雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

2023鈴鹿8耐    雑感

2023-08-31 07:13:10 | カワサキワールド
★ KAZEの機関誌NO,289号が送られてきた。
 今月号の表紙は「2023鈴鹿8耐」である。

 現役時代はKAZE8耐も密接に関係があって、
 8時間耐久のある7月末の『8耐ウイーク』は毎年鈴鹿で過ごしていた。
 8耐の翌週が『全国安全運転大会』があってそれにも出席しなければならなかったのである。

 今年の鈴鹿8時間耐久ロードレース は第44回大会なのだが、
 今年の鈴鹿8耐にカワサキ系チームは、カワサキ プラザ レーシング チームやチーム をはじめとした6チームが参戦したようだ。
 
 最近は鈴鹿8耐にも全く疎くなってしまっていて、
 NST クラスがどんなクラスなのかもよくは解らないのだが、
 そのNST クラスで2位に入ったようである。



 



NSTクラスは、昨年優勝したので2連覇に期待が掛っていたようだが、
金曜日の予選でエースライダーの転倒があって、そんな状況下での2位は大健闘だと思う。


  


★今年は土曜日に「ニンジャチームグリーンカップ」開催されたようである。
このレースはレースビギナーに対してカワサキが企画している「Ninja ZX-25Rのワンメイクレース」で、
今年は鈴鹿8耐と同時開催ということで、実に贅沢な企画が盛り込まれたというのである。
その一つが表彰式で、鈴鹿8耐と同じ表彰台が使用され、
上位3人はその表彰台で賞品を授与されたり、
シャンパンファイトを繰り広げたりしたのである。


 


 これはワンメークレースだから、
 優勝もどんびりもカワサキだが、なかなかの企画だなと思う。
 こんなレースがあることも知らなかった。

 鈴鹿8耐も遠くなったものである。



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8月の花たち

2023-08-30 05:02:25 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 毎朝行ってる三木総合防災公園は一年中何かの花が咲いている。そのように計画的に植えたのだろう。だけど8月は流石に花は少ないが、花壇や植木鉢で補っている。 
8月真夏日が続くが、こんな8月にも暑さに負けずに咲いている花たちもいる。
今朝の三木総合防災公園、そんな花たちを写しながら一周してきた。
 先ずはスタート地点にはこんな花壇が創られている。

 
 

  
 8月の花と言えば百日紅・サルスベリかな。
 ホントに100日も咲き続けるのだろうか?
 



 
 公園のあちこちで咲いていた。

 



 これは名前は解らぬが、いっぱい咲いているのは
 花なのだろうか?






 これは名前も解らぬが、可憐な小さな花を咲かせている。


 



 これはムクゲ、今咲いてるのは百日紅とムクゲである。






 周回路の脇にはこんな花壇が幾つもあって花を咲かせている。







 8月は流石に花も少ないのだが、
 こんな鉢植えの花があちこちに置かれている。






 広いから、水を遣るのも大変だリうと思う。

 そんな花たちを写しながら、6000歩歩いてきた。
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カワサキ単車の昔話  15     アメリカ視察団

2023-08-29 05:31:12 | カワサキ単車の昔話

★昭和47年(1972)1月のことだからもう50年も前の話だが、
 当時の日本の二輪市場はまだモペット全盛期で、
 ひとりカワサキだけが中大型車中心で『二輪専門の販売店』を創ろうとしていた時代である。
 そんなことで、カワサキは当時の販売店約100店に、
 まさに中大型市場であるアメリカの市場視察を行ったのである。
 
 私は大阪母店長時代であったが、視察団の団長役を仰せつかったのだが、
 まだ海外旅行など殆どない時代で、私も初めての海外だったし
 視察団全員が初めての海外旅行だったと思う。

 1月7日から1月15日までの9日間の日程だが、
 その当時の日記帳にどのように書いているのかその一部を紹介してみたい。

 
  
 


1月8日(土)
 愈々アメリカ視察団の出発日である。
 日付変更線を通過する関係で8日は実に長い。
 午後伊丹をたち羽田・東急ホテルで結団式、ジャンボジェットでシヤトルへ。
 シヤトル着は8日の朝、飛行機を乗り換えてロスへ。
 そしてショウを観に行き、夜はKMC主催の歓迎レセプションに出席、そのあとKMC浜脇社長とホテルのバーで懇談。
 宿舎はグランドホテル、
 長い1日がやっと終わった。

1月9日 (日)
 ロス近郊のサウンドバックパークと言うトレールランドを見学
 スケール大、素晴らしい自然の中にオートバイが一家のレジャーとして完全に沁みついている。
 6~7歳の子どもがコースを逆ハンで駆けているのには驚いた。
 親は殆ど子供に構わずに自由にさせている。
 午後デズニ―ランド見学、ユーモアたっぷり規模は大。

1月10日 (月)
 KMCを訪問。美しく広い。
 浜脇さん以下各マネージャーの部屋は日本の重役室並みの広さと美しさである。
 サービス工場の管理の良さは抜群。
 昼、KMCとの懇談会をグランドホテルで開催、午後市内のでーらー2軒を見学する。
 日本の販売店と規模が全然違う。ショールームの広さ、部品の豊富さ、ロス1000万人の市内にはバイク屋は約700店と言う。
 すべてが羨ましい。夜ナイトツアー。

1月11日 (火)
 ロスは1年で雨の日は10日ほどしかないという。毎朝霧が出るが10時ごろには綺麗な青空が広がる。
 市内観光でヨットハーバーを見学。街は非常に美しい。
 高級住宅は如何にもアメリカ的で開放的である。緑の芝生が手入れされて広々としている。
 街にはいたるところに星条旗が上がっている。国旗に対する敬意、アメリカの国家に対する帰属意識をそこに見た。
 夜サヨナラパーテイー。アメリカのデーラーを読んで開催。

1月12日 (水)
 飛行機でサンフランシスコに移動する。どこまでも続く大陸、実に広大である。
 サンフランシスコは第一印象は土地の狭さ。狭いと言ってもそれは比較の問題でロスに比べてのことである。
 2階建てが多く、家と家との間が狭いのはロスでは見られなかったことである。
 時間が遅れて、デーラーの正式訪問は1軒だけにして、6時ごろから希望者だけで2軒目を訪問する。
 東京組が大挙押しかける。この旅行で東京の販売店の質はまさに最高であった。

 この旅行には全国から約100店が参加したのだが、東京が50店その他全国から50店ということだったが、
 東京だけはすでに二輪専門店ばかりで各店とも遊覧気分が少なく、知識習得に熱心だった。
 他地区の店は多分に遊覧旅行気分だったように思う。
 私の担当してた大阪地区は丁度カワサキ協栄会を創った時期で、東京に次いで非常にまじめに新しいものを身に付けようとしていた。

1月13日 (木)
 サンフランシスコ2日目、1軒のデーラー訪問。
 そのあとは市内観光。ゴールデンブリッジ、美しい眺めである。
 その背景にある街とか民家が自然た絵になっている。
 アメリカ本土最後の夜、ナイトツアーに出掛ける。
 いま日本で流行語になっているポルノ。米国では映画も写真も本も公然と販売され上映されている。
 ものすごい世の中になったものである。

     

1月14日 (金)
 ホノルルに飛行機で飛ぶ。太平洋の真ん中に浮かぶ島ハワイ。
 空港から市内観光での印象は大したことはなかったが、ワイキキのホテル街と浜辺に来てみて
 流石に観光地の面目躍如たるものがある。
 景観も素晴らしいがそれ以上に雰囲気がいい。二人で遊び来るなら最高の場所だろう。
 お土産に清美に260ドルのオパールを買い、夜は本場ハワイのフラダンスを観に行く。

   
    
1月15日 (土)
 午前中、ハワイ買物などして午後の飛行機で羽田に向かう。
 ジャンボは我々の借り切りのようで他の客はほとんどいない
 僅か10日間のアメリカ旅行であったがいろいろなものを観たし、いろんな経験をした。
 それは今後の生活態度にそして考え方の中に生かされてゆくのだろう。
 東京に着いたらホッとした。そしてもう一度乗り換えて伊丹へ。
家へ帰る。本当にほっとした。落ち着くと言うのはこういうことを言うのだろう。

★ざっとこんな9日間のアメリカ市場見学視察団の旅程であった。
 まだこの時期に海外に出かける日本人など殆どいなかった時代で、
 ハワイのワイキキの浜辺も日本人など殆どいなかったし、
 そんなことで帰り飛行機も誰も日本人は乗っていないそんな時代の旅行だったのである。

 日記を読み返してみて、勿論覚えていることも多いのだが、
 完全に記憶に残っていない部分もある。
 この視察旅行で、カワサキの二輪販売店の意識は、相当に変わったと言っていい。
 当時大阪では全国に先駆けての『特約店制度の導入』を目論んでいたのだが、
 この視察旅行が後押しして、この年10月に正式スタートを切ることが出来たのである。
 そう言う意味でカワサキにとっても販売店にとっても私個人にも、
 大きな転機となった素晴らしいものだったと思っている。 


 


 


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猛暑の夏     雑感

2023-08-28 05:16:51 | 発想$感想

★ 最高気温が35℃以上の日を猛暑日
  30℃以上の日を真夏日、25℃以上の日を夏日というらしい。

  今年の夏はホントに暑かったのだが、
  9月のいつ頃までこの暑さが続くのだろう?

   


 東京八王子でも39.1度を観測したとか。
 


 
 私の住んでいる三木市は神戸市よりは1℃ほど低いのだが、
 それでも今日の午後12時の気温は31℃、
 今週の最高は34℃になるらしい。


  


  東京も今手はまだ35℃、猛暑を記録するようだ。


  


★ かって北海道の札幌に3年ほど住んだことがあるのだが、
 1900年代ではあったが、殆どが29℃までで、
 7月末に何日かが30℃を記録するぐらいの涼しさだったのだが、

 今年の札幌はこんな感じで
 もう9月も近いというのに30℃以上を記録するようである。


 


 そう言う意味ではこの20年の間に気温はどんどん上がったのだと思う。

 地球全体が温暖化で北極の氷も解けるとか。
 

  

 
 私はもう生きてはいないが、
 あと20年後の地球はどうなっているのだろう? 

 夏は35℃以上の「猛暑」が普通になっているのかも知れない。

  
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神戸ベンチャー会に行ってきた

2023-08-27 06:14:16 | NPO The Good Times

★ 神戸ベンチャー研究会8月例会 は、「魅力ある伝統を生かすことにチャレンジ」 をテーマに
 『NPO法人・二輪文化を伝える会』の理事長の松島裕さんが発表者の一人だったので、
 KAWASAKI Z1 FANNCLUBの登山さんたちと参加してきた。

 
  


 1時間半にわたる松島裕さんの話は、なかなか奥行きの深い日本の二輪文に関する話であった。

 松島裕さんは1900年後半に鈴鹿8耐を走った二輪ライダーなのだが、

 
  
  

 松島さんとはNPO The Good Times のホームページ制作でお世話になって以来のお付き合いで、
 その間ずっと続けてきた『二輪文化を伝える会』を今回、NPO法人化することに挑戦、
 めでたくNPO 法人・二輪文化を伝える会がこの8月に誕生し、その理事長を務められているのだが、
 来年4月には10年ほど前に私が立ち上げた
 NPO 法人・The Good Times の理事長も引き受けてくれることになっている。

  そんなこともあって話の中には
  NPO The Good Times との出会いや
  当時の私のことなども語られたのだが、


 

 
 話しの中心は『二輪文化とは』という
 昨今は二輪メーカーもあまり語らない
 高次元な話だったのである。





 そのスローガンは
 バイクに乗らなくても『バイクが好き』という人を増やしたい。
 と言うもので、なかなかいいスローガンだと共感したのである。






 物事、スローガンとかコンセプトは、
 本来非常に大事なものなのだが、
 単にスローガンだけで終わったしまうことも多いのだが、
 松島さんの場合は
 『二輪文化を伝える会』を立ち上げて以来10年、
 ひたすら二輪の歴史を追い続けてその蓄えられた知識の実績は、
 メーカー以上と言ってもいい。

 ごく最近もこんな会合を開催されているし、
 日本の二輪文化の創造に貢献した人物名も列記されていて、
 ライダーたちが殆どなのだが、
 本田宗一郎・藤澤武夫・酒井文人などと並んで私の名前なども載っていて、
 恐縮しているのだが、
 私自身は現役時代から二輪文化の創造には結構なウエイトをもって臨んでいたことも事実ではある。

 
  


★ そんな高次元の話をされた松島裕さんだが、
 今後ますますの活躍を期待したいものである。

 私が歳をとり過ぎているのだが
 神戸ベンチャー会の窪田代表松島理事長もお歳を聞けば、
 私の子どもたちと同年代なのである。
 自分のこどもたちはいつまで経っても『子供』だが、
 よそのお子さんは立派に育つものである。


  



  兎に角、松島さんはいろんな歴史を調べ上げて
  その知識の豊富さに驚かされるのだが、
  話の中にはこんな『寄り道』もあって

  夏の全国大会の会場は
  第1回・第2回が豊中球場
  第3回から第9回までは鳴尾球場
  第10回からが甲子園球場なのだが、

  戦後再開された1946年は、甲子園球場はまだ進駐軍に接収されていて、
  西宮球場で開催されたのだが、
  この大会は平古場を有した浪商が優勝したのである。
  1946年は私は中学1年生だったが、平古場も浪商もよく覚えている。
  そんな記録を正確にご存じなのは驚きなのである。
  

  
  

★ご縁があって、
 神戸ベンチャー会二輪文化を伝える会さらには
 NPO The Good Timesも繋がったので、

 NPO The Good Timesの基本コンセプト
 『異種・異質・異地域をみんな繋いでいい時を過ごそう
 の通りの活動になって欲しいと思っている。

 昨日は間違いなく『いい時』が過ごせた1日だった。


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広いということはいいことだ

2023-08-26 05:05:22 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 兵庫県の県庁所在地の神戸市もかってはそんなに大きくもなかったのだが、
 周辺の町村を吸収合併して今では結構広大な都市である。


 



 その神戸市に隣接している、わが町三木市人口は8万人ほどで、
 神戸市の人口150万人の20分の1ほどだが、
 広さは結構広くて、
 地図で見ても、周辺都市に比べて自然がいっぱい残っているのがお解り頂けると思う。

 
 



 そんな三木市に移り住んで50年、三木の広さと豊かな自然は気に入っていて、
 
 公園も幾つもあるのだが、どれもみな桁外れに広大で、
 そんな中でも毎朝行ってる三木総合防災公園は、
 ゴルフ場が3つほど入ると言っていい広さなのである。

 自然に道路も広場も駐車場もゲートボール場もみんな広く造られているし、空いている。
 ホントに悠々としていて所謂「雑踏」とは無縁で、
 アメリカのように広々としているのである。

★今朝もそんな防災公園での朝の散歩を楽しんできた。

 7時の開門前なので公園の横の広い道に
 駐車して約1時間ほど
 毎朝、いろんなルートを6000歩になるまで歩いている。


 
 

 こんな競技場の横からのスタートした。
 朝6時前だというのに散歩を楽しんでいる人はいっぱいいるのだが、
 所謂街の雑踏とは全く違った風景なのである。


 



 ざっとこんなルートを今朝は歩いたのだが、
 広い公園のごく一部だと言っていい。
 

 


 どこを歩いても、広々としていて、




 
 
 散歩してる人とも出会うのだが、この程度なのである。







 こんな広々とした道路を借り切って歩いている。






 これはゲートボール場なのだが、
 ひょっとしたら日本で一番広いのではと思うほど広大である。





 
車を止めている広い道まで戻ってきたが、
ご覧の通りあまり日本では見られない光景だと思われませんか?
 





 家から車で5分ちょっとの距離なのだが、
 住んでいる緑が丘町の道もこんなに広々としていて、
 ここは住宅街だが、

 


 街の中心地、co-opのある繁華街でもこんな感じで、
 日本の雑踏とは無縁の生活を楽しんでいる。




 広いということはいいことだと思っている。

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野球  今昔      雑感

2023-08-25 05:19:02 | 発想$感想

★ 甲子園の夏の大会は慶応義塾の107年ぶりの2度目の優勝で幕を閉じた。

  
 
 

★ 私の野球との関りは、大学の最後の1年は野球部の監督をするのに卒業を1年延ばしたりした。
 旧制中学の神戸一中、新制高校の明石高校、大学は神戸商大と学生時代の10年間は野球に没頭した時代であった。
 その間神戸一中は春の大会に出場したし、
 明石高校でも夏の大会に出場した。
 そう言う意味では私自身も高校球児だったし、
 先日にもちょっと書いたが、大学時代はリーグ戦が甲子園球場だったし、
 正月の兵庫県の高校のOB大会が甲子園球場であったりしたので、
 甲子園球場も多くの野球場の一つぐらいの位置づけで、
 甲子園の土を持ち帰るなど考えられなかった時代なのである。

 そんな時代から約60年も経っているのだが、
 いろんな意味で野球そのものが変わったなと思う。
 野球もレベルが上がったし、何よりも選手の体格が大きくなった。

 甲子園球場もちょっとプロでも広すぎると、
 ラッキーゾーンがあった時代なのである。

 私の野球をやっていた時代の道具も今とは違って、
 バットは木製だったし、
 ヘルメットは被ったことがないし、腕や足などの防具もなかった。

 昨今のプロ野球など見ていると、ボールが地面に落ちたら、
 すぐに新しい球に変えている。
 流石に高校野球はそんなこともないのだが、私の中学・高校の時の下級生の時代は、毎日ボール縫いに没頭したりしていた。
 そう言う意味では、今は豊かになったと言うべきか、贅沢なボールの使いようである。


★大正4年(1915)に第1回全国中等学校野球選手権大会が始まるのだが、
第2回大会慶応義塾は107年前に初出場し優勝したようである。
この大会は甲子園球場ではなく豊中グラウンドだったから、
甲子園を舞台に慶應が頂点に立つのは今年が初めてということなのである。
慶應は1921年の第7回大会まで6年連続で夏の甲子園に出場したというから、慶応はその応援歌にあるようにまさに『陸の王者・慶応』だったのだろう。

 
若き血に燃ゆる者
光輝みてる我等
希望の明星仰ぎて此処に
勝利に進む我が力
常に新し
見よ精鋭の集う処
烈日の意気高らかに
遮る雲なきを
慶應 慶應
陸の王者 慶應
 
 
 この歌詞は私はよく覚えていて、知っているのだが、
 子供の頃、母方の伯父楠見幸信が朝鮮京城の我が家にいた時期があって、
 伯父の持っていたレコードでこの歌を覚えたのである。

 私がまだ生まれる前の1929年当時のことだが、
 東京6大学の野球が人気絶頂の頃で、慶応大学野球部の黄金時代と言われる時代なのだが、
 伯父・楠見幸信は当時の慶応の不動の1番バッターだったようである。
 この頃の早稲田大学は、宮武三郎を擁する慶応に全く歯が立たたない状況にあったが、
 早稲田に三原修(早大)、小川正太郎(早大)、伊達正男(早大)が加わって以後、早慶の激闘が全国的に注目を浴びるようになったという。
 当時の慶応のメンバーは、宮武・山下のほか水原茂、山下実、浜崎真二、楠見幸信、らがいたという。
 神戸一中時代だったが山下実さんにはコーチしてもらったことがある。大きな方だった。

 その伯父はプロ野球に国鉄スワローズが参加した特、
 国鉄スワローズの初代総監督に就任しているのである。


  
  
  

  そんなこともあって、私の高校時代だが
  甲子園での阪神ー国鉄戦は伯父に入場券を貰ってよく観に行ったものである。

 あの金田正一は私と同期なのだが、
 高校を中退してスワローズに入団していたので、
 その当時の金田正一はよく知っている。

  


★慶応義塾が夏の大会に優勝して、
 慶応義塾の応援歌や伯父のことなども思い出したのだが、
 昨日も何となく慶応義塾を応援してたのは、
 息子と娘の二人の長男は慶応大学の湘南校の卒業なのである。

 かって仙台に4年ほどいたことがあるのだが、
 その頃の私の家の1kmほどのところに仙台育英もあったので、
 そんなことから、優勝戦までは仙台育英も応援していたのである。

 いずれにしても、私が野球をしてた時代とは全く変わってしまった。
 因みに、慶応義塾の選手たちは『丸坊主』ではないのである。
  


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二輪文化   雑感

2023-08-24 06:53:52 | 発想$感想

★ 日本は二輪のメーカーがホンダ・スズキ・ヤマハ・カワサキと4銘柄もあって、
 世界的にみても二輪の活動は活発な国だと言っていい。
 その『二輪の文化活動』について熱心にやっている団体が二つあって、
 一つは吉田純一さんが会長を務める一般社団法人 日本二輪車文化協会

 



 松島裕さんが主宰する『二輪文化を伝える会』の二団体である。


 
 


吉田純一さんも松島裕さんも非常に身近な関係にあるので、応援しているのだが、
 願わくば各メーカーも利益や台数などばかりに熱心にならずに
 より良い『二輪文化の創造』により力を入れて欲しいと思っている。
 結果としてはその方が『台数増大』に繋がる早道だと信じている。

 そんなことから私は、現役時代はユーザークラブKAZEの設立
 一般ユーザーの走れるサーキットSPA直入の建設など力を入れていたのだが
 お陰様で1995年にはカワサキの国内販売の最高記録7万台の達成などに繋がったのである。

★ ところで『二輪文化を伝える会』の主宰者・松島裕さんが
 来る8月26日・今週末の土曜日に「神戸ベンチャー会」に来られて、講話をされるのだが、
 結構オモシロイ二輪関係のメンバーが集まるようなので、
 是非、この機会に顔つなぎに「いらっしゃいませんか?

 場所はJR 三宮から徒歩3分の日本経済大学の教室です。
  
  

 今回の神戸ベンチャー会の講演会の内容などは
 『神戸ベンチャー研究会』と検索されると詳細がわかると思います。




 
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「明石」のKMJにに行ってきた

2023-08-23 05:29:07 | 発想$感想

★ カワサキモータース・ジャパンは川崎重工業の明石工場内にある会社なのだが、昨日はちっと用事があって久し振りに訪問したのである。
川崎重工業の明石工場の住所は明石市川崎町1-1 
かって戦前はこの一帯がすべて川崎航空機工業であった時代もあるのだが、
戦後、会社が再開した当時は経営が苦しくて、周辺の多くの土地を手放して、今は住宅地になっている。


 


戦時中の川崎航空機は従業員が10万人もいて、
今の西明石駅は川崎航空機に通勤する人のために造られたようである。
そんな明石工場の正門の真横にかってはショールーム付の立派なKMJ本社があったのだが、国道2号線の拡張工事のために潰されて、
今はちょっと奥まったこんなところがKMJの本社になっている。


 

 
 
 別に、大した用件でもなかったので、
 現役諸君と雑談のような会話を1時間ほどして戻ってきたのだが、
 応接室にあったソファー一式が懐かしかったので写真を撮ってきた。


  


 これは1990年代の私が担当時代に購入したもので、
 商品自体は当時の総務部長が選んだのだが、
 結構高かったので私自身はびっくりしたのを覚えているが、
 やはりいいものは長持ちするのか、今でもそのまま残っていて本当に懐かしかったのである。
今のKMJ本社はこんな地味な建物なのだが、昨今の経営実績はなかなかいいようである。

 
 

★ 私は今は三木に住んで50年と一番長く住んではいるのだが、
 明石は生まれ故郷だし、今でも本籍は明石市上ノ丸なのである。
 高校時代は明石高校で野球に没頭していて明石公園の野球場で毎日練習していたし、
 現役時代40年間の殆どを川重の明石工場に通っていたので、
 人生で一番長く過ごした土地はやはり明石かなと思う。

 そう言う意味で、川重の明石工場も、KMJも、明石の町自体も本当に想い出いっぱいで懐かしい。
 古谷家のお墓も明石にあるので、少なくとも私自身は明石の長寿院で永眠することは間違いない。

 今の明石はどんどん大きくなって、明石市はこんなに広いのだが、


  
 


かって私の子どもの頃は、明石川までが旧の明石でその西に川崎航空機があり、その駅名は西明石だったのだが時代とともにどんどん変わるものである。






 いろんな意味で、そんなに変わった90年の時代を生きてきたのだが、
 その真ん中にいたのが明石であったような気がするので、
 明石には年に何回かは行くのだが、特別の想いがある明石なのである。

 昨日はそんな「明石」のKMJ に行ってきた。


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カワサキ単車の昔話  14    小型車に関する考察  

2023-08-22 04:43:59 | 発想$感想

★ 昨日、カワサキ単車の昔話13   で    ホンダとヤマハのHY戦争のことなども書いたのだが、
 FBで何人かの方からコメントなども頂いたりした。
 実は当時カワサキも『小型車の分野への進出』が検討されていたのである。
 検討者の中心は川崎重工業の当時の吉田専務というTOPの方で、
 生産指向の発想で、素晴らしい生産設備を創り、安価な小型車を開発・生産するなら、『どんどん売れる』と言う単純な発想で  、
 市場の分野と言うか、どのようにそれを売るのかと言う分野が抜け落ちていて、
 当時単車事業本部の企画室にいた私は、これは危ないから止めなくては ならないと思ったのだが、
 専務自らが結構本気で取り組んでおられて、当時課長職だったのだが、とても直接に反対するわけにもいかないので、
 搦め手(からめて)から『小型車に関する考察』と言う小論文にまとめたのが、これである。


  




★ A425ページにも及ぶ結構な論文なのだが、
同じ小型車でも『東南アジアのCKD事業』への進出がそのであった。
 『小型車の目先』を変えるべきだと思ったのである。
 この論文は当時の事業本部長以下TOPの方々にも好評で、結果的には大成功で、カワサキも本格的にCKD事業に進出することになるのである。
マーケッテンぐ分野からの発想で、若いころからこんなことを発想し、文章にするのは嫌いではなかったのである。

 論文は
 「二輪車の事業環境について
 「小型車について
 「小型車事業の展開ステージ
 の3分野から成り立っていてその2項「小型車について」の中に
 『ホンダロードパルコンセプト』という項目があるので、それを原文のままご紹介してみたい。
 こんなことが書けるのは固い会社の川崎重工業の中では私ぐらいしかいないのでは?
 と思ったりもするのだが、当時では販売第一線を経験したのは川重籍では私しかいなかったのである。


  


 そこではこのように書かれている。
 原文のままご紹介してみたい。

 ロードパルはホンダが新しい時代に対応する新しいオートバイとして、その名も新しくモキットと称して登場した。
 ロードパル戦略は典型的な小型車戦略として興味深い。
 ユーザー対象を女性に絞ってオートバイ・モペットのイメージを変えようとする意図が明確である。
 世界的に一流のモデルとしてソフィアローレンを使い「素晴らしき人ホンダに乗る」と言うキャッチフレーズはホンダのすべての広告に使用されている。
 男性を対象とするスポーツ車にはサッカーの王様ペレを使うと噂されている。
 女性を対象とするだけに技術的なとっつき難さを極力排除した設計とし「まるでペダルのない自転車みたい」と自ら従来のオートバイ・モペットとの差別化を行っている。
 何もかも簡単、ロードパルの三つの簡単は、1乗り方、2お求め(ホンダクレジット)3ライセンス(免許教室)と設計から販売までをパケージにしたTOTAL戦略型である。
 59800円という低価格に対して販売店にはカブ並みの12000円のマージンを提供し強力な広告を背景に一気に月産30000台へもっていこうという意図のようである。
 ロードパルオプションとしては、バッグ・レッグシールド・ヘルメットホルダーなど15種もあり、オプションのトータル額は19700円である。逆の見方をすれば、オプションを別にすることにより59800円と言う低価格を実現し、それをオプションで補おうとしている。
 発売以来短期間であるがすでに殆どの人に周知せしめた強力な広告はホンダにとっても近年にない規模であり、ロードパルに掛けるホンダの意気込みが感じられる。
 広告内容はテレビスポンサー番組・素晴らしき仲間たちのコマーシャルのほか東名阪の各局スポット(1~2億)新聞全国紙全頁(5000万円)女性向け雑誌を中心に(2000万円)販促活動としては店頭デスプレイ (1億円)車内吊り(1000万円)、その他ローレンの契約料・製作費など、少なく見積もっても4~5億円 、今後の広告など考えると巷で言われるごとく10億円もあながちハッタリではない。
 国内では月10~15000台を目標のようだから、年間売上高は@50として年で90億円、仮に10%を限界利益率と仮定すると、ほぼ1年分の限界利益を広告宣伝に、それも販売する前に使用しようとしている。
 これら一連の販売戦略は単なるロードパルと言う個別商品に対する販促活動だけではなく、明らかにホンダのブランドイメージ向上にあるものと推測される。
 新しい時代に対応する省資源・安全性と同時にカッコいい世界一流の企業として素晴らしい仲間とともに生きようとするホンダの基本理念を根底に一連の販売戦略が組み立てられている。 


★ この論文を書いた意図は、あまりにも生産指向的発想が強く、
 販売指向型と言うかマーケッテング分野の発想が抜け落ちていて、
 従来のカワサキの中大型車なら、商品機能の中の性能分野などが
 大きなウエイトを占めるのだが、
 『小型車』については、むしろ『イメージコンセプト』などが優先される商品なのである。
 そういう意味で、専務以下当時の事業部のTOPの方に、
 小型車を世に出す場合の基本発想・マーケッテンぐマインドの分野を解って欲しかったのである。
 そう言う意味では、ちょうどその時期に展開されていた
 『ホンダのロードパル戦略』を例にとっているのである。

 改めて読み返しみたが、
 この小型車に関する考察の中で触れた「東南アジアへのCKD事業」は、半年後に具体的にスタートするのだが、
 私は企画室課長と言う結構いい職位をたった6か月で自ら捨てて、
 新しく出来た「市場開発プロジェクト室」に転籍し、
 タイ・イラン・インドネシアなどの開発途上国へのCKD事業推進に関わることになったのである。

 そう言う意味では、自らの進路を決めた小論文だったように思う。



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カワサキ単車の昔話  13     増販と資金繰り

2023-08-21 05:12:36 | 発想$感想

★二輪業界の増販競争が一番激しかったのは、
 昭和50年代のホンダとヤマハの増販競争・HY戦争と言われた時代かなと思うが、
 50ccのモペットの台数増販競争は熾烈を極めたものだった。

 これはホンダのロードパルの発売あたりからスタートし、
 それに対抗してヤマハも頑張ったので、
 市場は乱売合戦がすさまじかったのを想い出す。


  


  これは日本の50㏄市場の乱売合戦だったので、
 50㏄のモペットを持たないカワサキは横から眺めていたのだが、
 それがアメリカ市場にまで飛び火して、大変なことになったのである。

★1980年頃だったと思うが、アメリカでも安売り競争が始まって、
 KMCは年間100億円の赤字が2年も続き、
 銀行借り入れ金が300億円にもなって
 当時のアメリカの金利が18%の時代だったから、
 その金利だけでも50億円近くになり大変なことになったのである。

 当時の川重本社は造船が絶頂期だったから、事業部の赤字ならそんなに大したことではなかったのだが、
 子会社のKMC100億円もの赤字を出すと、連結決算で川重本体の利益が相殺されてしまうので、
 大変なことになり、川重財務本部が乗り出して、300億円もの単位での対策を行った時期がある。

 これは資金対策の問題なので、当時の事業部におられた技術屋さんなどは、
 全く知らない事実でこれを知ってる人は限られた極く少数の人だけなのである。

 事業本部の赤字ではなく、子会社KMCの赤字だから、販売会社の赤字をどうしたら止められるのかは、
 販売会社経営のノウハウなので、当時は販社の経営などやった経験者は川重籍の人達にはいなくて、大変だったのである。


★この事態を総責任者として対応されていたのは、当時の川重の副社長の山田熙明さんで、
 山田さんから突然呼び出されて「このKMCの期間損益の赤字は止まると思うかか?」と仰るので、
 「直ぐ止まると思います」と答えたら、「それならお前がやれ」と販社から企画に呼び戻されたのである。

 販売と言うのは規模の大小はあるが、小さな小売店から大商店まで、
 ちゃんとやると「赤字などにはなったりはしない」のである。
 それが赤字になってしまうのは、実力以上に売ろうとして、
 大量に仕入れたりするので、その資金負担などで赤字になってしまうのである。

 事業部のほうも沢山生産し沢山販社に売ると事業部の利益は上がるので、
 資金繰りとか営業外損益の理解のない人たちは、
 つい『大量生産・大量販売』の方向に走ってしまって、
 それが販社の実力以上の台数だと、販社の破綻に繋がってしまうのである。

★「沢山売ると沢山儲かる」それはそうなのだが、
 それが実力内かどうかが問題なのである。
 カワサキの単車の創成期には、全国には自前の代理店があって、
 代理店が販売店に卸していたのだが、
 その時代の代理店は、実力以上に売り過ぎて、資金が回らなくなり、
 メーカーの資金援助を受けて、結局はみんなメーカーに取られてしまったのが、日本の販売網の歴史なのである。 

 当時、私は若かったが東北6県の代理店担当だったから、
 メーカーの増販要請に応じたメーカーに協力的な代理店から順番に、資金が破綻していったのを目の前で見ていたのだが、
 これはカワサキだけではなくて、ホンダ・ヤマハ・スズキも同様で、
 日本の二輪の販売網は今のようなメーカー直轄の販売網になったのである。

★ カワサキの場合は、特に当時は、販売が解る人など殆どいないというか、
 第1線の販売はメイハツ・メグロの出身者が担当していて、
 川重籍では極端に言うと『私だけ』と言ってもいいほど少なかったのである。

 カワサキの場合は他社に先駆けて『中大型スポーツ車』の
 250A1


  

  500マッハⅢ


  

 
  Z1 などスポーツ車が海外市場で好評で、


  
 
 
 在庫など溜まるよりも『数不足』の状態だったから
 当初は海外のどの市場も問題なく、カワサキの二輪事業は成長の一途を辿ったのである。

 
★ それが1980年代になって、
 初めて海外販社の「在庫過多」と言う初めての事態に直面して、
 営業外損益が大幅な赤字になり、
 その対応が解らずに、大変なことになってしまったのである。

 私は企画に戻って、世界の販社の経営再建にあったのだが、
 半年で、世界の全販社が黒字転換し健全経営に戻ったのである。
 これは何も私の力で戻ったのではなくて、
 当時川重財務本部が300億円もの対策資金を用意してくれたので、
 この資金を全販社の営業外損益対策=資金対策に充てて、
 実力通りの適正販売量に戻しただけのことなのだが、
 そんな具体的な対策が打てたのは、
 若いころに東北6県の代理店の資金対策を直接見て知っていたからなのである。

 要は、そんなに欲張って、実力以上の増販などしなければ、
 販売と言うか販売会社は常に儲かって黒字なのである。

 

 

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三木総合防災公園の道路を歩いた

2023-08-20 04:41:01 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 毎日のように行っている三木総合防災公園だが、
 不思議なことだがその道路だけを歩いたことはない。
 結構広い道路で三木マラソンなども行われるのだが、
 今朝はその道路だけををはじめて歩いてみた。

 朝5時、まだ陽は上がっていないが、
 こんな綺麗な朝焼けだった。


 



 こんな広い道からスタートである。


 


 
 まだ開門していないが、
 園内にはこんな道路が走っている。
 この道を走っている人は結構いるのだが、
 多分、マラソンなどをやる人たちで、いつもはこの道路も少しは通るのだが、
 殆ど園内の散歩道をスロー・ジョッギングしていのである。
 
 

 
 

 今朝は5時に公園に来たので、
 この道路はまだ車は走らないので、
 一度道路だけで周回してみるかと思ったのである。


 こんな結構広い道なのだが、園内の周回路として存在している。


 


 5時20分ごろだが、丹生山に陽が昇る寸前で、
 こんな朝日を右に見ながら、



 



 こんな坂道を下って、






 今度は逆になだらかな登りである。






 右に曲がるとこんな陸橋で、この下は4車線の一般道路が走っている。





 さらに、谷を渡ってビーンズドームのある西側の公園に行く道が続く。






 橋を渡りきると、こんななだらかな登りが続いて、









 この坂を上りきったところが林間広場である。

 林間広場まで行ってそこから折り返して、






 今度は「ブルボン・ビーンズドーム」を左に見て下って行く。
 メインコートを中心に幾つものテニスコートがある世界一の屋内テニスコートなのである。


 


 さらにこんな道を走って、橋を渡ると東の公園に出る。






 そして、右折すると西の入り口のほうに行く道になる。






 これが西門、このずっと向こうが出発点だった。





 開門前なので中に入れない車がいっぱい止まっている。
 私のクルマは前から2番目なので、そこがゴールである。
 






 そこまで戻れば、今朝のスロー・ジョッギングは終わり。

 こうして写真に撮ってみると結構な距離だが、
 約1時間20分、7000歩・5kmの距離だった。
 いつもは散歩道の周回路などを通っているのだが、
 初めて広い道ばかりを走ってみたが、
 車が通らないので、道路を独り占めの感じで気分良かった。
 早起きは三文の徳である。
 

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三木総合防災公園の道路を歩いた

2023-08-19 18:30:39 | 発想$感想

★ 毎日のように行っている三木総合防災公園だが、
 不思議なことだがその道路だけを歩いたことはない。
 結構広い道路で三木マラソンなども行われるのだが、
 今朝はその道路だけををはじめて歩いてみた。

 朝5時、まだ陽は上がっていないが、
 こんな綺麗な朝焼けだった。


 



 こんな広い道からスタートである。


 


 
 まだ開門していないが、
 園内にはこんな道路が走っている。
 この道を走っている人は結構いるのだが、
 多分、マラソンなどをやる人たちで、いつもはこの道路も少しは通るのだが、
 殆ど園内の散歩道をスロー・ジョッギングしていのである。
 
 

 
 

 今朝は5時に公園に来たので、
 この道路はまだ車は走らないので、
 一度道路だけで周回してみるかと思ったのである。


 こんな結構広い道なのだが、園内の周回路として存在している。


 


 5時20分ごろだが、丹生山に陽が昇る寸前で、
 こんな朝日を右に見ながら、



 







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結構動いた1日

2023-08-19 04:38:30 | 発想$感想

★ 最近は神戸に出ることもないし、
 三木の中だけでウロウロしているのだが、
 昨日は朝から結構動きまわった1日であった。

 朝はこんな時間から三木総合防災公園を歩いた。 
 台風7号などの影響で外に出られずに食ってばかりいたら
 体重が84kgを記録した。
 これは人生始まって初めての数値で、これはちょっと肥えすぎである。

 そんなことでちょっと早起きして頑張ったのである。
 こんな時間、それもちょっと小雨がぱらついてたので、

 
 


 殆ど車もいなかったし、
 公園の中を歩いてる人も少なかった。





 まだ地面は濡れていたし、
 丹生山には、こんなところに雲があったりした。


 


  周回路もこんなにまだ濡れていた。






 歩き始めて約50分、ここから車を止めてあるところまで、
 約10分だからざっと1時間、
 60分歩くと大体6000歩になるので、
 この夏場は6000歩を目標に歩いている。






★ 昨日は実は人に会うのに久しぶりに神戸に出た。
 新幹線の新神戸駅に12時の約束だったのだが、
 家をちょうど11時に出たら、30分でついてしまって、
 30分駅で待っていた。

 三木は田舎だと思われるかも知れぬが、
 六甲山の下のトンネルを抜けると、30分で三の宮なので、
 結構、便利な立地と言っていい。

 
 ホントに久しぶりに、
 神戸のホテルで約2時間ほど
 カワサキの昔話などして、『いい時間』が過ごせたのである。

 



 皇居外苑と名の付く立派な羊羹をお土産に頂いた。


 


 現役を離れてもう20年以上になるのに、
 誘って頂けるだけ、幸せだと思っている。
 『お元気ですね。あと10年は大丈夫です。』と言われていい気分だったのだが、
 これだけ動けたら、『あと十年』は大丈夫かも知れない。
 Fit Bit の歩数は、8000歩を越えていた。
 こんな1日もなかなかいいものである。


 

 
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高校野球 西から東へそして北へ

2023-08-18 04:59:13 | スポーツ

★高校野球はかっては関西や中京、さらには四国、九州など西の方が強かったのだが、
 「優勝旗が箱根を越えた」と話題になったのは、
  33年ぶりの佐々木信也

 

 
 選抜の早実の王の時代




 どちらも相当に旧い話なのだが、
 昨今は箱根の関どころか
 仙台育英が優勝して、とうとう「白河の関」を越えたのだが、

 今年あたりは大谷翔平を先頭に、
 東北勢が大変な勢いで、
 8強に仙台育英・花巻東・八戸学院と3校も残っている。

  

 逆に近畿勢は7年ぶりに一校も8強に残れなかったようである。
 時代はどんどん変わるなと言う想いが強い。

★兵庫県も野球もサッカーも強かったのだが最近はどうももう一つである。

 ところで、いろんな高校が出場しているが、
 兵庫県の社を応援してたのだが、負けてしまったので、
 さて、どこを応援するかと言うと、
 何となく自分との関係が幾らかでもある学校を応援したくなるのは人情である。
 そういう意味では、息子のほうの孫が行ってた日大三高を応援してたのだが負けてしまったので、
 近畿勢をと思ったらいなくなってしまったのである。

 そうなるとかって仙台に4年いて東北6県を担当してたので、
 仙台育英を先頭に、花巻東や八戸学院を応援しようかなと思っている、

 それにしても8強の中に東北6県から3校も残るとは
 ホントに時代も変わったものである。
 岩手出身の「大谷翔平の影響」かな?
 大谷はホントにスゴイな42号である。
 大リーグのホームラン王が断トツでほぼ確実なのである。

 昔は遠くなったなと思う。


 
 


  
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