雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

私の定年後の生活 75歳 2008年

2018-03-17 08:26:29 | 自分史

★ Mixiや『ひょこむ』といったSNSで繋がった仲間たち、そんな前年度の動きを背景に、この2008年は具体的に活動する『イベントの年』となったのである。それは4月に三木山森林公園で開催した『どこ竹の竹とんぼ』と 5月末と11月に開催した『ミニSL鉄道フェスタ』であったと言っていい。

この年あたりからはブログに写真なども残されているのでそれをご紹介しながら思い出してみたい。

 

★ まずは、『どこ竹の竹とんぼ』だが、この年の2月に書かれた堀池さんのブログだが、前年の7月にひょこむの中のブログに私が『コメント』したことから始まっているのである。

    http://blog.livedoor.jp/sukoya2008/archives/665978.html

 

   

 

そして私は、2月の末にこんなブログをアップしているのである。

 

竹とんぼの不思議な集まり

すこやさんのブログの読者からのアクセスがあって、すこやさんのブログを見つけた 

そこになぜ私とすこやさんが繋がったのかが正確に書かれてある。・・・・

1.地域的には、東京、三木、神戸、加古川、明石の人たち広い範囲に。
2.定年後の年寄り、サラリーマン、一般人、議員さん、役所の職員、JCの若手など。
3.小学生から20,30,40,50、60、70代まで。
4.主催、ひょこむのコミユニテイ「どこ竹の竹とんぼを飛ばそう会」ひょこむに入れば、何時でも、誰でも参加できる。
5.講師、どこ竹@竹とんぼ
6.三木山森林公園、肥後の守、JC、三木市、教育委員会なども協賛。
7.連絡などひょこむのシステムで。一切お金など要りません。だから成り立っている。
8.ネットの上での繋がりで、会ったことがない人同士が、連絡し合って実現に。
9.みんなメンバーの紹介で新しい輪が出来るのが楽しみ。

このプロジェクトのきっかけは、近畿MFJふれあいミーテングで山本隆君と会って、竹とんぼの話をしたのがきっかけである。総勢70人以上になるのだろうが、ホントに珍しい人たちがヨコ一線に集まるのである。盛況になりそうだ。・・・

 

★ 大成功だった。

こんなどこ竹でした』とこんなブログをアップしている。

  https://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/d9f13f2422e6e5ae5d771fb4dfbe91bb

 

  

   

 この『どこ竹の竹とんぼ教室』に参加してくれた人、山本隆・草間透・登山道夫さんなど今でも繋がってるし、三木市役所の職員さんたちも部長さんも課長さんも、ひょこむの和崎宏先生も、参加して頂いた懐かしい『イベント』だったのである。

 

 

★もう一つのイベント、『ミニSL鉄道フェスタ』は、10年経った今もこんな形でメリケンパークを会場に、川崎重工業のカワサキワールドの人気の定期行事として定着しているのである。

    

 

 

この話の経緯は

● カワサキJSの福井昇くんは大の鉄道マニアで、今は廃線にはなっている『ハーバーランドから灘あたりまであった鉄道を復活して汽車を走らせたい』ので、管轄の神戸市に顔の効く『田崎さん』に繋いで欲しいというのである。

● 灘まではダメでもハーバーランドからカワサキワールドの1キロぐらいなら何とかなるかなとは思ったのだが、一気にそんなことを言ってもダメだから『ミニSL』でも走らすことから始めたらということで、1月30日に、私と福井昇くんと、小川優くんとで田崎雅元川重会長を訪ねたのである。すぐ田崎さんは動いてくれて、翌日田崎さんと私で神戸市の副市長を訪ねたのである。

●神戸市はまずは『ハーバーランド』ではなく、『神戸フルーツ・フラワーパーク』の方で客集めにやって頂けないかということで、5月末に2日間『神戸フルーツ・フラワーパーク』に全国から50台のミニSLを集めての実施となったのである。

●当日はテレビカメラも来るほどの、大盛況だった。

  

 

 

 

 

●川重の鉄道友の会のメンバーも協力してくれて、今もFacebook で繋がってるカワサキワルドの吉田 高広さんや神戸市の藤田 修司さんともこの時からのお付き合いなのである。

 

  

  

 

 

★そしてこの年11月には念願の神戸ハーバーランドの『カワサキワールドの前の広場』での開催が実現するのである。

神戸フラワーパークの時は、お客さんが多すぎて『すべての方を乗せきれなかった』ので、ハーバーランドではカワサキワールドの入場券の半券を『乗車券』としたのである。

このイベントのスタートから何年間か軌道に乗るまでは私もその仕組みの創造に真ん中で手伝ったし、それを後押ししてくれたのは当時の田崎会長なのである。

そんな『最初に井戸を掘ったメンバーたち』を紹介したい。

 

まずは『言いだしべえ』の福井昇くん、自宅の庭にもレールが敷いてある鉄道マニアなのである。

この人が私に言ってこなければ、このイベントはなかっただろう。 ちなみに福井昇くんが現役時代手伝ってくれなかったら『カワサキのJSの世界展開』もなかったかも知れない。当時川重の中で JSに乗れるのは単車ではなく発動機事業部の福井昇くんだけだったのである。それを私が発動機の藤川哲三さんに頼んで貰い受けて、単車でのJS事業展開となったのである。さらに言えばその当時川重のメンバーでJSに乗れたのはKMCの社長をしてた若き田崎雅元さんの二人だったかも知れないのである。

そんな関係だったので、私も福井くんも田崎さんに頼みやすかったのである。

 

  

 

     

 

 そして全国のマニアたちを纏めて連れてきて頂いたのが、内山さんなのである。

 

   

 

 川重の中で、そのスタートから手伝ってくれたのは『吉田高広・古橋賢一さん』 である。

 吉田高広くんは、今でもカワサキワールドの担当だし、このイベントの担当でもある。

このイベントでの一番問題であった『500メートルのレール』を作ってくれたのが古橋賢一さん、その大量のレールの保管や運搬は川重の或る部門が協力してくれている。そんなみんなの協働で、このイベントは成り立っているのである。

 

  

 

 スタートから手伝ってくれた田崎さんは、カワサキワールドを社長時代に残しているし、このイベントにも最初から協力して頂いた。

 頼みに行った翌日に動いてくれて、神戸市の副市長に会ってこのイベントはスタートしたのである。

 

   

 

  2008年、10年前は私はこの二つの『イベント』に係きりだった年だとも言えるのである。

現役時代から、レースに始まって、モータショーも担当したし、後半は『ケイ・スポーツ・システム』という『遊びのソフト会社』を立ち上げたり、『イベント』については結構自信もあるし、手掛けたイベントは全て『大成功』だと言ってもいい。

そんな傾向は定年後の75歳を過ぎてからも続いて行くのだが、これはその初年度だったと言ってもいいのである。

 

  

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私の定年後の生活 74歳 2007年

2018-03-10 06:32:09 | 自分史

★2007年74歳になった年だが、この年から私の新しい人生が『実質的にスタート』したその初年度だったと言っていい。

 今までの人生73年と全く違ったそんな生活が始まったのである

  

この年から私の当用日記は、今までの3年連続のものから新しく『大型5年当用日記』に変わったのだが、そのスタートにこのように記述しているのである。

この日記最後まで書けるであろうか? 今と同じぐらいの元気さで書き終えたいと思う。昨秋9月9日にスタートしたブログは、果たしてどのように推移するのであろうか? いろんな新しい人との出会いが楽しい。今年もまた新しい人の出会いがあるのだろう。・・・』

今思い返してみると、74歳の頃の方が将来5年先に一体どんな感じになるのか、全く予想が付かずに心配していたように思うのである。それから11年の年月が流れて、後期高齢者になってからの生活にも慣れて、『老い』と言うものの進行も鍛えさえすれば、それほど衰えることもない現実を経験した今の方が何となく、『何とかなるようになる』と言うようなところがあって、あまり心配もしないようになってしまったのである。

 

前年ブログを始めて、このネットの世界と言う『新しい世界』の全く予想もしない『数々の現実』が目の前に現れ始めたのである。

前の年の9月にブログを始めたら、11月には思いもしない『樋渡啓祐武雄市長』と突然出会って驚いていたら、年が明けて2007年には初めての経験の連続で、その一番最初が、『ブログへの写真の貼付』だったのである。

元来、私は全くの技術オンチだから、ネットの世界の新しいことなど、自分ではなかなかできなくて、当時はリンクを貼ることも、写真の貼付なども全く未知の分野だったのだが、たまたま正月に遊びに来ていた息子の方の孫の仁に写真の貼り方を教えて貰って、下の写真が私のブログの記念すべき最初の写真なのである。

その時はまさに天にも昇るような気持ちになったことを今でもよく覚えているのである。

 

         

 

  これは後、Snipping Tool が使えるようになってからの写真だが、日時にあるようにまさしく2007年1月1日のブログなのである。

 

★ こんな写真や、リンクなどと言うネットの技術的な経験も初めてだったし、今まで何の関心もなかった『三木市政関連』では、市長メールでいろいろと提案したら、逆に頼りにされてしまって、三木市長の薮本吉秀さんから、『2月1日に会いたいと』いう申し出を頂いたりして、当方からは三木市役所の若手の方ともお会いしたいと申し入れたら、16人もの有望若手職員の方が集まって、『三木のイメージの向上』に関しての座談会のような雑談会があったりしたのである。

この時、お会いした若手の方たちとは、その後何年も継続して、いろんなことをやるきっかけとなったし事実いろんなことが起きるのだが、三木市長さんからは、その時にはすでに私とは繋がっていた、佐賀県武雄市の樋渡啓祐市長と繋いで欲しいということになり、薮本市長が2月14日に武雄市を訪ねられて、三木市と武雄市は提携関係となり、職員の相互乗り入れなどが実現したのである。

こんなことになったのは、かって樋渡さんが市長公室長をされていた『高槻市のやり方』を『三木市の市長メール』でつぶさにご紹介したからなのだが、そのご本人の樋渡啓祐さんとは、5月28日の樋渡武雄市長の三木市訪問の時に、私も初めてお会いすることになったりするなど、予想もしないようなことが続いたのである。

 

★ブログをスタートしたことで、その中で取り上げた『カワサキ単車の昔話』は単にユーザーだけでなく、専門紙のネットなどにも取り上げられて訪問者も増え、いろんな二輪関連の方たちと繋がったのだが、中でも 三木市のアネックスパークを舞台に、ヴィンテージモトクロスイベントON ANY SANDA を主宰されている方からのコメントで、旧い昔のレースライダーたちとも再会することになるのである。

 モトクロスということで永く疎遠になっていた、山本隆くんとの再会があり、https://blogs.yahoo.co.jp/motoyrs_spl 

さらに彼の勧めで2月4日には大阪であったMFJの近畿地区「ふれあいパーティー」に出席したら、金谷秀夫・和田 将宏 ・吉村太一・田中隆造・北川 圭一 というホントに懐かしいライダーたちに会えて、一挙に私の二輪の世界が復活したのである

久しぶりに会った金谷秀夫は、この時カワサキZ1会のゴルフコンペに誘ったらすぐ入ると言って、この年6月6日かっての金谷のメカニックを務めた藤原良さんなどと同じ組でラウンドしているのである。以来金谷はZ1会には以後何年も参加し続けていたのである。

この時の私のスコアはもう一つだったが、5月にあった硬式野球部と軟式野球部のコンペでは40:42で優勝などしてるので、未だその頃はそんなスコアで回れていたのである。

 

 そして、4月22日には、三木アネックスパークのON ANY SANDA に山本隆を引っ張りだしたら主宰者は大喜びで、山本隆のためにF21Mを都合してくれて、思いもしない荒井市次くんとの一騎打ちが実現したのである。

 

     

 

 これはその時の写真だが、当時のブログにこんな風に書いている。

 『元、全日本モトクロスチャンピオン、荒井市次70歳、山本隆63歳
本当にその走りは素晴らしく、40年以上経った今も、昔のままと思えるレベルに近い走りを展開して、観る人みんなが驚いたと思う。
メインレースの浅間では、二人が他の出場者を完全にぶっちぎってのバトルを展開した。二人の現役時代の凄さをよく知っている私には、昔そのままの荒井と山本がそこにいるように思えた。』

 荒井市次くん、この2年後に惜しくも逝ってしまったが、彼にとっておそらくこれが最後のレースになったのだろう。

彼はヤマハだったが大阪出身で現役時代から、カワサキにも遊びに来てたし私は何となく繋がっていたのである。かって山本隆くんが未だ新人の頃、日本のモトクロス界は、久保和夫・荒井市次のお二人がその頂点にいてみんなの目標だったのだが、そのあとを引き継いだ山本隆との一騎打ちは、昔を彷彿させる素晴らしいものだったのである。

 

★ 同じくカワサキの二輪関連なのだが、私の後のレースマネージメントを引き継いでくれた『故岩崎茂樹くんのこと』を書いたブログには本当に沢山のコメントが寄せられたのだが、その中のお一人が『登山道夫』さんなのである。

  

 その時寄せられたブログのコメントである。

  

このコメントが寄せられたのが、2月8日なのだが、登山さんの三木のお宅を私が訪ねたのは、5月14日のことで、登山さんとのお付き合いは、ここからスタートしているのである。

それからもう11年の歳月が流れているのだが、この登山道夫さんとの出会い』が三木の緑が丘と言う同じ町内であったし、登山さんが熱烈な『カワサキZ1のファン』でもあったことから、いろんなことが始まり、その後の NPO The Good Times などの活動も若し、登山さんとの出会いがなかったら、実現はしていないと思っている。

登山さんはあまりネットのことなど詳しくない『私のネットの先生』もして頂いていて、私のネットの知識の、ベースの部分は全て登山さんから教わったものだと言っていい。定年後に始めたパソコンだが、私は『パソコン教室』などには一切行っていない独学だが、先生に代わる人や機能は、結構ちゃんと準備はしているのである。

 

★ この年から、ネット関連では 前年スタートしたブログもこのgoo のほかにExcite ・Yahoo・FC2・むらブロなど、いろいろやってその機能の特徴などもチェックしているし、Mixi に誘われてスタートしているのだが、秋には兵庫県が支援するSNSひょこむ』に参加して、そこに『カワサキワールド』なるグループを立ち上げ、文字通りカワサキのユーザーたちを誘って、『ひょこむ』の中ではTOP グループを形成し、この主宰者の和﨑宏先生とも繋がったりするのである。

そしてこの秋以降のいろんな活動はこ『ひょこむ』ベースで進んだのである。  https://hyocom.jp/

今も尚登録は、あるのだが、その後 Facebook などの出現があって、殆ど活動はしていないのだえる。

何事も、やりかけるとどんどんハマっていく性格で、この年にはブログに、SNSに完全にハマってしまっているのである。

 

★娘の孫たちはアメリカ、未だ娘婿がノーリツに務めているころで、この年も夏休みに孫たちと1ヶ月ほど帰省し、その帰りには家内が一緒にアメリカに渡って、この年は『1ヶ月半』にその滞在が伸びたりしているのである。

 この年、三木にはビーンズ・ドームが出来た年である。

今年中日に入った松坂がアメリカレッドソックスでデヴューした年でもあり、大阪に橋下徹さんが府知事に出馬するかしないかと騒がれた年でもあるのだが、兎に角私にとって特別の年となったのである。

 

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オーストラリア旅行の想い出

2018-03-01 04:58:41 | 自分史

★ この写真、昨日ジムに行ったときに鏡に映ったのを撮ってみたのだが、このセーター結構気に入っていて冬になったらよく着ているのだが、 とふと思ったのである。

 

                     

      真ん中のマークは、こんなマークで Blue Mountains Austraia と書かれているのである。

           

 

家内とオーストラリア旅行をした時に、ブルーマウンテンのショップで買ったものだが、何時頃だったのだろう? 

ずっと昔で20年以上前のことだが、よく思い出さないので、家に戻って旧い日記をひっくり返してみたのである。

 

1992年の11月のことで、もう26年も前だから、よく着続けているものである。

よく洗濯もするのによく持っているので、オーストラリアのものは質がいいのかな? と思ったりしてるのが感想なのだが・・・

 それにしても人間の記憶は頼りないものである

 日記をひっくり返したら、いろんなことが書かれているのである。

 

● この旅行は、1992年11月13日から20日まで、『結婚30周年記念旅行』だったのである。

 家内との初めての海外旅行で、フライトとホテルだけとってあとは全て『自由行動』なのである。未だ59歳現役だが、この期間、会社の従業員は慰安旅行だったのでその間に『オーストラリア旅行』を起案したようである。

 日記を読み返していたらいろんなこと思い出してきたが、こんな旅行だったのである。

 

● 出発は11月13日の金曜日、『13日の金曜日』と言うだけでも嫌がる方が多いのだと思うが、さらに『仏滅』であったようである。

 この旅行は、オーストラリアの東海岸ケアンズから、ブリスベン・ゴールドコーストを経て、シドニーと言う『新婚旅行用のコース』なのだが、『13日の金曜日で仏滅』とあってJALはガラガラ、なぜこんなにガラガラなのかと、乗務員に聞いたら多分『日が悪いからでしょう』と言う返事で、やっとそのことが解ったのである。

 お陰様で横になっての楽な空旅だったのである。

  

      

 

 

 ● まずはケアンズについて翌朝、ケアンズの東にあるグリーンアイランドに行っている。

   

 

 こんな小さな島だが、まさに自然いっぱい、水がめちゃくちゃ綺麗で、潜水船で魚群を観たりした。海岸で泳げたのが最高だった。

   

 

 

● 11月15日は、レンタカーを借りて、ケアンズ周辺340キロのドライブをしている。国立公園から地図の左下の湖を見て、アサ―トンから、北に上がって、Kuranda まで一周してきた。『目的地以外は人がいない』と感想を書いている。まさに自然の中のドライブだったようである。海外でレンタカーを借りて走り回るのは、アメリカでもドイツ・フランス・スペイン・イギリスなど慣れているので、別にいつもの通りなのである。特にオーストラリアは日本と同じ左通行、車は右ハンドルなのがいい。道は空いてるし時速100キロでは走れるので、そんなにきつい行程ではないのである。オーストラリアの田舎が観れてよかった。

 

    

 

 

● 11月16・17日は、『ゴールド・コースト

 ここでは普通の観光客とほぼ同じような行動、コアラの抱ける公園や、遊園地にも行ったし、夜カジノに行ったりしている。

 

        

 

 

● 11月18・19日 はシドニー。 

 シドニーにはカワサキ・オーストラリアもあるので、私自身は何度も行ってるので様子はよく解っているが、湾内のクルーズなども楽しんだし、夜はカワサキの現地の社長さんご夫妻に、デイナーに招待して頂いたりしたのである。

 

   

 

  そして翌日は、レンターカーを借りて、ブルーマウンテンズ国立公園までのドライブ、そこで冒頭のセーターを買っているのである。この旅行、結婚30周年記念で家内に感謝の旅行みたいなものだったので、私はこんなセーターだけだが家内はいろいろ買っていた。オパールなども買ったようだが、今でもあるのだろうか?

    

 

 

 ブルーマウンテンズ国立公園 はこんなところである。この時期は未だ、カメラを持っていないので、自分で撮った写真は1枚もないのが、今となっては残念なのである。

       

 

 

★ この『結婚30周年記念旅行』の最後の夜は、これは私の人生で一番豪華なデイナーだったと言っていい。

YAMAHAさんが、私がシドニーに旅行すると聞きつけて、YAMAHAのマリーナの中にある Dory's と言うレストランにお招きいただいたのである。 

それは素晴らしいレストランで、その中でも海に一番近い『特等席』をご用意頂いて、豪華なデイナーをご馳走になったのである。

すべての席がカップルで、日本人など一人もいない不思議な雰囲気の中でのデイナーは、それまでには経験したことのない素晴らしいものだったのである。

私は業界のお付き合いも結構長くて、ホンダさんとも、スズキさんとも仲良くて、BMの前に載ってた車はアコード、娘のバイクはスズキ、私のゴルフクラブはヤマハだったのだが、特にヤマハさんとはジェットスキー関連ののPWCA協会で、いろいろと2社だけでのお付き合いがあったし、その協会会長をやったりしたものだから、特に親しかったのである。

 

  ひょんなことで、セーターからいろんなことを思い出したのである。

  何はともあれ、『想い出』はいいモノである。

 

 

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私の定年後の生活 72歳 2005年

2018-02-25 06:57:41 | 自分史

★ 2005年はこんな年だったようだが、大きな出来事と言えば、JR福知山線の大事故があった年である。

 このころは未だ、家内と神戸に映画など観に行く機会も多くて、この事故があった日には映画を観に行っていた。映画を見て出てきたら、事故の報道などやっていたので、その日のことはよく覚えているのである。

 

       

 

 日記を読み返してみても、特に大したこともなく平穏に過ぎて行っている感じである。

● ストレッチや運動の成果が出て体調はよくなってたようである。60歳後半から70歳初期にかけての膝や腰の痛みも無くなって、体重74キロ体脂肪率24%とあるので、だいぶ身軽である。ちなみに昨今はジムでトレーニングしているからか、筋肉は間違いなくついて体脂肪率は30%あったのが27%と減ったのだが体重は逆に増えて83キロにもなってしまっている。

そんなことでゴルフも未だ快調で、Z1会で優勝してハンデイ7となったりしている。できれば今年はゴルフは頑張ってみたいなと思っている。

● 『パンダ碁』を熱心に打っていて、2月には二段になったとの記録がある。

 

    

 

  よくできたシステムで、勝てばどんどん級が上がるし、負けが込むとどんどん下がるのである。

 二段は出来過ぎだと思うが、『初段』ぐらいの実力かなと思っているのだが、いまは9211勝9218敗で2級で打っている。別に弱くなったとも思わないのだが、集中して考えるのが面倒になったのと、下の人と打つといろんなことを試すので負けが混んだりするのである。1級や初段の人と打つと逆に勝つ場合が多いから不思議である。

 パンダ碁は月間2000円ほど払えば『打ち放題』だから世界の人と好きな時に碁が打てるし、時間つぶしと、アタマの体操には最適で最近でも日に5局以上は間違いなく打っているし、今後もずっと続けることになるだろう。

今7つほど負け越しているが、あと2つほど勝てば1級に戻るし、10ほど勝ち越せば初段になるのだと思っているのだが、それがなかなかムツカシイのである。2年程前までは常に20ほどの勝ち越しが普通だったのだが・・・・

 

● 今パソコンを置いている1階の部屋にエアコンをつけたとの記録がある。 多分それまではパソコンんも2階に置いていたのだが1階に移して今のようなスタイルにしたのだと思う。

 この年は未だ、ブログもやっていないし、パンダ碁ぐらいなのだが、10月には『ひかり電話』にしている。

 今も尚『ひかり電話』の機能が如何なるものか? 

 何がメリットなのかもよく解ってはいないのだが、兎に角『ひかり電話』になっているのである。

 

  

 

 最近も、いろいろと『安くなる』とかの勧誘の電話が掛かってくるが、よく解らないのですべて断ることにしている。

今我が家の電話代は携帯電話料がないので大体月5000円ぐらいだから、これ以上安くなっても大したことにはならないと思っているのである。

 それにしても『何のメリット』があって『ひかり電話』にしたのか、全く解っていないのである。

 

●この年の出来事では、夏にアメリカに行った娘と孫が1ヶ月半の夏休みで日本に戻ってきている。このころまでは未だ娘婿がノーリツに勤めていたので帰省費用も出ていたのである。

 娘たちが戻ってきたので、逆に留守番をして貰って、家内と二人で東北旅行を楽しんでいる。東北6県は若い頃に4年もいて東北の人以上に詳しいのだが、昔に行ったところを懐かしむ旅で秋田からレンタカーを借りて青森・岩手・宮城と温泉を回ってきたのである

 娘たちは9月半ばにアメリカに戻ったのだが、その時家内も一緒にアメリカに遊びに行って1ヶ月滞在しているのだが、これが家内のアメリカ行きの最初である。それ以降毎年続いていて、最近は1ヶ月が2ヶ月に延びているのだが、もう10年以上も続いていて、その間私は独身生活を楽しむパターンはもう経常化してしまっていて、さらにこの5年などは私もそのうちの1ヶ月を同行するパターンになっているのである。

 

● この年までは、定年後の静かな生活が続いていたのだが、翌2006年から、ひょんなことからいろいろなことが始まるのだが、そのベースになっているのは、ネット・SNSなのである。

 パソコンから外に向かって発信しだしたのは2006年からなのである。

 そういう意味では、『私の新しい人生は73歳から始まった』と言えるのかも知れない。

 

 

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私の定年後の生活 71歳 2004年

2018-02-17 06:44:42 | 自分史

★2004年、71歳。

 この年の出来事を見てもよく覚えていない。ある意味平穏な年だったのだろう。

 

  

★この年、私の周辺であった大きな変化は、神戸の西神と言う三木のすぐ近くに住んでいた娘一家が、アメリカに移住したことである。

 娘婿がノーリツのアメリカ市場進出に伴いアメリカ勤務になったからである。男の子ばかり3人の孫たちが未だ小学生の頃で孫たちと遊んでやるのが、結構な私の仕事であった。

特に真ん中の真也は未だ小学2年生の頃で、川での魚取りや、森でのカブトムシ採りなどに引っ張りまわされていたのだが、8月からは一切それがなくなってしまったのである。

そんなことから、私の生活のパターンがちょっと変わっていったのだと思う。当時は既にパソコンも既にあったのだが、ネット関係もパンダ碁を打つぐらいだったのだと思うが、この年の年末に初めてデジカメを買っているのである。

 私はそれまで、カメラなるものを持ったことがなかった。写真を撮るのに手間がかかり過ぎるのがどうしても自分で写真を撮ろうと思わなかった理由である。カメラを買う、写真を撮るのはいいのだが、そのためにはフィルムを買う・現像する・それを選んで写真にする・一緒に撮ってあげた人にあげる・アルバムに貼る・・こんな一連の作業が面倒で、どうしても自分で写真を撮る気にはならなかったのである。

 現役時代には結構世界を回ったし、日本でもいいところいっぱい行っているのだが、『自分の目で確り見る』ほうがいいなどと変な理屈をこねて、現役時代は他人様から頂いた写真以外はないので、今から思うと勿体ないことをしたとは思うのだが・・・

デジカメを買おうと思ったのは、そんな手間が一切なくなったことと、多分もう一つは『孫の世話の手間』の時間が無くなったから、『何か新しいこと』をしようかと思ったのだと思う。

  

           

 

  これがこの翌年、アメリカから遊びに戻ってきた孫を撮った写真なのである。

最近は毎日のように撮っている写真も、スタートしたのは2005年のことなのである。

それにしても孫たちのアメリカ生活も14年も経つのである。

英語がペラペラで、アメリカ人のような発想になるのも当然なのかも知れない。 そんな転機の年だったとも言えるのである。

 

★この年の初めごろのことだが、初めてアメリカに進出する『ノーリツ』だったので、その担当となった娘婿にKMC『いろいろ教えてやって欲しい』とお願いしたのだが、娘婿から『KMCの太田さんと言う方にお世話になっている』とのメールが届いたと日記にあるのだが、ひょっとすると今カワサキの二輪事業のTOPの 太田さんではないかな? と思ったりしているのである。

私は面識はないのだが、確かKMCに出向されていた時期があるはずなのである。

ちなみに『ノーリツ』の創始者の太田敏郎 さんは、カワサキの副社長もされた髙橋鐵郎さんの海兵時代の同期で、その弟の太田武郎さんは私の大学の野球部の2年先輩でもあったので、元々カワサキとノーリツはいろいろ関係もあったのである。この件もすぐ髙橋鐵郎さんの耳に入って、直接電話など頂いたりしたのである。

そのほかこの年で特筆することを上げるなら、今も続いているゴルフコンペ『Z1会』にこの年9月に入会している。この入会を誘ってくれたのは、大槻さんや稲村さんと言うこの会のトップではなくて、カワサキの6時間耐久ロードレースを最初に走った当時のテストライダーの飯原武志くんが声を掛けてくれたのである。この会に入会したお蔭で、その後の私のゴルフライフが続いているのである。

定年後ずっと続いているストレッチの効果がやっと出始めたのか、日記に『足腰の調子がいい』などとの記述がある。ストレッチを始めて3年目にしてやっと効果が出てきたのかも知れない。最近は腰は重くなったりすることはあるのだが、基本的に全く問題はない状態が保てているし、柔軟性は毎年少しづつだがよくなっているのである。

 

私の70代のスタートは静かに始まったのだが、何となく『新しいことを始める』環境が整ったそんな年だったのかも知れない。

 

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カワサキの昔の仲間たち

2018-02-14 06:06:22 | 自分史

★ご縁があって川崎航空機工業に入社し、3社合併があって川崎重工業で現役生活を終わったのだが、それから20年も経とうとしている今も、お付き合いが続いている人たちが何人かはおられる。

 そんな中で、この1年一番多くお会いして一緒の時間を過ごしたのが、大槻幸雄さん、稲村暁一さん、田崎雅元さんの3人だろう。

 みんな 川崎航空機工業入社で、大槻さんが昭和30年私が昭和32年稲村さんと田崎さんが昭和33年入社なのである。

 カワサキワールドのZフェアで、KAWASAKI Z1 FANCLUB のこんな仲間たちと一緒にこの4人が顔を揃えたのである。

 

  

 

 その後 カワサキワールドの一室で、こんな雰囲気での昔話に花が咲いたのである。

 

    

    

私は『想い出を共有する人たちを仲間』と称しているのだが、お互い『想い出を共有する・そんな昔話』が出来る仲間なのである。

 

★ 稲村暁一さん (昭和33年 1958 入社)

私は現役当時の稲村さんはよく知ってはいたが、一緒に仕事をしたことは殆どないと言っていい。

彼は名車カワサキZのエンジン開発担当者として有名で、カワサキの『4サイクルは稲村』と言われていたのだが、カワサキが初めて4サイクルエンジンを開発したのはZからなので、それまではどうしてたんだろう?と言うのが私の疑問だったのである。

稲村さんに『なぜ稲村さんは4サイクルのエンジニアと言われるのか?』と聞いたことがあるのだが、その答えは『入社当時川崎航空機が手掛けていた4輪車の開発でその4サイクルエンジン開発を担当していた』と言うのである。

この4輪車は陽の目を見なかったが、後、二輪のアメリカ市場を担当された浜脇洋二さんなども関わっておられたプロジェクトで、そんなことで稲村さんは入社以来4サイクルエンジンに関係していたと言うのである。

現役当時、仕事らしいことで稲村さんと話したのはそれくらいしかないのだが、最近は年4回開催されているZ1会のゴルフコンペでお会いしているし、KAWASAKI Z1 FAN CLUB の会合にも顔を出してくれたりもするので、現役時代より密接なお付き合いなのである。

いまゴルフコンペのZ1会の副会長を務める稲村さんに『ゴルフを教えた』のは、実は私なのである。

なかなか信じがたいと思われるだろうが、1990年代後半の単車事業本部の理事室は、当時の3研と言われていた綜合事務所にあって、立派なゴルフネットが張られていて、いつでも打ち放しができる環境だったのである。こんな部屋を作ったのは当時企画にいた佐伯武彦さんで、アメリカのリンカーン工場帰りの彼でなければ作れなかった代物だったのである。

その理事室で稲村さんとは机を並べていたので、彼に『ゴルフをやること』を勧めて、コーチしたのは私なのである。あの時私がゴルフを勧めていなかったら、稲村さんのZ1会副会長もなかったのである。

現役時代は、稲村さんとは会議などではしょっちゅうご一緒しているのだが『共有している想い出』と言えばそれくらいのことで、引退してからの方が、間違いなく会話の機会も多いのである。

 

大槻幸雄さん (昭和30年 1955 入社)

 カワサキの技術屋さんの中で一番長くお付き合いし、一番長くお話をしているのは『大槻幸雄さん』であることは間違いない。

大槻さんは『結構こわい』イメージも強くて、『とっつきにくい』印象もあるのだが、私はそんな大槻さんに何でもざっくばらんにお話しできる仲なのである。

そんな大槻さんとの初めての出会いは、昭和40年6月(1965)『鈴鹿6時間アマチュア耐久レース』の時だった。私は当時レース運営やライダー契約など担当していたのだが、その時カワサキのレースチームに初めて正規の監督が出来て監督が大槻幸雄さん、助監督が田崎雅元さんだったのである。それまではカワサキコンバットの三橋実が監督を務めていたのである。

当時大槻さんはGP125のマシン開発なども担当されていたのだが、この年の7月に大槻さんは1年間の『ドイツ留学』が決まったのだが、翌年マン島で開催されたTTレースの公式練習中にカワサキのマシンに乗った藤井敏雄さんが転倒事故死される事故があって、そのご遺体をマン島から送り出して頂いたのが、たまたまマン島の現地に行かれていた大槻さんで、羽田で受け継いだのが私だったのである。

その直後大槻さんは日本に戻られて、FISICO で開催された日本GPの監督として、私はそのマネージャーとして再会するのだが、その時カワサキが契約したデグナーが練習中に転倒して生死の境を彷徨う入院などの出来事があったのだが、この時の病院での対応なども、当時ドイツ留学から戻られた直後で『ドイツ語が解る』大槻さんがいろいろと対応されたことなども印象に残っているのである。いずれにしてもこの年は、お互い大変だったのである。

大槻さんも私もこのレースを最後にレースチームを離れ、大槻さんは単車の市販車開発に戻られ、私は東北6県担当の営業に異動するのだが、その最初の東北6県のデーラー会議に技術説明者として来て頂いたのが大槻さんで一週間ほどご一緒したのである。その時言っておられたのが『世界一のバイクを創る』これが多分大槻さんのアタマにあったZだったのだと思うのである。

大槻さんとのお付き合いはそんな『レースが中心』だったのだが、その後私が開発途上国市場を担当した時に『GTO』という110ccのバイクの開発を当時技術部長をされていた大槻さんにお願いに上がったことがあるのだが、ただ一言『そんな開発はしない』と仰るのである。当時は大槻さんのアタマには『大型車エンジン』しかなかったのだろうと思うが、私が粘り強く喋ってたら『2サイクルの松本』と言われた松本博さんが『私がやりましょう』と助け船を出してくれて『GTO』が開発されたのである。

このGTOは、CKDの部品輸出なので台数記録がカワサキには残っていないのだが、東南アジア市場各地で『GTOで溢れた』と言われるカワサキのダントツのヒット商品となったのである。これが私が直接関与した唯一の商品企画で、それ以外は一切商品企画には直接的には関係していないのである。

そんな大槻さんは『世界の名車カワサキZ』の開発責任者として知られている。そのZ発売40周年の記念イベントが5年前アメリカで行われたのだが、Z1会のゴルフコンペの親睦会の席上で突然『古谷も来い』と仰るのである。私はZは売りはしたが開発にも、当時のアメリカにも全く関係がなかったので、固辞したのだが『どうしても』と仰るので、Zについて何かしないといけないと思って、登山道夫さんと相談して立ち上げたのが KAWASAKI Z1 FAN CLUB なのである。

                         

 

そして その会員カードをアメリカで開催された『Z40周年記念イベント』に持ち込んで、その出席者たちに会員になって貰ったので、KAWASAKI Z1 FAN CLUB のカードの No.1は浜脇洋二さん、No.2がアラン・マセック No.3が大槻幸雄さん とまさに『カワサキZの真打ち』さんたちが最初の番号に続いている世界で唯一のFAN CLUB なのである。

 そんな最初の経緯もあって、大槻さんには KAWASAKI Z1 FAN CLUB の正規会員としていろいろ手伝って頂いているのである。

 

   

 

大槻さんは、Zの開発責任者として有名だが、実際にご自身で開発に従事され、それを川崎重工の事業に育て上げられたのは、二輪よりもむしろ『ガスタービン』の分野なのかも知れない。こんな立派な本も出版されていて、今や川崎重工の大きな部門となっているのだが、若い頃ドイツ留学されたのもこのガスタービン関係だったのである。

こんな大槻さんの本が私の手元にあるのは、三木で開催されたKAWASAKI Z1 FAN CLUB のイベントで、大槻さんが提供されたものでその時私も購入したのである。読んでもとても理解はできないのだが、大槻さんの本だから持っているのである。

こんな旧い想い出を共有している『大槻幸雄』さんなのである。

 

 ★田崎雅元さん   昭和33年 1958 入社

 川崎航空機入社は私の一期あとだが、稲村暁一さんとは同期、川崎重工業社長・会長を歴任されているのだが、何時まで経っても私の田崎さんとの仲は、『創成期のレース仲間』のままの関係が延々と続いているのである。

 

    

 

 田崎さんとのお付き合いはホントに長いのだが、ひょっとすると『二人だけの写真』は、これが初めてかも知れない。この週初めのKAWASAKI Z1 FAN CLUB のイベントに突如『行きたい』と電話が掛かってきて、ご一緒したのである。

 現役時代、『一緒に一番長く、一番密接に仕事をした仲間』は、間違いなく田崎雅元さんである。

 初めて会ったのは、未だジェットエンジン時代の労組の常任監事時代の田崎さんで私は発動機部門の常任幹事をしていたころだから、昭和35年(1960)以来もう60年近くになるのだが、関係がなかったのは、私が退職し田崎さんが川重社長の何年間だけで、会長時代はよく川重の会長室を訪ねたし、今はカワサキワールドで年中行事として定着している『ミニ・トレインイベント』も発案者は私、当時会長をしていた田崎さんが神戸市に一緒に行ってくれて、メリケンパークでの開催が実現したのである。

 

   

 

 若い頃から一緒にやった仕事や、お互い連携したことを思い返して見るといっぱいあり過ぎて、なかなか書ききれないのだが、カワサキの単車事業展開の結構真ん中の部分にいて、特に70年後半のハーレー・ダンピング対策やそれに続くアメリカ市場でのHY戦争の影響で、カワサキの単車事業は『最大の危機の時代』を迎えるのだが、そのハーレ・ダンピングの対策担当者が田崎さんだったし、その対策としての国内市場の構造改革を担当したのが私だったのである。

そのあとすぐ髙橋・田崎さんはその渦中のアメリカ市場のKMCに出向されるのだが、その販売会社の構造対策の具体案がムツカシクて、急遽私は当時川重の山田専務や本社財務のメンバーで構成されていた『単車事業対策委員会』の要請により単車企画室に戻って、当時のKMC社長の田崎さんとのコンビでKMCの販社構造対策を主として行うことになるのである。

84年のKMCの新社屋プロジェクトなども、KMCと本社財務を結んだ企画室の合作の成果で、当時の川重の大西副社長などが直接、建築会社をご紹介頂いたりしたのである。

当時のカワサキ単車事業本部は大庭浩本部長・髙橋鐵郎副本部長・私が企画室長田崎雅元KMC社長、佐伯武彦リンカーン社長と言う布陣で、考えてみると私を除いて、その後の川崎重工業の社長がお二人、副社長がお二人の錚々たるメンバーだったのである。

その中でKMC対策が中心課題で、当期の経営改善もさることながら、当時100億に近かったKMCの累損消去が企画室長としての『私の最大の目標』だったし、その目標は、田崎・百合草のKMC 社長時代に達成できる成果を残したのである。そしてその実現には、国内のカワサキオートバイ販売からKMCに逆出向していた『富永・日野両君』が果たした役割も大きかったなと思っているのである。

 

★田崎さんはまさしく技術屋さんなのだが、図面を書いたこともナイ技術屋さんで、技術屋さんらしからぬ範疇の仕事が多かったし、KMC時代は大変な営業外対策が必要な時期だったので、田崎さんにバランスシートを教えた先生は私なのである。

ただ誠に優秀な教え子で、田崎さんは その後資金対策などに格別の興味を持たれたし自ら勉強もして、私などよりはよほど詳しくなったし、川崎重工業社長時代も無配が続く非常に難しい時代を引き受けられたのだが、その期間に川崎重工業のバランスシートの内容は画期的に改善されたし、そのムツカシイ旗を自ら振られているのである。

そんなことで非常に親しくして頂いていて、昨年はメールのやり取りも頻繁だったし、何回もお会いしたし、今年も多分昔同様の仲間としてのお付き合いが続くだろうと思っている。

 

 こんな昔の仲間たちは、ホントにいいなと思っている昨今なのである。

 

  

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私の定年後の生活 70歳 2003年

2018-02-09 05:44:12 | 自分史

★ 2003年に70歳になった。『70歳を古希』と呼ぶらしい。

私自身はそう言う仕来りみたいなものには、トンと無関心なのだがこの年の誕生日には、息子一家が和歌山の『クエ』を持って『古希の祝い』だなどとやってきた。

 あとにも先にも『クエ』など食ったのはこの時だけだが、残念ながらその味はよく覚えていないのである。

古希の祝い』は長寿の祝いだというのだが、お蔭様で今年は85歳を迎え、15年前の70歳をこんな想いでの年として『自分史』に綴ったりしているのである。

 

 日本の世の中は平穏無事、大したことはなかったようである。

   

 

朝青龍が68代横綱昇進』とあるのだがこの年の1月20日に今話題の『貴乃花が引退』。

3月20日にはアメリカのフセイン当時のイラク攻撃が始まっている。

無配が続いていた田崎社長の川重が復配。単車から7人の役員が出ている。

阪神が18年振り優勝

これらはみんな私の日記からだが、日記もなかなか役に立つ。

 

★ 私自身の周りでは、

●娘の方の孫の次男が小学校入学、この年の暮れに娘婿はアメリカ勤務が決まり翌年娘一家はアメリカ移住となるのである。

●パソコン関係では、『パンダ碁』に入会している。

 今現在18111局になっているから、1年に約1200局、1ヶ月に100局、1日3局を打ち続けていることになる。頭の体操にもなるし、時間つぶしには『もってこい』なのである。

 

      

 

●『ネット株』にも、これはそのシステムが知りたくてこの年年末に始めているが、『ライブドア』などの事件が起きて結構な損をして止めてしまったが、それは翌年までの半年間のことだった。

 

 

★そんな1年だったようだが、この年の私にとっての一番の出来事は、

5月2日に『廣野ゴルフ倶楽部の乾理事長あてに親展の手紙』を出したことだと思う。

後ブログをやり出してから、こんなブログをアップしている。  http://rfuruya2.exblog.jp/8447988/

その文面の大要である。

 

廣野ゴルフ倶楽部、日本一のゴルフ場としてその評価は高い。その景観が美しいのは当然のことである。
70年以上の歴史をもつこの名門コースは、その長い年月を経てその木々も非常に大きく立派である。

廣野の特徴は、その外周が数キロに亘って一般道路に面していることである。少し前までは、その道路に面した部分はずっと自然のままになっていた。当然下草も生長するのである。それは、とても綺麗といえる状況ではなかったのである。

その道を通って毎朝、何十年会社に通っていた。正直何とかならぬものかと、何十年思い続けた。でも、現役の頃はどうしても言い出せなかったのである。

70歳になった春に思い切って、廣野の理事長さん宛てに親展で封書をお送りした。
ゴルフ場の外周、道路との接点は社会との接点です。企業の社会的責任が問われる今、社会的地位の高い方がメンバーに多い廣野は、それに見合う対策をーーー。」というようなことを率直に申し上げたと思う。

私の70年の人生ではじめての投書めいた外部への意見陳述であった。
非常に丁重なご返事を頂いたのを覚えている。・・・・・・

この廣野の「ひとこと」は、私の70才以降の「生き方」を変える一事であった。
それ故に、廣野がその後毎年整備を重ねて、昨年辺りからは一部綺麗なフェアウエイが見えるまでになった時ははホントに嬉しかった。
・・・・・今朝ヨコを通って整備が始まっているのを見かけた。
家にもう一度戻って写真を撮って、Yahooに纏めた。

廣野から私への、この上もない新春のお年玉を頂いた心境である。と書いているが、今3月その整備もようやく終わって、廣野は見違えるほど綺麗に東側の外周は整備された。
私が昔、毎朝通勤をした道からは、美しいゴルフ場の景観がが見通せるまでになっている。

 

  

  

  

 

★いまは毎日、こんなブログで社会一般の方たちに『自分の雑感』を披露しているのだが、70歳になるまでは投書もしたことはないし、世の方たちに自分の意見など言ったことは一度もなかったのである。

 毎朝廣野の横を通って通勤していて毎朝『廣野の外周は汚すぎる』と何十年思って通勤していたのだが、それを言うことはどうしても出来なかったのである。 70歳になったから『いいか』と思い切って手紙を出したら、丁寧なご返事を頂いた上に『具体的な対応』がなされたのである。あれから15年『廣野の外周=社会との接点』は綺麗に維持されているのである。

そんな 廣野ゴルフ倶楽部の対応が、その後の『私の人生』を大きく変えたと言っていい。

 

 70歳、そんな1年だったのである。

 

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私の定年後の生活 69歳 2002年

2018-02-06 07:01:31 | 自分史

★ 2002年、69歳。60代最後の年で、定年後の生活も3年目になるのだが、この年の出来事は特に目だったこともなく、平穏に1年が過ぎたようである。

 私自身の生活も静かに流れて行った感がある。

   

 

 この時期は、パソコンもスタートしているのだが、殆ど何もしていない。多分検索か、ゲーム位をやっていたのだと思う。

家には未だ柴犬が2匹TOM & LOVE がいて、毎朝・毎夕散歩に連れて行ってるのだが、未だデジカメも持っていないから、この年の写真なども全くないのである。

 この2匹の犬たちが我が家にやってきたのは、1994年の春のことで、この年娘の方の孫の長男力也が生まれているのだが、その1ヶ月ほど前のことである。そういう意味で孫と同い年なのである。

 この年は5才の頃で、まだ元気でかわいい盛りで、『朝夕の犬の散歩』は毎日の中で大きなウエイトを占めていたのである。

 

    

 

 この写真はもっとあと、デジカメを買って写真を撮りだしたころである。

 右の写真が私がネットに初めて写真をアップしたその記念すべき写真なのである。時期はもっと後2007年の頃だと思う。

 

 薔薇もやってるし、庭の手入れにも精を出していた。

 庭の植木は、将来の手入れが危なくないように『』を切ってしまって背を低くしたのがこの年である。

  思い切りよく切ってしまったのだが10数年経った今は何とか見られる状態になっている。

 

  

 

  これくらいの背の高さだから、殆ど梯子なしに剪定など出来る状況になっていて。この年の処置は正解であったと思っている。

  そのまま残しておいたら、高い梯子登らないとどうにもならないのである。

 

  

 

  ストレッチをやりかけて2年目になるのだが、膝は未だ完治せずにずっと整形外科には通っているのだが、気分的にはすっきりして水泳にも行ってるし、朝夕散歩もするし、健康的に過ごしていて体重は75キロを維持している。

 

自分の生活とも関係はあるのだが、この年家の床や台所を全部やり直している

家の床なども30年近くなるとやはりだめで、玄関・居間・風呂場の床をすべて貼り直したし、台所にタカラのシステム・キッチンを新調したりしている。結構、費用も掛かったが、この年ぐらいまでは顧問料もあったりして、人生で一番のんびりしていた時代だったのだろう。

 この時の家の手入れは、所謂昔の大工さんに頼んだので、たった一人で時間は掛かったが、その仕事ぶりはめちゃ丁寧だった。

 私自身、このような職人さんとは『何となく合う』のである。

 庭師さんも大工さんもそうだしバイク屋さんでも『職人気質のちょっと癖のあるヒト』の方が好きで、すぐ仲良くなれるのである。

 その傾向は、このあとの定年後の生活でもずっと続いているように思うのである。

 

 2002年は特に何事もなく、平穏に過ぎた1年だったようである。

 

 

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私の定年後の生活 68歳 2001年

2018-01-31 07:35:06 | 自分史

★定年後の生活2年目、68歳である。

 この2001年と言う年はどんな年だったのか?

  

  

 小泉内閣がスターとし、9月11日にはあの『9.11事件同時多発テロ』があった年なのである。

 上の表の最後に『ウィキぺディアが発足』とあるが、私はまだほとんどの方がウィキぺディアなどご存じない時期に知っていたのだが、それはこの年から数年後のことだっただろう。

 この年の数年後に娘家族はアメリカに移住するのだが、孫たちはまだ小学生でアメリカの学校の宿題の答えが解らなくて、その時見ていたのがウィキぺディアだったということなので、それを聞いて私は知っていたのである。日本でもあったが『神戸市』と引いてみても殆ど記述がないそんな状況だったのである。

 

★それは兎も角、2001年、68歳のこの年は前年から膝や腰の痛みがあってストレッチをスタートはしていたが、1年ぐらいではその効果も表れず、日記には整形外科や膝や腰の痛みの記述が多いのである。ただ、ストレッチなどは熱心にやってたようで12月の日記には『足が痛いのはストレッチのやり過ぎか』などの記述があったりするのである。

人間の悩みの中で『痛い』ということは単純だが耐えがたい悩みなのだと思う。ただ治ってしまえばそれが『どのくらい痛かった』かも解らぬような単純なもので、何の痛みもない『現在では』当時の膝や腰はストレッチをやったら「すぐ治った」と思ったりしているのである。

ただ85歳になろうとしている現在の健康状況から考えると、歳をとってからでも筋力はどんどん付くものだから、そんな努力は期待を裏切らないものだと思っている。

時間のある方はぜひおやりになればいい。現役時代のそんな時間がない時代は無理だなと思うのである。

そういう意味でも『時間が有り余る』ほどある定年後の生活は『自分のやりたいことがやれる』のがいい。

 

★私の性格は、ハマってしまうと一時期は結構熱心にやる傾向があって、上記の『ストレッチのやり過ぎか』と言うのもその部類なのだが、前年から始めたバラ栽培も『最高にハマっていた』そんな時期なのである。

木バラだけではなくて『蔓バラ』も始めているし、どんどん買って、この年で50本ぐらいにはなっているのだろうと思う。狭い庭だから植える処がないのだが、その場所を創るために、柘植や平戸が並べて植えてあった場所は、それをすべて抜てしまってそこに木バラを植えているのである。

蔓バラ』を始めたのはこれは私独特の発想で、植木の間に植えても蔓バラは枝が伸びて頭を出してくるから、植える場所は日陰でも陽は当たるようになるので、植木の間の根元に植えることが可能だし、蔓バラは蔓を止める棚のようなものが要るのだが、植木の間に植えておけば蔓を止める枝はいっぱいあるので大丈夫なのである。

さらに言えば、冬になると葉も落ちるし枝だけになってしまって『みすぼらしい』のだが、植木の間に植えておけば、それもあまり目立たなくて、一挙3得ぐらいの効果なのである。

これは『植えるところがない』ことから出ている発想である。

我が家の庭は、昔気質の庭師の方が結構ちゃんと造ってくれていて、その人曰く『花の咲く木は元来いい庭にはもう一つ』と言うのが口癖で、そういえば『和風の庭』は松や柘植や槙など花の咲かない植木が主流なのである。

そこに蔓バラが咲くとなかなか花の時期は『いい感じ』なのだが、庭師の方が見ると嘆かれるかも知れないのである。

 

★そんな薔薇の話題もあるが、この年最大の話題は『パソコンが我が家にやってきた』ことである。私の意志でパソコンを買ったのではなくて、当時はまだ日本にいた娘婿が、会社でまとめ買いしたパソコンが余ったから『買ってくれ』と言うのである。

OKしたらパソコンの登録など詳しい方と一緒にパソコンも我が家にやってきて、いろんな登録手続きをやってくれたのである。いまもその時登録した niftyのままだし、私のパスワードは結構ややこしいのだが、その時使ったものをそのまま使っているのである。

 今から思うと、この『パソコンのお蔭で』私の定年後の生活は一変したと言っていい。

大体、器械ものには弱くて、パソコンは会社でも80年代から入ってきて、90年代には事務処理をする人たちはみんな使えるようになっていたのだが、現役当時は触ることは勿論、『見ること』さえ拒否して、私の机の前にはパソコンはなかったのである。

パソコンもなかったが、携帯電話も持つことを拒否して、こちらの方は未だに『持っていない』のである。

 そんな状態だったのに、パソコンを買ったものだからその年後半は独学でExcell やWord なども勉強したし表なども作れるようにはなったのだが、別に『つくる必要』がないものだから、当時は一体何に使っていたのだろう?

 実際にパソコンが役に立ちだしたのは、ずっと後の2006年度からで、このブログ雑感日記がスタートしたのは2006年9月だから、自分ではパソコンを始めたのは70代の途中からだと、ついこの間までそう思っていたのである。

 然し、パソコンが我が家にやってきた記念すべき日は、2001年7月8日なのである

 

★この年、川崎重工業は田崎社長体制になったのだが、その経営状況は難しくて『無配』が続いていたのである。田崎さんも現役時代いろいろ関係はあったのだが、私にも田崎さんにも密接に関係のあった岩崎茂樹くんがこの年4月に亡くなっている。

 会社ではいろんな人とのお付き合いはあったが、川﨑重工業の中ではひょっとしたら『岩崎茂樹』くんと一番関係が深かったのかも知れない。彼は生野高校の野球部の出身で、当時の全生野と言う野球チームは兵庫県でもトップの実力チームだったのだが、そのメンバーの殆どが明石高校の野球部のOBたちで、岩崎はそんな人たちにコーチを受けていたので、明石高校野球部出身の私以上にそんなOBたちのことは詳しかったし、彼は当時の川﨑航空機の中では唯一と言ってもいいバイクの本格派だったので、本社から単車に異動してきて以来ずっと関係があったのである。

 ちなみに私の後の『ファクトリー・チーム』を纏めてくれたのは岩崎だし、後年SPA直入を作ったのも私と岩崎の二人で作ったと言ってもいいのである。

 そして、岩崎が亡くなって、私がブログを始めてすぐ『岩崎茂樹のこと』をブログにアップしたら、そこにコメントを頂いたご縁で繋がったのが『登山道夫』さんなのである。登山さんも生前岩崎にはいろいろお世話になったと仰るのである。

 田崎さんも課長時代、岩崎とのコンビでアメリカを担当していたのである。

 

        

 この写真は、田崎さんが去年私に送ってくれたもので、92年10月とあるが 場所はSPA 直入なのである。

 早く亡くなってまったが、若し岩崎がいたら、私の定年後もまたもっと面白くなったかも知れないのである。

 

★この年ごろまではまだ、ゴルフもしょっちゅうやってたようで、4月に40:41 5月に41:42と現役時代のように30台は出ていないが、優勝もしているし80台前半では回っていたことを考えると、ゴルフのスコアだけは衰えてしまったなと思っているのである。

 現在の体力は間違いなくその頃よりいいと思うし、ドライバーの距離などは落ちていないので、スコアが纏まらないのは、気持ちの問題と、寄せとパットを真剣にやらないからだと思っているので、今年はちょっと真面目にゴルフに取り組んでみるかなどと思っているのである。 今年は3月に85歳になるので、こんなスコアが出たらいずれも『エイジシュート』なのである。

 少々脱線気味だが、この年の日記にいろいろ出てくるのは『水泳』をやり出して、娘の方の孫二人をよくプールに連れて行ってやっているのである。

よく近畿の近くだが小旅行にも行っているし、この年あたりは普通の方とあまり変わらない『普通の定年後の生活』をしているような1年だったのである。

 

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私の定年後の生活 67歳 2000年

2018-01-24 06:35:41 | 自分史

★『私の定年後の生活』は実質この年、2000年(平成12年)から始まった。

 今から18年前だから、私の定年後の生活も18年目を迎えることになる

 どんな年だったのか? 

 ● シドニーオリンピックの年だというが、どんなオリンピックだったのか、全然覚えていない。

 ● イチローが大リーガーとしてデビューした年だという。これは鮮烈に覚えている。

       

 

小渕さんが突如倒れて森さんが総理になった年でもある。

 私も『クモ膜下』で倒れてから丸2年を迎えたのだが、私の方は札幌の中村記念病院という最高の病院に巡り合ったお蔭で、この年の5月に最後の検査を受け『完治した』と言うお墨付きを頂いたのである。

前回にも触れたが、警察署で倒れ、15分後には病院の集中治療室にいて、手術などせずに1ヶ月病院に入院してその後半はリハビリで階段を上ったりしていたから、実質10日間ほど病院で寝ていただけなのである。

それから18年、みなさんには『元気だ』と言って頂いているが、この年には膝や腰が痛くて、日記を見ると近くの外科に『針やマッサージ』の治療に通っていたのである。

そして、そこの先生に『治りますか?』と聞いたら、『ホントは治らない。時間が出来たのだから筋肉は何歳になっても付くから、ストレッチや筋肉をつける運動をする方がいい』と言われて『ストレッチ』を始めているのがこの年なのである。

 従って、私の『ストレッチ歴』もまた18年目を迎えるのである。いまは50メートルダッシュもできるし、ジムにも通っているし、柔軟性は年を重ねるごとに柔らかくなっている。まさに『継続は力』だと思うのである。

 

★ 定年後の生活で、就業時と根本的に違うのは、『自分の自由になる時間』がふんだんにあることと、『何にもしなくても生活費は年金で頂ける』ことだと思う。

これは何物にも代えがたい『宝物』で、現役時代頂いた職位などで、ちょっとは格好はいいかも知れぬが『自由な時間はない』し、それなりのお金は頂けても『拘束の代価』を頂いているようなもので、少なくともサラリーマンの身分では、今から思うとそんなに『大したことはナイ』のである。

その点大小は兎も角、自由業のオーナーの方の方が『生き方』としてはオモシロそうで、定年後と言うのはある意味『その仲間』に入れた最高の期間のような気もするのである。

それは兎も角、現役時代、仲間として一緒に仕事をした田崎雅元さんは、この年川崎重工業の社長に就任されているのである。そんなこともあって現役時代一緒に仕事をした後輩たちも川重の常務に昇格したりしていて、川崎重工は大庭浩社長時代から『二輪事業のいいところ』がその経営に取り入れられるようになったが、それを引き継いで田崎さんが『柔工業』と称して、彼独特の事業展開をしだしたのがこの年なのである。

そして川重のメンバーたちのOB会の相信会会長には髙橋鐵郎さんが就任されたりしたので、川重の中に『単車色』が色濃く出だしたそんな年だったのである。

そして、これはサラリーマン社会の定石かも知れぬが、年次では私より1年下の田崎さんが社長に昇格したので、私と同期の常務さんはこの年退職されているのだが、私はある意味新しい生活が始まった年だと言っていい。

 

★ただこの年あたりは、『新しい生活』にもまだ慣れてはいなくて、『有り余る自由な時間』をどうしていたかと言うと、家内と一緒に世の中の定年後の方たちと同じように、各地の名所・旧跡を訪ねたり、1泊・2泊の小旅行を楽しんでいたりしていたのである。

 この年スタートした『新しいこと』と言えば先述の『ストレッチ』と『薔薇の栽培』を始めたことである。

 『薔薇』もそういう意味で18年になるのだが、私はやりかけると結構長続きするし、ハマってしまう性格で『薔薇』は今でも1年の多くの時間を薔薇に捧げているのである。

 

  

 

  『薔薇 雑感日記』と画像検索すると、こんな画面が現れる。

https://www.google.co.jp/search?q=%E8%96%94%E8%96%87%E3%80%80%E9%9B%91%E6%84%9F%E6%97%A5%E8%A8%98&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwiP1cvehe3YAhVChrwKHYu2AZoQ_AUICigB&biw=1350&bih=694

 

一言で言うと、『私の定年後の生活 67歳 2000年』は、薔薇のスタートの年だと言っていい。

 薔薇はちょうど冬の今頃の時期に始まって、5月・6月の最盛期から、秋バラと続いて1年中その仕事は続くので、『私の定年後の生活』の中に確りと腰を下ろしているのである。

 

★この年はまだ母は健在90歳で父の50回忌を行っているのだが、世の中でなかなか『50回忌』を行うことは少ないそうである。

 子どもたちことを言うと、息子は関西の務めだったが、この年鎌倉のマンションを買うことを決めているし、いまはアメリカに定住してしまった娘婿は若いのに会社の組合の委員長になったりしていて、孫たちが可愛くなった時期だし、4人目の孫が生まれた年でもある。

それが18年前だから、孫の末弟は当たり前だが今年18才になり、娘婿が32才だったなどとは俄かに信じがたいのである。

何となく、私の定年後の生活の環境も整った年でもあったが、それからもう18年もの年月が流れているのだが、それ以降の年月に比べるとこの年は、まだまだ静かな『定年後の船出』だったと言っていい。

ちなみに私の体重は75キロだったようだから、今よりは6キロほどスマートだったようである。

 

 

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私の定年後の生活のスタート 66歳

2018-01-18 06:41:28 | 自分史

★勤めを終わってからを『定年後』と言う。

そんな生活ももう20年にもなろうとしているので、今年はそんな私の定年後はどんなことだったのかを『自分史』のカテゴリーで纏めてみようかと思っているのだが、

 今回はどんな状況でそのスタートを切ったのか纏めてみたい。

 

私は1999年5月末を持って、最後の勤めであった北海道川重建機の社長を退任して会社生活を終わった。66歳の年である。

 『北海道川重建機』と言う名前からは川崎重工業の子会社のように思われるかも知れぬが、この会社は川重の資本も入ってはいるが、自前資本の優良会社なのである。

私の営業生活は、東北6県の自前代理店の管理営業に始まって、同じく自前企業の北海道川重建機で終わっているのである。

 世の中の販売網の殆どが大資本の系列子会社になってしまっているのだが、自前資本の代理店と言う企業は独特の存在で、その経営は一種独特で、なかなかオモシロいものである。

 現在は建機事業そのものが川重から日立に移ったので社名も 北海道川崎建機 と変わり、支店数もちょっと減ったようだが、北海道全道をその管轄としているのである。   http://www.hkwj.co.jp/company.php

 

    

      

 

 カワサキでの二輪事業一筋に担当してきたが、この最後の2年間の自前代理店での社長業は、大会社の系列販社とはちょっと違った独特なものがあって、まさにサラリーマンをしていた私としてはサラリーマンを卒業して、この2年間もまた『定年後の生活』のようなところもあったのである。

所謂、出資者・株主の発言力も強かったし、その取締役会などは独特の雰囲気だった。

二輪から建機と言う商品に変わったしその営業などのやり方も、二輪とは全く異なるものだったので、私は担当した2年間は、今更商品や営業知識を覚えてみても仕方がないので、一切そのような分野には目を向けずに、その経営のトータル・システムなどを従来の方式からは全く異なった新しいものに創り上げることだけに専念したのである。

運転手をつけましょうか」と言う申し出を断って、『4輪駆動のクラウン』で当時は15箇所もあった支店営業所を自分で運転して訪ねることなどばかりやってたので、お蔭様で北海道は殆ど隅々まで走ったことがあるのである。 若い頃4年間東北の雪道も経験しているのだが、タイヤもよくなったし、『4輪駆動のクラウン』は冬の雪道のドライブも快適だったのである。

 特に、従業員の方たちが、メーカーの社員とは全く異なる独特の個性の方が殆どで、それは最初の営業経験であった東北代理店の従業員とよく似たところがあって、私自身はどちらかと言うとそんな方たちとの方が、元来『トーンが合う』のである。

そんな、最後のお勤めも終わって、定年後の生活が始まって20年になろうとしているのだが、その間出会った方たちとの間でまた新しい繋がりが出来ているのだが、そんな方たちもみんな『サラリーマンの優等生』ではない方の方が圧倒的に多いのである。

いまはFacebook などで新しいトモダチも増えているのだが、その殆どの方が大小は兎も角『オーナー的』な方たちばかりなのである。そういう意味では、私のサラリーマン生活は、全くサラリーマンらしくなかったし、元々『サラリーマンの優等生』になる素質は有していないのだと思っている。

 

★それは兎も角、私の定年後のスタートは、札幌から大阪までの家内と二人の2日間の汽車の旅から始まった。

 札幌駅で川重建機のホントに沢山の方たちに見送って頂いたのである。駅や空港でこんな見送りをして頂いたのは、最初の営業だった仙台から帰る時の仙台駅と、この札幌のお見送りだけで、こんなに大勢の方のお見送りを受けたのは札幌が初めてだったのである。

6月からは2年振りに三木に戻ってきたのだが、これから2年間は北海道川重建機から顧問料も頂いていたし、その前年私は突如『クモ膜下出血』で札幌の中村記念病院と言う脳外科専門の大きな病院に約1ヶ月入院したのだが、その事後処置の定期検査などあって、この2年程は何ヶ月毎に札幌に行くことが多かったし、その都度北海道川重建機の方たちにお世話になっていたのである。

そういう意味でこの年1999年の後半の半年は何となくまだ『会社生活が続いている』ような状況で、私の『定年後の生活』は2000年度からスタートしたと言った方がいいのだろう。

 

★私は既に今年で85年も生きていることになるのだが、その人生は『幸運に恵まれて』いまがある。

 そういう意味で、自分では『非常に運がいい』と思っている。

 この川重建機の勤めもひょんなことで、こうなったのである。建機など全く関係はなかったのだが、大学の野球部の後輩が建機事業を担当することになり、そのトップを当時は川重副社長になっておられた髙橋鐵郎さんの管轄で、この会社の社長を川重建機の方から川重に依頼があったようなのだが、その時髙橋鐵郎さんから突然の指名が私にあったのである。 

前述したように自前のムツカシイ会社だったから、私のようなのが向いていたのだと思うし、それなりに川重にも北海川重建機にとっても上手くマネージ出来た2年間で、上への報告など全く皆無で、最後の勤めがこんなにオモシロかったのもまさに幸運だったと思っている。

 前述した『クモ膜下出血』での入院も幸運の最たるもので、或ることがあって、札幌の警察本署で『怒りまくっていたら』アタマに血が登って警察署で突然倒れてしまったのである。警察だったからすぐ救急車が来て、普通ではなかなか入れない中村記念病院と言う脳外科の専門病院に15分後には運び込まれたのである。

 非常に難しいところが切れていて、手術をしてもいいのだが、失敗する可能性も高いので何もせずにそのまま回復を待ったのである。後で主治医の先生に聞いたら、『普通の病院なら必ず手術しただろう。手術をしないのは治療をしないことにもなりかねない』のでそんな判断はムツカシイそうである。この病院には30人近くの専門医がおられるので『手術をしない』と言うのは会議で検討して決めたと仰るのである。

そんなことで私はこの病院に1ヶ月ほど寝ていただけで、何もせずに元に戻っているのである。

それとこのような脳の病気は早く入院することがMUSTだそうである。田中角栄さんも小渕さんも、長嶋さんも入院するまでに時間が掛り過ぎているのである。

その点私は『倒れて15分後には病院』に、それもちょっと他では例のないような中村記念病院と言う脳外科専門病院に入院できたのである。

 

        

  

この建物の全てが脳外科だけの専門病院なのである。

この病院の集中治療室で10日間、最上階の個室で20日間 寝ていただけなのである。

これは幸運であったと言っていい

その運は、その後も続いているし、今年も間違いなく『いい運が巡ってくる』と信じているのである。

 

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カワサキ二輪事業と私  その67 平成8年(1996)

2017-08-23 06:04:08 | 自分史

★延々と67回に亘って綴ってきた自分史『カワサキの二輪事業と私』なのだが、私と二輪事業との直接の関係は、平成8年(1996)6月30日をもって終止符を打ち、7月1日からは川崎重工業CP事業本部に復帰することになったのである。

 

昭和63年(1988)10月1日に カワサキオートバイ販売の専務として就任して以来、約8年間の最後の国内第1線の担当だったのだが、当時はアメリカなど海外市場が一応の水準に達した上に急激な円高で、国内市場の拡充は事業部そのものの『円高対策』という重要な側面も持っていたのである。

そんなこともあってカワ販の社長であり、CP事業本部長でもあった高橋鐵郎さんからは、台数目標7万台 売上高400億円 という厳しい数値目標も与えられて、当時の事業本部の中では国内市場がアメリカ以上に最大の市場だったのである。

 

Jet Ski については、『発動機事業部のエンジンをアメリカのリンカーン工場に送リ、Jet Ski に組み上げアメリカのKMCだけで販売する』という単車事業本部の明石には、全く関係のなかった事業だったのだが、それを単車事業本部本来の事業とすべく、企画室時代に企画室内に『Jet Ski』部門を立ち上げて、鶴谷将俊さんの担当として、ヨーロッパ・国内にも販売する方向を目指したのだが、それがようやく実りかけて、1988年のソウルオリンピック開会式のデモンストレーションに正式招待を受けるまでにはなったのである。

そのあとすぐに、国内赴任の辞令を頂いたのである。 

 

    

 

 

★ 販売台数7万台を目指すとなると、従来のカワ販の健全経営という固いイメージから脱却して『新しいカワサキのイメージ創造』を目指して、ユーザーの組織化のKAZEの展開や、『レースに強いカワサキの復活』など、単純な販売活動だけでは『7万台目標』など掛け声だけに終わってしまうだろうと思ったのである。

就任してまず1番にやったのは、『カワサキファクトリーチーム25周年記念』のOB会の開催で、10月1日に赴任して、10月15日に開催し、真っ先に私自身が手掛けたである。

 

  

その時の写真だが、山田元副社長・苧野豊秋・中村治道さんなどカワサキの創世期のレースや事業を支えた重鎮の方にも集まって頂いて、これからの国内市場を担当する『私の決意表明』でもあったのである。

 ライダーたちは安良岡・山本・岡部・梅津・金谷・和田など錚々たるメンバーが顔を揃えOBたちの末席を務めたのは星野一義と清原明彦で、当時の現役レースチームの諸君もお招きしての会合だったのである。

 

★たまたま、当時はSPA直入を建設中で、翌年その開幕を迎えるためにも、是非ともカワサキのレースを強くすること、そのチームを強力に支えることが必須で、カワ販が担当していたチームグリーンの充実を重本・野村くんなどと共にまず図ったのである。

当時のメンバーとしては、塚本・宗和・多田・鶴田・北川 などが活躍した時代でビートレーシングや 月木レーシングとも協働しての活動だったのである。

長年優勝できなかった、鈴鹿8時間耐久レースにもラッセル・スライトのコンビで優勝できたし、チームグリーンの選手たちも常に好成績を残して、フランスでの24時間耐久にも、塚本・宗和・多田で出場し入賞するなど好成績を残したし、当時の4耐・6耐では、ビートや月木から若手が出場して常にカワサキが席巻していたのである。

 

   

 

★ そして、高橋鉄郎本部長とのお約束の国内市場7万台、400億円の売上 が、3年目の91年の6月に実現したのである。

レースの優勝なども含めて、これらは勿論努力もあったのだが、まさに『周囲の運を引きずり込んだ』感じだったのである。

その最たるものがZEPHYR で、ZEPHYR がなかったら、『7万台の達成』もそんなに容易な目標ではなかったはずである。

発売以前にこの車がこんなに売れるなど、当時はだれも予想などしていないのである。レーサーレプリカ最盛期の時代に、なぜZEPHYRがあれだけ売れたのか、私はいまでもよく解ってはいないのだが、兎に角、3年間も売れ続けたのである。

この8年間は、国内市場でカワサキが光り輝いた時代だと言っていいが、この間、高橋鐵郎さんにはカワ販社長は非常勤の兼務ではあったのだが、末端マーケットやユーザーたちへの理解が深く、高橋さんとのコンビでなければ、実現しなかったと言っていい。

    

 

  このようなことを『ホンネで自分の言葉で語れるトップ』がいて、初めてこんな実績が伴ったのだとは思うが、『運もよかった』ことも事実なのである。

私自身も人生いろいろ『運』には恵まれていると思ってはいるのだが、この8年間コンビを組ませて頂いた高橋鐵郎さんも、若い頃から一緒にいろいろとやった田崎雅元さんも、間違いなく幸運の持ち主で、川崎重工業の社長や副社長になるなど、この10年前には考えも出来なかったことなのである。

 大庭浩社長のお力だとは思うが、その大庭さんも、単車に来られたことが「幸運のきっかけ」かも解らないのである。そんな幸運をお持ちの方々と、結構『本音のお付き合い』が出来た私も幸せだったと思っている。

ホントか?と言われる方が殆どだと思うが、私の現役生活で『私のいうこと』を『一番聞いて頂いた上司』は大庭浩さんなのである。

大庭さんが本部長を務められた時、私は企画室長という番頭役で大庭さんを支えたのだが、殆どの提案をそのまま聞いて頂いたのである。この国内担当期間には、大庭さんは既に川重社長をされていたのだが、『SPA直入』『ケイ・スポーツ・システム』というソフト会社、『松井田サーキットプロジェクト』『二輪車のの自動車専門学校』等々みんな川重では初めての案件だったのだが、経営会議で殆ど無修正で通して頂いたのである。

 

 

   

 

★ そんな中でも特筆できるのは、Kawasaki . Let the good times roll ! という基本コンセプトの復活で、これは、旧く1975年ごろ アメリカのKMCでスタートしたのだが、以降20年間は忘れられて眠っていたものを、1990年代国内市場が7万台を達成し全国に KAWASAI PLAZA網を展開した時に、国内市場で私が復活し、それを高橋本部長が世界展開とされたのである。

その後田崎さんが川重社長の時には、川崎重工業の基本コンセプトにもなったのである

 

新宿の ショール―ム Kawasaki Plaza  のビルの屋上に 掲げられた Kawasaki Good Times コンセプトと、ユーザークラブKAZE の看板は、私にとっても、当時国内を担当した人たちにとっても胸を張れる最高の存在だったのである。

 

       

 

   

そんなカワサキの二輪事業のコンセプトも何故か20年以上も眠り続けていたのである。

ひょっとして、再び眠ってしまっても、世の中の方たちに決して忘れられないようにと、8年前にカワサキの当時の仲間と共に立ち上げたのが、NPO The Good Times なのである。

  http://www.thegoodtimes.jp/

そう言う意味では、私とは1975年以来、40年以上のお付き合いなのである。

 

    

 

そのスタートの時点で、高橋鐵郎さんには趣旨をお話して相談役に入って頂いたし、その会員カードNO.30番台にはカワサキの二輪事業に関係の深かった高橋鐵郎・田崎雅元・大槻幸雄・百合草三佐雄・稲村暁一・大津信・衛藤誠(二輪車新聞記者)などの方々が名を連ねているし、平井稔男・渡部達也・小川優・山本隆・福井昇・吉田俊一さんなどは理事として深く関わってくれているのである。

その他カワサキのかってのライダーたちや、カワサキの二輪事業に深く関わった人たちが多数会員におられるし、二輪のカワサキファンたちもいっぱいなのである。

    

 ★ こんな私の『カワサキの二輪事業と私』だったのだが、この8年間で国内市場で私が創り上げた『新しいカワサキの仕組み』は単に「販売会社」の枠を超えて、こんなトータルシステムで、その目指すところは遊んでいても『自然にモノが売れる』そんなシステムを目指したものだったのである。

 

 

 当時の『カワサキグループの機能』とその関係を明確に表している関係図である。

 単なる「販売活動」ではなく、『遊びやこころの満足』を目指しての活動で、その中核的な役割を果たしたのがユーザークラブKAZEや、JJSBAの活動なのだが、社内の各機能は無くなってしまったが、この二つは20年経った今もなお活動を続けている。

そう言う意味でも、末端の人たちと組んだ組織こそが、本来の活動の原点なのである

  

 

こんな夫々の機能を、それこそSNSのように繋いだ運営だったのだが・・・、『遊んでいてもアレだけ売れる』のなら、『一生懸命売ればもっと売れる』はずだと、単純な営業活動に専念されるようになったのだが、なかなか結果は伴ってはいないのである。

この辺りが末端ユーザーを動かす、民需事業の難しさで、『マーケッテンング・マインド』がベースにないと、難しいのかなと思うのである。

 

   

★『カワサキの二輪事業と私』の最後に、ずっと私を手伝ってくれたのだが、先に逝ってしまった岩崎茂樹をご紹介しておきたい。 頭もいいし、バイクにも詳しく、野球もできて、仕組みシステムが解る、珍しい才人だった のである。

田崎さんとのコンビも長かったし、高橋鐵郎さんの販売関係の師匠役でもあった。彼の最後の仕事は、国内の物流改革を担当して、私を支えてくれたのである。 若い頃、私のあとのファクトリーチームのレースマネージメントを引き継いでくれたのも岩崎茂樹であった。   この写真は、最近田崎さんが私に送ってくれたものである。  

   

 

  カワサキの二輪事業との関係で、『岩崎茂樹』にお世話になった人たちは、私に限らず多いはずである

 

カワサキの二輪事業、それはカワサキの開発した数々のマシンをベースに展開してきたのだが、それをマーケッテングの立場から、末端のユーザーや販売店とも協働して『カワサキ独特の仕組み』や『カワサキ独特のブランドイメージ』の確立に尽力された方たちのお名前はこの最終稿に記述したつもりで、カワサキの二輪事業はこの方たちの長年の努力で、いまがあるとも思っている。

 

 

  注)私の『自分史』は、また違った形で、続けたいと思っています。

  

  

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カワサキ二輪事業と私  その66 平成7年(1995)

2017-08-13 06:58:58 | 自分史

★平成7年(1995)と言えば大変な年で、阪神・淡路大震災や、地下鉄サリン事件があった年である。

私の現役生活も残り僅か、1年毎に綴ってきた自分史『カワサキの二輪事業と私』も残り少なくなった。

この年、1995年は何といっても1月17日の『阪神大震災』である。

神戸の隣町なのに、三木は地震は確かに普通とは違う揺れでひどかったが、停電にはなったが家が倒壊するようなことはなかった。停電で一切情報が入らないので、揺れが納まってからはいつもの通り犬の散歩をして、信号は付いていなかったが明石の会社まで出社したのである。出社をしてきた社員たちも情報がないので、神戸がこんなにやられてるなど知る由もなかったのである。

9時半ごろ、会社の状況を芦屋の自宅におられた高橋鐵郎本部長に電話したら『お前、どこにいるのか?』と仰るので『会社です』と答えたら、阪神間は『めちゃくちゃだ』と言われるのである。

10時ごろやっと電気が通じて、神戸の状況をテレビで見て『ぶったまげてしまった』のである。

 

   

 

 この地震に関しては、いろいろあった。

● まずは『オートバイ』が生産が出来なくて品薄になると思ったのであろう。注文がどんどん入って何ヶ月も好調が続いたのである。前年度が厳しかったのだが、この年は売れに売れて、さらにシェアでもホンダを抜いて何ヶ月もトップを走ったものだから、経営は一転好調で損益的にも大いにいい年だったのである。

● オートバイはこういう災害では非常に役に立つ。兵庫県警に30台ほどを『寄贈する』と言ったら、『寄贈申請をして頂けますか』と言われて『ビックリして』明石署の署長さんに言ったら「ありがとうございます」と即座に受けて頂いて、そのお礼にと県内神戸市内などは車の乗り入れが出来なかったのだが、どこでも通れる『通行許可証』をいただいたりしたのである。

● この地震について田崎雅元さんが、私にこんな文章を送ってくれている。

1995年阪神淡路大震災の直後、明石工場に出勤できる役員は、東加古川に住んでいた私一人だった。工場、従業員、地域社会、と担当を分け一時間おきに、会議を持ち陣頭指揮をとった。本社への連絡は後回しになって、後で苦情をいわれた。ヘリポートの解放、地域社会、兵庫県警機動隊などに独身寮の風呂の提供、などもあったが、製品の出荷が大問題で、明石の運動場をコンテナーヤードにして、夜中に播磨から大阪まで筏で輸送、大阪港で船積みした。川汽の100%の協力を貰ったが、全量が川汽扱いになったため、こんなに荷物があったのかと驚かれ、後で返して貰うのに苦労した。

この時の増量で、川汽の神戸支店長は、表彰されている。とにかく、一台あたり5,300円ほどのコストアップになったが、4日程の遅れで生産も開始し、スムーズな供給を続けた。欧州などでは、カワサキさんの製品は当分の間来ない、というウワサが広まっていたそうだ。

この時、高橋さんは苦楽園で孤立し、どうにもならず、救出作戦を考えた。、とりあえず、岩崎さんに頼み、二台の二輪車に救援物資を積んで、何とか運び込んで貰った。高橋さんは大喜びで、良くきてくれたと歓待し、折角の救援物資をかなり消化してしまったようだ。その後彼が見つけたルートで、高橋さんご夫婦は無事に明石の家族寮に到着し暫く滞在して明石工場に復帰した何かの時には、本当に頼りになる岩崎さんであった。

この年から、彼はKMJの物流会社の常務に出向していたのだが、高橋さん家族をお迎えした時は、多分警察から頂いていた『通行許可証』が役に立ったのだろうと思っている。

 

★兎に角、新幹線が止まってしまってるので、東京などへの出張も飛行機なのだが、伊丹空港に行くのも三田廻りでないとダメだし、岡山空港まで行った人などもいたのである。

 阪神大震災では高架橋が桁(けた)ごと落ちるなど、山陽新幹線に深刻な被害が出たのだが、その復旧には88日掛ったが、これは日本独特の得意分野で『早い復旧だった』と言っていいだろう。

この年も、6月頃からは普通に戻ったのである。

この年の役員人事で高橋鐵郎さんの副社長昇格が、次期本部長には田崎さんが就任する方向で決まり、事業本部内の人事がいろいろあった年である。 そんな相談を田崎さんから何度も受けていて、JJSBAの会長をやっていた鶴谷さんの異動などもあって、次期会長には岩田茂樹さんが就任することになった。

昭和32年に川崎に入社した私たちの年次の人たちも、この年までにはみんな引退してしまって、現役で残っていたのは小野・横山さんと私の3人だけになってしまっていたのである。

KMJの次期責任者として中島直行さんが決まり 、この年の10月からはKMJの営業担当として異動したので、10月以降は殆ど中島君に実務は任して、私自身は松井田プロジェクト、自動車学校問題、自工会でのNMCA 日本二輪車協会の設立に尽力していたのである。

 

   

 

  

 

  4

  

  

 

  

 

 ★この年最高に盛り上がっていたのは、JJSBAの千里浜大会である。

 上の写真は、ネットから拾ったごく最近のものだが、延々と続く羽咋シーサイドは砂浜の上を車で走れる独特の砂ですぐ横まで車が入れる環境なのである。

 当時は1000台を優に超えるエントリーがあって、羽咋市長も観光協会会長も協賛者として大変なご尽力を頂いたのである。

この年は7月14日に開催されて、新岩田JJSBA会長の下での開催となり、田崎さんも私も現地に赴いての実地観戦となったのである。

 JJSBAが一番光り輝いていた時代なのである。

このJJSBAの設立はまだ田崎さんがKMC社長の時代で、私も初代JJSBA会長を務められた苧野豊秋さんと一緒にアメリカを訪問して実現したのである。

 これは田崎さんが送ってくれたその時の写真だが、苧野豊秋さんはジェットのご出身で高橋鐵郎・田村一郎・田崎雅元さんにとっても上司であり、カワサキの二輪部門のカワ販の専務として尽力されたので私も長くお世話になったのである。

晩年は、新設の部品会社やJJSBAの初代会長として、私は本当にお世話になった『カワサキの二輪事業のの功労者』だと言っていい。

 

当時のKMCでもこんなに沢山の人が、集まっての歓迎会だったのである。

   

 私のすぐ後ろに立ってる大柄なのが、後JJSBAの会長も務めてくれた岩田茂樹くんである。

 

   

 

 

   

 

  これらの写真はみんな田崎さんが、今年になって私の『カワサキの二輪事業と私』のために送ってくれたものである。

 川崎重工業の中でも、単車だけが受注産業とは全く異なる民需量産事業で、末端ユーザーと大々的に、千里浜のレースを楽しんだりする独特の雰囲気を持っている。

 私と田崎さんとの関係も、もっと以前のファクトリレースを一緒にやった20歳代の関係が変わらず今もそのまま続いているのである。

 

 ★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

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カワサキ二輪事業と私  その65 平成6年(1994)

2017-08-07 06:36:22 | 自分史

★平成6年(1994)は、関西国際空港が開港したり、オウム真理教による松本サリン事件発生などがあったそんな年だった。

私も61才、現役での仕事もまさに最終段階に入った時期だと言っていい。

1990年代の初頭からカワサキの国内市場を担当して、目標であった7万台も達成出来たし、前年には鈴鹿8時間耐久レースの優勝、全国各地でのKawasaki Plaza の展開などなど、新しいカワサキのイメージの創造も順調に推移はしていたのだが、この年には7万台からカワサキの販売台数も減少して短期的な損益は非常に厳しい1年で、少々損益分岐点が高くなり過ぎていたので、この年後半には損益分岐点を4万台までに引き下げて、堅実経営ができるような体制を目指したのである。

この年も、二輪車の中大型市場縮小の傾向は止まらず、自動二輪ではカワサキがホンダを抑えてトップになれたのだが、それを素直に喜んでばかりはいられない心境だったのである。

そんな環境の中で、カワサキだけではなく二輪業界全体を何とかしたいという想いは強くあって、特に末端のユーザー対策は、『遊びのソフト会社=ケイ・スポーツ・システム』の活動を中心に、カワサキが先頭を走っていたこともあって、特にホンダさんとは具体的に青山にも何度もお伺いして、業界として具体的に動き始めた年なのである。

これが数年後私の現役最後の仕事となった二輪業界としてのNMCAの設立に繋がっていくのである。

 

そんな業界としての動きは、今は 全国組織となっている 全国オートバイ協同組合連合会  http://www.ajac.gr.jp/ も当時はまだ近畿だけだったかも知れない。

 

  

 

   

 

この年には、大阪では既に、吉田純一さんが販売店共同組合連合会を立ち上げられていて、このような活動を展開されている。

この年の3月に、吉田純一さんが、当時の柴田・福田・竹重さんたちと一緒に、明石に来られて面談している。どんなお話だったかは定かには覚えていないのだが、日記を見ると『明石屋で会食』とあるので、それなりの対応をさせて頂いたのだと思っている。

吉田純一さんもカワサキのOBだが、単にカワサキだけでなく『二輪業界』として社会貢献しようというスタンスに、当時から共感を覚えていたのである。

この年以降の数年は、カワサキのこともさることながら、二輪業界がうまく回らないかなとずっと思っていたし、具体的にそのように動いたりしたのである。

ジェットスキーの関係するパーソナル・クラフト協会PWSAでは、ヤマハさんとの協働し、その会長を引き受けていたので、ホントにいい雰囲気での会合を重ねていたし、二輪特別対策委員会などに顔を出されていたホンダ・ヤマハ・スズキのメンバーの方とはホントに親しくお付き合いをさせて頂いていたのである。

 

★ そのような私自身の最後の数年の想いと動きではあったが、国内を統括する責任者としては、この年も、苦しい中でもいろんな新しい取り組みの先頭に立っていたのである。

この年から具体的に進めたプロジェクトとしては群馬県の松井田に新しいサーキットをという松井田プロジェクト二輪専門の自動車学校の設立計画ジェットスキーのレースの事業化JJSBAの強化博多のIMS でのKawasaki Plaza 展開などは、私自身が担当して進めていたのである。

こういう活動が具体的にどんどん進んだのは、株・ケイ・スポーツ・システム南昌吾常務や渡部達也、Jet Skiでは、鶴谷将俊・藤田孝明、 さらにユーザー対策のソフト分野では谷沢高明、松井田プロジェクトの古石喜代司などのちょっと変わった実力者たちが、夫々に自由に思うままに、頑張ってくれてたからである。この年の末には若い頃からずっと一緒にいろいろやった岩崎茂樹が物流関係のKLCの常務として加わってくれたのである。若手も中堅も、そのリーダーたちもホントに自由に自らが思うように動いていて、グループ全体がいい雰囲気だったと思っている。

 

★この年の個別問題を時系列に追っかけてみると、

● 2月のJJSBAの総会では前年度全国51戦を各地で展開し、総収入・総支出は約190百万円の規模にまで大きくなっていたのだが、引き続いて琵琶湖のワールドカップ千里浜での大会を企画し、7月に開催された千里浜大会では1300台のエントリー世界最大の大会となり、地元の羽咋町などはギネスブックの登録など真剣に考えたりしたのである。

 

   

 

 これは田崎さんが送ってくれた琵琶湖のレースだが、千里浜ではこんな風景が約1キロ以上に亘って展開して、それは壮観だったのである。

 

●4月25日には、SPA 直入に新しくオフロードのコースが出来てその開所式があり、地元からは直入町長以下が出席されたし、カワサキ側も多数関係者が出席した。

開会の挨拶を田崎さんがされて最後の謝辞を私が述べたりした

 

   

 

   

 

●5月8日には関東のつくばサーキットを借り切って『ZEPHYR 8万台、KAZE会員5万人達成』のThanks Fair を開催しているが、カワサキファンたちでサーキットが埋まった。

公表12000人と発表となっているが、入場料を取ったわけでもなかったので、正確な人数はよく解らないのだが5000~8000人は、間違いなく集まったのではないかと思っている。

岩城滉一のグループだけでも100名を超すメンバーが集まって、華やかだった。

カワサキの歴史の中で、二輪のイベントとしては最高の人数が集まったのではないかと思う。

 

★この年から本格的に動き出したのが、阪神ライデイングスクールの有馬さんと組んでの二輪車専門自動車学校プロジェクトである。

当時阪神ライデイングスクールは、鈴鹿サーキットでのレースなどに、チームを出場させていて、そんなご縁で繋がったのである。

指定自動車学校開設趣旨書』を兵庫県警に9月に提出して、以降約1年掛かって指定免許を取ったのだが、教習場で教えた生徒を試験場での試験に送り込み約30人が連続して合格しないと、その免許は頂けないという、まずは『不可能に近い条件』なのだが、それを見事クリアして免許取得に漕ぎつけたのである。

阪神ライデイングスクールの人たちの献身的な指導があって初めて実現したプロジェクトなのである。

 

   

 

 これは翌年だが、そのオープンのテープカットである。

全国でも珍しい二輪専門の自動車学校で、兵庫県の各自動車学校の二輪担当者なども研修に来られるなど、社会的な役割も十分果たしていた、『カワサキ・ライデイングスクール』だったのだが、何を思ったのか今は廃校になってしまっている。

 ただ単に、『二輪車を作ってそれを売り利益を上げる』のも営利事業だから当然だが、ただ単にそんなことだから、段々と二輪事業も縮小してしまうのだと、私は思っている。

この学校の教室の基準なども非常に厳しくて、その教室を設定するためにこの年、KMJはその本社事務所を教室とすべく、本社事務所を玉津に移転してその対応を行ったのである。

 

★この年、田崎雅元さんは、CP事業本部副本部長だったと思う。

田崎さんとは若い頃のファクトリーチームのレース仲間だったし、彼がKMCの社長をしていた時期は、私は企画室長として支えた仲で、この年も国内の殆ど全ての行事やプロジェクトに出席してくれて、事業本部の立場から支えてくれたのである。

自動車学校の教室を確保するために、本社事務所を移転するなどは、なかなか『普通ではできない』ことなのだが、こんな粗っぽいことができたのは、CP事業本部長が高橋鐵郎さんでKMJ社長を兼務して頂いたし、田崎さんが側面から全面協力してくれたからだと思う。

当時は基本的に円高だったし、国内市場が事業本部にとって最重要市場であったこともあるのだが、結構ドラスチックに動けたオモシロい時代だったのである。

 

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カワサキ二輪事業と私  その64 平成5年(1993)

2017-07-26 07:04:01 | 自分史

 ★平成5年(1993)皇太子・雅子さまの御結婚があったり、細川内閣や Jリーグが新しくスタートした年である。

私自身は60才還暦を迎えたし、長男に初孫が生まれたりした。

カワサキでの現役生活も前年度に理事を卒業して技監になったり、サラリーマンから国内グループを文字通り統括するそんな立場になっていた。

新しい国内のパーソナル・ウオータークラフト業界では、ヤマハさんと協働して、PWSA協会を立ち上げ、その会長なども務めたし、自動車工業会の二輪車特別対策委員会のメンバーとして、業界活動などにも携わることになって、その活動は従来以上に広くなっていたし、業界の会合以外でもホンダ・ヤマハ・スズキさんの方たちとのお付き合いが増えていったのである。

私自身は、二輪事業を担当していたが、カワサキのためにというよりも常に業界のためにという意識があったのは二輪業界が4輪などに比べてそんなに大きな業界ではないし、そんな中でカワサキだけの発展を望むよりは業界自体を大きくする方がカワサキにとってもプラスだと思っていたからである。

現役当時の販売網は専売店もあったがそれは販売店がそれを望んだからで、他社を扱うことを制限したことはない。個人的にも車はホンダのアコードに乗ったり、娘のスクーターはスズキ、ゴルフのクラブはヤマハだったりした。

 

前年までは、カワサキの国内グループの与えられた数値目標などもあったのだが、国内市場拡大の7万台目標も達成できて、今後はこのグループを、二輪業界をどのような形のものに導くべきか、改めて考えねばならぬ時期だったのである。

PWSA業界では、曲がりなりにも業界の先頭を走っていたし、今までにない『レース』が中心の商品だったので、それをどんな形に持っていくのか? その方向性を示さねばならぬ、そんな時期だったと言っていい。

 

 

        

 

 CP事業本部長の高橋鐵郎さんが、KMJ社長を兼務されていて、 『"ユーザーの満足" が全ての思考の基準です

Kawasaki Good Times コンセプトを復活し、愛される『好感企業』をめざしたのである。

 

    

 

    その現場を担当した私は、高いレベルの専門会社群による『ソフト・ビジネス』事業体を目指したのである。

 

  当時の私の手書きの『発想のベース』だが、その基本ソフトは、誰にも任さずに自分で考え、全てを専門化し『プロのレベル』を目指したのである。

 

        

  

 何事も、単純に言ってアマチュアというか素人のレベルでは、『ユーザーの満足』などはとても与えることはできないと思ったので、そのための専門化だし、機能別組織としたのである。

従来のような汎用的な販売会社では、社会や他人であるユーザーを引っ張ることなど難しいと思ったのである。

新しく創った『CS推進部』をその核としているが、『顧客満足のCS』の Cは、日本で一般的な Customer Satisfaction (取引先)ではなく、
明確に Consumer Satisfaction (末端消費者)を目指したのである。

 

  こちらはそれを綺麗な表にしたものである。

 

   

 

 

  特筆できるのは、この年から販売店にも明確に、どのような機能を、自分の店の売りにするのか?

 という『機能別ARK』の方向を提唱し、サービス・ショールーム・レース・KAZE・アクセサリー・セールス などの諸機能のうち、どのような分野で高いレベルを目指すのか、明確にしていくことを要求したのである。

 この年を機に、部品用品などの専門化を目指したのが、インターナショナルトレーデイング・ムラシマで、今でも残っている機能別ARK である。

そんなご縁で今でもいろんな形で村島邦彦さんとはお付き合いが続いているのである。

 

ショールームとしては、新宿のショールームがこのビルの1階で展開されたのである。

 

          

 

  この年、カワサキは、長い歴史の鈴鹿8時間耐久レースで、ラッセル・スライトのコンビで念願の優勝を果たしている。

 

     

 

  優勝マシンは『イトーハム・レーシング

  優勝監督は、確か大津信さん。

  この年初めてできたスポーツ推進部部長は、岩崎茂樹さん

 

  そしてこの優勝マシンは、博多・天神のIMSビル3階にオープンしたショールームに展示されたのである。

この IMS の展示場は約60坪、敷金が6000万円、賃料200万円・月 と相当高価だったが、博多の一等地だったし、新宿と並んでその展示効果は非常に大きかったのである。

これらソフト・ビジネスや レースの世界を専門的に担当したソフト会社が、株・ケイ・スポーツ・システムで、ユーザークラブKAZEも担当して、当時は会員55000人を有していたし、ちょっと他社とは完全に差別化された、オモシロいグループ展開となっていたのである。

 グループの若い人たちが積極的に動いてくれて、首都圏対策として東京都では特別対策を行っていたのだが、その一つが前回ご紹介した新宿ショールームの『アフター・ファイブ』で、これはカワサキOBとの協働であったし、『つきみののショップ』担当は入社早々の若手小岩井くんがが担当していたのである。

 

    

 

 この年、特筆できるのは、JJSBA設立10周年を記念して琵琶湖で開催された JET SKI WORLD CUP '93 で、アメリカ・オーストラリア・カナダ・ヨーロッパ・東南アジアのチャンピオンたちを集めての、文字通りのワールド・カップ開催である。

苧野豊秋さんがこのJJSBAの認可を求めて渡米された時には私もご一緒したのだが、その時いろいろと手伝ってくれたのが、当時KMC社長だった田崎雅元さんなのである。

それから10年、カワサキのJet Sky ビジネスはこれを担当してくれた鶴谷将俊さんの努力で彼はこの時にはJJSBA会長も兼務していたのだが、こんな立派な大会が開催されるところまで来たのは感無量だったのである。

 

★この時期の『カワサキ』はCP事業本部長の高橋鐵郎さんが旗を振っておられたので、このような展開も可能だったのだと思うが、

新宿のビルの頂上に大きく広告された Kawasaki Let the good times roll ! も国内で復活し全世界展開となったのである。

1975年当時アメリカで生まれたカワサキの基本コンセプトだったが、約20年の空白を経て復活したのである。

 

この『コンセプト』について、田崎さんがこんなメッセージを私に送ってくれているのでご紹介を・・

 私は、KMC社長・CP事業本部長・KHI社長の職責を通じて、Good Times のスローガンを使い続けています。平成10年の MIND の挨拶は「Good Times のカワサキ」で締めています。平成12年6月の社長メッセージも、締めは、「Kawasaki .Let the good times roll !」 

カワサキの皆様(顧客、従業員、株主、取引先等)! 豊かで生きがいのある人生(Good Times)を追求し続け(ROLL)しましょうという呼びかけで、いまでは Kawasaki ブランドとともに世界中で親しまれています。 

このスローガンでアメリカ人のスタッフと英文法で議論した事があります。Kawasaki が主語なら Letsで、Kawasaki の意思表明になるし、Let’s なら皆でやろうという事になるのでは、といったら、難しく考えないで 最初のKawasaki は、われわれKawasaki は、とか Kawasaki の皆さん!という呼びかけと思ったら良いと云って笑っていました。 ”Roll がミソで 幸せの輪をまわす、と モターサイクルに引っかけているように思います。

 

1970年代にアメリカで生まれ、歌もできて当時のアメリカでは非常に有名だった。

アメリカ生まれだから、正式な日本語訳はない。

カワサキに出会う人たちがみんなハッピーになるような活動をカワサキは展開し続けます』高橋さんはよくこのように言われていた。

 

    

 

 これは当時明石のショールームに飾られていた。 いまどこにあるのだろう?

 ちなみに、この年、田崎さんはニューヨークから戻って、CP事業本部副本部長だったのである。

 

 

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