雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

イランの想い出

2024-07-26 05:58:56 | カワサキ単車の昔話

★ テレビでイランの紹介をやっていた。
 世界のいろんな国に行ったのだが一番強烈な印象を受けた国と言えばイランである。

 ご覧の通り殆どが砂漠で樹が生えていない。
 テヘランをはじめ大都市には緑があるが、自生しているのではなく人の手で植えられ、テヘランなどは日に何回か山からの水が流れてくる。
 都市はみんな人の手で創られている。

  


 1976年(昭和51年)のことだからまだイランが王政の時代である。
 カワサキが小型のCKD生産を始めるに当たって、
 主としてタイ・インドネシア・イランの3カ国を選び、
 その市場調査を行った時に調査団の一員として訪問したのである。
 この年の6月3日から10日まで8日間だったがこんなルートで
 テヘランを中心にあちこちに行っている。


 


 長距離は飛行機だが、工場のあったサヴェーには片道140kmを車で砂漠の道を往復した。
 途中は全くの砂漠で樹など生えていない。
 こんな光景を見るのは生まれて初めてだった。

 南のシラーズイスファファーンデーラー訪問などしたのだが、
 いずれも人が創った綺麗な街だった。

★ こんなイランの風景も印象に残っているのだが、
 人々の発想や言葉も全然違っていたし、
 イランいはイランの数字があるのには驚いた。
 ゼロは・なのである。
 ホテルの部屋番号や飛行機の座席番号も奇数が数字なら偶数はイラン文字で表示されていた。

  
  私は結構こんな新しいことには関心があって
  所謂『ペルシャの市場』にも独りで2度ほど行ったのだが、
  物品の価格が値段交渉で決まるのには驚いた。
  そんなことだから、イランの人達との会議は大変だったのである。
  『事業計画』など未来のことは神様の世界だと仰るし、
  会議をしていても『お祈り』の時間が来ると突然中断されてしまうのである。

 最後に訪れたイスファハーンでは、
 空港で飛行機が欠航になり、いつ飛ぶのか解らないのである。
 まさに、未来は神様の世界で空港関係者は飛行機が再開する時間などあまり関心が無いようで、何を聞いても『解らない』なのである。

  
 


 そんなことでテヘランまでの400kmを2台のタクシーで戻ってきたのである。
 道は砂漠の中をホントに真っすぐで車も殆どいないから、400kmを3時間ほどの行程だったのである。

 当時のイランのデーラーは日本の販売店よりはずっと立派で、
 サヴェーの工場も立派だったから、
 イランでの販売には期待していたのだが、
 1979年のイスラーム革命で、各社ともダメになってしまったのである。
 因みに、この時サヴェーの工場に単身出向してたのは、
 後、川崎重工業の副社長をされた佐伯武彦さんなのである。

 当時はブリジストンもホンダさんも工場進出していて、
 どちらのメーカともお会いして話を伺ったりしたのである。

★ こんなイランだったから、調査団のほかに人たちの印象は『イランはオカシイ』だったのだが、
 私は何となく回教徒は日本人よりは多いし、
 イランの人達から見たら『日本人はオカシイ』と思ったのではないかと思ったりした。
 ペルシャの市場には一般のバスに乗っていったのだが、
 言葉は通じなかったが、人々の対応は非常に親切で人間味あふれるものだった。
 そんなことがあったので、その後も何となくイランには親しみを感じるのである。
 兎に角、世界は広いなと思ったのが実感である。


  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

C2 SSの想い出

2024-06-12 05:11:25 | カワサキ単車の昔話
 
★ ずっと昔のことだが、昭和42年・1967年のことである。
 私は仙台事務所長として初めて営業第1線を担当することになったのである。
 ホントウか?と思われるかと思うが、
 当時は東北6県がカワサキの最大市場であったし、
 岩手カワサキが全国販売代理店の中で販売台数TOPを何年も続けていたのである。
 そんな東北市場の代理店から仙台に事務所をと言う要望が出て、
 新しく事務所を創ることになったのである。

 まだ小型実用車全盛の時代でアメリカ市場ではA1やマッハなどが販売主力だったが、国内ではまだあまり売れなかった時代に、
 カワサキとしては初の国内向けスポーツタイプ車として発売されたのが『120ccC2SS』でこんなクルマだった。



       



 モトクロスの盛んな東北では結構売れたのだが、
全国的には期待どうりの販売には至らずに、明石工場には相当の在庫が残っていて
これを東北で何とか売れないか』と仰るのである。
 ちょっと条件を付けて『セリアーニタイプのフロントフォークに改造してくれたら200台は引き受けましょう』ということにしたのである。
 
そんなことで特別仕様の東北タイプのC2SSが200台造られたのだが、
まずフロントフォークを外す作業からスタートしたので、
明石工場では前代未聞のラインを逆に回すことになったらしいのである。
ご依頼の『200台』は特別仕様であったこともあってすぐ売れたのだが、
明石サイドでは『もう200台』と仰るものだから、さらに200台もお受けして何とかしたのである。
そうすると『あと200台ほどで、工場在庫は無くなるから』と言われて、とうとう計600台を引き受けたのだが、最後の200台は捌ききれずに、各代理店の在庫になってそれをさばくのに大変だったのである。
 それにしても今では考えられないほど東北6県の代理店は力があったのである。

C2SSのセリアーニタイプのマシンは実はモトクロス用に、
 レース職場の松尾勇さんに頼んで作って貰っていたので、
 セリアーニタイプのフロントフォークが付くことは解っていたのである。
 当時東北は全国でも一番モトクロスレースが盛んで、
 そんなことでC2SSは非常によく売れたのである。


 これは何年か後に市販レーサーとして販売されたC2SSモトクロッサーだが、
 これは東北でC2SSのモトクロッサーに改造して、レースに出ていて好評だったので、
 メーカーは市販レーサーを創ったのだと思う。
 これにはセリアーニタイプのフロントフォークが付いている。

 
  



★私は東北に来る前は広告宣伝課長で、
 このC2SSのカタログが最後の作なのである。
 そんなご縁もあった懐かしいC2SSなのである。


  

  
 
 同時に『レース担当』だったので
 当時東北はレースが盛んだったこともあって、
 山本隆・歳森康師・岡部能夫・星野一義などファクトリーライダーたちがよく東北のレースに来てくれていた時代で、
 いろんな意味で『私はツイていた』と思うのである。
 でも、残念ながら山本・歳森・岡部は逝ってしまってもうこの世にはいない。

 人間、『ツキ』があるものだが、
 私がその後も、引退した現在も『人一倍いいツキ』を持っていると思っていて、
 そんなことで『いい人生』だったと思っている。


  
       
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 H1 と GTO と 松本博之さん

2024-05-22 05:56:21 | カワサキ単車の昔話

★ マッハⅢ と言われたH1が世に出たのは1964年のことで、
 カワサキで「2ストロークのエンジン設計は松本」と言われていた松本博之さんの作である。

 
  
 




★ 125B8をはじめ、数々の2ストロークエンジンを開発した松本博之さんだが、
 あまり知られてはいないがCKDで東南アジアに出荷された開発コード740、GTOエンジン松本さんの開発で、
CKDなので部品出荷のため台数記録がないのだが、
カワサキの二輪車で間違いなく最大の台数を世に送り出した大ヒット車なのである。


   


  


 私は企画やマーケッテング分野が専門で、機種の開発などには関係していなかったのだが、このGTOの開発については私が色濃く関係したので、そんな昔話をご披露してみたい。
 
 
★ 1978年、東南アジアのCKD新市場進出のため市場開発室を組織して、タイでの合弁会社をスタートさせるなどやっていた時代のことで、
営業としては、どうしてもCKD市場にあった「専用の機種」が欲しかった時期である。
78年2月3日私の日記の記述をそのままご紹介してみたい。

「夕方から技術部の会議に呼ばれる。大槻部長以下課長以上全員が揃っていた。方針が明確でない限り、技術部としては開発はやらないと大槻さんにまくしたてられたが、大槻さんとはレース時代からのお付き合いで気心もよく解っていたので、営業代表としてねばって言い分を通してもらった。」
と書いてある。

このときのことは、本当によく覚えているのだが、
125ccなどの小排気量には大槻部長はあまり関心が無かったのだが、私がひつこくねばるものだから、
私がやりましょう』と「助け舟」を出してくれたのが、松本さんだったのである。

カワサキにとって初めての「CKD専用機種、開発コード740」,
110ccGTOは、CKD専用車であるために一般には余りよく知られていないが、
歴史に残る大ヒット商品となり、この機種でカワサキのCKD事業は軌道に乗ったと言っていいのである。

この時、松本さんに私が頼んだ『開発コンセプト』は、
唯一、メーターで『最高速120㎞』を確実に出せることだったのだが、これが実現できてGTOは大ヒット商品になったのである。
兎に角、あの時代の東南アジアで一番速かったのがGTOなのである。
タイでの販売台数は当時、6400台/年だったのだが、
11000台、20000台と一挙に増加し、インドネシアでも好調に売れてCKD進出を軌道に乗せたのである。


★ カワサキの二輪関係者でネットのWiki に載ってるのは松本博之さんだけで、こんな記述が載っている。

 「現在のカワサキの草創期を支えた歴代モデルを設計した。
カワサキで最初に設計された2サイクルエンジンKB-1から開発に関わり、カワサキの事業存亡をかけたモデルB8のエンジンから車体までを設計。
B8のヒットによってカワサキはオートバイ事業撤退を回避した。
 その後もA1、H1、H2 等歴代の2サイクルモデルの設計を指揮した他、オフ車F21M、KT250、カワサキで最高の販売数を誇ったGTO110やAR & AV50その他、4サイクルエンジンにも関与した。 」

ここにもGTOの記述が、ほんの少しだけ書かれている。

   


 
この隠れた大ヒット商品のエンジン開発者が松本博之さんだったのである。
松本さん、あの時は助け舟を出して頂いて、本当に有難うございました』

 カワサキの単車のスタート時期からの開発者としての松本博之さんだが、もうこの世にはおられない。
 私としては一度もお礼を言う機会もなく過ぎてしまったのである。

 ところで、松本さんの奥様はまだご健在なのだろうか?
 松本さんの奥さんの『大ちゃん』は私の入社当時隣の課にいて、
 大人気者だったのだが、いろいろとお世話になったのである。
 松本さんに何のお礼も申し上げていないので、
 せめてこのブログの最後に末筆ながら『有難うございました』と書いておきたいのである。


  
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1966年・アメリカ市場進出、A1の時代

2024-05-09 06:58:54 | カワサキ単車の昔話

★ 1966年は米国に新会社KMCを設立、そしてA1を発表とある。
  二輪事業に進出はしたものの、民需のそれも末端ユーザへの販売は、川崎航空機工業にとっては初めての体験で、
  国内市場の販売はメイハツ・メグロの方たちに任せた対応だったし、なかなか大変だったのである。
  
  そんな時期に1965年からアメリカ市場に進出したのだが、
  このアメリカ市場への進出は、本社の企画にいた浜脇洋二さんが旗を揚げ、
  明石の事業本部からは、田崎雅元さんが最初にアメリカに渡たり、W1などを持ち込んだのだが、アメリカの高速道路には通用しなかったし、何もかにも初めての経験で大変だったようである。

 
  



★ 二輪の販売など経験した人は、川崎航空機工業にはいなくて、
 アメリカ市場では現地主義と称して、
 二輪に関心のあるアメリカ人を集めて当初の販売を推進したのである。

 これは当時の事業本部長の岩城良三さんがアメリカに出張された時の写真だが、左から3人目が浜脇洋二さんで当時は浜脇さんも川崎航空機では新人課長の若手だったのである。
 アメリカに最初に事業部から渡った田崎さんもまだ係長にもなていないそんな時代だったのだが、若手が頑張らざるを得なかったそんな時代だったのである。

 
   


  
 
★ そんなアメリカ市場用に最初に開発されたのが『250A1』だったのである。

 
  



   カワサキが初めて開発した『スポーツバイク』なのだが、
   エンジンは兎も角、デザイン面については、カワサキが新しい流れを創ったと言ってもいいのだが、
   こんなデザインの新しい流れは、二輪に関心があるアメリカ人の発想がいろいろと取り入れられている。
  

  当時の二輪車はどこもメッキタンクで側板が常識だったのだが、
  そのタンクを紅くカラーにしたのは、カワサキが初めてなのである。
  次に出た『マッハ』ではタンクマークも側板もなくなって、KAWASAKI の表示となっている。



  

  最終デザインに仕上げたのは明石のデザインルームだが
  発想段階のアイデアは二輪に詳しいアメリカ人の新鮮な発想があったのだと思う。 
   

★ このようなアメリカ人の発想がベースにあったアメリカ市場では、この250A1・マッハ500・そしてさらにはZ1と
 カワサキのスポーツ・中大型車が市場に受け入れられて、
 カワサキの二輪事業そのものがアメリカ市場中心に展開され、
 Z1が世に出た1972年には、その大ヒットで、
 ようやく『カワサキの二輪事業』が確立された時代と言っていいだろう。


  


 いまもカワサキの基本コンセプトとして生きている
 KAWASAKI Let the Good Times Roll 
 が創られたのもこの時期なのである。


  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

W1の時代  カワサキ単車の昔話

2024-05-03 06:16:20 | カワサキ単車の昔話

★ 1965年に「W1を発表」とある。
  当時の昭和40年を振り返ってみると、
  私はまだ33歳、広告宣伝課でレースなども担当していた頃で、
  W1のカタログなど創っていたが、直接の販売には関係なかった時代なのである。

  このカタログは私の広告宣伝課長時代の作なのである。


  
 

  
 その年には販社の名称がカワサキ自動車販売から『カワサキオートバイ販』に変わって、そのカワ販出向した年でもある。
 そのころ丁度、アメリカ市場開拓がはじまって、
 一緒にレースなどやってた田崎雅元さん(後川重社長)が、シカゴに事務所を創った時代なのだが、
 W1はそのアメリカ市場に持ち込まれたのだが、高速道路の高速走行には不向きで、振動が激しくもう一つ評判がよろしくなかったという記憶があったりする。
  
   ただ、国内市場では誠に評判がよくて、当時の国内市場では最大排気量車であったし、
 警察の白バイは当時はホンダではなくて、圧倒的にカワサキだったのである。
 そんなこともあって、各地の白バイの隊員さんとはいろいろと仲がよくて、
 当時はやっと運転免許を取りだした時代だったのだが、
 ちょっとしたスピード違反などは、頼めば取り消して貰える、そんな悠長な時代だったのである。

 私が初めて運転免許証をとって、車の運転を始めたのもこの年なのである。

 
★ 1965年5月には山本隆のたっての希望で会社には内緒で、
 鈴鹿のジュニアロードレースに出場したのだが、
 当日は雨でタイムが落ちて、モトクロスライダーの山本隆が3位入賞と言う結果で、カワサキがロードレースの世界に本格的に進出することになったのである。

 これがその時の写真で、広告宣伝課の川合寿一さんが現場に行ってたのだが、
 『ヤマ3、シオ8、セイコウ、カワ』の電報が5月3日の休みの日に我が家に届いたのである。
 ヤマ山本隆シオは北陸から参加してくれた塩本なのである。

  

  
  
   
 
★ そんなことから、ロードレースライダーとして金谷秀夫とも契約を結ぶことになるのだが、
 翌年の1966年のことだが、 富士スピードウエイが出来てその初めてのレースに金谷秀夫がW1で出場したことがある。

 ずっと後の話だが、小関和夫さんのWの本を出される取材で、
「FISCOで、W1のレーサーに、金谷秀夫が乗って走ったレースがあるのだがご存じありませんか? 」というのである。

このレースは、私はFISCOの現場にいて、非常に印象に残ったレースなのである。 
W1のロードレース出場はこの1回だけなのだが、
 当時は500ccを超えるロードレーサーなどはどこにもなくて、このレースも350ccが相手だった。
まだFISCOに伝説となった 『須走り落とし』と言われた第一カーブがあったころで、直線コースは長かった。
 レースはその直線部分では、Wが圧倒的なスピードで他を抜き去ってしまうのだが、
 逆にカーブでは車体が揺れて、チェンジは右、ブレーキは左のマシンには、流石の金谷も手こずって抜かれてくるのだが、
 直線の最後までにはまたトップを奪い返すと言うオモシロイ展開だったのである。
 このレースでの『金谷のアタマの揺れ』を見て、
 アメリカの高速道路での車体の揺れを想いだしたりした。
 結局最後のゴール地点では、抜き返すには距離が短くて確か、2位か3位でのゴールインであったのだが、
小関さんに聞くとクラスが違うので『クラス優勝』扱いになっているのだとか。

 残念ながら写真もないのだが、その時の印象は今でもよく覚えている。
 懐かしいW1と金谷秀夫の話である。

 まだ、カワサキはGPレーサーは開発時代で、
 三橋実・安良岡健・金谷秀夫の3人がそのテストで鈴鹿を走ってた時代である。
 彼らの契約条件に『テスト走行』などはなかったのだが、
 頼めばやってくれる、そんないい時代だったのである。
 

 

  

  


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メイハツ&メグロとの想い出と 小野田滋郎さん

2024-04-23 06:24:23 | カワサキ単車の昔話

★ 1964年に目黒製作所を吸収合併とあるが明発工業とはそれよりずっと以前から提携し、その販売網をそのまま頂いてカワサキ自動車販売として、国内販売を行っていたのである。
 
  


 当時の川崎航空機の明石工場は戦前からエンジン工場であったことから、戦後も米軍のジェットエンジンのオーバーホールや、農業用の小型発動機エンジン生産などを行う傍ら、明発工業に二輪のエンジンを提供したことが本格的な二輪事業へのスタートとなるのである。

★ただ、エンジンについての専門家はいたのだが、民需・末端市場販売網を敷いて最終ユーザーと繋がるような『二輪販売』については、全く未知の世界で何のノウハウも持っていなかったのである。

そんなことから社長・専務は川崎航空機からだが、それ以下のメンバーはすべてメイハツ・メグロからの人達の『カワサキ自動車販売』販売関係は丸投げしてのスタートだったのである。
 
私自身は1961年に初めて出来た単車営業課の課員としてカワサキ自販への出荷販売を担当したので、当時神田岩本町にあったカワサキ自販の本社に出張することも多く、そこで、メグロや明発の人達と接する機会があったのである。
このカワサキ自販には高野専務が独り川崎航空機から出向で、あとはメイハツ・メグロの人達だったのである。
そこで高野専務を支えていたのが、総務課長兼広告宣伝課長の小野田滋郎さんだったのである。
 
小野田滋郎さんはあのフィリッピンの小野田寛郎さんの弟さんで、
陸軍士官学校卒の英才で、私が小野田さんから学んだことは本当に多かったのである。


  

 

★ 小野田滋郎さん
カワサキのレースの創生期にヤマハから三橋実を引っ張り、カワサキコンバットを事実上作った人である。
この人が自分に与えた影響は大きい。
思想的にも、仕事の実務的なやり方も、それに対する態度も。
この人にはとてもかなわぬと思った数少ない人の一人である。

陸士出身、文学を愛し、酒を好み、人間味あふれる人柄、
小野田滋郎の物事に向かうときの純朴さと一徹さを見習いたい。

箸袋 寛郎と今も 還らぬ子 

小野田さんのおふくろさんが、正月に詠んだという句。
このお母さんの話も、小野田さんの話によく出てきた。
人生には、いろいろ影響を受ける時期もあり、また人もいる。
本当に、小野田さんには影響を受けた、戦略論の基本も教わった。
年賀状の文章は、逆立ちしても真似の出来ない素晴らしいもので、いつも楽しみにしていた。
いつまで経っても、そんな文学青年みたいな小野田さんが、また魅力であった。
戦後、小野田滋郎さんは自衛隊にもおられたのだが、その後、メグロからカワサキ自販に来られたのである。

この時期の一番の想い出は『小野田滋郎さん』なのである。
私にとって小野田滋郎さんは『人生の宝物』であったといっていい。

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カワサキのレースのスタート時期のこと

2024-04-16 06:48:01 | カワサキ単車の昔話

★カワサキのレースのスタートは1963年5月の『青野ヶ原モトクロス』と言われている。
 このレースは製造部の有志で出場したいわば『プライベートチーム』で正規のメーカーのレース出場ではなかったのだが、
 このレースの結果がその後のカワサキの二輪事業に大きな影響を与えたのは間違いない。



 



 この『青野が原のモトクロス』のきっかけは、
 1962年11月に開催された鈴鹿サーキットのジュニアロードレースを製造部のメンバーが観戦し、カワサキもレースをと言うことになったのである。
 このレース観戦の仕掛け人兵庫メグロの西海義治社長で、青野ヶ原のモトクロスの開催を主宰したのも当時MFJ 兵庫支部長だった西海さんなのである。
 西海さんは子飼いの松尾勇さんをカワサキの製造部に入社させ、
青野ヶ原のマシンも、その後のF21Mまでの約10年間は、MXもロードレースも、松尾勇さんがマシン製作を主導したのである。
 カワサキのレースマシンの制作が技術部に移ったのは、マシンがKXと称される時期からなのである。
 エンジンは兎も角、フレームについては二輪の専門家が少なかった時代だったと言えるのだろう。

 因みに、西海義治社長が何故かくも熱心だったのかと言うと、
 西海さんは元プロのオートレーサーで、何としてもカワサキにレース部門を立ち上げようと思われたに違いないのである。


★このカワサキのレースのスタートのきっかけは、
 1962年11月鈴鹿サーキットで開催されたジュニアロードレースだったのだが、
 このレースの250ccの優勝者が三橋実350㏄が片山義美で、この二人のレーサーがその後カワサキのレースチームを支えることになるのである。
 当時はMCFAJ主催のレースが主体で、それに出場するためには選手はメーカではなくクラブチーム所属であることが必須だったのだが、
 カワサキコンバットを主宰したのが三橋実で、神戸木の実クラブ片山義美だったのである。

 この写真の左から岡部能夫、歳森康師、山本隆、三橋実、梅津次郎
 この5人がカワサキの最初に契約したライダーなのだが、
 三橋、岡部、梅津が三橋実が立ち上げたカワサキコンバット
 歳森、山本は片山義美が主宰した神戸木の実クラブ所属なのである。

  
  


 
 1962年に本田宗一郎さんが鈴鹿サーキット創っていなければ  
カワサキのレースチームもまた、変わった形になっていただろう。
 そういう意味では、本田宗一郎さんがカワサキのレースに陰ながら関係したとも言えるのかも知れない。
 

★ レースには私自身いろいろとご縁があって、 『青野ヶ原』以降のファクトリーチームを担当したのだが、
  1988年10月に『カワサキファクトリー25周年』と銘打って、立ち上がり時代のレース関係者と当時の現役レースチームを招いて、25周年記念パーテイを開催したのである。


  
  

 集まったライダー諸氏は、最初の契約ライダー歳森・山本・岡部・梅津をはじめ
 その後ファクトリーに参加した安良岡健・和田将宏・金谷秀夫・清原明彦・星野一義、
 現役ライダーでは宗和孝宏・多田喜代一・関本五十洋などもいる。

 川崎重工側の出席者としては、青野ヶ原を主宰した中村治道・高橋鐵郎(元川重副社長)さんも、当時のレーサー製作を仕切った松尾勇さんもおられるし、
 真ん中にお座りなのが兵庫メグロの西海義治社長なのである。
 初期のレース運営委員会会長の山田熙明(元川重副社長)、苧野豊秋さんなど錚々たるメンバーなのである。
 
 カワサキのロードレーススタート時の監督大槻幸雄(Z1開発総責任者・川重元常務)・副監督田崎雅元(元川重社長)さんも、
 さらにはカワサキの名物男・平井稔男さんなどが顔を揃えているのである。

 因みに、OBサイドでの末席星野一義・清原明彦と言うホントにウソみたいな話なのである。
 このメンバーを見る限り、レースだけではなくカワサキの二輪事業を支えた中枢メンバーが当初のレースに関わっておられたことがお解り頂けると思う。

★カワサキの初めてのレース『青野ヶ原モトクロス』で、1位から6位までを独占するという完全優勝はまさに運がよかったと言わざるを得ないのである。
 マシンは125B8で、ライダーはこのモトクロスが初めてという初心者ばかりだったのだが、
 当日は雨でいたるところに水溜りが出来て、他社のマシンはみんなエンジンが止まってしまったようなのである。
 後、カワサキのエースライダーになる山本隆も当時はヤマハで出場していたようだが、マシンが止まってリタイヤしたのである。
 カワサキのレースでその後も1位から6位まで独占などはこのレースだけで、まさに雨のお陰なのである。
 因みに、この青野ヶ原の優勝者が誰なのか?
 当時はカワサキが勝ったということだけで、優勝者が誰だったのか?解っていないのは不思議なことである。

 雨がカワサキに幸運をもたらした、まさに『恵みの雨』だったのである。
 ずっと後、山本隆がはじめて鈴鹿サーキットを走ったロードレースでも、当日雨になってモトクロスライダーの山本隆がホンダに次いで3位入賞と言うことになるのだが、
 雨がMXもロードもカワサキに幸運をもたらしたのである。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カワサキの二輪車の歴史について    その2

2024-04-11 05:43:12 | カワサキ単車の昔話

★カワサキの二輪車の歴史・その2は
 1960年。神戸製作所で二輪車の一貫生産を開始とある。



  

 私は昭和32年4月(1957)に川崎航空機に入社したのだが、
 最初の配属先は業務部財産課だった。
 そこでも新しいことばかりやっていて、木製の椅子から金属製のネコスの椅子に変えたり、財産物件の償却計算を民需では初めてIBMを使ったりした。
 当時はアメリカ空軍のジェットエンジンのオーバーホールを明石工場でやっていて、明石工場にはIBMの器械装置があったのである。

 日本で一般にIBMが使われ出したのは昭和40年代だから、それより10年も早い時期のことなのである。
 そんな財産課にいたのだが、肺結核にかかって1年ほど入院していたのだが、その退院の時期が1961年12月で、たまたま新しく単車営業課が発足したのである。
 初めてのことだからそこには誰もいなかったのだが、
新しい仕事』なら古谷は出来るだろうと思われたのか、その単車営業課の所属になったのである。
 その部門の上司は業務部時代にもいろいろお世話になった小野助治さんで、その小野助さんに『私は引っ張って』頂いたのである。

 小野助治さんは、当時小野助さんと皆に呼ばれて、ホントに面倒見のいい上司だったのだが、私はその後、結婚するときは仲人をお願いしたりしたのである。

★これがきっかけで、私はその後、1999年に退職するまで、一貫して二輪事業を担当することになったのだが、
 一番最初の車はニューエースとあるが、それはほんの数か月のことで、私が営業課に異動した時の車は、125ccB7モペットM5が主力車種だったのである。


  
 
 
 そのほかにも、井関のタフ50なども委託生産していた時代なのである。


★ 私が営業課に配属されて小野部長に最初に言われた指示は物品税を研究してくれ』だったのである。
  この125B7は出荷もしていたが、フレームに欠陥があって多くの車が返却され、明石工場は返却車の山だったのである。
 私が配属されて2か月目の1962年1月の出荷台数は返却が出荷を上回って『マイナス17台の出荷』と言う信じられないことが起ったのである。

 当時125cc以上のバイクは贅沢品に掛けられる『物品税』が掛けられていて、この物品税の納入は至って簡単なのだが、
 返却されて治めた『物品税を戻入』して貰おうとするとこれが大変なのである。
 1台1台、明石税務署の署員の実地検査があって、そこで認可されないと戻して頂けないのだが、
 それは出荷当時のままと言うのが条件で、例えばメーターはゼロ出ないとダメなので、メーターの巻き戻しなどもやるという、大変な作業だったのである。
 さらにこの物品税は申告税だから、若し不正があると体刑になるというムツカシイ処理で、ホントに大変だったのである。

 そんな大変な時代が1年続いたのだが翌年には名車とも言われる25B8が出て、単車事業はやっと何とか軌道に乗り始めたのである。


  
 
 
 私の単車1年目はこんな大変な時代だったのである。
 いまは隆盛を極めるカワサキの単車事業だが、
 スタートから10年はずっと大変な時代が続いたのである。
 100社近くもあった単車の事業体がどんどん脱落して、
 いまの4社体制になるのだが、浜松の3社以外に生き残ったのはワサキだけなのである。
 そんな時代をずっと一緒に過ごせたのは今となっては貴重な体験だったと言えるだろう。


  

 
 私の入社当時の川崎航空機の明石工場はまだ単車工場もなくこんな状態だったのである。
 この広大な土地や戦前の機械の売り食いでやっと経営を繋いだ時代で、そう言う意味でも財産課は至って貴重な部門だったのである。



 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カワサキの二輪車の歴史について    その1

2024-04-08 05:59:43 | カワサキ単車の昔話


★「カワサキモーターサイクルの歴史」としてこんな表が載っていた。
 1960年から2000年までの40年は丁度私が二輪車を担当してた現役時代なのである。
 40年間の歴史の中で1966年までのスタートの時期以降は抜けている年度もあるが、そんな年度のことも私なりに補って40年間の歴史としてみたい。 
 



川崎航空機工業が戦時中に生産してたのは飛燕などの戦闘機だったのだが、
そのために敗戦と同時にGHQから工場を差し押さえれ操業停止になった。
昭和28(1953)の生産再開までは播州滝野高槻に疎開工場があって、播州工場では歯車を高槻ではエンジン関係をやっていた。
カワサキの単車1号機も高槻工場で造られたものだった。





 この高槻工場には後に単車事業本部長もされた高橋鐵郎さんもおられたようである。
 昭和28年(1958)に明石工場が再開されたのだが、
 私は昭和32年入社なので、その頃のことは話として聞いているだけである。
 本格的にカワサキが一貫生産工場を造って単車事業をスタートさせたのは1959年のことで、
 目黒製作所と提携し、社内にも『単車営業部』がスタートしたのは、1960年なのだが、
 この年に私はその単車営業部に異動したので、カワサキの単車のスタート時期から、1999年に退社するまで、二輪事業に関わっていたのである。

★その殆どの項目が二輪車の機種なのだが、それについて私なりの感想や思い出などを纏めてみたいと思っている。
 閑に任せて40回、どんな記事になるか解らぬが、楽しみにしてください。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

FX400と私とカワサキ

2024-04-01 06:21:18 | カワサキ単車の昔話

★最近はネットのニュースにカワサキが登場する機会が多い。
 昨日もこんなFX400の柏秀樹さんの記事が載っていた。

空冷DOHC4気筒400ccバイクの中でもっとも威風堂々としていたバイク、といえば1979年登場のカワサキZ400FXです。
Z400FXは当時、最先端のデザイントレンドというべき角張ったカフェレーサースタイルを導入しながら、同時に見た目の大きさが際立っていたことです。
と柏秀樹さんに紹介されているFX400は、

  


 空冷4ストローク並列4気筒DOHC 399cc 、43ps/9500rpm で
 当時の販売価格は38万5000円でした。

★1979年当時は、実はカワサキにとっては大変な時期だったのである。
 1977年以降のアメリカ市場はHY戦争が日本からアメリカまで飛び火して、
 カワサキもその乱売合戦に巻き込まれてアメリカのKMCは毎年100億円を超える赤字の連続で、日本の事業本部も赤字になって、川崎重工業の本社財務部門が救済に当たっていたような時期だったのである。
 
 国内のカワサキオートバイ販売は、アメリカのダンピング問題もあって、
 そのままの体制ではカワサキだけがダンピングに引っかかるということで、
 従来の社長以下の大きな本社をなくして、ホントに小さな体制にしたのだが、
 そのTOPをまだ新米課長だった私が引き受けることになったのである。

★それが1979年なのだが、
 何も解らぬままカワサキオートバイの常務として全軍の旗を振っていたのだが、
 この年に登場したのがFX400で、何もしないのにどんどん売れるものだから、販売会社にあった10億近い赤字を消去して、
 カワサキオートバイ販売は優良会社に変身したのである。

 そう言う意味で、二輪事業は一つのヒット商品で様子が一変するのである。

  


 カワサキにとっての最初のヒット商品は、あのZ1/Z2と言っていいのだが、
 国内市場では750㏄の市場はそんなに大きくなかったのだが、
 この400ccの市場は750㏄とは違って、非常に大きかったから、
 カワサキの販売会社の状況が一変してしまったのである。

 
★ ただ抜群によかったのは国内市場だけで、
 アメリカ市場をはじめ海外市場は苦戦の連続だったのだが、
 国内市場の販売のノウハウをと私は単車事業本部の企画部に移籍することになるのだが、
 そんなことが私のその後の経歴にも大いにいい影響を与えてくれるのだが、そのきっかけを作ってくれたのがこのFX400なのである。

 この車がきっかけで、その後のNinjaに繋がり
 さらにはZEPHREに繋がっていくのだが、
 そのベースにあったのはFX400で、これは私にとってもカワサキの二輪事業にとっても多大の好影響を与えてくれた車だと言っていいのである。

 そんなFX400だが、確かに今見てもなかなかカッコいい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カワサキのZ1とNinja の想い出

2024-03-01 06:52:39 | カワサキ単車の昔話

★ 私自身はカワサキで二輪部門の企画や市場関係を担当していて、
 技術関係の車の開発などには殆ど関係しなかったのだが、
 この「Z1とNinja」にはカワサキの歴代のバイクの中で、
 私にとっても特別の想い出があるバイクなのである。

 カワサキがレースを始めた当時は『レース運営委員会』で運営されていて、
 そのメンバーは、山田熙明・苧野豊秋・中村治道・高橋鐵郎・大槻幸雄・藤佶郎・田崎雅元という
 当時の技術・生産・営業のメンバーで構成されていて、
 その事務局と当時のライダー契約などをが担当していたのである。

 当時はまだ各部の部課長や掛長の時代だったのだが、
 このメンバーの中から川崎重工業の社長副社長などが出ているのを見ても事業の中枢メンバーであったと言えるのだろう。


★このレース運営委員会はカワサキが初めてGPレースに参加した1966年まで存続したのだが、この年の秋を最後に解散したのである。
 大槻幸雄さんは技術部の市販車開発部門に、私も営業部門に配属されることになったのだが、
 その時大槻さんは私に『世界一のバイクを創る』と熱く語ったのだが、
 そのバイクがあのZ1に繋がったのだろうと思うのである。

  
 

 このZ1の開発当時は山田熙明さんが技術本部長時代で、
 大槻幸雄さんが課長時代だったと思うが、
 最初は750ccで開発が進められていたのだが、
 ホンダが750ccを市場に出したので、急遽900ccに変更されたのも、『世界一のバイクを』と言う大槻さんの想いの現れだと思っている。
 大槻幸雄さんとはZ1会のゴルフコンペなどで、ごく最近までお付き合いがあったのである。

 カワサキの初代のレース監督大槻幸雄さんで、助監督田崎雅元さんだったのである。


★ Ninja900が世に出たのは1984年だから、
  Z1が世に出てから12年もあとのことなのだが、
  大庭浩単車事業本部長の頃で技術本部長は安藤佶郎さんだったと思う。

  このバイクは「GPZ900R」として開発されたのだが、

  
当時のアメリカ市場から、Ninja』と言うネーミングが提案されたのである。
忍者』のイメージは暗いからと開発部門が猛反対で、
 大庭浩本部長が自ら当時のアメリカKMC社長だった田崎さんに、その意向を伝えるべく渡米されたのである。
 その席には大庭さん・田崎さんと私の3人だけだったのだが、
 大庭さんの伝達に対して田崎さんは猛烈に食い下がって「YES」と言わないのである。

当時はアメリカではNinjaが流行っていて、それは黒装束の忍者のイメージではなく、007のカッコいいイメージ』だというのである。

田崎さんはKMC社長ではあったが、川重では新部長の頃だったのだが、大庭本部長の説得を『よく頑張り通した』と思う。
事業本部長が説得すれば「Yes」と言うのが普通なのである。

そんなこともあって、最初の車はアメリカ市場だけが『Ninja』と言うネーミングで発売されるのだが、
その『Ninja』のネーミングが好評で、いろんなバイクのネーミングに使用され、今年はNinja40周年に当たるのである。

このNinja 900のエンジン担当開発者は若いころの山田浩平さんで、
山田さんとは今でもFacebookで毎日のように繋がっているのだが、
そのエンジン開発のコンセプトはZ1とは全く違ったものだったようである。
 
  

 
いずれにしてもZ1とNinja は『カワサキを代表する名車』であることは間違いない。
 そして、それは旧く『レース運営委員会のメンバー』が
 色濃く関係しているのは不思議だなと思っているのである。

 そして殆ど開発などには関係していなかった私も、
 懐かしい想い出を有しているのである。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カワサキ単車の昔話   28    富士山登頂成功

2023-11-18 01:07:25 | カワサキ単車の昔話

★ この話は一度アップしたこともあるのだが、
 改めてもう一度まとめ治してみることにする。
 このプロジェクトは昭和40年(1965年)7月のことだが
 カワサキの品証部にいた福田泰秀君が当時広告宣伝を担当していた私のところにやって来て、
 「8月の休みに85J1で富士山に登ろうと思うのだが、その費用を持ってくれませんかという話から始まったのである。

 カワサキの二輪事業は昭和36年12月に初めて単車営業課が出来て、
 私はそこに異動したのだが、それ以前に営業課はなかったが、
メーカーとして技術を担当するサービス係が3人いてその一人が福田康秀君だったから、
 彼は本当にカワサキの単車のスタート時代から関わっていたのである。
 そんなこともあって福田君は単車営業に異動した私の下についたので昔馴染みで頼みやすかったのだと思う。

 別に会社の起案ではないし品証の連中のプライベートでの企画なのだが、
 「富士山の山頂での写真」を撮ってきたら費用の面倒をみようということでスタートした話なのである。

 いまの時代ならバイクで富士山に登るなど、許可されないだろうし、
 そんな写真を広告宣伝に使うことなど考えられないと思うのだが、
 その時代はこんな無茶な計画も世間は許してくれる時代だったのである。


★ 結果は大成功で当時のバイク雑誌にも掲載されたし
 広告宣伝課の広報としても「雑誌広告」に使ったりしたのである。
 



 そして「85J1の抜群の登坂力」などと正規の広告に使用したりしたのである。

  


  
 富士山頂でのこんな写真もあるし


 


 当時の品証の懐かしいメンバー達である。




 2台の85J1をレース職場で整備し
 モトクロスタイヤを装着したりしたのだが、
 登頂はなかなか大変だったようで、
 ロープで引っ張り上げることもあったとか。

 戻ってきた85J1のタイヤのヤマは殆どすり減っていたのである。






★ それにしても、よく登ろうと思ったと思うし、
 広告に使っても会社から文句を言われるようなことは全くなかったのである。
 この企画を私も上司には相談などしていない。
 そんな自由な雰囲気があった時代のことなのである。
 昭和40年8月3日のことだから、
 いまから58年も前の話なのである。

 お互い若かったなと思う。
 これは2013年だから10年前のことだが、
 ある催しで『バイクで富士登山』を語る福田康秀くんである。

 


  
 久しく会っていないが、元気にしているのだろうか?

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カワサキ単車の昔話   27   7万台への挑戦 3

2023-11-10 06:00:25 | カワサキ単車の昔話

1990年代の初頭のことなのだが、
 7万台販売というとてつもない目標に挑戦した時期がある。

 出来ると思っていた訳ではないのだが、何とか目標達成が見えてきたので、
 当時の二輪事業本部の部課長を集めての講演会が行われて、
 2時間以上に亘って話しているのだが、その集約をご紹介している。
 今回で3回目だがこれで締めくくりたいと思っている。
 カワサキにとっては国内7万台は夢のような目標だったが、
 何とか達成することが出来たのである。

 7万台というのは、
 二輪車は4万台を6万台
 ジェットスキーは3000台を1万台
 という少々粗っぽい目標なのだが、何とか達成できたのである。
 

 



 こんなべらぼーな目標は、普通の販売促進策では実現できないと思ったので、
 『カワサキの新しいイメージ創造』という大きなテーマに取り組んだのである。 

 簡単にそう言ってはいるが、『イメージ創造』とは一般社会というか
 他人がカワサキに抱く発想なので、なかなか口で言うほど簡単ではないのである。
 最初に取り組んだのは、その時点でのカワサキのイメージ調査報堂に頼んで行ったのがこれである。

 これが当時の二輪4社のイメージなのだが、
 カワサキのイメージというと個性的なデザイン玄人受けはするけれども、
 レースに弱く、宣伝のセンスがなく、常にチャレンジしないし、
 そのイメージ総量が小さくて、極端に言うと一般には知られていない。
 このイメージを変えない限り、7万台などは夢のまた夢だと思って
 7万台というよりも『新しいカワサキのイメージ創造』という目標に取り組んだのである。
 

 


  兎に角、1年間
  ● ケイ・スポーツ・システムというソフト会社を創って
  ● ユーザー組織KAZEに本格的に取り組み
  ● レースにも本格的に取り組んだら
 1年後にはカワサキのイメージはこれくらいには膨らんだのである。
 こんな変化にが自信になって、
 
   
 

  それ以降にさらに積極的に頑張ったのは
  ● 遊び会社ケイ・スポーツ・システム
  ● 具体的にはユーザークラブKAZEの本格化
  ● 一般ユーザーが走れる日本で初めてのサーキットSPA直入
  ● レース運営の積極化
  など販売対策などではなくて、

  総合営業活動として
  兎に角、新しいカワサキのイメージ創造に取り組んだのである。 
  
  
 
 
  
 この期間には、不思議なほど具体的な販売対策や販売促進策は行っていない。
 一番台数増に貢献したのはカワサキらしいバイクではなくて
 何の変哲もないZEPHREだったのである。

  
  


 この車が開発当時からこんなに売れるとは誰も思っていなくて、
 生産台数は極小だったからバックオーダーが出たのだが、
 生産台数を増やさずにそのままにしていたら、3年間バックオーダーが続いたのである。
 これは『私がそうした』のだが、
 過去に400FX3か月以上のバックオーダーになったので、生産を増やしたら、たちどころに消えてしまったのである。
 車が足りなくなると、ユーザーはあちこちの販売店に行くので、バックオーダーというのは過大な台数になるのである。
 そんな400FXの経験から、何もせずに放置したのだが、それがよかったのである。
 何の変哲もないZEPHREは、空前のヒット商品となり『7万台達成』に大いに貢献したのである。


★講演の最後に語ったのは私独特の経営のバランスシートである。
 線から上が一般のバランスシートだが、その経営にあたる人材は多様なソフトが蓄積されるほど高質人材が育つのだと思っている。
 そういう意味で特に販売会社の経営は多様なソフトの充実こそが、貸借対照表の内容の充実に繋がるのだと思っている。
 当時のカワ販グループは売上高400億円だが総資産は100億円、実に回転無借金経営自己資本比率35%というちょっと日本ではないような内容だったのである。
 それが出来たのはソフトであり、従業員の高質化だったと思っている。






★この時期ホントに力を入れたのは、
 カワサキの新しいイメージ創造だったから
 この講演会の講師もこんなメンバーだったし、
 話した内容も以下のようなものだったのである。

 

  


  そんな『ソフト対策』が7万台を実現したと言っていい。
  私の現役時代の総仕上げみたいなものだったが、
  私の生き方のベースは『差別化』でちょっと変わった生き方なのである。
  これは90歳になった今もちょっと変わっていて
  世の中には珍しい『90歳の生き方』になっていると思うのである。

 思わぬ大成功に繋がった『カワサキ単車の昔話』である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カワサキ単車の昔話   26   7万台への挑戦 2

2023-11-07 05:35:17 | カワサキ単車の昔話

1988年10月、3度目の国内担当となった。
目標70000台」の販売達成をめざす、という難しい課題を与えられての担当であった。
私なりのユニークな対策の効果もあって、このムツカシイ目標の達成が見えてきたた91年3月に、
7万台への挑戦』についての話をするように当時の事業本部長高橋鐵郎さんからの指示だった。
そしてその講演を冊子にまとめてくれたのは当時の営業部の販売促進部長の岩崎茂樹くんである。

この冊子の冒頭のご案内で岩崎茂樹は大要このように述べている。
・・・皆様にお汲み取り頂きたいのは、そのユニークな手法ではなく、何故そうしたのか?何を狙っているのか?と言った
 一貫して中を貫いている"哲学”=基本的な考え方であります。
 ハードウエアだけでは最早競争相手との差別化が困難となったこの時代に、
 このソフトウエアを構築の柱としたダイナミックなマーケッテング活動をユーザーの意識の変化に即応して展開していく姿勢をも学んで頂きたいと思います。


  
  

 彼は若い時、私のレース活動を引き継いでくれたレースマネージャーで、2代目の広告宣伝課長なのである。
 そんなことで私自身をよく理解してくれているから言える言葉だと思う。
 

★ 私はこのような講演会でも大綱は纏めるが、原稿などは作ったりはしないのである。
 話は喋り手と聴き手で成り立っている。
 常に聴衆の反応を見ながら話さないと、一方的な講話になってしまうのである。
 そんなことで、高橋鐵郎さんが何を思ってこの講演会を考えられたのか?
 先ず、冒頭に高橋さんの考え方を私から聞いてみたのである。
 即席ではあったが、高橋さんはこのように語られている。


 


本来ですと、直ぐカワ販の講師に喋って貰ったらいいのですが、
ここに並んでいる講師の連中は見かけによらず心臓が弱そうで、
私にキックオフをしてもらわんと、
喋る訳にもいかぬという要請が只今ありましたので、
今日の会合の趣旨について若干私からお話したいと思います。
 いまよい製品を適正な価格で売るということは、必要ではあるけれども、十分条件ではない。
今後の販売は周辺のソフトを固めてグローバルに総合的にモノを顧客に提供していく時代が来た。
我々事業本部の方も今後の販売は総合的な力で最終的な結果が得られるということをよく認識して、
前線で戦っている販売面をよくバックアップしていかなければいけないと思い、
CP事業本部の幹部の方々に集まって頂いた訳です。どうか皆さんご清聴下さい。
 というご挨拶で、この講演会が始まったのである。
  
 
★高橋さんから『7万台への挑戦』の話をするようにと言われて、
 さて、どのように話すべきかと思ったのだが、
 これは私が指揮をとってはいるが、私が一人でやっている訳ではないので、
 部下というか「仲間と一緒に話すべき」だと思って
 喋り手はこんなメンバーにして、こんな構成にしたのである。

 その講師に選んだのは販売促進部などではなくて、
 ●ケイ・スポーツ・システムというソフト会社南常務
 ●レース担当重本部長
 ●広告宣伝小林課長とし、
 打ち合わせなどなしにスタートしたのである。

 打ち合わせなどしなくても、日ごろの業務の中で意思疎通はよくできているから、
 自由に喋らしてもおかしなことにはならないと思ったのと、
 若し、何かあればその場で私が修正すればいいと思ったので、
 先ず私が喋り、そのあと3人が話して
 最後に私が纏めるという方向としたのである。

 目次は綺麗に纏められているが最初にあったのではなく、
 話した内容をあとで岩崎茂樹が纏めてくれたのである。

 


★この講演会のテーマは『7万台への挑戦』なのだが、
 その副題にあるように『新しいカワサキのイメージ戦略』なのである。

 目標が5万台ならともかく『7万台』という途方もない台数は、
 「カワサキの新しいイメージ創造」がキーで、
 それなくして、単なる販売促進策では不可能だと思ったからである。

 1988年10月に国内販売を担当して、
 最初にやったのは『ケイ・スポーツ・システムというソフト会社』を創ることから始めたのである。 
 川崎重工業の中ではじめてのソフト会社は、翌年3月に設立され、
 私が社長を兼務して『7万台への挑戦』の中枢に据えたのである。

 端的に言えば『遊びの会社』なのである。
 二輪車は交通手段でもあるが、カワサキが主とするスポーツ車は
 『遊び道具』なのである。
 販売店などにはできない「本格的な遊び」を末端のユーザーとともに創って、
 『新しいカワサキイメージの創造』が出来ない限り、
7万台の販売達成はない」と思ったのである。

 その新会社の設立に利用したのが、
 当時日本で初めての一般ユーザーが走れるサーキット『SPA直入の管理』という名目で、
 新ソフト会社・ケイ・スポーツ・システムの創立の理由にしたのである。


 

 この時期は丁度SPA直入が建設中だったので、
 
 そんなことにでもしなければ、川崎重工業の役員さん方に『二輪の遊び会』などと言ったら、新会社の設立などは申請が通らないのである。
 この時の川重社長の大庭浩さん単車本部長時代に私が番頭役を務めてたので、
古谷が言うのなら』とあまり中身は解らずに通して頂いたのだと思っている。

 そんなことで出来た『ケイ・スポーツ・システム』だが、
 この会社での最初の仕事は、ユーザークラブKAZEの本格的な導入
だった。


 
 

 当時はホンダはHART ,ヤマハはYESS,スズキはじゃじゃ馬と4社ともあったユーザークラブだが、
 4社の中でKAZEだけが今も存在し、今年35周年を迎えるのである
 その理由は、他社は担当者ぐらいはいたのだろうが
 カワサキは、これを企画管理するソフト会社を創って本格的に対応したからだと思う。
 KAZEとは少々当てつけだが
 Kawasaki Amusing Zone for Everybody の頭文字をとったもので、
 風を切って走る二輪の楽しさを何となく連想させるものになっている。

 これらの話は、今となっては『カワサキ単車の昔話』ではあるのだが、
 この『新しいカワサキのイメージ創造』は私にとっては
 二輪のマーケット分野を担当した集大成 だと言っていい。

 いま思うと、岩崎茂樹がよくこんな冊子にまとめてくれたなと感謝・感謝なのである。
 因みに『SPA直入』は私と岩崎茂樹とで創ったサーキットで
 その『SPA直入』の名付け親は岩崎茂樹なのである。
 その名の由来は、直入町の温泉もあるのだが。
 世界的に有名なベルギーの『スパ・フランコルシャン』から来ているのである。

★こんなコンセプトでの講演会だったのだが、
 当時のCP事業本部の約200名の部課長を前に
 2時間以上に亘って話したのだが、非常に好評だったのである。

 どんな話の内容であったのかは、サワリの部分を次回にご紹介することにする。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カワサキ単車の昔話   26   7万台への挑戦 1

2023-11-03 05:51:15 | カワサキ単車の昔話

1988年10月、3度目の国内担当となった。
目標70000台」の販売達成をめざす、という難しい課題を与えられての担当であった。

 この7万台の販売目標は1983年当時大庭浩本部長が国内のカワサキオートバイ販売社長を兼務されていた時に建てられた目標なのだが、
 あまりにも大きな台数目標であったために、
 当時のカワ販では目標ではあったが、本気でそれに向かおうとはしてなかったぐらい高い目標だったのである。

★今年はカワサキモータースジャパンの創立70周年である。
 これは昭和28年(1953)明発工業が創立されてからの年数で、
 同じ年に戦後中断されていた川崎航空機工業が再スタートし、
 その明石工場は戦前から飛行機のエンジン工場であったことから、
 バイクのエンジンを開発生産し、明発工業に供給していたのである。
 私は昭和32年(1957)の入社だから私が入社する4年前の話なのである。

 ただカワサキが単車工場を造って単車の一貫生産をスタートさせたのは、昭和35年(1960)のことだから、
 スタートとされる昭和28年からは7年もあとの話で、
 カワサキの単車事業の歴史としては、
 この年から数える方が妥当かも知れない。

  
 
 
 私はこの1960年のカワサキの単車事業一貫生産の時期から
 単車営業課に異動したので、カワサキの単車事業スタートの時期からずっと一貫して単車事業とともに歩き、
 国内担当とメーカーの主として企画部門を交互に担当し、
 1988年から1999年までは最後の国内市場担当だったのである。


★この1988年からの国内担当は『7万台の販売目標』を達成すべくいろいろ頑張った私のマーケッテンぐ分野の集大成の時期なのだが、
 このムツカシイ7万台の販売目標は1991年6月1日に年間移動値で達成するのだが、
 その達成直前の3月に当時の二輪事業本部の課長以上を集めて
 『7万台への挑戦』と題して、当時の部下たちとともに行った講演があったのだが、
 それを当時のCP事業本部の営業部販売促進課が1冊の本に纏めてくれたのが、これである。

 この冊子は単に二輪事業本部の中だけに配られたものではなくて、
 当時の大庭浩社長以下役員全員にも広く配布されたものなのである。

 

  
 

 
  当時のCP事業本部は高橋鐵郎本部長時代で、
  高橋さんはカワサキオートバイ販売の社長を兼務されていて
  私が専務として実務を担当していた時代なのである。

    CPとはConsumer Prodct の略で、
  川重の他製品と異なり、末端ユーザーに直接届ける商品の二輪ジェットスキーを扱う事業本部ということで、
  高橋鐵郎本部長の命名だった。

 



 高橋鐵郎さんとは旧く、カワサキが単車事業をスタートした頃は
 製造部におられて私はレースを担当していたのだが、
 そのレース職場は当時は製造部所属で、
 私はライダー契約など担当していたので、そんな旧い時代から
 いろいろと一緒に仕事をしたのだが、
 1951年のカワサキのCKDの市場開発プロジェクト室以降は、
 ずっとコンビのような形で仕事を進めたし、
 1982年の二輪事業の危機的な状況の時には、
 私は企画部を担当するのだが、その時は川重TOPにお願いして
 高橋鐵郎さんをアメリカから戻って頂いたりしたのである。


★ 私のこの最後の国内担当の10年間は、
  私のマーケット分野の集大成のような期間で
  この講演会にはその具体的な内容を語っているので、
  『カワサキ単車の昔話』としてその内容がどんなことであったのか、
  ここで語られた内容を少し詳しくお伝えしてみたい。
  大げさに言えば、それはカワサキの二輪事業のコンセプトと言えなくもないと思っている。
 約2時間、本のページにして60ページと長いのだが、
 どんなことになるのか、『カワサキ単車の昔話』として
 連続してご紹介してみたいと思っている。

   ある意味、私の人生の生き方そのものだと言えなくもない。


★50万人フォロワーのいるツイッターです。

 雑感日記のEnglish Version です。

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。

  

 
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする