雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

小池百合子 都知事 実現するのだろうか?

2016-07-31 06:27:37 | 政治

★ 7月7日に、小池百合子について書いている。

 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/10dc50a4fbc00f65d9be573ba531163e

 

大要は以下の通りである。

 

  

★ 東京都知事選、 小池百合子が崖から飛び降りた

その覚悟発表の『記者会見』 産経が詳細に伝えている。

 

  

 

 http://www.sankei.com/premium/news/160706/prm1607060006-n1.html

 

長いが、全部読んでみた。

迫力がある。 

私が若し都民なら間違いなく小池百合子に1票を投じる。

この記者会見の記事を読んでそう思った。

 

 リーダーに必要なものは、確りとしたコンセプト理念それを実行する迫力、リーダーシップ 安倍さんにも、橋下さんにも、それがあるから応援してきた。日本の首都東京のリーダーには、燦々と光り輝く人材を期待したい

 

★時代がどんどんと変わる中で、日本の政治の仕組みや構造は、全然変わっていないその典型が 東京都連や東京都の議員さんである自分たちの思う通りに動く増田さん』を推そうとしているだけで、都民のことなど考えてはいないのである自分たちの思惑通りには動かないちゃんとした『意思を持った小池さんはどうも扱いにくい』のだと思う。

東京都の膨大な予算の『利権追求すると言う公約』だけで、東京都民は小池百合子さんに投票すべきだと思う。

 東京都都知事選に出ると宣言して以降、多分間違いなく『小池百合子さんが建てた仮説』通りの展開になっているのだと思う。そう言う意味で、小池さんは相当な戦略家でもあり実力者でもある。それだけで知事の資質を持っている。一度は総理をめざしたりもしているが、『都知事』は格好の役職のように思うのである。

 

● 改めて思うと、政党というのはあくまで機能体であって、仲間内の運命共同体ではないと思う。特にこの東京の自民党都連ということについては、むしろ改革が必要ではないかと思う。

● 挑戦するときは退路を断つということが、私にとってのこれまでの生きざまだ。いつも安全ネットも設けずに飛び込むので、周りをひやひやさせることがあるが、やはり社会を変える、世の中を変えるときというのは、そういったことも必要だと思っている。

● 都政の安定はもとより重要だ。着実に一つ一つをこなしていく。進めていく。とはいえ、日本もそうだが、東京が抱えているさまざまな課題はより大胆な、そして強力なリーダーシップでこそ、達成が可能なのであって、そのことを率いるリーダーが必要だ。なんでも都合のいいようにやってくれるリーダーが都政に必要なのかというと、私は違うと思う。

 

  

 

 

★、マスコミは、ずっと『小池問題』を取り上げているこれも、小池さんの読み通りに進んでいるのだろう。

果たして、東京都民は、どんな判断をするのだろう。?

 

 

★  この20間ほど、ずっと東京都知事選を関心を持って見ていた。

見ていただけではなく、中旬ごろからは、『ツイッターで毎日、具体的に応援もした

クリックされると解るが、私のツイッターの呟きの 8割近くが『東京都知事選』だった。

小池百合子と同じく、 政治の『利権体質からの脱却』に期待したい。

その1点だけで、すべての問題がか輝くものになる。 

本当の意味での『都民のための政治を!』

 

  https://twitter.com/rfuruya1

 

 

 

   

 

 

 投票日になった。

 都知事選情勢を見る限り、大丈夫当選確実のように思う。

 東京都民の 『賢い判断』を期待したい。

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イチローは次戦先発予定 球団公式ツイッターが異例の出場発表 偉業まで2本

2016-07-30 07:14:05 | スポーツ

 ★ 『イチローは次戦先発予定 球団公式ツイッターが異例の出場発表  偉業まで2本 』

 こんなニュースが流れました。

 

「マーリンズ4-5カージナルス」(28日、マイアミ)

 マーリンズのイチロー外野手(42)がカージナルス戦の七回に代打で出場し、右翼線二塁打を放った。守備には就かず、1打数1安打で打率は・335。メジャー通算2998安打で史上30人目の通算3千安打の偉業まで2本とした。

 

  

本拠地には、『イチローの通算3千安打まで「2』 を表示するこんなスコアボードが設置されている。

 

イチローの通算3千安打まで「2」を表示する本拠地のスコアボード(撮影・小林信行)©

 

 

★マーリンズの球団公式ツイッターアカウント

「イチローは明日の夜の試合に先発する予定です。3000安打まであと2本」と発表しています。

   https://twitter.com/marlins?lang=ja

 

   

 

 

 

   日本時間30日午前8時10分開始   です。

    みんなで応援しましょう。

 

 果たして、今日大記録は達成されるのでしょうか?

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カワサキの二輪事業と私  そのー8 山田熙明専務とのお約束

2016-07-29 06:19:19 | 自分史

 

★ 昭和36年(1961)が実質的なカワサキの二輪事業のスタートだとすると、今年2016年でもう55年の月日が流れたことになる。

その間、事業の中枢としてカワサキの二輪事業を引っ張ってきた市場、アメリカの販売会社KMCは今年で50周年を迎えるのである。

そんなKMCだが1970年代後半、オイルショックあたりから陰りが見えはじめ、1978年のダンピング訴訟の頃ら年次損益の赤字が目立つようになり、国内市場で激烈であったHY戦争(ヤマハがホンダに仕掛けたシェア競争)はアメリカ市場にも飛び火して、さらにリンカーン工場で生産していたスノーモービルが雪不足で思わぬ在庫になったりして、1980年度には、赤字幅は増大し、事業部本体の経営も赤字に陥ってしまうのである

そんな状況は81年になっても止まらず、KMC も事業本部も大赤字となり、川崎重工業本体も無配に陥るなど大変な事態になってしまったのである。

その81年度には、川崎重工本社財務本部資金的な応援体制を敷き、事業本部サイドは、高橋鐵郎単車事業部長と田崎雅元さんの会長・社長コンビをKMCに送り込み経営再建を図るのだが、その年もKMC は100億円に近い大赤字が続き本社も事業本部サイドもその対策に単車出身の山田専務を長とする『単車委員会』で対応しようとしていたのである。

この1981年からの数年間、『カワサキの二輪事業存亡の危機』を乗り越えて今のカワサキがあると言っていい。

 

★ この時期の問題点は、アメリカのKMCをはじめとする海外子会社の赤字が、事業本部の経営にも影響したし、連結損益となって直接川崎重工業の当期損益を圧迫してしまうのである。その海外子会社の赤字を本社の資金投入で対策しようとしたのだが、特にKMCの赤字が止まらないので、流石の本社のエリートたちも、販売会社の経営経験はなく、その対策にアタマを悩ませていたのである。

そんな時期、国内販社の『カワ販』だけは400FXの好調もあったりして、独り順調な経営を続けていたのである。

単車委員会』の長をされていた山田専務は、単車のご出身で創成期のファクトリーレース委員会の長もされていたし、中学の先輩ということもあって、若い頃から可愛がっていただいていたのだが、その山田専務に82年7月1日に突然本社に呼び出されて、海外販社の赤字についての『私見』を問われたのだが、『大丈夫すぐ黒字になります』とお答えしたら、『それならお前が企画をやれ』と即座に言われて、私は引き受ける条件として『高橋鐵郎さんを企画室長で戻してほしい』と申し上げたのである。

カワサキの二輪事業のスタートの時期から、私自身は販売第1線の代理店も、販売店も、メーカーの直営部も、海外の開発途上国のCKD 事業での販社経営も経験し、その時点では国内のカワサキオートバイ販売の責任者をしていたのだが、そんな経験から『販売会社』と言うのは規模の大小に関係なく、どんなレベルでもその経営は成り立つのである

それが『赤字になる』のは、一言で云えばそれは『人災』なのである。

そして、その殆どが身の丈を考えない『頑張り過ぎ』がその原因で、一番大きな要素は資金問題『営業外損益』が問題になるのである。この時点では、本社財務が資金的には支援体制にあるので、『旗の振り方』さえ間違えなければ、販売会社を黒字にするのはそんなにムツカシイことではないと思ったのである。

 

7月1日に、山田専務に本社に呼び出されて、10月1日に新職制で企画に戻ることになるのだが、これは8月25日に山田さんから頂いた手紙である。

これらの人事組織は、当時の本社トップで進められていて、『他言するな』と仰っているのである。

そして カワ販式経営を単車全般に適用するしか方法はない とまで仰って頂いているのである。

 

  

 

これから約5年間の目標は、海外販社の経営の黒字化 第一の目標で、海外子会社さえ黒字化すれば、日本の事業本部の赤字などは当時の造船部門の黒字で十分に相殺できるそんな時期だったので、当時の財務本部長の堀川常務からは『海外販社さえ黒字に成れば、明石の赤字は50億ぐらいまでは大丈夫』と私は直接の指示を受けていたのである。日本の事業本部の赤字は、本社財務がコントロールできるのだが、海外販社の膨大な赤字対策は『その術が解らない』のである。

この時期の二輪事業経営の決定は、実質すべて『本社財務部門』や 山田専務(副社長)など『単車委員会』が仕切る時代が続くのだが、その窓口をずっと引き受けたのが私なのである。

従ってこの期間、私の『報告先』は事業本部長でもあったが、同時に川重本社の財務本部長や財務担当副社長に報告することがずっと続いていて、大庭本部長時代に一番問題であったKMC報告は、毎月の取締役会に財務本部の松本新さんが自ら報告されていて、そのKMCの内容については、私が毎月KMC社長の田崎さんに替わって松本さんに報告をしていたという不思議な状況が半年以上も続いたのである。

この時期、ちょうど上市されたのが、最初の Ninja900 の時代で、事業部の一般の人たちは、当時の事業部は、Ninja900の好調で生きかえったと思われている方が殆どなのだが、実際は財務本部が用意した何百億円の資金手当てがあって初めて二輪事業再建がなされたのだが、こんなことをご存じの方は、極々少ないのである。

 

 ★この5年間の間には、本当にいろんなことがあったのだが、全体の二輪事業の新しい仕組みの絵を描いたのは私だが、本社部門も、大庭・高橋本部長副本部長も、二輪事業部のいろんな部門の専門の人たち(プロたち)の それぞれの立場での協働があって初めて、その仕組みが機能したのである。

 

今回は、そんな中の一つをまず、ご紹介したいと思う。

 

この時期、販売会社の経営ノウハウを持っているのは国内のカワ販グループのメンバーだけだったと言ってもいいのである。アメリカKMCの会長となられた高橋鐵郎さんから私に、『カワ販のメンバーをKMCに出してほしい』と要請があったのは、アメリカに赴任されてすぐの時期であった。

いろいろと考えたが、若し出すとすれば『カワ販のトップクラスを』とカワ販定期採用第1期生の富永邦彦くんを出すことに決めて、独りで出して『潰されては』と思ったので、日野勉くんとの二人をカワ販から逆出向の形で、アメリカの企画部門に送り出したのである。

二人が、アメリカに行ったのは、時期的には私が川重の企画に戻った昭和57年10月と同じ時期になったのだが、この話が最初にあったのは、その半年前だったのである。

海外販社の経営改善のために、私がまずやったことは、『翌年度1月からの海外販社の事業計画をすべて明石で創る』ことからスタートしたのである。事業を基本コンセプトでコントロールすることなく、『個別最適値』を単に積み上げてみても『全体最適値』になったりはしないのである。この時点ではKMCの経営こそが鍵を握っていてその他の販社は別に拡販などしなくても『足さえ引っ張らなければ』充分なのである。海外販社の社長の意思よりも明石サイドの方針こそが優先されるべきなのである。

それまでは海外販社がそれぞれの立場で、創ってきたものを明石サイドはホッチキスで纏めるだけだったのだが、それを海外販社との協働で明石サイドの経理・財務のプロたちも協働して、むしろリーダーシップを発揮して創ったのである。

この年、それを担当してくれたのは、五百井壽夫さんと湯朝くんである。そしてその二人を中心に企画室に関連事業課と言う新しい組織を発足させたのである。

従って、海外販社の経営状況は、海外販社の責任でもあるのだが、それ以上に明石の関連事業課、それを統括する企画室がきっちりと責任を負うそんな体制にしたのである。

当時は、ドイツなどもZ1Rが当時は不人気で在庫過多で大変だったのだが、何と言ってもアメリカのKMCの事業計画をどのように策定するかが一番のキーだったのである。

 

こういうと一般の方は、不思議の思われるかも知れないが、

こと販売部門の専門的なことについては 当時は川崎重工籍の人たちには『説明する』レベルでとても『議論する』レベルではなかったのである。 専門分野の話というのは、その道のプロたちの間ではある一定以上のレベルでの話になるのだが、その中にアマチュアが入ると、いちいち説明しなければならぬところまで話のレベルが下がってしまうのである。

そんな時、KMCには『富永・日野くん』と言うプロがいて、私との会話が非常にスムースだったし、その上にはカワ販を経験した野田浩志さんもいて、その人たちとの協動でその年の『KMC事業計画』が創られたのである。そしてその事業計画は川崎重工業の社長以下の本社部門の決済が要る、そんな時代だったのである。

そんな事業計画が 、何の問題もなく通ったのは当時のKMCには、川重本社からのメンバーもいっぱい出向していたのである。つい1年前までの川崎重工の松岡副社長も、現在のカワサキの二輪事業部のトップ富田常務も当時の財務本部からの出向メンバーの一人だったので、そんなメンバーたちが創る事業計画は、非常に信頼が厚かったのである。

当時、KMCには売れ残った在庫車がいっぱいあったのだが、それら新古車に関して、本社財務が投入した巨額の資金ですべて『アメリカの中古車価格』で再評価したので、その後の販売はそんなに問題もなくKMCは利益計上が出来たのである。こんなドラスチックな発想は、なかなか事業本部育ちには出来ないのだが、本社の枠の中で育つと、若手でも自然にこんなことが出来るのである。

 

★ 当時のこんな話は、ホントに限られた当時のキーパーソンしかご存じない話なのだが、年月も経つにつれて、ご存じの方は、どんどん少なくなっていくのである。

そんな数少ない方の中で、この期間を一番詳細にご存じの方が居る。

小川優さんである。 

つい昨年まで、NPO The Good Times監事もやって貰ったり、現在もFacebookもツイッターもおやりなので、ご存じの方も多いかも知れない。

それまでも本社財務部門とは、川崎航空機の同期入社の横山昌行さんがいて繋がっていたのだが、その財務本部で小川優さんは最も信頼の厚かったメンバーの一人だったのである。

その小川さんが、私が企画部長で戻ったその企画室のお目付け役のような形で、単車を兼務することになったのだが、そんな兼務ではなくて、籍を移して一緒にやろうということになり、小川さんはそれ以降二輪事業のメンバーとしての活動が始まるのである。

その後、2年間ほどで、あれほどひどかったカワサキの二輪事業も立ち直るのだが、特に大庭浩本部長が再建屋として単車に来られて、再建なって副社長含みで本社に戻られるのだが、その実質3年間の時期、本社とこんなにスムースに連携できたのは、大庭さんが本社が送り込んだ本部長であったこともあるのだが、いろんな本社との接点を、小川優さんが繋いでくれたことが大きかったと私は思っている。

 

これは、本社ではなく私が自分自身の目標に掲げたKMCの累損の消去』は、当時は100億円に近かったので、大変な目標で、流石の大庭浩さんも『俺はそんなことは聞いていない』と言われたのだが、販売会社の再建は『累損』などがある限り仮に期間損益が黒字になったぐらいではダメだと私は思っているのである。

KMCの累損は、田崎社長の後を引き継いでくれた『百合草三佐雄KMC社長』の時に実現したのだが、富永・日野クンはその時点までKMCに出向していたのである。

 

当時の山田専務にお約束した、『販売会社の健全化』は、当時のKMCの累損が1988年度に消去されて、世界の全販社が剰余金のある健全な形になったので、私自身は100% お約束が果たせた と思っているのである。

そんな6年間をアメリカKMCに逆出向してくれた『富永・日野』くんに感謝なのである。

 

 

●カワサキの二輪事業と私―その1 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/5b28a7202c92e084c7df5f0632c1061c

●カワサキの二輪事業と私―その2http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/87a9e3fa841d6ad56654a7c1db9ec39b

●カワサキの二輪事業と私-その3   http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/db0f69c48e73631f572bf4e6dee220be

●カワサキの二輪事業と私-その4 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/7056cbe3357e995cff4b2a38fd7ab149

●カワサキの二輪事業と私-その5 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/4f03e9a2766e5131ec9c8c0143dacf66

●カワサキの二輪事業と私ーその6  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/bec3beebe6dc31dee51d81777ffda5af             

●カワサキの二輪事業と私ーその7 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/c67c41b1762e6fc0d6d6d121d7153321          

            

 

 

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高校野球兵庫県決勝戦

2016-07-28 17:54:11 | 発想$感想

★ 高校野球の兵庫県の決勝戦が市立尼崎ー明石商業 ということ突如観に行く気になって、明石球場まで出かけたのである。

 公立校同士の決勝戦も今どき珍しいし、何よりも明石商業の前身は、明石高校の商業科なのである。1950年、昭和25年の夏、明石高校は優勝しているのだが、チームメイトのエースピッチャー溝畑圭一郎は商業科だったのである。

そんなこともあって、久しぶりに明石球場も観に行こうかと、のんびりと出かけたのだが、今の時代高校野球も様変わりで、明石球場の駐車場は満車で入れないのである。

さらに、高校野球の予選なのに入場料は一般700円、65才以上は300円の有料で、何とスタンドは満席、外野席も人でいっぱいなのである。

 

 

★決勝戦は、1点を争う好ゲームだったが、後半明石商業は逆転されて3-2で市立尼崎が優勝した。

 われわれの時代は、兵庫県予選は西宮球場と甲子園球場いずれも阪急ブレーブス、阪神タイガースのホームグランドでやっていて、夏の予選前の練習はこの明石球場で、毎日やってた懐かしい球場なのである。

久しぶりに野球場で野球を見たが、高校野球は特に『いいな』と思う。

昔に比べて、今の球児たちは体格もいいし、野球のレベルも数段上である。

 

★ 一般席は満席で通路の階段の日陰の部分で観ていたのだが、左側は私たちの10年後昭和35年に明石が甲子園に出たときの年次の明石のOB、右隣は私と同じ昭和8年生まれの野球大好きおじんで、昔話の会話を楽しみながらの、野球見物だった。

何となく『若返った』ような半日だった。

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ポケモンGO 好奇心ー2

2016-07-28 06:27:15 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★ ポケモンGO の話題が賑やかである。

私はネットの世界でパソコンはやっているが、スマートフォンなるものは現在は持っていないので、ポケモンGOとは無縁なのだが、一体どういうものなのか?

という好奇心だけはある。

 

    

 

 GIGAZINE には、ポケモンGOに関する記事がいっぱいだが、

http://gigazine.net/news/20160726-pokemon-go-tools-rater/

 読んでみても、さっぱり解らない。

 

これでは、仮にスマートフォンを持っていても、『やれないな』と思ってしまう。

第一今までポケモン との接点が皆無なのである。

 

ポケットモンスターPOCKET MONSTERS)は、株式会社ポケモン(発売当初は任天堂)から発売されているゲームソフトシリーズの名称であると同時に同作品に登場する架空の生物の総称であり、それらを題材にしたアニメを始めとするメディアミックス作品群を指す。略称はポケモンPokémon)。「モンスターボールに入るとポケットに入るから、ポケモン」という愛称が付けられている。

  

と説明されていて、

1996年2月27日にゲームボーイ用のソフト『ポケットモンスター 赤・緑』が発売された

 

とあるので、1996年なら未だ現役時代のことだが、今までは全然無関係で生きてきた。

 

 

★スマートフォンを持ってる人のうち、どのくらいの人がポケモンGO をやってるのだろうか?

 結構な人がやってるように思う。

 昨日、少なくとも私の周りのスマートフォン持ってる人に聞いてみたら一応全員がやっている。

 

アメリカにいる娘から、Skypeで電話があったついでに聞くと『やってる』という。娘婿もやってるようだ。

何匹捕まえた? と聞いたら『70匹』などと言っていた。

孫の末弟は、サッカーが忙しくて、あまり関心がないとか・・でも日本いる長兄は1日に4万歩も歩いて、捕まえた数も半端でないとか。

日本で、すぐ近くの登山さんに聞いたら、やはりやってるようだが、こちらは店に座ったままで『ただ、やってる』程度か?捕まえたポケモンは10匹ほどだった。

 

   

 

   外に出て捕まえよう とあるので、やはり歩き回るほうが捕まえやすいのか?

  こんな写真も、出ていた。

 

   

 

   こんなニュースも

 

    

 

  確かに、広島の記念講演や、京都の庭園などでは馴染まないのかも知れない。

  果たして、今後どのような推移になるのだろうか?

 

  渋谷で、1時間歩き回ったら『7匹捕まえた』と言うこんなYou Tube も流れていた

  

 

      いずれにしても、いま話題の『ポケモンGO』 ではある。

 

 

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『情報公開』こそが 東京大改革のキーである

2016-07-27 07:56:04 | 私の生き方、考え方&意見

★ 東京都知事選、特に直接は関係はないのだが、ネットをベースに小池百合子さんを応援している。

特に50万人以上のフォロワーがいるツイッターをそのベースにしているのだが、結構な影響力もあるのではないかなと思っている。 その一つの証拠として『リツイートの数』である。『いいね』ぐらいを推すのは簡単だが『リツイート』は、ホントにその内容に納得して、ほかの人にも広めたいという意思がないとそう成らないからである。

私の個人の『ツイート』ですら、100を超す『リツイート』があったりする。  

https://twitter.com/rfuruya1

もう終盤に入ったのだと思うが、流れは既に『小池東京都知事』になっているのではなかろうか?

 

 

★ 東京都政で一番のキーポイントは『情報公開』という大阪の橋下徹さんの参謀 上山信一慶応教授

 

   

 

       

    

  流石、橋下徹さんの参謀と言うだけあって、指摘されるところが鋭いと思う。

個別対策なども大事だが『情報公開』などと言う基本システムの改革に比べると、大したことはないのである

東京大改革には、個別対策の積み上げなどよりも『情報公開』することで、都民のための都政は実現するはずである。

現在の『闇の中の都政』は、増田さんでは決して解決しないと思うのである。

 

『個別最適地の積み上げが、全体最適値になる』と言うのは錯覚である。

『個別最適地』ばかりを追っかける『汗して頑張る』日本式は今の時代に馴染まない。

『情報公開』など基本的な『仕組みの創造こそが肝要である。

    

 このような長文の指摘だが、あのホリエモンがこのように言っている。

 

    

 

 私も共感して、すぐこんなツイートで呟いている。

 

 

 

 

    橋下さんの参謀の先生は

    ● 小池さんは適任でしょう  と言われている。

    ● あとの二人は??  お知りになりたい方は、下のリンクをクリックしてください。

         https://twitter.com/rfuruya1

 

 都知事選も、あと数日、

 小池百合子さん ラストスパート 頑張りましょう!

 

     

   

    そうです。『意思決定の構造を変えること』

    そのベースは 『情報公開』です。

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好奇心

2016-07-26 07:31:32 | 発想$感想

 ★7月になって、毎朝近くの公園で、走っている。

50メートルダッシュを何本か走るのだが、結構ちゃんと走れる。足がもつれたりはしない。小学校4年生の女の子と同じくらいに走れるのである。

それはともかく、毎朝5時半ごろに公園に行くのだが、既に蝉は鳴きだしている。蝉は夜は鳴かないはずだから、一体いつ頃からどのように鳴きだすのかな? と思ったのである。

しょうもない話なのだが、そのように思いだすとちゃんと自分で確かめたくて、昨日の朝は5時ちょっと前に家を出て、公園で蝉の鳴きはじめの蝉の声を録音すべく、カメラを持って家を出たのである。

こんなのを好奇心と言うのだろうか?

何でもちょっと気になると、自分で確かめる癖は、現役のころから同じである。

まあ、カッコよく言えば、マーケッテング・マインド とも云えるのだが、そんな大げさなものではなくて、単なる『好奇心』のレベルだとは思う。

 

    https://www.youtube.com/watch?v=ypgpDfZ5ApI

 

 これがその蝉の鳴きだすのを動画に録音すべく、公園に行く前の段階から写した動画だが、この動画だけ見てたら何のことかさっぱり解らないはずである。時計を写しているのは何時に鳴きだした証拠にしたいのだが、何時まで経っても鳴かないので、何を写しているのか訳の分からぬ動画になってしまっている。

 

● 信号機の点滅を写しているが、5時からは普通に戻るので朝の5時少し前、未だ薄暗い。

● 協会のヨコを通って、すぐ公園である。 家から200メートルぐらいである。

● 公園について、時計を写している。5時ちょっと回ったところ、静かで蝉の鳴き声など聞こえない

● 5時20分になっても、40分になっても、とうとう6時になっても、蝉は鳴かなった。

 

曇ってたら、鳴かないのだろうか? 

前回、来た時は5時半ごろだったが、既にやかましいほど鳴いていたのに・・

この動画の最後には、家に戻って少ししてからの 庭の蝉の鳴き声を入れている。

公園でこうなるはずだったのだが、成らなかったのである。

 

 

★それで、『蝉の鳴き声』について、Google でいろいろ調べてみた。

 『セミが何故鳴くかを考えてみましょう。
セミやコオロギなどは、オスがメスを呼ぶために鳴いています
ということは、メスに近寄ってきてもらうのが目的ですね。
雨の日は、羽が濡れてしまうので昆虫は飛べません。
せっかく鳴いても近寄ってきてくれませんので、鳴かないのです
(鳴くと自分の位置を敵にも知らせてしまうというデメリットがありますから、こういう場合は大人しくしているに限るのです。)』

 

 雨が降りそうで『曇ってた』ので、蝉は鳴かなかったのかも知れない。

 やはり夜が明けて、明るくなって朝日が昇らないと鳴かないのかも知れない。

 

セミが鳴くためには、一定以上の気温と光が必要です。
熱帯夜に、街頭そばの木などでうるさく鳴くセミがいるのは
その為です。

私の家のすぐ横に、高さが10メートルを超す大きな
クルミの木があるのですが、私の家の明かりも相まって
熱帯夜には沢山のセミが集まり、夜中中鳴いています。

たまに、家の中に飛んでくるセミがおり
捕まえて逃がすのですが、暗がりでは色々なところに
ボコボコぶつかり、最終的にクルミの木に戻ってきます。
それを見た時、セミは昼光性で、夜に飛んだりする事は
苦手なのだと解釈しました。

家の明かりを消すとピタっと鳴き止みますし、
気温が高くない夜は静かですので、
恐らくそういったメカニズムで活動しているのでしょう。

 

 こんなことも書いてあった。

 セミの鳴き声は、雌を呼び寄せたり、仲間とのコミュニケーションの手段に使っています。また、ほんの一部の種類を除けば、鳴くのは雄のセミだけです。
クマゼミは午前中に鳴くセミの代表格ですね。朝6時過ぎには鳴き始め、9時前後がピークで、11時ごろまでにはほとんど鳴き止んでしまいます。午後は、木にとまってじっとしているだけでほとんど鳴きません。一方、アブラゼミはお昼前後から、日没にかけて盛んに泣き続けるという具合です。私の少年時代は、クマゼミが鳴き止み、アブラゼミが鳴き始める境界あたりが、昼ごはんの時間だったのを良く覚えています。

ヒグラシをご存知ですか。あの「カナカナカナ・・・」と涼しげに鳴くセミです。このセミは日の出前や日没前後の薄暗くて気温がやや低い時や、昼間でも雨が降りそうな怪しい雲行きになると鳴きだします。ヒグラシにとっては、暗くて、温度が下がるという条件が鳴くためには必要なようです。
最近のセミは、夜でもコンビニの照明などで明るく、おまけにヒートアイランド現象などで昼夜の温度差が少なくなって昼間と勘違いして、夜でも鳴くセミがいるようです。「24時間セミも鳴き続けると寿命が短くなるのではないか」と心配する昆虫学者もいるほどです。せみの泣く時間は、なによりも、気温に左右されます。そして、太陽の光です。あなたがいう時間です。その他、湿度など影響がありますが、現時点では、解明されてないようです。

 

 お蔭様で、83才になって、初めて知ることばかりだった。

 

  

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ご厚意に対するお礼状

2016-07-25 07:56:10 | 発想$感想

★昨日我が家に 水なす が届いた。

 

       

 

 

  堺の伊藤彰さん からである。

 『72才になりました 未だバイクで走ってます』というメモ付きである。

 そうか、72才か・・・

 

   

 

 伊藤さんとは 株)カワサキ忍者 の伊藤さんである

 

   ホームページを見ると、こんなご挨拶が出ていた。

      http://www2.bbweb-arena.com/k-ninja/

 

 

 

 もう50周年になったのだ。

 伊藤さんに初めてお会いしたのは、 昭和45年(1970年) 大阪万博の年である。

実用車のカワサキ』から『中大型・スポーツのカワサキ』に脱皮しようというころで、私もそれまでの実用車の主力市場の東北から大都会の大阪に異動となり、従来の自転車屋さん主力から、オートバイ専門店への切り替えを図ろうとしていた時期である。

その頃の屋号が 伊藤モータース で、ご挨拶にもあるように『堺の小さなお店』ではあったが、間違いなく自転車屋さんではなく『モータース』だったのである。

大阪の南の地区を担当の竹内優さんと一緒に回った帰り道、竹内さんが『オモシロい店があるのですが、寄りますか?』と予定にはなかったのだが、 伊藤モータースに立ち寄って、お話をした日のことを今でも鮮明に覚えている

場所は今のお店と一緒なのだが、ホントに小さくてどちらかと言うと『中古車屋』さんのイメージだったが、伊藤さんの話しぶりは全く今と同じで、私は即座に『これはオモシロい』と思ったのである。

 

★当時は、大阪でお付き合いのあった自転車屋さんは500軒以上もあって、そんな販売網を30店ぐらいの『バイク専門店』にすべく、その候補店選びの組織『カワサキ共栄会』(カワサキも販売店も文字通り栄える)という当時では考えられない新しい販売網を創ろうとしていたのである。

そんな旗振りをしてくれたのが、大阪の老舗『船場モータ―ス岡田博さんで、南地区は、あの徳野さん兄弟のおやじさんがやってた『浜寺モータース』の徳野さんなどだったのだが、伊藤さんもそんな時期からのお付き合いなのである。

 

    

 

めちゃめちゃ厳しかった伊藤さんだが、72歳にもなると、好々爺と言った感じにもなってきた。

伊藤さんからは、いつも突然電話があったり、水なす が送られたりするのである。

メモにあるように、思いだしたら突然行動するのは、若い時からの癖である。

家に電話のある時も、いつも夜で、どこかの店で飲んでる時が殆どなのである。

 

レースなどあまりやらないのに、何故か吉村太一ちゃんや金谷秀夫とは仲がよくて、『いま金谷の店で飲んでます』と電話が掛かってきたりした。

私とは、何となくそんなお付き合いで、カワサキ特約店制度を一緒に創り上げた仲間なのである

 

     

 

今でも、こんな調子で、バイクに乗っているのだろう。

 

 

こんなブログを書いておけば、伊藤さんのお客さんの目に留まって、何となく伊藤さんに繋がったりするので、

ご厚意に対するお礼状』の積りで書いているのである。

 

  

 

  こちらは昨日いただいた水なすだが、初めて水なすを送って頂いた時に書いたブログである.

   それは3年前、80歳の誕生日の時である。

   http://rfuruya2.exblog.jp/19502211

 

  これは、きっちりと書いてるし、同じ写真もこんなに綺麗に撮っている。

 そこにも書いているが、下手にお礼状など書いて『旨かった』などと言うとすぐ続いて送られて来りするのである。

  是非、一度クリックしてみて下さい。

 

  伊藤さん、ありがとうございました。

 

 

    

 

  いずれにしても、昔はともかく、いまは何のお役にも立っていないのに、

 思い出したからと言って、わざわざ水なすを送ってくれる伊藤彰さんに感謝である。

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カワサキの二輪事業と私  そのー7 高橋鐵郎さんを偲ぶ会 に集まった人たち

2016-07-24 09:21:31 | 自分史

★7月21日に 高橋鐵郎さんを偲ぶ会 と言う名目でこんなメンバーが 灘の酒心館に集まった。

 

 

   カワサキの単車の激動期支えたメンバーと言っていい。

  前列真ん中が、この会の主宰者桑畑禎文さん、左が北村敏さん、右が阿二眞三郎さん、

  後列は左から、井川清次さん、野田浩志さん、私、大前太さん、一番右は川崎芳夫さん。

  

このメンバーたち、カワサキの二輪事業の中で初期のころから、或は入社してから退職するまで、ずっと二輪事業部の中にいて、激動期のカワサキの二輪事業を文字通り支えたメンバーなのである。

そんなお一人、お一人を私なりの目でご紹介してみたい。

井川清次さんと阿ニ眞三郎さんが、昭和38年(1963)入社で一番若いので、お若い順番からご紹介してみたい。

 

井川清次

昭和38年は既に二輪事業は始まっていた。 青野ヶ原のモトクロスがあった年で未だ発動機と単車とが一緒にやってた時期だと思う。

私は既に単車営業にいたのだが、井川清次、鍋島英雄 というイキのいい新人が企画配属で入社したのをよく覚えている。だから井川くんは、この8人の中で、ただ一人、単車以外は知らないというか、ほかの部門は最後にちょっと発動機の子会社を引き受けただけの生粋の単車マンである。

二輪事業が本格的に動き出すのは、日能の調査で『二輪事業やるべし』との結論が出て、昭和39年1月に単車事業部が発足し、広告宣伝課が出来て当時の川崎航空機本社が開発費として1億2000万円の予算を3年間に亘って付けてくれて、私が会社始まって以来初めての広告宣伝課を担当したのだが、この膨大な予算の管理は企画部門で、その直接の担当が井川君だったのである。

この広告宣伝費の使い方が大変で、1億2000万円もの予算は大きすぎてなかなか使えないのである。テレビとか新聞広告でもやれば、それは簡単に使えるのだが、当時のカワサキは『実用車のカワサキ』で125B8 や125B1の売りは登坂力があるなど田舎に強くて、売れるところも九州や東北、新潟などの地方が主力で、東京、名古屋、大阪などの大都会ではさっぱりなのである。
そんなことで大都会が中心の新聞やテレビは使えないので、田舎向きの販売促進費や、ジェットエンジン部門から下取りのヘリコプターを買ってきて、ヘリを持って地方のドサ回りなどもやっていたのだが、それも大した額ではないのである。

当時のヘリは、1000万円ぐらいなのだが、償却年数は4年だから下取りのヘリなど100万円ぐらいの簿価なのである。それを飛ばす費用だけだから、非常に派手なのだが、金は掛からないのである。

だから、細かい伝票の数ばかりが増えて、そんな大量の伝票をすべて井川君に回していたのである。そういう意味では当時非常にお世話になった井川君だが、確か2年目ぐらいで、彼は山梨の代理店山梨カワサキに出向したのである。

多分、川崎航空機籍の中で一番先に現地出向の第1号かも知れない。彼が山梨に行くときには、お世話になったので大量の助成物など広告宣伝課から贈呈したのを覚えている。

山梨から戻ってからは、確かブラジル市場の調査をやったり、そのあとドイツの販社の社長もやったりして、彼がドイツにいるときは、川重の山田副社長のお供をして一緒にドイツに行ったのを覚えている。

山田さんもそうだが、井川君も酒飲みでどんどん飲むと最後は解らなくなってしまうのである。空港にはちゃんと迎えて貰ったが、夜は私が彼の家まで送ったのだが、そんなこと覚えているのだろうか?

ドイツから帰ってから、国内の東京の販社の責任者をやったので、ご存じの方もいっぱいおられるだろう。まあ、兎に角オモシロい性格で、井川のことを悪く言う人は聞いたことがないが、武勇伝はいっぱいあるのだろう。

個人的には山登りは好きで、確か日本名山100山はみんな制覇しているはずである。久しぶりだったが、あちこちがどうこうと言っていたが、ちゃんと帰りには福寿の生酒の量り売りを買っていた。

カワサキの井川君ご存じのみなさん、ナイスガイ井川くん、結構元気です。

 

阿ニ眞三郎

阿二さんが、昭和38年入社だとは知らなかった。 二輪事業部でも知らない方も多いと思うが、彼は川航ではなくて川重入社でずっと労務畑を歩いて、単車が大変だった昭和58年(1983)に労務から本社企画に異動して、二輪とのお付き合いが始まったのである。

大庭本部長、高橋副本部長の時代で、私は企画、大前太さんが生産企画のころで、阿二さんが本社の予算を握っていたころだから、私と大前さんが阿二さんとは一番お付き合いがあったのだと思う。

大体、本社のスタッフはマジメすぎて頭はイイがオモシロくないのが相場なのだが、この時期の本社スタッフは、阿二さんはじめユニークな実力者が揃っていて、みんな単車を応援してくれたのである。

そんな中でも阿二さんは特別で当時の二輪事業部のいろんな会議に顔を出したり兎に角、明石の中を歩き回っていたのである。とても、本社育ちのエリートとは思えなかったのである。

当時の大庭本部長の覚えもめでたくて、独りで単車に乗りこんで来られた大庭さんの番頭役を私がやっていたのだが、大庭さんがいろんな判断をされる時に、阿二さんの意見を頼りにされていた節があるのである。

そんな阿二さんと私は非常に気が合っていろんなことで手伝って貰ったのだが、いまも二輪のユーザーに親しまれている大分県のサーキット SPA直入は、私と岩崎茂樹と阿二眞三郎とで造った と言ってもいいのである。

 

  

 

カワサキがサーキットをつくるなど、勿論初めてのことだし、スタートは岡山や四国の小さなサーキットの現地調査からスタートしたのだが、その調査のの段階から阿二さんは付き合ってくれて、岩崎茂樹との3人で田舎道を車で走り回ったのである。

大体サーキットなど川重の誰一人経験のないプロジェクトだったので、関係する本社各部門のスタッフたちへの説明を、事業部サイドだけのメンバーで行うのはなかなか難しかったのだが、本社スタッフそのモノの阿二さんが説明側に回ってくれたので、大きな説得力になったのである。

当時の社長が単車事業本部長を経験された大庭浩さんであったことも、その大庭さんに信頼厚い二人(阿二さんと私)が担当しているプロジェクトということも 、よかったのだと思っている。

こういう財産物件の担当である本社財産課も、非常に積極的に動いてくれて、SPA直入は計画して2年と言う最短の期日で実現したのである。

 

普通なら、高橋鐵郎さんを偲ぶ会 というこんな単車のメンバーの中に、本社のメンバーが加わるなどあり得ないのだが、阿二さんをこの会に誘ったのは当時本社から膨大な予算を都合して貰った大前太さんなのである。

Ninja ファンのために言っておくと、当初の Ninja900は、全く新しいエンジンであったので、その生産設備予算額が膨大でそれを通すのは大変だったのである。若し、本社の予算担当が阿二さんでなかったら、一度にあんなに大きな予算が下りたかどうか・・・

同じ新車でも、共通部品の多い従来のエンジンベースからの改良機種と 全く新しいエンジンとは全く別で、Ninja 900などの場合は、新しい機械設備が必要なのである。

当時の厳しかった二輪事業がスムースに復活したのは、確かに Ninja 900などもよく売れて、事業経営に貢献したことは間違いないのだが、それ以上に阿二さんはじめ、本社スタッフの応援による『資金投入』がなければ、カワサキの二輪事業は立ち直っていないのである。

 

  

 

野田浩志

野田浩志さんは、昭和36年川崎航空機入社である。入社して発動機の小型エンジンの営業を担当していた。当時は発動機事業部の中に単車と小型エンジンがあったので、私の所属した単車営業の隣にいたので、その頃からよく知っている。

野田さんが発動機から単車に移ってきたのは、多分カワサキ自販からカワサキオートバイ販売に社名変更しカワ販に販売促進部などが出来た時期からだと思う。

川崎航空機の事務屋の主力が本社からも明石の各部門から大挙異動し、カワサキオートバイ販売に出向したのである。

その象徴みたいな人が、販売促進部長に本社の人事課長から異動した矢野昭典さんで、本社人事課長だったこともあって、事務屋のこれと言う人たちを殆ど集めてしまったのである。

販売促進部の中に販売促進課広告宣伝課があって販売促進課は八木健さんが、広告宣伝課はが、いずれも川崎航空機では係長にもなっていないのに、いきなり課長抜擢などというドラスチックな対応をしたのである。ただ、課長ということで対外的には恰好はいいのだが、別に給料が上がるわけでもなく、『残業料』も入らなくなって、返って給料は少なくなったような気もするのである。

その販売促進課の中心に野田浩志はいたのだが、この販売促進課には本社から岩崎茂樹、前田祐作、明石からは鍋島英雄なども加わって事務屋のトップクラスが顔を揃えていたのである

野田さんは、ここをスタートに、井川さんに続いて長野県の営業所と言う第1線を経験しその後カワ販の本社に戻り、カワサキ特約店構想を起案したのは野田さんなのである。カワサキの特約店制度は、野田さんが起案し、現実に最初に手掛け実現させたのは大阪・名古屋などを担当していたなのである。

そのあとアメリカのKMCに出向し、アメリカでも現地第1線も経験し、そのあと何回も明石とアメリカを異動し、KMCの社長も、その後川崎重工業のニューヨークの社長も経験しているアメリカ通なのである。

いろんなことをやってるが、結構私との接点も多く、私の思っているノンちゃんのイメージは、社長と言うよりは、優秀な企画マンなのである。

 

 

大前太  

大前太さん、なぜこんな豪傑たちばかりが集まったのかと思うのが昭和35年入社の連中である。川崎航空機が二輪事業に進出するためにこんなに沢山採ったのだろうか、百合草三佐雄、種子島経、武本一郎、大前太・・・名前を上げるときりがないほど沢山いるのである。

この人たちは、種さんのように教育部門から何年か後に単車に異動してきた人もいるが、入社以来単車担当と云う人たちも多いのである。

そんな中で大前太は、生産技術管理などの専門家として、若い頃から結構名前を売っていたのである。特に私など直接の接点はなかったのだが、名前はよく知っていたのである。

 

 

 

 これは、1982年、二輪事業の存続が危ぶまれた時期に、私が企画に呼び戻されることになるのだが、その時の引き受ける条件のひとつとして、『大前太を企画部門の生産企画担当』で呼び込むことを条件にお引き受けしたのである。それまでに一度、企画部門を1年ほどを経験したのだが、技術オンチの私は技術屋さんの訳の分からぬ予算要求などの対応が大変だったのである。

今回の大役を引き受けて、主として海外販社経営の改善を行うためには、明石工場の案件を処理してくれる協働者がどうしても必要だったので、その時すぐ頭に浮かんだのが『大前太』だったのである。

これからの数年間で事業部は立ち直るのだが、大前太さんの会社勤めの中でも、一番性根を入れて務めてたのは生産企画部長時代だったのでは思う。

そして事業部の再建の目途が立ち始めた時点で、大前さんを国内の東京地区担当責任者に送り出した人事は、私なのである。生産サイドから企画に引っ張り営業部門を経験したら、将来より大きな職位の可能性があると思ったからである。

二輪事業は、川崎重工業の他の部門の『受注事業』とは全く違って、開発・生産・企画・営業・現地販売までの幅広い分野の事業展開なのである。

高橋鐵郎さんもそうだったが、短い期間ではあったが販売部門の経験があとで大いに生きたのである。その後大前さんは営業から企画に戻り、単車の事業本部長、川崎重工業の常務まで勤め上げたのである。

 

 

 

北村 敏

北村敏さんは、昭和34年入社、私の2年あと、最初は明石事務所の勤労からのスタートである。

何となく私ともご縁があって、私が広告宣伝課長から昭和42年に仙台事務所長に異動した後の広告宣伝課を引き受けてくれたのが北村敏さんなのである

その後、カワ販本社の企画部門から、川重の部品課に戻ったと思う。普通部品課などはあまりエリートは行かない部門のように思われがちだが、カワサキの二輪事業の部品課は、1960年代の後半に川重の自動出入装置を取り入れた先進的な自動的に部品の入庫取りだしのできる大倉庫田崎雅元さんが創り上げて、それまでの部品課から一転 華の部品課となっていた。その初代責任者桑畑禎文さん、2代目が田崎雅元さん、そして3代目が北村敏さんなのである。

そして上の表にあるように、昭和57年10月の人事では高橋企画室長、古谷企画部長、北村管理部長、そして大前太さんが生産企画担当で名前を連ねてくれて、カワサキの二輪事業の危機脱出の中枢メンバーだったのである。

上記の表に種子島経、カワ販とあるがドイツから戻って、カワ販に異動している。そしてドイツの後任に井川さんが異動しているのである。

北村さんは、その後は営業部門の責任者を長く務め、退職後高橋鐵郎さんが川重の理事以上のOB会相信会の会長当時はずっとその事務局長として支えたのである。

 

川崎芳夫

川崎さんは、昭和31年入社、私の1年前である。

川崎重工業の川崎は、東京の隣の川崎市からなどではなくて、鹿児島の『川崎正蔵さんがその創始者』なのだが、川崎芳夫さんはその曾孫 なのである。

殆ど表面には立つことなく静かなのだが、果たされた実績はなかなかなのである。

まず、昭和37年、38年の鈴鹿サーキットへのレース見学、翌年の青野ヶ原モトクロスの裏方に徹して二つを纏めて実現まで持って行ったのは、間違いなく川崎さんなのである。

商品企画でもあまり表面に名前はでないのだが、生産管理から技術部に移られてから商品企画部門をきっちりとした職制として纏めらえたのは川崎さんなのである。

東南アジアの視察調査団のメンバーのお一人でもあるし、その結果『市場開発プロジェクト室』が出来て私がそちらに移って出来てしまった企画室の穴を埋めて頂いたのが川崎さんである。

カワサキの場合、派手な目立つオモシロい人も多いのだが、川崎さんのように静かでじっくりと、ちゃんとした仕事をされる人望家もいるのである。

 

桑畑禎文

桑畑さんの入社は何年なのかよく解らないのだが、昭和30年以前であることは間違いない。そして多分大学院卒なのである。

この辺りの年次の方は、戦後の学制改革などで旧制、新制の高等学校などがあって、ややこしくて年次がよく解らないのである。

川崎の二輪関連でも、濱脇洋二、大槻幸雄、安藤佶郎、高橋宏、桑畑禎文さんなどこの辺りの年次の人は、みんなよく解らないのである。

それはともかく、桑畑さんはジェットエンジン部門から単車に来られて、創世期のカワサキの生産管理や、アメリカKMC, リンカーン工場、明石の部品倉庫などいろんなところにみんな絡まれているのである。

KMCと明石との関係がなかなか難しかった時代には、確かリンカー工場におられたりした。

私が営業部から国内に異動する直前にアメリカから戻られて高橋鐵郎事業部長とのコンビで営業部門や企画部門を纏められたのだが、その数年は半年ごとに職制変更があったりして、落ち着かない大変な時期だったのである。

私は仕事の上では、直接関係のあった時期は短いのだが、その後品証関係を担当され高橋本部長時代には技術本部を担当されたりしたのである。

冒頭の写真にあるこの酒心館での会合では、桑畑さんが間違いなく主宰者であり、幹事の役割を果たされていてすっかりお世話になっているのである。

 

高橋鐵郎さんを偲ぶ会  と言うことで集まったメンバーのご紹介をしたが、

今と違って二輪事業が川崎にとって全く新しい事業であったことから、みなさん、ホントに若い頃から事業の推進者のような役割を与えられたのである。

特に、桑畑さんなど何かずっと旗を振られていて、そんな桑畑さんからはこんな会の幹事などおやりになるイメージがどうしても湧かないのだが、現実は非常に丁寧な心配りの桑畑さんを見せて頂いているのである。

 

●カワサキの二輪事業と私―その1 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/5b28a7202c92e084c7df5f0632c1061c

●カワサキの二輪事業と私―その2http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/87a9e3fa841d6ad56654a7c1db9ec39b

●カワサキの二輪事業と私-その3   http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/db0f69c48e73631f572bf4e6dee220be

●カワサキの二輪事業と私-その4 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/7056cbe3357e995cff4b2a38fd7ab149

●カワサキの二輪事業と私-その5 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/4f03e9a2766e5131ec9c8c0143dacf66

●カワサキの二輪事業と私ーその6 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/bec3beebe6dc31dee51d81777ffda5af             

           

            

コメント (2)

庭の草を抜いてたら、羽化して地面に落ちたのか蝉が現れた。庭石から転落したが、自力で登ってきたら、また落ちた。もう一度登って、今度はすぐ飛び立った。

2016-07-24 06:58:19 | 日常生活、園芸、バラ

 

 

   

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小池百合子さん、 、築地の豊洲移転問題を避けてる と書かれていたが、現場視察に行ったらしい。 まず現場を見る、これはいい。奥多摩にも足を延ばしたとか・・

2016-07-22 14:23:17 | 発想$感想

★『築地の豊洲移転問題』 いろいろ意見があるらしい。正直、自分の意見を持っているわけではない。 

昨日初めてネットの上でいろいろ見て調べただけの話である。

 

最初はこんなニュースが流れていた。

  

 ムツカシイ問題だから、『避けたのかな』と正直思ったいたら、一転、現場視察を行ったようである。

そのあたりの身軽さは流石である。

 

  

 

 

  どうも、現場は移転に賛成なのか、反対なのか?

 もろ手を挙げての賛成ではなさそうである。

 

      

  移転の理由はこのようなことのようだが・・・

  反対の理由をこのように云ってるものもある。

 

   逆に、

    世界的観光地「築地」の豊洲移転を否定する3つの理由  とも言う。

  

 

  歴史的には、こんなことのようである。

 

    

 

 

 

★こんなムツカシイ問題を、総合的に判断して、結論を出すことを現場の知事さんは求められるのである。

 そういうときに、一番大事なのは『現場を知る』ことである。

 小池さんは、曲りなりにも、現場に行った。

そして「築地ブランド。江戸の胃袋のイメージを守ってきた地は、単に遺跡として残すわけにはいかない。豊洲移転、跡地の問題は都民のための都政ではなくなっている最たる例。しっかりと正面から取り上げて参りたい。結論を出して良かった、一歩立ち止まって良かったね、という結論を出したい」と誓った。

 関戸会長は「立候補者の方で、いらっしゃったのは小池さんが初めて。11月の移転はとてつもない作業。我々は本当は行きたくない。今日のお話を伺ったら、何とかなりそうかな、という気がする。都議会の面を考えても、小池さんがいいと思う」と期待した。

 と記事は、書かれているので、そのまま賛成ということでは、なさそうである。

 地元は、「本当は行きたくない」と言っているのである。

 

増田さんは、『移転賛成』の立場だろうから、現場には行きにくいのだろう。

鳥越さんのために出馬を断念した 宇都宮健児さんは確か、『移転反対』が公約だったと思うが、鳥越さんはどうなのだう。

 

 

   

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小池百合子 どんどんやるね! 今度は『応援歌』が出来た。 都政もこの調子でやれば『大東京改革も実現』する。なんだか独走状態になってきた。最後まで走り切れ!

2016-07-22 12:23:59 | 発想$感想

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カワサキの二輪事業と私  そのー6   ハレーのダンピング訴訟と国内構造対策

2016-07-22 10:00:29 | 自分史

 

★ 昭和53年(1978)になって、アメリカ市場でハーレーが、日本各社に対して、ダンピング訴訟を起こしたのである。日本4社がアメリカ市場を席巻しハーレー社の経営危機が言われていた時代である。

アメリカ市場中心で事業展開をしてきたカワサキは、アメリカ市場を担当するKMCの経営状態が即日本の事業本部の経営に大きな影響を与えたそんな時代、それまで堅調に発展を続けたKMCだったが、Zの時代も終わってオイルショックなどの影響も受けその経営が揺らぎだしたのである。

それに追い打ちをかけたのが『ハ-レーのダンピング訴訟』でこれに対応できなければ、カワサキの二輪事業の存立が危ないような状況に追い込まれたのである。

この『ダンピング対策』を担当したのが田崎雅元さん(後川重社長)で、当時の発動機事業本部は昭和53年春以来、企画室を中心にその対策案をいろいろ検討し、当時の川崎重工本社の財務部門もいろいろ協力したのだが、なかなかその成案を見なかったのである。

当時私は既に企画室を離れ、開発途上国のCKD事業を担当していたので、この問題には直接関与をしていなかったのである。

 

ダンピング』と言うのは、端的に云うと『安売り』だが、日本4メーカーが国内価格に比べて、アメリカ市場に『低価格』を設定することなど考えられないのだが、アメリカ独特のアメリカでの『流通経費率』以上は認めないという1点が、国内の多段階の流通経路による経費率の高さが『引っかかる要素』になってしまうのである。

特に当時のカワサキオートバイ販売は田中誠社長時代で苧野専務、加茂、清水屋常務など本社部門は川重の役員のような人たちで構成されていたし、川崎だけが他社3社に比べて1段階流通機構として多かったのである。

対策と言うのは、国内の流通経路対策だから、当時のカワサキオートバイ販売の構造対策なのだが、こんな大きな本社の人事対策も含めて、非常にややこしい対策が求められていたのは事実である。

本社財務や企画室のエリートたちが、いろいろ案を出すのだが、それがなかなか現状とマッチせずに半年が過ぎても成案を見るに至らず、9月になってしまったのである。

 

 

 

 これは、発動機事業本部から9月に常務会に上程した案に対して、当時の川重本社の児玉財務部長が自ら『見解』を書かれた『児玉メモ』である。 いま、こんな書類を持っているのは、多分間違いなく私だけである。殆どの方はその存在すらご存じないと思う。

この『児玉メモ』にも、発本が提出した『営研』と言う本田技研の技術研究所に対抗するような組織の問題が取り上げられていた。技術問題なら兎も角、日常問題が山積する販売会社には馴染まないのだが、そんな構造にでもしないと、経費率そのものが下がらないのだと思う。そのあたりの矛盾がどうもすっきりしないのである。

当時のカワ販は不良債権も現実に持っていて、それを営研などに持って行っても、解決などしないだろうと財務屋さんらしき指摘もあって、確かにその通りなのである。

そして、この問題がまたしても宙に浮いてしまった9月の後半、突然当時の発動機事業本部長の塚本碩春本部長に直接呼ばれて『カワ販問題』を担当するように指示されたのである。

 

★その問題対策に取り掛かるにあたって、一番最初に私がチェックしたのが、この『児玉メモ』なのである。

大企業の本社部門と言うのは、一種独特で、本社に上がってくるいろんな案件は形の上では社長や常務会、取締役会で承認されることになってはいるのだが、現実はここのスタッフたちが納得しなければ、いろんな案件は通ったりはしないのである。

そんなことなので、本社の頭脳のような『児玉部長』がどんなことを考えているのか?をまずチェックしたのである。

 

こんな対策案など仕組みの創造は私の専門分野で、すぐ具体的な大枠は私自身アタマに浮ぶのだが、その案が財務規約法律との整合性などについては、そのあたりの知識に詳しい専門家の分野なのである。私はめっきりその辺が弱いのでいつも自分の弱い部分を補ってくれるメンバーと協働することにしているのである。

このメモは5ページに亘っているのだが、確かにご指摘の通りのこともあるのだが、『現実には合わない』おかしなところも散見されて、そのあたりを考えながらの『私案を』10月から私独特のスタッフ、前田祐作くんなど財務に強いメンバーを集めて、私が創る『仕組みの財務的な整合性』をチェックしながら、1ヶ月ほどで仕上げて、当時は単車から本社の財務本部長に戻られていた堀川運平さんに説明に上がったのである。

堀川さんは、私の説明をさらーっとお聞きになって『古谷くんが1ヶ月も掛かって考えたのなら、その案に乗りましょう』と言って頂いて、この新カワ販構造計画案は、12月の常務会に上程され、そのまま承認されるのである。

 

   

 

 この概略図が、12月の常務会に提出されて、承認されたのだが、この時のカワ販本社は10数名に縮小し、経費率が上がる部品部門は別会社にして、従来カワ販本社におられた社長以下専務、常務など川重の役員クラスの方をみんな除けてしまったドラスチックなものだったのである。

そして川重営業担当部門との一体運営にしておけば、実際は北日本から九州までの現場担当の方たちが日常の営業活動は大丈夫やれると思ったのである。

当時のカワサキオートバイ販売100億円の売上従業員は400名のそこそこのグループだったが累損は10億円もあって問題グループであったことは事実である。

その最終案にそった新カワ販の小さな本社の組織案を12月末に、高橋鐵郎さんが当時の財務担当の大西副社長のところに持っていったら、『これは実際には誰が旗を振るのか?』と聞かれて『古谷です』と答えられたら『それなら古谷くんを常務に・・』と大西さんが仰って、当時私は46歳の川重の未だ課長だったのだが、総勢400名のカワ販グループを常務と言う肩書で引っ張ることになるのである。

形の上では、社長は塚本事業本部長副社長は単車事業部長の高橋鐵郎さんと、対外的には従来以上の人たちで世間対応をしたのだが、実務は当時課長の私が常務として、川重の営業部門在籍のまま兼務したのである。

  

 

★ 人間、半分は運かな と思っている。

特に成算ががあってこんな形にしたわけでもないのだが、昭和54年(1979)にはあの400FXが世に出たのである。

それまでにもW1 や、Z2などヒット商品も出たのだが、台数的には400㏄のFXとは売れる台数の桁が違ったのである。 放っておいてもどんどん売れて、バックオーダーも続き、バックオーダーが出ると、値引きは要らぬし、販促費も要らないのである。 

何もしなくても、車を特約店の店頭に届けさえすれば、右から左に売れたのである。そんな幸運も重なって、カワ販グループの累積損も、ほぼ2年で綺麗に消去されたのである。

 

この時期は、ホントに私が何をしたではなくて、ひとえに400FX サマ様 なのである。

二輪事業と言うか、量産事業は数が売れたら、その成果はめちゃめちゃ大きいのである

仮に10万円の粗利のある商品は、100台で1000万円、1000台で1億円、1万台も売れたら10億円になるのだが、これが逆になると10万円の値引きなど当たり前なのである。

『頑張ろう』とすると、この罠にはまってしまうのである

 二輪事業とは『いい仕組み』『いいネットワーク』を創って、頑張らずに遊んでいたら一番うまく行くのである。その仕組みの中の大きな要素が商品だから、商品開発が一つの『キー』であることは間違いないのだが、その商品を上手に使ってバックオーダーが切れないようにコントロールすることを、素人は忘れてしまうのである。

 

この時期2年間ほど、私は毎月課長の分際で、財務担当の大西副社長に国内グループの経営状況を直接報告することを義務付けられていたのだが、毎月経営状況は好転して、累損も消えてしまったのには大西さんもビックリされて『君は2年前に計画を出したときに、こうなることは解っていたのか?』などと仰るのだが、そんなことはこの時期は一切なくて、ひとえにFXのお蔭であったのである。

 

 

閑和休題

● この時期、私のような現役の若手が、カワ販グループと言う川崎重工業の関係子会社を担当することなど皆無で前例などないのである。川崎重工業の関係会社社長会と言うのがあって、年に数回、川崎重工業のトップメンバーとの会議とか懇親会があるのだが、大体関係会社の責任者は、川崎重工の元役員さんなどが務められていて、私のような現役はいないのである。

そんな会議に46歳の若さでただ一人出席し、60才以上の大先輩たちと一緒に会食などをしたりしたので、そんな経験は段々と『少々のことには動じない』厚かましさみたいなものも身に付いたのかも知れない。

この会議に出席していたら、ある時大西副社長が、『君はなぜ、ここにいるのか?』と不思議そうに仰るのだが、これは大西さんが私を『常務にしたこと』などすっかりお忘れで、その後は一課長からの月例報告として聞かれていたに違いないのである。カワ販の社長は塚本常務だから、塚本さんは川重の役員として出席されていたので、私が代わりに出席していたのである。

このほかにも、当時私は、かってのカワ販の社長以下重役さんたちは顧問のような形で、社内にはおられたので、毎日昼飯だけはご一緒していたのだが、これを見て当時の田崎雅元さんが、『古谷さんは、ようやるな。俺はそれは出来ないな』と感心してくれていたのである。

今現在は、ちょうどこの時期とちょうど逆で、83歳のおじんのくせして、20代、30代、40代の人たちともトモダチのようなお付き合いが出来ているのである。

 

 

会社の経営危機などいろいろあって、商品の販売好調程度で立ち直るのは、ある意味大したことはないのである。

ヒット商品や、経営努力ではどうしようもない段階になってしまったのが、例えば『シャープ』、 これくらいになるとどうしても『おカネの力』がなければ解決できないのである。

カワサキの二輪事業も、このあとすぐそれに近いレベルの危機に見舞われるのである。

 

 

● カワサキの二輪事業と私 ―その1  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/5b28a7202c92e084c7df5f0632c1061c

● カワサキの二輪事業と私 ―その2    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/87a9e3fa841d6ad56654a7c1db9ec39b

● カワサキの二輪事業と私 -その3    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/db0f69c48e73631f572bf4e6dee220be

● カワサキの二輪事業と私 -その4    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/7056cbe3357e995cff4b2a38fd7ab149

● カワサキの二輪事業と私 -その5     http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/4f03e9a2766e5131ec9c8c0143dacf66

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高橋鐵郎さんを偲ぶ会

2016-07-22 05:51:13 | カワサキワールド

★ 昨日は 高橋鐵郎さんを偲ぶ会 と言う名目で、灘の酒心館 にこんなメンバーが集まったのである.

 

この酒心館は、高橋鐵郎さんがお元気だった生前も、単車のメンバーたちが集まって、高橋さんを囲んで、定期的に昼から飲んでいたそんな場所である。

 

    

   これは昨日集まった8人。

  カワサキの単車の激動期支えたメンバーと言っていい。

  前列真ん中が、この会の主宰者桑畑禎文さん、左が北村敏さん、右が阿二眞三郎さん、

  後列は左から、井川清次さん、野田浩志さん、私、大前太さん、一番右は川崎芳夫さん。

  

  次回の 『カワサキ二輪事業と私』 の中で、それぞれの方のエピソードなど紹介してみたいので、ご期待ください。

 

   灘の酒心館の さかばやし  とは、こんなところだが昼から開いている。

 

   

 

  灘の旨い酒  福寿を飲んで語ろう と言う会は、高橋さんの生前は

 高橋鐵郎さんを中心に、田崎雅元さんや、柏木茂さんなども定期的に集まっていたのである。

高橋さんや、田崎さんが出席できなくなって、私はちょっと中断していたのだが、新しいメンバーが加わってまた続いていたらしい。

 

   

  福寿の生酒、 灘の蔵元でしか飲めない 味である。

 

 そんな 旨い酒を 昼から飲みながら、 いい時間が過ごせたのである。

 そんな飲み会と そのあとの様子を、動画に撮ってきたので、ご覧になると雰囲気がお分かりいただけると思う。

 

  

         https://www.youtube.com/watch?v=ZTJiK_v3WN8

 

  なかなか量り売りはしていないという 福寿の生酒を井川くんが買っていた。

  動画の中から切り取った写真だから、動画を見れば、この美人の ナマの声と講釈も聞けますよ。

 

    

  

 

   

 

  こちらは、ノーベル賞の授賞式の晩餐会 に出された 福寿のお酒

  なぜ、そんなことになったのか?  なぜ福寿が選ばれたのか? などなどについても、別のお嬢さんがその経緯を語っ  てくれている。

 

 

   

 

  こちらは、支配人の湊本さん

  お酒ならぬ ワインの ソムリエの資格をお持ちだとか。 その辺の講釈も聞いてきた。

 

 

  なかなかいい 昼のひととき でした。

  高橋さん、天国からご覧になってたでしょうか?

 

  

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我が家のブラックベリーです。ラズベリーかも知れません。買った時はラズベリーと書かれてました。

2016-07-21 07:43:36 | 発想$感想

        

 

  ずっと『ラズベリーだ』と思っています。園芸店で買った時、ラズベリーと名札が掛かっていました。

 アメリカの娘が、それは『ブラックベリーだ』としつこく言ってきます。

 

 『ブラックベリー』で検索すると、こんな場面が出てきました。

 

  

 

   やはり『ブラックベリー』かも知れません。

 

 

        『ラズベリー』で検索するとこんな写真が現れます。

 

    

 

     赤と黒があるようですが、写真は圧倒的に赤ばかりです。

 

     そんなに美味しくもないのですが、『目にいい』などと言いますので努力して食べています。

     果実酒 にすると綺麗なお酒になるのですが、今年は、ちょっと遅くなり過ぎました。

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