浜田光夫が明石日活に来るらしい』という一言で、始まっているのである。
 日活を訪ねた時は、まさか『明石工場にやってくる』とは全く思ってもいなかったのだが、動いてみないとできるものも出来ないのだということは、こんな若い時代に経験できて、 私自身はこんな『咄嗟の判断』で動くことは多いのだが、段々と勘が
よくなって、『実現力』に繋がっていると思っている。

 そういう意味では、『計画』が動きをツマラヌものにしているような気がする。
 企画畑も長かったので『計画』はよく創ったが、その通りにやるので、オモシロくならないのだと思っていて、刻々と世の中は変化するので、その変化に合わせた『計画の修正』が一番大事だと思っている。

 カワサキの創生期は、単車が新しい事業だったこともあって、若い人たちが第1線で『咄嗟の判断』が許されるそんな体制だったので、カワサキ自体がオモシロく育っていったのだと思っている。

 
★そんな昭和39年だったが、『源平芸能合戦』でテレビ出演したのもこの年の8月のことで、この年は『イベント屋』みたいな動きをしている。
 この時も、本社の岩城部長以下が応援してくれて、ホントに当時の川崎航空機はオモシロい会社だったと思っている。

  

 こんなブログに、その『さわり』だけをアップしているが、
 応援団で手伝ってくれたのは、後川重社長にもなった田崎雅元さんである。
 

 オモシロいと思うので、時間のある方は、お読みになって下さい。

 
 昭和39年(1961)は私は29歳、まだ30歳前の若手だったが、いろんなことが出来て、この1年は、結構オモシロい年だったように思うのである。
 川崎航空機という会社自体が『若かった』のかも知れない。


 


 
    


   

 
    
 
  


   

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カワサキ単車の昔話

2019-09-08 07:50:27 | カワサキ単車の昔話
★ いつもFacebook に旧い二輪の写真をいっぱいアップされる
忠幸 松本 (Tadayuki Matsumoto)』さんが、こんな懐かしい写真をアップされた。
  

  

こんなコメント付きである。

カワサキ 本格的に量産体制に川崎航空機工業明石工場では、1960年からエンジンと車体組立を含む二輪単車の一貫生産を開始。
85J1や125B1等のロータリーバルブ車の人気も高まり、...日本全国へと出荷が続きました。 写真は、明石工場から全国に向けて、日野の二段トラックに積み込まれるカワサキオートバイ。


★非常に懐かしいので、その当時のこと『カワサキ単車の昔話』を少し。
 
昭和35年(1960)に明石工場の一貫生産は始まった。
最初に出たのがB7、この車はぜんぜんダメだったのだが、次に出たB8がよかったので、カワサキの単車事業も何とかなったのである。

 この写真の125B1やJ1 は、J1が昭和40年の秋、B1はもう少し後だったと思うので多分昭和42年頃の写真なのだろう。

 85J1はモトクロスでも速かったし、確かこのエンジンをベースに鈴鹿のロードレースにも出場することになったのである。


★私自身が関係したカワサキJ1の想い出としては、
 この車は富士山の頂上まで登ったのである。

 こんなブログにも纏めているが、

松島裕さんがこんな旧いオートバイ誌の記事を見つけて、アップしてくれている。
 


 これは、別に会社の計画でやったのではなくて、
 当時の品証にいた連中が、『JIで富士山に登る』ので、
    費用をちょっと面倒見てくれないかというものだから、
 『成功して頂上での写真を撮ってきたら』 と言うことで始まったプロジェクトなのである。

 私に言ってきたのは福ちゃん、福田康秀クンで、品証のこんな連中が一緒だったようである。
 因みに福田君は昭和46年カワサキに初めて『単車営業』が出来て、
私がそこに異動した時、サービス3人も一緒で、その中の一人が福ちゃんだったのである。

 


 私が『頂上での写真を撮ってきたら』と言ったものだから、
 それは大変だったようで、
 最後はロープで引っ張り上げたなどと言っていた。

  

 
 富士山山頂での写真である。
  
  

 
今でもお付き合いのある二輪車新聞の衛藤誠さんにお願いして、
オートバイ誌と二輪車新聞の記事にして貰ったのである。
 上の松島さんの写真はサイクリストさんのようだが、当時は二輪雑誌はオートバイとサイクリストの2誌だけの時代なのである。

当時はレースも担当していたので、このJ1はレース職場で松尾勇さんがエンジンをチューンし、モトクロスタイヤを装着したのだが、戻ってきたときはタイヤはつるつるになっていた。

私も未だ30歳前だったのだが、
こんなことを上にも相談など一切せずにどんどやっていた、
そんな雰囲気が当時のカワサキにはあったと思う。


  


★さて、松本さんが紹介された二輪運搬の専用車だが、
ここに書かれているロゴ『カワサキオートバイ』も私にとっては非常に懐かしい想い出なのである。

  

 国内でカワサキが一番最初に創ったロゴなのである。
 
当時私はカワサキの広告宣伝課を担当していて、びっくりするような予算1億2000万円も持っていたのである。
 
その広告宣伝をするうえで、一番根幹になるのが『カワサキ』というロゴなのだが、潤沢な予算を持っていたので、広告代理店の大広さんが、オリンピックのポスターなどデザインした『亀倉雄策さんに頼みましょうか』と言われるので一度はOKしたのだが、そのデザイン料が7000万円だと聞いてびっくりして止めてしまったのである。

広告宣伝の考え方は、同じ文字数のデザインでも、その骨格になる『カワサキ』などの場合は、それなりに高くて、会社の商標などは、大体1億円が相場のようなのである。

そんなことでこの『カワサキオートバイ』のレタリングはカワサキにいたデザイナー榊栄一郎くんの作だから、費用は1円も掛っていないのである。
こんな裏話を知ってるのは多分私だけである。


★私は広告宣伝の後、昭和42年(1967)からは、東北仙台に『仙台事務所を創れ』という社名を受けて、それこそ一人で仙台に異動したのだが、
当時は『実用車のカワサキ』時代で東北6県が一番多く売っていたのである。
 
当時の二輪の運搬は、この写真にあるような専用車で各県の代理店に配っていたのだが、1台のトラックに6~70台積めるので各県の幾つかの代理店に配り歩いていたのである。
 
東北6県は想像以上に広くて仙台から隣の盛岡までが200キロ、盛岡から青森が200キロなのである。 因みに神戸から名古屋がちょうど200キロで、兵庫・大阪・滋賀・岐阜・愛知と5県にまたがっていることからも、その広さはお解り頂けると思うのである。

 そんな広大な東北で、大きなトラックで、順次台数を下ろしながら配送するのは極めて非効率なので、仙台に事務所を創りそこに倉庫を創って、東北6県には20台積みの小型トラックで配送するようにしたのである。
日本で一番売っていたのが岩手カワサキだったから、盛岡には専用車が直送することもあったのだが、他県は専用車一車分の台数を引き受けるところはなかったのである。
それでも、夏の最盛期には毎日明石から専用車が来るほど、当時の東北は台数を売るのは『日本一』だったのである。

仙台事務所は別に『運送屋』だけをやっていたわけではないのだが、久しぶりにカワサキの専用車の写真を見たら、遠い昔を思い出したのである。

★そんな『実用車のカワサキ』時代も、昭和44年(1969)年頃までで、1970年代には『中大型のスポーツのカワサキ』に変身したので、
1971年からは私は日本で一番売れていなかった大阪地区の担当に異動して1973年には日本で初めての特約店制度をスタートさせたし、同じ年Z2が上市されて、文字通り『スポーツのカワサキ』がスタートしたのである。

松本さんの専用車の写真を見て、
懐かしい旧い時代の昔話』を想いだした次第である。

 
 
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カワサキアーカイブス と 私のアーカイブス

2019-06-20 16:48:11 | カワサキ単車の昔話

★ いまカワサキでカワサキの二輪事業のアーカイブスを作成中で、私もその一人に選ばれて、今年の2月にインタビューを受けたのだが、この度編集完成して、家まで届けて頂いたのである。


   
 
 2時間ほどのインタビューだったが、それを1時間10分ほどに纏められていて、なかなかオモシロい内容に出来上がっている。

 私自身は昭和36年(1966)の単車事業スタートから平成9年(1997)までの31年間を一貫してカワサキ二輪事業に従事していたので、自分史みたいなところもあるのである。

 その間、結構事業の真ん中にいたこともあって、この30年間のカワサキの出来事をこんな資料に纏めて持っていて、このインタビューもこんな資料に基づいたものになっているのである。

   


 今回のアーカイブスの担当部門の方が、『この資料』を貸して欲しいと言われたので、2月からお貸ししていたのだが、それも昨日戻ってきたのである。
 こんな資料は多分どなたもお持ちでないので、貴重なのである。 今回、その中から必要なものは会社として残されたようなので、実はホッとしているのである。

 これは勿論私にとっても貴重なのだが、量が多すぎて今後多分処理に困るだろうとも思っていたので、この際整理して、3冊に纏めてしまったのである。
 現役の時からずっと思っているのだが、『整理ができない』人は資料を持ちすぎて『捨てない』から、結局は『整理ができない』のである。

 今回、アーカイブズも出来たので、この3冊に整理してしまった。

  


 従来の資料の現物ももちろんあるのだが、このように年度ごと、月毎、日付ごとに既に整理してあったので、それだけに纏めたら、ちょうど3冊のファイルに納まったのである。
 コレで昭和32年4月1日の入社当日から平成9年の現役最後の日までの31年間が、日単位で見ることが出来るので、これはカワサキの二輪事業の歴史であると同時に、私の『自分史』の一部だと思っている。

 こんな資料に纏めることが出来たのは、20歳の大学2回生の時にスタートした日記が、86歳の今も続いているので、この資料も日記をベースにチェックしてあるので、まず間違いはないはずだと思っている。

★ ところで『カワサキアーカイブス』の製作は昨年スタートして未だ途中のようで、今のところ田崎雅元さん・大槻幸雄さん・稲村暁一さん・川崎芳夫さん、百合草三佐雄さんなど私が今でも親しくお付き合いのある方の他、10人ちょっとのインタビューが終わってはいるようだが、まだまだ続いて行くのだと思う。
 
 それぞれの方たちがそれぞれの想いで『カワサキを語られる』ので非常にユニークなものに仕上がるだろう。インタビューの時間も1時間近くに編集されているようで、それなりの独特なものに仕上がっていくはずである。

 非常にユニークな取り組みで、インタビューをされている方の人選を見ても、別に職位には拘っていないようである。
 如何にもカワサキらしい取り組み方で、なかなかいいなと思っているのである。
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吉田純一さんの会合で出会った人たち-1

2019-03-11 15:25:11 | カワサキ単車の昔話

★つい先日、大阪のホテルで吉田純一さんの『旭日小綬章記念祝賀会』があって、主たる出席者は二輪業界の販売店やその関係者だったのだが、吉田純一さんがカワサキの出身者でもあることから、カワサキに関係した諸氏にも沢山お会いできたのである。

 吉田純一さんがカワサキオートバイ販売定期採用第2期の昭和42年入社であることからその近くの年次の人たちや、当時の神戸営業所長で吉田純一さんの直接の上司でもあった『平井稔男』さんも出席されるとかで、私にも声が掛ったのである。

 我々の仲間としては、平井稔男・カワ販第1期生の渡部達也・2期の吉田純ちゃんと同期で渡部達ちゃんの後輩でもある柏原久、それに私とは同期入社で、このメンバーとも密接に関係のある藤田孝昭の5人で一緒にお祝いをしたので、そんなこともあって時間を合わして大阪駅で落合いホテルに行ったのだが、結構早く着いて、控室でだべっていたのである。

 

    

 

 未だガラガラの控室に真っ先に現れたのが、和歌山の『サービスショップ阿部』の阿部ちゃん親子である。

 阿部ちゃんがネクタイしてるのは多分初めて見る姿だし、もう40年近くあっていないので、道で出会ったも解らないと思う。私の大阪母店長時代の和歌山営業所は2名ほどの陣容で紀の川の北側にそれこそちっぽけな営業所があったのである。彼はサービスが主ではあったが、営業でもなんでもやっていた。 所長が私兼務みたいなところがあったものだから和歌山には結構私自身が出向いて、阿部ちゃんと一緒にあちこち出掛けた仲なのである。

その後、藤森さんに長野から来て貰って所長をやってもらうまでは、よく行っていたので、阿部ちゃんとも親しいのだが、下の名前は覚えていないが、今更聞けないし、名刺も貰わなかったので『阿部ちゃん』でいいかなと思っている。

 実は和歌山の『サービスショップ阿部』には今私がお付き合いのある登山道夫さんなどのZ1FAN CLUB のメンバーが出入りしていて、よく和歌山まで遠征しているのだが、私も誘ってくれるのだが行ったことがなかったのである。

 阿部ちゃんとも息子さんともお話も出来たので、次の和歌山には必ず行くことにしたいと思っている。阿部ちゃんが71歳で息子さんが40歳だとか言っていた。 そういえば当時阿部ちゃん結婚していたのかな?

 和歌山の駅の近くに店を出したのは、ずっと後のことだと思った。

 

  こんなお店である。

     

 

 お客さんからの評価は抜群で、全部満点の5が並んでいた

     

 

 

 控室にこの時来ていた『トンボィ』さんや明石カワサキの吉田一郎さんを入れての記念撮影である。

 『トンボィ』さんは私はよく覚えていなかったが、先方はよく覚えておられた。埼玉の有名所長池田さんの時代だそうである。柏原君はその頃、埼玉で池田さんの下にいたとか。 池田さんは私は仙台時代からのお付き合いである。『怖い』ということで有名だったが、私はそんな『怖い池田さん』は知らない。

 結構仲良く密接にお付き合いをしたのである。

 

    

 

 柏原久くんがトンボィさんをよく知っていて、この写真にも入って貰ったのである。

 柏原君とは私の大阪時代奈良にいてその後京都、東京などあちこちに行ってるが、間違いなく『実力派』である。

最後は川重のロボットにいて、ロボットでの評価がめちゃめちゃいいのである。

私がロボットの人たちと最近繋がったのだが『古谷さんは柏原さんをご存知ですか?』と仰るのである。

 柏シャンの東京時代、私が東京に行くと必ず捕まえられて武田、中野くんなどとしょっちゅう安物の飲み屋で飲んでいた仲間なのである。そこに毎回付いてきていたのが、今はKMJで偉いさんになっている細谷君である。

 そんな柏原君だが、先日ロボットでは「億単位の受注」を取ってきたなどと言っていた。

 

  

 

 控室が幾らか人が増えたころに、村島政彦さんにお会いした。Facebook では繋がっているのだが、直接お会いしたのはこれも30年ぶりかも知れない。 村島政彦・村島邦彦ご兄弟で、弟さんの村島邦彦さんにはNPO The Good Times の東京地区管轄をお願いしてるので連絡もあるし、先日は芦屋で食事などもさせて頂いたのである。

 この村島家は元々神戸で川崎重工業本社とも密接に関係のあったお家で、私に村島兄弟をわざわざご紹介頂いたのは川重本社総務だったのである。そんなご縁だが今は吉田純一さんをいろいろと援けられていて、純ちゃんが会長をされている『一般社団法人日本二輪車文化協会』の副会長をなさっている。ここには川崎由美子さんなども女子部で関係されているようである。

 こういう『二輪車文化』の活動に、各メーカーなどももっと積極的に絡まれることが二輪業界の発展に間違いなく繋がると思うのである。

 今年の5月18・19日に安中市で予定されている『自動二輪交友会』主催の安中市長や機動隊なども一緒にやる『二輪安全運転』をテーマにしたイベントには、NPO The Good Times は後援をする方向だし、『日本二輪車文化協会』もその方向で動くはずである。ひょとしたら田崎雅元さんには声を掛けて、一緒に覗きに行こうかなと思っている。

 『二輪レース発祥の地・浅間』にも近く、未だ正式には決まっていないが、参加者には『浅間Good Riders Club』会員としての資格で、1回のイベントだけではなく何回もやろうかという話になる可能性が強いのである。

 村島さんは未だ、その件はご存じなかったので、そんな雑談をしていたのである。

 

 6時からの開会前も、1時間ほど時間があったのでなかなか、いい時間が過ごせたのである。

 昔の仲間は、なかなかいいものである。

 6時からの本番でも、ホントに沢山の昔の仲間や、初めてお会いできた方もいっぱいだったのである。

 その話はまた次回に・・

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昨日は カワサキインタビューだった

2019-02-16 05:50:24 | カワサキ単車の昔話

★カワサキが二輪生産の一貫工場を明石に造って、『単車事業』をスタートさせたのは、昭和35年(1960)のことだからもう60年にもなろうとしているのである。

 そんなカワサキの単車事業の歴史を纏めようという取り組みが昨年あたりから始まって、当時を語れるOBたちに、昔の思い出話を聞こうかというプロジェクトなのである。

 そんな担当部門の方と、インタビュアーとしては発動機からアメリカリンカーン工場などにも出向された、山田淳一さんが担当なのである。

 山田さん、東大出の秀才なのに、彼のFacebook  https://www.facebook.com/yamadajack  をご覧になってもお解りのように、なかなかオモシロい人なのである。

 白髪なので、お年を召しているのかと思ったら、未だ50代の ぱりぱりなのである。

 

  

 

 今回、初めて仕事らしきやり取りをやらして貰ったが、それはなかなかのものだったし、事前の私へのマーケッテングも的確で、それに準じた質問内容になっていたのである。

 場所は、三木のNPO The Good Times の事務局がある Good Times Plaza

 

   

 

こんな本格的な装置で、ブルガリア人だが日本語ペラペラのプロのカメラマンの撮影だったのである。

 

   

 

  地図を添付したのは、『ブルガリア』と聞いてどこにあるのか解らなかったので『ブルガリアって、どのあたりですか?』と私が質問したものだから、皆さんはご存知かも知れぬが、こんなところにある国なのである。

 写真撮影も、めちゃめちゃ早い『速写』なので『そのカメラ幾らするのですか?』と聞いたら、『30万円ちょっと』とさらっと答えられて、やはりプロの持つものは違うなと思ったのである。

 有名なカメラマンだそうである。

 

    

     

  昨日、カワサキ側から来られたメンバーは、こんな方たちである。  

 

      

 

  約2時間の取材だったが、編集して1時間に纏めるそうである。

 事前に聞いていた、いろんな質問に対して、『すべて本音』でお応えしてるので、正規のものは『ちょっとCUT』が必要だろう、でもほんとは『カットされるであろう部分』がオモシロいのだと思う。

 

 この写真も以下の写真も、陪席して頂いたNPO The Good Times の登山道夫さんに写して頂いたもので、登山さんはご自身のFacebook に、

午後からは耳をダンボにして、興味津々なお話を聞かせて頂いてました♪  今日も楽しい1日でございましたよd(^_^o)』

 と書かれてるので、どんな話だったかは登山さんにお聞きになると、『カットされるかも知れぬ部分』もお聞きになれるかも知れません。

      

     

 

 私もビデオになるとか聞いたので、いつもとはちょっと違う、現役時代に幾らか近づいた感じになってるな、と自分でも思います。 

ただ、どんな場合でも『緊張したり』することは皆無なので、いつもの通りだったと、自分では思っているのだが、果たしてどうだったのでしょう?

 

     

 

★最後に、座右の銘は?  後輩に対して言いたいことは というご質問でしたので、

 

● 座右の銘は、緒方竹虎さん(吉田茂内閣の副総理)がどこかで語られていた

 『人の不幸を喜ぶ者は、自らの無力を恥じよ』という言葉と

 

● 後輩対しては、1975年にアメリカで創られたが、3年程で消えてしまったので、20年程後1990年代の初めに、国内販社で復活し髙橋鐵郎本部長が世界に展開され、さらに田崎雅元さんが川崎重工業の社長になられた時に、川崎重工業の基本コンセプトにされて、その後20年続いていた

 Kawasaki.Let the good times roll!をぜひもう一度単車事業部では復活して欲しいと結んだのである。

 

 ひょとしたら、そんなこともあるかと、10年前に登山道夫さんたちと

 NPO The Good Times を立ち上げて、この精神を広く世の中に伝えていこうとNPO法人にしているのである。

今は理事長を山本隆さんに譲って相談役となっているが、既に他界されてしまったが髙橋鐵郎さんはNPO The Good Times の初代相談役だったし、田崎雅元さんも、大槻幸雄さんも現役会員さんなのである。

 

Kawasakiに出会う人たち がハッピーになるような活動を、カワサキはずっと続けます』と髙橋さんは訳しておられたが、

NPO The Good Times に出会う人たちがハッピーになるような活動を展開したい』と思っているのである。

 それが、ホントの意味の  広報活動=PR=Public Relations=社会に於けるいい人間関係創り なのである。

 PR =Public Relation を『広報』と訳したばっかりに、日本では『広報』をちゃんと理解している方は少ないのである。

 NPO The Good Times も、私の現役時代の活動も、今も『私は真の広報活動』をしている積りなのである。

 これが一番今の 現役後輩たちに 伝えたいことなのである。

 今日の話の最後は、こんなお話で結んだのである。

 

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私が入社したころの川﨑航空機という会社   その2

2019-01-27 05:51:30 | カワサキ単車の昔話

川﨑航空機という会社が再開されたのは昭和27年(1952)だが、昭和44年(1969)に、川﨑重工業・川﨑車輌・川﨑航空機の3社が合併して『川﨑重工業』となるまでの17年間存続するのだが、振り返ってみてもなかなかオモシロい『いい会社』であったように思うのである。

 戦後の中断があって、分散していた会社が統合したこともあって、大企業という重たい感じは殆どなくて、上の方たちに対しても自由に『モノが言える雰囲気』があったように思うのである。

  当時は小型エンジンや歯車ミッションなどを扱っている発動機部門と、米空軍のジェットエンジンのオーバーホール工場の2部門が中心だったのだが、そのほかに化繊機械やロボットなどの新しい分野も手掛けていたのである。

 当時は、二輪の他にも『四輪』もやろうかという案もあって、私より一期下の稲村暁一さんは、入社してすぐその4輪のエンジンを担当していたようである。 当時は二輪のエンジンはホンダ以外はみんな2サイクルだったのだが、この『4輪のエンジン』が4サイクルエンジンだったようで、後、Z1の4サイクルエンジン開発を担当するのである。

   

 

 

★発動機営業部門の中の小さな「一部門」として単車営業がスタートし、それを新人の私が担当したのだが、その範囲は従来の発動機のエンジンを受注先に販売するというような簡単なものではなくて、企画・管理・営業・品証・広告宣伝などという機能が必要で、従来の営業部門とは全く異なる広範囲なもので、それは大変なことだったのだが、新人ながら5人ほどの部下を持ってこなしていったのである。無茶苦茶忙しかったし、上司の課長・部長も勿論おられたのだが、全く新しい仕事なので、何の経験もお持ちではなく、すべて私に『丸投げ』の状態だったのである。会社の中でのボーナスの評価なども『君には100点をつけてやる』と上司の方が『仰るほど』頑張っていたのである。

 ただその当時の単車は、エンジンはまずまずだったのだが、車体は未経験の分野で最初の125ccB7は車体の欠陥でどんどん返品されて大変だったのである。

 

     

 

そんなこともあって昭和38年(1963)には、『この事業を続けるべきかどうか』を当時の本社が日本能率協会に大がかりな調査を依頼していたのだが、この年の5月19日の青野ヶ原モトクロスでの圧倒的な勝利もあって職場の意気は上がっていたし、日能は『この事業続けるべし』という結論を出すことになるのである。

 B7の後、この年に出たB8の評判がなかなかよくて、それも日能の判断のひとつになったのだと思う。

 

     

 

★昭和39年(1964)には単車事業本部ができて、『単車再建・単車優先・発動機緊縮』という基本方針が発表され、企画室と発動機営業からの一部が分離され単車に異動することになるのである。この時点で日本能率協会が『二輪事業継続の条件』の中に『広告宣伝課の設置』という項目があって、その広告宣伝課を私が担当することになり、2月1日に私は発動機から単車・広告宣伝課に移籍することになるのである。

この当時の推移はこの通りなのだが、発動機事業部の管理・営業部門の上の人たちの想いは、いろいろと複雑だったようである。

かっては、発動機のエンジンをメイハツ工業に販売していただけだったのが『二輪車の一貫工場を造り』営業部門には営業課を造ったのだが、それがどんどん変化して親と子が入れ替わったような感じになり何となく『オモシロくなかった』というのは私にはよく解るのである。特に技術関係の方は、ジェット部門から来られた方も多くて、その後何年間は、何となく単車と発動機は『しっくりいかない』期間が続くのである。

そして、この広告宣伝課には年間1億2000万円の予算が3年間、本社開発費から支給されて、そんな規模での運営を任されるのである。今の時代でも1億2000万円は大きいが、当時の年収が50万円程度の時代であったから、今の金額にすると10億円にも相当するのである。そんな大きな予算を持っている『広告宣伝課』を広告代理店が放っておく訳はなく、電通・博報堂・大広などの広告代理店の本社スタッフが担当されての展開になるのである。私も初めての経験であったが、立ち上がりの数か月をカワサキ自販の小野田滋郎課長にいろいろと援けて頂いたし、この3年間は広告代理店の本社スタッフとお付き合いをさせて頂いて、私としても思わぬ勉強になったのである。

★この広告宣伝課初年度は、ホントに華々しい活動が続いて、4月にはオートバイニュースを発行、全国の販売店に送り届けて好評だったし、中古のヘリコプターを購入して全国各地で『ヘリの搭乗イベント』なども行い、日活とのタイアップでバイクを提供したり、8月には当時の人気テレビの30分番組「源平芸能合戦」に川﨑航空機として出場し三洋電機と対戦したりしたのである。

 https://www.google.co.jp/search?source=hp&ei=qtJMXNyBAtXmwQPBibSIBA&q=%E6%BA%90%E5%B9%B3%E8%8A%B8%E8%83%BD%E5%90%88%E6%88%A6&oq=%E6%BA%90%E5%B9%B3%E8%8A%B8%E8%83%BD&gs_l=psy-ab.1.0.0.2855.10061..12762...0.0..0.190.1265.16j1......0....1..gws-wiz.....0..0i131j0i131i4j0i4j0i4i37j0i4i10i37j38.OgsQsUICDys

           

この番組出場に当たっては、本社の岩城常務が積極的に応援をして頂いて、本社も、岐阜工場も含めての大イベントとなり、応援団も結成しての熱の入ったものになったのである。この応援団には田崎雅元さんら製造部が熱心に絡んでくれたりして、その本番は8月22日大阪のABCホールに出場者並びに応援者がバスを仕立てて出演し、当時のこの番組出演の評価点は90点代が普通であったのに、107:105点と三洋電機に負けはしたのだが、稀に見る高得点で、岩城常務からは全員に記念品を配れとの指示が出たほど、川﨑航空機社内が盛り上がったのである。

 レース関係も広告宣伝課が担当したのだが、この年の10月MCFAJの丸の山の全日本モトクロスにはカワサキが3種目に優勝し、その会場にも、ヘリコプターを帯同し、空から花束贈呈などをを行ったのである。

           

 

★この時代は単車事業の市場は国内市場に限られていて『実用車のカワサキ』の時代で、その主たる市場は東北や九州などで、東京・大阪などの大都会には全く売れていなかったのである。

それが昭和40年(1965)からは、アメリカ市場進出がスタートし、カワサキの二輪事業も新しい時代に入っていくのである。 この年の5月にはカワサキが初めて鈴鹿サーキットでロードレースに出場して、カワサキのレースチームに初めて大槻監督・田崎助監督が実現したり、7月には田崎雅元さんがアメリカ市場のサービス担当として、シカゴに駐在したりするのである。

 そのアメリカ市場では、カワサキだけが現地の単車通の優秀なアメリカ人スタッフを『現地主義』として採用し活用したこともあって、いろんなところにアメリカ人の知恵が入っているのである。

 特に当時カワサキにはエンジンのプロはいっぱいいたのだが、こと二輪車に関しては素人ばかりでそんなに詳し人はいなかったのである。それが逆に幸いして、当時のクルマの開発にも、アメリカ人の知恵が生かされたのではと思ったりするのである。

アメリカ市場ではメグロのW1なども通用しないことが解って、アメリカ市場向けに最初に開発されたマシンが250A1なのである。

 

 

    

 

  続いてマッハⅢ

            

   350SSなどと続くのだが、この時期の二輪車のスタイリングを、カワサキはリードしたと言っていい。

 

            

 

確かに、最後のスタイルに纏めたのは、デザインルームであることは間違いないのだが、そこにある新しい発想は、私は『アメリカ人の発想』だなと思っているのである。

 当時のカワサキの人たちは、そんなにバイクには詳しくなかったのだが、KMCのアメリカ人達は『二輪大好きのマニア』が揃っていたのである。

 これらの『スタイリング』で私が気付いているのはこんなことなのである。

● 従来メッキ仕上げだったタンクを赤いカラーにしたのはA1が初めてなのである。

● タンクマークをとって、Kawasaki というロゴにして、ニーグリップをとってしまったのはマッハⅢが初めてである。

● そしてシートの後ろに、弁当箱みたいなをつけたのは350ssが初めてなのである。

 こんなスタイリングの先進性は、その後のバイクスタイルの主流となっていったように思っている。

 

 当時の川﨑航空機はそんな進取の気性みたいなものがあった企業だったなと思っているのである。

 アメリカKMCの旗を振られたのは、私より3年程上の未だ係長時代の浜脇洋二さんだったし、私も、田崎さんも未だ係長にもなっていない時代なのだが、私が昭和32年、田崎さんが33年の入社なのだが、この時期尤も先端で活躍した年次の人は大量採用された昭和35年度の人たちが多かった、そんな時代なのである。A1の開発に現地を走りまわたのは百合草三佐雄さんだし、有名な種子島経さんも35年なのである。

いろんな分野で、若い人たちが先頭に立って活躍したし、それを許してくれる『雰囲気』が会社の中にあったのは確かなのである。

 

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