雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキジェットスキー物語  14

2019-01-21 05:17:33 | ジェットスキー&KAZE

★『カワサキジェットスキー物語』も、私が担当した時代は1997年あたりで一応の終止符を打つのである。

 今回、ふとしたことから書き出した『カワサキジェットスキー物語』だが、その当事者の私も初めて知ったことが多かったのである。

 

     

 

●その一つがこの写真である。

1971年に発動機事業部でスタートしたジェットスキー・プロジェクトは、5年後の1976に一応の終止符を打っているのである。その長をしていたのが私と同期の村上さんだとは、知らなかった。

この時点で上市していた製品はJS400だけだったのだが、その後アメリカ市場での『馬力不足問題』に対応して、藤川哲三さんを長とする550へのボアアップチームがスタートして、今回いろいろお世話になった福井昇さんなどもその一員であったようである。

●そのJS550 が生産されたのが84年度で、たまたまリンカーン工場がスノーモービル縮小で危機に陥っていて、当時のKMC田崎社長の独断で生産を一挙に2万台ベースに引き揚げそれを売り切ったことから、ジェットスキー事業の規模は一挙に24000台の規模まで急激にアップしたのである。

今まではJS550にボアアップしたから、急激に売れ出したのだと勝手に想像していたのだが、受注生産でもないJSなのだから、2万台を造らない限り、2万台を売ることは不可能なのである

● この販売台数の増大が、正規の事業として単車事業部として育てようという機運になり、明石の企画サイドにプロジェクトチームを作ってその対策がスタートしたのである。この提言をしたのは当時の企画室の武本一郎さんであり、具体的には85年8月から鶴谷将俊さんが具体的にプロジェクトの旗を振ることになるのである。

●86年度には福井昇くんもメンバーに加わり、ヨーロッパ・国内市場対策も進み、87年からは国内販売対策も具体的に進んで『ジェットスキー・プラザ』がスタートし、カワサキジェットスキー販売(KJS)という専門会社もスタートして、その販売形態も確立していくのである。この辺りの販売網対策の立案は、私自身が担当したのでよく解っているのである。

●87年度半ばには単発統合もあり、営業部門に正規のジェットスキー部門もできて、私自身が企画から営業部へ、さらに88年10月からは国内市場担当になったのだが、国内のジェットスキー事業は年間200~300台のレベルから、91年には7000台の販売規模にまで躍進したのである。

●その91年度からは、このプロジェクトをスタート時点から推進してきた鶴谷将俊さんが国内JJSBAの3代目の会長に就任して、国内JJSBA設立10周年を記念して、91年11月に琵琶湖近江舞子で開催した『ワールドカップ』には、アメリカのトップ選手を招いての盛大な大会となるのである。

 

      

 

 

★当時は田﨑雅元さんとこのジェットスキー・プロジェクトで打ち合わせなどしたことは一度もなくて、アメリカと日本でそれぞれ勝手な思惑で動いたのが事実なのだが、今思うとホントに、不思議なご縁で繋がっていて、当時から40年近くも経っている今でもこの『ジェットスキー物語』を書こうかなと思ったきっかけは、田崎さんからのメールや、送って頂いた写真がその『きっかけ』なのである。

 

        

 KMC社長(川重では若手部長)時代の若い頃の田崎さんである。 

このころ単車事業本部でジェットスキーに乗ることができたのは、「田崎雅元さん1人」だったかも知れない。当時、明石の単車事業本部ではジェットスキーに関わっている人は1人もいなかった時代で、発動機事業部がエンジンをリンカーン工場に送り、KMCの製品としてアメリカだけに売られていた『継子製品』だったのである。

 

これが、85年に単車の技術部が最初に開発を手掛けたJS300Aの試作品である。

モペットのコンセプトで、初心者向きに小型の舟艇を造ったのだが、水の上は『小型』は安定せずに、田崎さんも「乗れなかった」という代物だったのである。レースに出ていた福井昇さんでも上手く乗れずに、その時ズケズケ本音で書いた「福井レポート」は、技術部内で大問題となり、なかなか有名なのである。

そんなこともあって、アメリカ市場ではJS300は導入しなかったのだが、国内に導入したJS300Bは、舟艇をJS400を使たものだったというのは、これも今回『私も初めて知った』事実なのである。

 

     

 

 

これは、ネットの中からGoogle の写真検索で私が見つけてきたものである。  

こんな感じでその規模は、壮大だったのである。

 

       

 

  これは松口久美子さんから頂いた当時のスポーツ新聞の記事で、

 

          

 

レースをするだけではなく広く広報活動を展開したのは、この当時のカワサキの特徴だったと言っていい。

ユーザークラブKAZE も、SPA直入がスタートしたのも、カワサキが初めて鈴鹿8耐に優勝したのもこの時期なのである。

そんなレースや遊びを本格的に専門的に展開していたのが、カワサキの初めての『ソフト会社・ケイ・スポーツ・システム』で『遊んでいたら自然に売れる綜合システムの創造』が私自身の主たる仕事だったのである。

 

以下は、田崎さんから送って頂いた写真や、千里浜の写真などネットから拾ってきたものだが、すべてが『華やか』で『新しいカワサキのイメージ創造活動』だったのである。

 そんな観点から当時の写真をご覧になってください。

 私にとっても非常に懐かしい想い出いっぱいの写真なのである。

 

 琵琶湖ホテルでの前夜祭で、来賓挨拶の田崎さん である。

 

    

 

  当日は、岩城滉一さんも急遽出席してくれて、会場はより華やかになったのである。

    

 

 金森稔くんのテレビインタビューに、何故か田崎さん、割り込んでいる。

 ちょっと、向うに見えてるのは私。

 

     

 

  田崎さんご機嫌の写真だが、お酌をしている美女は、確かアメリカのジェットスキーチャンピオンなのである。

 

     

 

 ★ これから後の写真は、千里浜のジェットスキー大会で、エントリーは1000台を超え、1日のレースが130レースにもなったという、世界でも最大規模のジェットスキー大会となり、地元の役員の人たちから『ギネスブック』への登録がホントに真剣に検討されたりしたのである。

 石川テレビの中継もある、そんな大会だった。

 

          

  

  ネットから拾ってきたものだが、千里浜のレースは今も続いているのかも知れない。

 

     

 

 

     

 

1984年11月にアメリカでJJSBAの認可を得てから、もう30年以上になるのだが、ちゃんと育っていることは素晴らしいと思っている。

 

     

 

 

★そして最後の写真は、

1984年11月、アメリカにIJSBAの承認を取りに渡米された苧野豊秋さんに私が随行したのだが、当時のKMCの人たちや、明石からその時出張してたメンバーたちが、苧野豊秋さんを囲んでの記念撮影で、これも田崎さん提供なのである。

   

 

この人たちの努力で、KMCは見事に立ち直ったし、カワサキの単車事業の再建もなったのである

そしてJJSBAも、この時がそのスタートなのである。

最初に『井戸を掘った人たち』が、懐かしい。

 この稿を最後に『カワサキジェットスキー物語』も、一応終わりにしたいと思っている。

 

 ご協力頂いた、田崎雅元さん・福井昇さん・松口久美子さんに感謝である。

 

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カワサキジェットスキー物語  13

2019-01-11 06:54:14 | ジェットスキー&KAZE

★1985年あたりにアメリカ市場で、突然ジェットスキーが2万台を超える規模になったことから、突然カワサキの中でもこの事業を正規の事業にしようという動きが出たのだが、そのジェットスキー・プロジェクトは、ホントにスピーデイーに動いて、1900年に入るころには、ヨーロッパにも国内にもジェットスキーの専門会社が立ち上がっていたし、アメリカ以外のJJSBAのレース活動もまた素晴らしい勢いで動いていたのである。

 日本でもジェットスキーレースなるものが、いつ頃からどの程度の規模で行われていたのかはよく解らないのだが、カワサキ関係では孫会社のKATの社長を兼務されていた苧野豊秋さんが熱心で、日本でもJJSBAのレース協会を創ろうという動きがあり、84年11月にアメリカのIJSBAの承認を取ろうと渡米されるのだが、それに同伴したのが私で、アメリカでIJSBAと繋いでくれたのが田崎雅元さんなのである。

苧野さんは私にとっても田崎さんにとっても元上司で、カワサキの二輪のレース委員会の営業サイドの長をされていて1960年代からレースに関連があった方なのである。そんなことで日本にJJSBAが出来たのは85年からだと言えるのだが苧野さんは初代のJJSBA会長を務められたのである。

        

 

さらに、カワサキがジェットスキーを正規の事業にすべく社内でJSに乗れるライダーを探して、発動機の福井昇くんを見つけて、最初のプロジェクトメンバーに加えたことも、彼がジェットスキー・プラザの実質1号店になってくれたことも、国内のジェットスキー事業やレースが順調に立ち上がった大きな原因だと思っている。

当時のジェットスキー・プラザの殆どがレースに色濃く関係していて、そんなこともあって日本でもジェットスキー・レースが各地で行われることになるのである。

 

★このジェットスキー物語も、当時から色濃くレースに関わって頂いた福井昇くんや、松口久美子さんのご協力で、私もいろいろと思いだしながら、やっと纏めることができているのである。

 今回も福井くんや松口さんがこんな写真を送ってくれたのでその写真の紹介から入って行こうと思う。

 

 まずは、福井くんが送ってくれた、発動機事業部のジェットスキーグループの解散会の写真である。

この写真は貴重である。当初のジェットスキーに関わったメンバーを私自身も初めて知ったのである。後、ジェットスキーでも二輪でも関係のあった方たちもおられる。

1976年とあるからこの年次で一応ジェットスキーグループは解散するのである。ひょっとしたらコレでカワサキのジェットスキーも終わってしまっていたかも知れないのである。

それまで上市されていた機種はJS400で、アメリカ市場のレースグループから『馬力アップ』の要請が出て、私と同期の藤川哲三さんを中心丹波晨一福井昇さんなど数人がJS550のエンジンのボアアップ開発に当たったようである。

この写真の真ん中にいる村上さんは、昭和32年(1957)川﨑航空機入社の私の同期生なのだが、彼がジェットスキーを担当していたなど、この写真を見るまで私は知らなかったのである。 非常に貴重な写真だと思う。

    

 この写真の中に丹波さんや福井さんがいないのは、この時点で既にスノーモービルの開発のほうに移っていたからだという。

 

 ★こちらは松口久美子さんから頂いた当時の写真である。

福井さんが440クラスでチャンピオンになってトロフィーを抱えています。その上の写真は大南さんです。トロフィーを持っている女性は第一回全日本チャンピオンの上原さんです 。』との説明がつけられていたが、福井昇くんも若いなと思う。

 彼が実際にレースを走ってるのは、実は見たことがないのだが『速かったんだ!』というのが今の実感である。

 大南勝也さんには、ジェットスキーの販売関係でも、JJSBAのレースでもホントにいろいろとお世話になったのである。彼の結婚式には私も出席させて貰っていたので、当時のこの業界をリードした人たちはホントに若かったのである。

 

      

 

  日刊スポーツに掲載されたワールドカップ(琵琶湖)の画像だが、松口久美子さん全盛期である。

 

  

 

 ★スポーツ紙にこれだけ大きく報道されているが、間違いなく『ワールドカップ』でその規模はびっくりするほど大きかったのである。

 近江舞子の湖岸1キロがジェットスキーのテントで埋まったのである。

 この大会は『JJSBA創立10周年記念大会』として琵琶湖の近江舞子を舞台に盛大に開催されたのである。

 鶴谷将俊さんが第3代JJSBA会長を引き受けてくれたのは1991年2月のことなのだが、それ以降JJSBAは、カワサキの人たちが本格的に運営に参加して、飛躍的にその規模も大きくしていくのだが、その象徴的な大会がこのワールドカップであったと言っていい。

             

 

 以下の写真は、当日会場にも来てくれた田崎雅元さんから送って頂いたものだが、この日の昼過ぎ、私はまだ神戸にいたのだが、月木さんから電話があって、岩城さんが来ているとかいうので、今夜『ワールドカップの前夜祭がある』と言ったら『岩城滉一さん』も突然参加してくれることになったのである。

 

     

 

 

        

 

当時の髙橋鐵郎本部長もレース当日は、ジェットスキー大会をご覧になって、その規模の大きさにビックリなさったのである。

 これは船の上からのレース観戦だが、この船の手配も、福井昇くんが気を利かして手配してくれたのだと思う。

 

      

 

★この93年当時は、国内市場が最高の時である。

 高橋さんがCP事業本部長でカワ販の社長を兼務、私は専務としてその旗を振ったし、田崎さんはニューヨークから戻って、副本部長時代である。

84年にスタートしたジェットスキー・プロジェクトもようやくその頂点を迎えていたのである。

 当時の国内は、二輪関係のレースにも注力していた時期で、鈴鹿4耐も、8耐もカワサキが優勝した年でもある。前述の『岩城滉一さんグループ』も春のカワサキデーラーミーテングにも、鈴鹿のレースには、月木レーシングの総監督として、SPA直入にもしょっちゅう出入りしていた時期で、島田伸介が8耐最後をカワサキに乗りたいと明石にやって来たりした年でもあって、なかなかの人気だったのである。

私自身が『レース』には、販売以上に没頭していたし、二輪やJSはユーザーの人たちと上手に遊んでいたら、『自然に売れるはず』という仮説の上に、グループ全体がKAZE活動などソフト会社ケイ・スポーツ・システムを中心に動いていた時代である。

 高橋さん、田崎さんとは、ジェットスキーレースを2月には宮崎で観戦したし、田崎さんとは6月に北海道洞爺湖のレースをそしてその仕上げが11月の『ワールドカップ』だったのである。

 

この『ワールドカップ』が開催できたのも、やはり人かなと思っている

カワサキジェットスキーなどという専門会社がバックには居たのだが、実際に起案したのは『鶴谷将俊』さんだし、JJSBA が主催だが、当日の現場を仕切ったのは『福井昇くんと大南グループ』の人たちで、其の実権は福井昇くんが握っていたのだと思うが、それを自由に任せたのはKJSの藤田常務なのである。

 私自身は当時は幾つもの会社の社長をしていて、責任だけは持っていたのだが、実務には殆ど関係していないのである。

 髙橋鐵郎さんが100%私に任せて頂いたし、私も鶴谷・藤田さんに100%信頼して任していたので実現したのだと思っている。

 『ワールド・カップ』という世界展開がスムースに出来たのは、鶴谷さんも田崎さんも海外販社社長経験者で『英語コンプレックス』など皆無だったからかも知れない。

 この琵琶湖『ワールド・カップ』はさらに数年続くし、富山県千里浜海岸でのジェットスキー大会は、その規模に置いて「ギネスブック」に登録しようかと、いわれるほどの規模で、さらに続いて行くのである。

 

 これもその当時の写真で、田崎さんから送られたものだが、当時のジェットスキーは、国内市場のカワ販販社としても、その経営的なウエイトは非常に高く、単なる遊びではなくて、大いにその経営に貢献していたのである。

 

     

 この写真、右から田崎さん・私・3人目は稲村暁一さんかも知れない。だとすれば珍しい写真である。

 1984年、突然アメリカで売れだしたのが、世界展開の契機なのだが、その仕掛け人は田﨑さんであり、それを国内・ヨーロッパ市場にもとふと思ったのは私なのである。

 このブログの冒頭にご紹介した発動機事業本部のジェットスキーチーム解散式が1976年というさらに10年近く前なのだが、何となく『ジェットスキーレース』がご縁で、いろんなことが繋がってジェットスキー事業となって行ったのである。

 今から、思うと本当に不思議なご縁で繋がっていると思うのである。

 

 JJSBAや、国内のレース関係が今どのようになっているのかは、詳しくは知らないが、この当時は間違いなく、この業界のトップをカワサキは走っていたのである。

 13回まで続けてきた『カワサキジェットスキー物語』だが、次回かその次ぐらいで終わりたいと思っている。ほんの短い間ではあったが、当時の仲間のことなども、私なりに思い出させて頂いて、「いい時」が過ごせたことを感謝である。

 

 

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カワサキジェットスキー物語  12

2019-01-05 07:59:12 | ジェットスキー&KAZE

カワサキジェットスキー物語も、昭和の時代を『ソウルオリンピック』の開会式の当日のハンガン(漢江)でのデモンストレーションで終わって、翌年からは平成の時代に突入したのである。

私自身も88年10月からは国内市場責任者として、二輪もジェットスキーも直接の担当となり、ジェットスキーに関しては従来KATというカワ販の孫会社を子会社に格上げし、カワサキジェットスキー販売(KJS)と社名を変更して、89年1月からはその社長に就任している。

 そのKJSには当時のカワ販の中から、藤田孝昭・潤井利明・渡部達也・宇田川勇さんなど 文字通りの実力者で編成し、世界で初めての商品の販売システムも独自のもので展開することにしたのである。

神戸に本社を置いたのだが拠点はその1店だけで、二輪販売とは全く異なるセールスは置かない卸販売に徹することができたのは『ジェットスキー・プラザ』という独自の販売システムがそれを可能にしたのである。

このグループの運営の中心になったのは 藤田孝昭さんで、彼は東京営業所長という要職から独り国内のジェットスキー・プロジェクト当初から参加してくれたのである。全く新しいプロジェクトに挑むときに用いる私独特のやり方で、鶴谷さんもそうだったが、ご本人の立場などはあまり考慮せずに、実力者を抜擢して推進するのである。

カワサキのジェットスキー・プロジェクトは、そのスタートから『世界は鶴谷・国内は藤田』のコンビで推進されたと言っていいし、このお二人はオーストラリアの社長、東京営業所の所長という多くの部下を持った立場から一転単独でのプロジェクト推進をやり、それを成功に導いてくれた実力者なのである。

今でもお付き合いのある平井稔男さんは、そういう意味では、いろんな機会に私を援けてくれた実力者だと言っていい。

 

★90年度には、その販売も4月だけで1100台という規模にまでなるのだが、この新しいジェットスキーが本格的な動きを見せるのは91年度よりJJSBA会長に鶴谷将俊さんが就任しカワ販からは永野俊次さんを常務理事に出向させて、従来西武自動車関係の方に手伝って頂いていた実務をカワサキ体制で動かすことになってからだと言っていい。

この91年度は販売台数では念願の国内市場70000台目標を達成したし、ジェットスキーも8000台の実績を上げる最高の年となったのである。

私の長い販売経験の中でも、このジェットスキの急激な販売増加は凄まじいものだったのである。年間200~300台でも何とか経営が成り立っていた販社が、10人未満の人員増だけで特に大きな固定費増加もなく、8000台の販売規模になると、その結果はどんな規模になるのか? 想像してご覧になればいい、仮に10万円の粗利があるとしても、その増分利益は8億円にもなるのである。

KJSも、全国のジェットスキー・プラザも大いに潤って、この年の11月にはサイパン島でKAZE WATER FORUM JS を盛大に開催したのが懐かしい。

 

★ 短期間にこんな成長が実現出来たのは、カワサキのメンバーたちも頑張ったのは確かなのだが、カワサキを取り巻く外部の人たちの協力が大きかったのである。

そんな環境整備というか外部の人たちとの繋ぎを どちらかというと私が担当していたのである。

この年あたりから二輪関係でもジェットスキーでも岩城滉一さんが約6年間カワサキを手伝ってくれたのだが、これは金銭関係は一切発生しない『カワサキファンの一人』として、二輪のレースやジェットスキーにも手を貸してくれたし、ご自身でも乗って楽しんだりしていたのである。

その岩城さんが初めて東京の事務所に訪ねてきてお話をお聞きしたのが私だったし、お付き合いをする基本的なスタンスは、その時のお話しした基本コンセプト通りで6年間が続いたのである。

そんな二人の信頼関係もあって、東日本の大震災があったあの年に、既に退職していた私のところに岩城滉一さんから突然電話があって、青森でやろうとしていた『旅サラダ』の番組がダメになったので『何とかスパ・直入を貸して貰えないか』ということでこの番組が急遽実現したのである。

 

        

 

  このスパ直入も直入町も 岩城滉一さんにとっては懐かしい想い出の地で、二輪でも走ったし、

         

   

 老舗旅館の 翡翠之庄(かわせみ)は定宿で、首藤文彦さんとも久方ぶりの再会だったのである。

 

        

 この直入町の芹川ダムは、直入町とカワサキの間で『ジェットスキー・ゲレンデ』として解放されていて、岩城滉一さんは直入に来るとバイクとジェットスキーの二つが楽しめた最高の場所だったのである。

 

    

 

 あの当時、岩城さんはチーム月木の総監督として、カワサキの二輪レ-スにも大いに寄与して頂いたのである。

 

    

 

岩城滉一さんと直接接触担当してくれたのは、当時のソフト会社KSSの南昌吾常務なのだが、彼も独特なものを持ていて、岩城滉一さんの清水宏次郎などそのグループと上手に付き合ってくれて、或る時南君が入院した時にはそんなスター軍団から花束がいっぱい届いたりして、病院がびっくりしたらしい。

 因みに、月木レーシングの月木さんと初めてカワサキと繋がったのは藤田孝昭さんが見つけてきたので、それを引き継いでくれたのが南昌吾さんなのである。 

そんな私との関係も、もう何十年も経った今でも続いていて、ここにお名前を出したカワサキの方からは今年も年賀状を頂いたりしているのである。

 

★新しい業界として立ち上げたヤマハさんとの協働のPW安全協会でも理事長をさせて頂いたのだが、非常にスムースに展開できたし、何度も開催された会議でもこのような業界独特の固い雰囲気は一切なくて、ヤマハの方から社内会議のようだと喜んでいただいたのである。業界としての中央官庁とのお付き合いには、ボートで長くお付き合いのあるヤマハの担当者の方が同伴頂いたのだが、中央官庁の方ともすぐ仲良くなって本音でのお話し合いが出来たのである。

 このような業界の総会には中央官庁の出席者がその上司の祝辞を代読されることが多いのだが、当時の総会には出席された方が原稿なしの祝辞を頂いたりして、非常に柔らかい雰囲気だったのも業界自体が新しく若かったからだと思う。

 私自身は二輪業界でもホンダ・スズキ・ヤマハさんをライバルというよりは仲間と思っているところがあってカワサキの企画室長時代にも乗っていた車はアコード、ゴルフのクラブはヤマハ、娘に買ってやった50ccバイクはスズキだったのである。一般にはカワサキの関係のあるトヨタ・マツダ・いすゞなどのクルマを選ぶのが一般的なのかも知れぬが、それよりも二輪業界の仲間と一緒にとホントにそう思ってしまうのである。

 当時のヤマハの三浦さんなど関係のあった方とも、ホンダさんとも、スズキさんとも親しかったし、私が現役を退任した時にはヤマハさんからご餞別を頂いたりしてホントに恐縮したのだが、そんなお付き合いが出来たのはよかったと思っている。

 正直・誠実・勤勉  誠実・互譲・協力 というかっての川﨑航空機の社是とその執務態度の教えは、私は心からいいと思っていて、その通りに動いているのである。

 

★ 私自身は、どんな方とでも気さくに同じようにお付き合いができるのが『自分の特技』だと思っていて、超有名人だった岩城さんなどともトモダチのように自然なお付き合いができるのである。

岩城さんから見るとカワサキの国内販社の専務取締役の肩書は結構よく見えるのか? ご自身が仲人をされたジェットスキーライダーの前田一竜さんの結婚式には主賓でお呼び頂いたりしたのである。そういえば、ジェットスキー関係で大変お世話になった大南勝也さんの結婚式にも主賓で参列させて頂いたりしたのである。

 そういう意味では、いろんな人にお世話になるジェットスキー・レース・イベントなどには福井昇くんに、既に社外の人なのに身内以上にお世話になったし、今回のこのカワサキジェットスキー物語も、もう30年近い空白期間ののち松口久美子さんに遠慮なく手伝ってもらえるのが、私の取り柄だと思っている。

 

★こんなジェットスキー事業の国内展開だったのだが、JJSBA設立10周年となる93年度には、88年にソウルオリンピックで世界展開をしてくれた鶴谷将俊さんが、今回は日本の琵琶湖近江舞子を舞台に JJSBAワールドカップを開催することになり、その前夜祭には岩城滉一さんも急遽出席してくれたりして、盛大に開催する運びとなるのだが、そのお話は次回に譲ることにする。

 前夜祭から出席して頂いた田崎雅元さんがいろんな写真を送ってくれているのである。 

      

  

 

 その話は次回に譲るのでお楽しみにして下さい。  

     

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カワサキジェットスキー物語 11

2018-12-28 07:07:58 | ジェットスキー&KAZE
 ★「カワサキジェットスキー物語 11」は今年最後として、世界のこんな方と新しく繋がったりしたのでそのご紹介をすることにする。 
 
ジェットスキーが取り持つご縁と言っていい。
このようなジェットスキーのプロジェクトが、さらに大きく飛躍することを切に願いたいのである。
 
 
 
 
★一つは、アメリカから 、ジェットスキーで人命救助の活動をおやりになっているShawn Alladio さんから
 
 英文と自動翻訳付きで送って下さった。
 
 
 
Dear Mr. Furutani. Thank you for accepting my friend request on Facebook. I am a big fan of yours from America and those who created the business for the Kawasaki Jet Ski product for all of us in the world to enjoy. You do not know me, so I would like to introduce myself. Your efforts and hard work with your colleagues at Kawasaki Motors Corporation (I am from California in the USA), opened up opportunities for many people. From racing to professional lifesaving I have enjoyed being a part of this wonderful boat community since 1979. Because of the hard work and efforts of the Kawasaki administration I have been blessed to have a business that works with the Kawasaki Jet Ski. If the Jet Ski did not exist, lives in the water would have been lost. I have been honored to work in lifesaving with Jet Skis since 1989. It is a privilege to be an instructor and a lifesaver, because it would not have happened if not for Kawasaki. My company is operating lifesaving training for boating in 11 countries now. My business goal is to revolutionize lifesaving. I have not done this alone but with a silent team. KMC and its employees, those who build the Jet Skis, market, sell and distribute are all part of this lifesaving team, even though we do not know one another. I want to thank you so much for helping us save lives. We owe you and your colleagues a significant debt. Thank you so kindly for caring. Shawn - K38
Shawn Alladio
Shawn Alladio
Here is part of your legacy: https://www.youtube.com/user/K38rescue
 
この Youtube は素晴らしい。非常に沢山のジェットスキーによる救助活動が収められているので、是非ご覧ください。
 
 
 
 
K38rescue
 
K38® LLC - RWC Subject Matter Expert; Shawn Alladio Lead Instructor continues to train the next generation of international water rescue specialists: K38 Wat...
 
youtube.com
Shawn Alladio
Shawn Alladio
古谷さん、こんにちは。 Facebookで友達のリクエストを受け付けてくれてありがとう。私はアメリカから、あなたと、世界中の私たち全員が楽しむことができるKawasaki Jet Ski製品のためのビジネスを創造した人々からの大ファンです。あなたは私を知らないので、自己紹介をしたいと思います。 Kawasaki Motors Corporation(米国カリフォルニア州出身)の同僚は、多くの人々に努力の機会をもたらしました。レースからプロのライフセービングまで私は1979年以来この素晴らしいボートコミュニティーの一員であることを楽しんできました。ジェットスキーがなければ、水中での命が失われていたでしょう。私は1989年以来、Jet Skisで命を救うことができて光栄に思っています。私の会社は現在11カ国でボートのための救命訓練を行っています。私のビジネス目標は、人命救助に革命を起こすことです。私は一人ではなく、静かなチームと一緒にこれをしました。 KMCとその従業員、Jet Skisの構築担当者、マーケティング、販売、配布は、お互いを知らないにもかかわらず、すべてこの救命チームの一部です。私たちが命を救うのを手助けしてくれて本当にありがとう。私たちはあなたとあなたの同僚に、多大なお世話になりありがとうございます。ショーン - K38
Shawn Alladio
Shawn Alladio
my apologies I used google translator
You can know today that many people around the world are alive today because of the Jet Ski and the efforts of KMC and its esteemed employees
I thank you.
 
         
 
 これは1977年の記事で41年後の今はこんな形になっているとか・・・
 
 
    
 
 
    
 
   
I am thankful for Kawasaki's support for lifesaving. They created lifesaving using Jet Skis. Many people would have lost thier lives if this did not happen. It's not just the recreational side, its an incredible legacy!
 
Thank you for doing great work for Kawasaki with your colleagues for all of us in the new generations
 
 
    
     
 
 
 こんな社会の活動にジェットスキーがお役に立っていることは、ホントに嬉しいことである。
 
 
★当時、アメリカKMCの社長としてJSに情熱を傾けた田崎雅元さんに原文のままメールをしたら、こんなメールが戻ってきたので、その概略をご紹介することにしたい。
 
古谷さん

素晴らしい、嬉しい、便りですね! FB の自動翻訳もすごいですね。彼女は、カワサキの Jet Ski と出会って、監視、レスキューのボランタリーを始め、人生が変わり、使命感、達成感で GOOD TIMES を、とてもエンジョイしている、 カワサキさん有難う、と云いたいのでしょう。

 アメリカでは、Jet Ski が 社会的に貢献していると評価された事由が、三つ程ありました。

一つが、この便りにある、水泳場の監視、レスキューです。

二つ目が、下肢の不自由な身障者にレジャーを楽しんで貰う、ボランティア活動です。 高速水上レジャーで効果抜群だそうです。

三つ目は、水中からのテロ対策としての監視、警護です。

 日本でも、海水浴場の婦警の間で、監視、レスキュー用 Jet Ski が取り合いだそうです。以前行われた、沖縄サミットでは20隻以上のJetSki群 がアクアラングによる、水中からのテロの監視に使われました。水害時に、Jet Ski を使いながら、屋根に取り残された人々を、一人で助けまわったヒーローも報道されました。現在、最速の JetSki は魚雷よりもスピードが速く、敵前上陸、海岸防衛用の用途もあるかも知れませんね。

 1995年、阪神淡路大震災で、オフロードバイクが大活躍した話もあり、高校生になったら、バイクくらいには乗れなくては!と、反三無い運動も生まれたと聞いています。製品が社会と健全に共生する、若者の自由とロマン、自己管理、自己責任、達成感、誇り、etc. 

カワサキは、そんな製品を誇りを持って開発し、生産し、販売する、まさに Good Times Roll です。 カワサキワールドの存在意義も大きくなり、みんなハッピーですね!

 
 
 
 
 
★もう一つは、かってのカワサキのジェットスキーに乗っておられたプロライダー『伴きみこ』さんから。
こんなクラウドファンデイングのご連絡が・・ スタートしたばかりで今から35日の間が、募集期間なのである。
 
こちらも、社会と共に楽しくというコンセプトである。
今年も、もう僅かだが、新しい年がこのような『新しい活動』で幕開くことを期待したいものである。
 
 是非、目標の金額が集まるように、ご協力をお願いしたいと思ってのご紹介である。
 
 
 
 
      
 
 
 
 
 
畿ジェットスポーツ連盟に協賛する形で今回は、進めています。 
 今後は、いろんな地域で、地元住民を巻き込んだマリンイベントができればと考えています。
老若男女問わず、地元住民にも楽しんでもらえるイベントで理解を深めるとともに、浜辺の清掃活動や海でのマナーなどの講習会も海上保安庁と連携して進められればと考えています。
 
 
 というご挨拶も頂いたので、ここにその概要をご紹介しようと思う。
 すべてをご覧になりたい方は、下記をクリックしてください。
 
 
 
 
 
 

プロジェクト本文

広め隊の隊長、エルモことです!

今回、近畿ジェットスポーツ連盟 (KJFS)開催のジェットスポーツマリンカーニバルに協賛して、マリンレジャーの楽しさをお伝えする場を設けました

 

ジェットスキーのレースあり、出展ブースあり、水上オートバイの展示販売あり、少年サッカーチーム大会あり、スケートボード大会あり、ビンゴ大会ありのジェットカーニバルにコラボして、フラダンスショーや、スタンプラリー、

SUPやカヌー体験(別の浜)を盛り込んだ楽しいイベントに

ぜひ参加して、マリンレジャーが身近に楽しめることを知り、

人生をもっと楽しくワクワクさせましょう!

 

子供の頃の無邪気な感覚を覚えていますか?

 

 

海に囲まれた島国日本で、海の恩恵を受けてきた日本人でも遊ぶという事に罪悪感を持たされてきた…そんな人達にマリンレジャーを通して、海に癒され、海の楽しさを知り、老若男女が、もっと笑顔で無邪気に楽しみ、元気な日本を作っていく

 

海が大好きで、海のそばに住みたい。海の魅力を伝えたい。海の楽しさを伝えたい。海のそばにいると元気になり、

いつもワクワクしていられる…

 

 

でも大人になっていくうちにいつの間にか失くしてる

ウキウキワクワクな気持ち…。


 

このプロジェクトの隊長である私は、元ジェットスキープロライダーとしてバブル期の日本が沸いていた時期に活躍して、

世界第3位という快挙も得た。

 

 

 目をつむって、避けて通るのではなく、マリンレジャーの楽しさを伝えて、海のマナーを伝えていき、老若男女、高齢者や障害者も共に楽しめる場を提供して、マリンレジャーへの偏見を無くし、

海に囲まれた日本で、ワクワクを感じてもらいたい!

 

更に最先端のマリンレジャーを発信する場を持ち、世界のトップレベルのマリンレジャー業界の人達を呼んで、

エキシビジョンをしてもらうイベントも開催!

 

 

 

そして、地元住民や訪れた人達や仲間達が、誰でも参加できるマリンレジャーイベントと合わせて開催すれば、参加型の見る・行う・楽しむ      そんなイベントで町興しの役目も担えるはず!

 

 海での経験を生かして、より多くの老若男女が、海で癒され、海の楽しさを知り、

 

元気にワクワクする感情を持って、イキイキとした人生を送ってほしいとの思いで、

 

マリンレジャーを広め隊』のクラファンを立ち上げることにしました。

 

遊びを忘れた大人たちに

心震える感覚を呼び戻してもらいたい!

 

ということで、マリンレジャーをもっと一般の人々に広めることで、日本を元気にしていくプロジェクト始動中です。

 

そこで、先ずは、この思いに賛同して、共にマリンレジャーを広め、日本を元気にしていくプロジェクトの

賛同者を集めることから…

 

 

第1弾の企画では、ジェットスポーツが一同に会したKJSF主催のジェットカーニバル (2019/4/13・14開催予定)
http://urx2.nu/OtQg 

(ジェットスキーレース・ジェットスキーフリースタイルショー・フライボーダーショー・フリーマーケット・スケートボード大会・少年サッカーチーム大会etc.)

今後は、地元住民を巻き込んで、いろんなイベントを折り込み、地元の理解を得られるマリンレジャーの拠点を増やし、

マリンレジャーが、日本の文化となるよう活動をしていきます!

 

 

あなたの人生にウェーブを起こしましょう!!

【プロジェクト発起人】

 

 

 
 
  
 
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カワサキジェットスキー物語 10

2018-12-27 06:55:31 | ジェットスキー&KAZE

 ★ひょんなことでスタートした『カワサキジェットスキー物語』だが、10話になろうとしている。

このきっかけを創ってくれた、田崎雅元さんから頂いた長いメールの中で、このように言って頂いているのだが、非常に意を強くしているのである。

古谷さん、

ジェットスキー物語、これは複雑な背景で生まれた「お神輿製品」で、その歴史は貴方以外誰も書けないと思います。流石です。

発動機 + リンカーン + KMC で生まれたジェットスキー は放っておけば、再建中の単車事業の中で、継子の商品となり、スノーモビルと同じような運命をたどったかも知れません。スノーモビル事業からの撤退を陣頭指揮した私が、同じような継子のジェットスキーに全力投球する、不思議な運命ですが・・・・ 大きなリスクを背負い、山田熙明さんから直接ブレーキをかけられた拡大戦略、結果オーライで語れることをとても幸せだと思っています。・・・・KMCの販売拡大が背景にあったとはいえ、J/Sの今日があるのには、当時の単発関係を偏見なく、フェアーに対応した単車企画部門の力が大きかったと思っています。

 

そんなことから当時の単車企画室が非公式に旗を振って始まったジェットスキープロジェクトであったが、88年9月の『ソウルオリンピックのデモンストレーション』により、ジェットスキーという世界で初めての製品の事業展開は、世の中が認めてくれた存在になり、ヤマハさんも参入されて、業界としての活動がスタートしてゆくのである。

 

           

 

★この年88年の10月からは、私自身が国内販売の責任者としてカワ販に異動することになり、二輪もジェットスキーもその直接の担当となるのだが、当時の事業本部長(カワ販社長兼務)髙橋鐵郎さんからは、国内市場で7万台販売という途方もない目標を与えられることになるのである。

7万台というのは、大変な目標なのである。

従来の販売活動の延長で頑張るだけでは、とても達成など出来ないような倍増台数だったし、二輪6万台、ジェットスキー1万台という目標は年間200台の規模からスタートするJSにとっても、とてつもない台数であったことは容易にご理解頂けると思うのである。

そんな目標を与えられて、私が具体的に採った戦略は、従来のやり方の徹底的な放棄で、ベースにしようと思ったのは、二輪もJSも元来が遊びの道具だし、そのベースにあるのは「レース」なので、この遊びとレース活動だけは『プロのレベルでの展開』を図ることだったのである。

 まず、10月1日に赴任して真っ先にやったことが、『カワサキファクトリー結成25周年のOB総会』で10月15日に開催したのである。

これは、かってのレースOB達や、山田副社長・髙橋本部長・苧野・中村・大槻さんなどカワサキのレースの先輩たちに対しての私の『決意表明』だったのである。

   

 

2番目にやったことは、従来のユーザークラブKGRC(Kawasaki Good Riders Club)を解散して、KAZE(Kawasaki Amuzing for Everybody )の創設だったのである。

従来の延長上の販売台数ならカワサキファンだけを集めたら達成できるだろうが、7万台の目標は二輪を愛するEverybodyを対象にその枠を広げる『イメージ戦略』でないとダメだと思ったのである。

 

    

 

 そして、『遊び半分ではいい遊びはできない』と遊びやレースの専門のケイ・スポーツ・システム(KSS)」という『ソフト会社』を立ち上げて、この会社を中心にグループ全体の活性化を図かり『新しいカワサキのイメージ創造』に挑戦したのである。

 従来の孫会社KATから、ジェットスキー専門販売のKJSと名称も変えて子会社に格上げし、その二つの会社KSSとKJSは私自らが社長として旗を振ることとしたのである。

 KAZEは3か月後の89年1月に、KSSは6か月後の89年4月に共に正規にスタートして、文字通りその後の展開の中心となっていくのだが、これはひとえにこの二つの新しい会社を担当してくれた、当時の精鋭たちが素晴らしかったと言えるだろう。

 ジェットスキーのKJSには藤田孝明・潤井利明・渡部達也さんなどの実力者に加えて、鶴谷将俊さんがKHIの籍のままではあったがJJSBA会長なども引き受けてくれての事業展開だったのである。

 全く新しいソフト会社KSSは、南昌吾さん以下がレース・KAZE活動など今までにない全く新しい『遊びの世界』に本格的に対応したこともあって、KAZEなどは55000人の会員を集め、当時のホンダHARTなどを圧倒した実績を実現したのである

 二つのグループは、カワサキの人たちだけでなく、レース関係者や業界のプロと言える人たちが沢山手伝ってくれての展開となり、ジェットスキーで言うと、JJSBAが果たした役割は非常に大きかったと言えるのだろうと思っている。

 

★これらの活動は、確かにこの時代私が旗を振ったのは事実なのだが、私は『本田宗一郎さんの真似』をしただけの話なのである。

ずっと昔、未だ日本の二輪需要が50㏄のカブ全盛期の時代に、本田宗一郎さんがやられたのは、世界GPへのレースへの挑戦であったし、あの鈴鹿サーキットをあの規模で造られたのは昭和36年(1961)秋なのである。 カワサキはその初めてのレースを観て、カワサキの二輪事業が立ち上がったと言ってもいいのである。カワサキの二輪事業がホントにスタートしたのは「青野ヶ原のモトクロス」だと言われるが、それは昭和37年5月のことなのである。

 本田宗一郎さんのレース展開の壮大な仕組みの構築が、当時の日本の二輪事業を世界的水準に押し上げたと言っていい。

遊んでいても『自然にモノが売れる、仕組みの構築』こそが大量販売のMUST条件だということは『本田宗一郎』さんに教えて貰ったのである。

 二輪もジェットスキーも、遊び道具なのだから、一番大事なのは『遊び心』ではないだろうか? 

確かに、マシン開発だけは、今も各メーカーは間違いなくプロのレベルだと思うのだが、マーケッテングに関しては『遊び心』が抜け落ちて『売ることばかり』に熱心で、真面目過ぎるのではと思ったりしているのである。

 

ジェットスキーこそ二輪以上の遊び道具なのである。

86年にやっとスタ―トしたカワサキのジェットスキーだが、ホントに数年の間に、業界にもカワサキの中にもプロたちが育っていったのである。

松口久美子さんが送ってくれた当時の写真だが、福井昇くんのチューンしたジェットスキー松口姉弟は乗っていたのである。

 

    

  こんなコメントも頂いたのである。

 91年の千里浜のレースプロクラス優勝者全員、偶然にも古谷さんのFacebookで繋がっています。
プロメン 松口博文選手   プロ X-2 内橋誠二選手   プロウィメン松口久美子です!
 
当時いろいろと出会った人たち、間違いなくその筋でプロと言える大南勝也さん、村島政彦・村島邦彦ご兄弟に出会ったのもこのころなのである。この当時出会った人たちと、30年も経った今でもみんなFacebook では、繋がっているのはホントに不思議なご縁なのである。
 
カワサキ社内の人たちは勿論だが、こんな外部の方たちの協力があって初めてカワサキのジェットスキーの飛躍があったことを忘れてはならないと思う。

 

★この88年当時、ジェットスキーの販売はどんな規模だったのか?

当初は、孫会社KAT で年間2~300台でスタートした国内のジェットスキーだが、86年にはジェットスキー専門店を立ち上げ、JJSBAのレース展開に専念したこともあって、86年に立てた目標3000台は、88年には達成するという躍進ぶりだったのである。

年間300台でも、何とかペイしていた販売会社がその規模が10倍になれば、どのような経営状況になるのか?

当時のKJSも、ジェットスキー販売店も、すばらしい活気で、89年の10月にはジェットスキのDealer MeetingをアメリカのJS生産拠点リンカーン工場を訪ねて、オマハのホテルで盛大に開催し、レイクハバスの本場のレース観戦をするまでになっていたのである。

 そして、それは7万台販売目標に向かって、最盛期の90年代に入っていくのである

 

 

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カワサキジェットスキー物語 9

2018-12-22 08:28:20 | ジェットスキー&KAZE

★ 今回『カワサキジェットスキー物語』をスタートして、当時の福井昇くんや松口久美子さんなどの協力で、やっと創成期のジェットスキー事業を時系列に纏めることができたと言っていいし、この当時のジェットスキーについて、

やっとこの程度に纏めることができたのである。

          

 

 ● 1971年米国人ヤコブセンの特許に、発動機の400ccのエンジンを搭載したJS400を開発し、72年からKMCのリンカーン工場での生産を開始した。

● 1973年からKMCが発売元でアメリカ市場へ出荷・販売されたが、日本では西武自動車がその年から逆輸入し、カワ販の孫会社KATが僅かながらボート屋さん経由で販売を開始している。

● その後アメリカでは、その使われ方としてレース需要が起こり、76年頃にはIJSBAというレース協会も設立された。

● 当時の販売台数は年3000~4000台で推移、そのエンジンは日本の発動機事業部からKMCリンカーン工場に出荷されていたが、KMCの親である単車事業本部には関係ない子会社KMCの製品としての販売であった。

● 1977年にはJS440も発売されるが、レース関係からは馬力不足からの馬力アップ要求があり、明石発動機事業部内に550ccへのボアアップ開発チームが結成され、1982年に550ccの発売が開始されることになる。

● その当時1980年頃から、オイルショック・ハーレーダンピング・HY戦争などの影響もありKMCの単車販売が減少した結果の在庫過多などからKMCの経営は大赤字になり、81年から髙橋・田崎コンビでのKMC再建が図られ、82年から明石の企画体制を含め抜本的な単車再建計画が講じられて83年度からは大庭本部長体制となるのである。

● そんな中、リンカーン工場で生産していたスノーモービルが雪不足による販売不振に陥りリンカーン工場の生産維持がムツカシイ状況になったのだが、その時発売されたJS550の生産規模を一挙に2万台ベースにまで上げるというKMC田﨑社長の判断が当たって、ジェットスキーの販売台数は一挙に24000台にまで増大し、KMCの経営にもリンカ―ン工場の操業度にも大いに好影響を与えるのである。

●この1983年のジェットスキーの販売台数増加を見て、84年度には明石の単車企画室内で武本一郎部長が、『ジェットスキーの単車事業本部の正規製品化構想』を打ち上げ、私もフォローしたので、単車技術部内では単車事業部としてのジェットスキー開発がスタートし、国内販売関係でもレース関連のJJSBA設立のため11月に苧野KAT社長と私が渡米し、IJSBAの了承を得るのだが、その仲介をしてくれたのが田崎雅元さんなのである。

 

★いろんな経緯はあったが、当時の単車事業本部の中で、ジェットスキー・プロジェクトが立ち上がったのは、1985年度からそのスタートが切られたと言っていい。

1985年度

●1985年度2月には、単車技術部の開発計画にJS300とX2の開発が計上されることになり、その開発が具体的にスタートを切るのである。そのために発動機から西田さんなど数人が単車技術部に異動したようである。

●7月には企画室内で武本一郎部長がジェットスキーに関する報告書を纏めている。

 欧州・豪州での販売網方針・品揃えとしてのJS300A,B 並びにその明石生産体制など詳細に亘っている。

●8月にはオーストラリアから帰任した鶴谷将俊さんが企画室内で独りジェットスキー・プロジェクトをスタ―トさせるのだが、その時期が単車事業本部の中に正規にジェットスキープロジェクトが立ち上がった時期だと言っていい。

●それ以降の動きはまさにスピードがあって、9月・10月には鶴谷・古谷でドイツ・スイス・スペイン・フランス・イギリスの市場調査を行ったし、スペインには駐在事務所を創り、藤元さんが駐在したのである。

    

1986年度

● この年の1月には、ヤマハの小宮常務が訪問されて、ヤマハもこの分野に進出するというご挨拶があったのである。多分、ヤマハさんは、カワサキがこんな形での事業進展になっているとはご存じなかったと思うのだが、カワサキとしてはプロジェクトチームが立ち上ったばかりだったのである。ヤマハさんもアメリカの市場が一挙に24000台になったことが、この業界への進出を決心されたのだと思うのである。

●3月には発動機事業部から、ジェットスキーの開発にも従事し、且つJJSBAのレースなどにも出場していた福井昇くんが企画室に異動し、プロジェクトチームに加わることになり、4月以降ヨーロッパ市場開拓に西田・福井コンビで2回にわたり延べ3ヶ月の市場調査などに当たっているのである。

●この年の6月末には山中湖でJJSBAのレースが開催され、私も初めて現地で『ジェットスキー・レース』なるものを実際に観ることになるのだが、その前夜祭に出てみて、二輪レースとの違いにビックリしてしまうのである。その前夜祭には100人以上が集まって開催されたのだが、男性はタキシード姿、女性はロングドレスの正装で、まさにヨーロッパのパーテイーさながらだったのである。

当時は関東は西武自動車、大阪は大南商会系の裕福な層が多かったのだとは思うが、ごく最近、村島邦彦さんにお会いしたらその場におられたようで、カワサキからはJJSBAの苧野会長は勿論だが、種子島経・岩崎茂樹・宇田川勇さんたちが参列されていたようである。

●この年の9月には、単車事業本部の初めての開発機種になるJS300の試作艇が開発中で、その艇に福井昇くんが乗り『試乗レポート』を書くのだが、それが酷評に近いものだったことなど、前回にちょっと触れたが、たまたま福井くんが家に訪ねてきたのでいろいろ聞いてみると、この艇では安定性がないということで、国内などには最初に発売されたのはこのJS300Aではなくて、JS400の舟艇にKX250のエンジンを乗せたJS300B だったようである。

●福井くんによると、この時期には単車事業本部の中にもジェットスキーのテストライダーとして金森稔さんなどが、二輪ライダーから転向して担当していたようである。金森さんも後、世界チャンピオンになり、今はアメリカKMCにいるのだがJSとの出会いが彼の人生を変えたとも言えるのである。

 

1987年度

● 87年度には、5月に単発合併があり、ジェットスキーを正規に扱う組織が営業総括本部に出来て、鶴谷将俊さんが担当し、同時に国内に関してはカワ販の孫会社KAT の社長は苧野豊秋さんが従来通り兼務され、JJSBA初代会長も兼務されたし、このKATについても鶴谷さんが関係すると同時に、カワ販の内部から藤田孝明・宇田川勇さんなど販売網や技術関連の実力者が担当することになったのである。

● 国内の販売網についても、従来の西武自動車関連のボート屋さんからジェットスキー専門販売店網『ジェットスキープラザ構想』を立ち上げ、86年3月には、神戸と東京に『プラザ神戸』と『プラザ都』を、6月には川崎重工業を退社して福井昇くんが、実質的な第1号店『プラザ明石』がスタートすることになるのである。

● ヨーロッパについても6月にJS販売会社構想をまとめ9月には藤元社長でスタートを切ることになった。

 

1988年度

● 88年度にはアシックスとのJS関連での提携、国内ゲレンデ第1号として直入町芹川ダムなどがスターとするのだが、この年の最大イベントは何といっても9月に開催された『ソウルオリンピック』での開会式当日のデモンストレーションである。

 日本・アメリカ・ヨーロッパ・オーストラリアからの男女トップライダーを集めてのもので、こんな走行写真を松口久美子さんが送ってくれたのである。

 

 『オリンピックの写真で奇跡的に一枚だけありました。間瀬晴之さんという方が撮った写真です。』とのコメント付きである。

 

        

 

苧野会長と天満選手・ワールドチャンピオン ラリーリッペンクローガー選手と松口です

          

 

★この世界的なイベントに参加することによって、『ジェットスキー』なるものが世の中に知られる端緒にもなり、川崎重工業の内部にも認識されることになるのである。

このカワサキジェットスキー事業展開の創生期は、この時期から1996年ごろまでの10年間と言えるのだが、この時期中心になってこの事業展開に当たってくれたのが鶴谷将俊さんである。

この事業展開は単なるJSの販売だけではなくて、そのベースにあるJJSBAのレース活動など、その遊びの展開こそがキーだと思って、『遊びの専門会社・ケイスポーツ・システム』などを中心の展開になるのだが、この時期二輪もジェットスキーも、カワサキ国内市場で最高の時期を迎えることになるのである。

 88年の9月ソウルオリンピックのあと、私は88年10月からはカワサキオートバイ販売専務として3度目の国内市場担当となるのだが、このジェットスキープロジェクトも、兼務のKJS社長としてお手伝いすることになるのである。

 

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カワサキジェットスキー物語 8

2018-12-18 07:12:10 | ジェットスキー&KAZE

★『カワサキジェットスキー物語』も8回目になった。

 前回は、1988年9月の ソウル・オリンピックの開会式でのデモンストレーションのお話などを紹介したのだが、このころのジェットスキーの展開は、考えられないほど、ホントに急テンポで進んだし、元々当時は、私が担当していた企画室内で勝手に動き出したプロジェクトであったので、初期段階には全く正規の資料が残っていなくて、なかなか時系列に思い出さないのである。

 そんなところに松口久美子さんが、こんなに確りと写されている写真を送って来られて、次のような説明が添付されていたのである。

    

 

 この写真は平成元年(1989)だと思います。男性は年間ランキング4位までの優秀選手を招待して表彰と苧野さんがカワサキがバックアップしてくださっている日頃のお礼を言っていたような気がします。左からジェットスキー協会レース運営代表の上田さん・伊藤選手(2位)・小河選手(3位)・苧野さん松口(1位)・前田選手(3位)・斎藤選手(4位)レース運営レースディレクターの日高さん

 

ここからは、私の勝手な想像や類推も入っているのだが、これは平成元年(1989)ではなくて、多分その1年前の、1988年のソウル・オリンピック前の5月頃、前年度の87年度のJJSBA成績の表賞ではなかろうか?

 場所は間違いなく、明石工場である。 そして後列に 並んでいる人たちは、左から天野・武本・安藤・古谷・鶴谷・黒田の川重メンバーなのである。

特に、武本一郎・安藤佶郎・古谷・鶴谷将俊とこの4人が揃って並んでいるのが、ある意味不思議なのである

 この4人は、間違いなく創成期のカワサキのジェットスキーに色濃く関わったことは間違いないのだが、こんなJJSBAの選手たちの表彰式に顔を揃えているのは、松口さんの言われる平成元年(1989)ではなくて、4人が一緒に並んでいるその可能性から言って1987年の5月から1988年9月までの間だと思うのである。

 

★まず武本一郎さんは、私が単車事業本部の企画室を担当した時期に、企画部長としてずっと支えてくれた人で、このジェットスキープロジェクトを川崎重工の正規の事業にしようと言いだした『言いだしべえ』なのである。彼の熱っぽい進言に乗って、私は動き出し、85年8月にオーストラリアから帰任した鶴谷将俊さんを口説いて、『ジェットスキー・プロジェクト』が動きかけたと云うことは前回お話した通りなのである。

従ってこの3人が並んでいるのは、そんなに不思議ではないのだが、問題は安藤佶郎さんが一緒に並んでいるのが、不思議なのである。

安藤佶郎さんとは、私はずっと昔から密接に関係があったので、ちょっと安藤さんのご紹介をすると、

最初に出会ったのは、もうずっと以前、カワサキの単車事業スタートの頃の1965年頃のレース仲間からのスタートで、初代監督は大槻幸雄さんだったのだが大槻さんがドイツ留学に行かれた後を、安藤さんが引き継がれたのである。そのあと田崎雅元さんと交代でKMCに出向され、その後はカワサキの新生産管理システムや、アメリカのリンカーン工場などの生産部門も担当された技術屋さんなのである。

レース時代には、監督をされていたと同時に、あのモトクロッサーF21Mのエンジン提供をされたのが安藤さんなのである。 連戦連勝のF21Mだったので、その頃広告宣伝を担当していた私が、モータショーに出品すると言ったら『そんなことやめてくれ』と仰るのである。『なぜ?』というと『元々125ccの実用車のエンジンとして設計して、それを150ccにボアアップし、さらに175ccにした上に、今度は238㏄のモトクロスのエンジンにして、それでも持っているというのは、如何に過剰設計か』ということで「技術屋としてはカッコ悪い」と仰るそんな一面もお持ちであったのである。

レースでお付き合いした若いころの大槻さんも、安藤さんも怒ると無茶苦茶『怖かった』のだが、私とは何故か非常に親しくおつきあいをさせて頂いて、私はお二人からダダの1回も怒られたことはないのである。

 

★『ジェットスキ―物語』としては、ちょっと脱線気味だが、そんなことでもないのである。

そんな安藤佶郎さんなのだが、私が企画時代は、武本一郎さんが当時の技術部をそそのかして、新ジェットスキーのJS300の開発が始まった当時の技術本部長なのである。安藤さんがGoを掛けなければ、単車事業本部でのジェットスキー開発は始まっていないのである。

そして、その初めて単車が開発したJS300は、二輪で言えばモペットのような初心者用の導入製品を目指したのだが、水の上を走る乗り物は陸とは違って、小型では浮力が足りずにムツカシイのである。そんなこともあって、ヒット商品には残念ながら『なりえなかった』のだが、間違いなく単車事業部が独自に開発したジェットスキーの第1号はJS300なのである。

  

     

その開発時代に明石サイドで試乗したのが、当時企画室に異動して来ていた『福井昇くん』なのである。 当時の明石工場の単車事業本部内にはジェットスキーに乗れる人などいなくて、発動機から企画に貰い受けていた『福井昇くん』が加古川で試乗することになったのである。 

そして、福井くんの提出した『試乗レポート』は酷評に近い内容であったようで、その検討のあった技術部のジェットスキー委員会では担当者が安藤さんの逆鱗に触れたりするのだが、同じ時期アメリカに送った試乗艇の評価ももう一つで、田崎さんなどはとても『私には乗れない』とアメリカ市場への導入は行わないというような決定になるのである。

 その当時の写真を田崎さんから送って頂いたのである。

 

   

そして、それにはおまけがついて、『開発製品に文句をつけるのなら、企画ではなしに品証に行ってから言え』ということになって、福井昇くんは企画から品証に異動することになるのだが、その結果単車事業本部の中に、ジェットスキーの品証機能が生まれることにもなるのである。

 

★ そんな一連の事件のあったスタートだったのだが、1987年の5月に、単車と発動機の合併があって、大幅な職制変更があり、営業総括本部ができて、安藤さんが長、私が副で、武本・鶴谷さんも営業総括部に異動した時期が88年の9月まで続いたので、最初の写真は、その期間中のものだと思うのである。

安藤さんはその期間カワ販の専務もされるのだが、1988年10月には私がカワ販専務に異動するので、この写真に写っているのは、安藤さんの営業部門時代だったに違いないのである。

そんな安藤佶郎さんも、もうこの世にはおられないのだが、現役時代はホントに親しくお付き合いをさせて頂いたのに、一緒に写っている写真など皆無なので、これは貴重な写真なのである。 

 

★ カワサキのジェットスキーの歴史は、いま振り返ってみると、アメリカで田崎雅元さんが無茶苦茶なジェットスキーの大増産をしたことがその『きっかけ』ではあるのだが、明石サイドでもこの4人、武本一郎安藤佶郎・古谷錬太郎・鶴谷将俊 が動かなかったら、カワサキのジェットスキー事業は、果たしてどんなことになったのだろう。

この年、1988年10月には安藤さんの後を受けて、私はカワサキオートバイ販売の専務となり、89年1月からはジェットスキーの販売会社KJSの社長も兼務することになり、JJSBA会長に就任した鶴谷将俊さんとの文字通り二人三脚で、国内のジェットスキーの最盛期を迎えることになるのである。

何にもない白紙の上に絵を描くことは、いろいろとムツカシイ面もあるのだが、こんな新しいプロジェクトを担当できることは、滅多にないチャンスなのである。

 そんな、新しいジェットスキー・プロジェクトがどんな展開を見せるのか?

 次回以降を、お楽しみにお待ちください・

 

 

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カワサキジェットスキー物語 7

2018-12-14 07:12:50 | ジェットスキー&KAZE

★創成期のカワサキ・ジェットスキー市場の世界展開を図った人たち、そのキーパーソンとなって世界をリードしたのは、鶴谷将俊さんである。

彼はオーストラリアの販社の社長から85年8月に帰任したのだが、その彼に『ジェットスキーを担当して欲しい』と私は突然頼んだのである。小なりとは言え、一国の販社の社長として旗を振ってきたのに、突然部下1人もいないそんなプロジェクトを押し付けられて、当惑したのは間違いないのだが、彼は引き受けてくれたのである

翌86年3月には、発動機事業部からジェットスキーのレースなどにも出場していた福井昇くんが参加してくれて、ようやく『鶴谷ジェットスキーチーム』は具体的に動き出すのである。

ジェットスキーは、世界で初めての製品であったし、カワサキがその先駆者として活動展開を進めたのだが、その展開のベースになったのは『レース』であったことは間違いないのである。

その創生期活動の中心になった国内では、アメリカのIJSBAの流れを組むJJSBAの初代会長としてその協会設立から尽力された苧野豊秋さんを中心に、当初はその活動は西武自動車関連の方やレースに参加されていたメンバーたちの協力を得ての活動だったのである。

 

★そんな川崎重工業以外の外部の人たちの協力でスタートしたジェットスキー・プロジェクトではあったが、非常にスムースに素晴らしいテンポで展開し、87年5月には営業総括部の中に、初めて『ジェットスキー担当部門』がスタートしその長に鶴谷さんが就任して、ようやく単車事業本部の中に正規担当部門がスタートし、私自身も企画から営業総括部に異動したので、ジェットスキー・プロジェクトも本格的に動き出すのである。

最初に、ジェットスキーが世界に認められたのは88年9月、ソウルオリンピックの大会運営委員会に招かれて、ソウルオリンピックの開会式の当日、すぐ前のハンガン(韓江)でジェットスキーのデモンストレーションを行ったことだと言っていい。

 このプロジェクトは鶴谷将俊さんが中心に企画推進し、日本のJJSBAの苧野会長以下関係者と、オリンピックということでアメリカ・ヨーロッパ・オーストラリア・日本の各国男女チャンピオンを揃えての参加となったのである。 アメリカ以外の世界からこのようなメンバーが集められたということは、その間の活動が、世界的に展開出来ていたという証明にもなるのである。

 カワサキ関係者としては、苧野・鶴谷・福井のメンバーと、私はこのチームの団長として参加することになったし帰国後、川崎重工業の経営会議で大庭浩社長以下経営トップにその報告をすることになったりしたのである。

 

            

 

    

  

これはオリンピック委員会から、記念に頂いたもので、写真としてはこの2枚しかなかったのだが、今回松口久美子三がいろいろ送って頂いたのである。   

    ● 天満選手とオリンピック会場をバックに撮った写真
 
         
 
 
 
    ● 苧野会長と天満選手・ワールドチャンピオン ラリーリッペンクローガー選手と松口さん
 
         
 
 
 
   ● 選手村で宿泊所の前で、苧野会長・松口・松下選手・レース運営の上田さん・小河選手
   
     
 
 この時の宿舎は、オリンピック村の中にあって、ハンガンはそのすぐ前という最高の立地だった。
 
 この写真以外にも大南勝也さんなど、ジェットスキー・プロジェクトが立ち上げって以来のメンバーたちが参加していて、結構な大所帯だったような記憶である。ひょっとしたら金森稔くんは未だジェットスキーには乗っていない時期だったかも知れないのである。
 
個人的なことを言わして頂くと、このプロジェクトのお蔭で私はこどもの頃育ったソウルを訪問できたので、滞在期間の間に、こどもの頃通った小学校や、育った自宅も見ることができたのである。
 
     
 
 
 
★全く白紙の上に絵を描くような、すべてが新しい初めての経験の連続だったのだがに世界からの団体チームが組めるような活動を展開してきた成果として、、『ソウル・オリンピックのデモンストレーション実現』があったと言えるのである。
 
この間、特に重点市場として展開してきた国内のジェットスキー販売網対策としては、従来のボート屋さんが片手間で扱っていた形態から、ジェットスキー専門店網設立を目標に『カワサキジェットスキープラザ構想』を立ち上げ、87年3月には、『カワサキジェットスキープラザ神戸』をその1号店として立ち上げたのである。
 
この店舗は元大型二輪販売店テンポで、吉田純一さんがお持ちだったのだが、JSプラザ1号店として借用しオープンしたものである。
未だ、殆ど販売実績のないような時期に、結構な大型店舗であったことから、関心を呼び後の販売網展開に好影響を与えたのである。
同時に、東京には当時のカワサキの二輪販売トップを走っていた北多摩モータースに『ジェットスキープラザ都』を同じ3月初旬に立ち上げて貰って、東西2店のジェットスキー専門店からスタートしたのである。
 
 当時、日本での年間売上高が200台前後という中で、果たしてジェットスキー専門店が成り立つのか? という疑問が多い中で、これはボート屋の片手間ではダメだと思ったのは、ジェットスキーはレースという専門的な遊びが底辺にある商品だから、専門店でなければ『一定の事業規模にはならない』という私独特の仮説でスタートしたのである。
 
 このジェットスキーの販売網については、当時のカワ販の中から、私とかって一緒に仕事をしたことのある、宇田川勇・藤田孝昭くんという最も信頼できる実力派の二人にお任せして、白紙の上に絵を描いて行ったのである。
 
 この年の4月には、福井昇くんが『ジェットスキープラザの実質1号店』を目指して川重を退社し、6月27日に『カワサキジェットスキープラザ明石』を立ち上げる運びとなるのだが、販売に掛けては未経験の福井くんを親身になって、開店まで漕ぎつけたのは、藤田孝明くんの献身的な協力があったからだと思うし、この『プラザ明石の成功』がその後のジェットスキー販売網構築をスムースにした一因になったのは間違いないのである。
 
 
福井昇くんを、当時の単車事業本部の企画室の私たちが知っていたわけではないのである。
 
 オーストラリアから戻った鶴谷さんの同期の西田さんがたまたま発動機のジェットスキー担当で、彼の推薦で福井昇くんの名前が挙がったのである。さらに発動機でその当時ジェットスキーも担当していた部長は藤川哲三さんで彼は私の同期だったものだから、藤川さんに頼んで福井くんを単車企画に貰い受け、その後ヨーロッパ市場開拓のための市場調査などは、西田・福井のメンバーで2回ほど3ヵ月に亘って行ったりしているのである。
 
 その頃は未だ福井くんも、販売店などやることなど思いもよらなかったのだと思うが、何となくそんなことになってしまったのは、運命だと思うが、カワサキにとっても、多分、福井昇くんにとっても『いいご縁』であったことは間違いないのである。
 
 カワサキジェットスキー物語を書く上で、『福井昇くん』はキーパーソンなのである。当時からはもう40年近いのだが、未だにFacebook ではトモダチだし、NPO The Good Times では理事として手伝ってくれているのである。
 
今回福井くんと、松口さんがいろいろと手伝ってくれたので、この物語も時系列にいろいろと解ったことも多いのである。
 
 
 
★ところで前回の最後にこんなことをアップしたのだが、
 
   
 
松口さんからこんなメッセージと貴重な写真を送って頂いたのである。
 
  
 古谷さんのブログ、いつも楽しく拝見させていただいています

Brenda Burns Chambersさんは、85-87年度のウィメンズワールドチャンピオンです
ご主人は88年度頃のX-2のワールドチャンピオンです
息子さんがいまスタンディングクラスで優勝されたようです

https://scontent-nrt1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/44027602_10212361821511817_8432839561784066048_n.jpg?_nc_cat=111&_nc_ht=scontent-nrt1-1.xx&oh=c621cacde88d8ea4b89c791d11e40fb4&oe=5CA1CAC9
 
 
             
 
 
  『有名人かも知れない』と思ったのだが、まさしく超有名人なのである。
 
 Facebook では、既にトモダチになってるので、ひょっとしたらこのブログもご覧になってビックリされるかも知れないのである。
 
 
  では今回はこの辺りで・・・
 
 

 

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カワサキジェットスキー物語 6

2018-12-10 05:40:26 | ジェットスキー&KAZE

★ひょんなことで始めた『カワサキジェットスキー物語』だが、何となく続きそうな雰囲気になってきた。

今まで何度も繰り返し書いてきたように、ジェットスキーはカワサキにとって最初から正規の製品としてスタートしたわけではなくて、アメリカ市場向けの独特の生まれ方をしているので、当時のことを解っている人は、カワサキの中にも限られていて、特に最初は全く無関係であった『単車事業本部』には、正規の資料も残っていなくて、数人の思惑で動き出したプロジェクトなのである。

おまけに、当時は世界初の商品で、商品名として『ジェットスキー』はあったのだが、一般名がなかったので国会で『エンジン付き海洋浮遊物』と称されたりした『嘘のようなホントの話』も存在するのである。

さらに言えば、カワサキのなかにジェットスキーの遊びのプロなど存在しなかったので、社外の方たちの協力で『ジェットスキーは育っていった』のは事実だし、特に『レースの世界』では、アメリカではJJSBA、日本では当時の西武自動車関連の人たちや、ジェットスキーで遊んでた人たち、そんな人たちが、ジェットスキーを育てていったと言って過言ではないのである。

この話に火をつけた元川崎重工社長の田崎雅元さんは、当時の数少ないカワサキとしてはジェットスキーに乗れたライダーとして、私に『いろんなデーター』を供給頂いたのだが、このほかに、『福井昇くん』が当時のことを時系列に纏めてくれたりしたので、『何とか大丈夫かな?』と思ってスタートしたのである。

 

★そんなところに、これはまた強力な助っ人が現れて、当時の写真など、いろいろ送って頂いているので、今回はその方『松口久美子さん』について、送って頂いた写真の一部などを使ってご紹介したいと思っている。

 

      

 

彼女はジェットスキーの全日本チャンピオンである。

私は、レースの世界にはいろいろと関係があって、二輪・四輪などチャンピオンはいっぱい知ってるが、彼女の実力は飛び抜けていたのである。

ジェットスキーに乗り出したきっかけは? という私の質問に、このように答えてくれている。

井村 雅代コーチのもとオリンピック種目採用を目指しシンクロナイズドスイミングの練習に励んでいましたが、高校1年夏頃、練習に耐え切れず辞めてしまいました。
その頃、姉と一緒にジェットスキーに乗る機会があり楽しいし、試合もある。「日本人がワールドカップに出場したらしいという情報を聞きつけ、シンクロ時代を思い出し「やはり何でもいいから世界に通用する人間になりたい。世界の舞台に出てみたい」と考えジェットスキーなら可能性があるなと思い乗り始めました

 

私に送ってくれた彼女の実績である。

   

   

  アメリカでも、ご活躍だったようだが、国内のレースで、松口さんが優勝しなかったレースなど、私は見たことがなかったのである。

 

★当時の国内の販売網や、JJSBAの協会設立などには、カワサキだけでなく、むしろ西武自動車やいろんな方々の協力があって初めて、ジェットスキーがこの世の中で『カワサキの事業』として成立していったのだと思っている。

 この写真は平成元年(1989)というので、少し軌道に乗り出したころだが、当時のジェットスキーに関わったカワサキのメンバー(後列)と 当時のJJSBA初代会長をされていた苧野豊秋さんを囲んでJJSBAの関係者とそのライダーたちなのである。

 カワサキ側のメンバーは左から。天野・武本・安藤・古谷・鶴谷一番右がどなたかな? 懐かしいメンバーたちである。

 と書いてたら、高原篤さんが『黒田さんではないですか?』とFacebookのコメントで、確かに黒田さんである。

 

      

 

  男性は年間ランキング4位までの優秀選手を招待して表彰し日頃の協力に感謝した会だったようである。

左からジェットスキー協会レース運営代表の上田さん・伊藤選手・小河選手・苧野さん・松口久美子さん・前田選手・斎藤選手・レース運営レースディレクターの日高さん

 特にJJSBAの立ち上がり時点では、西武自動車時代からの上田さんと日高さんには本当にお世話になったのである。

 

★こちらは1年後、JJSBA会長は2代目の石井さんになっている。

 

  

  

平成2年2月21日KHI懇親会左からレース運営レースディレクターの日高さん・飛野選手・松口選手(弟)・金森選手・石井さん・天満選手・松口・伴選手レース運営代表の上田さん  との説明付きである。

 

前年度の写真に金森稔君なぜいないのかな? と思ったりしたのだが、この時には居る。 世界チャンピオン金森稔くんも若いな。    

 

     

 世界チャンピオン金森稔くんについても、思い出いっぱいなのである。

彼を大阪の月木レーシングから、カワサキに引っ張ってきたのは、平井稔男さんである。二輪のライダーからジェットスキーに転身して一躍、実力を発揮し世界の頂点に登ったのである。

今はアメリカのKMCにいる。

これは数年前アメリカの月木さんの娘婿さんがやってたお鮨屋さんでの私と金森君である。

 

        

 この時代、もう一人忘れてはいけない人がいる。

 大南勝也さん、今もPWCの業界に関わっているとは思うが、カワサキも大いにお世話になったのである。

 

     

 これは、松口久美子さんがアメリカにデビューしたころ、繋いでくれたのが大南勝也さんだったようである。

 こんなKMCでの写真も、松口さんが送ってくれたのである。

 

     

   

 大南勝也さんと私のツーショット、こんな写真もある。

 『小島松久・吉村太一さんのマウンテンライダース50周年記念パーテイー』に招かれた時に偶然お会いしたのである。

  私の80歳の誕生日 なぜ覚えているのか?

          

 

 誰かが『私の80歳の誕生日』と言ってくれたようで、太一ちゃんが気を遣ってくれたのである。

 小島松久さんから、壇上でこんな花束を頂いたのである。

         

 

 ★特に、ジェットスキーには関係はないのだが、いろんな人たちと繋がって、そんな人たちのお蔭で『今のカワサキがある』ことを忘れてはいけないと思うのである。

 ジェットスキーは、いまどんあ状況なのか、詳しいことは解っていないのだが、こんな物語をアップできるのも、昔の仲間たちがいろいろと応援してくれるので、何とか昔を思い出すことができているのである。

 カワサキのジェットスキーの創生期の中心になった人は、何と言っても苧野豊秋さんと鶴谷将俊さんである。

 松口久美子さんが当時の貴重な写真を送って頂いたので、いろんなことが思い出せたのである。

 

★ 突然、こんな写真だが、Facebook の私の記事に、突然『いいね』を下さった。

  トモダチ申請したら、すぐ繋がったのである。

  ひょっとしたら、ジェットスキー界で有名人かも知れない? 

  Brenda Burns Chambers さん、 松口久美子さんとも確か、繋がっていたのである。

  こちらも大変な有名人である。これも松口さんから教えて頂いたので、また次回にでも・・・

 

   Brenda Burns Chambers さん

  

 

  次回は、松口さんが写真を送って下さったので、

  88年のソウルオリンピック開会式に参加した時のお話などをと思っている。

 

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カワサキジェットスキー物語 5

2018-12-06 12:38:19 | ジェットスキー&KAZE

★ジェットスキーとはカワサキの商品名で、1971年に開発されて72年からアメリカ市場だけで年5000台ほどの販売が続いていたのだが、KMCという単車事業部の子会社の開発商品で且つリンカー工場生産なので、川崎重工業から言えば『継子商品』だったのである。

 エンジン供給元の発動機事業部もジェットスキーチームは解散されて、このままではJS400・JS500だけで、終わってしまったかも知れなかったのだが、84・85年になって一挙にJS550が2万台を超す販売になって、アメリカのKMCの経営改善には大いに貢献したのだが、川崎重工の明石工場サイドとしては発動機事業本部の550ccエンジンが2万台出荷されただけで、KMCの親元である単車事業本部には何の関係もなかったのである。

この間の事情を当時KMCの社長だった田崎さんが、こんなメールで私に知らせてくれたのである。その一部をご紹介する。

「J/S販売規模を20000隻/年に!」

実質上のトップ、山田熙明さん(当時の川重副社長)からの国際電話、「田﨑君!2割、3割の増産ならともかく、20000隻とは!無理をするな!」と呆れかえったような忠告。これを、丁寧に無視して、単独で勝負に出た状況を想い起こしています。 若かったと思います。

「スノーモビル事業からの撤退」という、日本企業が一番苦手とする退却(転進)、この一大マイナスプロジェクトのため、全体の再建シナリオから抜け落ちている リンカーン工場での操業不足と懸命に闘っている佐伯社長の姿が脳裏に浮かぶ、こうした心境にあった時期に、全米に張り巡らされた情報網からの絶え間ないJS情報のインプット、 自分で試乗を重ねているJ/Sに対する愛などが混然となり、直感が確信へと移りかわり、J/S20000台生産のリスクテイキングの決心となった。まさに、大好きな 天の時 地の利 人の和  時は今!と、大げさに表現するなら 天の啓示 を受けた。

 

2万台以上もの販売規模が実現したとなると、何時までも『継子商品』のまま放置するわけにもいかず明石の単車事業本部としても自らの開発商品とすべきという動きが企画室内で起こるのである。

 一挙に2万台の生産規模にしたのは、KMC社長だった田崎雅元さんだし、企画室は私の管轄だったのだが、当時は二人とも未だ若手部長という職位だったのだが、リンカーン工場の生産拡大も、明石の企画で正規製品として技術部に開発を促す行為も、アメリカ以外の欧州や国内市場への進出についても、二人とも別に相談したわけではないのだが、独断でその実施に踏み切っているのである。

 そしてその翌年もアメリカでは24000台の販売が継続したので、独断先行した行為も何となく『当然の処置』ということになって86年度からは、大庭本部長の指示として、新製品の開発も、欧州・国内の市場開拓も進んで行くのである。

 

★このプロジェクトを『独断専行』したのは、ホントに限られたメンバーで、アメリカでは田崎雅元さん、明石サイドは私と武本一郎さんが『言いだしべえ』でそれを支えて具体的に展開してくれたのは、85年8月にオーストラリア社長の任期を終えて帰国した鶴谷将俊さんと発動機から『ジェットスキーに乗れる』ということで単車企画に異動してきた福井昇さん、たまたま他事業本部から異動して来てスペインに連絡事務所を創って欧州市場開拓に携わった藤元さん、国内ではJJSBA初代会長をされた苧野豊秋さんと、私がこのプロジェクトのために指名し東京営業所長でから引き抜いた藤田孝明さんなどの数名が核になって進めたプロジェクトで、85・86年当時は、職制すらなかったのである。

やっと、ジェットスキーに関する職制が出来たのは、私が企画室から営業総括部に異動した87年度からで、その時初めてジェットスキー部門がスタートし、正規に鶴谷将俊さんがアメリカ以外の世界のジェットスキーの市場展開に旗を振る体制となるのである。

 

 ★この間に明石の単車事業本部の技術部では、JS300の開発が進められるのだがその開発コンセプトは、開発計画書に、『底辺層・初心者、女性など需要創造のためのエントリーのジェットスキーとしてやや小型な船体にKX250ベースの300㏄エンジンを搭載』と書かれていて、明らかに、二輪でいうなら『50ccモペット』のようなコンセプトだったのである。

   

 

KMCの製品』から『カワサキの製品』となるので、単車事業本部の技術部が意気込んで開発に着手した第1号製品なのである。

 

       

  

従来、単車事業本部の明石では、ジェットスキーは何の関係もなかったので、これに乗れるメンバーもいないのである。このJS300の開発テストも、福井昇くんが加古川で、テストに乗ったりしたのだが、もう一つ安定性に欠けるという評価なのである

KMCにも試作品を送ってテスト依頼をしたようだが、田﨑さんは先日私宛にこんなメールを送ってこられたのである。

JS300は、大きな問題だった。JS550よりもう少し小型でコストも安いものをと、モトクロス用エンジンを搭載して明石で開発し、試作艇がKMCに持ち込まれた。 ところが、陸上のバイクとは違って、浮力不足で小型になると非常に乗りにくく、私なんかではとても乗れないし、全然面白くない。日本の福井さんからも、内々で、乗りにくいという評価が寄せられ、KMCは販売しないと決めたが、結局KMMで生産し、ヨーロッパや日本で売るという技術部主導の意思決定となったようである。・・・

 

      

 

 多分、その時の写真なのだろう。こんな写真も送られてきたのである。

 単車事業本部でのはじめてのジェットスキーJS300は、こんなこともあって87年度から国内や欧州市場で販売されることになるのだが、基本コンセプトに書かれたような訳にはいかなかったのである。 

 

 ★そんな情勢の中で推移した単車事業本部のジェットスキー・プロジェクトなのだが、1982年からスタートした単車事業本部の再建計画も86年にはほぼ再建の目途も立ち、大庭本部長は副社長として本社に戻られ、髙橋本部長体制となり、さらに87年度は単車・発動機の合併が行われて、私自身は企画室を離れ、営業総括部に異動となり、そこに新たにジェットスキープロジェクト推進部門が正規にスタートし、鶴谷将俊さんがその責任者となるのである。

 田崎さんもKMCの社長から帰任し企画室への異動となる、そんな新時代が幕を開けることになるのである。

私自身は、従来企画室長でありながら、ヨーロッパや国内のジェットスキー市場開発に関わってきたのだが、新組織では営業総括部門の責任者として、鶴谷さんとともにジェットスキー新事業のアメリカ以外の市場の旗を振ることになるのだが、この古谷・鶴谷コンビのジェットスキー事業展開は90年度半ばまで続き、ほぼ完全な状態に仕上がっていくのである。

この分野ではカワサキが世界初のものであったし、87年度からはヤマハさんの参入もあったりしたのだが、パーソナルウオータークラフト(PW)という新しいネーミングもできて、その安全運転協会(PWSA)の設立など、業界としても確固たるものに仕上がっていくのである。

そういう意味で、この業界の文字通り先駆者として、その初期の段階に色濃く関われたことは、振り返ってみても非常に良かったと思うし、競合メーカーのヤマハさんともホントに親密に接することができたのはよかったと思っている。

次回からは、川崎重工業の正規の製品として、世界展開するカワサキのジェットスキー・プロジェクトについて、この物語は続いて行くのである。

 

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カワサキジェットスキー物語 4

2018-12-03 08:23:10 | ジェットスキー&KAZE

★それまで年間5~6000台の販売で推移していたジェットスキーが一挙に20000台を超す実績を上げることになった1983年頃カワサキの二輪事業は、その長い歴史の中でも最大の危機と言っていい大変な時代だったのである。

 それまでカワサキの二輪事業を支えてきたアメリカ市場のKMCの経営は、ハーレーダンピング訴訟や、アメリカ市場まで飛び火したホンダ・ヤマハのHY戦争の影響を受けての大打撃に加えて、リンカーン工場で生産していたスノーモービルが暦年の暖冬で在庫過多に陥り、それらの原因が重なってKMCは100億円を超す赤字が続き、それが川崎重工業の連結決算にも影響して無配に陥るなど大変な時期だったのである。

 83年7月には当時川重で再建屋と称されていた大庭浩本部長が赴任されて髙橋鐵郎副本部長とのコンビで指揮を取られ、問題のKMCは田﨑雅元さんが、明石側の企画部門にはなど若手部長が担当して、再建を図っていた時期なのである。

          

 

そんな大変な時期に、ジェットスキーの新製品JS550が登場し、田崎さんがリンカーンの工場生産台数を一気に20000台ベースにまで引き上げ、それが市場で完売するという劇的な変化が、KMCの経営改善も、リンカーン工場の工数改善にも大いに寄与したのである。

Ninja900もアメリカ市場に登場して、これもまた世界的に好評だったので、これはKMCだけでなく、世界の販社も明石の単車事業本部の経営改善にも大いに寄与したのである。

 

                 

 この Ninja のネーミングはアメリカサイドからの提案のネーミングだったのだが、当時の明石の事業部サイドの技術部は、忍者というイメージは黒装束で暗いと大反対で、KMCに出張されて『ダメだという大庭本部長』を田﨑さんが『アメリカでは、Ninjaは ゼロゼロセブンのようなカッコいいイメージです』と説得して、初年度は『アメリカ仕様のみ』でそのネーミングNinjaは使われたのである。ヨーロッパ仕様は、Ninja のネーミングは使用されずに、そのネーミングは、GPZ900R だったのである。

Ninja のネーミングの『産みの親は田崎さん』だと言ってもいいのかも知れない。

     

大庭さんを説得したその場面に私も同席していたので、そんな経緯を知っているのである。 

大庭さんは川重の中では『怖いイメージ』で、大庭さんにNOという人は少なかったようだが、当時の単車は田崎さんや私など、結構ズケズケとNOと言ったのだが、大庭さんはかえってそんな単車の雰囲気を楽しんでおられたようで、7月に来られて9月には『単車は思ったより確りしている』と経営会議で仰ったりして、大庭本部長の信頼を数か月で得たのである。

        

★この年、アメリカ市場での急激なジェットスキーの販売増加はあったのだが、この『ジェットスキー』はKMCの製品ではあるのだが、当時の明石の単車事業本部では開発も生産も一切無関係なので、事業本部の経営には一切影響がなく、単にお隣の発動機事業本部がリンカーン工場にエンジンとして出荷しているだけのものだったのである。

そういう状況なので、明石の単車事業本部には、ジェットスキーに関係する人は1人もいない状況だったのだが、何とか『川崎重工業の正規の製品』にしようと動き出したのが、当時の企画室の私の下にいた武本一郎さんなのである。

彼がその決意をしたのは、アメリカ市場でジェットスキーが突如大量に売れ出した84年の夏ごろだったと思うのだが、彼の熱意に動かされて、私も私なりに動き出すのである

 当時、日本国内では西武自動車が逆輸入していたジェットスキーを、当時のカワ販の孫会社のKATが細々と売っていてレースなどの動きが出始めたころなのである。私はこの企画室担当の前は、カワ販常務として国内市場を統括していたので、KATのこともよく解っていて、KATの社長も兼務されていた苧野豊秋さんと国内のレース協会を立ち上げるべく、84年11月にKMCに田崎社長を訪ねているのである。その時アメリカのIJSBAに繋いでくれて、IJSBAの承認を得て、翌年国内にもジェットスキーのレース協会JJSBAがスタートするのである。

これはその時のKMCでの写真だが、苧野さんを囲んで、当時の単車事業再建に関わった明石のメンバーもいる懐かしい顔ぶれである。

    

  

      

   こんな写真もあるが、いずれも田崎さんに送ってもらったものである。

 

★ 川崎重工業としてのジェットスキー事業のスタートは、国内のジェットスキーレース環境の整備から始まったと言ってもいい。

 カワサキの二輪事業のスタート時代も『レース運営委員会』から始まっていて、その委員会の営業サイドの長をされてたのが苧野豊秋さんで、その事務局が私、そしてレース職場の担当が若き日の田崎雅元さんだったのである。

 二輪も、ジェットスキーも遊びの道具なのだから、『その事業の核のひとつはレース』だと私は信じて疑わなかったのである。

カワサキのジェットスキー事業』の本格的にスタートするためには、まず国内のレース協会、JJSBAの確立が『その第一歩』だと思ったし、この出張で日本のJJSBAが公認され、初代苧野JJSBA会長が実現するのである。

 

 ★同じ時期に、明石の開発・生産サイドの対策は、武本一郎さんが同期の技術部の百合草三佐雄さんなどと組んで、単車事業本部の開発製品として、ジェットスキーの開発を目論んだのだと思うが、静かに潜航した対策で、表面には何の資料も出ていないのだが、85年2月の単車事業本部の開発計画書には、単車の開発車種と並んで、9番目にこんなJS300 と X-2 という二人乗りのジェットスキーの計画が記載されているのである。

この84年当時と言えば、未だジェットスキーは単車事業本部の製品としては承認されていない時代なので、正規の開発予算などもなかった時代なのだが、この予算については、企画の武本さんが確か生産関連の予算から、捻出したのではなかったかと、これは私の推測なのである。 現実に85年2月には、こんな計画が開発計画書に載ったのである。

 

   

 これが単車事業本部正規の書類の中に、最初に登場した『ジェットスキーの名称』なのである。

この開発会議は、大庭本部長主宰のものだから、85年2月に『川崎重工業のジェットスキー事業』は、正式にスタートを切ったとも言えるのである。

 この計画書には『単車で開発・生産する』と明確に書かれているのである。

 

★こんな経緯を経て、ジェットスキーはようやく単車事業部の正規の製品として開発が進められることになるのだが、技術部の開発担当以外には担当者もいないし、この時点ではジェットスキーに乗れる人すらいないのである。

 企画室の私と武本一郎さんだけが解っているだけのそんな状況から、この年の8月にはオーストラリアから鶴谷将俊さんが帰国して、企画室でジェットスキーを担当してくれることになるのである。

 そこからが、ジェットスキー事業の本格的な動きが始まるのである

 

 

 

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 人生の記録  私の日記帳

2018-12-01 05:18:40 | ジェットスキー&KAZE

昭和28年(1953)11月8日から突然私の日記はスタートして、今も尚、『60年以上も続いている』いる。

 その動機については何度かこのブログにも書いたが、朝日新聞に『台湾の蒋介石は30年も日記を書いているのがエライ』というような記事があって、『そんなことなら自分にもできるだろう』とこの年は大学ノートにその日から日記を書き出したのである。

 何となく続いて、蒋介石を抜いたことで、大いに自己満足しているのである。

  60年もの日記帳は、このような形で保管されている。

 

  

 

  最初の頃は、1年1冊だったのだが、そのうち3年連続になり、今は5年連続のものになっている。

 振り返って読んでみたりするときには、連続ものの方がいろんな関連が解って重宝なのである。

  

 

2006年9月からは、殆ど毎日、ブログ雑感日記 https://blog.goo.ne.jp/rfuruya1 をアップしているし、私自身の人生がどんなものだったのかは、結構ちゃんと解るようになっている。

というのも『人の記憶』は頼りないもので、『思い違い』がいっぱいあるのが現実なのである。

 

★何をいまさら『日記の話?』と思われるかも知れぬが、

ごく最近、田崎雅元さんや、福井昇さんとカワサキジェットスキー物語』をスタートさせたのだが、大体のことは覚えているのだが、その年次が『頼りない』ので、日記や、日記を集約してノートに記録した『記録帳』をひっくり返して、チェックしているのである。

 日記を集約して、特に現役時代の会社の出来事を時系列に纏めているのが、ノートの記録帳なのである。

 一応、昭和28年(1953)から今のところ現役引退の2000年ぐらいまでの50年間は、4冊の記録ノートに纏まっている。

 

  

 

 いっぱい付箋がついているのは、この数日読んでみて、ジェットスキーに関連があるところに貼り付けたばかりなのである。

 これくらいネタがあれば、何とかジェットスキー物語も、ある程度正確に書けるだろうと思っている。

 メモ書きみたいなものだが、日記からの抜粋で、これくらいのレベルで書かれている。

 

   

 

  ご覧になれば解るように、結構詳しいのである。たった一行でもそれがどんなことだったのかは、『私には解る』のである。

 

 

    

 

 『苧野さんとKMCへ』 苧野さんとは私にも、田崎さんにも共通の上司の苧野豊秋さんなのだが、この時は国内のレース協会JJSBAの立ち上げのために、アメリカのIJSBAの承認を得るべく渡米して、当時のKMC社長・田崎さんにいろいろ仲介などお願いしたのである。

 その時の写真は、田崎さんから送って頂いているのだが、それが何時だったのかは、『結構正確に』解るのである。

 

    

 

     

 

 このページの一番上、10月18日に『ホテルオークラ、スイートに泊る』などの記述があるが、当時いつも『スイート』などに泊まる贅沢な出張をしていたわけではないのである。

 川崎重工業の大西副社長が来られていて、田崎さんと二人でKMCを、そのあとKMMは私がお伴してのご案内出張だったのである。『ホテルオークラ』とはロスのホテルオークラである。田崎さんも覚えておられると思うが、ホテルに着くと「部屋が取れていない」とホテル側は言うのだが、事情を話すと、すぐに『スイート』を特別価格で手配して頂いて、私と田崎さんはアメリカのホテルで『畳の部屋』に泊まることができたのである。

 

 この大西副社長との写真も、田崎さんが私に送って頂いたものである。

 

    

 

★私は、何故か文章を書くのは『苦にならない』ので現役の頃から、文章はいっぱい残っているのだが、当時はカメラも持たなかったしので、そのあたりを田崎さんが援けてくれているのである。 

 ひょんなことで、スタートした『カワサキジェットスキー物語』だが、こんな作業でなかなか忙しいのだが、この数日のうちに『カワサキジェットスキー物語 5』アップしようと頑張っているのである。

  

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カワサキジェットスキー物語 3

2018-11-28 08:05:51 | ジェットスキー&KAZE

★カワサキのジェットスキーのスタートは、1971年。発動機事業部内で、マリンレジャーの分野に進出すべしとの経営方針のもと、マリンプロジェクトチームが結成されたのである。

カワサキモータースジャパンのホームページにも、

『1971年 "エキサイティングでニュータイプのレクリエーショナル・ウォータークラフト"アメリカ人発明家ジャコブスのアイデアカワサキの技術力がコラボレート。これがジェットスキーのルーツとなった。』 

との記述があるのだが、どうもジャコブスという名前がちょっとだけ違うような気がして、福井昇さんなどにも聞いて調べて貰ったら、

アリゾナ州に住む元銀行員クレイトン ジェイコブソンが「エキサイティングでニュータイプのレクリエーショナル・ウォータークラフトを商品化してほしい」とアメリカのKMCにアプローチがあったのがはじまりで・・・』

と書かれたカワサキOBと思われる方のブログが見つかって、私が記憶しているヤコブセンという名前にも合うのだが、英文のスペルが解らないかと聞いたが『そこまでは解らない』という返事だったのである。

 

★昨日になって、田崎雅元さんにも聞いてみたら、今朝こんなメールが戻ってきたのである。ネットでいろいろ調べて頂いたようである。

 

カワサキ のホームページには、次の記載があります。1971年 "エキサイティングでニュータイプのレクリエーショナル・ウォータークラフト"アメリカ人発明家ジャコブスのアイデアカワサキの技術力がコラボレート。これがジェットスキーのルーツとなった。 

その後WIKIPEDIAで『Clayton JacobsonⅡ』の伝記を見つけました。

1933年10月12日生まれ、ノルエー系アメリカ人、JetSkiの発明家 などと書かれていて

 『彼の名前は クレイトン ジェイコブセン 2世 です。』ということで正確な名前が解ったのである。

 

この特許を購入してジェットスキーの導入を目論んだのは、当時の発動機事業部のメンバーの山田晴二・田中秋夫さん、その開発メンバーとしては藤川哲三さんや藤浦堯士さんなどで、アメリカのKMCは関係したのだが、明石の単車関係の人たちではなかったのである。

母体となったエンジンは発動機事業部のものなのだが、それがKMCのリンカーン工場に送られ、1972年から生産を開始し、73年度からアメリカのKMCだけで販売がスタートしたのである。

最初に世に出たのは1973年でそれはJS400で、『ジェットスキー』と名付けられたのである。 

 

    

  

 

★こんな Jet Ski なのだが、日本でも 西部自動車が逆輸入したものを、当時のカワサキオートバイ販売の孫会社であったKATという会社が少量だが同じ1973年から取り扱いを始めているのである。

 そしてその年早々に岡山の海水浴場で、砂浜で海水浴客と接触事故が起きたりして問題となり、当時の国会でその事故のことが取り上げられたのだが、『ジェットスキー』とは『カワサキの商品名』でこの商品を呼ぶ『一般名称』がないものだから、『エンジン付き海洋浮遊物』などという不思議な名前で呼ばれたりしたのである。

 実はその年の1973年8月に琵琶湖のマキノ町で開催した二輪車の『カワサキジャンボリー』にジェットスキー2台デモンストレーションを行ったのである。このイベントは当時の大阪・名古屋の母店関係の協働イベントとして、私が主宰者、平井稔男さんなども神戸営業所から参加してくれたのである。2000名の二輪愛好者が集まった大きなイベントで、その後マキノ町で毎年開催されることになるのである。

この時このジェットスキーを走行してくれたのは、当時マリン担当の栗本くんと、もう一人は当時はカワ販でジェットスキーを担当していた現姫路カワサキの社長さん島津龍さんだったのである。

2000人もの二輪車ユーザーの前で、ジェットスキーの初めての公開走行は、大変な人気で大成功だったのである。

 

★そんな1973年のジェットスキーの販売のスタートなのだが、主たる市場はアメリカのKMCだけで、日本では西武自動車がアメリカからの逆輸入で仕入れたものを、カワサキの国内販売会社の孫会社であったKATが僅かに販売に当たってはいたのだが、年に200台にも満たないようなレベルで細々とした販売が限られた愛好者の中で続いていたのである。

アメリカではその後2000台から5000台ぐらいのレベルの販売は続いていたのだが、特筆されるのはこんな全くの新商品なのにアメリカ人は独特の乗り方を編み出したり、1978年にはIJSBAというレース協会もできて、新しくレースをやり出したりしたのである。

           

   

アメリカ人は、動くものなら何でも競争の道具にしてしまう習性があって、ジェットスキーのレースも非常に活発に動き出したりしているのである。

 

    

 

 こんな写真を見ても、どうすればこんな乗り方を編み出すのか?

 そんなアメリカ人たちを満足させる何かを持っていて、ジェットスキーはなかなか『いい商品』だったのである。

 

    これは2018年、今年のIJSBAのレース風景である。

        

 

★ 日本でも西武自動車の関係者の間で静かにレースなどもスタートしていたのだが、川崎重工業の事業としては 発動機事業部の400・500ccのエンジンがアメリカに年3000台から5000台程度出荷されるだけのものなので、単車事業部は全く関係がないビジネスで1982年までは静かに推移していたのである。

そんなビジネスが、1983年に突然アメリカで大きく動き出したのである

1980年頃からはレースも始まって馬力不足が言われるようになって、改めて550ccへのボアアップチームが編成され藤川哲三部長、西田宏係長以下4名体制で開発が進められ、JS550が出たのが82年で、そのチームの一員に福井昇さんもいたのである。

私は今までは『JS550が開発されて、急に売れ出した』とばかり思っていたのである。

 然しよく考えてみると、二輪車もジェットスキーもいずれも民需量産商品で、別に受注数など決まっていない商品だから、造った台数以上には売れないのである。83年に突然アメリカで『それまでの何倍も売れだした』ということは、『それまでの何倍もの生産をした』ということでないと、一挙に2万台近くのジェットスキーが売れるわけはないのである。

これに気付いたのは、今月になって私に頂いた田﨑雅元さんからのメールなのである。

前回ご紹介したが、もう一度要点だけ再掲すると、

もう不必用な工場とまで言われているリンカーン工場、 孤軍奮闘の佐伯さんの姿を想い浮かべながら、再建のシナリオには無かった、私の判断で実行した対策が ジェットスキー販売の一挙格上げだった。 2000隻/年 規模の販売計画を、一挙に 20000隻/年に引き上げた。

 山田さんから無謀であるとブレーキがかけられたが、このプランを強行し、翌年に完売するという成果をあげ、以後ジェットスキーはリンカーン工場の製品でもあり操業度アップに大きく貢献し、KMCの主力商品となった。

リンカーン工場の活性化』のために一挙に年2万台の生産を行った『大博打』がジェットスキーに火をつけたのである

 

★別に当時の田崎さんと相談したわけではないのだが、明石の単車企画室にいた武本一郎さんが『ジェットスキーを川崎重工業の正規の製品にするべきだ』と熱心に言いだしたのは、間違いなくKMCの販売台数が一挙に倍増したからだと思う。 

当時明石の単車事業本部には一人のジェットスキー担当者も居なかったし、担当する部門もなかったのだが、彼の熱意に押されて、企画室内で担当しようと、私も動き出すことを決心するのである。

その時点では単車事業本部はジェットスキーについては何の関係もないので書類も残っていないし、何時のことだったのか定かではないのだが、突然の台数アップしだした後の83年の半ば頃ではなかったかと思うのである。

武本一郎さんは東大卒のエリートで、百合草三佐雄さんなど技術部などにもいっぱい同期がいて、その後彼なりの動きを秘かにやったのだと思う。何故か単車事業部内にジェットスキーに関する動きが出始めて、85年8月 鶴谷将俊さんがオーストラリア社長から戻って、企画でジェットスキーを担当してくれるころには、何となく『やろう』という雰囲気が事業本部内にもあったのである。

それ以降は、『新しいものを立ち上げる』私なりの独自の方法で『新しいジェットスキープロジェクト』が立ち上がり順調に進展してゆくのだが、翌86年3月、福井昇さんを、発動機から単車企画に貰い受けてから、鶴谷さんを中心に具体的に動き出すのである。

そういう意味では、83年から85年は静かな動きなのだが、86年度からはジェットスキー・プロジェクト』は一気に動き出すのである。

 

★このプロジェクトを立ち上げる決裁書などは全く存在しない。企画部門を任されている私の権限の中で独自に推進していったのである。

 『権限とは、その人に与えられた誤りの量である

私は自らの権限も、部下の権限も常にこのように考えていたのである。

当時の上司にも恵まれて、大庭浩本部長も、髙橋鐵郎副本部長も、財務関連・マーケッテング関連については、ほぼ100%任して頂いていて、具体的な指示などは一切ないそんな状況だったし、KMCを担当していた田崎さんに対しても、細かい指示などは一切なかった そんな体制だったのである。リンカーン工場の生産大幅増など、別に稟議など一切なしに田崎さんの独断で進められたものだと思うし、私もそんな計画だったとは、今月まで知らなかったのである。

 

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カワサキジェットスキー物語 2

2018-11-24 11:07:06 | ジェットスキー&KAZE

★何となくスタートした『カワサキジェットスキー物語』なのだが、ひょっとしたら結構長く続くかも知れない。

カワサキの二輪関連については、いろいろな記事も多いのだが、ジェットスキーについては、そんなに多くの記事が載っていない。Googleで『カワサキ二輪車の歴史』と『カワサキジェットスキーの歴史』と検索するとその差は歴然なのである。

何故かな?と思うのだが、多分ジェットスキーについては、特にその初期のことなど『語れる人』が極端に少ないからだと思う。

ジェットスキーについて語れる人』と言えば、今回この物語の発起人のような『福井昇・田崎雅元・私』それに具体的にヨーロッパ・国内・JJSBAを創っていった鶴谷将俊さんあたりが発信しない限りいつまで経っても、世の中には出ないのかな?と思ってしまうのである。

 今回はひょんなことから『この物語』はスタートするのだが、その核になった3人は『福井昇・田崎雅元・私』なのである。

 福井昇さんは。川崎重工業出身だが、川重の職位は単なる一係員だった。田﨑雅元さんは川崎重工業の元社長・会長を務めたトップなのだが、この二人を繋いで、『何かを仕掛ける』のは今回が初めてではなくて、実は2回目なのである。

 

      

 

 今はもうすっかり定着して神戸市と川崎重工の名物イベントになっている『ミニ鉄道フェスタ』だが、このイベントの発起人は、福井昇くんなのである。

 その案がなかなかオモシロそうなので、当時川崎重工の会長だった田崎雅元さんに繋いだのが私、川重の会長室を訪ねて最上階の専用レストランで豪華なランチをご馳走になったのが、2008年1月30日のことだから10年程前の話なのだが、鉄道マニアでもある福井昇くんの案を気に入って、翌日1月31日神戸副市長を田崎さんと私の二人で訪ねて『メリケンパークの使用』をお願いして、このプロジェクトは、その年の秋に第一回が立ち上がったのである。

スタートしてから3年程軌道に乗るまでは、私も福井くんも積極的にメンバーの核としてお手伝いしたし、田崎さんも熱心に参加して頂いたのである。

 言いだしべーは福井昇くん、イベントとして具体的に軌道に乗せたのは、写真のこの3人なのかも知れない。

 一番後ろに乗ってるのは、『500メートルレール』を作ってくれた古橋賢一さんなのである。

 

  

 

★そんなこともあったのだが、『福井昇・田崎雅元・私』の『トリオでの企画・実行』は今回で2回目なのである。

 一係員であった福井昇くんの案でも、『オモシロい』となれば、素直に受けてすぐTOPが動く身の軽さみたいなのが、カワサキの単車の持ち味だし、良さである。ちなみにこの舞台にもなった『カワサキワールド』は田崎さんの現役社長時代の産物なのである。

 今回の『カワサキジェットスキー物語』も、田崎さんから私へのメールからのスタートなのだが、私は昨日のうちに『福井昇』くんに繋いで、当時の事柄を時系列に並べて貰ったりして、『これはイケル』というような確かな感触を得たので、スタートしたのである。

 田崎さんからは『カワサキジェットスキー物語、面白くなりそうですね』というメッセージを頂いたりしてるので、ホントにオモシロいものに仕上げたいと思っている。

 

★スタートしてから『走りながら考える』これが私のやり方なのである。

 今まで殆ど誰も語らなかった『カワサキジェットスキーの物語』それを語ることができる、現存するメンバーは、『福井昇・田崎雅元・私』とヨーロッパ・国内市場とレース関連、JJSBAを先頭に立って引っ張ってくれた鶴谷将俊さんの4人だと言ってもいい。

 そんな鶴谷さんの写真、昨日は田崎さんから送って頂いた。

 

  

 

 そんなことで、スタートすることにする。

 カワサキの当時の『事業展開のやり方』がこの『ジェットスキーの事業展開』で具現されたと言ってもいい。

 それはどんな展開であったのか?

 『カワサキジェットスキー物語』どんな展開になるのか? 

 ご期待頂いていいと思います。

 昨日に続いての投稿だが、以降はもう少しゆっくりしたペースで頑張ってみたいと思っている。

 

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カワサキジェットスキー 物語 1

2018-11-23 07:01:26 | ジェットスキー&KAZE

★アメリカから戻ってきて以来、毎日田崎雅元さん(元川崎重工業社長)と長文のメールのやり取りが続いている。

私は昭和32年(1957)、田崎さんは昭和33年(1958)当時の川崎航空機の入社で、カワサキの単車事業スタートの頃からの仲間なのである。

それも最初のカワサキのレースに関係したレース仲間だし、明石工場から一番最初にアメリカ市場に渡ったのが田崎さんだし、国内の当時の代理店営業の中に飛び込んだのが私だったのである。

その後もいろいろとご縁があって、私が退職する1999年までずっと仕事上で繋がっていたので、会社でも40年以上のお付き合いだし、今も尚いろいろと繋がっていて、60年以上になろうとしているのである。

お互い80歳代半ばにもなって、昔々のカワサキ単車の想い出を懐かしんでいるのだが、昔話はなかなか楽しいものなのである。

 

中でも、まさに田崎さんと二人のコンビで進めたハーレーのダンピング問題の国内販社構造対策や、二輪事業最大の危機だった80年代、明石の企画とKMCの現地のコンビとして頑張った想い出は特別なもので、大袈裟に言うと若し二人がいなかったら、カワサキの二輪事業も全然違った道を歩いたかも知れないのである。

その殆どは『二輪車』のことなのだが、そんな中での『ジェットスキー』もその一つなのだが、単車と違ってこのジェットスキーの生まれ方は独特で、当時の単車事業本部の中でも、私と田崎さんほか関係者は数人しかいなかったし、そんな事実を語ることができる人も限られているのである。

ジェットスキーの生まれ方』が特異で、それは川崎重工業の製品として生まれたのではなくアメリカ人の発明家ヤコブセンの特許を購入し、そのエンジンは発動機事業部のものを使い設計担当も発動機の人たちなのだが、生産したのはアメリカのKMCのリンカーン工場で、その販売もKMCがアメリカだけで売っていた『継子』のような製品だったのである。これはジェットスキーだけではなくて『スノーモービル』も同じような形でKMCから販売されていたのである。

それ故に当時の単車事業部の明石工場のメンバーは、誰一人ジェットスキーに関係していなかったし、ジェットスキーに乗れる人すらいなかったのである。そんな1982年頃、KMCの社長をしていたのが田崎さんで、当時の単車事業部でジェットスキーにに乗れたのは『田崎さん一人』だったかも知れないのである。

そんな昔話の数々を思い出しながら楽しくやり取りをしていて、これは40代半ばの田崎さんである。

 

    

 

★その頃、私は明石の企画、田崎さんはKMC社長で、別に相談したわけでもないのだが、何とか『ジェットスキーを川崎重工業の正規の製品にしよう』と目論んでいたのが当時の企画部門の武本一郎さん(故人)で、その長をしていたのは私なのである。そんなこともあって当時のことを一番具体的に知っているのは『田崎さんと私』でそのあたりの昔話は二人にしかできないオモシロい物語なのである。

ただ、当時は単車事業部の正規の製品ではないので、事業本部の中にも正規の書類などが残ってなくて『記憶』だけで追っかけてるのだが、当時発動機でエンジン開発担当であった私と同期の藤川哲三さんやその下にいた福井昇さんなどにも、いろいろ記録を教えて貰おうとしているのである。

 福井昇さんはジェットスキー関係者の中でも超有名人だからご存じの方も多いとは思うが、彼は私が『ジェットスキーをカワサキの正規製品にしよう』と企画で画策した時に、藤川哲三さんに頼んで発動機から単車企画に貰い受けて、それ以来私などと一緒に、ジェットスキーのヨーロッパや国内市場の立ち上げに尽力してくれたし、ジェットスキーの国内販売網を専門店で創ろうとした時には、川重を辞めて実質1号店として正規販売店になってくれたり、その後のJJSBAのレース関連でもいろいろ手伝ってくれたのである。

 福井昇さんとはFacebook で今も繋がっているので、幾つかの質問を投げかけているのだが、早速こんな返事が来たので、この際私や田崎さんや福井さんなどにしか解っていない『カワサキのジェットスキー物語』を纏めてみようかなと思っているのである。

御元気そうで何よりです。 JS ストーリーの件は了解を致しました。後日、PCから詳細を御報告させて頂きます。 古谷さんの、あの時代に対するhistoryが凄く懐かしく、又何処かに熱くなるもの目覚めさせてくれます。』

       

             

 

★ そんなジェットスキーの成り立ちなのだが、1982年に従来5000台ぐらいで推移していたジェットスキーが一躍2万台の大台に乗って、当時のKMCの再建計画でも大いにプラスになったり、その後単車事業部での正規製品にするためのきっかけになったのだが、2万台を一挙に売るためには2万台を造らないと売る製品がないのだが、これは当時のリンカーン工場の経営を支えるために、田﨑さんが打った大博打だったようで、なぜ一挙に2万台も売れたのか? これは私も今回初めて知ったのである。

 ごく最近、田崎さんが私に送ってくれたメールにそのことが書かれている。原文のままご紹介する。

 

もう不必用な工場とまで言われているリンカーン工場、 孤軍奮闘の佐伯さんの姿を想い浮かべながら、再建のシナリオには無かった、私の判断で実行した対策が ジェットスキー販売の一挙格上げだった。 2,000隻/年 規模の販売計画を、一挙に 20,000隻/年に引き上げた。

 山田さんから無謀であるとブレーキが、かけられたが、このプランを強行し、翌年に完売するという成果をあげ、以後ジェットスキーはリンカーン工場の製品でもあり操業度アップに大きく貢献し、KMCの主力商品となった。大博打のように見えるが、私のアンテナにはいろいろな情報がキャッチされていた。その一つが、地方紙を含む全米のマスコミ情報サービスである。 わずかでも KAWASAKI と表現された記事、ニュースは 毎日集計され、社長室に届けられる事になっていたが、ジェットスキーに関するものが日増しに増加していた。また内容は、イベントに使われたり レース活動も活発になり、 特に、市長 議員といった人達がイベントで自ら操縦して、自分の存在をアピールする姿がめについた。

さあ、この商品は 河川の暴走族ではなく、社会との共生が認知されつつある。 ママが主人や息子に、「危険だから買っては駄目よ!」 というネガティブなプレッシャーも減少傾向、 時は今 と一勝負に出て成功した事例である。

 但し、二人乗り安定型の投入が遅れた事には大きな責任があり、私の失敗事例である。 試作品のジェットメイトを試走して、遊園地型で全く面白くないとその後の開発にネガティブな対応をしてしまった。 購買動機に「お前も 犬も のせてやるよ!」が必要だったのかも?

 

 

★ここに出てくる山田さんとは、当時の川重山田副社長のことであり、佐伯さんとは後、田崎さんが川重社長の時、副社長として支えた佐伯武彦さんのことである。

スノーモービルはその後撤退することになるのだが、それにも田崎さんは絡んでいて、このような感想を寄せられた。

その一部をご紹介する。

 

北米では暖冬が続き、販売が伸びずに在庫がたまる一方のスノーモービルが問題になり、この事業から撤退するべきだという意見は、KHI本社部門を中心に単車事業部の中でも数年間繰り返されていて、私がKMC社長として渡米する時には、これは決定事項になっていた。

 この事業の生まれ方は明石の単車事業部としては「実の子」とは言えない異常な生まれ方をしていた。ヤマハのエンジンを搭載してスノーモービル事業を展開していたカナダのスノージェット社からKMCが事業を買い取り、ミネソタ州のシャコピーに開発センターを設け、リンカーン工場で生産し、KMCが販売する、という仕組みで、明石工場の立場は発動機事業部がエンジン のサプライヤーとしてのみ関与するという形であった。

 単車事業部としては、製品企画、設計開発、生産技術、品質保証、アフターサビス等の関与なしに生まれた製品であり、関心のない人がほとんどであった。図面はインチサイズ、明石には図面、部品表、取扱い説明書、etc 何もなかった。

後に、この反省から米国で生まれたジェットスキー、四輪バギィー車などは全て単車事業部の仕組みの中で「実の子」として育てていくことになる。「販売する製品には十分な係わりを持ち愛情を持って育てなければならない。」これも私の信念になった。ジェットスキーもバギー車もチャンスがあれば自分で試乗して愛情を育むよう心掛けた。

 

 ★昔の資料の整理をしながら、田﨑さんや福井さんの資料も入れながら、他の方には書けない『カワサキのジェットスキー物語』を書いてみたいなと思っているのである。

 

 

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