雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

90年生きたということ

2024-03-16 06:44:55 | 自分史

★ 3月に誕生日を迎えて91歳になったのだが、
  よく生きたもので90年間も生きたことになる。
  この90年間は、日本にとって有史以来最も『激動の時代』だったと言って間違いないだろう。

  そんな90年間のうち80年間はよく覚えている。
  昭和25年(1950)に大東亜戦争は終わって終戦を迎えるのだが、
  私はその時中学1年生今のソウル、朝鮮京城にいたのである。

  アメリカとの戦時中も内地と言うか日本は大変だったのだが、
  私が住んでいた外地は全く大変なことはなかったのである。 
  外地と言ってたが、そこは日本だったし朝鮮京城は日本だったから、
  日本語が語られていたし、当時の朝鮮の人たちはみんな『日本語』が話せたのである。

  
 こんな地図をご覧になった方は少ないだろうが、
 私が小学生時代、4年生の頃の「日本の地図」だと言っていい。
 太平洋戦争も当初は『勝ち戦』でこの地図の緑の部分は『日本』だった。
 これは緑で塗られているが、
 小学生の頃、白地図に赤く塗っていったのを想い出す。

 この分では「世界が日本になる」と思ったりした。


 
  

★ それは兎も角、朝鮮も台湾も日本だったし、
  満州国も事実上、日本の統治だったのである。
  そう言えば樺太も半分は日本だったのである。



  
  

  そんな時代が何年続いたのだろう?
  私の祖父は朝鮮に電力事業を起こしたので、
  そんなことから私は生まれてすぐ朝鮮に渡ったようである。
  小さなころは何となくだが、小学校に入る前あたりからはよく覚えている。

  そういう意味では『私の故郷』は京城(今のソウル)なのである。

 
★そんな戦前の時代を経験したのだが、
 昭和25年12月に日本に引き揚げてきてからの
 『戦後の日本の変貌』もこれも又大変なものである。
 こんなに凄まじく変わったというか発展した時代も初めてなのだろう。

 『もはや戦後ではない』と言われたのは、終戦から10年目の頃のことで、     
 GDPが戦前の水準を上回ったのでである。
  1954年ごろには朝鮮戦争を契機に「神武景気」といわれたりした。 


★ 新幹線が東京―新大阪をスタートしたのは1964年だが、


  



 それから60年経って、全国に『新幹線網』が張り巡らされ、
 今日は『敦賀新幹線』がスタートする。


  
  
 


  こんな新しい車両が走ることになるらしい。
  

 



★ 本当に目まぐるしい変化・発展の90年間だった。
 90歳の老人が毎日ネットでこんなブログを発信続けることなど、
 かっては考えられなかったことなのである。
 
 そんな『超高度成長期』を生きて目まぐるしい変化を体験した世代は、
 『昭和一桁世代』だと言っていいのだろう。
 そんな時代を今もなお元気に生きてる幸せを実感している今日この頃なのである。
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私の日記から 昭和58年(1983)~昭和60年(1985)

2024-01-28 05:49:09 | 自分史

★ この3年間は大庭浩本部長時代である。

 昭和58年年7月1日付で、
 再建屋と呼ばれていた大庭浩常務単車事業本部長として乗り込んでこられたのである。
 この3年間、私は大庭さんの番頭役としての職務を果たしたのである。

 大庭さんに対する周囲の評価は『めちゃめちゃ怖い』と言うのが一般的だったのだが、
 確かにそんな面もお持ちではあったが、大庭さんの3年間の単車本部長時代に私は一度も怒られたことはなく、絶大の信頼を得ていたのである。
 
★ 7月1日に来られるなり指示があったのは、
 「単車事業本部の意志決定と報告のシステムを図示説明せよ」というもので、
 それに対しての回答がこの1枚にこのように纏めて、
 
 


単車事業本部(概要説明)をこのような8項目に纏めて、ご説明したのである。




大庭さんとの初めてのこの3時間で『大庭さんの信頼』をまず得られたと思う。
 
★ 確かに事業業績は悪かったのだが、世界に独自の事業展開をしている海外事業を視察されたりしたのだが、
 恐い』と定評のある大庭さんに対しても、ズケズケ自分の意見を言う単車の風土を気に入られた節があって、
9月には『単車は意外に確りしている』との評価を頂いたりするのである。
 当時の単車事業本部はアメリカのKMCが毎年100億円を超える赤字で、そんな対策から川崎重工業本体も無配となる大変な時期だったのだが、
 前年10月からの半年間の対策で、先ず海外販社の赤字は止まり、事業本部の赤字も何とか目途が立つた、そんな時期に大庭本部長は来られたのである。
 そう言う意味では『いいツキ』を持っておられたなと思っている。

★私自身は当との時の山田副社長から『KMCの赤字は止まると思う』との質問に対して『直ぐ止まります』と答えたものだから、
それならお前が企画をや』と国内販社から川企画に連れ戻されたのだが、
それから半年の対策で海外販社の赤字は既に止まっていたのである。
 私は当時まだ新任部長だったのだが、山田副社長とはずっと以前の若いころのレースで関係があったし、もうお一人の大西副社長とは国内販社再建で密接な関係で、お二人の副社長に絶大な信頼があったのである。
 大庭本部長はそんなお二人の副社長推薦で単車に来られることになったのだが、大西副社長からは『大庭君をよろしく頼むな』とのお言葉も頂いたりしていたのである。

★当時の私の直接の上司は高橋鐵郎さんで、一番問題であったアメリカのKMCは田崎雅元さんが社長をしていたのだが、
大庭本部長の番頭役を私が担当し、高橋・古谷・田崎のトリオで大庭体制を支えたと言っていい。 

 当時の写真もいろいろあるのだが、
 これらはみんな田崎さんが私に送ってくれたものである。
 これは山田・高橋・田崎さんだし、


  

  こちらは大庭さんを囲んでの3人である。


   


★この大庭本部長時代の一番大きな出来事はアメリカのKMCの新社屋建設かも知れない。
 KMCはこの時期サンタアナに本社があったのだが、手狭だったので技術関連は別社屋などあちこちに分散していたのである。
 この本社の土地・建物を売却したら、隣町のアーヴァインに広大な土地が買えたので、そこに本社を移し、分散していた技術関連なども統合したのである。
 このプロジェクトはまだKMCに累損も残っていたので、時期尚早と反対論もあったのだが、これが実現したのは当時の大西副社長の推薦があったからで、
この写真が、大西副社長にその候補地をお見せした時の写真なのである。


  
 




★ 大庭浩本部長は3年間事業本部長を務められたのだが、
 再建なって川重専務で本社に戻られ、その後、川重社長を務められたのである。 
 単車での3年間で、単車事業の本質もご理解になり、
 単車事業のある意味真のファンになられたと言ってもいい。
 川崎重工業の中で単車事業がその中枢の事業として認められるようになったのは、
 大庭本部長が川重本社に戻られてからだと言ってもいい。
 
  

    

  
それ以降、当時単車事業本部の企画室長をされていた高橋鐵郎さんは、川重副社長になられたし、
KMC社長だった田崎さんは、川崎重工業社長になられるのである。
私自身のことでいえば、私の川重での最終職位は技監なのである。
技監とは役員待遇であるのだが、技術屋さんの博士号などをお持ちの方などの専門職位だったのだが、私が初めての事務屋の技監なのである。
大庭さん曰く『お前は専門のマーケッテング分野では技監に値する』と言って頂いたのである。
 そう言う意味で、私は大満足の技なのである。  


    

  
 カワサキの単車事業にとって、
 この大庭本部長時代の3年間は、非常に大きな意味を持つ3年間だったと言っていい。

 
  

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私の日記から 昭和57年(1982)

2024-01-21 06:03:35 | 自分史

★昭和57年(1982)は私は49歳、40歳代の最後の年である。
 会社では二輪の国内担当だったが、カワサキの二輪事業は危機的な時期だったと言っていい。
 前回にも述べたが、特にアメリカのKMCが大変で、毎期100億円もの赤字が続いていて、
 川崎重工業本社の財務事業本部もその対策に300億円単位の資金対策などやっていたのだが、
 なかなかその効果が上がらないのである。
 川崎重工業にとっての二輪事業は全く新しい分野でTOPの方たちを含め、その経営経験がないものだから、どうすればいいのか具体策が出てこない、そんな状況が続いていたのである。

 私自身は、二輪事業スタートの時期に東北の販売会社を横からだが観てきたし、
 その後近畿地区での第1線を経験して、当時の川重籍の中では唯一第一線の販社経験者でもあったのである。
 そして、当時担当していた国内販社カワサキオートバイ販売は、唯一黒字経営で、過去にあった10億近い累積赤字も消去して、本社筋からの信頼も厚かったそんな時期だった。

★ この年の7月1日に、単車再建委員長になられた山田副社長から呼び出しがあって、
 アメリカのKMCの赤字経営は止まると思うか?と仰るので、
 『それは直ぐ止まると思います』とお答えしたのだが、
 『それなら、お前が企画戻って旗を振れ』と仰って、
 私はこの年の10月1日付で単車事業部企画部長として、復帰することになるのである。
 その時私が山田副社長にお願いした条件はただ一つ、
 『アメリカに行かれている高橋鐵郎さんを企画室長で戻して欲しい』とお願いをしたのである。
 それは、アメリカをはじめ世界の販社の経営再建の具体策は創れるとは、思うのだが、それを全軍に指揮命令するのは、新米部長としては荷が重すぎて、
 高橋鐵郎さんの力が必要だと思ったのである。
 
 当時、高橋さんはアメリカKMCの会長として、田崎雅元社長の後ろ盾として出向されていたのだが、
 山田さんは『KMCを田崎だけでできるか?』と仰るので、
 「私は田崎さんよりは1年先輩だけですから、
 若し田崎さんがKMCの経営をできないのなら、
 単車事業全体旗振りなどとてもできません』と言って
 強引に高橋鐵郎さんに戻って頂いたのである。

 この人事は川崎重工業のその後の経営に大きく影響したと思うのである。
 これたら約2年の間にアメリカのKMCも立ち直ったし、世界の販社はすべて黒字になって、
 そんな功績から高橋鐵郎さんの取締役も実現して、副社長にもなられたし、
 田崎さんもその後いろいろあったが、川重社長にもなられたのである。


    


 そんなご縁から、高橋鐵郎さんとはそれ以降、
 退職するまでずっとコンビのような形が続いて、
 現役時代一番お世話になった上司なのである。


★この年は長男・古谷大治が関学に入学した年でもある。
 1回生の時からサッカー部のレギュラーで出場したので、
息子のサッカーに入れ込んだ何年間かが始まった1年目になった。
 会社も含めていい年の始まりだった1年だと言っていい。
 
 
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私の日記から 昭和54年(1979)

2024-01-09 07:30:20 | 自分史
★ 私の人生はホントにツイてたなと思うのだが、
  その典型的な年がこの昭和54年(1979)と言えるかも知れない。
  自分の人生など、自分の力だけではなく、周囲の人たちの力で動いていくものなのだが、
  加えて、めぐりあわせ的な運も大きな影響を持っていると思う。
  それを呼び込むのは、日ごろの努力なのかも知れない。
  
 単車事業の中核であったアメリカ事業が『ハーレーダンピング問題』もあって大変な時期だったのである。
 この『ハーレーダンピング問題』が独特で、
 アメリカに於ける二輪業界経費率以上は認めないというものなのである。
 当時、国内4社で地域販社のほかに、販社本社のあったのはカワサキだけで、その構造対策をしなければ、
 カワサキだけがダンピングに引っかかるというようなことになっていたのである。
 川崎航空機工業時代の取締役カワサキオートバイ販売の社長をされていたし、重役陣も大物部長級が揃っていて、
 そう言う意味でもその経費率が高かったのである。

★この対策案が当時の企画部門を中心に検討され、
 この販社本社をなくそうとするのだが、なかなか上手くいかなくて、
 前年の10月に事業本部長から直接営業部にいたその対策案を創れという指示が出たのである。

 その私案は、従来のカワサキオートバイ販売の本社は残すのだが、
 本社の陣容は10人ほどの小規模なものにして、
 実際は単車事業本部の営業部がカワサキオートバイ販売の本社機能を持つことにして、兎に角その『経費率の縮小』を図り、ハーレーダンピング対策としたのである。
 この案で川重本社も通ったのだが、その説明時に、
 『実際は誰が旗を振るのか?』という本社側の質問に対して、
 事業本部長は『それは古谷です』と即座に答えられたのだが、
 本社の大西常務が『それなら古谷をカワ販の常務にするように』と言われて、
カワサキオートバイ販売・常務取締役と言う途方もない肩書になったのである。

 まだ若干46歳だったし、川重での職位は課長だったのだが、
 国内販社グループ約400名の指揮を執るという、とんでもないことになったのである。

★カワサキの国内販売の総帥と言う地位なのだが、
 当然ながら年上の方はいっぱいおられたし、
 カワサキオートバイ販売の前社長ほか重役陣も直接経営にはタッチされなかったが、顧問軍団として残られたので、
 その対応だけでも大変だったのである。

 ただ、本当にツイていて、この年にあのFX400が発売されたのである。
 DOHC4気筒車で、この車がカワサキの初めての量販ヒット商品だと言っていい。

  
 


 それまでにもZ1/Z2などヒット商品はあったのだが、
 その販売台数ではこの車がカワサキにとって初めての国内市場量販ヒット商品となって、
 当時のカワサキオートバイ販売には、10億円に近い累損があったのだが、
 この車のお陰でそれもすべて2年ほどで消去出来てしまったのである。
  
★ この当時、このカワサキオートバイ販売については、
 その新しい形を川重本社が認可したということもあって、
 私は本社の大西常務に毎月報告に行っていたのだが、
 この年末辺りには、販社の損益もどんどん改善されて、累損も減っていくのである。
 従来はかっての川崎航空機の役員さんが社長をしても上手くいかなかった販社なのに、
 若手の私が担当してどんどん良くなるものだから、
 秋には川重専務になられていた大西さんから、
 『1年前からこうなると君は解っていたのか?』などと、
 言われたりするのだが、

 これは私の力などではなくて、すべて400FXのお陰なのである。
 そう言う意味でも、本当にツイてたなと思うのである。
 


 



 川重全体も、カワサキの二輪事業もみんな苦しい時代に、
 ひとり国内市場だけが好調だったので、本当に目だった存在だったのである。
 そんな時期に毎月の本社報告もあったりして、私の名前も本社の人達にも『売れた』そんな時期になったのである。
 これはツキ以外の何物でもないと思っている。

★ この年には息子古谷大治小野高校に進学しているのだが、
 小学生時代から始めたサッカーでいろいろと忙しかった時代で、
 私も仕事の傍ら息子のサッカーもよく観に行っている。
 小学生時代から三木選抜になったし、
 中学時代も兵庫選抜に選ばれたりしたのだが、
 高校生になると兵庫選抜は勿論、関西ユースのメンバーになったり、ベスト・イレブンに選ばれたりするものだから、
 私自身も息子のサッカーに熱が入ってた時代なのである。

 そんなことで、公私ともにホントにツイていた年だったと言えるのだろう。


  

 
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私の日記から 昭和51年(1976)~昭和53(1978)

2023-12-29 07:31:12 | 自分史

★前年の10月1日から川崎重工業単車事業本部企画室企画部に10年振りに復帰はしたのだが、
 名称は仰々しいのだが、やっている業務は大したことのない管理業務が主体で大して忙しくもないのである。
 ただ、会社の部門としてはエリートが集まる所謂『いい部門』であることは間違いなかったのである。

 当時、従来のアメリカ市場の大・中型のバイクに陰りが見えたし、
 国内市場ではホンダのロードパルが話題になって、一種の小型車ブームの時代であった。
 そんな時代背景もあって、効率的な生産設備をベースに
 小型車モペットの大量生産を目論んだ計画が進行中で、
 これを主導されていたのは本社の吉田専務と生産管理部だったのである。

 ただ、販売面の検討が抜け落ちていて、このまま進むと危ないと思ったのだが、
 本社の専務が主導されているので、直接反対もムツカシイので、
 小型車に関する考察』と言う一文を策定し、



  
 
 東南アジアのCKD事業なら大掛かりな製造設備投資など不要なので、
 市場調査を」と東南アジアの調査団を立ち上げたのである。

★この調査団は技術本部長の高橋鐵郎さんが団長で、
 開発・製造・営業からのメンバーを集め、
 まとめ役を言い出しべえの私が担当して、
 東南アジアを中心に約1か月に亘り、こんなルートで
 台湾-インドネシア―タイーイランーマレーシアーフィリッピン
 広大な地域の市場調査を行ったのである。

  
  
  
  各国の現地での販売状況や、当時の二輪車生産状況などの調査を行ったのだが、
  ホンダ・ヤマハ・スズキなどは既に進出していて、そんな工場も見せて頂いたりした。
 現地では既にバイクブームでインドネシアやタイのバンコックでは
 二輪が道を溢れるようにいっぱい走っていて、
 そんな情景を見るだけで『CKD事業進出』はGOだったのである。
  さらに、各国とも各メーカーの生産機種に限定があったから、
  後発メーカーでもその競争条件が緩和されていて、
  進出しやすい状況であったことは間違いない。

  各国の地方の販売店まで回ったので、これらの国の状況がよく解ったし、
  なかなかの観光旅行のようなところもあって楽しい旅だった。


★ただ、イランはまだ王政時代だった時代で、
 テヘランから南部のシラーズのほうまで行ったのだが、
 都会以外は全く緑のない砂漠で異様な光景なのである。

  

 
 回教徒のイラン人の発想も特異で、 
 テヘランからサヴエィには飛行機で行ったのだが、
 帰りの航空機が突然飛ばないというのである。
 『いつ飛ぶのか?』と聞いても『解らない』と言う答えで、
 ひつこく聞いたら『そんな先の話は神様の分野だ』と仰るのである。

 仕方がないので2台のタクシーに分乗してテヘランまで戻ってきたのだが、
 その道は真っすぐだが、本当に砂漠の中を走ってきたのである。
 ただ、テヘランは大都会で緑もいっぱいなのだが、
 1日に何度か山の方から水が流れてくる仕組みなのである。 

 ペルシャの市場も見てきたが、物品の値段も交渉で決まるなど、
 さらには神様への御祈りの時間があってその時間なると、
 やっていた会議など中断なのである。
 日本では考えられない世界で、おかしな国だと思ったが、
 世界でいえば、日本人よりは回教徒のほうが多いから
 『日本人の発想』のほうが特異なのかも知れないと思ったりもした。

★ こんな東南アジア調査団だったのだが、
 数か月後には市場開発プロジェクト室という新組織が出来て、
 団長だった高橋鐵郎さんが室長を兼務され、私も担当課長として異動することになるのである。
 そんなことで企画室企画課と言う非常にいいとされる部門をたった1年で自ら飛び出すような結果にはなったのである。

 市場開発プロジェクト室では、イラン・タイ・インドネシアの3か国を中心に、
 現地資本とのジョイントベンチャーを組んでの事業展開になったのだが、
 イランはその後の革命でダメだったが、
 その他の東南アジアのCKD事業は順調に推移して、台数もどんどん伸びて、
 市場開発プロジェクト室は通常の東南アジア営業部と発展して、
 最初にあった『モペットの小型車開発プロジェクト』はいつの間にか消滅してしまったのである。

 この期間、現地とのジョイントベンチャー・プロジェクトを主として担当したので、
 タイやインドネシアへなどへの海外出張も多く、英語を話すことにはなるのだが、
 英語など話したりしたのは最初の経験だった。
 ただ現地の人達も母国語ではなかったので、そう言う意味では気が楽だったし、
 タイなどでは相手が華僑なので、漢字の筆談も通用したりしたので、大いに助かったのである。

英語など全く話したこともなかったのだが、
 CKD事業と言う職場環境に出会って、話さざるを得ない環境に追い込まれたものだから、
 学生時代以来英語の勉強もしたし、私の日記も日替わりで英語で書くようにもしたのだが、これはその後数年間続いたのである。

 そう言う意味ではよく頑張ったとも言えるのである。


  

 
★この時期、会社ではこんな時期だったのだが、
 家庭では息子が中学生時代で、
 小学生の頃に始めサッカーにハマっていた時期で、
 三木は結構サッカーが盛んで、小学生時代も兵庫県で三木選抜優勝したし、
 緑ヶ丘中学校でも兵庫県大会で優勝したりして、
 兵庫県選抜にも選ばれたりもしたので、
 私自身もその追っかけに、忙しかった時代なのである。

 まだ、Jリーグもスタートしていない時期だったから、
 今のようにサッカーも盛んでもなかったのだが、
 あの釜本がヤンマー時代で彼の全盛期時代だと言っていい。

 私も40歳代の前半だったし、
 この時代の日記を読み返してみると
 公私ともに多忙だったが、なかなか楽しいいい時代だったのである。


  
 

  
 

 

 
  
 
 
 
 
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日記 70年目に入っている

2023-12-19 06:58:51 | 自分史

★日記を書きだしたのは、昭和28年(1953)11月8日からだから、
 20歳の頃からの記録が残っていて、
 70年目に入ったということなのである。

 私は大してムツカシクないことを継続するのは得意と言っていい。
 日記のほかに70歳の頃から始めたストレッチもそうだし、
 最近では、毎朝のスロー・ジョッギングなどがそうである。

 そんななかでも一番長いのは日記で
 70年間の日記が本棚に残っているので、
 昨今はその日記を読み返しているのだが、

 
 

 人間、覚えていることは覚えているのだが、
 それ以上に忘れてしまっていたことが多いのに驚いている。
 若し日記を書いていなければ、そんなことは永久に想いだしたりはしないことになる。

 以前にも書いたが、日記を書きだした直接の動機は朝日新聞に、
 『蒋介石は30年も日記を書いていてエライ』とあったので
 『日記を書くぐらいなら・・・』と確かその日から書き出したので、
 1年目の日記は大学ノートなのである。


  



 その後は毎年1冊づつの日記帳が続いていたのだが、


  

  
  約20年続いて、
  昭和47年(1972)からは3年連続日記になっている。
  3年連続になると日記帳の値段も4000円にもなるのだが、
  その頃には間違いなく続くのが解っていたので3年連続にしたのである。
  
 



 3年連続の日記帳を使っていた時期も長かったが、
 2000年には退職して定年後の生活に入ったので、
 書く内容も少なくなるだろうと、『5年連続の当用新日記』となっているのだが、
 この日記になると値段もさらに高くなるのだが、
 この日記が4冊・20年間続いて、





  90歳代に入って、
  殆ど毎日同じような単純な生活に入ったので、
  こんな少し小型の5年連続の日記になって、
  この日記帳が終るのは93歳なのである。


   



 来年を含めて、あと3年残っているのだが。
 果たしてもう1冊新しい日記帳を買うことになるだろうか?


★今では日記帳は1日に5行のスペースしかないので、
 本当に単純なことしかかいていないのである。
 ただ、この記事もそうなのだが、
 2006年9月からスタートした
 ネットのブログ「雑感日記」ももう17年続いていて、
 これは写真もあるし文章の量も多いのである。
 今ではこれを書くことが日課の一つになっている。

 いずれにしても、日記もこの雑感日記もいつかは終わることになるのだが、
 果たしてそれはどんな終わり方になるのだろうか?
 

  
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私の日記から   昭和42年(1967)~昭和44(1969)

2023-12-11 07:24:32 | 自分史

★昭和42年(1967)は34歳である。
 この年の1月に明石から仙台に異動になった。生涯ではじめての転勤である。
 当時のカワサキはまだ国内市場が中心で、アメリカ市場の開拓がはじまった時期である。
実用車のカワサキ』と言われていた時代で東北6県がカワサキの中でも最大の市場だった。
 当時はまだ全国各地に自前の代理店がありその下にサブ店と称する販売店、と言っても殆どが自転車屋だが、そこにバイクを委託する『委託販売』の時代だった。
 この委託販売方式は本田宗一郎さんの発案で、50㏄モペットを大量に売るために、当時の全国自転車屋、5万店以上にバイクを委託するという日本独特の販売方式だったのである。

 カワサキの場合は当時はモペットもあったが、販売の中心は125ccの実用車や90ccの中間車種に時代で、C2SSなどは東北が圧倒的に売っていたのである。

  

  
★東北6県だけでも広いのに、3年目からは北海道もテリトリーになって、
 その移動だけでも大変だった。
 この地域のカワサキのサブ店だけでも1000店以上もあって、そのサブ店訪問が仕事の一つだったから、
 お陰様で、東北・北海道の道はよく走ったし、
 東北以外の日本のいろんな町も訪問したところが多くて、
 最近テレビで日本国中のニュースが流れるのだが、
 いろんな町が懐かしく思い出されるのである。

 約40年間の現役生活のうち、3回、20年間国内市場を担当したので、会社の費用で全国を回らせて貰ったようなところがある。
日本の全都道府県を自分で車を運転して走ったから、大体どこでも解るような気がするのだが、
 特に東北と北海道は詳しいと言っていい。
 
  


 地図でご覧になっても、岩手県が日本で一番の大県なのだが、
 その他の県も大きさではベスト10に入っていて、
 移動はクルマだったが、当時は峠道など砂利道が多くて大変だった。
 英国の舗装率が100%などと聞いて、日本もいつになったらそんなことになるのかとよく思った。

 久しぶりに『道路の舗装率』をみたが、
 世界ではイギリス・イタリアなどは100%なのである。


  


★そんな東北6県なのだが、当時はまだ事務所も何もなくて、
 土地を買って事務所を建てるところから始めたのである。
 日本中の土地の住宅化などが真っ最中の時代で、
 仙台に出来たバイパス沿いの土地を決めたのだが、
 「カワサキだから何千坪でも買えるから、大きく買ってあとで分譲すればいい」と不動産屋は言ったのだが、
 会社からは許可が出ずに300坪ほどの土地を買ったのである。
 当時の他社の大きなところはホントに大きく買って、
 あとで分譲して儲けていたそんな時代だったのである。
 「大きな土地を買う許可を取る」のが一般企業ではムツカシイのだが、
 カワサキならその理由が幾らでも言えるというのが、
 不動産屋が勧めてくれた理由なのである。


 今はこんなにぎっしり家が建っているが、
 当時は何千坪でも買える空き地だったのである。
 
  

 

★ この時期のカワサキで一番台数を売っていたのが「岩手カワサキ」で、
 私の担当時にも毎年金賞を受賞していたのである。
 当時の久保社長が南部の出身で、
 まだ伊達だとか南部・津軽などと昔の藩の呼び名で言われたりしていたが、
 岩手県でも南の方は「伊達だから」と販売の主力は南部の国が中心だった。

 

 
 青森県でも南部と津軽はかって戦ったということで、
 同席せずに南部カワサキ会津軽カワサキ会に分かれていたりした。

 そんな東北での販売経験だが、
 末端の販売状況がよく解ったのもいい経験になったし、
 代理店の経営では、メーカーの言うことを聞いて大量に販売した代理店は、
 「資金繰りが大変」でその借入金対策からメーカー系列に入ってしまったのは、
 カワサキだけではなく4社みな同じだったのである。
 現在は、自前の代理店などは消え失せてしまって、すべてメーカー直営となっているのである。
 この営業外と言うか、資金繰り・バランスシート関連の実地を勉強できたことは、
 その後のメーカーでの販売会社経営や事業部経営時に大いに役に立ったのである。
  
 
★家庭では、家賃も仙台は安かったので一戸建ての庭付の住宅に住めたので、
 犬も飼ったりしたし、家内も何となく結婚以来初めて主婦らしい暮らしになったのかも知れない。
 長男が小学校、長女が幼稚園にそれぞれ入学する時代で、
 休みには、子どもたちの相手もしたし、
 東北6県は十和田や八幡平、蔵王・松島、などなど名所も多いので、
 家族旅行も楽しめたのである。

  

  

 この仙台時代には、私の「人に対する考え方」が私なりに確立出来た時代だと言っていい。
 もともと『性善説』に立っていたが、『人を疑うこと』をしない東北人の良さを身に染みて感じたのである。
 家には雨戸が無くて、家内が家主に『不用心』だと言ったら、
 『泥棒はいない』と言うのが答えだったとか。
日本一の販売を続けた岩手カワサキの久保社長のサブ店の扱いなどを見ても、
 そのベースは『信頼』から成り立っていたのである。
 
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私の日記から   昭和41年(1966)

2023-12-04 05:57:13 | 自分史

★ 私の一生を振り返ってみてもこの年が一番いろいろなことがあった年だったように思う。
 それがよかったのか悪かったのかは別にして、
 こんなにいろいろ経験することはなかなかないと言っていい。
 
 1月の初出の日藤井敏雄がやって来た。
 カワサキがGPレースに初めて参戦する年なのだが、その契約にやって来たのである。
 スズキからの移籍だった。年末のMFJの運営委員会で鈴木さんから社内ライダーの引き抜きは困るというようなクレームが出たのだが、
 その時は私はホントに解っていなかったのだが、カワサキの技術部がいろいろ折衝していたようである。
 そんなことで彼の移籍には関係していないのだが、ライダー契は私の担当だったので、契約についてはいろいろと纏めたのである。
 先方の希望でその時はライダー契約とはせずに『マシンの貸与契』にして
 約半年ヨーロッパGPに参戦するので、ライダー契約はその成績を見て改めてして欲しいという希望だったのである。
 そんなことから始まった1年だったのだが、2月には山本隆からを頼まれるのである。
 私自身がまだ33歳で、結婚したばかりなので一応はお断りしたのだが、どうしてもと仰るので、結局は引き受けることになったのである。
世の中にこんな若さで仲人をした方などいないと思うのだが、当時は単なる若手ライダーだった山本隆だが、その後の活躍でMFJの殿堂入をするようなライダーに成長したので、そんな『山本隆の仲人』は私にとっていい実績となったのである。

★この年は私のレース担当の最後の年になったのだが、
 レース関連では本当にいろいろなことが起きたのである。
MFJの運営委員会では日本GPを鈴鹿からこの年に開幕するFISCOに移そうという議案が出るのだが、FISCOの第1コナーが危険だという理由で、ホンダさんは日本GP不参加を決めたのである。
 FISCOの第1コーナーがどれ位なものかをMFJの運営委員会で実地検証することになって、4輪車だったがFISCOを何周か走らせて貰ったのだが、確かにあのコーナーは吸い込まれていくようなものスゴイ下りのコーナーだったのを覚えている。
 
モトクロス関係では、前年にスズキが本格的なモトクロッサーRHを開発し、久保和夫・小島松久の二人が乗ったので、カワサキもと238ccのエンジンで、クロモリのパイプのF21Mを新たに創ったのだが、これは2台などではなく全契約ライダーに当たる数を用意したのである。
 まだ当時はレーサーの開発は技術部ではなくレース職場の松尾勇さん個人のノウハウで創り上げていた時代で、ベニヤ板に釘を打ってその形にパイプを曲げていくのだが、そのパイプに詰める砂を海岸で採ってきたような想い出がある。
 7月のMCFAJの青森での全日本でデビューするのだが、明石から青森の弘前まで、2000kmを車で移動したのである。
 その時の練習時の写真で、真ん中にあるのがF21Mだが、当時はまだ赤タンクの時代なのである。

 


 この年の8月、GPレースでヨーロッパを転戦中の藤井敏雄がマン島のプラクテイスで転倒事故死してしまうのである。
 それからが大変でその遺体は、たまたまドイツに留学中の大槻幸雄さんがマン島の現地に行かれていて送って頂いたのだが、それを羽田で受け取ったのが私なので、お通夜・葬儀と続いて大変だったのである。
 葬儀もカワサキがいろいろとお手伝いをしたのだが、契約上は先述の通り、マシンの貸与契約なので『個人は関係ない』と言うようなことをいう社内の人もいてなかなか大変だったのだが、貸与契約と言ってもそれはGPマシンなのだからと押し切ったりしたのである。

 秋の日本GPには藤井と正規に契約して走ることになっていたのだが、
 こんなことになってしまって、改めて契約したのが鈴鹿サーキットに『デグナーカーブ』と名を残すあのデグナーなのである。
 カワサキにとっては初めての外人契約で、その契約書をどのように作るのか、社内には聞く人もいないので、
 ホンダのMFJの運営委員の前川さんに教えて貰いに鈴鹿まで行ったりしたのである。
 そんなことまでして契約したデグナーなのだが、GP前のFISCOでの練習中に転倒して、『カワサキのデグナー』は実現しなかったのである。

 この年のFISCOでの日本GPにはカワサキが初出場するのだが、
 安良岡健が7位になったのである
 ただジュニアの250ccには250A1のマシンが出場したのだが、
 このマシンが滅茶苦茶速くて、
 当時のヤマハさんは、日本人ライダーではダメだと、
 アメリカでの一流ライダーだったガリー・ニクソンを出場させ
 金谷秀夫との壮絶なトップ争いをしたのである。

 


 これがその時の写真だが
 文字通りの一騎打ちになった本番は凄まじかった。
 最高ラップ 2分14秒27 Gニクソン、金谷秀夫の二人で記録しているという珍しいレースで、もっとも印象に残ったレースだった。
 
 
 

 
 これが私の4年間の最後のレースとなって、
 11月には仙台事務所を創るべく仙台転勤の内示があったのである。


★ こんなことでこの年のレース関係では大変な1年だったが、
 年末には仙台転勤が決まって、12月からはその対策に掛りきりになったのである。
 私にとっては初めて明石を離れての生活となって、
 それも仙台と言う雪国だからと、会社の人達は家族は春になってからの移動にしたらと言って下さったのだが、
 私は1月の最初から家族同伴と決めて、まずは仙台での家探しから始まったのである。
 それも普通の転勤と言うのは、そこにすでに会社の支店とかがあるのが普通だが、
 私の場合は『新しく仙台事務所を創れ』と言う命題だけで、
 全くの白紙からのスタートなのである。
 会社自体も新しく事務所作るなども初めてだったし、今思うとよくやったなと思うのである。
 この年の4月に初めて「掛長任用」されたばかりなのだが、
 前年からカワサキオートバイ販売出向となっていたので、正規に掛長になる前から『課長』と言うことになっていたし、
 今回は『事務所長』と言う肩書を頂くことになって、気分的には非常によかったのである。
 そんなことで私は掛長などと呼ばれたことはなく、
 平の係員からいきなり課長になり、またすぐ事務所長になったりしたのである。
 ただ名前だけのことで、実質の給料などは上がったりはしていないのである。

 昭和41年(1966)はこんないろいろあった1年だったのである。


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私の日記から   昭和40年(1965)

2023-11-29 06:30:23 | 自分史

昭和40年(1965)32歳、新しく出来た広告宣伝課での2年目である。
 1億2000万円の予算を頂いたのだが、
 1年目は7000万円ほどしか使えずに、『お前ら金を遣ってもよう使わ』と本社の専務に怒られたこともあって、
 年明け早々全国50社もある地方紙に全頁広告を出すという『前代未聞』のことをやったのである。
 多分、こんなことをやったのは日本でもカワサキのこの1回限りのことだと思う。
 地方紙は殆どすべて使ったのだが、朝日・毎日・読売などの全国紙は使わなかったのである。
 なぜこんなことになったのかというと、当時のカワサキは全くの実用車で
 大都会では売れてなくて主販売地域東北や九州を中心とした田舎市場が主だったからである。

 そんなことで、広告代理店の方と大阪の地方紙の支局50社余りの挨拶周りもしているし、
 3月8日には地方紙の明石工場見学会も行っているのである。

 テレビコマ―シャルもつくって、
 「あちゃん、ても、んせい,めたカワサキ」と藤田まことに喋らせたのである。

 


★モトクロスはカワサキの二輪事業のスタートとも密接な関係があったのだが、
 ロードレースはまだやっていなかったのだが、
 この年の5月に鈴鹿サーキットであったジュニアロードレース山本隆がどうしても出たいというので会社には内緒出場させたら、
 ホンダについで3位入賞したのである。
 5月のことだがこれがカワサキが初めて走った鈴鹿サーキットなのである。
 一気にロードレース熱が燃え上がって、翌月の6月にはアマチュア6時間耐久レースに3台のマシンを出場させることになるのだが、
 山本はジュニアロードに出場したため資格がなく、
 歳森康師が相棒に連れてきたのが金谷秀夫なのである。
 そんなこともあってカワサキも本格的にモトクロスロードレースも始めることになり、
 GPマシンの開発もスタートし10月にはレース運営委員会が正規に発足したのである。
 このメンバーは技術部門が山田熙明を長に高橋鐵郎・中村治道・大槻幸雄・
安藤佶郎・田崎雅元、営業部門は苧野豊秋と古谷錬太郎といういうメンバーで、
 事務局は私が担当したのである。

 これはファクトリーチーム結成25周年の写真だが、
 当時アメリカに行っていた安藤佶郎さんを除いてすべての関係者が顔を揃えている。


 


 因みにこのレース運営委員会の中から
 後、川崎重工業の社長・副社長(2名)常務も出ているのである。

★会社ではそんなレースの正規のスタートの年だったが、
 家庭では長女が5月に誕生して、長男・長女と二人の父親となったのである。
 長女のお産で家内が里に戻っている時期に、
 自動車学校に入学して免許を取得したのである。
 遅いと思われるかも知れぬが、
 当時はクルマなど持っている人は殆どいなかったし。
 そんなことで免許も持っている人は珍しい時代だったのである。
 たまたまレースに関係していて、鈴鹿サーキットなどにも行く機会が多かったので、
 会社の車を運転してあちこちに出掛けていたのである。
 私的には甥っ子がクルマを持っていたので、
 それを借りてあちこち行ってたのを想い出す。
 そんなことで『車の運転スタート』の年なのである。
 
 その後もずっと運転はしていたが、ずっと会社の車ばかりで、
 個人で車を持ったのは5年後の昭和45年(1970)大阪地区を担当した時からなのである。
 



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私の日記から  昭和39年(1964)

2023-11-24 07:26:37 | 自分史

★この年からカワサキの単車事業が本格化したと言っていい。
 従来は発動機事業部の中の単車課という位置づけだったのだが、
 1月に単車を分離独立する職制が発表されて、
 単車事業部となり販売促進部・広告宣伝課の所属となった。
 まだ31歳の若さだったが、広告宣伝課には課長も掛長もおらなくて、実質私が長で部長に直結していたのである。
 
 これは広告宣伝課という職制が初めてだったし、
 この年から3年間、本社の開発費として1億円を超える予算で、
 いまの金に直すと10億円を悠に超すような大金だから、
 本格的な広告宣伝の実施になるのだが、
 そんなことを経験した人は全くいないので、
 それならいっそ係長にもなっていない若造だが、 
 従来結構新しいことに取り組んできた古谷にでも任すか、ということになったのだと思う。

★そんな広告予算を目指して電通・博報堂・大広・万年社などなど広告代理店が殺到したので、
 先ずはカワサキ自販の小野田滋郎さんと一緒に、
 広告代理店への質問を幾つか創っての選考が初めての仕事だったのである。

   
   

  
貴社の創造的能力を図示説明してください」というような質問で、素人とは思えぬ的を得た質問と代理店間で評判になったのである。
 このほとんどは小野田滋郎さんの主導で創られたもので、私自身も大いに勉強になったのである。
  そんな小野田滋郎さんも3月末でカワサキ自販を辞められるのだが、
 私は人生の恩人と位置付けているのである。

★この年からカワサキのモトクロスレースも本格的になり、
 カワサキコンバット三橋実・梅津次郎・岡部能夫
 神戸木の実の歳森康師・山本隆5人の契約ライダーでスタートしている。

 


★この年に発売されたのが、中間車種の85J1や85J1Tで、
 この年の9月には3万人もの観衆が集まったモトクロスでそのデビューを飾ったのである。
 さらには10月の伊豆丸の山高原でのMCFAJの全日本で、 
 4種目中3種目優勝して、カワサキはモトクロスでの地位を確固たるものにしたのである。


  


★ ただ全日本で優勝しても一般紙は全く取り上げてくれないので、
 広告代理店の万年社に働きかけてスポーツニッポン主催のモトクロスレースを立ち上げることにしたのである。
 その第1回の記念すべきモトクロス11月8日和歌山の紀の川で、レースとしては地方の草レースだから、
メーカーチームの出場が少なくて、簡単に優勝できるのである。
 スポーツニッポン紙には大々的に取り上げて貰って、非常に高い報価値があったのである。
 この企画は大成功で「スポニチ主催の西日本モトクロス」は第7回まで続くのだが、
この頃になると地方の草レースだと放っておく訳にはいかないと、
東京から城北ライダースなども参加するようになったので、
簡単には勝てなくなったので、第7回で最後となった次第である。

★ そんないろいろとオモシロイ企画の中の一つに
 『源平芸能合戦』への出場もあってことの始まりは、毎日広告がやってきて『三洋電機との対戦に出ませんか、タダで1時間番組に出れますよ』というので、

  
 
 簡単に出ることに決めたのだが、4種目の出し物を決めねばならないのである。
 コーラスと、手塚部長の剣舞岐阜のハワイアンバンドとフラダンスまでは何とかなったのだが、あとの一種目がどうにもならないのである。
 困り果てて毎日広告に相談すると『吉本興業に頼んでみる』ということになって、
 当時月へのロケットが話題だったので、
 それに関連した『かぐや姫の物語』を創ってくれて、
 その演技指導なども本格的にやったので、
タダで出来る』ということだったが、この費用だけでも大変な額になったのである。
 当日の三洋電機との対戦は、チームレベルの高い接戦で、両チームとも普通には出ない100点以上の高得点が出たのだが『淡路の人形浄瑠璃』などを演じた三洋電機に僅差で敗れたのだが、
 これはなかなかの想い出になったのである。
 これ以降、少なくとも川崎重工がテレビの人気番組に登場することなどなかったはずである。


★この1年の日記も殆どが会社のことばかりなのである
 長男は2年目になって、二人目も生まれることになっている。
 9月には社宅が当たって、社宅に引っ越ししている。
 そんなことで家賃も少し安くなったし、会社も直ぐ近くになったのである。
 個人的にはそんな結婚2年目の年で、
 因みに給料は4万円ぐらい、ボーナスが72000円のそんな時代だった。
 
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車の運転と私の人生

2023-11-22 07:00:28 | 自分史

★ 昭和32年入社だから1957年なのだが、
 1999年まで務めたので、実質42年間の現役生活だったのである。
 
 二輪事業は地方の販売店まで訪問する機会が多いので、
 その業務には車の運転が必須なのである。
 この二輪を担当することになって運転免許も取ったのだが、
 当時はまだ免許を持ってる人は少ない時代だった。
 
 最初は国内市場だけだったのに、アメリカに進出し、ヨーロッパにも手を広げ、
 さらには東南アジアや開発途上国市場のCKD事業にも関係したので、
 世界各国の道を知っているということになっていったのである。
 
★ そんな二輪車担当を卒業して、最後の2年間は北海道札幌で、
 『北海道川重建機』という優良会社の経営を任された2年間だった。
 その社名から川重の子会社のように思えるのだが、そうではなくて
 地元資本の会社なのだが川重の建機車両を主として扱っていたので、このような社名になっていたのである。
 
 この北海道川重建機は道内に10以上の支店があり、
 こんな支店網だったのである。



 
 そんな支店訪問も、移動手段は二輪時代の慣習で、
 与えて貰った4駆のクラウンですべて自分で運転していたので、
 北海道の道は殆ど走ったような気がする。



 
 雪道も走ったのだが、4駆のクラウンは素晴らしくて、
 若いころ東北の雪道を走った時代からは、
 考えられないほどの安定感だったのである。
 
東北6県4年間担当したから、
 東北の道は、大げさに言えばすべて知っていると言ってもいいほどだが、
 当時の道は峠は殆どすべて未舗装の砂利道で、むしろ雪道になった方がスムースに走れたようなところもあったのである。
 

 

 
 東北の後は、近畿2府4県の担当で、中部日本も東京も担当したし、
 九州は直入にサーキットを創るときにいろいろ走り廻ったので、
 結構詳しいのである。
 ひょっとしたら運送業のトラックの運転手より詳しいかも知れないのである。



 

★日本ほどは詳しくないのだが、世界の道も結構走っている
 国内を10年間担当して出向から戻ったら、
 カワサキの初めてのCKD 市場の担当となり、
 タイ東南アジアなどは、何回も長期間行ってるので、走行距離も結構長いのである。
 ずっと国際免許を持っていて、どこに行っても空港でレンタカーを借りて走り回っていたのである。
 オーストラリアも海岸線の長距離を車で移動したし、
 何度か出張してその内陸も走っていて、結構詳しいと言えるだろう。
 その後のヨーロッパ市場も、距離的には各国間をレンタカーで行き来出来たし、
 スペインの海岸線の観光地もジェットスキーの調査で走ったことがある。
 
 こんな社用での車の走行とは別に、
 プライベートで家内とのオーストラリアやヨーロッパ旅行でも
 レンタカーで好きな道を走り回ったりしたのである。
 元来、『車の運転』が好きなのだと思う。

 アメリカも現役時代は空港からレンタカーだったし、
 現在は娘婿一家がアーヴァインにいるので、
 これは乗せて貰っているのだが、結構な距離を走っているのである。

 


★ これらの国々を出張旅費を頂いて行けたので、
 ほんとに『いい現役生活』だったと思う。
 末端のユーザー販売店はみんなバイクが好きな方たちで、
 お客様と言っても、ほかの業種の『お客様』のようなところは全くなく、
 逆にお客様から『メーカーの人』ということで特別の目で見て頂いたようなところもあった。
一般のサラリーマンの方のような堅苦しい会社生活は全くなくて、
 ずっと好きなことを、好きなように出来た自由業のような現役生活だったのである


★そんなことで「私の車の運転」は現役時代から今も、
 ずっと毎日続いているのだが、
 お陰様で、無事故無違反のゴールド免許が続いているし、
 運転は好きだし、結構自信もあって、90歳の今も毎日車に乗っている。
 果たして何歳まで運転できるのか? 
 いまのところまだまだ大丈夫だと思っているのだが、
 若し免許を返納するような時になったら、
 私の人生も終わりかなと思ったりするのである。
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私の日記から  昭和38年(1963)

2023-11-17 06:17:29 | 自分史
★前年末の12月21日に結婚式を挙げたので、
 この年の新年は文字通り新婚生活がスタートしている。
 人生で初めて居を構えたのだが、所謂小さなアパートで始まった。

  
  


 当時はこの辺りはこんなに沢山、家など建ってなくて、
 上ノ丸の実家も大きな土地の中に
 戦後建てた本家我が家の2軒だけだったのだが、
 ちょっと離れたところのアパートを借りての新婚生活だった。


 この年の3月に満31歳になるのだが、
 その3月の給料が25900円とある。
 別に共働きでもなかったので、よくこんな給料でやってたなと思うのだが、
 会社では結構出張が多くて出張旅費などが浮くものだから、
 そんなことでやりくりしていたのだと思う。

 因みに私は子どもの頃から今まで小遣いなるものを貰ったことがない。
 子供の頃は父が『子供は金など持つな』と言って小遣いなどなかったし、
 大学時代は引揚者で片親だけということで最高の奨学金を頂いて、
 授業料免除でもあったので、給料を貰って大学に行ってたようなものだった。

★会社は新しい事業の単車の2年目なのだが、
 最初の車の125B7が散々な状況だったので、この年から125B8が新しく発売されたのである。
 2月にそのポスターのための撮影などもやってるが、
 これは今住んでいる三木でロケをやっている。
 モデルも専門のモデルなどではなくて、会社の女子社員を使っている。


  


 このB8が何となく好評で、特に何をしたというのでもないのだが、
 好調に売れたし、
 6月には青野ヶ原モトクロス1位から6位までを独占したりするのである。

  

 
  ただ、このレース1位から6位まで独占しているのだが、
  特にカワサキが速かった訳でもなくて、
  当日雨で水溜りがいっぱいで高性能のレーサーはみんな止まってしまって
  実用車に近いカワサキだけが止まらずに走り切ったのだと思う。
  1位から6位まで独占など、このレースだけだし、
  不思議なことに優勝者が誰なのか解っていないし、
  どこにも優勝者の記録がないのである。
  因みにこのレースがカワサキのはじめてのレースだった。
  まさに神様が勝たしてくれたレースだったと思うのである。

  
 このレースには直接関わってはいないのだが、
 レース自体が製造部の有志たちで自発的にやったもので、
 別に会社は予算を取ったりはしていないので、残業料も出ないし、
 営業の上司が『パン代ぐらい出してやれ』と仰るので
 営業の交際費から幾らかの金を渡したぐらいのことなのである。

★ この時期は初代のB7が全然ダメだったので、
 当時の川崎航空機の本社が日本能率協会に『この事業続けるべきか否か』の
 調査を依頼していた最中だったのだが、
 青野が原の勝利で社内の意気は上がっていたこともあって、
 『この事業続けるべし』という結論が出るのである。
 そう言う意味では昭和38年はカワサキにとって記念すべき年だと言っていい。

 前年末に結婚して、この年の3月には家内に子供が出来たということが解るのだが、
 9月28日に長男古谷大治が産まれている。
 子供の名前を付けるのも初めてのことだったが、
 何事も大きく治めることが出来るようにと願って大治と名付けたのだが、
 私一人の独断で決めたし、そう言う意味では家内は意外に昔気質というか
 私のやることに文句など言ったことがない。
 そう言う意味では、私は自由にいろんなことをやれたのでよかったなと思っている。

★ この年の11月にカワサキ自動車販売川崎航空機吸収案が出ているが、
 これも多分「日本能率協会の一連の調査の結」だったのだと思う。
 そんなこんなで、この年はカワサキにとっても我が家にとっても
 『新しいスタートの年』になった年だった。

 日記の中に色々出てくるのだが、
 この年は明石海岸での海釣りに凝っていて、
 まさに昔流の竿などないただ放り込むやり方だが、
 カレイなどよく釣れて40匹あまりも釣っている。
 いまと違って、魚がいっぱいいたのだと思う。


  
  
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私の日記から  昭和37年(1962)

2023-11-13 05:48:07 | 自分史

★ 前の年の12月に肺結核の治療の入院から退院して、新しくスタートした単車営業課に復職したのだが、
 この昭和37年(1962)が実質カワサキの単車事業のスタートした年だと言っていい。
 ただ、当時は発動機営業部の時代で殆どは小型発動機のエンジンで、
 単車はカワサキとしては初めての完成品商品で、その担当部門も初めて出来たのである。
 明石工場で生産していたバイクは125B750ccモペットM5、それに井関のモペットも生産していた。

  
 

 営業に異動して上司に最初に言われたのは、
 『物品税を研究してくれ』だったのである。
 当時は世の中の贅沢品と思われるものには物品税が掛けられていて
 単車の場合は125cc以上には物品税が掛けられていたのである。
 基本的には工場出荷の時に掛けられるので、出荷台数分を申告し支払えばいいので、そんなにムツカシクはないのだが、
 車が返品されると支払った物品税を申請すれば戻してくれるのである。
 ただその『戻入手続き』はなかなかムツカシクて、戻してもらうためには工場出荷時と同じ状態でなければだめで、
仮にメーターが回っていればダメなのである。

ただ、カワサキが最初に造った125B7は大変な車で、
エンジンは兎も角、フレームに欠陥があってどんどん返却されるのである。
この年の1月の生産台数はマイナス17台になったのだが、
それは生産出荷した台数より返却台数のほうが多かったということなのである。
そんなことで業務の大半が物品税対策だった。

当時の川崎航空機の明石工場はもともと航空機のエンジン工場だったので、
エンジンの専門家はいるのだが、単車などの経験は全くなくて、多分設計にも車体の解る人などいなかったのだと思うのである。
私も勿論、単車に乘ったこともない人ばかりで、全くの素人集団だったのである。
そんなことで営業とは単車を出荷・販売するところかと思ったら
返却された単車の物品税納入業務が主だという大変な時代だったのである。

★単車営業課というのも出来たばかりで、係長はいたのだがその下は私であと5人ほどはいたのだが、所謂事務屋はそれだけで、今でいうと企画販売広告宣伝サービスも、すべてその5人でやっていたので大変だったのである。
 当時はまだカワサキ自動車販売というメイハツ工業からスタートした販売会社が神田にあって、
 地方の代理店への販売はこの『カワ自』が担当していたので何とかなったのだが、
 それでも私を含め素人集団だからホントに大変な時代だったのである。

★川崎航空機の中には、経験者も皆無だし仕事のことを聞く人もいなかったのだが、
 当時カワサキ自販には総務広告宣伝を担当されていた小野田滋郎さんがおられて、
 殆どの仕事のすべてをこの小野田滋郎さんに教わったと言っていい。
 小野田さんは陸軍士官学校卒の元軍人で、
 あのフィリッピンから戻られた小野田寛郎さんの弟サンなのである。

 私の現役時代、この人には敵わないと思ったただ一人の先輩だと言っていい。
当時の写真はないのだが、こんなご兄弟の写真はある。
この左側の方で、陸士出だから位はお兄さんより上だった。


 

 
 戦略・戦術・戦闘など陸士仕込みの知識の運用展開の実際を教えて頂いて、
 私の生涯で本当に小野田滋郎さんにお会いできたのはよかったと思っている。
 当時のカワサキ自販の本社を独りで切りまわしていたと言っていい。
 兎に角、素晴らしい方だった。

★この年は発動機の営業部の中の単車ではあったのだが、
 発動機営業全体の纏めや会議事務局なども担当していて、
 めちゃくちゃ忙しかったのである。
 家内との付き合いも続いていたしこの年の年末12月21日に結婚式を挙げたのだが、
 なぜ年末のこんな押し詰まった日になったのかというと、
 忙し過ぎて新婚旅行など行ってたのでは会社が回らないので、
 12月も殆ど終わりのこの時期になってしまったのである。
 お陰さまで正月休みまで続いた長い結婚休暇ではあったのである。
 昭和37年は生涯で一番大変だった1年だったと言えるのだが、
 最後が結婚式と新婚旅行で印象に残っている1年でもあった。

  
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私の日記から  昭和36年(1961)

2023-11-05 04:21:22 | 自分史

★ 昭和36年(1961)のほぼ1年間は、
 学生時代から罹っていた肺結核の治療
 三田市の当時の川崎重工系の結核療養所であった大原療養所入院していた期間なのである。

 肺浸潤だと言われたのは大学2年の秋だったのだが、
 別に痛くもない病気だし、自覚症状もないので、
 大人しくしていたのは半年ぐらいで、それ以降は寝ることもなく、
 野球も続けていたし、そのまま川崎航空機に入社していたのである。
 入社してからは診療所の先生からは「野球はダメ」と言われていたが、
 ユニフォーム姿を見つかって、「菌が出てる」から会社には置いておけないと入院させられてしまったのである。

 もともと菌などは出ていなくて、診療所の先生の入院させる口実だったのだが、
 結果的には非常によくて、空洞も消えてしまったし、
 全快して、12月には新しくスタートしたカワサキの単車営業課に異動することになった年である。

★ 当時は肺結核は多くて川重関係3社の人達のために三田市大原療養所があったのだが、
  いまの地図には載っていないようである。

  間違いなくこの立地で、ゴルフ場から左に折れて入った場所だった。
  1年間の療養期間は、昼寝の時間はあるのだが、
  自由時間もいっぱいあって、散歩勿論、近くの池では鯉や鮒が釣れたし、


 

 
  秋にはこの辺り『まつたけ山』でマツタケは幾らでも採れたのでる。
  昔の話で、今のような厳しい時代ではなかったから、
  寮にはいつもマツタケがバケツ一杯ほどあって
  見舞いに来た人に逆に差し上げたりしていたのである。


  

  
  マツタケだけではなくて、確か今では違法の『カスミ網』でヒヨドリ』を採る人もいて、
  私はもっぱら野池での釣り組だったのだが、
  お陰様で一般の方が一生食う以上のマツタケも食ったし、
  ヒヨドリのご馳走にも預かったのである。


★ 年齢は29歳の時だったのだが、
  家内と恋愛中で、見舞いにも来てくれたし、
  手紙もいっぱい貰ったのだが、こんなことがなければ手紙など貰う機会はなかったと思っている。
  この年の12月10日に退院して、
  約1年後、翌年の12月に結婚したのだが、
  正直、あまり長くは生きられないなと思って、20歳の時に書き始めた日記だが、
  90歳の今日まで無事生きられたのは、この1年で肺結核が全快したからだとも言えるだろう。
  そう言う意味では、貴重な1年だったのである。


★50万人フォロワーのいるツイッターです。

 雑感日記のEnglish Version です。

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。

  
  

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私の日記から  昭和34・35年(1959・1960)  

2023-10-29 05:00:09 | 自分史

★新入社員の業務部財産課に配属されて3年目である。
 担当した業務の中で毎期行わねばならぬ作業に財産物件の償却計算という業務があって、
当時は電算システムなどない時代だから、手動のタイガー計算機をぐるぐる回して1件づつ計算をするのだが、
この件数が圧倒的に多いのが私の担当していた『工具器具備品』だったのである。
本来財産物件は取得価格1万円以上のものを言うのだが、
当時はジェットエンジン工場が新設された時期で、新設事業に限り取得価格300円以上が財産物件に計上できるという規定があって、
本来なら財産物件などにはならない机や椅子までが財産物件なので、べらぼうな数になっているのである。
 そんなことで、償却計算の時期になると極端に言うと私だけが忙しくなるのである。

★ そんな毎期の償却計算を3度ほど経験して、
これは何とかならないものかと、その機械化を検討しだしたのである。
当時のジェットエンジン工場には米軍が駐在していて、IBM室があったので、そのIBMを使っての機械化に取り組んだのである。
日本にIBMが一般化したのは東京オリンピックの頃だから、それよりも10年も早い時期のことである。
 川崎航空機内でも米軍以外の民需はIBMなど使っていなかったので、社内ではじめての取り組みだったのである。
 
 
★簡単にIBMでの償却計算に取り組んだのだが、
同じやるならと本社も岐阜工場も巻き込んで全社統一の実施としたので、
それはなかなかの大事業だったのである。
例えば、物件名も統一した名称にしてそれぞれ『コードNO』を付けねばならないのである。
簡単なようだがこの物件名の策定だけでも大変な作業だったし、
社内ではじめてのことだから、教えてくれる人はいないので、すべて自分で考えねばならなかった。
耐用年数』『償却率』など償却計算に必要な項目をすべて決めて、
これが財産物件1件ごとに1枚作られる『パンチカード』なのである。
このカードに必要項目を打ち込みさえすれば、償却計算などあっという間に出来てしまうのだが、
このカード設計をIBM室の人と一緒に創り上げ、財産物件すべてを登録するのに1年半ほど掛ったのである。

 


 多分、こんなIBMカードなどご覧になった方はおられないと思う。
 極言すればこの時期IBMなど日本社会に存在しなかったのである。
 このシステムが出来上がると財産課の償却計算の作業は無くなってしまって、
 償却計算するためにいた人員は必要なくなり、財産課の人数は激減したのである。

★この2年間は、この償却計算のIBM機械化がメインの仕事だったが、
 その間、野球もやってるし、家内とのデートも続いていて結構忙しく過ごしていたのである。
 学生時代から肺浸潤・肺結核になって空洞があったりしたのだが、
 ずっと野球は続けていた。
 診療所の先生に『野球はダメ』と言われていたのだが、ユニホーム姿を先生に見つかってしまって、
 そのあとの検査で『菌が出ている』ので入院しなければならないということになって、
 昭和35年10月末から三田市にあった川崎関係の大原療養所に入院することになったのである。

 療養所で改めて検査があったのだが、菌など出ていなかったである。診療所の先生は『野球はダメ』と言っても言うことを聞かないので、この際入院させようと思われたに違いないのである。

 当時は結核になる人は多くて、
 この大原療養所にも沢山の入院患者がいたのだが、
 いま地図を見るとそれらしい建物も無くなってしまっている。

  


★ この療養所に約1年入院していたのだが、
  お陰様で空洞も消えたし、全快して退院して異動した先が、
  新事業のカワサキの単車営業課だったのである。

  昭和36年(1961)12月のことだが、カワサキの二輪事業のスタートから、それに関わることになったのである。
 125B7や50M5の時代である。


  

 
 
 私の担当した業務は新入社員時代から新しいことばっかりだったので、
 上司からの指示など殆どなくて、自分が思う通りのことばかりがやれたのである。
 そう言う意味では、自営業のような現役生活だったと思う。

 振り返ってみると「ツイていた人生」だったなと思うのである。
  

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