雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

名門『神戸木ノ実レ―シング50周年を祝う会』

2011-01-30 12:22:29 | M/Cレース

★土曜日に『神戸木ノ実レ―シング50周年を祝う会』がグリーンピア三木で行われたので出席した。

50周年と聞いてちょっと意外であったと言うのが実感なのである。

もっと旧いと思っていた。

昨日『青野ケ原モトクロス』のことを書いたのだが、

カワサキのレースのスタートとなった青野ケ原もほぼ神戸木ノ実のスタートと同じ時期だったのだと言うのは新たな発見だったのである。

 

50年前の日本のレース界、特にモトクロス関係は、MCFAJという全国のレーシングクラブからなるクラブ連盟の方がMFJよりもむしろ主力であった。

カワサキがレースを始めたころは、カワサキの契約ライダーのクラブは存在していなくて、

このあたりは推測だが、当時のカワサキ自販の小野田滋郎さんなどの手によって、厚木に三橋実が設立した『カワサキコンバット』というクラブがファクトリークラブであったのだろう。

三橋実と厚木周辺の岡部能夫、梅津次郎、加藤清丸などがメンバーでスタートした。

関西にはメーカー直属のクラブはなくて、片山義美さんが主宰する、神戸木ノ実レーシングの歳森康師、山本隆と個人的なライダー契約を結んでスタートしたのである。

 

★当時のモトクロスは、2サイクル車をもたないホンダはファクトリーチームは持っていなかった、CLなどの4サイクル車でのアマチュアの個人参加がちょっとあったくらいである。

ヤマハは、野口種晴のスポーツライダースというクラブでファクトリーライダーを集めていたし、

スズキは、東京の城北ライダース、関西は京都の小島松久のマウンテンライダースなどのクラブがファクトリー契約をしたライダーたちを擁していた。

そんな中で、神戸木ノ実レーシングは、御大の片山義美は二輪はスズキと7、四輪はマツダと契約し、当初そのクラブ員はカワサキやヤマハやBSなどとも契約すると言う独特のスタイルを持つレーシング倶楽部だったのである。

 

カワサキにとっては、歳森康師、山本隆に続いて、ロードレースで金谷秀夫、さらに村上力などとも契約を結んだし、片山の義弟の従野孝司なども一時カワサキの社員だった時期もありその後カワサキの契約ライダーになったりして、カワサキとの関係は非常に強くなっていったのである。

関東のカワサキコンバットが三橋や岡部、梅津などとの契約が切れて事実上倶楽部が解散してからは、

星野一義や清原明彦さらには和田将宏などカワサキの契約ライダーたちがその籍を置いてカワサキ色が強くなった時期はあるが、マツダとも、ヤマハ、スズキやホンダとの契約のあるライダーを有する非常に特色のあるレーシング倶楽部だったのである。

そういう意味では、名実ともに日本最大の名門レーシングクラブだと言っていいだろう。

一昨日はその50周年を祝う会がグリーンピア三木で行われた。

1960年代、70年代、80年代とこんなに大勢のライダーたちが集まった。

50周年だが、60年代の選手たちは、仲間と呼べる人たちばかりで、非常に楽しいミーテイングとなったのである。

既に昨日こちらのブログや、司会を務めたthiraiさんがそのブログTeam Green でアップしている。

そのほかにもこんな写真もあるのでご紹介してみよう。

御大片山夫妻への花束贈呈から始まった。贈呈者は愛弟子金谷秀夫と和田将宏夫人である。

当時の10数段ミションのスズキ50に乗る片山義美の写真を持つのはキヨさん清原明彦。

 

片山義美が加古川まで勧誘に来たと言うのが自慢の山本隆。二人ともご機嫌である。

会場には何故かカワサキKR500のファクトリーマシンも飾られた。

 『これが私』とこれはモトクロスならぬトライアルの山本隆である。

 

メインテーブルに座ったメンバー、前列左から

山本隆、片山義美、清原明彦、  後列左から私、金谷秀夫、和田将宏、村上力。

他にも毛利良一、杉尾良文、近藤博志、など全日本チャンピオンたちも出席していたので、まあ年寄りの特権ということか。

敢えて継承抜きで説明しているが、スターは一般に敬称抜きで呼ばれるものなので、それに従っている。

 

気がついてみると、片山義美以外は、全員がカワサキに関係があったのである。

スズキの契約であった片山義美もしょっちゅうカワサキに出入りしていて、貴重な意見をくれていた。

 

★このパ―テ―の最後に挨拶に立った片山義美さんが、

『神戸木ノ実レ―シングは本日の会合でその歴史を閉じたい。今後は神戸木ノ実クラブとして親睦会として継続したい。』と述べて50年の歴史の幕を閉じたのである。

この会には出席できなかった歳森康師、星野一義や片山敬済など、錚々たるメンバーが名を連ねたのである。

二輪ロード、モトクロス、トライアルさらには、四輪分野も有した、日本最大の名門レーシングクラブだったのである。

 

約1カ月後の3月4日には、この会の司会役を務めた平井さんが主宰する

参加者全員がNPO The Good Times の会員であることがMUST条件の

カワサキの想い出そして未来』で、また多くのメンバーや雑誌記者さんともお会い出来るのは楽しみなことである。

 

 

★私は三木に住んでいる。 

片山義美さんも、三木にお住まいなのである。

 

最後のこの一枚は、一昨日ではない。

道の駅みきで行われた西日本』最大のイベントBUG IN MIKI にメインゲストとして呼ばれた片山義美さん、お隣は二人とも、三木ではなかなかの有名人である。

ちなみにいえば3人ともNPO The Good Times のメンバーである。

 

私の仲間たちはみな、NPO The Good Times で繋がっている。

 

 

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青野ケ原のモトクロス

2011-01-30 07:51:34 | カワサキ単車の昔話

★『モトクロス黄金時代』という雑誌が八重洲出版から発行されている。

つい先日の、NPO The Good Times の新年会に、山本隆君が『自分の記事も載っている』と持参したものを見せてもらっている。

 

日本のレース時代の幕開けの記事のいろいろと一緒に、『カワサキのレースのスタート』ともなった、伝説の『青野ケ原モトクロス』の記事が4ページにわたって記載されている。

私自身も当時既に二輪営業の担当をしていて、直接ではなかったがこのレースに関していろんな思い出もある。

それこそ『カワサキ単車の昔話』の頂点に立つ話なので、知っている範囲で纏めてみたい。

 

 

 

★記事は、この4枚で構成されている。勿論ちゃんと取材をされた上の記事だから、その通りなのだと思う。

私は当時営業部にいて同僚の故川合寿一さんがマネージャー役をしていた。

記事の中にもあるようにこのレースが社命で行われたものではなくて、一部の人たち、それも中村治道さんや高橋鉄郎さんなど技術部というよりは、生産工場サイドで計画されたものであったことから、社内の状況はむしろ批判的な目で見る人の方が多かったのは、職制上から言えば当然かも知れない。確かにマシンなど開発する部門ではない生産部門が定時後とは言え、マシン開発などすることは、勤労部門などから見たらケシカラヌ行為に見えたのであろう。

そんな中で数少ない支援者のトップは、営業の故小野助治次長であったことは間違いない。

中村さんや高橋さんがまだ掛長の時代で、当時の部課長でそんなに積極的に応援した人はいなかった。

当然のことながら予算などなかった。私は営業部の管理掛にいて金の管理などは担当だったのである。

川合寿一さんがマネージャーような役割を担ったのも小野さんの指示であったし、

『金を都合してやれ』と私に指示を出されたのも小野さんなのである。何となくそんないい雰囲気を持った『おのすけ』さんであった。

 そんなに大金ではなかったが、営業部が都合できるぐらいの金を『ある意味ゴマカシテして捻出した』というのが、私の青野ケ原のレースに果たした役割であった。

この記事の最後にある当時のトップの人たちも含めての記念写真には、文句を言ってた部課長さんも並んでいるのを当時は、『結果が良ければ変わるものだな』と思って見ていたものである。写真の後列真ん中、背広姿、眼鏡をかけている方が『おのすけ』さんである。

 

★このレースのきっかけとなった鈴鹿のレースの強烈な印象は高橋鉄郎さんから何度もお聞きしている。

このチームのリーダーの役割を果たしたのは中村治道だった。強烈な個性でこのイベント?を引っ張っておられた。最初のページの一番左の方である。

レース当日風邪か何かでダメだったので、高橋さんが指揮を取られたと高橋さんご自身からお聞きしている。

マシンを作ったのは、故松尾勇さんとあるが、それは間違いない。

松尾さんは兵庫メグロの故西海さんが、カワサキでレースをさせるために兵庫メグロから送り込んだ人材なのである。後のF21Mもエンジンは故安藤さんだが、フレームを設計図もなしに仕上げたのは松尾勇さんであった。

初出場のカワサキが、なぜ1位から6位まで独占できたのか?

現場を見たわけではないが、当日は雨で水たまりがいっぱいできて、スズキやヤマハに乗ったライダーたちのマシンはみんな水をかぶって止まってしまったようである。カワサキの防水対策は完ぺきで、カワサキのマシンだけが完走したようなレースだったようである。山本隆君などもヤマハで出場していたのだが、止まってしまったのだという。

レースなどどんなものかも解らなかった私などは、水しぶきをあげて走っているレースの写真を見て、モトクロスレースとは水たまりなどの障害物の中を走るレースなのだと、正直そう思ったものある。

 

★このレースは単に、カワサキに優勝カップをもたらしただけではない。大げさに言えばカワサキの二輪事業の命運を分けたとも言えるであろう。

当時はまだ事業が軌道に乗っていたわけではなくて、B8の前のB7は、フレームの欠陥で大返品であった。

このまま事業を続けるべきか否か?

日本能率協会の大々的な調査の最中の出来事だったのである。このレースの優勝で現場の意気は上がっていたのを見て、その調査報告には、『末端の現場の意気高し』と記載されていたのである。事業存続の一つの判断材料になったのは、日能の報告書の中の記述を見ても明らかであった。

神様の天の恵みの雨であった。

 

このレースがカワサキの最初のレースのように言われているが、これ以前にも『カワサキ自販』などのレベルで、レース参加はなされていたのだと思う。

雁の巣や厚木や八戸などアメリカの基地周辺では、アメリカ人たちがレースをやるのに影響されて、盛んになっていったのではないだろうか。当時のカワサキ自販の小野田滋郎さんなどは、厚木にいたヤマハの三橋実を引きぬいたり、三吉一行くんにカワサキに乗せたりしていたようである。

その辺のところははっきりしていないが、メーカーサイドで非公式とはいえ大がかりでモトクロスレースに出たのは、『青野ケ原モトクロス』であったことは間違いない。

 

★こののち、営業の川合寿一さんがレース担当となって、

『神戸木の実』の歳森康師、山本隆、『カワサキコンバット』の三橋実などと契約を結び、翌年の第1回相馬が原の日本グランプリに臨むのである。

それまでも、地方の草レースにばかり出て連戦連勝だったから、当時レースの実情など知らなかった私などはモトクロスはカワサキが一番と信じていたのである。

各社の強豪が集まった相馬が原の日本グランプリでは、5位にも入れないのを見て『ビックリした』のを覚えている。

 

さらにその後は、私自身の担当分野となって、川合さんとともにレースを担当することとなったのである。

レースマシンに関しては、技術部よりも、松尾勇さんがダントツで詳しくて、『モトクロス職場』として、生産部門の担当となるのである。

その運営資金は広告宣伝費で負担し、モトクロス職場は生産部門管轄だったので、広告宣伝を担当した私や当時製造部にいた田崎さん(元川重社長)が創成期のレースに直接関係したのである。

エンジンは技術部、車体は製造部、ライダー契約やレース運営は広告宣伝課という3者協力体制で運営されていた。

 

★そんな50年前の時代であった。

 今日5時から、グリーンピア三木で、『神戸木の実クラブ創立50周年を祝う会』が行われて、出席する。

カワサキのレースの始まりは、世界の片山義美さんが主宰した『神戸木の実クラブ』とともに歩んできた。

『歳森康師、山本隆、金谷秀夫、星野一義、清原明彦、杉尾良文、など』のカワサキと関係のあったライダーたちが所属したクラブである。

 

そんな日に、『青野ケ原モトクロス』のことを書いている。

そんな時期に、『モトクロス黄金時代』という雑誌が八重洲出版から発行された。

何かのご縁のような気がする。

 

●改めて明日でもアップするが、その速報を、どうぞ。

昨日の司会をした、thirai さんも既にブログにアップしている

 

今は沢山あるバイク雑誌だが当時は、オートバイ誌とモーターサイクリストの2誌だけだった。

モーターサイクリストの酒井文人さんと確か関係の深かったMCFAJの方がレースの中心であった。

サイクリストは確か大橋さん、オートバイ誌は衛藤さん、衛藤さんは今でもお付き合いがあるのだがーー。

昔々のカワサキの昔話である。

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犬を買いました。

2011-01-29 05:53:09 | 日常生活、園芸、バラ

★犬を買いました。

柴犬です。

名前を『りき 力』といいます。

 

玄関のヨコにずっと座っています。

前を人が通ると『ワンワン』と吠えます。

一緒に散歩をすることはできませんが、犬がいるような気もします。

 

こんな可愛いい赤い首輪をつけてもらっています。

こんな広告が載っていて、通販で我が家にやってきました。

 

★我が家には、こんな『Tom & Love 』という夫婦がいました。

4年前の正月

2007年1月1日は、こんなブログでスタートしています

このブログで、初めて写真が貼りつけられた記念すべきブログでもあります。

鎌倉の孫が遊びに来ていて、貼り付けてくれました。

アメリカの孫たちから、こんなコメントが届いたブログです。

Good job! (第二の孫(R・K))
2007-01-02 10:32:10
あけましておめでとうございます
今年の冬は帰れなかったけどまた今度帰ります
それと写真のことだけどよく出来ましたね

『Tom & Jove 』 はもういなくなってしまいましたが、アメリカの孫の長男と同い年でした。

今いればもう高校生です。

一緒にいるときは、1年中に日の出とともに起きて、毎朝欠かさず散歩をしていましたが、

最近は朝の散歩をすることもなくなりました。

 

上の写真のさらに10年前、1996年3月には、今度来た『力』のように、

若くりりしく、いつもこのように並んで座っていたのですが。

ちなみに、『Tom & Love 』と同い年であった、アメリカにいる孫の長男の名前は、『力也』です。

 

その力也も高校生、サッカーで点を取ったそうです

 ★全然違う話題ですが、

NPO The Good Times の新年会です。  いい顔ぶれです

ご存じの方も多いと思います。 本年もよろしくです。

 

★ The Good Times Tumblr 会員さんのon time のブログ集です

 

★Facebook です。

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テレビを観てのの雑感

2011-01-27 05:36:34 | 発想$感想

★最近はテレビを長時間観ることが少なくなった。

テレビを見ている時間よりは圧倒的にパソコンに向かっている時間の方が長い。 

仮に観ることがあっても、パソコンに向かっていながら同時に「テレビを聞いている」そんな観方が多いのである。

 

★一昨日の晩から、テレビをちゃんと長時間、確りと観ていた。

一つは、サッカーのアジアカップ、日本―韓国戦である。

もう一つは、昨日の午後の、国会の代表質問である。

 

★スポーツの世界と政治、ではあるがどちらも国の単位である。

サッカーは素直に、みんなが協力一致して、日本という国を応援する。

日本に勝ってほしいと言う気持ちが前面に出る。チームも一丸になって、国のために?頑張るのである。

いい試合であった。気力もあったし、韓国も強かった。

結果はPK戦で韓国が意外と思うほどあっけなく勝負がついたが、3時間近くテレビを確りと観続けていた。

 

★昨日の午後の国会の代表質問、これもいつになくちゃんと観た。

自民党の谷垣さんも、小池百合子さんの質問もどちらも迫力があってよかった。

こんな鋭い質問に、菅さんはどう答えるのだろうと思うのだが、何となく上手く答えてしまうのである。

いつものことだが、質問する方は一生懸命だが、答える方は無難に短くなってしまう。

これは、自民党時代もそうであった。

 

これも、考えてみれば、日本をよくするための議論のはずだが、どうもサッカーの様に一致協力してというわけにはいかない。

『国のために』も勿論あるのだろうが、『政党のために』という観点の方が強いのかもしれない。

だから、今の自民党の目標は、『解散に追い込む』のが一番であって、今の体制で『お国のために』という超党派の考え方はない。

 

昨日の代表質問で、一番まともだったのは、民主党の城島光力氏の質問だった。

名前も聞いたこともないし、初めて知った人で、間違いなく菅さん擁護派ではあると思うが、質問の中で喋ったことを聞いていると民主党もいろいろやっているんだなとは思った。

だが、多分マスコミは取り上げないだろうし、政治的な話題ばかりが世間の目を捉えるのだろう。

テレビも新聞も、谷垣さんしか報道しない。小池さんすら出てこないのである。

 

★それこそ、たまたまだが、今朝ブログをチェックしていたら、NPO The Good Times の会員さんで、潮流発電なども応援してくれている民主党代議士の高橋昭一さんが、

昨日の国会の代表質問について、ブログで詳しく取り上げていて、なかなか面白い。是非ご一読を

高橋昭一さんは、息子と同じ小野高校、息子の1年下、娘の1年上である。子供と同じ年代だが、やはり確りされているのは当然なのだが、そんなこともあってNPOの会員さんでもある。

 

★これは、今の議院内閣制が続く限り、こうなってしまうのではと思ってしまう。

政治に詳しくはないが、今のシステムはあまり好きになれないし、そのことが中央の政治に無関心になってしまう原因にもなっている。

 

一度どこかの政党が政権に就くと、一国の総理大臣もその党の中でのたらい回しになってしまう。

1年ぐらいの短命内閣が多いので、リーダーらしくない人でも、順次総理大臣になったりするのである。

 

★地方の首長でも1期4年では短いと言う人がいぱいいるのだから、

一国の総理に1年で何かちゃんとやれと言うのも無理だなと思う。

だから日本の場合は、霞が関の官僚が、ちゃんとやっているので、政治家がぼんやりしていても、日本は世界第2位の経済大国にまで発展したのだと思う。

だが、今からの世界は、単に経済大国になればいいというような単純なものではなくなってきている。

それこそ政治家の理念やリーダーシップが求められる時代になりつつあるのではないだろうか?

 

官僚ができる管理システムだけの、護送船団方式だけでは、世界が日本を認めないのではなかろうか?

『世界に認められる国』になるためには、一国の総理の果たす役割は大きいと思う。

 

★だが、国民は地域の代議士しか選べない。

総理大臣は、どうしようもないのである。

菅さんがいいや悪いやと言うことはできても、誰かを選ぶことはできない。

こんなシステムを直すのは、不可能なのだろうか?

大阪の府と市の統合でも難しそうだから、大変だとは思うが、大阪はチャレンジしているのがいい。

 

久しぶりに、長時間テレビを観ての雑感である。

 

★今日の午後から、有馬温泉に行く。

NPO法人 The Good Times の新年会を1泊でやる。

理事さんも、一般の会員さんも来られるが10人ほどの小規模の懇親会である。

昨年は国会議員の高橋昭一さんが突如顔を見せられたが、今年は県会議員さんも市会議員候補者も、メンバーに入っている異種、異質の人たちが横一線に集まっているので、たまたまそんなことになってしまうのである。

設立当初、『ボランティア活動をするNPOではなくて、ボランタリー活動をするNPOはできないのか?』という課題にチャレンジして創ったNPOだから、『新しい公共』を今年の目標にするのも、議員さんや、官のひと、役所の人などがメンバーにいるのも、当然なのである。

発足以来1年半、設立に動いてからちょうど2年である。

 

若し挨拶をするとすれば、多分こんなことを、喋るであろう

 

 

 

 

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Facebook 始めました。

2011-01-26 05:54:32 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★昨今急に 『Facebook』という言葉がマスコミを賑わしています。

朝日新聞もこんなに大きく取り上げていますし、

先見の明があると、私が尊敬している佐賀県武雄の樋渡さんは、

『武雄市長物語の』なかで、こんなに大きく取り上げています

 

世界で5億人が参加をしている世界最大のネットワークと言われていますが。

何故かロシヤ、中国、韓国、そして日本が取り残されている様です。

 

★実は私はもう2年近く前に、登録だけは済ませていたのですが、技術的なところがよく解らなくてそのまま放ってあったのです。

今年に入って、NPO The Good Times のアドバイザーをしてくれているbunCさんがFacebookを始めました

彼の言では、ひょこむと機能はよく似ていて、同じようなことができるということでした。

先週、これもNPOの新しい会員の e-音楽@みき の小巻さんがFacebook を始めたようで、お二人ともネット技術に強いので、すぐ横に先生が出来たことが直接の動機です。

そんなことで、1月21日に実質的なスタートを切りました。

 

★今年のNPO The Good Times の活動目標は、『新しい公共』です。

『ボランタリー活動プラザみき』 という三木市社会福祉協議会が、会員として参加されて、三木市全体を視野に入れた活動をされようとしています。

その具体的な活動目標の一つに、関係するメンバーのネットワークがあるのですが、

世のなかにある、ブログ、ツイッター―などのシステムの他にSNS的なもので何がいいかなと考えていたところです。

『ひょこむ』もいいのですが、より簡単に参加できるシステムとして、Facebookはどうかなと思っていたのです。

 

★21日にスタートしてみて、まずNPOのメンバーたちと繋がってみました。

私と同じ、技術的にはあまり強くないthirai さんに勧めたら、電話をしている間に、登録出来てしまうほど簡単でした。

そんな状況を、こちらのブログで書いていますのでご関心のある方は、お読みください。

 突然カワサキマークですが、これはアメリカの多分『KMCの公式 Facebook』だと思います

 このファンページに繋がっている人たちは、既に20万人を超えていて、『いいな』と賛同している人は、私のトモダチの中にもすでに5人もいます。

thiraiさんも、ねこさんも、丁子さんも、みんな繋がっているのです。

私が最初にこのページを見つけた時は、19万人でしたから、1日1000人の勢いで増えています。

 

★日本では、昨日、奈良のHolly Equipさんが、NPO The Good Timesの団体会員メンバーに参加されました。

Holly Equipさんとは、こんなオモシロイグループですが、

3月4日にある『カワサキの想い出、そして未来』に参加する資格を得るために、NPOにジョインされたのです。

世のなか面白いもので、Holly Equipさんはツイッターも、Facebookもやっておられて、

特に、Facebookは、日本では先頭グループを間違いなく走っています。トモダチもすでに550人を超えています。

早速facebook で、こんな私の紹介をしていただきました。アメリカとオーストラリアのライダーから、トモダチ依頼があって面食らっています。

●Holly Equip
He is 77 years old now,and has an effect to many people as well as the motorcycle fans of Japan.
This comming March 4-5, the tour of a Kawi factory and gathering to legend pilots by N.P.O. under the supervision of him. I will attend and report it....I hope.

●Holly Equip
Guys, Kawi fans,This is A-1 news.
Now, I introduce Mr.Rentaro Furuya joined the facebook.

He had been worked at Kawasaki Motorcycle Japan from 1957 to 1999 and his climed all the way up to the president.
...Also he was the superviser of the COMBAT TEAM KAWASAKI.
The COMBAT TEAM KAWASAKI is the name of Kawasaki Factory Team early.He is real legend of team Kawasaki history.

 

★初めて、Facebookに出会われる方は、お読みになってももう一つぴんと来ないかもしれません。

然し、世の中はこんなスピードで変わっていきます。

世界はホントに小さくなりました。

これももう一つのブログの方で、城後光さんがFacebookで、私と武雄の樋渡啓祐さんとを結んで下さいましたが、

昨日、NPO The Good Times の個人会員に入会さました。

いろんなところに繋がっていくものです。

 

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入社10年、新人の時代を振り返って  自分史

2011-01-25 06:18:07 | 自分史

★昭和32年4月、当時の川崎航空機工業(株)に 入社した。

新人時代を含めての、10年間の自分史を書き終えた感想である。

 

★川崎航空機という会社自体が、戦後の中断期間もあって、入社したころはいろんな意味でまだ、未成熟な若い会社であったとも言える。

最初に配属された、財産課は財産台帳すら完全に整備されていなかった。

ただ、当時東洋でただ一つの米軍のジェットエンジンのオーバーホール工場で、米軍が駐在していたし、その時代にIBM室があったりしたのである。

いろんな管理システムや発想もアメリカナイズされていて、そういう面では先進的であった。

入社後すぐ、償却計算のIBM化など、民間では考えられないことを手掛けたりして、入社間もない新人時代から上司に仕事を教わることなく、勝手に育っていったような気がする。

 

★学生時代から患っていた結核の治療に4年目から1年間、療養生活をして、退院してきたら、

新しい事業として、単車の一貫生産が始まっていて、その営業部門に配属されたのである。

二輪の一貫生産自体が初めてのことで、明発、メグロという二輪の会社を買収して販売を開始したのだが、その経験のある上司もほとんどいなかったのである。

さらに、当時の日本能率協会の調査の結果、『事業として見込みあり』と判断された二輪事業だが、その条件の一つであった、広告宣伝など誰も経験がなかったのである。

同時に、ホンダ、スズキ、ヤマハといった浜松の一種独特の企業との競争で、レースの世界など全く未経験の分野だったのである。

そんな分野を担当して、何かと文句は聞いたが、上司が仕事を教えてくれたことは、皆無と言っていいほどだったのである。

 

★この合間に、結構熱烈に恋愛をして、結婚もしている。

給料は、入社時が12000円、結婚するころも30000円に届くかどうかというところだったから、今と比べたらまさに貧困生活であったと言っていい。

レースなど担当したお陰で、出張旅費があったから、その余りが小遣いであった。

そんなことで、結婚以来、決まった小遣いなど一度も貰ったことはない。

後半の5年の間に、立て続けに二人の子供が出来て、育児の手伝いはしたのだが、出張が多かったから家内は大変だったと思う。

 

★7年目の広告宣伝課からは係員の資格ではあったが、課長は部長が兼務だったので、管理職を無理やりやらされたし、

販売会社を作ってからは課長という辞令を貰って気分よく仕事ができた。

大体二輪事業という世界に販売会社を展開する事業だから、後には『掛長の社長』なども出現したのだが、当時はまだ国内だけだったので、『そのはしり』みたいなものであった。

会社の人以外との接触が多かったのも、いい経験になった。

特に当時のライダーという一種独特の世界の人たちを実質部下みたいに持って、その人たちを統制して動かす難しさは、学生時代勉強などせずに運動部を統括してきた経験が大いに役に立ったと思っている。

ライダーの契約問題や、レース方針、本社開発費であった広告宣伝費など、当時の事業のトップたちと直接話をしたり指示を受けたりするケースが多くて、そんなことに慣れてしまってこの期間以降も、どんなに偉い人とでも、ビビったりせずに普通に話ができる体質になってしまった。

川崎航空機の社長さんだった砂野さんのコネで入れて貰った会社だし、

その一番偉かった社長さんとは中学生の頃は、伯父の知人の『ただのおじさん』として話をしていたので、余計にそうなってしまったのかも知れない。

その砂野仁さんは、川崎航空機から川崎重工業に戻られて、川崎車輛を含めての3社合併後の初代の社長をなさっている。

 

★ただ、会社を退職するまで、この会社は『入れて頂いた会社だ』と言うことは、忘れたことは一度もない。

『給料が安い』などと思ったこともないし、『人事の異動』なども自分の希望など一度も言ったことはない。

最初の10年間も、ただ言われたことを、自分では『ちゃんとやれた』と思っている10年間であった。

入社した時に、最初の10年は、『周囲に好かれるように』と思っていたのだが、大体その目標は達成できたと思っている。

 

 昭和32年、(1957)  川崎航空機入社

 昭和33年、(1958) 新入社員2年目、青春時代

 昭和34年、(1959) 入社3年目、熱中の始まり

 昭和35年、(1960)  IBMでの機械化そして入院

 昭和36年、(1961) 入院生活、そして退院、単車営業に

 昭和37年、(1962) 単車営業に異動そして結婚、スタートの年

 昭和38年、(1963) めちゃ忙しかった会社、父になった

 昭和39年、(1964) 日本も自分も変わったーⅠ

 昭和39年、(1964) カワサキレース本格的にスタートの年‐Ⅱ

 昭和40年、(1965) 前半、32才、カワサキ自販に出向

 昭和40年、(1965) 後半 免許が取れた、いろいろあった新しいこと

 昭和41年、(1966) 33歳 レース担当最後の年
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昭和41年、(1966)33歳 レース担当最後の年

2011-01-24 05:54:15 | 自分史

★昭和41年、3年間担当した広告宣伝もレース関係も、最後の年となった。

この若い30歳代の最初の3年間に、この仕事を担当したことは、

いま振り返ってみると、

これで私の人生の生き方とか、会社での物事の判断基準とか、これら人生での基本的な部分が、この3年間の間で培われて、

大げさに言えば、77歳になった今もなお、この3年間で貯め込んだ大きなエネルギーを使いながら生きていると言っていい。

 

レースの世界で経験した、いろんな人間関係、

競争というものの持つ厳しさとその本質、

広告宣伝というマーケッテングをベースにした、人の心理の研究、

それらを、教えてくれる社内の上司もいなくて、それらを教えてくれたのはみんな外部の人であった。

 

極端に言えば、

ホンダ、ヤマハ、スズキなどの経験豊かな人たちや、広告代理店の本社スタッフに学んだし、

カワサキの二輪事業のホントのリーダーは、この二輪業界を強烈な個性と、高いビジョンを掲げて引っ張った本田宗一郎さんがある意味ホントの社長だったのかも知れない。この業界でのホンダのリーダーシップはすごかった。みんなホンダを見てついて行ったのである。

先頭の走るスピードが速いのでついて行くだけでも大変であった。三菱重工業や富士重など大企業はこの事業を見限ったのか、ついていけなかったのか、とにかく浜松の企業以外に残ったのはカワサキだけだったのである。

カワサキの二輪事業に携わった当時の人たちは、川崎重工業の体質とは一味違ったものを、自然に身につけて育っていったそんな時代だったのである。

 

★カワサキもアメリカ市場への進出が始まり,GPレースもこの年から始まった。

モトクロスのほかにロードレースも始まり、GPレースも秋の日本GP出場を目標に開発が進められることになる。

カワサキのレース活動も実質3年目を迎えて、私自身もMFJの運営委員として業界の会議に出席するようになった。 

富士スピードウエイでのGP開催を主張するスズキ、ヤマハと、あの須走り落としと言われた第1コーナーが危険と反対するホンダと意見が合わずに、最後はホンダは出場を見合わすと言う、ホンダ抜きの日本グランプリが開催された年でもある。

この年の仕事始めは、スズキから移籍した藤井敏雄君との契約交渉が1月5日から始まりそれが初仕事だったのである。

モトクロスでは、今でもヴィンテージMXなどでは人気のF21Mが、名メカニック故松尾勇さんの手によって造られた年でもあった。

7月にF21M が出てからは、モトクロスでは圧倒的に勝利をおさめ連戦連勝であったのだが、レース運営とライダー契約を担当していた私には忘れられない大変な年でもあったのである。

この年のこのころ、ビートルズが、日本にやってきた。そんな年だった。

 

★8月27日、FISCOの1000キロ耐久に来ていた私に飛び込んできたニュースは、マン島のプラクテイスでの藤井敏雄の転倒による突然の死だったのである。

その日のうちに留守宅への連絡、9月1日にマン島からの遺体の引き取り、9月3日葬儀など、全く未経験のことで走り回ったのである。

藤井敏雄君とは1月の契約時点で、本人のたっての希望で、ライダー契約は結んでおらず、単なるマシンの貸与契約だったのである。

確かに、会社と本人との間には何の関係もないので、レースの世界の解らない人の中には、会社は一切関係ないなどと言い出す人もいて、そのあと処理は、説得するのに大変だったのである。

マン島から送り出してくれたのは、たまたまドイツに留学中の大槻さんで私が羽田でお迎えをしたのである。

そのころの話をスズキの中野さんが纏めておられる『日本モーターサイクルレースの夜明け』という労作の中に、『藤井敏雄君の想い出』として寄稿している

 

★そんなことがあってすぐ、カワサキは鈴鹿のデグナ―カ―ブと名付けられて知られているドイツ人ライダーデグナ―と初めて外人ライダーとの契約を結ぶことになった。

外人との契約はどのようにするのか、社内には聞く人がいなくて、ホンダのMFJ運営委員をされていた前川さんに9月10日に鈴鹿まで出向いて懇切丁寧に教えて頂いたのである。

私が日本語の原文を作り、当時の山田部長(のち川重副社長)に英文で作って頂いたのである。

当時は英語など喋る人は通訳だけといった時代だったから、神戸のオリエンタルホテルにデグナ―を迎えたのだが、『グッドモーニング』とだけ言って、明石まで一言も喋らずに、車で連れてきたのである。

そのデグナ―は、9月29日のFISCOの練習走行で転倒し、脳出血で入院、10月21日に無事退院はしたのだが、その間も大変であった。(詳しくはこちらの記事に書いてあります。)

そんなことで契約はしたが、カワサキのデグナ―は実現しなかったのである。 おまけに日本円で契約してしまったために、国外に持ち出せないとのひと悶着もあって、日銀に顛末書を書いてやっと何とかなったと言う後日談までついたのである。

この年のレースは他にもライダー関係はいろいろあって大変であった。 

ほとんどが大変な話の中で唯一、おめでたい話は、山本隆君に仲人を頼まれて、33歳の若さで仲人を引き受けている。 

頼む方も頼む方だが、引き受けるのも厚かましい限りである。お陰で私は、その後立派になった、3年連続MX全日本チャンピオンの山本隆君、60おじさんに、今でもエラそうに言えるのである。

もうひとつ、これは日記にそう書いてあるだけで、忘れてしまっているのだが、

この年の11月9日、星野一義君が『車を買いたいのですが?』と家まで相談に来ているのである。

あの『日本一速い男』と言われた星野一義君の契約1年目である。まだ10代のチームのみんなに可愛がられていた少年時代のカワサキの星野一義であったが、レース場では、優勝の連続だったのである。

 

★日本グランプリもいろいろあったが、何とか終わって、

10月18日に、苧野常務から突然仙台への異動話があった。

当時のカワサキは実用車の時代で、九州と並んで東北は、主力市場であった。九州市場にはこの年の春から新しく事務所を新設して矢野部長と岩崎さんが担当して成果を上げていたのである。

仙台にも新しく事務所をという話は、当時の岩城社長が東北の代理店の社長と約束して近いうちに開設れると言うことは聞いていたが、まさか自分にお鉢が回ってくるとは夢にも思っていなかったのである。

当時の代理店の社長さんがたは、各地の名士が多く、30になったばかりの若僧では荷が重すぎるし、営業などの経験は皆無だから、大変だとは思ったが、

言われたら仕方がないと家内にも相談せずに、直ぐ引きうけてしまったのである。

 

★その後も11月には東京モーターショーや、年末にかけては、翌年度のライダー契約などもあったが、11月末までにはそれらを全部片付けて、

12月からは、仙台転勤の準備に入ったのである。

入社以来、初めての転勤である。

転勤先に、事務所があるわけでもない。事務所どころか人もいない、何にもナイのである。

『向こうに行ってから、代理店の社長さんたちと相談して上手くやれ』という指示なのである。

3年前に、広告宣伝を担当した時も、前任者はいなかった。 白紙に勝手に絵を描いていったのである。

私は、どうも性格的に直ぐに新しい環境には慣れて、あまり悩んだりすることはないずぼらな性格だから、何とかなったと思うのである。

いまから思うと、会社は何の用意もしない、いい加減な転勤であったのである。

多分、上の人は何をしたらいいのか解らなかったのだと思う。

 

私の広告宣伝課の3年間、いろいろあったが、予算がいっぱいあったのがよかった。

広告宣伝など、予算がなかったら、することなどないのである。

本社が、カワサキの二輪事業のスタートのために、開発費で広告宣伝費を1億円も負担してくれたのは、この3年間だけだったのである。そういう意味では、ツイテいた。

お陰さまで広告代理店の本社企画部門とのお付き合いが出来て、広告とは何ぞやという核心の部分を経験することができたのである。

 

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橋下徹さんと樋渡啓祐さん---西からの風 『ZEPYRE』

2011-01-23 06:18:04 | 大阪維新の会、橋下徹氏

★大阪府知事橋下徹さんは、最近なかなかの売れっ子である。

あちこちのマスコミにひっぱりだこで、登場する。

マスコミだけではなしに、名古屋の方からもお誘いがかかっている。

昨日の朝日の夕刊にも、大阪都構想など橋下さんの政治手法について賛否両論が大きく掲載されたりした。

私自身は、橋下さんが知事に当選して最初に旗を上げたその時点から感じるところがあって、一貫して橋下さんを支持している。

別に解っていたわけではないが、なんとなくカンで、『これはイケル』と思ったのである。

 

★大阪都構想だとか、伊丹空港の廃止だとか、府庁の移転などの一つ一つの案件に、すべて賛成しているわけではない。

そんな難しいことは、判断するデータ―もないし、ホントにどれだけプラスマイナスがあるのか具体的には解っていないのだが、

とにかく大阪府政に対する『橋下さんの基本姿勢』に全面的に賛成なのである。

橋下さんに共感して、橋下さんに『乗っている』のである。

 

何事でも明確に旗を上げて宣言する。

宣言した方向に、間違いなく動く。

動きながら周囲の反応を見て、また新しい旗を上げる。

そして周囲を巻き込んで流れを作る。

こういうことの繰り返しで、府民を巻き込んでの大きな流れが出来つつある。

 

まだ、4年は経ってはいない。

Ⅰ期では出来ない と仰るあちこちの政治家や首長さんはよく見習うべきである。

 こういうことができるのが『リーダーなのだ』と思っている。

 

★一番ベースにあるのは、

最初に言った 『収入の範囲内での支出』 という単純な大阪の健全財政なのだと思う。

最初は、支出を減らすことからスタートし、順次いろいろ言っているが、それらは全て収入を増やすことに繋がっていて、

いずれにしても、最初に言った方程式が成り立ち、

財政をバランスさせたうえで、大阪が元気になるように、いろいろと考えているのだと、私は信じている。

 

行政でも、企業経営でも、難しそうに言うがそんなに難しいものではないと思う。

基本は単純なのに、何故か難しそうに言って迷路にはまってしまうのである。

足し算と引き算でやればいいものを、賢い人ほど余計なことを考えすぎるのだと思う。

 

そんな賢すぎる人が多いので、橋下さんが異色と映ってしまうのだろう。

ただ、とても真似のできないほど弁が立つ。 同じことを言っても明るいし説得力がある。

プロ、弁護士出身は流石である。

 

写真は、武雄市長物語からお借りしました

 

★そんな、橋下さんに、これもずっと注目してきた武雄の樋渡さんが、大接近である。

昨日は、もう一つのexciteの方でちょっと触れたが

このブログで、『武雄市&樋渡啓祐氏』と『大阪府&橋下徹氏』というカテゴリーを設けて何度も触れているのだが、

これを新設したときは、お二人ともそんなに世のなかで注目されていたわけではない。 何となくオモシロイと注目したのである。

橋下さんについては、今回で43回目、

樋渡さんについては88回も、触れている。

それだけ話題性があると言うことだろう。

 

★そんなお二人の大接近は、誠に興味深いのである。

どんな展開になるのか大いに楽しみなのだが、単なる接近や、接触ではなくて、日本に新風を吹かせてほしいと思うのである。

 

大阪の橋下さんの『後押しの役割』を武雄の樋渡さんに、ぜひ期待したいものである。

 

もうずっと以前の昔話だが、

かって、二輪業界でカワサキが、ホンダ、ヤマハ、スズキの前を走った時代があった。

その原動力となった名車のネーミングは『ZEPYRE』。

ZEPYRE  ゼファー とは 『西からの風』 という意味を持っている。

『九州武雄から、大阪へ』 そして、『大阪から名古屋へそして東京へ』と、

日本全体を巻き込む 『西からの風、 ZEPYRE』 を是非、お二人に期待したいものである。

 

従来の政治の構造を変えて欲しいと思っている。

明治維新も、西からの風であった。

大阪維新の会のこの春の活躍に期待である。

 

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今年の三木のNPO対策滑り出し上々

2011-01-22 05:52:19 | NPO The Good Times

★NPO法人 The Good Times は設立以降1年半が経過し、

今年は新しい目標、『新しい公共』という、世のNPOに求められている「社会性の高い活動」に向かっての、検討を開始した。

そんなに大それたことが、出来るか出来ないかよく解らぬが、とにかく昨日は、その出発の第1日であった。

 

 

★検討をした場所は、

三木市社会福祉協議会のボランテイァ活動プラザみきの事務所である。

メンバーは所長の稲見さんと担当の坂本さん。

当方は私と、NPOの理事さんで三木市役所の職員さんでもあるkwakkyさん

事務所もオープンで綺麗だし、直ぐヨコにある一般の人が自由には入れるロビーのような部屋も開放的でいい。

 

 こちらはこんなセットがあって、自由に使えるパソコンが3台も置いてある。

三木のいろんなグループが毎日いっぱい訪れて、なかなか活発なのである。

その一番の原因が、所長の稲見さんの積極で前向きな性格や、担当の坂本さんはじめ職員の方の明るさなのだと思う。

秋までは、私は面識もなかったのだが、どなたに聞いても評判がいいし、

お会いしてお話してみると、『これはイケル』と確信して、NPOにお誘いしたのである。

 

最初に紹介して繋いでくれたのは、kwakkyさんである

潮流発電のノヴァエネルギーを紹介いただいたのもkwakkyさんで、三木ではなかなかの人脈をお持ちなのである。

 

 事務所のあちこちにはこんなパンフレットがいっぱいで、その並べ方や展示を見ても、

ただ、並べているだけではなくて、ちゃんとした活動が伴ったものであることは、はっきりと感じられるのである。

 

 

★昨年来、大まかなことは雑談でいろいろお話もしたし、

11月の理事会には稲見さんにオブザーバーで出席頂いて、NPOのメンバーとも引きあわせは済んでいて、話だけはスムースに進む環境はすでに出来ている。

昨日は、初めての「公式の打ち合わせ」であった。

一般の企業やお店とは違って、『三木社協』という公の組織であることから、

基本コンセプトも、これから創り上げようとする仕組みも、それ自体が『社会に十分対応し得る』ものでなければならないが、

NPO The Good Times は、それに十分耐えうるシステムと基本コンセプトになっていると確信している。

いい検討が出来たし、お互いにさらに理解は深まった。

 

『三木社協』が1年に直接対応される人の数は、5000人を悠に超えるようなので、それに対応した具体的な検討が必要である。

春先までに、さらに具体的に進展するだろう。

4時半まで、みっちり3時間、Nice Talking であった。

 

三木労音の事務所は、三木社協から車で1分の美嚢川のそばにある。

こちらも、『e-音楽@みき』 でプロジェクトを組もうと検討中である。

こちらの方は、既にタンブラーも出来上がっている

 

事務所が近いだけではなしに、二つは関係も深いのである。

帰りにこの事務所にお寄りして、責任者の小巻さんと1時間ばかり話をした。

小巻さんは、音楽やギターだけでなく、パソコンやネットの実力も相当なものである.

先日は、ひょこむにも参加されたし、FACE BOOK にも参加されたとか。

 

★三木での『新しい公共』の活動は、この二つを核として、進めていこうと思っている。

まず、その初日、上々の滑り出しであった。

 

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小川優さんのこと 

2011-01-21 05:00:16 | カワサキワールド
★ひょこむのハンドルネームは、jhojinさん、ツイッターでは、jhojinoshouさん、本名は小川優さん、今は坊さんの資格も持っている和尚さんである。

カワサキの現役のころの仲間なのだが、今は、NPO法人The Good Times の監事もしてもらっている。

先日来ツイッターもやりだして、毎日つぶやくわけでもないのだが、

昨日の彼のつぶやきをリツイートしたら、さらにこんなに多くの人が共感してRTしているのである。

 全国12万人の人たちに向かっての発信となったりしているのである。

 
jhojinoshou  大学生の就職内定率が低いと騒いでいるけど、どこかおかしい。何故内定が取れないのか考えてみるとやる気のない学生が多いということ。
中国に出向いて覇気ある中国人の採用活動をしている企業が増えているよ。大学を就職予備校と考えている学生に企業は関心がない。
政府は支援する必要なし。
うまづらTANAKA k1rouyu-ki kamimuraparadaise monkeyFujikatsuY大学I学部カラオケ部暫定部長田中mizcosme藻さぼてんかえるさぼてんきくらげ@ソヴュール王国ひろぴ@MHP3○H△S□(ニューイヤーご飯)ねぼすけ 

 

★小川優さんは、元々川重本社の財務部にいた資金スタッフであった。

カワサキの単車事業がHY戦争などのあおりを受けて、難しくなった事業存続の危機と言われた時期、まだまだ本社からは単車事業が信頼されてはいなかった時代に、単車に対するお目付け役として派遣されていた何人かの本社スタッフのメンバーの一人だったのである。

当時の単車も、事業内容は本当はそんなにおかしくなくて、損益が非常に悪化していたのは、販売会社を含むトータルのシステムの不備だったことが原因だったのである。

当時の企画を引き受けたときに、正常なシステムに戻せば間違いなく事業は好転すると確信していた。

そのキーは資金関連なので、小川君をその時点で単車に引きこんで、彼に担当して貰ったのである。

事業部を含む事業トータルの財務関連の新しいシステムを組むことにより、当時の海外販社の赤字は、1年足らずで全て黒字化されたのである。

それ以降も彼は本社に戻ることなく、単車事業部の中に留まってくれたのだが、本社特に財務トップに信頼の厚かった小川君がいたので当時の難しい案件は、全てスムースに解決したのである。

 

 ★私自身も今回NPO法人The Good Times を立ちあげる時点でも、彼が監事として手伝ってくれると言ったので決心がついたようなものである。

小なりとはいえ、法人である。金が動くことになる。

当初は三木とカワサキでのスタートだが、

システムとしては全国展開も、世界展開も出来るように、上場一流企業が使っても大丈夫なように仕組んだので、金額もひょっとしたら大きくなる可能性がある。

他のメンバーが、前向きのネアカの大雑把な人たちが多いので、監事や経理だけはしっかりしていないと、どこへ行ってしまうか解らないのである。

NPO設立以来1年半が経って、何とかサキが見えてきたが、この1年半の間でも、小川、吉田という監事と経理部長中心に理事会の開催日時など決めている。

彼らが出席できる日時に合わせて、理事会の日程は決められているのである。

 

★一見、固そうだが、そうでもないのである。

ひょこむに誘ったらメンバーに入ってきたし、今回もツイッターに誘ったら、これにも参加したのである。

そのつぶやきも、内容は堅いのだがなかなかの説得力である。

今までもNPOのメンバーたちの『つぶやき』をリツイートしているのだが、60人以上がRTしたのは、初めてのことである。

まだ、ツイッターは初心者のなので、私が彼に教えることがあるとすればツイッターぐらいのものである。

 

★彼は、今お坊さんである。

川重を退職して、奥様をなくされてから、坊さんになられたように聞いている。

この世界は、なかなか難しい世界のようである。ちゃんと勉強しなければ、素人がそんなに簡単にその世界に入れたりはしないのである。

今は神戸のどこかのお寺に所属していて、そのお寺には10人近くのお坊さんがおられるようである。

先日、彼に聞いてみた。

『10人いるお坊さんの中で、あんたはどれくらいの地位にいるの?』

多分、後ろから数えて何番目だと思っていたのだが、戻ってきた答えは、

『上の方で結構偉いんですよ。 難しい試験を受けてそれに通っている人がいないもんですから。』

『どんな試験を?』と聞いたら

『説教出来る、その内容――』などと難しいことを言っていた。

大したものだと、感心しているのである。

 

今はアタマは丸めている、『jhojinoshouさん』である

ツイッターの自己紹介の欄には、

煩悩に振り回されている坊さんです。41年間の会社勤めでは資金を中心とするスタッフ部門で鍛えられましが、今は金とは無縁の領域で生きたいと願っています。

だけどなかなか難しいものです。妻、子供に先立たれ、今は愛犬ひな(柴犬、雌、4才7か月)との一人、一匹の暮らしです。 』

と書かれていますが、

NPO 法人 The Good TImes では、ぜひお金の分野の面倒を診てもらおうと、絶大の信頼を置いて頼りにしている小川優さんです。

 

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『新しい公共』 只今学習中

2011-01-20 05:52:17 | NPO The Good Times

 ★今年のNPO法人The Good Times の活動目標は、『新しい公共』と大上段に構えて 、大きなことを言っているが、ホントにそう思っている。

何事も、たとえそれが難しいことであっても、何回も唱えていれば、それは可能に思えてくるものである。

お経みたいなもので何度も言っていると、そう信じたくなるものである。

そして、信じる者をヨコに繋げば『儲かる』という字になったりする。

全く、信心などする気持ちも、神仏にお願いなどする気も一切ないのだが、

『宗教のやり方というか行動』は、的を得ているとは昔からそう思っているのである。

 

★難しいことをやるときには、外に向かって発表して、自分自身を追い詰めるのが一番である。

『新しい公共』なども、発表してもそんなに大きなリスクなどないのだし、

出来なければ『恥をかく』ぐらいのことだから、あまりビビらずに公にした方が実現への近道だと思ってしまうのである。

 

既に

NPOのホームページ、『今年度の活動方針』には、そんな思いをすでに記述、発表しているのである

 

 ★ 昨秋に、『三木社会福祉協議会』が団体会員に参加されて、その「ボランタリー活動プラザみき」を中心に、いろんな活動を展開する意志表示をされたので、

この活動は、『新しい公共の核』たりうると、判断したのである。

 その具体的な検討を明日の午後、

所長の稲見さん、担当の坂本さんと、当方は私と理事のkwakkyさんとで伺うことになっている。

昨日は、ボランタリー活動プラザの『基本コンセプト』も送られてきて、今改めて、ボランタリー活動プラザのホームページを細部まで見て勉強中である

 

★三木だけでなく、Kawasaki 関係も、『カワサキの想い出、そして未来』というイベントが計画されている。

『新しい二輪文化の創造』に向けての第一歩になればと思っている。

こちらの方もカワサキのOBやライダーたちが中心ではあるが、

新しく参加いた二輪のファンや関係者、業界誌紙なども参加して、いいイベントになることを期待しているのである。

 

●NPO のアドバイザーのひとり『まっしま』さんは、こんなご自身のサイトで応援だし、

事務局長のカバン屋さんも、わざわざ特別サイトを。

はっぴいえんどプロジェクト はホームページに特別広報を。

ねこさんも、60おじさんも、みんなブログで協力頂いています。  皆さんもぜひご参加を。

 

★そんなことを思っている昨今だが、

今朝は、加古川の60おじさんが、ツイッターでこんな事をつぶやいたのである。

『今日NPO法人「シーズ加古川」の阪口さんが、我がNPO法人「The Good Times」に付いてお話を伺いたいと来店された。とりあえず理事としての立場で説明した。』

NPO法人シーズ加古川』とはこんなNPOである

早速、事務局長の柏木さんと電話で話をしてみた。 

どんなことになるのか、よく解らないが『なぜNPO The Good Times』に興味をもたれたのか?

世間は狭いもので、柏木さんは、ボランタリ活動プラザの稲見さんをご存じであった。

 

加古川では、60おじさんが、

加古川トライアルパーク、ここにも興味を示しているのである

 『新しい公共、 只今学習中』なのである。

 

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白内障の手術の感想

2011-01-19 05:32:59 | 日常生活、園芸、バラ

 ★この1月12日に左目、17日に右目の白内障の手術をしました。

指や足の切り傷を縫ったりしたことはありますが、手術室に入って仰々しく手術など受けたのは生まれて初めての経験です。

昨日、右目の眼帯も取れて、世界が明るくなりました。

パソコンの文字も鮮明ですし、テレビの画面の色も素晴らしく綺麗です。

 

★病院にあった『白内障の症状と治療』という小冊子を貰ってきて読んでみました。

表紙のページの右側が白内障、左側が手術後の状況です。

こんなにひどくはありませんでしたが、極端に言えばこんな感じです。

私の場合は、動体視力の低下もあったのでしょうが、高速道路の標識が読みにくかったこと、ゴルフのボールがどこに飛んだのかさっぱり分からなかったこと、などが現実に困ったことでした。

手術を終わって、今はこの表紙の左側のような状況になりました。

先週手術をした左目の視力は1.5まで回復しています

右目は明日測りますが、片目でパソコンの画面を見る限り右目の方がよく見えますから、多分こちらも1.5ぐらいになっていると思います

 

★白内障の手術とは、説明をすると上のようなことになるのでしょうが、検査や手術を実際に受けた経験で言うと、

手術前のレンズを作るための検査や、術後の菌が入らないようにする抗生物質の点滴や、1日3回3種類の目薬を射すことの方が面倒で、手術自体は特にどうということはありません。

最新の器具で測定した目の状態に適合するレンズを手術前に作っておいて、目の中に埋め込むのです。

目がよくなったわけではなく、膜のようなものを取り除いて、眼鏡をかけた状態にしたのだと思います。

 

私の場合、手術は両目とも10分弱で済みました。

特に右目は、手術室の時計でちゃんと測っていましたが、先生が手術室に入ってこられて、私が手術台から下りるまでちょうど10分、手術時間だけでは7分でした。

手術と言っても歯医者さんの椅子に座って寝ているのと同じことで、特にドキドキなどもしませんでした。心電図も血圧も手術中ずっと計測されていますが、多分正常だったと思います。

いつどこで麻酔をされたのかよく解りませんが、痛みなどは全くありません。

手術中、目を開けていますので、なんとなく見えます。白く濁ったものがなくなって、何か二つはっきりしたものが見えたら終わりです。

特に異常に思うとすれば、少々まぶしいと言うことでしょうか。

 

★明日もう一度、術後の経過を診て貰って、抗生物質の点滴をすれば、あとは目薬を1日3回3カ月間射すぐらいのことです。

12日から24日まで、ダメなことは洗髪をすること、お酒をたくさん飲むことです。

 

ところで、手術代は1回15000円ほどでした。

高齢者医療の場合は、1ヶ月、12000円以上掛った医療費は、自動的に返還されるようですので、今月は3万円以上掛っていますが12000円だけ払えばいいと言うことのようです。

これでは、お国の医療の保険料も掛るはずだと思ったりします。

 こんな話は、私は全く疎いのですが、

要は30万円以上もかかったものを12000円払えばいいと言うことなのでしょう。

現役のころ、それだけ払っているのだと言えばその通りですが、鳩山さんがやってもそうなのですかね?

 

そんなところが、白内障の手術をした感想です。

とにかく、世界が明るくなったことを素直に喜んでいます。

 

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阪神淡路大震災から16年

2011-01-18 05:51:48 | 発想$感想

★昨日は、『白内障』の手術、右目をしました。  昨年来ずっちょ思い悩んでいた目がすっきりすることでしょう。

眼帯を掛けていて、キーも打ちづらいので、昨日excite にアップしたブログをそのまま転写します。

 

★「阪神・淡路大震災」から16年の歳月が流れた。

私の住んでいる三木市は、神戸の隣町なのだが、地震の被害はほとんどなかった。
揺れはひどかったが、そのあとはいつもの通り犬の散歩をして、明石の会社に出かけた。
いつもと違うのは停電をしていたことである。
明石までの道の信号もついていなかった。

家を出るとき、飼っていた熱帯魚の水槽の温度が下がったら、『湯を足して』と頼んで出かけた。
不謹慎なようだが、その時点の一番の関心事はそれだったのである。

会社への道中で聞いたラジオのニュースも、地震のあったことは伝えはしたが、被害については殆ど伝えなかった。
会社も殆ど被害なし、倉庫のバイクが何台か倒れたぐらいであった。

これは大変なことだと思ったのは、9時頃になって、テレビの映像を見てからのことである。

 

★GIGAZINEに

あの「阪神・淡路大震災」で本当は一体何が起きていたのか、その真実がよくわかるムービー集 』

特集されたニュースを聞いてみると、
当初は被害の状況など、殆ど報道されていない。

GIGAZINEはの情報はいつも詳しいが、これも労作である。

 

この写真集も生々しい

 


★16年経って、今ならツイッターでこんな情報がON TIME で流れるのだが、

takasho624   1月17日午前5時46分52秒。黙祷。大震災で亡くなられたすべての皆様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。衆議院災害対策特別委員会理事として命への責任を果たすことを誓います。#shinsai VT: http://twitvideo.jp/04WX4 約2時間前 twitvideoから
あなたと31人がリツイート 』


★当時は、こんな考えさせられるコメントも残されている。

『東京の人間には新幹線の橋が落ちた大震災と報じればよいが、神戸­の人間には神戸の私鉄の運行状況を細かく伝えなければならない。­東京の人間には給水車に並んだ人の列を見せればよいが、神戸の人­間には給水車がいつどこにくるか知らせなければならない。

しかし­、その仕分けをせずに報道合戦に突入したから、被災者への情報提­供はおろそかにされた。そして、被災者側の情報もおろそかにされ­た。当初は被災者が何を求めているか調べる余裕すらなかった放送­各社。 被災者から情報を取れば取るほど、優れた報道が生まれる。

だが、­マスコミは何を被災者に与えたのだろうか。それでも、あえて結論­めいたことを書くとすれば、
阪神大震災のテレビによる地震報道は­、地震報道と、被災者への情報提供の2つが、きちんと仕分けされ­ていなかったことが最大の問題だったと思う。』 

 

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Twitterの神々

2011-01-16 15:13:51 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★『Twitterの神々』田原総一朗さんが書いた本の名前だそうである。

その田原総一朗さんや、池田信夫さんが昨日の『たかじんのそこまで言って委員会』にはゲストとして登場していた。

現在のマスコミの問題点や、菅政権の今後などについての議論が中心に番組は進んで、

いつもの通りおもしろかったのだが、

番組の最後の方では、『Twitter論』になったのである。

 

★昨日の出席メンバーは、

◇司会 やしきたかじん  辛坊治郎
◇パネラー 三宅久之、金 美齢、桂ざこば、
筆坂秀世、原口一博、勝谷誠彦
宮崎哲弥、山口もえ
◇ゲスト 田原総一朗(ジャーナリスト)
池田信夫(上武大学大学院教授)

こんなメンバーであった 。

このメンバーの中で、ブログやツイッターをやっている人は何人いるのだろうか?

頭の中だけでは解っていても、自分でやっていない経験のないことは、如何に評論家や頭脳明晰な人であっても、発言はピンボケになるものである。

原口さん、田原さん、池田さんと、そのほかの方の発言内容は、ことツイッターに関しては歴然とした差があるなと思いながら見ていた。

 

★ツイッターが、田原さんの本の表紙に書かれているように、

『Twitterの神々 新聞・テレビの時代は終わった』

新聞やテレビに代わるモノになるとは思わないが、いろんな意味で現実に具体的なことに効果的であるということは間違いない。

それは、実際にそれを使っている原口さんの話の中にも具体例が幾つもあって、私などやっているモノには容易に理解できるのだが、

金さんなどはどれくらい理解できたのだろうか? 理解しようとする態度がないのことが問題なのである。

 

★ツイッターは『140文字以内』という短文だが、同じ140字でも英文と日本語では圧倒的に日本語は有利なのである。

『傘』『政府』など、英語と日本語の字数を数えてみれば一目瞭然である。

140字あれば大概のことは十分表現できる。

出来ない人は、日本語を理解していないのでは。

上の4行のの文章が、139文字なのである。 

縮めようとすれば、まだ縮めることはできる。

 そういう意味でも、『ツイッター』は、日本のために開発してくれたシステムのような気もするくらいである。

 

★池田信夫さんという方を初めてテレビで見た。

名前はよく知っていた。 このgooのアクセスランキングで常にトップスリーの中にいた。

昨日調べてみたら、それがいつの間にかgooからライブドアの方に替わってしまわれているのである

ブログの中味は、なかなか難しくてとてもついていけなかったのだが、テレビで話を聞いていると何か親しみが持てたのである。

ブログでは、とても追い付けないそれこそ神様のような存在だったのに、

ツイッターで言えば、フォロワーの数では、私の方がまだ上にいる。

あちらは黙っていても、集まった数で、私の方は何カ月もかかって集めた数であることはよく承知してはいるが、上にいることだけは間違いないのである。

 

ちなみに言えば、

池田信夫さんのつぶやきは、ブログに比べてずっと解りやすい。140字の効果だと思う。

 

 

★このデータ―は、必ずしも正しいとは思っていないのだが、

ちゃんとデーターとして公表されていることは間違いない

それによると、原口さんは、全国41位、

『Twitterの神々』の田原さんは55位、私は57位にいるのである。

実は、田原総一朗は、抜けるなと秘かに思っていたのだが、この『Twitterの神々』でまた、遠い人になってしまいそうである。

この本1冊出しただけで、何万人ものフォロワーが一挙に増えてしまうのである。

 

★池田信夫さんと折角お近づきになれたのに、田原さんは、また『神々の世界』に行ってしまったなと思っている。

何はともあれ、一介の年金生活者の年寄りだが、

こんな有名人と肩を並べることが出来たり、眼下に見下ろしたりできるのは、この世の中で『ツイッター』だけである。

ちなみに言えば、このデータ―で、フォローの数で言えば、『全国ベスト10』に名前が載っているのも事実である

但し、このデーターは、間違っていると思うのだが、なぜこんなことになっているのだろうか?

私のためにあるようなデーターなのである。

 

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世界が明るくなりました

2011-01-16 05:55:50 | 日常生活、園芸、バラ

★先日12日の日に白内障の手術をしました。

翌日の13日の朝までは、眼帯をはめていて、片目で違和感がありましたが、それを外すと一度に世の中が明るくなった感じです。

そして14日には、術後のチェックがあって、手術をした左目の視力も測りました。

視力は1.5まで回復しています。 よく見えるはずです。

パソコンの画面も明るくなり、文字が鮮明になりました。

非常に気分よく、テレビやパソコンを眺めています。

 

★このブログを読まれるほとんどの方が、『白内障』など無関係だと思いますが、将来いつか手術を受けられる年代になられると思います。

その時のために、なんとなく参考になさってください。

 

手術を受けた『三木山陽病院の広報』にたまたま『白内障』のことが載っていました。

 

★私の場合は、2年ほど前までは、特にどうということはありませんでした。

1年ほど前から、なんとなく見えにくくなり、ゴルフのボールが全然見えなくなりました。 特に2打目からはどこに飛んだのかさっぱり分からず、ゴルフをする気にならなくなって、、手術を決心したのですがーーー。

手術前の視力は、右は0.8、左は0.4ぐらいまでになっていました。2年前はどちらも1.2ぐらいだったと思います。

この手術は、上の説明にもあるように、目に小さなレンズを埋め込むもので、結果的には常に眼鏡をかけた状況になっているのだと思います。

埋め込むレンズは、事前の検査で、器械を使って精密に目の状況をチェックし、目に合ったレンズを作るようです。

少なくとも、左目のレンズはぴったりOKでした。

 

★手術は、時間的には10分ちょっとだったと思います。手術中の痛みなども皆無です。

少しまぶしいですが、大したことでもありません。

手術室には入りましが、服装もそのまま、歯医者の椅子に、アタマと顔は覆って寝かされていると思えばいいでしょう。

手術は簡単でしたが、手術後の菌などが入らぬようにという管理は綿密です。

抗生物質の点滴を2日続けてやりましたし、1日目は眼帯をかけたまま、2日目以降も睡眠時には透明なプラスチックの眼帯を掛けて寝ます。

1週間ほど、顔も洗えませんし、洗髪もダメです。

手術をしていますが縫ったりはしていないので、傷口が完全にふさがるまでに、菌などが入ったら、たちまち増殖して失明の恐れもあるからだとか。

1日3回、3種類の目薬をさしていますし、これは3カ月も続くそうです。

 

★それにしても、最近の医療器具はすごいなと思います。

特に、レンズを作るための測定器具などはまさにコンピューターの世界だなと思いました。

昔は、『白内障』には、分の厚いレンズの眼鏡で対応していたのだとか。

それ以前は、多分『白内障』に罹るまでの寿命がなかったのかも知れません。

こんないい時代に、生きれて幸せだと思います。

 

私の母が、白内障の手術をしたのはもう85歳を過ぎていたのではないかと思います、多分私などよりは症状はもっとひどかったのではないでしょうか?

『テレビが映りが悪くなったから、買い換えてくれ』ということからスタートしました。歳をとっていてからの手術でしたから10日ほどの入院になりました。

退院してきてから『テレビは綺麗に映っているから、これで十分』ということになりました。

それはよく解ります、テレビの画像はこんなに綺麗のか、と思うほど綺麗です。

 

★今はまだ、片目でこれくらいですから、来週17日、右目をの手術をしたら、ホントに世界が変わるかも知れません。

車の運転が、し易くなりました。

 

若い方も、いつかは『白内障』になるかも知れません。何となく覚えておかれたら重宝すると思います。

私も、母の実績が、非常に参考になりました。

その母は今年6月には102歳になります。眼底出血していて、これはよくなる治療はダメだそうです。現状維持する治療なら出来るようです。

 

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