雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

人生で一番頑張った時期     6

2019-10-31 07:19:11 | 自分史
★ この時期はちょうどカワサキが二輪事業に乗り出してちょうど10周年の節目の年でもあったので何か特別のキャンペーンでもやろうと起案したのが
全国販売店の『アメリカ視察旅行』なのである。
全国で100店ほどの参加ではあったが、参加条件が厳しかったこともあって、
東京が約半分、残り半分が大阪・名古屋・京都・兵庫など、私が担当するテリトリーが大半だったのである。

当時はまだ海外旅行など一般には全く関係ない時代だったから、二輪業界でも初めての海外研修旅行ではなかったかと思う。
全国カワサキ会協賛でその副会長として視察団の団長のような役を仰せつかったのだが、私にとっても初の海外旅行だったのである。

昭和47年(1972)1月8日から1月15日まで
ロスアンジェルスーサンフランシスコーハワイを巡っての旅程だったのである。



 
そんな旧い話が結構正確に解るのは、65年間欠かさず続いている日記があるので何とかなるのである。
ただ、ちゃんと書こうとすると、日記を読み返すことになるので時間が掛かってなかなか大変なのである。このところ毎日書き上げるのに、半日近く掛かるので、あと一つ、二つで終わりにしようかなと思っている。


このアメリカ旅行は、カワサキがアメリカに進出し、カリフォルニア州サンタアナに拠点を置いた直後のことで、意気盛んなアメリカ市場を見学しようという、
結構真面目な研修旅行だったのである。

 粗っぽい旅程をご紹介すると

1月8日 羽田東急ホテルで結団式・シアトル経由ロス・
    KMCの歓迎レセプション・宿舎はロス・グランドホテル

     

1月9日  ロス近郊のトレールランドでレース見学・デズニーランド見学
1月10日 KMC訪問 浜脇洋二社長などとの懇談会・夜ナイトツアー

 
KMCのメンバーは当時こんなスタイルの時代、浜脇さんは左から3人目。 
一番左は杉沼浩さん、MFJの常務理事なども務めたのでご存知の方もいるかも
   
  


1月11日 市内観光・ヨットハーバー・さよならパーテイ
1月12日 サンフランシスコで市内観光・販売店訪問
1月13日 サンフランシスコで販売店訪問・Golden Bridge
1月14日 ホノルルへ ハワイ観光
1月15日 ハワイ  日本へ帰国      
   
 
参加の販売店たちは、アメリカの二輪事業のデーラー店舗見学など、その先進性を目の当たりにして大いに刺激を受けたことは間違いないのである。
 こんな視察旅行も『カワサキ特約店推進』に大いに寄与したと思うのである。



★この翌年の昭和48年(1973)2には、名車Z2の発売があり、大人気だったのだが、
この年の8月4日には全国各地でカワサキジャンボリーを一斉に開催することなったのである。
当時このジャンボリーは四国などでは既に開催されていて100~200人の規模で行われていたのである。

私自身にとっては全く初めての経験なのだが、近畿・中部地区合同で、その10倍ぐらいの規模で1000人~2000人を集めて開催しようと企画したのである。
何のノウハウもなかったのだが、大丈夫やり切れるという自信みたいなものがあったのは、何事も少人数のほうが『手間がかかる』のが普通なのである。
前年度のアメリカ視察旅行なども、大変な準備が要ったのだが、1000人も集まるとなると、集まった人たちは当然自分で判断して行動するので、準備さえ確りとすればそんなに手間は掛からないものなのである。

 そんなことで、まず大阪・名古屋の中間で1000人以上の人たちがテントを張れる場所から探して、まず候補に挙がったのが、奈良県の『曽根高原』なのである。

  

 秋にはススキで名高いこんなところである。

 


 曽爾高原でやることにして、曽爾村は初めは乗気だったのだが、『1000人も集まる』と聞いて、ビックリして町議会で検討して貰ったのだが、結局断られたのが、開催1ヶ月前の7月2日のことなのである。

 これには流石に参ったのだが、気を取り直して、琵琶湖周辺と言うことで『マキノ町の砂浜』を候補地にして『マキノ町役場』と協働で進めることにしたのである。

 こんな立地なのである。

  

 
初めての経験で大変だったのだが、『大会会長』として運営企画は全て私一人で立てて、その通りの実行としたのである。
ここでも世の中で初めての試みがいっぱいあったのである。

● まずは当時は大広にいた佐々木八太夫さんと組んで、『ビッグサウンド・オン・ステージ』と題して、舞台を造り、有名バンドを呼んでのロックバンド演奏を企画した。この費用だけで260万円も掛ったのだが、兎に角2000人を集めようとバイクの販売そっちのけでセールスも販売店もこの期間はジャンボリーの切符を売ることに専念し、ほぼ2000人が集まる目途が立ったのである。

● ただ、2000人も集まると『マキノ町役場』の人が砂浜にテントを張るスペースが不足するのではと心配されて実測するとこれはなかなか大変なのである。
砂浜だけでなく通常の駐車場にもなどと考えていたら、『神様は援けて下さる』のである。
7月中旬あたりから琵琶湖の水がどんどん減りだして、、8月4日の当日には砂浜が倍増し、隣に流れている川の水も少なくなって魚のつかみ取り大会が出来たりしたのである。

     


● 2000人の食事は『販売店の希望者』に出店を出して貰って対応することにし、若し不足の場合を考慮して、自衛隊から緊急食糧を1000人分ほど準備もしたのだが、これは使わずに済んだのだが、この処分が一番大変で、川重の明石の従業員に頼んで買って貰ったりしたのである。

● このジャンボリーの当日の運営方式も私なりに考えて、40人の従業員を二人一組の20班にして、その責任者を決め、20人に連絡したらすべて解決という方式にしたのである。
場内で使用できる金券を先払いで売って、現場では現金は通用しない仕組みにしたのは、アメリカ視察旅行の時のアナハイムのデズニーランドがやっていた方式で、使わなかった券は帰りに払い戻ししますと言ったのだが、想定通り、終了すると帰りを急いで、殆ど払い戻しは発生しなかったのである。

 ● このジャンボリーの当日の運営を手伝ってくれたのは、
当時兵庫所長だったあの平井稔男さんで、彼が現場を殆ど取り仕切ってくれたのである。 二輪業界ではちょっとした有名人だから、ご存知の方も多いだろう。


   

 
    



★このジャンボリーのナイト・ステージも、殆どの方が初めての体験だったし、
隣では、たまたまだが『花火大会』があって、会場を盛り上げたし、翌日はこれも殆どの人が初めての『ジェットスキーのデモンストレーション走行』をお見せしたのである。
ジェットスキーが日本に入ってきた年で、この直前岡山の海岸で接触事故があり、国会で取り上げられたりしたのだが、『ジェットスキー』はカワサキの商品名なので、適当な名前がなく『エンジン付き海浮遊物』と言われたというウソみたいなホントの話なのである。

こんな話を鮮明に覚えているのは、私が自ら『旗を振った』からで、『マキノ町』にも大人気であったこの催しは、『マキノ町』で何年か続いたのだが、2年目以降は私は単なるお客さんで後輩諸君がやってくれたのである。


★『人生で一番頑張った時期』ということで、このブログ続けているのだが、自分でもホントにこの時期頑張ったなと思っている。

日記を読み返してみても、この時期は、東京・名古屋・大阪を担当していた時期でめちゃくちゃ忙しく、『ジャンボリー』に係きりなどは到底無理な時期だったのだが、移動の新幹線の中で考え、それを指示するぐらいなことでやり切っていたのである。

 成功の積み重ねが『すべてが上手く回る』基礎になるのだと思うが、当時の仲間たち従業員も、販売店も、成功の事例が重なって、何をやるにしても『信じて貰えた』のだと思う。
 当時から『信じる者』と書いて『儲かる』に通じるのだから、信じなさいと、何か宗教家のようなことを言っていたのだが、『人を信じる』ことは成功の基礎だと、私はホントにそう思っていて、『バカみたいな性善説者』なのである。

 この時期にあった『大きなイベント』二つのお話である。
 参加された方は、間違いなくちゃんと覚えておられると思うのだが・・・・


 
 
 
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人生で一番頑張った時期   5

2019-10-30 06:56:45 | 自分史
★この時期の『カワサキ特約店制度』実現のために、私自身が先頭に立ってその旗を振り続けたのは事実なのだが、こんな構造的な改革の実現は、それを支え推進する強力な仲間が要るのである。

逆に言うと『そんな仲間たち』がいっぱいいたことがスムースな実現に繋がったのだと思っている。

昭和46年2月、大阪にカワサキ共栄会を創ってこの流通機構対策はそのスタートを切るのだが、この1年はその基本コンセプトの検討に当たった年で、こんなメンバーでの熱心な検討が続いたのである。

大阪では北地区を古石喜代司、中地区が宮本進、南地区を竹内優さんが主務担当をしていて、この3人を中心に、
京都営業所からは藤田孝明所長の他、久後淳一郎、柏原久、関初太郎さん、
名古屋母店からは鍋島英雄母店長と当時岡崎地区担当の南昌吾さんなどである。

これらのメンバーでの検討会は、今思ってもなかなかのものだったし、まさに多士済々の個性的なメンバーで、このメンバーたちがその後のカワサキ国内市場で長く中心となって活躍したのである。


★法律的なことなど私が不得手な分野を支えてくれたのが、名古屋の鍋島英雄母店長『特約店制度』の契約内容等その骨格は全て彼の作なのである。
川崎航空機入社のエリートでその後弁護士を目指して、会社を辞めたりもするのだが、ずっと後は南昌吾さんの実家の事業経営に参画したりしたので、カワサキを去ってからもいろいろとお付き合いがあったのである。

この時期が昭和46年なのだが、このメンバーのうち、古石・竹内・関・柏原・南の5名はカワサキオートバイ販売定期採用2期生で昭和42年度入社の未だ入社5年目の若手だったし、久後くんはさらに若かったのである。

宮本進くんは京都の旧い代理店出身の二輪に関しての経験が長く、サラリーマン育ちとはちょっと違った独特の個性で、大阪で対応が一番ムツカシかった船場モータースを担当してくれて、岡田博さんを動かして、共栄会会長・大阪特約店会長までに引っ張ってくれたのである。
後、滋賀カワサキを立ち上げて長く、カワサキを扱われたし、竹内優くんと二人はカワサキOB会の慶睦会にも出席されるので、現役諸君もご存じの方が多いと思う。

 慶睦会での髙橋鐵郎さんと宮本進・竹内優さんである。

 


翌年の昭和47年度からは、兵庫営業所が仲間に入って、所長の平井稔男さんや谷沢高明、吉田純一さんなど個性豊かなメンバーが加わることになるのである。
 
 
★ こんなメンバーの中でもなかなかの実力者が南昌吾さんで、この時期に既に岡崎出張所の所長をしていて、大阪・京都と共に一番最初に『特約店制』を実施した地区の一つなのである。 メンバーには後、東京で特約店を開業した五島さんがいた。
 この岡崎地区の中には、『ヤマハオートセンター』がスタートの時期から特約店に参加したのである。
 現在のレッドバロンで、ヤマハから独立開業した杉浦斎さんがオーナーだが、今は日本全国に展開しているが、当時はこの岡崎の本店一店だけの時代なのである。
私が最初に杉浦斎さんにお会いしたのは、特約店制度をスタートした直ぐ後で、
大阪の船場モータースの大学を卒業したばかりの息子さんのところに、ヤマハオートセンターからバイク販売のダイレクトメールがたまたま届いて、船場の岡田博さんが『テリトリー違反だから、文句を言ってくれ』と仰るので、岡崎まで出かけたのである。

 杉浦さんに会って、そのことを言うと痛烈に反論されたのである。

『私はヤマハを辞めて、こんな岡崎の田舎で店を立ち上げて、今から二輪販売店をしようとしている。
大都会と違ってこの地区だけでは大して売れないので、今年大学を卒業した人たちにダイレクトメールを打ったのである。どこに問題があるのか。
私はルール通りに認証工場の資格も取り、店の横に安全運転コースも造って一生懸命やっている。
カワサキ特約店というがそのうち何店が認証工場資格を持っているのか? 持っていなければ修理をするのは違反なのだ。 
大阪の船場さんなど大都会の中でやってるから販売も簡単なのだが、田舎で頑張ろうと思えば大変なのである』
とコテンパチンに言われてしまって、確かに仰る通りなので、納得して戻ってきたのである。

それが杉浦さんとの初対面なのだが、めちゃうるさ型だが、私とは何となく気があって、その時も流石に言い過ぎたと思われたのか、すぐにお酒が家に届いたりしたのである。
 
その後も何度もお会いして杉浦さんとはいろいろ激論を交わしたことも多いのだが、家には杉浦さんからの頂き物がいっぱいある。

 この絵も

   

 この花も、
 杉浦さんから贈られたもので、それを見ると杉浦さんを想いだすのである。
  
  


当時、こんな岡崎出張所の所長だった南昌吾さんには、その後もいろいろ関係があって、東京営業所や販社の電算化問題などムツカシイことをいろいろ頼んだが、何をやっても上手く処理してくれてお世話になったのである。

 その極めつけは、1990年代に国内でケイ・スポーツ・システムという『ソフト会社』を立ち上げるのだが、川崎グループでも初めてと言っていい会社の運営をそのヒントだけを言うとすべて上手く処理してくれたのである。
カワサキで初めてのサーキット運営SPA直入、ユーザークラブKAZEの具体的運営、当時のカワサキのレース運営、月木グループとの連携、岩城滉一とのお付き合い、さらにはカワサキの二輪自動車学校などなど、
1990年代の国内の『カワサキのイメージの創造』は、すべてKSSが母体だったのである。

このKSSで南常務を支えて頑張ってくれたのが渡部達也さんなのである。

  
    



★こんなメンバーの中でも、
私の現役期間中にずっと一緒だったと言えるのが藤田孝明さんである。
 久しぶりに吉田純一さんの授賞記念パーティーでお会いした。

 昭和32年川崎航空機の同じ年の入社で、入社後何年かは野球部で一緒で、三遊間や1・2番コンビだったのである。

 昭和46年に京都営業所長に赴任して、京都・滋賀を担当してくれた。
この京都営業所の当時のメンバーも久後・柏原・関の他にサービスには今はレースなどで有名な山科カワサキの吉川健一(ヨシケン)などもいて優秀だったこともあるが、何よりも藤田孝明さんの独特の対応が、当時の特約店にも絶大な評価を受けたのである。

彼は無口で、そんなに喋ったりはしないのだが、何故か末端からは信頼されるのである。
 京都の特約店については私は全て彼に任していたのだが、特約店制1年後に特約店10店から世話になったと私と藤田くんと二人を京都祇園の料亭に招待して貰ったのだが、京都の祇園の料亭などその時1回だけの経験なのである。
 
京都の特約店制はまさに徹底していて、京都府で京都市内に9店、宇治に宇治カワサキ1店の10店だけというドラスチックなものだったが、京都営業所の経営内容はまさに抜群で、私はカワサキの中で『当時の京都営業所の経営内容』が間違いなく群を抜いていたと今でも思っているのである。

 その後藤田くんには、名古屋や東京営業所の担当の後、西日本販売の常務などを歴任したのだが、

カワサキがアメリカ以外のヨーロッパと日本で、ジェットスキーの販売を始める時、私は躊躇なく『藤田孝』くんを指名し、彼はホントに一人の段階から、全国で初めてジェットスキー特約店を開設した『福井昇』くんなどと日本でのジェットスキー販売網を創り上げ、カワサキジェットスキー販売という立派な会社を創り上げたのである。

このカワサキジェットスキー販売では1年に7000台も販売したことがって、この時の利益総額は10億円に近く、びっくりしたものである。


★私の現役時代、密接に関係のあった人たちのうち、この『特約店制度』時代に出会った人たちと、その後もいろいろと関係があって支えて貰ったのだが、
若い頃にこんな『特約店制度』という素晴らしい体験をしたことが、それぞれの成長に繋がり、その成功が『独特の自信』になっているのだと思うのである。

 この時代、私も『人生で一番頑張った時期』だったかも知れぬが、
その周囲にいたひとたち」にとっても『人生で一番頑張った時期』だったかも知れないのである。




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人生で一番頑張った時期    4

2019-10-29 06:47:53 | 自分史

★『人生で一番頑張った時期』 それは昭和45年から昭和50年(1975)までの期間で、年齢で言うと37歳から42歳までの、カワサキオートバイ販売に10年間出向していた後半の時期だと思っている。

カワサキの国内市場が『実用車のカワサキ』から『中・大型スポーツのカワサキ』に脱皮する時期で、その販売網を自転車屋中心から『二輪専門店』にしようとする、カワサキ独自の『カワサキ特約店制』へと構造的な転換をしようとした時期なのである。

 大阪の『カワサキ共栄会』設立を皮切りに、独特の『特約店制度』とし、その内容は厳しく販売店に接したのだが、選んだ店とは文字通り『共に栄えよう』という基本コンセプトだったのである。

 
その契約内容は、担保設定か保証金積み立てをMUST条件とした非常に厳しいものだったが、大阪では500店近くもあった販売店を25店に纏めてそれ以外には一切販売しないという、カワサキとしてもリスクが大きかっただけに、その実施に当たっては地域を絞って大阪・京都からスタートし、徐々にその範囲を広めていったのである。

そんな画期的な内容だったので、実行するに当たっては、その内容を熟知している人が旗を振る必要があったので、この全国展開があった期間の数年間は、すべて『私が旗を振る』ことになったのである。

      
      

 


★ 一般に、サラリーマンの異動などは、ある一定の期間が経つと行われるのが通常だが、この5年間の『私自身の職務の異動』は目まぐるしく、それはカワサキの特約店制の推進状況と共に変わっていったもので、『こんな経験』をされたサラリーマンは、おられないのではと思うのである。
それは一貫して『カワサキの流通網対策』そのものだったのである。

 粗っぽくその概略を纏めると

● 大阪母店長に異動したのが、昭和45(1970)年11
 この時点で担当地域は大阪・京都・滋賀・奈良・和歌山の5県だった。 

● 翌年の昭和46年(1971)2月には大阪共栄会を設立し、それを母体にして『特約店制度』を検討推進したのだが、 その基盤を創るのに約1年。

● 昭和47年(1972)一番目まぐるしく動いた年で、
1月には、担当分野に兵庫県が加わり、
4月には名古屋地区を含めての中日本営業部長となり、『特約店制度』をスタートすることになるのである。
10月からは東京地区を加えて担当する『直営部長』となっている。

この年の異動はまさに『3ヶ月単位』の目まぐるしいものであった。
逆に言うとそれだけの特約店制推進実現があったということなのである。

 
この時期は川崎重工業で言えば『課長職』なのだが、当時のカワサキオートバイ販売会社は『地域販売会社制』が主流だったのだが、『特約店制度実行』の地域は『直営部』と称して、私の担当となっていったのである。
東京・名古屋中部地区・大阪近畿地域と『大都会地域』を担当して、売上金額では、全国販売高の半分以上を担当することになってその責任も重大だったのである。

人生で一番頑張った時期』というのもお解り頂けると思うのである。




 


     




★そんな大変な時期に、昭和48年(1973)3月に、あのZ2の発売があり、二輪業界の中でただ一人カワサキだけが進めてきた 『二輪専門店制度=特約店制度』に 『大きな追い風』が吹くのである。
 当時のZ2の人気はすさまじく、二輪販売で初めて『バックオーダー』なるものを経験し、販売努力は殆ど必要なかった状態で、『特約店制度の推進』に集中することが出来たのである。

こんなZ2の販売もあって、10月には大都会の特約店制の目途がほぼついたので、
直営部は解散』して、東京・名古屋・大阪の3地区は3人の部長さんの担当となり、私自身はカワサキオートバイ販売の本社管理部長として明石に戻り、それ以降は『全国の特約店制度推進の旗』を振ることになるのである。

全国展開をするにしても、この制度の理解が第一だし、従来の過程を熟知しているメンバーが必要で、この時手伝ってくれたのが、大阪地区の特約店制を実際に推進したメンバーの一人古石喜代司くんなのである。

これ以降の全国展開では『特約店制度を実施する』と『手を挙げた地域』から希望点を集めた『特約店説明会』を開催し、希望店にも、営業所長以下担当者にも『特約店制度がどのようなものか』を懇切丁寧に説明して、順次特約制度を実施していくのだが、その地域の『特約店説明会』には、大阪の特約店会会長の船場モータースの岡田博社長が現地まで一緒に出向いて頂いて手伝って頂いたのである。
実際の『特約店社長』の説明だったので、それは非常に説得力があったのである。

兎に角、今まで世に存在しない制度を実施するというのはホントに大変なことなのである。

★そんな大変な時代だったのだが、世の中の流れは『成功例』に目敏くて、各地の特約店の成功の情報は、二輪業界の中を飛び歩いて、他メーカーのセールスの間でも大きな話題になり、3年目あたりからは、希望地域も希望店も続出してスムースに全国展開となったのである。
人間の心理は『世の中の流れ』に取り残されるのは非常に不安なのだということがよく解った。

昭和50(1975)年9月までの2年間で全国の特約店網がほぼ完成することになり、
私自身は10年間の国内出向を終わって、川崎重工業発動機事業本部企画室課長として復帰することになるのだが


1975年にアメリカのKMCでスタートした、こんなコンセプトをヨコで見ていて、
これはイイな』と個人的には思っていたのである。

 Kawasaki . Let the Good Times roll !

 『カワサキに出会う人たちが、ユーザーも販売店も、道でカワサキに出会う人たちにとっても、ハッピーになるような活動をカワサキは展開し続けます

当時、私が先頭に立って推進した『カワサキ特約店制度』で私が秘かに思っていたコンセプトにぴったりだなと思ったのである。
これはアメリカ人の発想で英語で言われていて、正規の日本語訳はないのだが、
Kawasaki に出会う人たちをハッピーに』 は非常にいいと思ったのである。

   



★誤解のないように申し上げておくと、
この『カワサキ特約店制度』は、昨今流行のメーカーの専売店制度とは、『基本的コンセプトが全く異なる』のである。

昨今の制度は、各メーカーの商品だけしか販売できない『専売店制度』なのだが、
当時の『カワサキ特約店制度』は『二輪車を専門的に扱う』のだが、何銘柄扱うかは、全く制限をしていなくて、販売店の意志で自由なのである。
私見だが、現在のような『単一メーカー専売店制度』がユーザーにとっても、販売店にとっても最善とは思えないし、極単に言えば『メーカーのエゴ』みたいなところがあるように思えてならない。


★ただ、この『Good Times Concept 』は1970年代に数年アメリカで使用されただけで消えてしまったのだが、私の気持ちの中には、『二輪事業はこうあるべきだ』とずっと思い続けていて、1990年代に、3回目の販社出向で国内市場を担当した時に、20年ぶりに国内でこれを復活したのである。
それを当時の髙橋鐵郎本部長が全世界に展開し、後田崎雅元さんが川重社長になられた時に、川崎重工業の基本コンセプトになったりしたのである。

そんな想いもあって、定年後には、『NPO 法人The  Good  Times 』を設立し、このNPO法人に出会う人がハッピーになるような活動を、さらに言えば、『私に出会う人がハッピーになる』そんな生き方をしたいと思っているのである。

そんな私自身の人生に対する生き方の基本コンセプトに出会ったのが、
この『人生で一番頑張った時期』だったとも言えるのである。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 







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孫・門野哲也 大学リーグ戦デビュー

2019-10-28 11:33:18 | スポーツ

★私には男の子ばかり4人の孫がいる。
孫・門野哲也が一番末っ子なのだが、この9月にアメリカのサンデイエゴ大学にサッカー推薦で入学したのだが、10月に始まった大学サッカーのリーグ戦にキーパーながら先発出場デビューしたようである。

 最近、DNAについていろいろ思うのだが、4人の孫たちを見ていると、自分の親たちは勿論、私や家内などに似てるところも勿論あるのだが、もっと以前のいろんな方たちの、いろいろなものを受け継いでいるように思えてオモシロい。

 門野哲也はサッカーのキーパーをしているのだが、背が185cmもあるのは、誰に似たのだろう? 周囲にそんな大きな人はいないのだが、これは小さなころからアメリカで育ったいい環境とその食事の影響かなと思ったりしている。

 少々『怖がり』で、『自信過剰』なところなのは、私に似ているところもあるのだが、その程度は、比較にならないくらいのレベルなのである。

 『怖がり』は高いところは苦手なのだが、小さい頃は公園の急な階段も怖くて降りられなかったのである。 私自身も結構何事でも『自信』を持って臨むほうだが、哲也の場合は、常に『自分が一番』だと思っている節がある。

 私も、息子もスポーツはやっていて『そこそこのレベル』ではあったのだが、『プロ選手』などはとても、発想の外だったのに、娘のほうの孫二人は『プロサッカー選手』を目指すと言って、次男は今春その夢を果たしたのだが、末弟のほうは、『プロ選手』になるのは当然のような口振りなのである。

 ひょっとしたら私の『ひい爺さん』は明石松平藩の剣道指南番だったというし母方の伯父楠見幸信は、昭和の初期日米対抗野球でベーブルースが日本に来たころはまだプロ野球はなかったのだと思うが、慶応の同僚宮武・山下・などと共に日本代表に選ばれていたようだから、そんなDNAを受け継いでいるのかも知れない。
因みに、楠見幸信は国鉄スワローズがスタートした時の初代総監督なのである。

 
確かに、相当のレベルであることは間違いないのだが、中学3年生の頃にヴィッセル神戸の練習に参加させてもらった時も、確かに高校生のキーパーと遜色なかったし、むしろ上かなと思ったが、堂々としていたのである。


   

 
こどもの頃から、サッカーの超有名選手たちと何度も一緒に写真を撮った『いい環』に育ったことが自信になっているのかも?

 これは小学生の頃、あのベッカムと一緒に。
 このころから、ひと際大きい。

 


 
これは中学生の頃だと思うが、アメリカ代表監督のクリンスマンさんと。
 この時も背だけは負けていないし、
 クリンスマンさんの息子さんが、Strikers FCにいたこともあって、しょっちゅうご一緒だったのである。


  

 
これは高校生の頃だが、
本田よりはちょっと背は高いかも知れない。
 
  



これは、このサッカー場のこけら落としのゲームに出場して、アメリカのサッカー界の有名人と一緒の写真のようだが、本田佳祐はこの日に来ていて、一緒に写真を撮ったようである。

  

 


★そんな 門野哲也だが、この秋サンデイゴ大学に入学した。

サンデイゴ大学は昨シーズンは成績不振だったようだが、今年はそんな環境から脱皮すべく、有望新人をこんなに獲得したようである。
 こんなアメリカ人の中でも一番背は高い。

 


10月にリーグ戦が始まって、キーパーというポジションは1人だけだから、なかなか出場の機会はないのではと思っていたが、1回生ながら先発出場しているようである。



   


   

 
娘がこんな実況放送のテレビをLineで送ってきたので、そこからピックアップした動画とその動画からの写真である。


サッカーの動画も面白いが、『キーパ』を見るのはなかなか大変である。
失敗は即『失点』で、『得点』には絡めない。
 



★これは三木に遊びにきたとき、息子はわざわざ鎌倉からやってきた。

 このころは、今の体型が考えられないようなデブなのだが、
 兄貴の門野真也と共に、 そのお師匠さんは 息子だったのである。

この二人がサッカーのプロになるなどとは、流石に息子も思っていなかったと思うが、どうやら二人のサッカー・プロが生まれそうである。

  


 
兄貴は今はフォワードだが、哲也はずっとこどもの頃からキーパー希望で、
小学生の頃から、かってのメキシコ代表キーパーの個人指導を一貫して受け続けているので、 その『自信のほど』も解らぬではない。
 この方の指導を何度も観たが、あれくらいやると上手くなるのも納得である。
 



 
次男の門野哲也は、今年の春『プロの夢』実現したのだが、
4年後、『門野哲也のプロ入り』を果たして私は観ることが出来るだろうか?

何とかそれが『観られる』ように私も頑張って生きていきたいと思っている。

 
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人生で一番頑張った時期   3

2019-10-28 06:29:19 | 自分史

★ 『人生で一番頑張った時期』 として私の40歳前後の数年間をアップしているが、それは50年近くも前のことなのに、
当時の仲間たちとは不思議なほど今でも関係があったりする。


 

 

今年の春にあった吉田純一さんの叙勲パーテイーでの写真だが、
かってのカワサキの仲間たちもいっぱい集まったのである。

一緒に写ってる平井稔男さんはかっての神戸営業所長で純ちゃんの上司なのである。


 


 当時のいろんな仲間が集まった。
左から平井さん、柏原久さんは吉田純ちゃんのカワサキ同期生、渡部達也さんはカワサキ定期採用一期生で1年先輩、当時の京都営業所長の藤田孝明さん、彼は私と川崎航空機の同じ年の入社で、野球部で三遊間コンビだった。

前に座ってるのが二輪車新聞の衛藤誠さんで、もう60年以上のお付き合いである。


  



 これは村島政彦さんだが、Facebookでは繋がっているのだがお会いするのはホントに何十年ぶりである。弟さんの村島邦彦さんとはNPO The Good Times 関係でもお世話になっていて、何度もお会いしているのだが・・・



         



こんな懐かしい方にもお会いした。
この『人生で一番頑張った時期』を書くきっかけになった『和歌山の阿部ちゃん』である。


    


 これがいまのお店だが、かってのカワサキの和歌山営業所の後である。
 この和歌営業所も、当時阿部ちゃんと一緒に創った想い出の営業所なのである。

 

 

 

お店の写真と言えば、これはかっての大阪母店の南営業所で、
当時大阪では、南にも北にも、東にも営業所を出して、そこである程度の基盤を作ってから、それを順次『のれん分け』していったのである。


このかっての南営業所をお店にしたのが、吉田純一さんの『オールカワサキ』なのである。
  




こちらは『八尾カワサキ』  
こちらがかっての大阪東営業所、
吉田さんの少し後に、同じく独立開業されてスタートしたのである。


  



一番『のれん分け店』が多かったのは兵庫県だが、
灘カワサキ』『西宮カワサキ』『明石カワサキ』『加古川カワサキ』『姫路カワサキ』など みんな従業員ののれん分けなのである。

当時の販売店は殆どが自転車屋さんだったので、
特に兵庫県は『オートバイ専門店』をするような候補店が少なかったので、カワサキの従業員たちが、順次独立開業しての販売網となったのである。

かってのカワサキファクトリライダーだった、山本隆さんも、ちょうどこの時期に引退して『山本レーシングサービス』を立ち上げている。  

そんな山本さんやMFJのモトクロス委員長・田中隆造さんらとの写真だが、白いジャンパーを着ているのが、名古屋の斎藤昇さんである。

 
   


今はこんな立派なお店をお持ちだし、『ツイン・サーキット』のオーナーでもあるのだが、
斎藤さんとは当時の特約店契約時に懐かしい想い出がある。

 


斎藤さんは、かってはスズキのご出身で、
当時『春日井スズキ』という、小さなお店で開業したところだったのである。
カワサキの特約店』を希望されたのだが、ちょど向かい側に『大きなお店』があって、その方が『春日井スズキなどと契約するなら、うちは契約しない』と言われるので、斎藤さんには『ちょっと待っていて』と言って待っていただいたのである。

 『カワサキ特約店』の条件の中で一番重視したのは、店の大きさなどではなくて『店主の人柄・心意気』みたいなものだったので、斎藤さんには半年ほど待っていただいての『特約店契約』となったのである。
ちょうどその頃、Z2が出て順調に成長されて行かれたので、いい運をお持ちなのだと思う。

堺の伊藤彰さんと何故か気が合って、親しくお付き合いをされているのだが、お二人からは、今でも突然電話が掛かってきたりする。
斎藤さんからも、昨年暮れ突然長い電話を頂いたのである。


★人の出会いは、さまざまだが、そんな出会いを大事にしたいと思っている。
 私自身は40年程カワサキの二輪事業に従事したのだが、国内のカワサキオートバイ販売、今のKMJには、3回出向をして半分の20年を過ごしていることもあって、
 川崎重工業の単車事業部には、流通段階でのノウハウが必要な時期に『逆出向』をしていたような感じもあって、親しい仲間たちも勿論川崎重工業の中にもいるのだが、その数で言うと、末端の二輪業界の方々や、レース界などのほうが圧倒的に多い、ちょっと普通のサラリーマンとは違った生き方になっている。

Facebook では、このブログに今まで名前の出た方の他に、関初太郎・村島邦彦・西郷善治さんなど、この『人生で一番頑張った時期』にご一緒した仲間たちと、毎朝出会っているのである。

定年後に出会った方も結構多くて、自分でもオモシロい人生だなと思ったりする。 
  
 
 『人の世の幸不幸は 人と人とが逢うことからはじまる よき出逢いを』

 とあるが、ホントに出逢いは大事にしたいなと思っている。


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人生で一番頑張った時期    2

2019-10-27 06:15:46 | 自分史
★ 大阪営業所にに異動したのが昭和45年(1970)11月のことだから、今からもう50年近くも前のことなのである。

第一線の営業など全く初めての経験だったが、私流に考えて、私流に行動した5年間で、一生懸命にやったことだけは間違いない。
この時期に一緒に頑張った人たちは、50年経った今も親しくお付き合いがあるから不思議である。

 当時のバイクの販売店は今とは比べることは出来ないほど、弱小店が多くその中心は自転車販売店だったのだが、
カワサキは『中大型のスポーツ車』を扱う方針となったのだから、『バイクの専門店の販売網を創ろう』と思ったのである。これは当たり前のことだが、当時では大変なことで、バイクの専門店など、殆ど存在していなかった時代なのである。

 大阪営業所の取引店数も500店に近くその殆どは部品の取引だというそんな時代に大阪の中で30店弱の候補店に絞り、『カワサキ共栄会』なるものを立ち上げたのが、赴任後3ヶ月の昭和46年2月のことである。


  

 
 当時の二輪車新聞の2月4日号のトップ記事に『2年以内に実績倍増』と発表し『販売網再編構想決まる』と大きく報道されたのである。


 この記事を書かれたのが、二輪車新聞の衛藤誠さんで、今でも現役記者さんなのだが、当時の『カワサキのこと』について、ごく最近ネットでこんな記事を書かれているのである。

  
  


  

 
 ここに書かれている通りなのだが、大阪のことを『詳しく書きすぎる』と、当時の苧野専務から怒られたりはしたのだが、そんなことは物ともせず突き進んだのである。
そんなことが出来たのも、当時の田中誠社長から『大阪のことは任すから自由にやれ』とのお墨付きを頂いていたからである。

新聞に堂々と発表する』から販売店も『これは本気だ』と信じてくれるのである。

  
★この『カワサキ共栄会』の会長には船場モータースの岡田博さんが、そのメンバーの中には、今でもお付き合いのある堺の『株・忍者』の伊藤彰さんなどもいた。
後、レースで有名になった徳野兄弟の実家・浜寺モータースなどもいたのである。

当時の伊藤モータースは今と同じ場所なのだが、こんなお店だったのである。


  


今は、雑誌にこんな風に紹介されるほど立派に成長されているのだが、
50年前だから当然若かったし、今以上に威勢がよかった 伊藤彰さんだった。

   


 
★そんなカワサキの流通網創生期にホントに親身になって手伝って頂いたのが船場モータースの岡田博さんで、共栄会の会長からその後『カワサキ特約店制』へと発展していくのだが、その過程でもお世話になったし、全国展開のための『特約店説明』には、広島や千葉などにも一緒に行って頂いて、自らその制度について説明して頂いたりしたのである。


 今は当時の店からは場所も移って、『SEMBA』と屋号も変わっているのだが、今年ご縁があって、お店にお伺いしご長男の岡田学さんとお会いして昔話を楽しんだりしたのである。


    

 
岡田学さんご兄弟がまだ学生さんおの頃であり、まだアメリカ留学前のことなのである。


★この当時、自分でも不思議なほど、頑張っていて、赴任当時は全然元気のなかった従業員たちも、半年も経つと自ら行動するようになったのである。
共栄会から一歩進めて、カワサキでも、業界でも初めての『カワサキ特約店制度』へと進んで行くのだが、その間私が一番力を入れていたのは、販売店への自らの訪問なのである。

 これは、東北4年間の間、ずっと日本一の販売実績を上げていた岩手カワサキの久保克夫社長から学んだことで、何事も『人間関係の信頼』が第一だということなのである。
 私が最初に入社した川崎航空機工業の社是が『正直・誠実・勤勉』その執務態度は『信頼・互譲・協力』でもあったことからも、常にこのように行動したのである。
 これは、今でもちゃんと続いている。

いろんな事柄は、第一線の現場を自ら見て感じるものがないと、部下の報告ばかりではダメなのである。 そういう意味では私の販売店訪問はずっと続いたし、そこで販売店との『雑談』が一番肝要なのである。
雑談の中』にこそ、人の本音は現れるのだと思っている。

 いろいろあったが、何とかなりそうになってきた半年間だったのである。


 

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三木防災公園で、今日出会った方

2019-10-26 12:13:01 | みっきぃふるさとふれあい公園
★ 雨も上がったので三木総合防災公園に走りに行った。

何か、大きな催し物があるようで、いつもとはちょっと様子が違うのだが、いつもの通り
サッカー場の周りを一周して戻ってくると、芝生広場にはいっぱいテントが並んで、いろいろとやっている。

  


 歩いていたら、『稲田三郎』さんにお会いした。
しばらくぶりである。 ちょうど開会式があったところでそれに出席されていたようである。
今回、三木商工会議所の会頭になられるとか。
久しぶりだったので、5分ほど立ち話をしてお別れした。





 兵庫県が主催する 『北播磨 農と食 の祭典』という催し物なのである。

 駐車場のほうに歩いていたら、『三木金物』の旗があったので、2枚ほどシャッターを切ったのがこの写真である。




 
 これが2枚目、カメラを持っている私に向かって、こんな笑顔、



 『ご無沙汰しています』と声を掛けられて、一瞬、どなたかと思った。
 
三木市長の仲田一彦さんである。  
市長選挙の時に一度お会いしただけだが、ちゃんと覚えておられるのは流石である。

お元気そうですね。 お孫さんはアメリカでご活躍とか?』 と言って頂いた。
今年の春に、孫・門野真也のこと神戸新聞に載ったので、ご存じなのだろう。

稲田さんからも『古谷さんも、お孫さんも元気だ』と言って頂いて、稲田さんは多分私のこのブログずっとお読みだから、ご存じなのだと思う。

 お二人とも社会のエライさんなのだが、普通の方と同じように喋ることが出来るのは、『私の特技』みたいなものである。

 86歳になってるが、20代や30代の若い人たちとも結構上手く喋れる。
 因みに、稲田さんは私より20歳お若いし、三木市長の仲田さんは、ちょっと調べてみたら、まだ46歳、私より40歳もお若いのである。


★ この催し、防災公園では今日・明日もあるようなので、
 ご関心のある方は、一度ご覧になってみてください。

 入場料・駐車料も無料です。
 


 
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人生で一番頑張った時期    1

2019-10-26 07:04:41 | 自分史
★ 86年生きてきて、その人生を振り返ってみると、常に一生懸命頑張って生きてきたと思うのだが、
一番頑張った時期は?』と聞かれたら40歳前後の5年間』と答えるかも知れない。

昭和32年(1957)に川崎航空機に入社し、単車事業という全く新しい事業に関わったこともあって、私の現役時代の基盤はこの川崎航空機時代に身についたものだと言っていい。

入社後12年が経過した昭和44年(1969)に、川崎航空機・川崎車両・川崎重工業の三社合併があって『川崎重工業』となるのだが、それはカワサキの二輪事業にとって、特に国内市場は大変な時期だったのである。

   



★カワサキの二輪事業は当初は国内市場だけでスタートし、50ccモペットも含めた『実用車のカワサキ』だったし、その主力市場は、東北・九州などの地方が主力で大都会では全く売れていなかった。

1960年代後半から『アメリカ市場』に進出し、250A1・マッハⅢなどのスポーツ車を開発し、アメリカ市場が活気が出始めたそんな時代であった。
逆に、国内市場は、50ccが主力で、ホンダカブ・ヤマハメイトなどのモペットに押されて、カワサキはなかなか大変だったのである。

 私自身は、当時最大の市場であった東北6県を担当していたのだが、当時はまだ自前の地方代理店が存在していて、東北6県にも13ほどの代理店があって、そこからサブ店に委託販売をしていたのである。

3社合併』の条件の中に、採算性の悪い50ccの生産は止めて、川崎重工業の二輪事業は『中・大型スポーツ車のカワサキ』を目指すという基本方針の大転換があって、国内市場は根本的な構造改革が求められていたのである。
従来の販売構造の大転換だし、『50ccの生産が無くなる』のであるから、その対策は急を要したのである。


★それは昭和44年4月のことで、私は仙台事務所の所長ではあったが、所長と言っても未だ36歳の若造で、川重の職位で言うと『係長』の時代なのである。

この政策の大転換は、代理店も大変であったが、国内市場を担当していた『カワサキオートバイ販』にとっても根本的な構造改革を求められるもので、一番代理店が多く、一番数を売っていた東北6県の対策が一番ムツカシク、この『東北6県対策』は、当時の田中誠社長自らが陣頭に立って旗を振られたのである。

 そんなことで、昭和44・45年は田中社長が自ら東北に来られて、直接私にその対策指示があったのである。 かっての川崎航空機の取締役であった田中社長と未だ係長の私が直接の対策検討をすることなど、普通の時期ではとても考えられないことだったのだが、そんなことは言っておれない状況だったのである。

田中社長の試案は、50ccなしでは東北6県の代理店の経営が持たないので、具体的には東北6県の代理店を一つの『協同組合』に纏めてしまおうというドラスチックなものだったのである。

 方向としては解るが、形は『協同組合』だが、今までそれぞれが独立してやってきた会社が、一つに纏まるようなものだから、各代理店の社長との意見調整も要るし、具体的な交渉・意見調整は全て私がやらねばならなかったのである。

代理店の社長さんは、ずっと年上の方だし、この仕事は『バイクを売り込む』などの単純なことではなくて、各社長それぞれ、いろんな思惑などもあって、ホントに大変だったのである。

それぞれの代理店が会員となり、6社を『協同組合』に纏めて、『その運営は理事長が纏める』ことにはなっているのだが、実質はその事務局を担当する仙台事務所(カワサキ)が旗を振るそんな体制になったのである。


★ この東北6県の代理店統合対策は、具体的には3社合併の1年後、昭和45年の4月頃からスタートし、9月末までの6か月で仕上げることがMUST条件だったのである。

 東北6県対策もさることながら、カワ販本体としては、実用車のカワサキから『中大型スポーツのカワサキ』に脱皮すべく、従来は殆ど売られていなかった、東京・大阪などの大都会対策が急務であり、田中社長からは、10月からは大阪・近畿地区の担当を内示されていたのである。

 そんなこともあってあって、『東北協働組合』は10月16日に発会式を行うことになり、私自身は、10月24日に仙台を立って10月25日には高槻に引越しし、10月26日に大阪営業所に出社するという、誠に忙しい半年を過ごしたのである。

こんな経験をしたことが、その後の私の活動で、少々ムツカシイことに出会っても『大したことは無い・何かなる』と思うようになったし、『半年あればできる。 半年かかっても出来ないことは10年掛かっても出来る保証などない。』などと思うようになったのである。


★ 私が担当することになった、大阪営業所と近畿地区(京都・滋賀・奈良・和歌山)は、当時大阪母店と言われ私はその母店長としての異動だが、大阪営業所だけは営業所長兼務のまさに第1線担当だったのである。

 それまで東北6県で年間5000台以上を販売してきた台数に比べたら、大阪営業所の販売台数は、誠に少なくて、まさに『実用車のカワサキ』だったので、大阪では実用車は殆どでないし、スポーツ車も実績がないような状況だったから、ホントに白紙からのスタートだったのである。

 当時からスポーツ車では多くの実績を持っていた『船場モータースの岡田博』さんからは、こんな風に言われてしまったのである。

 『東北では結構売られていたようだが、大阪では、ホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサキ、そんな程度の評価です』と。

 確かに、そう言われても反論する実績もなかったのだが、そんな大阪がこれから後何年かの間に、カワサキの中では勿論、二輪業界に於いてもその流通政策に於ては、ホンダの親しい友人が『流通機構ではカワサキに10年遅れた』と年賀状に書いて頂けるような躍進を遂げるのである。

 これはカワサキの人たちも頑張ったが、それ以上に、カワサキの特約店の方たちが頑張ったし、昭和48年に大阪でスタートするカワサキ特約店制度は昭和50年度には全国展開となるのだが、その旗を直接振ったのは私だし、大阪でも、全国展開でも一番手伝って頂いたのは、船場モータースの岡田博さんなのである。

 そんなホントに頑張った『5年間』がどんなものだったのか、自分史として何回かに分けて書いてみたいのだが、なぜ突然こんなことを思いついたのかというと、
 来月の11月10日に、Z1 FAN CLUB の登山道夫さんがFacebookにこんな記事をアップされたのである。


  

  
 ここに出てくる『阿部ちゃん』も当時の仲間だし、和歌山は大変だったのである。
 
 当時は紀の川沿いに『小屋』のような営業所しかなかったのだが、やっと和歌山駅前に一人前の営業所が創れて、これはホントに懐かしいので、そんな昔のことを日記で調べていたら、いろんなことが思い出されて、
 これは『カワサキの歴史』として残しておこうかと、書き出したのである。

 どんなものに纏まるかは、自分でもよく解ってはいないのだが、
この当時の5年間、私も、カワサキの従業員も、それ以上に特約店も頑張ったと思うので、当時の『頑張り具合』を纏めてみようと思ったのである、

 『和歌山の阿部ちゃん』もそんな頑張った一人なのである。
 11月10日にホントに何十年ぶりにかっての『和歌山営業所』で『阿部ちゃん』にお会いできるのが楽しみなのである。

 
 
 

 
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プロ野球・日本シリーズ   雑感 

2019-10-25 06:06:44 | 発想$感想

★日本シリーズは巨人は1勝もできずに、ソフトバンクの4連勝で、3年連続の日本一に輝いたのだが、今回もそんなにテレビにかじりついて観るようなことはなかった日本シリーズなのである。

この日本シリーズのシステムそのものがもう一つだとは思うが、連日球場は満員となるので、興行としては問題ないのだと思うが、どうも今の『セとパ』では実力が違い過ぎて、オモシロくないように思う。


原監督自体が、その実力差を認めていて、このように感想を述べている。

   



野球評論家も同じように、こんなことを言っている。

『日本シリーズといえば、日本球界最高峰の戦いになる。しかし、セ・リーグを制した巨人と、リーグ優勝を逃しながらCSで勝ち上がってきたソフトバンクの戦いは、戦力差が歴然としていた。こう言っては失礼だが、パ・リーグ同士で戦う方が戦力差は拮抗し、日本一を決める戦いにふさわしいのではないかと感じてしまった。・・・・・・・
セ・リーグは7年連続で日本シリーズ敗退。交流戦の戦績を比べても、例年パ・リーグが圧勝している。・・・・・・』


★かっては『人気のセ・実力のパ』などと言っていたが、
なぜパシフィックのほうが強くなるのだろう?

地方での野球球団も出てきたし、サッカーのように2部・3部制にしたほうがいいとも思うのだが、それはなかなか実現性がないようにも思うが、具体的には1年目はセ・パ12球団で1部とし、2部も造って2年目からは10球団ぐらいにして、毎年入れ替え戦でもするようなシステムにすれば、もう少し『ピリイット』するかも知れないし、野球自体ももっと地方にも広がっていくと思う。

1990年代の北海道はみんな巨人ファンだったのに、今は『日ハム・ファン』が圧倒的である。
今のシステムだと、球場に行くファンはいいのかも知れぬが、一般の人はもう一つ盛り上がらないのだと思う。
今回のラグビーの盛り上がり方』などは、一般の人たちも巻き込んだのだが、野球もそんな迫力が欲しいなと思ってしまう。

ソフトバンクが『日本一』だというが、100試合以上もリーグ戦を戦って優勝した『西武』は『日本???』なのだろう。
西武の選手たちは、『ホントの日本一は自分たち』だと思っているかも知れない。

若い頃、10年以上も野球に没頭した私だが、今の『野球人気』や『そのシステム』を見て、何となく寂しいような気もしているのである。

 


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即位礼正殿の儀

2019-10-24 07:01:00 | 発想$感想

★ 『即位礼正殿の儀』が行われた。

    いろんな考え方はあるとは思うが、
 『万世一系の天皇』がおられる日本の歴史は素晴らしいし、
 世界に誇れるものだと思っている。


   


 終日ニュースがいろんな形で伝えた。
 その中からの抜粋である。
                         

ことし5月の皇位継承に伴って、新たに即位した天皇陛下が即位を内外に宣言される「即位礼正殿の儀」が皇居・宮殿で行われました。天皇陛下は「国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います」と述べられました。          


               
   



「即位礼正殿の儀」は国事行為として行われる「即位の礼」の中心となる儀式で、天皇陛下は皇居・宮殿の「松の間」で皇后さまとともに臨まれました。  

  

                          
 
儀式には秋篠宮ご夫妻をはじめ、11人の皇族方が参列されたほか、外国の元首や王族、それに内閣総理大臣など三権の長や各界の代表など、およそ2000人が参列しました。        

 この中で天皇陛下は「国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします」と述べられました。                         
                         
    


  続いて安倍総理大臣が天皇陛下の前で「寿詞(よごと)」というお祝いの言葉を述べました。                            
そして安倍総理大臣の発声で参列者が万歳を三唱し、これに合わせて皇居外苑の北の丸公園で自衛隊が21発の礼砲を打ち鳴らしました。   

    

  
                        
         
     
夜は    『 饗宴の儀』 で締めくくられた。

   
                     



★この儀式に寄せられたコメント、一般国民の感想の幾つかである。


これだけの国賓がお祝いに訪れるなんてすごい
改めて世界最古の王朝の威厳を感じますね  
』                   




昼間の儀式で全て今日の行いは終わったと思ったのですが、まだ饗宴の儀があって、おもてなし的に最後の最後まで、日付変わるまで続くのでしょうね。体力があっても大変だと思える行事が続きますね。
メニューは思ったほど豪華でもなく、むしろ質素な感じですね。これじゃ一日の体力取り戻せなさそう。
何より最後まで無事に終わりますように。  』         



            

各国元首は日本から贈られた勲章を着けて参加するのだけど、これだけ多くの大勲位菊花章頸飾が一堂に会するのもスゴイ 』      


   


            
           
『今日の皇后さまは、朝のお出かけから笑顔でお手振りをされ、
夜は饗宴の儀でも笑顔でした。お元気そうで安心しました。
パレードが日延べになって、返って良かったかもと思う。
一日中の緊張感が少しは楽になる。
しかし、両陛下の存在感は凄いと改めて思った。  』


                   
             

『雅子様、素敵すぎる。
皇室の誇りです。
芯が強い方。
庶民の私だけど…
頑張っていこう!          』           


『雅子さま凄くお美しい。皇室外交でご活躍されることと思います。令和の新時代にふさわしい両陛下ですね。    』                 


★ 無事終わって、何かホッとした感じである。

 台風の被害があって、パレードは後日に延期されたが、また『素晴らしい1日』になるのだろう。

 『日本・万歳!』 である。


 
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 閑な時には、こんなことして遊んでいます

2019-10-23 06:08:35 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★ネット関連で過ごす時間は、10時間ぐらいはあるような毎日の生活です。

 そのベースになっているのが、 2006年9月以来欠かさず毎日アップしている
雑感日記』 https://blog.goo.ne.jp/rfuruya1     なのです。


昨今のネットの世界は上手くできていて、毎日アップする『雑感日記』の評価はどんどん上がって、『雑感日記』と題するブログは日本にいっぱいあるのですが、

〇〇〇〇〇・・・ 雑感日記』 と検索したら、最初のページには、殆ど私の雑感日記の記事や写真が現われるので、至極重宝なのです。


昨日も閑に任せていろんな 『〇〇〇〇〇・・・ 雑感日記』 の写真検索をいろいろやってみたので、ちょっとご紹介してみます。

 まず 『仲間 雑感日記』 はこんな写真が現われます。


 

 
私の付き合ってきた仲間たちで、結構有名人もいます。
 田崎雅元川崎重工社長や、 岩城滉一も出てきたりしますし、かっての上司髙橋鐵郎さんや、モトクロスチャンピオン 山本隆さんなどが出てきます。

 少し詳しくお知りになりたい方は

 『 岩城滉一  雑感日記  』
 『 田崎雅元  雑感日記  』
 『 山本隆   雑感日記  』  などと検索してみてください。
 
    沢山のブログが並ぶと思います。



趣味の世界でやってる 『ばら 雑感日記』 では、こんな写真が現われます。

  


 
今は池を埋めてしまっているのですが、かってはこんな鯉がいました。
 いい想い出になっています。

 『鯉  雑感日記』 での検索なのです。


 


★ 『Z1 Fan Club  雑感日記』  などと検索するとこんなことになります。
 
クリックしてみてください。 いろいろ現われます。
 


★これは今週末にあるカワサキワールドで開催される 『ミニSL』のスタート当時の写真です。

   『  ミニSL      雑感日記 』  です・

 こんな懐かしい写真を眺めて喜んでいます。




 何か私に関すること、チェックしたい方は
  
 『古谷錬太郎』 でも大丈夫ですし、 
 『古谷錬太郎  雑感日記』 でいっぱい出てきます。


  こんなことをして、閑なときは 時間つぶしをしています。

 Google  で、検索してみてください。



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ラグビーワールドカップに想う

2019-10-22 07:32:02 | 発想$感想

★『日本の4強』は成らなかったのだが、
 今朝の新聞では各紙が第1面にラグビーを取り上げた。

 朝日新聞などは、夕刊でも、
桜は咲いた ワンチームの絆、壁を越えた』と一面トップに大きく取り上げている。


ほんの少し前、このワールドカップが始まる前は、私自身も
日本代表なのになぜこんなに外国人が多いのか?』と思ったし、
日本代表としては『不思議な存在』だななどと思っていたのだが、

今は、
ラグビーの日本代表の選手諸君』は、
野球やサッカーなどのスポーツ選手に比べて
一段格上のスポーツ選手のように思うし、
日本代表の鏡のような存在』だと思っているのである。


サッカーや野球などの国際試合には常に試合前に国歌斉唱があるのだが、
日本の選手たちは『なぜ国歌をちゃんと歌わないのだろう?』と思うことがしばしばあった。



 



今回のラグビーの日本代表は、この国歌斉唱の時点から素晴らしかった。
国歌を歌うその姿勢は、百点満点の日本代表だと思ったのである。
この段階で『涙する』選手がいたりした。

この代表たちの姿に引き込まれて、
観客たちも自然に素晴らしい『君が代の大合唱』となったのである。



 今回の大会は、まだ終わったわけではないが、
こんな素晴らしい観客で埋め尽くされた。


   

   


 
野球やサッカーなどと違って、
初めてラグビーの試合を観る』 一般の日本の人たちがそこにいて、
半分は外国出身の人たちだという『ラグビー日本代表』から、今まで忘れていた
『日本人の心』 や日本人の振る舞いを逆に教えられた感がある。

 
君が代』を練習し、その意味を知るために 『さざれ石の巌』の現地まで訪れたという代表チーム。

   

 

そんな、日本人以上に日本人らしい『日本代表』だったから、日本人の観衆の心を掴んだのだと思う。

   


赤と白の日の丸をイメージしたユニホームもよかったし、
ホントに一般の人たちの心の中に焼き付いた『ラグビー日本代表』だった。

まさに
桜は咲いた ワンチームの絆、壁を越えた』 のである。

少なくとも『国を代表して戦う』スポーツ選手はみんな、
この『ラグビー日本代表』を見習ってほしい。

君が代』をちゃんと歌えないような選手は、日本代表を辞退すべきだと思った。

 
 
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「給食のカレーに罪はありません 」 教育委員会  雑感

2019-10-21 06:10:01 | 発想$感想
★ こんなツイッターが話題になっているらしい。

 ただ 『給食のカレーに罪はありません
 
 と至極当然のことが書かれているだけなのだが、
 25万件の『いいね』と 8万件の『リツイート』 があったらしい。

神戸市の教育委員会の判断がおかしい』と思う人のほうが一般的なのである。

でも、世の中にはいろんなことを言う人もいるので、『教育委員会』は『無難な道』を選ぶのかなと思ったりする。



 



★ その記事を読んでみたが、世の中にはいろんな意見もあるものだ。
私は『教育委員会は何を考えているんだ?』 と思ったのだが・・・・


神戸市立東須磨小学校の「教員いじめ」で、その道具に使われたカレーを給食から一時的に中止すると市教委が発表し、ネット上でも波紋が広がっている。
神戸市教委では、テレビに映し出された動画にショックを受けた児童がいるとして、保護者会で給食カレーの一時中止を発表した。

ようだが、ネット上では「中止にするのは筋違い」といった意見が目立つし、 カレーショップからは、「カレーに罪はない」と疑問視する声が続出している。


しかし、神戸市教委の健康教育課は18日、給食について、東須磨小から相談が来て、時期を決めずに当面、カレーを変更することにしたと取材に答えた。
変更の理由については、「詳細は、お答えしかねます」とした。
 
みんなが関心を持っているのだから、『詳細に答えて欲しい』ものである。

こんないろんな意見があるらしい。

気分が悪くなる児童がいれば、個別のメニューで対応すればいいのではないか。
●「いじめをマネする児童が出るのを恐れたのではないか」といった憶測も。
  一方で、「応急処置的なもの」「カレー出さないは正解やろ」「何かあると困る」と、市教委の対応に理解を示す声も一部であった。
●著名人からの反応も相次いでおり、吉村洋文大阪府知事は、「クビにすべきは、カレーじゃなくて、加害教員でしょ」とツイートした。

   
★ 最近の先生の行動にもビックリだが、そんな先生の上に位置する『教育委員会』は、もっと毅然とした態度であって欲しい。
給食からカレーを省くことを考える前に、こんなおかしな先生により厳しい態度で当たって欲しいものである。

少なくともその名前からしても、より『教育的な』ものを人に感じさせる、そんな判断をなさるべきである。

給食のカレーに罪はありません』 などとツイートされること自体がダメだという反省があるのだろうか?
 

 
 


             

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NPO The Good Times 10周年を迎えて

2019-10-20 07:09:10 | NPO The Good Times

★ NPO The Good Times を設立したのは、
    2009年6月のことでしたから、
 今年令和元年を迎えて、ちょうど10年目に入ろうとしています。


 

 

『異種・異質・異地域をみんな繋いで楽しくいい時を過ごそう』
という基本コンセプトの、非常にユニークなシステムで、ネットをベースに活動を続けてきました。
 設立に当たって、このように述べています。

 
NPO設立にあたって

21世紀の少子高齢化社会を「モザイク社会」と言われたりします。
近年、個人の生活も、いろんな団体の活動も、それぞれが好きなことだけを断片的に行う傾向が強くなってきています。そして、これを繋ごうとする力が逆に弱くなっていることら、家族や地域コミュニティの弱体化が進んでいるものと思われます。

近年、インターネットの世界のブログやSNSなどそのシステムの向上は目覚しく、「異種、異質な組織」が「それぞれの資源や特性」を持ちより、「対等の立場」で連携し、イベントや講座の共催、共同運営を行うのには、これら新しいネットの仕組みは非常に適しています。

私たちは、兵庫県が後押し地域活性化を目標にしている地域SNS「ひょこむ」のメンバーです。私たち『ひょこむ』のメンバーの各分野のグループは、互いに連携して種々のイベントや講習会の企画展開をして参りました。
文部科学大臣賞受賞の「どこ竹の竹とんぼ」教室の講師養成を目標に、『どこ竹の竹とんぼを飛ばそう会』というコミユニティの中で、関西ではじめての講師養成講習会を開催しました。
また、全国の鉄道マニアと神戸海洋博物館、カワサキワールド、神戸市のメリケンパークを結びつけて、ミニSLの走行会を企画実施することにより、5000人規模の観客動員が実現しました。

今回、特定非営業活動法人として申請に至ったのは、上記の諸活動の企画やソフト分野の機能を法人化することによって、更なる高度なシステム化をはかり、新しい仕組みの構築を目的としています。
      同時に、趣旨に賛同する会員をいろんな分野から集めることにより、より多彩で柔軟な広域活動や、異種の連携が見込まれます。これにより将来、その輪はさらに広がり、展開されているソフトとかノウハウは法人の中に蓄積され、更なる効果を生むものと期待されます。

この法人の活動は、個々のグループの活動の連携を図るソフトの活動です。このような社会の新しい仕組みを最大限に利用して、モザイクタイルを貼り合わせ一枚の名画を創作するように、個々が持つすばらしい素材をつなぎあわせて、21世紀のモナリザの名画を描くような新しい活動を企図しています。
     
       NPO法人 The Good Times     代表 古谷錬太郎



 この趣意書の中に書かれている『ミニSL』のイベントも、
10年の月日を重ねて、今では川崎重工業の恒例のイベントとして定着しています。

  



このイベントの起案者は、NPO The Good Times の理事の福井昇くんで、
当時の川重会長・田崎雅元さんのご協力により
カワサキワールド』や『神戸市のメリケンパーク』を繋いで実現したもので、
まさに異種・異質・異地域の協働で成り立っています。


★この10年の間に、世界の団体会員さんが集めてくれた会員さんの数は、1万人を超えています。

 すべての情報活動はネットで行っていますので、
『NPO法人の活動経費は、0円』という世界で唯一と言っていいユニークなNPO法人に仕上がっています。

 このブログをはじめ、NPO 法人の活動情報はネットの中でFacebook やツイッターで発信されるので、費用が掛からないのです。
 
 こちらがそれぞれの団体会員さんが発行している『会員カード』です。

  
   


 

いつも、このブログの最後に載せているのが、
NPO 法人のシステムなのです。
クリックされてみたらビックリされると思います。


 

    

★  令和の新しい時代を迎えて、
 NPO The Good Times もまた、新しく脱皮しようとしています。

今回、永年の活動により二輪業界で初めて旭日小綬章を受章を受賞の吉田純一さんと、

    


彼のカワサキ時代の同期の 柏原久さんのお二人が新しい理事さんとして参加して頂けることになりました。

さらに青木隆・森田政治・腰山峰子・多田喜代一さんの4人の方が新アドバイザーに就任頂くことになりました。

そんな歓迎会のような楽しい会食でした。


   

 この写真のシャッターを切ってくれたのは、事務局長の登山道夫さんです。


 
★ 現在は、カワサキで初めて鈴鹿を走った男、
 あのモトクロスの山本隆さんが、理事長を務めてくれていますが、

 こんな新メンバーを加えて、
 NPO The Good Times がどのような新活動を展開するのか?

 是非、今後の活動をご期待ください。




 
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恩赦    雑感

2019-10-19 06:10:15 | 発想$感想
★『55万人に恩赦』と大きく報道されている。

 『恩赦とは?』 何となく知ってはいるが、正確には何も解っていない。
 55万人 という人数も、びっくりするほど大きい。

 
 こんな解説記事があったので読んでみた。

  
  



『皇位継承に合わせ、政府内で犯罪者の恩赦や公務員の懲戒免除が検討される一方、官房長官が後者の実施を否定したなどと報じられている。この機会に、一般に馴染みが薄いこれらの制度について取り上げてみたい。 』

 という書き出しで始まっている。
 まさに『馴染みが薄い』のである。


 『恩赦とは、特別な恩典として罪を赦すというもので、行政や立法といった裁判所以外の判断により、刑事裁判の内容やその効力を変更させたり、消滅させるという制度で、世界各国で広く採用されている。 』

 とあって、日本だけの制度ではないようで、
 
『2018年に限っても、アメリカのトランプ大統領が人種差別で服役した黒人初の亡きボクシング・ヘビー級王者に恩赦を与えて名誉回復を図ったり、マレーシア国王が同性愛行為で服役していた元副首相に恩赦を与えて釈放したり、ミャンマー大統領府が政治犯36名を含む服役中の受刑者8541名に恩赦を与えたことが広く報じられた。 』

 とあるが、日本の55万人とくらべたら圧倒的に少ない。
 わが国でも実施されたのが、『大化の改新』の頃からというのだから旧いし、天皇陛下の専権事項となっているので、いろんな意見が出るのだろう。


 『わが国でも、中国・唐の影響を受け、大化の改新ころから天皇陛下の専権事項として始まった。 以後、その内容や対象となる犯罪などについて変転を見せつつ、奈良・平安から平成に至る長きにわたり、国家的慶弔の際などに実施され、維持され続けている。 』

 
現在では、
 
『内閣が決定し、天皇陛下が国事行為として認証するとされており、具体的な手続は恩赦法に定められている。 』

ようだが

(1) 大赦
(2) 特赦
(3) 減刑
(4) 刑の執行の免除
(5) 復権

 などの種類があるという。
 
『ただ、こうした政令恩赦や懲戒免除の最大の問題は、結局のところ、制度そのものに何ら合理的な理由が見いだせない、という点だ。 
 被害者がいる事件では、それこそ被害者や遺族の納得すら到底得られないだろう。 しかも、同じような犯罪に及んでも、運良く国家的慶弔時に服役していれば恩赦の対象となり、そうでなければ対象外となるわけで、明らかに不公平だ。 』


 などと書かれていて、「なるほどそうだな」と思っていたら、

 日経新聞が社説で『大きく反対』しているので、びっくりした。

  

★そんなによく解っている訳ではないが、『今の時代』 ホントに恩赦など必要なのかな? と思うのが、実感なのだが・・・・・

 

 
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