雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

オートバイ神社 &  川崎神社   雑感

2019-07-17 04:59:15 | カワサキワールド

★昨日Facebook の私のページに、
 吉田純一さんがこんな『オートバイ神社の記事』を寄せてくれた。

            


 また一つ、東京に『オートバイ神社』が新しくスタートしたようである。


 

 
 
このプロジェクトは、今は一般社団法人・日本二輪車文化会長の吉田純一さんが、数年来熱心に進めているプロジェクトで、ベタータイムスの森田伊活さんなども応援をしているし、 

吉田純一さんも、彼とカワサキの同期の柏原久さんなども神主の資格を取って、推進をしているプロジェクトなのである。


  


 
何年か前に浜田市に吉田純一さんが自ら地元の方と一緒に立ち上げた神社が第1号なのである。 
                                                   (2014年10月7日とある)

   


  


 


今は全国各地に、幾つもの『オートバイ神社』が出来ていて、オートバイユーザーのツーリングの目的地にもなっているようである。
  

 
このような、それこそ日本独特の『オートバイ文化』が定着したらいいなと思っていて、私は陰ながら応援しているのである。



★ 話はちょっと変わるが、
  こんな立派な二輪車と関係のある神社があることをご存知だろうか?


  

 
   この神社の名は『川崎神社
 明石のカワサキの単車工場の中にあるのだが、カワサキの方でもあまりご存じない方も多い。

 今の川崎重工業の社長さんはご存知だろうか? 
 
 これは、昔からあった神社を 髙橋鐵郎本部長時代に、改めてこんなに立派に創られたのである。 


  

   既に、こんな写真で、こんな英文で Facebook ページに紹介されている。

There is a Shinto Shrine in KAWASAKI AKASHI FACTORY.
I was visiting there and praying to the God yesterday.
May KAWASAKI's God protect to all of KAWASAKI MC and our Z1s forever!!


この立地は工場の正門のすぐ右手にあるのだが、かっての研修センターの裏側に位置していて、目につかないのでご存じない方も多いのだが、知ってる人は工場を訪れた外国人の方でもご存じなのである。

 
これは『私の夢』の一つなのだが

カワサキのOBで且つ 二輪車文化協会会長の吉田純一さんが陣頭に立って進めている『プロジェクト』の中の
 『オートバイ神社・明石の川崎神社』になればいいなと思っている。

 この神社の立地は、その気になってちょっと障ると、明石工場とは別に国道から神社だけに直行できる絶好の場所に位置しているのもよくて、自由に一般の方が参拝できるようになる可能性がある。

 

 現在のカワサキの二輪車事業に従事されている現役諸君の中に、
 吉田純一さんや、私などの
 『カワサキOBが思うような同じ発想の方はおられないのかな?』
 と思ったりするのである。

 1990年代に髙橋鐵郎さんが折角これまで立派にされた神社が、
オートバイユーザーの想いと共存出来たらいいな』と思っているのである。
多分、間違いなく髙橋鐵郎さんも喜ばれることだろう。

 

 『人は死ぬまで夢をもて! その夢が叶わなくても、しょせん夢だから

  

アメリカの孫が、気に入ってた佐賀県武雄市長だった樋渡啓祐さんの言葉である。




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カワサキアーカイブス  私が入社したころの川﨑航空機工業という会社  その4

2019-06-30 07:07:58 | カワサキワールド
 

★ 私は昭和32年(1957)に川崎航空機工業に入社したのだが、新しく明石に単車の一貫生産工場が出来て、オートバイの生産が始まったのが昭和35年、私が初めてできた単車営業に異動したのが昭和36年11月なのである、
 
 それまで会社としても全く未経験分野の民需商品の末端販売は、『上の人たち』先輩たちも未経験の分野だったから、それを担当したのはその当時に入社した若い人たちが殆どだったのである。

 私より上の人たちで言うと、アメリカ市場を開拓した浜脇洋二さん、後Z1を開発した大槻幸雄さん、レースも担当しF21Mのエンジン開発の安藤佶郎さん生産関係を推進された中村治道、髙橋鐵郎、川崎芳夫さんなどだが、
むしろ、私より後の33年度入社の田崎雅元・稲村暁一、34年の北村敏、35年は百合草・武本・種子島、上月くんなど名前が書ききれないほど多数、36年は野田浩志、佐伯武彦、37年は前田、小池くんなど、38年の井川くんと続くのである。

カワサキの創生期の時代を引っ張った人たちとはこんな入社早々の若手だったのである。

 特に昭和38年(1963)頃からの海外市場の現地に赴いたのは、すべてと言ってもいい『若手諸君』だったのである。
 そんな若手に任さねばならなかったのは、事業の事情から言って『仕方がなかった』のだと思うが、任された若手もよくやったものである。


 当時の川崎航空機工業自体が若い会社で、全軍の指揮をとられた岩城良三本部長も今で言うなら部長クラスの年齢だし、技術の山田熈明、営業の苧野豊秋さんなども新人課長であった時代なのである。

 そんな経験をしたものだから、私自身は『人間は年と共に成長する』などはウソだと思っていて、人間20歳になれば既に何でもできる判断力も実行力も身についているのだと思っている。
昔の戦国武将の活躍がそうだし、川崎航空機時代の若手も、それに負けない活躍をしたのである。


  
★当時はカワサキも4輪の開発も手掛けていて、もう殆どできていたのに、当時の川崎重工や川崎製鉄の『グループのトップ層の反対』で陽の目を見なかったのだが、これが昭和35年頃の話で『4輪がダメなら二輪』ということになったのかも知れない。この4輪の4サイクルエンジン開発を担当したのが昭和33年入社の稲村暁一さんなのである。


  



★山田淳一さんが纏めてくれた記事には、このほかにこんな源平芸能合戦や、当時のレース関連のことも入っているので、ご関心のある方はご一読を。
こんな感じのオモシロい自由な雰囲気の会社で、こんなことを担当してたのが、入社して間もない私だったのである。












★ それにしても『よくやったな』と思う。
 当時は二輪メーカーは100社以上もあって、大企業の三菱・富士重・トーハツ・BSなどもいたのだが、浜松のホンダ・スズキ・ヤマハの特に営業面でのスピードに大企業はついて行けずにみんな脱落して結局『カワサキ』だけが残ったのである。
カワサキが残れたのは『第1線の営業を川崎航空機の人がやらなかったからだ』と私は思っていて、それはほぼ『間違いない』のである。

 最初は国内市場だけで『カワサキ自販』が担当したが、その時のトップは川航の専務さんだったが、『従業員は全てメイハツ・メグロの人』でスタートしたのである。

 海外のアメリカ市場は、濱脇洋二さんが旗を振られたのだが、徹底した現地主義で実際の経営をやったのは『二輪知識の豊富なのアメリカ人たち』なのである。

今回のアーカイブスも今は12人の日本人が語っているが、次は二人のアメリカ人が『アメリカ市場でのカワサキの歴史』を語るようである。

 そしてヨーロッパ市場の開拓に乗り出したのは10年もあとのことだが、ヨーロッパを開拓したのは、メグロ出身の私より幾つか下の『内田道男』さんなのである。




  


 これは1988年10月に『カワサキファクトリーチーム25周年を記念』して私が主宰したOB会なのだが、当時の現役たちも参加しているのである。

25年前と言えば1963年・昭和38年のことだから、二輪事業がスタートしてすぐの時代なのである。

この1列目に座られている方が、『カワサキの二輪事業の推進者』だと言っていい。
 真ん中に西海義治さんを挟んで左に山田熙明、右に髙橋鐵郎・苧野豊秋・中村治道・大槻幸雄さんと続いていて、左側にはメグロから来られた糠谷さん松尾勇さん、
さらに第二列目には私の横が田崎雅元さん、平井稔男さんもいるし、3列目には北村敏さんも武本さんもいる。

 『カワサキアーカイブス』を創るのが少し遅かった。
 この方たちがご存命の頃に創ればいろんなお話が聞けたはずである。
 でも今回のアーカイブスでも、いま12名の方が語られているというのだが、この写真の中からも大槻・糠谷・田崎・私と4人の方が語られているし、この会には欠席の百合草三佐雄さんも12人の中に入っているようなので、当時のレース関係者は、その後のカワサキの二輪事業の中枢を担ったと言ってもいいのである。

 この写真、ライダーたちも、安良岡健・山本隆・歳森康師・金谷秀夫・星野一義・清原明彦などなど有名人がいっぱいなのである。
 
 みんな川崎航空機工業時代を生きた人たちなのである。

川崎航空機工業という会社、その後の川崎重工業とはちょっと違った自由な雰囲気のあった『オモシロい懐かしい会社』だったし、そこで働けたこと、仲間たちに出会えたことが、今の私に繋がっていると思っている。
 
 『私が入社したころの川﨑航空機工業という会社
 4回続けての掲載だったが、コレで一応終わりにしようと思っている。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 






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カワサキアーカイブス 私が入社したころの川崎航空機工業という会社  その3

2019-06-29 05:34:05 | カワサキワールド


★昭和36年当時、カワサキに初めて単車営業課が出来て、私が異動したころの話である。
 それまではエンジンだけを造っていたカワサキが明石に一貫生産工場を造ってオートバイの生産を始めたのである。
 当時の川崎航空機工業でも初めてのことで、『造る』のは兎も角、『末端に完成品売る』という経験など全くない時代のことなのである。

 当時はトヨタもトヨタ自販とトヨタ自工があって、それを真似たのかカワサキも『カワサキ自販』を造ってその社長は川崎航空機の専務が兼務したりしていたのだが、従業員は旧メイハツやメグロの人ばかりで、その会社に単車を売る営業を私が担当していたのである。
 次項でちょっと紹介するが、その頃カワサキも4輪車の開発をやっていて、Zのエンジンを担当した稲村暁一さんは、そんな4輪のエンジン開発を担当していたのである。

 まずはこの時期の話、読んでみてください。




 
 







★当時のカワサキ自販の総務課長兼広告宣伝課長をしていた『小野田滋郎』さんは私が現役時代出会った人の中で『最高に凄い人』だった。 
 旧い私のブログの一文に小野田さんのこと、こんな風に書いている。

  




カワサキのレース活動は『青野ヶ原モトクロス』のB8で始まったというのが定説だが、実はもっと前のB7の時代にカワサキ自販で小野田滋郎さんがヤマハから三橋実を引っこ抜いて始めているのである。
 三橋実は、日本でのはじめての鈴鹿サーキットであった本格的なロードレースの250㏄のチャンピオン(ヤマハ)なのである。
 彼が厚木に創った『カワサキコンバット』には安良岡健なども参加したし、あの星野一義もそこからレースを始めているのである。

こんな話を知ってる人は、カワサキの中でも今ではホントに少ない。
明石のカワサキの中では、井出哲哉さんがこのB7のモトクロスには個人的に絡んでおられるのである。
 このB7に乗ったライダーが三吉一行、不思議なことに若い頃の本橋さん(ヤマハ)も乗ったことがあるとか、これはご本人から聞いた話である。

                 (つづく)

 
 
 
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カワサキアーカイブス 私が入社したころの川﨑航空機工業という会社  その2

2019-06-28 05:49:27 | カワサキワールド


★続きもモノの 『私が入社したころの川﨑航空工業という会社』 第2話である。

 3ページ、4ページ目は文章ばかりだが、ここにご紹介するので、まずその文章をお読みになってみてください。

  
 




★ざっと、こんな話なのである。
 私は昭和32年(1957)入社なのだが、最初は財産課に配属されて昭和36年11月に新しくできた単車営業課に異動するまでの約4年間の話なのである。

 私が入社した時の給料は12000円で、考えられないほど安いのだが、日本のその当時はそんなレベルだったのである。
まだまだ貧しくて、会社の机や椅子や自転車なども、今では考えられないほど皆さん『欲しがる』ので、新人ながらその分配権を持っていた私は、明石工場全体に結構『顔を売っていた』オモシロい時代だったのである。

ここでは、私が入社してすぐ配属された『財産課の償却計算』の話が主題になっている。まだこのころには日本にはIBMという会社もない時代なのである。

私自身は財産課で大量の工具器具備品の償却計算を担当していて、その償却計算に掛かる時間が『大変』だったのである。
なぜ、私が工具器具備品の担当になったのかというと、これは財産課の先輩たちに『はめられた』かも知れないのである。 
新人社員が入ってきたということで、担当分けをしようと仰って、財産課には土地建物から機械器具などいろいろムツカシイ分野もあるのだが、土地の所有権の問題や機械の処分など専門知識がいるムツカシイ分野よりは『机や椅子や自転車なら解るだろう』と言われて、私の担当は『工具器具備品と車輌運搬具』となったのである。
確かに、その分野はそんなにムツカシクはないのだが、償却計算だけは、その数が何倍もあって、1年中計算機を回し続けないとできないほどの量なのである。
 そんなことから『償却計算の機械化』をそれもIBMを使ってやろうというような『それたこと』に挑戦したのだが、新人でも好きなことを自由にやれる『会社の雰囲』があって、新人の私が『IBMでの償却計算の機械化』に取り組んだのが入社2年目のことなのである。

そのための『品名のコード化』などを本社も岐阜工場も含めて大掛かりでやったので2年程掛かったのだが、なんとか完成したのである。
そんな償却計算の機械化が完成すると財産課に計算する人間など不要になったので、私は新しく事業化された『単車事業』の新設された『単車営業課』に異動することになったのである。 

★従来は明石工場ではジェットエンジンと発動機の小型エンジンを扱っていたのだが、昭和35年度(1960)に明石工場に単車の一貫生産の工場を建設して『カワサキの単車事業』がスタートするのである。

 その生産工場に移ってきた人たちはその殆どがジェットエンジン工場からで、私がその後関係の深かった苧野豊秋髙橋鐵郎・大槻幸雄・田崎雅元さんたちはみんなジェットエンジンから来た人たちで、カワサキの生産管理システムなどは当時のアメリカの新しいシステムが採用されたりして、部品ナンバーの取り方一つにしても、当時の日本の最先端を行っていたのだが、オートバイを造ったり、それを売ったりするのは初めての経験で、それはなかなか大変だったのである。

 特に私が異動した新しい単車営業は、先任者など誰もいなくて新人の私が新しいシステムをそれこそゼロから創っていったのだが、性格的に『太平楽』だったので務まったのだと思うのである。

 いよいよ次回から『カワサキの二輪事業』の創生期の話がスタートするのである。
            
                         (つづく)
     
 
 
 
 
                       





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カワサキアーカイブス 私が入社したころの川崎航空機工業という会社  その1

2019-06-27 05:36:55 | カワサキワールド


★今年の2月にインタビューを受けて、私の『カワサキのアーカイブス』は始まっているのである。
膨大な当時の資料をお渡ししたものだから、それを纏めるのに4ヶ月も掛かっているのだが、その内容は見事に纏まっているのである。

 そんなデイスクの1枚に『古谷錬太郎 関連データー』というのがあって、その中には、私が提供した膨大な資料などが全て収められているのだが、

 
           

 
 
その中の一つに『私の入社したころの川崎航空機工業という会社』 という項目がある。
これは、このプロジェクトの一員としてインタビューアとして活躍された山田淳一さんが、私のブログの中から、『川崎航空機時代』を纏めて集約された労作なのである。
  一番下の資料がそれである。

      
 

★私も読んでみて、これは間違いなく私が書いたものなのだが、こんなに延々と纏めて書いた記憶もなかったので、山田さんにお聞きしたら、私のブログの幾つかの『川崎航空機時代の話』を繋ぎ合わされたようなのである。

 それが結果的には、『川崎航空機工業』という会社がどんな会社だったのか、当時をよく表しているのである。

 私は昭和32年(1957)に川崎航空機に入社したのだが、なかなかオモシロいと思うので、ちょっと連載で、私なりの感想を改めて加えながら纏めてみたいと思っている。

 『カワサキはオモシロい』と感じる方がもしおられたら、川崎航空機という会社がオモシロかったから、そうなったのだと私は思っている。
 
川崎航空機は、戦前からあった歴史のある会社なのだが、戦後軍事産業であったことから中断されてしまって、昭和27年(1952)に再開したのである。
その後、昭和44年(1969)の3社合併で川崎重工業となるまでの17年間存続した会社なのだが『カワサキの単車事業の創生期』は、川崎航空機工業籍の人たちで創り上げられたのである。

 それはどんな人たちで、どんなことをしていたのか?
 どんな会社だったのか? 

 この資料はそう言う意味では『アーカイブス』そのものなのである。

 山田淳一さんが纏めてくれた資料は16ページに亘っているのだが、それらを順次ご紹介しながら、改めて私の感想を加えていきたいと思うのである。
 まずは冒頭の2ページである。


   

★ まず、こんな書き出しで始まっているのである。
この工場は明石の西、『西明石』にあるのだが、私は元々が明石の生まれだし、小学生の頃に、伯父がやってたホテルが当時の川崎航空機の軍人たちの宿舎に徴収されたこともあって、個人的にも関係があったし、当時の川崎航空機のことも聞かされたりはしていたのである。

 どこまで確かなのかはよく解らぬが、多くの明石市民が徴用されていたし、その従業員は10万人などと言われていて、工場の道が広いのはそれくらいの巾がないと通勤に歩けなかったそうである。
 私たちが現役の頃、事務所になっていた建物を通称『二更衣』などと言っていたのだが、これは戦前の『第2更衣室』の呼び名の略で、その一事を見ても、何となく解る気がするのである。

私は財産課に配属されたので入社早々課長に連れられて会社の土地を見て回ったことがあるのだが、間違いなく今の2倍以上あったと思うし、西のほうでは当時の戦後の食糧難で、近くの住民が畑などにしていたりしてたのである。

当時の会社の経営は非常に苦しかったようで、爆撃でやられた工場の鉄骨や、土地や機械などの『売り食い』で繋いでいたりしたのである。

 こちらが2ページ目である。


 
 
 

この記事の写真にあるように工場の中の道幅はこんなに広いのである。
そして、再開された川崎航空機が定期採用者を多く採りだしたのは、私が入社した昭和32年からで、それまでの採用者はそんなに数は多くはなかったのである。

 後、アメリカ市場を開拓された浜脇洋二さんやZ1の開発責任者の大槻幸雄さんや、私と長くレースで一緒だった安藤佶郎さんなどは3年程先輩なのである。

 3年程と頼りないのは、当時のそのレベルの人たちは、旧制や新制大学とややこしかったし、長く私の上司だった髙橋鐵郎さんなどは海軍兵学校から、また大学に行かれたりしていて、上の方の歳はよく解らなかったのである。

 そんな方たちはみんな航空機に憧れて入社された方も多く、私も含めて二輪車など担当するとは全く思っていなかったのである。
 カワサキが少なくとも二輪事業をやってると認識して入社されたのは、昭和35年度以降の方たちだと思ったほうがいい。

 まずはそんな時代で当時は『ジェットエンジン』 と 『発動機の主として小型エンジン』を開発・生産していて、井関農機や、東洋工業やいすゞなどと関係があって、歯車・ミッションの納入などが主だったのである。
 二輪車のエンジンも作ってはいたが、エンジンだけを『メイハツ工業』に出荷していたのである。                   
                            (続く)

 
 
 
 
 
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慶睦会  雑感

2019-06-06 06:48:51 | カワサキワールド
★カワサキの国内販売関係を今担当しているのは『カワサキモータースジャパン・KMJ』なのだが、このグループはその生い立ちというか歴史からもなかなか複雑で、一般の会社のOB会とはちょっと違った形になっているのである。

 もともとのカワサキの国内販売を担当していたのは『カワサキ明発』だったし、その後はメグロとも一緒になったのである。
 普通一般の会社のOB会は最後その会社を退職した方で構成されるのが普通なのだが、カワサキの場合は、川重関係から出向してた人は、川重に戻ってしまうし、従業員でオートバイ屋を独立開業した人は、途中退社してしまうのである。

 そんな会社のOB会を創ろうと言われたのは元田中誠社長や苧野豊秋専務で当時の国内販社を担当していたのは私だったのである。
1989年当時の話だから、もう30年くらい前の話なのである。
 そんなに大きな会社ではないのだが全国展開だし、前述したような事情もあって、私が具体的に起案した内容は『カワサキの国内販社に1日でも在籍した人はOB会に入る権利がある』そして各地に幾つ創ってもいいし、『複数の慶睦会』に入ることもOKという非常に柔軟なルールにしたのである。

 当初は明石の他に東京・仙台・九州などに『慶睦会』があったのだが、いまは関西と東京の二つになっている。
今日の出席者を見ても販売店主や川重に戻った方たちもいて、なかなか多彩な顔ぶれなのである。

   

 集まったメンバーはこんな顔ぶれでホントに多士済々なのである。
 今回は昨年秋に叙勲を受けられた吉田純一さんのお祝いを兼てやろうという、平井稔男さんの起案で、吉田さんには会から記念品が贈られたのだが、肝心の平井さんが先月突如入院されて、いまは退院はされたのだが、残念ながら欠席だったのである。

 平井さんがいたら、もっともっと賑やかな会になったであろうに誠に残念だったのである。

  荒木会長から吉田さんに記念品の贈呈である。




  吉田さんからは、お礼のお言葉も頂いた。



 
 私も久方ぶりの出席だったのだが、乾杯の音頭と簡単なご挨拶を申しあげたのだが、このグループは『カワサキ自動車販売ーカワサキオートバイ販売ーカワサキモータースジャパン』と3度の社名変更がなされているのだが、当初は川崎航空機はホントに4輪の開発も手掛けていて、当時の自販の社長は川崎航空機の専務が兼務されていて、明石工場部門との会議などでは圧倒的に販社側が強かったのである。

そんな由緒のあるグループなのでかってのカワ販・KMJの社長は事業本部長が務められていて、歴代の社長は大庭・髙橋・田崎など川崎重工業の社長・副社長が兼務されていたのである。
そんなカワサキグループだが、叙勲を受けられたのは今回の吉田純一さんが初めてで、業界の発展に尽くされた吉田純一さんの功績は大きいものがあると思っている。

★なかなか和やかな雰囲気で進行した。

 寺西社長のご挨拶もあったが、事務局の上条さんのスピーチもよかった。

 

 帰る間際のワンショットだが、満足度がお顔に正直に現れている。

  
  

 2時間を1分に纏めてある動画だが、相変わらず『吉田一郎』さんは元気である。

 ご覧になってみてください。
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株 船場 

2019-04-26 22:52:10 | カワサキワールド

★突然だが、実は今日大阪の 株・船場に行ってきた。

 不思議なことだが、初めての訪問なのである。

 

     

 

 今は、ハーレーを扱う『老舗 株・船場』なのだが、私にとってはかっての『船場モータース』そして故岡田博さんが創られた『株・船場』で、カワサキとの関係は切っても切れない親密な関係だし、岡田博さんはカワサキにとって『かけがえのない恩人』なのである。

 そのご子息、今は岡田学さんが代表取締役で、ご兄弟のこともよく存じ上げているのだが長男の学さんにお会いして話をさせて頂いたのは実は初めてだったのである。

 

    

 

 初対面だが話は延々と続いたし、その殆どがハーレではなく、カワサキのことで、そこで出たカワサキに関係するメンバーの名前は、順不同で申し上げると

 岩崎茂樹・髙橋鐵郎・宮本進・古石喜代司・竹内優・久後淳一郎・吉田純一などかって船場モータースに密接に関係のあったメンバーの他に業界関係者としては忍者の伊藤彰さん・二輪車新聞の衛藤誠さん・吉村太一さんなどの他にヤマハオートセンターの杉浦さんのお名前も出たりしたのである。

 カワサキが初めて特約店制度を大阪で敷いた昭和48年(1973)ごろの昔話が中心だったが、その頃岡田学さんご兄弟は未だ学生さんだったので、そんな昔話は通じるのだが、直接お会いしてお話をしたのは初めてだったのである。

 

  

 

 なぜ、突然こんなことになったのか?

 真ん中お二人が岡田ご兄弟だが、左はKAWASAKI Z1 FAN CLUB の登山道夫さん、右端はバイク寺本龍寺の野間秀顕和尚さんである。

 実はバイク寺本龍寺の秀顕和尚はハーレーに乗っておられてちょっと前に友人と株・船場を訪ねられたそうである。

 その時カワサキの特約店のこんな認定証を見せて貰って、カワサキ特約店制度の正式認証第1号店であったことや、私の名前なども出たので、ビックリされたようである。

 今はバイク寺として登山さんなどカワサキのユーザーたちとも密接に繋がっていて、『是非一度ご一緒に株・船場に行きましょう』ということになっていて今日の訪問となったのである。

 

     

 

  残念ながら岡田博前社長ご存命の頃は、お訪ねできなかったのだが、いろんな形で繋がってはいたのである。

 

 これはハーレー・ジャパンの前奥井俊史社長と私とのツーショットなのだが、1998年頃、奥田さんがトヨタから二輪業界のハーレーの社長になられたころに、船場の岡田博さんから私に奥井さんのご紹介があり、当時4輪から二輪業界に来られた奥井さんにカワサキのいろんなことをお伝えしたことがあったのである。

 お会いしたのはこの写真を撮った大阪のカワサキ・プラザ1号店の披露の時が初めてなのである。

 

    

 

  その時は忍者の伊藤彰さんもいて、いろんな話になったのである。

 

    

 

  その日の帰りに、奥井さんは 株・船場にお寄りになったと岡田学さんは言われていた。

 株・船場はハーレーは老舗だが、ハーレージャパンとは直接関係はないのになぜかな?とずっと思っていたのだが、生前岡田博さんは中国語の学校の先生をされていて、奥井さんが若い頃にその生徒であった関係で繋がっていて、そんな関係で『二輪関係のこと』は『カワサキの古谷』に聞いてみたらと言われたようなのである。

 岡田博さんと電話ではあったがお話をしたのはその時が最後になったのかも知れない。

 いろんなご縁で繋がるものである。

 

 ハーレの旧い車を沢山見せて頂いた。

 安くても500万円ぐらいで、高いものは2500万円もするという、そんな車がいっぱいだったが、私にはよく解らなかったが、登山道夫さんは興味深々だったようである。

 そんな車やサービス工場の一部である。

 

    

 

    

 

    

 

    

 

    

 

★ ハーレーのクラブのツーリングには能勢の方面に行くことも多いようなので、そのうちにバイク寺本龍寺に行かれることもあるかも知れないのである。

バイク寺のご祈祷にはKAWASAKI Z1 FAN CLUB もいろいろと関係があるし、かっては『カワサキ』を主力に扱っておられた『船場モータース』なのである。

 いろんな形でバイク業界が広く横に繋がっていくことを期待したいのである。

カワサキZといえば、船場モータースとのお付き合いは、ちょうど Z2が国内に発売されたころのお付き合いなのだが、その時私は大阪の所長をしていて一番最初に来たZ2の15台の内12台を船場モータースに割り当てたのである。それくらいカワサキに対しての岡田博さんの貢献は大きかったので、そんな配分をしても他の特約店から苦情も出なかったのである。

残りの3台は当時やはりお世話になっていた、西形さん、堺の伊藤さん、浜寺モータースの徳野さんあたりに配ったのではなかったかと思っている。

 このSENBAのビルを建てられるころも、何となく繋がっていて、そのデザインなどは当時のカワサキにいた榊栄二郎君が確かお手伝いをしたのかなと思ったりしているのである。

 いろいろといい時間が過ごせた今日の午後だったのである。

 

    

 

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カワサキバイクマガジンでお会いした懐かしい方たち

2019-04-01 06:35:38 | カワサキワールド

★『カワサキバイクマガジン』毎号送って頂いている。

 

   

 

 当然のことながら『カワサキの話題』がいつも満載なのだが、今月号には現役時代の想い出いっぱいの懐かしいお二人が大きく出ていてびっくりした。

 

  お1人目は 『堺の伊藤彰さん』である。

 

   

 

   私が初めて伊藤さんにお会いしたのは、大阪の所長に就任してすぐの昭和45年(1970)だったはずである。

   未だ、こんなお店の『伊藤モータース』時代からのお付き合いだからもう50年になる。

 

     

   

私自身が現役を離れてもう20年にもなろうとしているのだが、未だにいろいろと繋がっている。

 カワサキの特約店制は、この時期から『カワサキ共栄会』ー『カワサキ特約店』へと繋がっていくのだが、その推進者が『船場モータース』の岡田博さんと伊藤彰さんだったのである。

 屋号も『伊藤モータース』から転々と変わって、今は『忍者』だが、まさにカワサキ一筋に生きてきた人と言っていい。

 そんなお付き合いだと言うこともあって、突然『飲み屋』から電話があったり、突然こんな贈り物が届いたりするのである。

 

   

 

  『旨かった』などとうっかりお礼を言うと、次々に送られてくるので、お礼の言い方も難しいのである。

 

     

 

 伊藤さん、営業マンに対してもなかなか厳しくて、『堺の伊藤さん』の営業が務まると『一人前』だと言っていい。

 ごく最近、カワサキの慶睦会というOB会の会長をしている荒木くんと会ったのだが、その時も『伊藤さんの話』になったりしたのである。

私は覚えていないのだが、荒木くん大阪で『伊藤さんの担当をした』と仰るのである。そう言えば伊藤さん、どこかの飲み屋から『今、荒木と一緒に飲んでる』と電話があったりしたのである。 飲むと直ぐ私に電話が掛かってきて『金谷秀夫の店で飲んでる』と電話があった時は、確か九州のどなたかと一緒だったはずである。

 伊藤さんと付き合いのあるヒトはなかなかオモシロくて、金谷秀夫とも繋がってたし、吉村太一ちゃんとも、名古屋のMr.Bikeの斎藤さんとも仲がいいのである。

 私自身も、現役時代からいろんな販売店の方とのお付き合いがあったのだが、

 前述した大阪の特約店制をスタートさせるとき、わざわざ東京から応援に来てくれたのが、当時の城東カワサキさんと北多摩モータースで、このお二人が既に東京地区ではスタートしていた特約店制について大阪の候補店を集めた席上で話をしてくれたのである。

 

 ★そういう意味では、当時のカワサキの販売店政策は、販売店自身がその展開に熱心だったのである。

 当時、日本のカワサキでダントツの販売台数を誇っていたのが北多摩モータースだったのだが、カワサキバイクマガジンに

 載ってた『多摩ショップの金子武人』さんは、北多摩モータースの根本さんと関係があって、当時バイク業界にはずぶの素人で入ってこられたので、私もよく覚えているのである。

 

    

 

  創業されたのがZ2の頃だとか、ひょっとしたら私が東京営業所長を兼務していた頃かも知れないのである。

 昔のことは、ホントにすぐ忘れてしまうのだが、いまも facebook などで毎日繋がっている プロショップ西郷の西郷さんは、確か『多摩ショップ』からのスタートだったのでは?

 カワサキの多摩営業所からスタートした『多摩ショップ』も、伊藤モータースからスタートの『忍者』も、今ではカワサキバイクマガジンに紹介されるような立派なお店に成長して、ご同慶の至りなのである。

 でも伊藤さんが74歳、金子さんが75歳、写真ではまだまだお若く、お元気そうで何よりだが、もうそんなお年なのである。

 お店を初めて50年というと当然そうなるのである。

 その間いろいろあって、今のカワサキがあるのだろう。 感謝!

  

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カワサキZのシリンダーヘッド再生産  雑感

2019-03-17 06:47:09 | カワサキワールド

 ★『カワサキZのシリンダー・ヘッド再生産』 こんなニュースが流れた。

 Zのユーザーたちの喜ぶ顔が目に浮かぶ。

 Z2が国内市場に販売されたのは、昭和48年(1973)のことで、当時は私も大阪地区の営業担当をしていたのである。

 当時の新車の販売価格は42万円ぐらいだったのだがそれから40年近く経っていまZ2の中古車の価格は200万円を超える人気なのである。

 三木が本拠のKAWASAKI Z1 FAN CLUB       の人たちとは密接に関係しているので、Zに関する情報は細かく耳にすることが出来るのである。 ホントにその熱心さと詳しさにはびっくりしてしまうのである

 

          

 

  http://z1fc.com/     ちょっとクリックしてみてください。

 KAWASAKI  Z1 FAN CLUB はこんなに確りとしたファンクラブなのである。

 

このニュースも非常に早く流れて、先日3月7日に大阪であった『吉田純一さんの旭日小綬章綬章記念パーテー』の席上でも話題になっていたのである。

 

    

 

ニュースはこのように伝えている。

川崎重工業は3月1日、大型2輪車「Z1」「Z2」シリーズのシリンダーヘッドを愛好家向けに再生産すると発表した。2019年秋より同社特設サイトで注文を受け付ける。初回生産個数は1000個で、価格は未定。注文状況に応じて増産を検討するとしている。

 Z1とZ2は、国外向け輸出仕様として1972年に発売された「900 super4」の型式「Z1」、1973年に発売された「750RS」の型式「Z2」として呼ばれるモデル。Z2は国内で累計2万台以上を販売、Z1は世界で累計十数万台以上を販売して、ともにカワサキのモーターサイクルを象徴する歴史的なモデルとなった。

 発売から約半世紀が経ち旧車と呼ばれるモデルとなっているが、同社では、現在でも世界中のライダーから愛されていることや、レストアにより実際の走行が可能な車両が数多く現存していることから、両モデルのオーナーのニーズに応えてシリンダーヘッドの再生産を決定した。

 

★このZ1・Z2の開発責任者をされたのは大槻幸雄さんで、そのエンジン担当が稲村暁一さんなのである。 

 このお二人がZを世に送り出したのだが、アレから40年近くも経って、『このZのシリンダー・ヘッド』を世に出すことになったきっかけも、このお二人が密接に絡んでいるのである

 もう3年も前の話だが2016年の『山口Zミーテング』がその年の4月に開催されて、そのミーテングに出席されたお二人に、Zユーザーたちから『シリンダー・ヘッド再生産』の要望が強く出されたのである。

 

     

 

その話を受けて、大槻・稲村のご両人が、当時のカワサキの二輪事業トップの方たちに『何とか再生産が出来ないか』と要望されたのが、2016年6月9日のことなのだが、それから3年何とか実現したのである

 簡単なようで、このような部品を再生産することは大変なのである。その間、いろんなことがあったようだが、メーカーの努力もさることながら、大槻幸雄さんの熱意が通じたのだろうと思う。

 今年も『山口Zミーテング』は4月に開催されて、多分大槻さんも出席されるのだろうから、これはまさしく「いいニュース」で、ホントによかったなと思っているのである。

 

 今のところ価格も未定のようだが、Zのユーザーたちにとっては、最高のニュースであることは間違いないのである。

 大槻さんとは、それこそZ1会というゴルフ・コンペなどでずっとご一緒なので、こんな『Zのシリンダー・ヘッド話』も知っているのである。

 世のZファンにとって、新車が世に出て40年経とうとしている今も、開発者の大槻幸雄さんの恩恵をその再生産部品でも受けることになるとは、ホントに不思議なご縁ではあると思うのである。

 Kawasaki. Let the good times roll !

  まさに、カワサキの基本コンセプト 通りのことなのである。

 

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カワサキワールド 雑感

2019-02-19 06:09:16 | カワサキワールド

★『カワサキワールド』 カワサキの独特の世界なのである。

神戸の『カワサキワールド』は、田崎雅元さんが社長時代にふとしたきっかけで出来たまさに『カワサキらしい展示場』で、神戸市の神戸海洋博物館の中にある。

 

     

   

昨日はそこに『熱烈なカワサキファン』と、『レジェンドと言っていい人たち』が集まった。

毎年春にあるカワサキワールドの催しの最終日の日曜日に、KAWASAKI Z1FAN CLUBの人たちを中心に集まるようになって、もう何年になるのだろう? 

  https://www.nicovideo.jp/watch/sm34651293

 まずはこんな動画に纏めたので、ご覧ください。

 どんな、雰囲気でどんな集まりなのかが解ります。

若し参加したいと思われるカワサキファンの方は、来年の催しの最終日の10時にカワサキワールドの前にお集まりになればいいのです。

来年は名古屋から鶴田竜二さんが参加するとの予約が入ったりしました。

  

 

★昨日『集まったメンバー』の写真の中から、順不同にに幾つかを並べてます。

 

まずはレデイファースト、東京から来られた川崎由美子さんと、腰山峰子さん、Sonoko Kusumotoさんの常連組。

    

 

      平井稔男さんは、女性に囲まれると、腰が伸びるのかな?

       この写真は、ちゃんとお立ちである。

           

 

開門前に集まった人たち。

今年は川重元社長・会長の田崎雅元さんがやってきたし、山本隆さんんもやってきた。

カワサキが初めて鈴鹿サーキットを走った85J1のマシンを都合してくれた田崎さんモトクロスに行くと誤魔化してお金を都合した、そしてモトクロスライダーながら鈴鹿を走って、ホンダ・ホンダ・カワサキと見事3位に入った山本隆さんの3人組が、真ん中に並んでの記念撮影なのである。 

 

      

     

 

 

 先日、カワサキの歴史インタビューをしてくれた山田淳一さん、17日にいらっしゃいと誘っていたら、ホントにやってきた。その向うでこちらを向いてるのが、カワサキワールドのこのイベントの担当者『ぼけちん』さんこと吉田高広さん

       

  吉田さんとは、この広場で毎年開催される『ミニトレイン・イベント』を 田崎さんと3人で一緒に進めたこともあって、このイベントにも繋がっているのである。    その右は山本隆さんの弟さん。

私は、現役時代には、山田さんは知っていたが、仕事上では関係なかったのだが、田崎さんは東南アジア関係で、いろいろ関係があったとか・・

       

 

  現役時代、カワ販は私の故郷みたいなところだが、その頃何かとお付き合いのあった国松君と久しぶりに。 

  平井稔男さんとのスリーショット。

      

 

 田崎さんが来ていると、神戸海洋博物館長の岡本さんが、ご挨拶に。

神戸市からの出向で、私たちのバイク仲間の神戸市の藤田修司さんのこともよくご存じだった。

 

      

 

 

田崎さんは、初対面だったが川崎由美子ご夫妻・ 川崎は旧姓で ご主人は川重ロボットの営業岩瀬理事さんなので、岩瀬さんも、カワサキの大型バイクに乗られる『バイクマニア』さんなのである。 

先日吉田純一さんにこのイベントのことを言ったら、その場で川崎由美子さんに連絡してくれて、お見えになったのである。

その吉田純一さんとカワ販同期で親友の柏原久くん、昨日も来ていたが、彼は最後はロボット営業にいて『抜群の評価』で、岩瀬さんもよくご存じなのだが、昨日会場で会われたのだろうか?

       

      

 

腰山峰子さんと田崎さんは、初対面ではない

田﨑さんも出席された平井稔男さんが主宰した『カワサキの想い出と未来』で司会役も務めたのが、腰山峰子さんだったのである。

 今年は、4月7日に西明石のキャッスルプラザで、平井稔男さんが『吉田純一さんの綬章記念のお祝い会』を開催の予定だが、その司会役も務めるらしい。 多分、田崎さんも出席されることになるのだろう。

  なぜか平井さんにかかったら、腰山峰子さんも『ミネコ』と呼び捨てなのである。

      

 

 これは2階から『ぼけちん』さんが写されたらしい。 

KAWASAKI Z1 FAN CLUB の方たち、私がバタバタしていて、現場でご挨拶できなかった方も写っている。

 

      

 

飛び入りで行われた田崎雅元さんのスピーチが至って好評で、

 

      

 

  ちぱるさんのマネージャー役のおばさんが、わざわざお礼のご挨拶に来られて、

 

      

  そのまま、昼の会食にも出席されたのである。

 

その幕開けの、ご挨拶は私がさせて頂いて、 山本さんにも平井さんにも一言づつのご挨拶をお願いしたのである。

田崎さんはこの昼食会にも付き合って頂いた。元川重社長ではなく『カワサキファン』の一人として十分楽しまれたはずである。

 平井さんのヨコは、山科カワサキの吉川健一さん、通称ヨシケン、久しぶりである。

柏原久くんとは当時の同僚だし私も色濃く繋がっている。

今はスズキの元カワサキの北川圭一さん、世界チャンピオンになったりしたが、かっては山科カワサキのライダーヨシケンに頼まれて、チームグリーンに入れたのは私なのである。

 

      

 

  講釈師・山本隆のトークは、流石だった。 是非、動画でお楽しみ下さい。

     https://www.nicovideo.jp/watch/sm34651293

 

      

 

 

  最後まで残ったのは、こんなメンバー。 なかなか、楽しかった半日でした。

  

      

  

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カワサキワールドでの半日 雑感

2019-02-18 06:07:22 | カワサキワールド

★昨日はカワサキワールドで半日を過ごした。

この数年カワサキワ―ルドの春のイベントの最終日には、『熱烈なカワサキファンたち』を募ってカワサキワールドにみんなが集まることを恒例化しているのである。

 この催しの主宰者は、それこそ熱烈なカワサキファンの登山道夫さんなのだが、別に大したことをしなくても、Facebook に『今年もやりますから、10時にカワサキワールド前にお集まりください。』と告知したら、熱烈なカワサキ・ファンが50名近くも集まってくるのである。

 もう、何年も続いているので、カワサキワールドの担当者の吉田高広さんからは、この時期になるとよろしくお願いしますと、連絡が入るのである。 

私もカワサキOBとしてよりは、カワサキファンの仲間として、集まってくれた方が『満足するように、喜ぶように』いろんな手立てを、私なりに打つのである。

 去年もたまたま、元川重社長の田崎雅元さんと一緒になって、メンバーたちが喜んだものだから、今年は田崎さんにも『今年もやりますよ。10時にカワサキワールドで』とメールだけは打っておいたら、田崎さん10時に来て頂いたのである。

  会場に入る前の我々のグループの人たちだけでも、30人近くいたのである。

 

   

   

 

今年は、『山本隆さん』も来てくれて彼は若い頃の田崎さんとは同じ『レース仲間』だし、二人揃えば盛り上がるし、ライダーの多田喜代治くんも、女性ライダーでの著名人腰山峰子さんも、東京からは川崎由美子さんも来てくれてるし、我々のメンバーだけでも、カワサキのユーザーたちにとっては、会うだけでも、写真を撮るだけでも、大満足なのである。

 

★今回の最終日には現役の主催者諸氏も、来て頂いたお客さんを喜ばそうと、水野ちぱるさんを呼んでの『トーク・ショー』を開催されていたのである。

 会場に来て頂いている、お客さんにさらに満足頂くには、折角カワサキワールドを創られて、川重の社長も会長もされた田崎雅元さんも、カワサキファンの一人として来られてるのだから、是非壇上でのご挨拶をと思って、『ご本人がそれを言い出すわけにもいかないだろう』から、トークショーの途中で、私が主催者の方に『田崎さんのご挨拶を』と進言したのだが・・・

 即刻『いいですよ』とのご返事かと思ったら、そうでもなかったのである。

 この辺りが、かっての『単車事業部の現場での柔軟性が失われてしまっているのかな』と思ったりした。広報活動とは『社会に於けるいい人間関係創り』なのだから、刻々と変化する現場の状況を観ながら、相手の方たちが一番満足する対応を常に考えるべきだと思っているのである。

昨日、登山さんが集められたメンバーは、ある意味『ちぱるさん』よりはひょっとしたら、二輪業界では有名人かも知れないのである。

もし、喜んでOKして頂いてたら、カワサキで初めて鈴鹿サーキットをロードレーサーで走った全日本3年連続モトクロスチャンピオンの山本隆さんも、鈴鹿を女性ライダーで初めて走った堀ひろ子さんとのコンビの腰山峰子さんも、東京からは川崎由美子さんも来ていたし、世界ロードレース耐久選手権のフランス・ルマン24時間で日本人トリオで入賞した多田喜代一くんも、チームグリーンの日本創設者平井稔男さんもいたのでみんなで壇上に上がったりしたら「大盛り上がり」だったはずだが、そこまでは言いだせなかったのである。

でも現役諸君は、スケジュールにないことをして、もし田崎さんが壇上で立ち往生でもしたら、大変とでも思われたのかも知れないが、少なくとも単車出身の田崎さんは、どんな場面でも、突然指名されても大丈夫なのである。

 結果は、田崎さんの登場で会は盛り上がって締めることができて、成功だったと思っている。

 昨日の、Facebook には、田崎さんのこんな写真が『いっぱい』で大いに盛り上がったのである。

  

    

 

      

 

      

 

      

 

 ★ 会が終わってから、ちぱるさんのマネージャーのおばさんがわざわざ来られて、お礼を言われたのである。ホントにそう思われてたようなので、仲間の会食にお誘いしたら、そこにも参加されて、いい時間を過ごされたのである。

 

ちぱるさんのお父さんからは、『古谷さんじゃないですか。お会いできてよかった』とも言って頂いた。 

 こちらは多田くんと一緒の『ちぱるさんのお父さん』である。

 

 

この写真の、後ろに並んでおられる5人の方は、石川県金沢市から来られたのだが、全くの初対面でお名前も知らないのだが、

ちょっと、お話ししたので記念写真を撮ったのである。

  

  

 

 Facebook をやってると仰っていたので、ここにアップしておけば、お手元に届くかも知れないのである。

 遠くから、わざわざ来て頂いた方への、気遣いというかサービスなのである。

 Kawasaki に出会う人たちが ハッピーになるような活動を いつまでも続けたい と思っているのである。

 

 田﨑さん、昨日は『昔の仲間』に戻って頂いて有難うございました。

  登山さんも、美樹さんも、 ご一緒に写真が撮れてめちゃお喜びのようでした。

 

     

 

     

 

  いつもFacebook でお会いしている小笠さんは、

  

 
 
Masahito Ogasaさんは山本 隆さん、古谷錬太郎さんと一緒です。

今日は、カワサキワールドに友達や知り合いが大勢来るのでバイクで行って来ました。

平井さんに招待券も貰ったしZ1ファンクラブの人達も大勢来てたし、FBで何時も絡んで貰ってる、カワサキレーシングチーム
初代マネージャーの古谷さんにも会えたしスーパーレジェンドの山本さんにも久しぶりに会えて良かったです。

カワサキに40年位勤めてて、社長の名前は知ってたけど1度も顔を見た事の無い元、川崎重工業社長の田崎さんも来ていたのはビックリでした。

 

 写真、他にもいっぱいあるので、また明日にでも。

 カワサキのファンたちが、喜ぶ姿を見ることは、我々にとっても非常に喜ばしいことなのです。

 

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私が入社したころの川﨑航空機という会社 その1

2019-01-24 07:46:07 | カワサキワールド

★私は昭和32年(1957)に川﨑航空機工業という会社に入社した。

 川﨑航空機は戦前からあった会社なのだが、戦後軍事産業ということで中断があり、それまでは川﨑機械などという社名で高槻やなどいろんなところに分散していたのだが、昭和27年(1952)にやっと再開された会社なのである。

    

 

  今でもこんなに広いのだが、私が入社したころは、大袈裟に言うとこの2倍ぐらいあったのではなかろうか? 

戦時中は徴用工など何万人もの従業員がいて、工場の中の道がこんなに広いのは、これくらいの広さがないと朝の通勤時に従業員がスムースに歩けなかったのだというような話を聞いた。

 

     

 

 再開直後だったので、その経営は非常に苦しくて、爆撃で焼けた工場の鉄骨を売ったり、機械を売ったり、広かった土地を売ったりしていたのである。

 

 

★私が入社したころの昭和32年ごろからやっと本格的な新入社員を採用しだしたので、それまでの先輩たちの年次はその数も少なかったのだが、昭和32年以降は定期的に毎年多くの新入社員の採用があったのである。私の同期にはジェットスキーの開発に関わった藤川さんや村上さんがいたし、昭和33年には田崎雅元さんや、ZIのエンジン設計で有名な稲村暁一さん、昭和35年には単車事業をやるということもあったのだろう。百合草三佐雄、大前太、武本一郎、種子島経さんほか後の単車事業の中枢を担った人たちが大勢いたのである。

会社自体が再開されたばかりで、そんなにちゃんと整備されていたわけでもなくて、私が配属されたのは会社の財産物件を管理する『財産課』だったのだが、その管理台帳もちゃんとは整備されていないような状態だったのである。

戦前から明石工場はエンジン工場、岐阜工場が機体工場ということになっていて、再開後も明石工場はエンジン関係を、岐阜工場はバスの車体などを扱っていて、入社した当時は、東洋で唯一の米軍のジェットエンジンのオーバーホール工場部門と、小型エンジンや歯車ミッションなどを生産していて、ジェットエンジン部門は米軍が駐在していて、アメリカ式の生産管理システムや、管理体形はこの時代にIBM管理がなされていたのだが、ジェット以外の部門は井関農機の小型エンジンや歯車ミッションなど、エンジン関連をやっていたのだが、その中のひとつにメイハツ工業への単車のエンジン供給があったのである。

今から思うと、まだまだ貧しい時代で、私は財産課で工具器具備品という机や椅子などや車輌運搬具の自転車等を担当したのだが、当時は各末端ではそんな机や椅子や自転車なども、みんな欲しがって私は新人ながらその分配権を持っていたものだから、いろんな形で明石工場の各課の財産管理担当者を管理統括するような不思議な立場だったのである。 新しい机や、イスなどを今では考えられないような熱心さで欲しがったりするのである。自転車なども少なかったので、その配分権を持っていたので、大袈裟に言えば中央官庁のような職権を持っていたのである。

私の担当ではなかったが、土地や機械の売り食いもしばしばで、特に機械の売り食いは毎月定期的にあって、それは財産課の仕事のひとつでもあったのである。

初任給は12000円で、それも15日と月末の2回の分割支給だったのである。給与と言えば財産課の隣に給与係がいて、給与計算に女子社員がいっぱいいたのだが、その中の一人が『今の家内』なのである。配属されてすぐ『目についた』し、その年の夏には付き合い始めているので、家内とのお付き合いもそこから数えると、2019-1957=62 50年など優に超えて62年目になるのである。

 

★財産課というところは管理している財産物件の償却計算を毎期やらなければならないのだが、当時は考えられないことだが、ジェットエンジン部門などは通常1万円以上のものが財産物件なのだが、新規工場の場合は300円以上が財産物件に計上できるとあって、机も椅子も極端に言うとバケツもすだれも財産物件に計上されていて、償却計算する数は、財産課の中で私が一番多くて一年中手回しのタイガー計算機を回し続けていないと『償却計算』が完成しないのである。

 1年間、女子と二人でそんな償却計算をやっていたのだが、何とか機械化ができないかと2年目からはその機械化の検討に入り、ちょうどジェットエンジンのIBMがあったものだから、これが使えないかとその検討に入ったのである。

これは間違いなくできるのだが、そのためには『物品名のコード化』がMUST条件で、そのコード化に取り掛かったのだが、そんなことをした経験者は皆無ですべて自分でやらないと誰も教えてはくれないのである。IBM室にいた久森さんと二人で1年半ほど掛かって、川﨑航空機のジェット以外でのIBM化が完成したのである。

 IBM というシステムは、米軍がいたので川﨑航空機にだけあったシステムで、当時は日本にIBM社もない時代なのである。IBMが日本に入ってきたのは、約10年後の東京オリンピック以降のことなので、川﨑航空機の中でもジェットエンジン部門以外では使っていなかった時代なのである。そんな時代に償却計算のIBM化をやり出して、同じやるなら本社部門も岐阜工場もと手を広げたものだから大変だったのだが、多分この時代、IBMを使って民需の計算などやったのは、『日本で初めて』だったかも知れない。当時の川﨑航空機では「初めて』のことで、続いて「手形」や「給与計算」のIBM化が始まるのだが、その頃は新人ながら私は『先生役』を務めたりしたのである。

償却計算のIBM化が完成してしまうと、財産課で償却計算する課員など要らなくなって私は新しくできた単車の営業課に異動することになるのである。

 

★そんな新人社員時代だったので、結果的に私は上司から教えて貰ったことなど殆どなかったし、自分の思う通りのやり方で会社の仕事ができたのは非常に幸せだったのである。

 新しくできた単車の営業課も、この単車事業そのものが川﨑航空機にとってみると全く新しい事業で、エンジン開発や生産は兎も角、二輪車という完成商品は扱った経験もなく、ましてやそれを自ら売るということなど全くの未経験で当時のメイハツ工業や、メグロの人たちに頼ってのスタートだったのである。

 私が単車の営業に異動になったのも、『全く新しいこと』だが『アイツなら出来るかも』と思われたに違いないのである。

 発動機営業部の中に『単車営業課』ができると同時の異動だったのである。

そんなことだから、『引継ぎなど』は一切なくて、明石工場で生産されるオートバイを『カワサキ自動車販売』という新しくできた会社に売るという手続きからスタートしたのである。

その『カワサキ自動車販売』という会社は当時の川﨑航空機の土崎専務が社長を兼務されていて、当時は国内が唯一の市場だったから、カワサキの二輪事業は、カワサキ自販が明石工場を傘下に置いてその展開をしていたのである

当時は『トヨタ自販』が『トヨタ自工』を動かしていたそんな時代だったのである。

 『カワサキ自販のトップ』は川﨑航空機の専務だったのだが、そこにいる方は元メイハツや元メグロの方たちばかりで、私は新人ながら川﨑航空機籍だったので、カワサキ自販の方たちもそれなりに扱って頂いたのである。

 私自身が新しいことには興味があったし、当時のカワサキ自販の本社のあった神田岩本町にもしょっちゅう出張して、メイハツやメグロの方ともすぐ仲良くなったので、この当時の単車営業もなかなか面白かったのである。

 

       

 

★当時のカワサキ自販には小野田滋郎さんという、あのフィリッピンの小野田寛郎さんの弟さんがおられて総務課長兼広告宣伝課長として、カワサキ自販を統括されていて、私はこの小野田さんから、いろんな陸軍士官学校の戦略・戦術・戦闘論などを教わったりしたのだが、この方はホントに凄い方だった。後、フィリッピンの小野田寛郎さんの現地調査にも行かれたりするのだが、カワサキにおられたころも、小野田さんのお兄さんなら必ず「生きている」と私は信じて疑わなかったのである。

 この頃が昭和36年のことで、昭和35年に明石で単車の一貫生産工場がスタートしたのだが、それを受けて営業部門に単車営業が出来たのが昭和36年末、実際に動きかけたのは昭和37年(1962)からなのである。ただ、最初に生産した125B7は、車体に欠陥があって散々だったのである。私が営業に異動した昭和36年末には。B7の返却対策で大変だったのである。昭和37年1月度は生産台数より返却台数が多くて生産台数がマイナス17台と記録されたりしたのである。

 鈴鹿サーキットが完成したのが1962年9月で、11月にあった日本で初めての本格的ロードレースをカワサキの生産部門の人たちが見に行って、翌63年の5月に青野ヶ原モトクロスがあるのだが、このレースがカワサキの初のモトクロスレースと言われているのだが、このレースに出場したのは、125B8なのである。

 

       

 

実はもっと以前にカワサキ125B7で、モトクロスに出場しているのだが、そのチームを扱っていたのが小野田滋郎さんで、鈴鹿のロードレース250㏄優勝者の三橋実をヤマハから引っこ抜いて、厚木に『カワサキコンバット』を創ったのも小野田さんなのである。このカワサキコンバットから後、安良岡健や星野一義などが育つことになるのである。

 

 ★そして、この時期、ジェットエンジン部門の縮小があって、その関係でジェット部門から大勢の人たちが新しい単車事業部に移動してくるのである。

 髙橋鐵郎・大槻幸雄・田崎雅元さんたちなどなどはみんなジェットから単車に異動してきた人たちなのである。技術屋さんはその殆どがジェット部門からの異動だったのだが、事務屋関連は私が第1陣だったのだが、その後本社や勤労部門から当時の事務屋のトップレベルの人たちが異動してくるのである。

 そんな新しい単車事業部と、本来の親元だった発動機事業本部との関係などは次回に譲ることにする。

 

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カワサキ Ninjya の話

2018-12-08 06:10:20 | カワサキワールド

★先日 カワサキNinja のこんな写真をアップしたら結構な人気で、Facebook の写真にいっぱい『いいね』やコメントが寄せられてるので、もう少し『Ninja の話』の続きを書こうかなと思っている。

 

     

 

 この写真の説明書きにあるように、最初はこのネーミングNInja は、黒装束の忍者イメージでNOだったのである。

 大庭浩本部長が、提案先のKMCに明石サイドの意見として持っていかれたのだが、それを田崎さんが上手に断って大庭さんを説き伏せてしまったのである

 田崎さんをご存知の方はお解りだと思うが『田崎さんを説き伏せるのは、なかなか大変なのである

推測するに田崎さんの説得をKMCに出張される大庭本部長に技術部が託したのでは?

私はたまたまその席に居合わせて話を聞いていたのだが、大庭さんご自身の強烈な意向ではないことは明らかだったのである。

 

Ninjaのネーミングの発案は、KMCのアメリカ人だと思うが、後述するように田崎さん自身も気に入っていた節がある。

40年近くたった今、Ninja=Kawasaki と言ってもいいぐらいに定着しているので、結果としては大成功のネーミングであったことは間違いないのである。

ただ当時は、技術部は納得できなかったのか、Ninja を使ったのはアメリカモデルだけで、欧州モデルGPZ900Rでスタートしているのである。

因みに、カワサキのクルマで、こんな『ネーミング』がついた車としては「ZEPHYR」があるが、このネーミングも提案者は当時のカワ販の若手なのである。

 

★ネーミングは兎も角、このNinja 900というマシンそのものが良かったのだと思う。

このNinjaのエンジン設計を担当したのは、若き日の山田浩平くんである。

私は田崎さんとも、山田浩平くんとも、不思議なご縁で繋がっていて、一言で言えば『仲のいい仲間』なのである。 

そんなこともあって、この900のマシンを山田浩平くんが、どんな気持ちで創ったのかということは何となく解っている積りである。

私が彼と出会ったのは、Ninja 900が世に出た1982年からずっと後の90年代、カワサキでX-11というサーキット走行マシンの開発をやっていたころ、この時の担当が山田浩平くんで、その時初めて彼と出会ったのである。

 こんなかっこいいマシンなのである。

  

 KAZEというマークがあるように、この開発については 国内販社カワ販がサーキット走行など大いに面倒を見たのである。

  これは当時の岡山のTIサーキットでの写真だが、多田や宗和のライダーたちも乗りたくてマシンに群がっていた。

 これはFacebook に載せたのだが、多田喜代一さんなど、いろんな人がコメントをくれたりしているのである。

       

 

 そんなマシン開発から 山田浩平くんとはその後もいろいろなことで繋がって、このNinja900が山田浩平くんの作だということも解って、何となくいろいろ知っているのである。

 誤解を恐れずに言うなら、若きエンジニアの山田浩平くんのアタマにあったのは「カワサキの名車Z1」で、出来れば「それを抜く存在にしたい」と思ったのではなかろうか? 

私は技術には疎いのだが、このNinja900は、Z1とは正反対のマシンに仕上げたかった節があり、そのあたりのことは、エンジンの細部の仕様に詳しい方に推測してみて欲しいのである。

結果としては、Z1と並ぶ名車に仕上がったと言っていいだろう。

 

★ これは、ごく最近、山田浩平くんご自身が Facebook にアップしたものである。

『私のデビュー作品Ninja900と最終作品NinjaH2を同じ俳優が同じ映画で乗ってくれるのは大変うれしい。こういうことはあまりないと思う。』とコメントされているのである。

 

    

 

 最近出たマシン Ninja H2 は山田浩平くんの最後の作だと言っていい。

 彼はその後カナダ・アメリカKMCなどの販社を経て、品証から技術本部長に戻った時、私にくれた手紙に書いてあったマシンは多分間違いなく Ninja H2のことだったのだと思う。

約束通り彼はこのマシンを仕上げ、世に出してカワサキを去ったのである。

 

★ところで、Ninja H2にも使われた Ninja の名付け親は、今となってはその経緯から、田崎雅元さんなのかも知れないのである。

 田崎さんから、私のところには、このNinja にまつわる話を、いっぱいメールで送ってきてくれているのである。

 

古谷さん

1982年版 The/Ninja の翻訳本、古本をネットで見つけ購入しました。この本が、ニューヨークで大ヒットしているという情報が ネーミング 決心の源泉です。ザ・ニューヨーク・タイムズ のベストセラーリストに載り、以後22週間そのまま名をとどめ、ハードカバーで15万部を売り尽くしたようです。

主人公は、東洋人の母親を持つ日本育ちのアメリカ人ニンジャ、作者の狙いは、名誉を重んじる精神、その根幹に据えた武士道で、当時、日本の企業文化、さらには精神文化に関心が高まり、企業経営のテクニックにとどまらない、背景にある日本人の精神構造を知りたがっていた、ビジネスマン、学生の間にに広まった、と解説されています。

この本の出現で、それまでのマンガティックなワルの 日本人、忍者のイメージが激変した、と云われています。NINJAのネーミング、かなりネガティブな雰囲気の中で強行し、結果は大成功、日本から岩崎さんが持ち込んできた、ポスター、バナーなど大量の広告宣伝物にKMCで用意した Ninjaのステッカーを、貼りまわった姿が忘れられません。 このステッカー、やがては 日本、欧州の大人気用品になりました。

ラッキーは続きました。1986年に封切られた映画「トップガン」は、日米ともに空前のヒットとなり、トムクルーズが ダイナミックに乗り回す ジェットファイターF-14 と KAWASAKI NINJA900、これが、日米の若者の間で大人気、 KAWASAKI NINJA は 憧れのモーターサイクルになりました。

アメリカ人の広告宣伝担当者が、「トムクルーズが NINJA900 に乗る!」と興奮して駈け込んできました.トムクルーズが自ら NINJA を決めた、と聞いています。映画のスポンサーに、という話もありましたが、あまりに高額なので諦めました。 替りに、全米の封切映画館の正面にNINJA900 を展示することにしました。 スポンサーは、コカコーラ になったと思います。

映画 トップガン と カワサキNINJA900 ]で検索すると大量の情報が出てきます。

 

         

 

★こんな昔話を含めて、Ninja について、こんなブログがアップできるのは、今となっては「田崎雅元さんと山田浩平さんと私」ぐらいしかいない、そんな時代になってしまった。

1982年からもう40年にもなろうとしている。3人ともカワサキの現役は離れてしまったが、未だにこんな昔ばなしを楽しんでいる。

 『楽しめる』のは、夫々自分の想いを持って、その時々に当たったからだと思う。

 カワサキには、そんな伝統みたいなものがあって、それが『カワサキのイメージ』に繋がっている。

 できれば『Ninja に代わる新しい何か』を創り出して欲しいなと願っている。

 

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貴景勝優勝 と Kawasaki Z1100空冷四発

2018-11-26 06:56:32 | カワサキワールド

★大相撲九州場所 貴景勝 見事な優勝だった。

 貴景勝 兵庫県の芦屋出身である。 

Facebook のトモダチの誰かが何かで関係があった』ということだけは覚えていて、応援をしていたのだが、Facebook にこんな写真と共にこのような青木隆さんの記事が飛び込んできたのである。

 

小結貴景勝、初優勝おめでとうございます!

KLGFCのメンバーでもある父親佐藤さんも笑顔でしたね~
優勝パレードが始まりそうKLGFCでは先導出来ませんでしたが、いつか~笑
また、詳細はブログで報告致しますが、何より、数々の試練を乗り越え初優勝!!おめでとうございます!

 

     

 

 貴景勝のお父さん(佐藤さん)が青木隆さんが主宰するKLGFCのメンバーで、熱心なカワサキファンだというのである。

 

   

 

 

     

 

 KLGFCは、KAWASAKI Z1 FAN CLUB二輪文化を伝える会KSSRなどと共に 

NPO The Good Times の団体会員さんで独自の会員組織をお持ちなのである。

 

 

  

 

 ★ 何となく『貴景勝』はだれかと関係あったぐらいは覚えていたのだが、

 それが青木隆さんだとは、なかなか思い出さなかったのである。

 そんなことで、青木隆さんの記事にコメントを入れたら、すぐこんなご返事を頂いたのである。

       

古谷錬太郎
 
古谷錬太郎 貴景勝誰かが知ってるはずだとずっと思っていたのですが、青木さんでしたか。お父さんテレビに写ってましたね。バイクに乗るのですか?スゴイですね。応援してましたが、優勝ホントにおめでとうございます。
何でもすぐ忘れてしまってダメですね。
 
 
青木 隆
 
青木 隆 古谷さん、佐藤さんは一緒に横浜まで走ったり、岡山、四国まで走ったりと、今も青春してる仲間です。
バイクが壊れてビトーR&Dで修理しまして、今は絶好調のバイクです。
息子さんの活躍を皆で喜びを分かち合ってます

カワサキ繋がりの明石での忘年会を楽しみにしています。
 
 
 ここに書かれている『明石での忘年会』とは『Z1会の忘年会』のことで青木隆さんは『Z1会』のメンバーでもある、まさに熱心なカワサキファンなのである。
 LIME GREEN Fan Club とは、Z1100Rのファンが集まるこんなクラブなのである。
 
 
 

    

 

    Kawasaki とも繋がったし、お父さんはNPO The Good Times の会員さんだし、兵庫県出身だし、

 貴景勝を 今後も応援したいと思ってます。

 初場所も、頑張って下さい。

 

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Sports Inn の想い出

2018-11-14 05:25:14 | カワサキワールド

★ アメリカに1ヶ月半も行っていたら、その間の郵便物も結構貯まる。

 そんな郵便物の中に、幾つかの雑誌や冊子が送らて来ていたが、ちょっと時間が出来たので読んでみた。

 孫の保証人をしている関係で慶応大学からこんな冊子も来ていたが、

 

     

 殆どはカワサキ関係である。

 そういう意味では、やはり川崎重工業やKawasaki 、カワサキには今になっても関係はあるのだと思う。

 

    

 オートバイの表紙にはなっているが、これは川崎重工業の機関誌だし、相信は川重のOB会の冊子である。

 

    

 

 KAZEの機関誌 今も私は現役会員だから毎回送られてくるのである。

 

      

 

 そんな中のひとつに カワサキバイクマガジン も毎号送って頂いているのである。

 

      

 

★ 私は、そんなにバイクのことは詳しくはないので、記事を読んでも解らぬことも多いのだが、今月号にあった『こんな記事』のことについては、カワサキのどなたよりも詳しく正確に詳細に解っているのである

今月号のバイクマガジンの記事に中に、カワサキの正規販売店 『Sports Inn』の記事が載っていて、懐かしく読ませてもらったのである。

 字が小さくて読みにくいが、その記事は

82年に先代が始めたスポーツイン。創業2年目にメカニックとして入社した山口秀氏が00年に店を引き継ぎ、現在同店を切り盛りしている。・・・・』  で始まっているのである。

 この記事には「先代」と書かれている『佐々木さん』とは密接に関係があったし、この Sportus Inn はその経緯から言って『私が創らせた』ようなものなのである。

 

    

 

 1982年と言えば40年近くも前のことだが、FX400が出たころのことで、私は当時のカワ販の常務で国内市場を担当していた時期なのである。

佐々木さんはそんなカワ販を担当する広告代理店の社長さんだったのだが、多分、春ごろに販売網や販売店のことで議論をしていた時に、私が『販売店でもないのにホントに解っているのか?』などと言ってからかったら、その年の7月頃になって、突然『店を創っています』と言いだすのである。『古谷さんにホントに解っているのか?と言われてちゃんと解るようになるためにオートバイ屋を出すことにした』というのである。そのあたりの素早さが佐々木さんらしいし、やることもびっくりするほど先進的なのである。

 それでオープンしたのが Sports Inn なのである。

 当時は『・・モータース』などの店名が普通の時代に Sports Inn という店の名前もユニークだったし、40年経った今もそのまま通用する、めちゃかっこいい店だったのである。

 

                  

 

Sports Inn のホームぺ―ジ  http://sports-inn.com/

にはこのように書かれていて、そこに載せられている『店のシンボルマーク』は当時の店のままに残されているのだと思う。

 

 

   

 

 82年の日記を見て、それが何時だったのか探してみたら、82年7月24日にオープンし、そのオープンの日には私も現場に行ったのだが、びっくりするほどの客の賑わいだったのである。

 7月26日の日記に、『佐々木さんから来店のお礼の電話があった。2日間で700人ほどの来店があって10台ほどの予約が入った・・・』と書いている。700人はびっくりする数だし、10台もスゴイ数なのである。当時としてはめちゃくちゃインパクトのあった店だったことは間違いないのである。

 佐々木さんは広告業界で結構有名人とも付き合いが多く、あとで聞いた話だが、確か『堀ひろ子さんと腰山峰子さん』もオープンの当日Sports Inn を訪れたようである。 この話は、私の定年後『峰子さん』とお付き合いができてから、何かの時に『峰子さん』から聞いた話なのである。ご存知の方も多いとは思うが、堀ひろ子さんは女性で初めて鈴鹿を走ったライダーだし、腰山峰子さんとペアでアフリカのラリーに挑戦などもされているのである。若くして亡くなられたが、峰子さんは未だ現役、いろんな形でお付き合いがある。

 Sports Innは、大阪のカワサキ特約店の中でも有力店として存在していたのだが、佐々木さんがどなたかに店を譲ったとは聞いていたが、それが山口さん だったのである。

★ちょっと、違った観点から、Sports Innのことを。

カワサキとはそんな深い繋がりのあるSports Inn だが、このお店は『カワサキ専売店』ではないはずである。専売店が大流行りの世の中だが、私は現役時代から『カワサキ・オンリー』政策はあまり好きではなかったのである。オンリー店政策はメーカーが、自らの車だけ沢山売ろうというという政策で、特にユーザーにとってはそんなにメリットはない。カワサキもヤマハも持っているユーザーからすると二軒の販売店とお付き合いしなければならない。

販売店が望んで『オンリー店』になるなら兎も角、メーカーがそれを強要するのは、業界のためにも、ユーザーのためにもよくないと思っていた。『オンリー店はメーカーのエゴ』だと思うから1990年代までは、カワサキの特約店は専売店ばかりではなかったのである。Sports Inn もそんなことで明らかにカワサキ主力だが専売店ではなかったはずである。

 

そんな先代佐々木さんが創った Sports Inn を引き継いで今を切り盛りされている 山口秀 さんもこの記事を読まして頂くと、ホントに確りとお客さんのことを思ってのお店の展開をしておられるように思う。

噛めば噛むほど味の出るそんなお店を目指していきたい』と言われている。

何年か前の話だが、三木アネックスパークで Sports Inn のユーザーの講習会があると聞いたので、『講師に山本隆さんでも頼んであげましょうか』と言ったら、『ユーザーはホントの初心者ばかりですから・・・』と丁寧にお断りがあったりした。確かにユーザーはただ上手くなるだけではなしに、『地道走行を楽しみたい』というレベルの人たちもいるのである。ユーザー第一に考えている Sports Innなかなかいいなと思った。

 

    

 Sports Innは、NPO The Good Times の団体会員さんでもある。http://www.thegoodtimes.jp/

 

佐々木さんが Sports Inn を創って、販売店のノウハウを確りと身に付けてくれたので、その後カワサキはいろんな形で佐々木さんのお世話になっているのである。

東京のカワサキのレースで有名だったトキワモータースのご主人が突然亡くなられた時に、その店を一時引き継いで貰って、そのあと関初太郎さんに繋いでくれたのも佐々木さんだし、カワサキが国内でジェットスキー市場に本格的に進出を試みた時には、神戸の灘区にあった吉田純一さんの店を借りて、ジェットスキー国内1号店を展開してくれたのも、佐々木さんなのである。

ふとしたことで読んだ 懐かしい Sports Inn の記事なのだが、スタート以来40年も経っているのだが、カワサキ独特の深い繋がりで、何となく関係のあった皆さんと今でもFacebook などで毎日お付き合いがあるのは幸せなことである。

 

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